1⃣韓民族は庶子と熊女の雑種から始まった?
長濱浩明さんが、次のような発言をしておられる。
韓民族は庶子と熊女の雑種から始まった。 これもですね、私がいってるわけじゃなくて 韓国の国の始まりを記した三国遺事というのが 13世紀にできたんですけれども、そこで述べていることなんですけど、これが建国神話ということで、 韓国朝鮮人に広く信じられていて、そこでどうやって国が始まったかっていうことが 要するに庶子ですね妾の子供。あまりいい言葉じゃないですけども分かりやすくいうと。 それとあとクマ女ですね。それがまあ交わってで生まれた檀君という雑種ですね。人間とクマの雑種。 そこから韓民族が始まったってことは、私が言っているんじゃなくて韓国の歴史書に書いてあるんですよ。 日本は天照大神から始まってですね、神の御子、そして神武天皇始まって
我々には神様の血が流れてますよ、という歴史になってるんですけども
どうもその韓民族は雑種であるということを今でも大事にしてるっていうのが
なかなか私どもわからないところでしょうがですね。
上記動画より引用
2⃣「檀君」について、ウィキの記述
檀君について、ウィキはつぎの様な内容を記している。
①檀君(だんくん、朝鮮語: 단군・タングン)は、13世紀末に書かれた『三国遺事』に初めて登場する、 一般に紀元前2333年に即位したとされる伝説上の古朝鮮の王。 『三国遺事』によると、天神桓因の子桓雄と熊女との間に生まれたと伝えられる。 『三国遺事』の原注によると、檀君とは「檀国の君主」の意味であって個人名ではなく、個人名は王倹。
⓶檀君の実在性
高麗時代の一然著『三国遺事』(1280年代成立)に『魏書』からの引用と見られるのが、檀君の文献上の初出。 『東国通鑑』(1485年)にも類似の説話がある。 しかし引用元とされる『魏書』(陳寿の『三国志』や魏収の『北魏書』)などの中国の史書には檀君に該当する記述がない。 神話であって歴史事実とは考えられていない。
③太古の昔、桓因(ファンイン)という天帝の庶子に桓雄(ファンウン)がいた。 桓雄が常に天下の人間世界に深い関心をもっていたので、天符印三筒を与えて天降りさせ、人間世界を治めさせた。 部下3000人を率いた桓雄は、太伯山(テベクサン)上の神壇樹(シンダンス)下に下りて神市(シンシ)とした。 かれは風伯、雨師、雲師をしたがえて穀・命・病・刑・善・悪をつかさどり、人間の360余事を治めさせた。
このとき一匹の熊と一匹の虎が洞窟で同居していて、人間に化生することを念願していた。 桓雄は一把のヨモギと20個のニンニクを与えて、100日間日光を見ないように告げた。 熊は日光を避けること37日目に熊女(ウンニョ)になったが、虎は物忌みができず人間になれなかった。
桓雄は人間に化身した熊女と結ばれ、檀君王倹(タングンワンゴム)を産んだ。 檀君は中国の堯帝が即位して50年目の庚寅の年に、平壤を都として朝鮮と呼んだ。 のちに都を白岳山の阿斯達(アサダル)に移して、1500年間も国を治めた。
周の武王が即位した己卯年に、箕子(キジャ)を朝鮮に封ずると、壇君は阿斯達からかくれて山神となった。 寿命が1908歳であった。(姜在彦『朝鮮儒教の二千年』01朝日選書 p.28)
④北方アジア原住民たちの巫俗神話では、熊が人間であり、人間がまさに熊であるという観念が根づいている。 このような観念は、日本のアイヌ族においてもみられる。
⑤「熊との交婚はウラル諸族を除いても、ツングース諸族のほぼ全域と、朝鮮、ニヴフ、イテルメンアイヌと中国に見られ、分布が極めて広い」(大林太良「朝鮮の檀君神話とツングースの熊祖神話」『東アジアの王権神話』84弘文堂 p.369)。
⑥熊は冬眠により洞窟の中でいったん死んだ後再生する。それはアマテラスの岩戸入りとも通じる死と再生のイメージである。
⑦多くの神々は天から降下したか、天を往復することのできる権能をもっていた。桓雄は、世界木をつたって地上に降りてくる北方アジアシャーマニズムの神々の面影そのものである。
⑧朝鮮には、民族主義を象徴する檀君神話とともに、事大主義をあらわす箕子神話の二系列の神話が伝わっている。
箕子神話とは、殷代末期、紂王の師をつとめた賢人箕子が殷の滅亡に際し、東行して現在の朝鮮の西北部に亡命し、この地に国を建てて王となり、人民にいわゆる「八条の教訓」を示して理想的な統治を行ったというものである。
箕子神話は長く支配層に支持されてきたが、元(モンゴル)の脅威が高まり民族意識が高揚すると、檀君神話が脚光を浴びるようになり、檀君は箕子朝鮮より古い朝鮮全土の開国神・始祖神とみなされるようになった。
⑨1909年羅喆(らきつ)により始められた「大そう教(「そう」はにんべんに宗)」は檀君を朝鮮民族の始祖として崇拝する宗教で、「檀君教」とも呼ばれる。
⑩韓国では、檀君が降臨したとされる10月3日は祝祭日(「開天節」)であり、1961年までは「檀君紀元(西暦+2333年)」が使用されていた。
⑪檀君王倹という言葉は、もともとは由来の異なる二人の神、檀君と王倹を結び付けたもの。 檀君という名については、「〜君」というのは道教の比較的階級の低い神の称であり「檀の神」であることを表す。
⑫王倹という名についても、平壌の古名として「王険」「王険城」が『史記』朝鮮列伝に出てくるのが初出で、元々は地名であったことが分かる。 『三国史記』高句麗本紀第五東川王の条には平壌にかつて住んでいた仙人の名前として王倹という人名が出てくる。 ※仙人とは、山に篭って修行し神通力や長寿を得た人間のことではなく、妖精や妖怪に近いも。「王倹仙人」とは平壌の地霊。
⑬『三国史記』には檀君という王がいたことは全く書かれていない。
⑭檀君神話の元になった伝承があったことは夫余の建国神話、及びツングース系の諸民族に伝わる獣祖神話から察知できる。
⑮物語の冒頭の構造は夫余神話からの借り物。それにツングース系の獣祖神話を繋ぎ合わせ、物語の結末に檀君王倹という名を嵌め込んだもの。
3⃣熊との交婚神話は朝鮮だけでなく広範囲に見られる。
④北方アジア原住民たちの巫俗神話では、熊が人間であり、人間がまさに熊であるという観念が根づいている。
このような観念は、日本のアイヌ族においてもみられる。
⑤「熊との交婚はウラル諸族を除いても、ツングース諸族のほぼ全域と、朝鮮、ニヴフ、イテルメンアイヌと中国に見られ、分布が極めて広い」(大林太良「朝鮮の檀君神話とツングースの熊祖神話」『東アジアの王権神話』84弘文堂 p.369)。
とある点に注意したい。
熊との交婚神話は朝鮮だけでなく、広範囲に見られるのだ。
4⃣日本人はイザナギの子孫で天照大神の子孫ではない。
私は長濱さんの話を聞いて、 「この人は記紀神話を読んだことがないのだろうか」と思った。
まず人類の起源についてであるが、これについては、記紀にははっきりと記されていない。
ただ、こういう話がある。
イザナギとイザナミは兄妹で契って国産み、神産みをする。 イザナミは火の神・カグツチを出産した際、ホトに火傷を負って死んでしまった。 イザナギはイザナミを迎えに黄泉の国へいき「いとしい妻よ、戻ってきておくれ。国づくりはまだ終わっていない。」といった。 イザナミは「黄泉の王に相談するので、その間振り返って私の姿を見ないように」という。 しかしイザナギは我慢できなくなって、振り返りイザナミの姿を見てしまう。 イザナミの体は腐り、蛆がたかっていた。 恐ろしくなったイザナギは黄泉の国から逃げかえって、あの世とこの世の境に石をおいて封じた。 おいかけてきたイザナミは「貴方の国の人間を一日で千人殺してやる」と言った。 これに対してイザナギは 「それなら私は、一日に千五百の産屋を建てよう」といった。
この神話を踏まえると、日本人はイザナギの子孫ということになる。 天照大神の子孫とはいえない。
5⃣日本人はイザナギの子孫で、天照大神の子孫とはいえないと思う。
神話の続きはこうなっている。
黄泉から戻ったイザナギが禊をしたところ、左目から天照大神が、右目から月読命が、鼻からスサノオが生まれた。
つまり系統樹は次のようになる。
イザナギ――――・日本人(?) ・天照大神ー正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命ーニニギーホオリーウガヤフキアエズー神武 ・月読命 ・スサノオーーーーーーーー大国主(6代目)
日本人がイザナギの子孫と仮定しても、上の系統樹が示すように、天照大神の子孫であるなどとはいえないと思うのだが。
有力氏族の中には、先祖をたどると天照大神にいきつくケースもある。
たとえば、出雲氏、土師氏、菅原氏らの祖神は、天穂日命とされているが 天穂日命は天照大神の子である。
しかし諏訪氏の祖神、建御名方神は大国主命の御子であり、 上記リンク先の系図を見ても、天照大神の名前はでてこない。 諏訪氏はスサノオの血はひいていても、天照大神の血はひいていなさそうである。
6⃣天皇家はワニの子孫
さらに記紀神話にはこう記されている。
天照大神の孫のニニギが葦原中国に天下って、オオヤマツミの娘のコノハナノサクヤヒメと結婚して、 ホデリ(海幸彦)・ホスセリ・ホオリ(山幸彦)を産む。 ホオリはホデリに借りた釣り針をなくしてしまい、これを探すために海神の住む竜宮城にいった。 ホオリは竜宮城から帰ってくるが、ホオリの子を身ごもっていた海神の娘・豊玉姫はホオリをおってやってきた。 そしてホオリが用意した産屋で出産をするのだが、豊玉姫は「出産する自分の姿を絶対にみないでください」とホオリに告げた。 ところがホオリは我慢できなくなって産屋を覗いてしまう。 そこでホオリはワニ(日本書記では龍)が出産する姿をみる。 豊玉姫は姿を知られたことを恥じて、海に戻っていった。のぞき見られたことを恥じ、御子を残して海に去った。 この残された御子の名前はウガヤフキアエズといい、 ウガヤフキアエズは豊玉姫の妹(ウガヤフキアエズの叔母)の玉依姫と結婚して、神武天皇を産んだ。
天皇家の始まりは、人間(神?)とワニの雑種だったのだ。 朝鮮の伝説のことを笑えないではないか。
7⃣動物は比喩表現
記紀神話にはこのほかにもいくつかの動物が現れるが、それらは比喩的な表現として用いられていて、 実際にそれらが動物をあらわすものとはいえないだろう。
例えば八咫烏という三本脚の烏がいるが、 賀茂氏の系図では、鴨建角身命の別名を八咫烏鴨武角身命としている。 八咫烏といっても、鴨建角身命は実際に烏ではなく、比喩的に八咫烏という名称が用いられているのだと思う。 ニックネームのようなものといってもいいかもしれない。
また記紀には土蜘蛛というまつろわぬ民がでてくるが、これも本当に蜘蛛だったわけではないだろう。
昆虫は体の部位が、頭部・胸部・腹部の3つにわかれているが、 蜘蛛は頭胸部・腹部の2つの部位から構成される。 そのため、昔の人は、蜘蛛を頭部のない昆虫と考えたのではないかと私は考えている。 そして土蜘蛛と呼ばれた人々は、斬首されて頭部のない人のことではないかと思うのだ。
詳しくは、こちらの記事をお読みください。
8⃣熊は神として信仰されていた。
熊については記紀神話にも登場する。
さて、神倭伊波礼毘古(カムヤマトイワレビコミコト)はそこから迂回しなさって熊野の村にお着きになったときに、大きな熊が草木のなかから出たり入ったりして、すぐに姿を消した。
すると、カムヤマトイワレビコミコトは急に気を失って、また、軍隊もみな気を失って倒れてしまった。
このときに熊野の高倉下(タカクラジ)が一振りの横刀(たち)を持って、天つ神の御子(カムヤマトイワレビコミコトのこと)の倒れている所に来て、その横刀を献上したところ、天つ神の御子はたちまち目覚めて、「長寝したものだ」とおっしゃった。
そして、その横刀を受け取りなさるときに、その熊野の山の荒ぶる神は自然とみな切り倒されてしまった。すると、気を失って倒れていた軍隊もことごとく目覚めた。
熊はその巨大さゆえ、神聖視されたのかもしれない。
また、 2⃣⑥熊は冬眠により洞窟の中でいったん死んだ後再生する。それはアマテラスの岩戸入りとも通じる死と再生のイメージである。 とウィキに記されているように、再生の神として信仰されていたおかもしれない。
それと同時に、日本で熊といえばツキノワグマなので、月の神としても信仰されていたのではないかと思う。
ツキノワグマ
朝鮮の神話に登場するクマ女もツキノワグマではないかと思う。 というのは、ツキノワグマには三日月型の模様があるが、陰陽で天体を表すと日が陽で月が陰、男が陽で女が陰だからだ。 つまりツキノワグマの三日月型の模様は、陰陽では陰であり、女性に通じるということである。
私は長濱氏の発言が差別的だと思うが、それは道徳的にみて差別的、というだけでなく 記紀神話では天皇家はワニの子孫となっており、動物は比喩として用いられていると考えられるので、 長濱氏の説は論理的ともいえないと思う。
長濱氏は記紀神話をよくご存じないのかもしれない。
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①竹田氏、Y染色体ハプログループについて語る。
上記動画で竹田さんは次の様に発言されている。
前回言ったみたいにこのミトコンドリア dna は日本人に大体20系統ぐらいあると言いました。
y 染色体 dna って主に、5、6くらいでちっちゃいの入れても10ぐらいしかないんですね。 同じ dnaであってもミトコンドリアと染色体ではこの数が違うんですね。 どういうことかというとこれね、男が子孫に遺伝子を残すというのは相当大変だということなんですよね。 戦争とか権力闘争とかあった時にですね、女性に見初められて結婚できて子孫を残せる男子というのは
よほど権力が強いとか、収入があるとか、力があるとか何かないとなかなか結婚してくれる人がいないと
そのような権力から遠くにいて狩りもろくに出来ない、そういう一族ってだいたい同じようなだような感じになり
そういうとこはやっぱり滅亡していくんですよね。 要するに権力者って遺伝子残しやすいんですよ。 ~略~ そういう力強いオスというのは遺伝子を残せるんですけれども、闘いにで負けてしまうと自分の遺伝子を残すことすらできない。 日本ではないんですけど、よその地域ですと、大陸なんかそうですよ。 戦争があると負けた国の人達って皆殺し、もしくはよくて全員奴隷ですからね。 だから特に男は奴隷として酷使し、女は戦利品として持ち帰るみたいな、こんな話もいくらでもあるぐらいなんですよね。 ですからの女性はたとえ戦いに負けたグループであっても戦利品としてね、子供を生むことがあるかもしれない。 でも男は戦争で負けた集団の男なんで子孫を作る機会すら失われたりするんですよ。 だから女性の遺伝子は後世に残しやすいんだけども、男の遺伝子を後世に残すというのはちょっと難しいと
だからこそミトコンドリア dna はたくさんのタイプが世界に散らばってるんですけどy 染色体 dna は少ないということで
ぜーんぶ含めても今日本人でだいたい10系統ぐらいしかないんですね。 ~略~
d 1 a 2と c 1 a 1。この2つが日本を起源地としたハプロタイプになります。
d 1 a 2と c 1 a 1をですね、それぞれ説明してみたいんですけれども
この d 1 a 1がですね、約4万年前から3万5千年前に日本列島で発生した。 ~略~ この d 1 a 1は現代日本人の約35%がもっています。
~略~ これはね沖縄県民の約半分です。d 1 a 2を持っています。さらに言えば現代アイヌの8割が d 1 a2を持っています。
で日本列島以外ですとほぼないんですよ。 ミクロネシアで5.9%あるんですけど、先の大戦の時、日本人が南洋諸島に住むようになりましたから
その子孫と考えられます。 あとねえ韓国に4%います。それ日本人の子孫だったということは、ほぼ間違いないですね。 こうやって見ると韓国人の子孫が日本人なんじゃなくて、日本人の子孫が韓国人なんだということもわかってくるわけですね。 だって、この後頃だから d 1 a 2ができたのはこのあたりですかね、その後この縄文時代にわたっていったじゃないですか
その子孫が今韓国人の4%に残っているということですね。その直系の男系の子孫が前韓国人の4%です。
なんでそこまで減っちゃったかといったら、ほらチンギスハン、元がやってきたりして
もしくは中国に別の王朝が来て皆殺しになっているから男必死ですよね
ほとんどの遺伝子残せないで4パーまで減ってしまって遠い。まあこれは縄文時代でまたやりますけども 今からね約7千年前は朝鮮半島は無人で、日本の縄文人が住み着いたところが始まっているわけですから 結局侵され、侵されんどん減っていって4%まで減っちゃったとゆうことですよね。 ですからこの d 1 a 2、ここがですね現日本人に一番近いところだったいうふうに読むことができます。 今のところ、この y 染色体の dna を古人骨からいうのは難しいんですよ
~略~ ただ現在見つかっている縄文人の数例があるんですけれどもすべて d 系統でした。
~略~ d 1 a 2というとまさにこの現日本人のイメージで、縄文人のイメージで、これはチベット人のイメージともつながってくるということだと思います。 ~略~ そこにいくつかが被ってくる可能性があるんですけども、その一つが2番目 c1 a 1になります。 これも日本列島で誕生したハプログループですね。
これはあのだいたい年1万2千年くらい前から拡散しています。1万2000年前というと縄文時代になりますよね。
でこれは d系統とは別系統になるんですよ。
もしこれ d 1 a 2から発生したんだったら、必ず d グループに入るんですけど、 c という別のグループなんですよね。 このグループは現在の日本人のうち4.9%が c 1 a 1もっています。 まぁだいたい3人に1人が d 1 a 1ですが、それに比べると c 1 a 1は少ないですけどそれでも4.9%、約5%ですよね。 ですからあの20人に1人はクラスに1人か2人はですね、 c 1 a 1がいるという計算になります。 これはやはり沖縄とか多いんですね。沖縄6.8%なんです。 でこのグループはですね、まぁイラン付近からアルタイ山脈付近を経由して日本列島に至ったとみられています。 この親グループの c グループというのは約6万年前以前に南西アジアで発生した。ここらへんですね。 出アフリカのすぐあとぐらいに発生したと。親グループはその前にアフリカを出ているということです。 ですからこの d グループとcグループ全然別系統ですけれども、この2つあたりが縄文時代ぐらいまでのベースになるという風に考えられます。 で、もう一つですね、この2つは日本列島が震源地なんですが
日本列島震源地としていないグループの中で日本人に多いのはこの2つです。 o 1 b2と o 2ですね。
o2って酸素ではありませんからね、はいこれグループ名でございます。
この2つなんですけども縄文時代以降に日本に渡ってきたグループなんですね。
だからもしかしたら稲作伝えた人たちじゃないよとかね、これは稲作を伝えたのは中国の大陸の南のほうですね。
揚子江・長江の文化の人たちが稲作を始め、それを日本の縄文時代後期・日本に稲作を伝え日本は弥生時代に入っていくと
だからここらへんはシナの南方の人たちが稲作文化を始めた、そういう人たちなんじゃないか。
この人たちが今日本にわたって来て、今の日本人の、 y 染色体dnaのハプロタイプとして残っているんじゃないか
という風に考えられます
でこのo1 p 2はですね約2800年前に日本とシナの長江中下流域から日本に渡来してきて
日本に水田稲作を伝えた人たちという風に考えられますから、長江文化の担い手というふうになりますね
で、このo1 p 2に関してはですね、東アジアと東南アジアにおける最大勢力なんですよ
漢民族のほとんどがo1 p 2なんですよ。 でその後飛鳥時代とか奈良時代に結構中国からいろんな人来ましたからね
そこら辺の人たちなんだから同じシナからきた中国から来たと言っても日本にね稲作を伝えた
この稲作文化の担い手とその後中国王朝の文化を日本に伝えたそういうグループは同じ0でもちょっと違うんですよね。
こっち中間(?)とかそっちの方になりますから。 で世界ではこの o 系統が最大グループなります。これは漢民族が多いでしょ。 世界の人口の中ではこのOが最大グループということになります。
このO1 b 2と o 2というのはここ2、3000年ですから結構歴史が浅いんですよね。 浅いにも関わらず日本人では大グループて日本人の3割なんですよ。 たぶんね秦氏とかOなんですよね。渡来系。
なんでね新参者なのに3割O何ですかというときにやっぱりy 染色体だからですよ。 これは権力者とか中枢にいる人って確実に子孫を増やせるわけですよね。 だから2000年前とか1000年前、日本人いっぱいいたでしょうけど
その中で権力の中枢にいた人の中にはね、中国王朝シナ王朝から日本に派遣された役人とかね、 学者とか来てるわけだから、その人たちは特別な待遇とされ、そして日本の貴族との婚姻も進んでいくわけですよね。
ですから特別に国家から国家が国家に派遣したところ、こっちですよね、 もしくはこの稲作の文化を持った人たちですから、この人たち技術者として全国にですね、 一定農業指導したと考えられるわけですね。 そうすると良かったらウチの娘とみたいなのが出てくるでしょうし、子孫残すのは比較的簡単だったと思うんです。 こっちのがわは中国王朝が派遣した学者とか官人ですから、こういう人たちは日本の貴族とね
どんどん交わっていってその一つが例えば秦氏。秦氏の子孫何人いるのかと考えたらね
あの菩提寺とか神社とか見たら全国に広がってますよね。 ですからそういう特別な技術者もしくは役人として派遣された人たちですから
そういう人達が他の人たちよりも優位に遺伝子を残せた可能性があるわけなんですね。 そうやってみてくると、ここらへんは人数が少なかったんだけども確実に有意に人口を増やしていったということです。 で母体となるのはこの2つですね。特に古いのは d 1 a 2でどういうルートで渡ってきたかもだいたい見えてきたということで これはもう北ルートを、Oは南ルートなんですね。そういうことになります。 前回と今回見てきましたよ、ミトコンドリアDNA、Y 染色体量を見てきましたけれども 結局日本人、現在日本人というのは単一民族というふうに言われてますけども 3万8000年以上の歴史をたどってみればですね、ミトコンドリアDNAのハプロタイプで20系統、
y 染色体 dna のハプロタイプで10系統とそれほど多くの人たちが日本列島で交わりあったという事です。 ~略~ 稲作文化を伝えた中国の南方人がいて、王朝が派遣した漢人役人もいてそういう人たちとゆるやかに共存しながら敵対せずに、「よく来てくれました、良かったらうちの娘とよかったら」とか言いながらいい感じでまざりあってきた
その結果が今の日本人につながるということなんですね。これでわかることはですね
もう3万8000年前に確実な人類の活動の痕跡があり、そして一気に人口が増えていき
そしてこの岩宿時代はほぼ均一なんですね。北海道から沖縄までほぼ均一の文化に達しているわけなんです。
なので非常にですね 、この岩宿時代の段階で既に列島間船を使って相当往来をしているということがわかっているんですね。 なのでこの人たちはもうこの古い時代、まだ縄文時代に入る前ですよ、 丸木舟をつくってですね、伊豆半島で取れる黒曜石が日本列島あっちこっちで出土したりしてるんですね。
そうやって日本列島船で行き来しながら言語が統一されみんなで共生しながら情報共有してですね
新しい道具を作ったりとかしながら原日本人が形成されてきたということなんですね
~略~ 日本人は日本列島で成立したのであり出現したのでありどこから渡ってきた人たちでもないし
日本文化がどこから渡ってきたわけでもない
人類最初の文化は日本列島で芽生え、そしてその人たちが豊かにそれを育んできた
その先に繋がっていくのが縄文時代だということになるわけなんですね。 なのでおさらいすると y 染色体で言うところの d 1 a 2
この人たちが日本列島に最初に到達したということが今のところわかっています。 これは岩宿時代のはじまり 磨製石器の最初の末席と完成に時代が一致するということですよね。 なので4万年前から3万8000年も間にですね、日本列島に到達し、そしてこの段階で磨製石器が作られた
ということを確認することができます。 この d 1 a 2は4万年前以上前にですねチベットで分岐しているわけですね。 なのでええまぁヒマラヤの北を通って日本に来たこの北ルートですね。 北ルートでチベット経由で日本に入ってきたこれが一番最初に日本列島に到達した
ホモサピエンスですね現世人類だということがわかります。 でこのd1a2どういうルートで渡ってきたかということなんですけれども 朝鮮半島はですね
基本的に経由してないと考えられます。 当時朝鮮半島は半島ではなくて中国大陸の一部にへばりついたんですね。 ですから中国大陸河口からそのままわたってこられたのでちょうど今の朝鮮半島の沿岸部分を歩いてきたかもしれませんけども
北朝鮮のあたりから南下して日本に渡ったのではなくて、そのまま沿岸沿いに日本にすっと入ってきたということで
ですから朝鮮の脇を素通りして日本に入ってきたというルートがだいたいわかっています。 朝鮮の地はほぼ踏んでないというか素通りしちゃった。 これちゃんとね明らかにしないと、「なんだ、日本人は朝鮮半島から入ったんじゃねえか」とか言われますけど、 いやいやあの時半島じゃないですから。沿岸からスッと大陸から直行で来られたんですね。 ここは抑えておかないといけないかなというところですね。 黄河河口から陸地を経て船で玄海灘わたってるっていう事で、半島経由ではないというか、大陸から直で日本にきたということがわかっています。 ということでそれ以降はもうね海面が上がって日本列島と大陸の行き来困難になりましたから
そして和気あいあいとですね、いいつかのグループの人たちが同じ環境で協力し合いながら生きてきたということですね。 なんで沖縄と北海道に多いんですかって言った時に結局ほらこの大グループが政権中枢に入ってきていますから
だからあの九州から関西にかけてはですね、やっぱこの大陸文化っていうのはやっぱり入ってきますから
そうなったときにその端っこ北海道と沖縄に昔の人たちの血統がより多く残ったということは
そういうことだと考えられます。
⓶アイヌは縄文の血を濃く残すのに、オホーツク文化人の子孫?
細かい突っ込みどころはいろいろあるのだが、それは後回しにして、青太字の部分に注目してほしい。 その部分のみ、ピックアップして書き出してみよう。
①y 染色体 dna から何がわかるか ⓶男が子孫に遺伝子を残すというのは相当大変 ③闘いにで負けてしまうと自分の遺伝子を残すことすらできない。 ④女性はたとえ戦いに負けたグループであっても戦利品としてね、子供を生むことがあるかもしれない。 ⑤ d 1 a 2は現代日本人の約35% 沖縄県民の約半分です。d 1 a 2を持っています。さらに言えば現代アイヌの8割が d 1 a2を持っています。
⑥d 1 a 2というとまさにこの現日本人のイメージで、縄文人のイメージ ⑦o1 p 2はですね約2800年前に日本とシナの長江中下流域から日本に渡来してきて
日本に水田稲作を伝えた人たちという風に考えられますから、長江文化の担い手というふうになりますね
⑧で、このo1 p 2に関してはですね、東アジアと東南アジアにおける最大勢力なんですよ ⑨なんで沖縄と北海道に多いんですかって言った時に結局ほらこの大グループが政権中枢に入ってきていますから
だからあの九州から関西にかけてはですね、やっぱこの大陸文化っていうのはやっぱり入ってきますから
そうなったときにその端っこ北海道と沖縄に昔の人たちの血統がより多く残った.
さらに上記、太字のところをつなげてよんでみよう。
現代アイヌの8割が d 1 a2を持っています。
d 1 a 2というとまさにこの現日本人のイメージで、縄文人のイメージ なんで沖縄と北海道に多いんですかって言った時に結局ほらこの大グループが政権中枢に入ってきていますから
だからあの九州から関西にかけてはですね、やっぱこの大陸文化っていうのはやっぱり入ってきますから
そうなったときにその端っこ北海道と沖縄に昔の人たちの血統がより多く残った。
これ何を言っているのかというと、 現代アイヌ人の8割が縄文人のY染色体ハプロタイプ d 1 a2を持っている。 アイヌ人は縄文人の血が濃い、といっているわけだ。
竹田さんがこの発言をされたのが岩宿時代編⑤。 そして、そのひとつあとの岩宿時代編⑥ではこんなことを言っている。
岩宿時代北海道に住んでいたのは北海道岩宿人であり、その子孫が北海道縄文人ですよ。
それが北方からやってきたオホーツク人、このオホーツク人って結構凶暴なんですよね。
そしてガンガン北海道に来て、殺戮しまくって、北海道縄文人をたぶん犯しまくったんですよ。
それで一時期この5世紀から10世紀って書いてありますけど、北海道のほぼ全土がオホーツク文化に入れ替わったんですね。
もともとの縄文文化がほぼ消滅して完全にオホーツク文化になっちゃったんですよ
でオホーツク文化ってどういう人達かというとシベリアの沿海、それから樺太・カムチャッカ、
ここらへんが、オホーツク文化なんですね。
このオホーツク文化の人たちが北海道に上陸して、侵略してほぼ制圧しちゃったのがこの約500年間で5世紀から10世記
で
その時にオホーツク文化人と北海道縄文人の混血がどんどん進んでいきます
あのアイヌ人のミトコンドリア dna のですねうち2割の頻度で現れるのが y 1なんですよ。
y 1っていうのはまさにこれなんです。オホーツク文化。
これを明らかにわかりますオホーツク周辺のですね、少数民族でいうと、たとえばニヴフっていう民族ありますけど
ニブニの7割が y 1持っています。ウリチの約4割。ネギタールの2割。
オホーツク周辺の民族の多くはy1を持っているので、y1の震源地は地はオホーツク文化ですね
アイヌ人のミトコンドリア dna の2割にこのy1が現れる。
もともと縄文人はy1なんかないんで、y1というのはオホーツク文化の担い手なんですね
だか縄文人とオホーツク文化人が混血混血混血て進んでいくと、その後江戸時代近世以降アイヌ人にy1が現れる。
これはもう完全にオホーツクの血筋が入り込んでいるということですね
だから元々の縄文人の血統にオホーツク文化の血統が完全に混血してアイヌ人ができたということがもうミトコンドリア dna のハプログループからわかるんですよね
つまり、ミトコンドリアDNAのほうで縄文人にはなく、オホーツク文化人にあるハプログループY1をアイヌ人の20%をもっている。 これは5世紀から9世紀にかけて北海道にいたオホーツク文化人が縄文人を殺戮しまくり、犯しまくった結果13世紀にアイヌ文化人が成立した、と言っているわけである。 これは、上の話と全く矛盾している。
さらに竹田氏はこうも発言している。(緑太字)
⓶男が子孫に遺伝子を残すというのは相当大変
③闘いにで負けてしまうと自分の遺伝子を残すことすらできない。 ④女性はたとえ戦いに負けたグループであっても戦利品としてね、子供を生むことがあるかもしれない。
上の発言を踏まえて考えてみると、母系で受け継がれるミトコンドリアDNAハプログループY1をアイヌ人がもっているということは
ミトコンドリアDNAハプログループY1を持つオホーツク文化人の女性が、縄文人の子孫である擦文文化人の戦利品とされて交わり、その女性たちが子供を産んだということになるのではないだろうか。
矛盾したことを言っているのに気がついていないのか。 其れとも矛盾したことを言っているということはわかっていて、嘘をついているのか。
③Y染色体DNAは解析がまだ進んでいない。
さらに発言の細かい部分を見ていきたいと思う。(竹田さんの発言で正しいと思う部分については述べない)
ミトコンドリア dna は日本人に大体20系統ぐらいあると言いました
y 染色体 dna って主に、5、6くらいでちっちゃいの入れても10ぐらいしかないんですね
同じ dnaであってもミトコンドリアと染色体ではこの数が違うんですね
~略~ 戦争があると負けた国の人達って皆殺し、もしくはよくて全員奴隷ですからね
だから特に男は奴隷として酷使し、女は戦利品として持ち帰るみたいな、こんな話もいくらでもあるぐらいなんですよね
ですからの女性はたとえ戦いに負けたグループであっても戦利品としてね、子供を生むことがあるかもしれない
でも男は戦争で負けた集団の男なんで子孫を作る機会すら失われたりするんですよ
だから女性の遺伝子は後世に残しやすいんだけども、男の遺伝子を後世に残すというのはちょっと難しいと
だからこそミトコンドリア dna はたくさんのタイプが世界に散らばってるんですけどy 染色体 dna は少ないということで
つまり、 「Y染色体ハプログループのタイプが、ミトコンドリアDNAハプログループのタイプに比べて少ないのは男性が遺伝子を残すのは大変だから」 とおっしゃっているのだが、これは事実かどうかわからない。
ミトコンドリアDNAの塩基の数は1万6000塩基対程度だが、Y染色体は5000万塩基対もあるため、ミトコンドリアDNAに比べて研究が進んでいなかったという記事があった。
もしかすると解析がすすむともっと数が増えたりしないだろうかと思ったりもする。
④日本の磨製石器は世界最古じゃない
d 1 a 1はもう1回言いますよ。今から4万年前から3万5千年前の間に日本列島で発生したのです。
じゃ、この人じゃんって感じです。これ38,000年前に(世界最古の磨製石器を)誰が作ったの?この人じゃんっていう話なんですね
世界最古の磨製石器は、オーストラリアの6万5000年のもので、現生人類が作ったものと考えられている。 ついでにいえば、日本の岩宿遺跡などで出土した磨製石器は、3万8000年前ごろあらわれて、30000年前には見られなくなっている。
⑤日本人の子孫が韓国人?
あとねえ韓国に(d 1 a2)は4%います。 それ日本人の子孫だったということは、ほぼ間違いないですね。
こうやって見ると韓国人の子孫が日本人なんじゃなくて
日本人の子孫が韓国人なんだということもわかってくるわけですね。
だって、この後頃だから d 1 a 1ができたのはこのあたりですかね、その後この縄文時代にわたっていったじゃないですか
その子孫が今韓国人の4%に残っているということですね。その直系の男系の子孫が前韓国人の4%です。
なんでそこまで減っちゃったかといったら、ほらチンギスハン、元がやってきたりして
もしくは中国に別の王朝が来て皆殺しになっているから男必死ですよね
ほとんどの遺伝子残せないで4パーまで減ってしまって
遠いまあこれは縄文時代でまたやりますけども今からね
約7千年前は朝鮮半島は無人で、日本の縄文人が住み着いたところが始まっているわけですから
「約7千年前は朝鮮半島は無人だった」というのは長濱浩明さんが言い出した説で それをベースにして考えると、「日本人の子孫が韓国人」ということになる、というのが竹田さんの主張だろう。 しかし長濱さんの説に、どれだけ信憑性があるかどうかわからない。 調査中なので、宿題ということにさせていただく。
アイヌのチセ
①阿久良王
吉備国喩伽山の阿久良王は東郷太郎、加茂二郎、稗田三郎という三人の家来を率いて村に出ては田畑を荒らし、物を盗み、女を拐うなどの悪事を働いて人々を苦しめた。 この事を聞いた朝廷は都で一番強いと言われた坂上田村麻呂を鬼退治に派遣した。
坂上田村麻呂(菊池容斎『前賢故実』より)
通生の浦へと船でやってきた田村麻呂は神宮寺八幡院で七日七夜に渡って鬼退治の祈願をした。
田村麻呂はわずかな家来と喩伽山へ進むと断崖に阻まれたが、神へ祈願すると白ひげの老人が現れて綱を降ろし、食料が尽きると再び現れて食べ物を出された。 いよいよ鬼退治となると「人が飲めば薬となり、鬼が飲むと毒となる。これで鬼退治をしてくれ」と霊酒を差し出して白ひげの老人は姿を消した。 田村麻呂一行は神の御加護として祈りを捧げ鬼の棲み家へと進むと、一匹の鬼が現れて切り合いになるも勝負がつかなかったが、瑜伽大権現に祈ると鬼は降参した。
降参した鬼は稗田三郎といい、元は人間であったという。 三郎の案内で鬼の棲み家へ着くと女の鬼が酒を飲んでおり、霊酒を飲ませて退治した。 それを知った阿久良王は東郷太郎、加茂二郎と共に田村麻呂へと攻めこんだ。 七日七夜に渡る激しい戦いの末に阿久良王は田村麻呂に敗れ、その死の間際にこれまでの悪事を悔い、罪滅ぼしとして瑜伽大権現の神使となり人々を助けたいと改心した。 息を引き取った阿久良王は田村麻呂に首を斬られると、金色の光を放って飛び散り、七十五匹の白狐になって瑜伽大権現のお使いとして人々を助けるようになった。
『備陽国史』通生山神宮寺の項によると、阿久良王は桓武天皇の皇太弟早良親王であるとされている。藤原種継暗殺事件によって淡路国へと配流の途中で憤死したとされるが、実は児島へと来て名を隠し阿久良王と名乗ったという。あくまで言い伝えであり、史実とは異なる。
③早良親王、怨霊になる。
早良親王についてもう少し詳しくみておこう。 彼は光仁天皇の皇子で、母は高野新笠、桓武天皇の同母弟だった。 750年ごろ生まれ、761年に出家して東大寺羂索院・大安寺東院などに住んで親王禅師と呼ばれていた。 桓武天皇が即位すると父・光仁天皇に勧められて還俗し、立太子した。 しかし785年に造長岡宮使・藤原種継の暗殺事件に連座したとして、廃され、乙訓寺に幽閉された。 早良親王は無実を訴えるため絶食し、淡路国に配流される途中、船上で憤死したと伝えられる。
桓武天皇は弟ではなく我が子の安殿親王を皇太子にしたいと考えており、その陰謀で早良親王に罪をなすりつけたともいわれている。
その後、安殿親王が発病し、桓武天皇妃藤原旅子・藤原乙牟漏・坂上又子の病死、桓武天皇・早良親王生母の高野新笠の病死、疫病の流行、洪水などが相次いだ。 そして、それらは早良親王の祟りであるとして何度か御霊会が行われている。
④早良親王、征夷大将軍になる?
坂上田村麻呂が退治した阿久良王が早良親王と聞いて、私は京都・藤森神社に伝わる伝説を思い出した。
早良親王が皇太子になった後、蝦夷の反乱がおこった。
早良親王は征夷大将軍となり、藤森神社に戦勝祈願をして出陣しようとしたが、蝦夷はこれを聞いて畏怖し、乱は戦わずして平定された。
これは史実とは思えない。
皇太子のような位の高い人が征夷大将軍になるとは考えられないし、ウィキペディアの「歴代征夷大将軍」を見ても早良親王の名前はない。
藤森神社
④8代目征夷大将軍・紀古佐美の大敗と死も早良親王の怨霊の祟りとされた。
征夷代将軍8代目に紀古佐美の名前がある。 789年、紀古佐美は征夷大将軍となって阿弖流為率いる蝦夷と戦うが、大敗している。 そして、この大敗は早良親王の怨霊の祟りとされた。
さらに紀古佐美は797年に亡くなっていますが、その死もまた早良親王の怨霊の祟りだとされた。
藤森神社は紀氏の氏神を祀るといわれるが、そういうわけで紀氏は早良親王の霊を鎮めるため御霊として祀り、 さらには征夷大将軍になって勝利をおさめたという作り話まで作ってしまったのかもしれない。
奈良に紀寺(璉珹寺)があるが、その隣には早良親王を祀る崇道天皇社がある。
よほど紀氏は早良親王の霊を怖れていたということだろうか。
璉珹寺
祟道天皇社 ⑤早良親王のご加護を受けた坂上田村麻呂
坂上田村麻呂は10代目の征夷大将軍となり、蝦夷征討に成功している。 802年には大墓公阿弖利爲と盤具公母禮等が500余人を率いて降伏した。 坂上田村麻呂は、朝廷に対し、阿弖利爲と母禮の助命嘆願したが 公卿らは「野蛮で獣の心をもち、約束しても覆してしまう。彼らを陸奥国の奥地に放ち帰すことは、虎を養って患いを後に残すようなものである」と反対し、 阿弖利爲・母禮は処刑された。
坂上田村麻呂の勝利は、早良親王=阿久良王の霊を味方につけ、ご加護を得られたため、と考えられたのだろう。 それで阿久良王の伝説は作られたのだと思う。
⑥祟道天皇社の北にある瑜伽神社
①阿久良王の伝説に瑜伽大権現とでてくる。 備前国瑜伽山の山岳信仰と修験道が融合した神仏習合の神で、行基が、天平5年に開山した とウィキペディアには説明がある。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%91%9C%E4%BC%BD%E5%A4%A7%E6%A8%A9%E7%8F%BE ④で奈良の紀寺(璉珹寺)の隣には早良親王を祀る崇道天皇社があるという話をしたが
その祟道天皇社の北に瑜伽神社がある。 瑜伽神社は崇道天皇社と何か関係があるのかもしれない。
アオジ
送り雀(おくりすずめ)は、和歌山県や奈良県吉野郡東吉野村に伝わる妖怪。 和歌山では雀送り(すずめおくり)ともいう。 その鳴き声を実在の鳥のアオジにたとえ、蒿雀(あおじ)とも呼ばれる。
夜、人が山道を歩いていると「チチチチ……」と鳴きながら飛んでくる。 夜に提灯を灯して歩いていると、寄って来るともいう。 和歌山では妙法山によく現れたという。 この鳴き声の後にはオオカミ、もしくは妖怪・送り狼が現れるといい、 道で転倒するとすぐにそれらに襲撃されてしまうため、送り雀の鳴き声を聞いた者は、転ばないよう足元に注意を払いつつ歩いたという。
雀の名の通り、鳥の姿だとされるが、その姿を見た者は誰もいない。 前述のアオジが送り雀の正体ともいうが、夜に飛ぶためにアオジとは違うとの指摘もあり、実は兎だという地域もある。 また、これと似た妖怪に「夜雀」があり、奈良では夜雀が送り雀と同一視されることもある。
⓶送り雀は死者をあの世に送り届ける?
送り雀は、誰をどこに送るのだろうか。
「送り火」「野辺送り」などと言う言葉がある。 「送り火」とは、お盆に帰ってきたお精霊さん(おしょらいさん)をこの世からあの世へ送りだす行事で、 個人で行う場合は、16日の夕方、迎え火を焚いた場所に焙烙を置いて、その上にオガラやたいまつを乗せる。 仏壇のロウソクの火をつけ、その火を、提灯のロウソク、別のロウソク、オガラと移す。 宮津では精霊舟を海に浮かべて、燈籠流しをする。 京都の五山送り火や奈良高円山の送り火のように、地域をあげて行うものもある。

五山送り火

宮津 精霊船
「野辺送り」とは、葬儀のあと、参列者が葬列を組んで死者を火葬場や埋葬地まで送っていくことをいう。 最近では葬儀場からバスに乗り込んで火葬場へ向かうことが多いと思うが、 私がまだ子供だったころ、親戚の葬式で野辺送りをし、私もその葬列に加わった記憶がある。 遺族は遺影や幟のようなものをもって田舎の道を練り歩く。 とはいっても、火葬場まで葬列を組んで歩いていくわけではなく、途中までであるが。 よく覚えていないが、途中から車かバスに乗って葬儀場へいったと思う。 送り雀も死者をあの世に送り届けるのではないだろうか?
③鳥の生態と葬儀における役割
記紀にこんな話がある。
鳴女(ナキメ)は天から降り、地上に到着すると、天若日子(アメノワカヒコ)の門の前の湯津楓(=カツラの木)の上に止まりました。
そしてこと細かく天津神たちの言葉を伝えました。
天佐具売(アメノサグメ)は鳥(=ナキメのこと)の言葉を聞いて、天若日子(アメノワカヒコ)に語って言いました。
「この鳥の鳴き声はとても不吉です。
だから弓で射殺してしまいましょう」
と進言すると、すぐに天若日子(アメノワカヒコ)は天津神から貰った天之波士弓(アマノハジユミ)と天之加久矢(アマノカク矢)で雉(キジ)を殺してしまいました。
https://nihonsinwa.com/page/316.html より引用
天若日子(アメノワカヒコ)の妻の下照比売(シタテルヒメ=大国主の娘)の泣く声が、風に乗って響き、高天原まで届きました。 高天原の天若日子(アメノワカヒコ)の父親、天津国玉神(アマツクニタマ神)とその妻子が聞いて、地上に降りて嘆き悲しみました。 そこに喪屋(モヤ)を作って、川雁(カワカリ)を食べ物を運ぶ役目として、鷺(サギ)を掃除係として、 翠鳥(=カワセミ)を神に供える食物を用意する係りとし、雀(スズメ)を碓女(=米をつく女)とし、 雉(キジ)を哭女(泣き女)という具合に葬式のやるべきことを定めて、 八日八夜の間、踊り食べて飲み遊んで、死者を弔いました。 https://nihonsinwa.com/page/319.html より引用
雁は渡り鳥である。それで「食べ物を運ぶ役目」とされたのだろう。
鷺は長い首を箒の柄、羽根の部分を箒に見立てたのではないだろうか。
カワセミは、小魚をとらえるのがうまく、町中でもカワセミが魚をくわえているのをよく見かける。 それで食物を用意する係とされたのだと思う。
雀は田圃のコメを食べる害鳥だった。それで碓女(=米をつく女)なのだろう。
メスのキジは、オスを恋しく思って鳴くのだろうか。 それでキジが泣き女なのかも。
しかし、この話の前にアメノワカヒコが泣き女を殺している。 これについての考察はのちに述べる。
④死者の魂は鳥になる?
鳥たちが葬儀をするという点に注意してほしい。 死んだヤマトタケルが白鳥になって飛び立つという話がある。 また仁徳天皇陵などの巨大古墳は、地上から見たのではその形を認識することができない。
天高く舞う鳥の視線であれば、その形は容易に認識できるだろう。 そしてササキという鳥がおり、これに御をつければ陵(ミササギ)となる。
昔の人は、死んだ人の魂は鳥になって大空に向かうと考えたのではないだろうか。
ナスカの地上絵なども同様だと思う。 とすれば、アメノワカヒコの葬儀を執り行った鳥たちは、すべて死者の魂なのだと考えられる。
アメノワカヒコが殺した泣き女(=キジ)が葬儀に参加するのもそのためではないだろうか。
⑤死の匂いのする土地
送り雀の話に戻ろう。 「和歌山では妙法山によく現れた」と説明されているが、妙法山とは和歌山県東牟婁郡那智勝浦町にあり 南海補陀落の山といわれた那智山の奥にある。 和歌山県東牟婁郡那智勝浦町にある補陀落寺は、補陀落渡海が行われたことで有名である。
補陀落渡海とは南方海上にあると信じられた補陀洛浄土をめざして、船出する行をいう。 船出するとはいっても、その船は外にでられないように外から釘が打たれる。 つまり、捨身行である。 この補陀落渡海が25件も、補陀洛山寺から出発している。 勝浦付近は死の匂いがしみついた土地であったといえる。 そしてそのような死者らの霊が送り雀になったのかもしれない。
⑥送り狼
送り雀の声が聞こえたあとに送り狼があらわれるというが、送り狼とは2つの意味がある。 1 親切を装って女性を送っていき、途中ですきがあれば乱暴を働こうとする危険な男。 2 山中などで、人のあとをつけてきて、すきをみて害を加えると考えられていた狼。 https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E9%80%81%E3%82%8A%E7%8B%BC/ より引用
このようにあるが送り狼とはやはり死者をあの世に送り届ける狼、という意味だろう。 妖怪・送り狼は、送り犬とも呼ばれるようである。 送り犬について、ウィキペディアは次のように記している。
関東地方から近畿地方にかけての地域と高知県には送り狼(おくりおおかみ)が伝わる。 送り犬同様、夜の山道や峠道を行く人の後をついてくるとして恐れられる妖怪であり、転んだ人を食い殺すなどといわれるが、正しく対処すると逆に周囲からその人を守ってくれるともいう。 『本朝食鑑』によれば、送り狼に歯向かわずに命乞いをすれば、山中の獣の害から守ってくれるとある。 『和漢三才図会』の「狼」の項には、送り狼は夜道を行く人の頭上を何度も跳び越すもので、やはり恐れずに歯向かわなければ害はないが、恐れて転倒した人間には喰らいつくとある。 また、火縄の匂いがすると逃げて行くので、山野を行く者は常に火縄を携行するともある[1]。 他にも、声をかけたり、落ち着いて煙草をふかしたりすると襲われずに家まで送り届けてくれ、お礼に好物の食べ物や草履の片方などをあげると、満足して帰って行くともいう。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%81%E3%82%8A%E7%8A%AC より引用
このごろは野良犬は見かけないが、私が子供のころはよく野良犬がいた。 そしてその野良犬が歩いている後ろからずっとついてくるので、怖かった記憶がある。 こうしたところから、送り犬や送り狼の妖怪は創作されたのだろう。

竜斎閑人正澄画『狂歌百物語』より「送り狼」
①霜や雪は白いのに、なぜ「青女(霜・雪を降らす女神)の滝」なの?
【青女】 《「淮南子 (えなんじ) 」天文訓から》霜・雪を降らすという女神。 転じて、霜や雪。
『淮南子』(えなんじ/わいなんし、中国語: 淮南子; 拼音: Huáinánzǐ; ウェード式: Huai-nan Tzu)は、前漢の武帝の頃、淮南王劉安(紀元前179年 - 紀元前122年)が学者を集めて編纂させた思想書。
天文訓とはその淮南子 の巻三で、天体の運行などについて述べられているらしい。
霜や雪は白いが、なぜ白女ではなく青女なのだろうか?
白馬と書いて「あおうま」と読むことがある。 1月7日に白い馬を見ると縁起がいいなどといわれ、大阪の住吉大社では白馬神事(あおうましんじ)、京都の上賀茂神社では白馬奏覧神事(あおうまそうらんしんじ)等の行事が行われている。
どうも、白を青とよむ習慣があったようである。
それで本当は白女なのに青女というのだろうか?
美山 茅葺の里
⓶霜や雪は謀反人をあらわす?
日本書紀に『トガノの鹿』という物語があり、鹿とは謀反人を比喩したものであるとする説がある。
雄鹿が『全身に霜がおりる夢を見た。』と言うと雌鹿が『霜だと思ったのは塩であなたは殺されて塩が振られているのです。』と答えた。
翌朝猟師が雄鹿を射て殺した。
また、摂津風土記には『夢野の鹿』という話がある。
雄鹿が「背中に雪がつもり、すすきが生える夢をみた」というと、 雌鹿は「雪は塩ですすきは矢です。あなたは矢で射殺され、塩が振られているのです。 この夢は別の女のところに出かけるとあなたは殺されるという前兆です。だから行かないでください」 しかし雄鹿はでかけてしまい、矢で射られて死んだ。
雪や霜は塩に喩えられているのだ。
鹿の夏毛には白い斑点がある。 その斑点が雪や霜に喩えられたのだろう。
かつて謀反の罪で殺された人の死体には塩が振られることがあったという。
雪や霜は謀反人の死体にふる塩の喩えであり、 さらに雪や霜の様にも見える白い斑点のある鹿は、謀反人の喩えとして用いられたのだろう。
③鹿鳴草
萩は別名を鹿鳴草という。 萩の花には白花と紫花があるが、このうち白花のほうは雄鹿(雪、霜、塩、謀反人)に喩えられているのだろう。
紫花のほうは、雌鹿に喩えられているのだと思う。
こんな和歌がある。
紫は ほのさすものぞ 海石榴市の 八十のちまたに 逢へる子や誰
(海石榴市の辻で逢った貴女は、何というお名前ですか。)
紫色に布を染めるためには、椿の灰を媒染剤とした。
紫とは道で出会った女、灰汁は男のことで、男と目があったとたん、女がぱっと美しく瞳を輝かせた、というような意味だろうか。
こんな歌もある。
紫草(むらさき)のにほへる妹を憎くあらば 人妻ゆゑに我恋ひめやも.
( 紫草の紫色のように美しいあなたのことを憎いと思っているとしたら、どうして私はあなたのことがこんなに恋しいのでしょうか。あなたは人妻だというのに)
大海人皇子(のちの天武天皇)が額田王に贈った有名な歌である。
この2首を鑑賞すると、恋する女のことを『紫』といっているように思えるが、どうだろうか。
そういうわけで、萩の紫花は雌鹿、または謀反人の罪で殺された人の比喩だと思うのである。
白毫寺 萩
④青女の滝
私が青女について興味を持ったのは、京都・法金剛院境内に「青女の滝」と名付けられた滝があったためだ。 小さな滝だが、日本最古の人工滝ともいわれているらしい。
この滝はなぜ青女の滝と呼ばれているのだろうか?
法金剛院 青女の滝
⑤藤原璋子はプレイガールだった?
法金剛院の中興は待賢門院とされる。
待賢門院というのは院号で、藤原公実の娘・藤原璋子(しょうし/たまこ/1101年 - 1145年)のことである。
璋子は七歳のとき、父親を失って白河法皇に育てられたのだが、養父・白河法皇と男女の関係があったという。 ほかにも二人の男性と密通しているという噂もあった。
1117年、璋子は白河法皇の孫の鳥羽天皇に入内したが、 入内後もたびたび白河法皇と密会していたとか、いないとか。
法金剛院 待賢門院桜
⑥叔父子と呼ばれて嫌われた崇徳
1119年、璋子は鳥羽天皇の第一皇子の崇徳天皇を出産するが、崇徳の父親は白河法皇の子だという噂があった。
『古事談』には、鳥羽は崇徳を『父の弟にして子』と言う意味で『叔父子(おじご)』と呼んで嫌っていたと記されている。
1129年、祖父・白川法皇が崩御して、鳥羽上皇が院政を行うようになる。
1142年、鳥羽上皇は崇徳に退位を強要し、崇徳は異母弟の近衛天皇に譲位した。 近衛は崇徳の養子として即位する予定でしたが、鳥羽によって発布された宣命には皇太弟となっており 崇徳から将来の治天の君の資格を剥奪するとも書かれていた。 そして崇徳が上皇となってからも、政治の実権は鳥羽が握っていた。
1155年、近衛天皇は17歳で崩御した。
このとき、崇徳と左大臣藤原頼長(悪左府)が愛宕権現に祈願し近衛を呪詛したという噂がたった。
崇徳は自分か、息子・重仁の即位を願っていたが、鳥羽は後白河(崇徳の同母弟)を即位させた。
鳥羽上皇は後白河の長子・二条を即位させたかったのだが、まだ幼かったため、中継ぎとして後白河を即位させたのである。
後白河の長子である二条は幼くして母親をなくしたために美福門院(得子)の養子となっていた。
二条は父親の後白河よりも美福門院との結びつきの方が強かったのである。
鳥羽は美福門院を寵愛していたし、美福門院がかわいがっている二条を即位させたいと考えたのだろう。
「叔父子の崇徳め、近衛天皇を殺すために呪詛するなんて許さん! 放蕩息子の後白河を皇位につけるのも嫌だが、二条がまだ幼いので仕方ない。
後白河を中継ぎで即位させよう。」
と 鳥羽が言ったかどうかしらないが~。
法金剛院 木蓮
⑦保元の乱
崇徳はついにブチ切れ、1156年、左大臣藤原頼長や平忠正、源為義らの武士を率いてクーデターを起こした。(保元の乱)。
しかし、後白河側についた平清盛・源義朝らによって鎮圧され、崇徳は讃岐に流罪となる。
崇徳は讃岐で五部大乗経を写本し、反省の証に朝廷に差し出すが、後白河は受け取りを拒否し、写本を送り返した。
崇徳、またしてもブチ切れ!
自分の舌を噛み切り、その血で写本に次のように書き込んだと伝えられる。
『日本国の大魔縁となり、この経を魔道に回向(えこう)す。』
『皇を取って民とし民を皇となさん』と。
そして爪や髪を伸ばし続け、夜叉のような姿になったといわれる。
『保元物語』によれば、状況調査のために派遣された平康頼は『院は生きながら天狗となられた』と報告したと記されている。
法金剛院 桜
⑧青女は藤原璋子だった?
崇徳は謀反人なのです。
そして、崇徳の上に雪や霜を降らせたのは(崇徳が乱をおこす原因を作ったのは)、素行の悪い母親の藤原璋子。
てなことで、藤原璋子ゆかりの法金剛院の滝は、雪や霜を降らせる青女の滝、なーんてことになったんだったりして。
法金剛院 待賢門院桜
①幽霊の足跡
大阪府守口市佐太中町に来迎寺という寺がある。
この寺には幽霊の足跡と呼ばれる足形が伝えられている。
寛保3年(1743年)7月14日来迎寺35代慈天上人が夕方のお勤めをしておられる時に、1人の女の人が来て 「私はもと江戸に於て天筆如来さまのご縁にあいました小網町の大工の妻お石というものですが、病弱の為に主人が家をあけ臨終に葬いもしてくれませんので、このように迷っているのです。どうかご回向をして下さい。」 と言いました。
慈天上人は幽霊を見て座具を敷き「この座具はお浄土の蓮台です。ここへ来て座りなさい。」 お石は恐る恐る座具の上に立ちますと、慈天上人は、「心光清蓮」と法名を授けて念仏回向されました。
お石は 「今、お上人のご回向により迷いは覚め、仏さまのもとに参れます。何もございませんが、私の足跡を残しておきます。」 と言い、その姿を消したのです。
⓶小網神社は紀氏の神を祀る神社?
幽霊は、「江戸に於て天筆如来さまのご縁にあいました小網町の大工の妻お石」と名乗っている。 東京に小綱町という地名があるのかとぐぐってみたら、日本橋小綱町という地名があり そこに小綱神社があることがわかった。
その由緒について、ウィキペディアには次のように記されている。
当地には元々恵心僧都源信が編んだ草庵があった。1466年(文正元年)、疫病が流行った折、この草庵に稲穂を持った老人が訪れ、数日間泊まった。 その夜、庵主は恵心僧都の夢を見、「この老人を稲荷神として崇めれば、疫病は退散する。」というお告げを聞いた。 翌朝、この老人の姿は消えていた。 さっそく稲荷神を祀る神社を建てたところ、疫病も収まったという。
次の部分については聞き覚えがある。
この草庵に稲穂を持った老人が訪れ、数日間泊まった。
その夜、庵主は恵心僧都の夢を見、「この老人を稲荷神として崇めれば、疫病は退散する。」というお告げを聞いた。
稲を持った老人の話は、稲荷神社の総本社・伏見稲荷にも伝わっているのだ。 伏見稲荷大社は、816年、空海が稲荷山三箇峯から現在地へ勧請した。 その際、紀州の老人が稲を背負い、杉の葉を提て、両女を率い、二子を具して東寺の南門に望んだ。
同じ稲荷神社だから、同じような話があるのは当然、と思うかもしれないが そんなに簡単に切り捨ててはいけない。
単なる老人でなく「紀州の老人」とある点に注意してほしい。
伏見稲荷大社の創建は711年、秦伊呂巨(はたのいろこぐ))によるという話が広く知られている。 しかし、私はこれが史実だとは思えない。
伏見稲荷大社の南に藤森神社があり、もともと藤森神社は伏見稲荷大社の土地にあったのだが、土地を奪われ、現在地に移転したという伝説があるのだ。 今でも藤森神社の祭礼の際には、神輿を担いで伏見稲荷大社にのりこみ、「土地返せ」とはやし立てるという。
そして、藤森神社は紀氏の氏神であるという。
伏見稲荷大社は秦氏が祭祀する神社ではなく、紀氏が祭祀する神社であった可能性があるのだ。
すると小網神社の御祭神も紀氏の神である可能性が高い。 また小網町の大工の妻・お石もまた紀氏の神(女神)であるかもしれない。
伏見稲荷大社
藤森神社
③石清水八幡宮・来迎寺は紀氏が祭祀する寺社
来迎寺の由緒を見てみよう。
清和天皇の貞観元年(859年)に、奈良大安寺の行教上人が、九州は宇佐の八幡宮に国家の安全をお祈りされ、その満願の日に行教上人のお袈裟の上に、仏さまのお姿があらわれました。
そのお姿を写されたものが「天筆如来」で、石清水八幡宮のご神体とされたのです。
石清水八幡宮
その後康永元年(1342年)4月15日の夜、石清水八幡宮の宮司に夢告が、又深江の法明上人(融通念仏宗の中興)にも「天筆如来」を授けるというお告げがあり、両者が出会い、宮司より天筆如来を法明上人に渡されたのです。 その場所は、枚方市茄子作一本松で、史跡「本尊掛松」又「上人松」と名付けられています。
本尊掛松 (桜に気をとられて松の写真を撮るのを忘れたw)
法明上人は、弟子の実尊上人に「天筆如来」を授け、実尊上人は、自分の生まれた大庭の庄で正平二年(1347年)紫雲山来迎寺を建立されたのです。
石清水八幡宮(京都市八幡市)の創建は貞観元年(859年)で、 行教上人の袈裟の上に「天筆如来」が現れたのと同じ年であり、この天筆如来は石清水八幡宮のご神体だったのが 来迎寺に渡ってきたということで、来迎寺は石清水八幡宮と関係の深い寺であることがわかる。
そして、石清水八幡宮の別当職は代々紀氏の世襲だった。
稲荷神社につづき、ここでも紀氏がでてきた。
④石清水八幡宮は紀名虎または惟喬親王を祀る神社?
石清水八幡宮は859年に創建されたというが、859年は清和天皇が即位された年である。 清和天皇の生没年は850年~881年1月7日、清和天皇はわずか9歳で即位し、清和天皇の外祖父・藤原良房が政治の実験を握っていた。
清和天皇の父親は文徳天皇、母親は藤原良房の娘の藤原明子だったが 文徳天皇には紀静子との間にできた惟喬親王もあった。
文徳天皇は惟喬親王を皇太子にしたいと考えて源信(小網神社の創建説話に登場する恵心僧都源信とは別人)に相談したが 源信は藤原良房を憚って天皇を諫めたという。 こうして惟喬親王は世継争いに敗れ、清和天皇が即位した。
その清和天皇が即位した年に、石清水八幡宮は創建された。 八幡宮は宇佐八幡宮神託事件でわかるように、皇位継承に関する神託を告げる神のようである。 その石清水八幡宮の別当職が代々紀氏だったというのは、どういうことだろうか。
日本では先祖の霊は子孫が祭祀するべきとされていた。 石清水八幡宮の御祭神は応神天皇だが、その応神天皇に紀氏の人間のイメージが重ねられているのではないか?
惟喬親王の外祖父は紀名虎である。 また惟喬親王自身も紀氏といってもいいだろう。
八幡八幡宮は紀名虎または惟喬親王を祀る神社であり(創建当時惟喬親王は存命しているが) そのため、石清水八幡宮の別当職は紀氏の世襲だったのではないだろうか。
⑤お石の正体は惟喬親王?
小網神社もまた紀氏の神を祀る神社ではないかと思う。(稲荷神を祀ると言うが、稲荷神とは⓶ですでに述べたように紀氏の神だと思うので)
そして小網町の大工の妻・お石とは小網神社の女神だと思う。
さらに紀氏の神として祀られている可能性のある惟喬親王は、小野宮とも呼ばれており、私は小野小町とは惟喬親王のことではないかと考えている。
簡単にその理由をまとめておく
a 古今和歌集には男が女の身になって詠んだ歌が多数ある。
b 古今和歌集仮名序はやけに小町が女であることを強調しているが、これは小町が男だからではないか。
c .小野小町は穴のない体で性的に不能であったともいわれているが、穴がない体なのは小町が男だからではないか。
待ち針は穴のない針という意味で「小町針」だったのが、訛って待ち針になったといわれている。
d 『古今和歌集』に登場する女性歌人に三国町、三条町、がいる。
三国町は一般には継体天皇の母系氏族・三国氏出身の女性だと考えられているが、
『古今和歌集目録』は三国町を紀名虎の娘で仁明天皇の更衣としている。
紀名虎の娘で仁明天皇の更衣とは紀種子のことである。
また三条町は紀名虎の娘で文徳天皇の更衣だった紀静子のことである。
三国町が紀種子とすれば、三条町=紀静子なので、三国町と三条町は姉妹だということになる。
そして紀静子は惟喬親王の母親だった。。
惟喬親王は三国町の甥であり、三条町の息子なので、三国町・三条町とは一代世代が若くなる。
そういうことで小町なのではないだろうか。
e 花のいろは うつりにけりな いたづらに わがみよにふる ながめせしまに
この歌は縁語や掛詞を用いて二重の意味をもたせた技巧的な歌だとされる。
①花の色はすっかり褪せてしまったなあ。春の長い雨のせいで。
②私の容色はすっかり衰えてしまったなあ。恋の物思いにふけっている間に。
※『色』・・・『視覚的な色(英語のColor)』『容色』
※『世』・・・『世の中』と『男女関係』
※『ながめ』・・・『物思いにふける』『長雨』
しかし、もうひとつ違う意味が隠されているように思える。
③はねずの梅の鮮やかな色はあせ、(「はねず」は移るの掛詞なので、花ははねずの梅ととる)私の御代に(「わが御代に 下(ふ)る」とよむ。)長い天下(「ながめ」→「長雨」→「長天」と変化する。さらに「下(ふ)る」を合わせて「天下」という言葉を導く)がやってきたようだ。
つまり、来迎寺に残る幽霊の足跡とは惟喬親王のことではないかと思うのである。
髄心院 小野小町像
龍野 街並
①本朝廿四考 狐火の段
3月、兵庫県龍野を訪れた。 情緒ある古い町並み。古い雛人形が飾られた古民家をめぐる。
文化センターでは、人形浄瑠璃を見ることができた。 演目は「本朝廿四考 狐火の段」。
龍野で上演された「本朝廿四考 狐火の段」
「本朝廿四考 狐火の段」は武田家と上杉家の確執を脚色した物語である。 脚色したものなので、実在しない人物も登場する。
上の写真は武田勝頼の許嫁の八重垣姫だが、八重垣姫は架空の人物である。
「本朝」とは日本のことで、「本朝廿四考」とは「日本の孝行に優れた24人の孝行者の話」という意味である。 中国に『二十四孝』(にじゅうしこう)という孝行に優れた24人を取り上げた書物があり、それに倣ってこのようなタイトルをつけたのだろう。
3段目に慈悲造という者が母に命じられて雪の中筍を掘るという話が出てくる。 それが孝行者の話だということでこういうタイトルになったようである。
上記動画にあらすじが記されている。 これを転記させていただいた。
越後の武将 上杉謙信の娘 八重垣姫と、甲斐の武将 武田信玄の息子 勝頼は、
足利将軍の仲介で婚約していました。
ところが将軍が暗殺され、両家に疑いがかかり、
犯人を見つけ出せなかったために、勝頼は切腹を命じられてしまいます。
悲しみに暮れる八重垣姫でしたが、死んだのは偽物で本物の勝頼は
花作りに身をやつして生きていたことを知ります。
しかし父謙信も、その秘密を知り、勝頼に刺客を差し向けるのでした。
この演目の舞台はここから始まります。
八重垣姫はそのことを勝頼に知らせようとしますが、
女の足では刺客に追いつけず、諏訪湖は凍っているため 船を出すこともできません。
そこで奥御殿にまつった諏訪明神の力が宿る兜にお祈りすると、不思議な事に狐が現れます。
八重垣姫は兜を手にして、ここかしこに燃え立つ狐火を力に、勝頼のもとへと急ぐのでした。
⓶諏訪湖に現れた狐火とは「御神渡り」だった?
諏訪湖では冬の寒い日に「御神渡り(おみわたり)」という現象が起こることがある。
「御神渡り」とは 氷が盛り上がって、長い筋を作る現象のことである。
諏訪大社の御祭神・建御名方命(タケミナカタ)が下諏訪に住む八坂刀売命(ヤサカトメノミコト)に会いにいくときにできた足跡だと言い伝わっている。
なるほど「本朝二十四考 狐火の段」はこの伝説をベースに作られたものだったのだ。 つまり武田勝頼はタケミナカタ、八重垣姫はサカトメノミコトのイメージと重ねられているのだろう。
この、「本朝二十四考 狐火の段」にちなみ、諏訪湖には八重垣姫のブロンズ像がたてられているそうである。
すると、諏訪湖に現れた狐火とは、この御神渡りを比喩的に表現したものだということができるだろう。
③「御神渡り」ができるメカニズム
「御神渡り」ができるメカニズムについて、次のように記されている記事があった。
◇ 冬季、湖が結氷するといったん氷が膨張します。 その後に気温が下がるとどんどん収縮する為、気温が下がる夜中に氷が収縮し、亀裂が入りその隙間に水が入り、新しい薄い氷ができます。
◇ 日中、気温が上がると今度は氷が膨張する為、両側から氷が押され薄い氷が割れ、せりあがります。
これが何日も繰り返され、御神渡りになります。
龍野 如来寺
④タケミカヅチの手が返信した氷や刀は御神渡り?
⓶で、「諏訪大社の御祭神・建御名方命(タケミナカタ)が下諏訪に住む八坂刀売命(ヤサカトメノミコト)に会いにいくときにできた足跡だと言い伝わっている。」と書いたが、
タケミナカタとは大国主神の次男である。
天照大神は葦原中国は自分の子孫が収めるべきだとし、葦原中国の大国主命のもとへタケミカヅチとフツヌシを派遣し、大国主神に「国を譲るように」と迫らせた。
大国主神は「自分の二人の息子に意見を聞いてくれ」と言った。
そこでタケミカヅチは大国主神の長男のコトシロヌシと次男のタケミナカタに「国を譲るように」と言った。
タケミカヅチは「承知した」と答えて海に入水した。
タケミナカタはタケミカヅチに力くらべを挑んだ。 タケミカヅチは手を氷に変え、さらに刀に変えて(ひえ~)、タケミナカタの手を潰して投げ飛ばした。
タケミナカタは諏訪湖まで逃げたが逃げきれなくなり、ここから出ないこと、葦原中国は天照大神の子孫に譲ることを誓った。
タケミカヅチは手を氷に変え、さらに刀に変えたとあるところに注意してほしい。
そしてもう一度、上の御神渡りの動画を見てみよう。 御神渡りは神様が渡った跡のようにも見えますが、たくさんの氷の刀が並んでいるようにも見える。
諏訪湖の御神渡りは、タケミカヅチがタケミナカタと闘った際に変身した氷の刀であるとも考えられていたのではないだろうか。
つまり諏訪湖はタケミカヅチの手、というわけだ。
⑤古の日本では時間が過去→現在→未来へと流れると認識されていなかった?
タケミナカタは出雲におり、出雲でタケミカヅチと力比べをしたと読める。 そしてタケミナカタはタケミカヅチに負けた結果、諏訪湖に逃げたので、 タケミカヅチの手が変身したのは出雲であって、諏訪湖ではないといわれそうだw
しかし古代の日本では時間が過去→現在→未来へと流れると認識されていなかったのではないかと思うことがある。
たとえば、天照大神が天岩戸に隠れたという話がある。
①天照大神はスサノオの姉→天照大神は女神 ⓶天岩戸に隠れるがアメノウズメ(女神)のストリップダンスに興味を持ってでてきた。→天照大神は男神?(女神ストリップに興味を持つのは男) ③天岩戸の外に置かれた八咫鏡に自分の姿が移った。→天照大神は男神から女神に性別がかわる? ※女がのぞき込んだ水鏡に男神が写るなどの昔話が多数あるが、水鏡に映ったのは自分の姿のはずである。 すると鏡は性別を転じさせる力があると考えられていたように思える。
物語の順番は、①→⓶→③となっているが ⓶→③→①という順番にしたほうが物語が矛盾なくつ長りそうに思える。
タケミカヅチとタケミナカタの力比べの話は本来は ①タケミナカタが出雲から諏訪湖(タケミカヅチの手)へ逃げる ⓶タケミナカタ、諏訪湖(タケミカヅチの手)の刀のようなつららにつかまってでられなくなる
であったかもしれない。(ちょっとむりくりっぽいかw)
①昔の雪だるまは雪の達磨だった。
昔の雪だるまはどんなものだったのだろうか?
調べてみたところ、歌川広景が雪だるまの絵を描いていた。
『江戸名所道戯尽 廿二 御蔵前の雪』(歌川広景)
これは達磨である。
すべての雪だるまがこのようなものだったのかどうかはわからない。
②鼻緒を結びなおす人は達磨の幽霊だった。
上の絵は小さくてわかりにくいが、拡大してみてみると雪だるまの口元には魚がお供えされているようである。
雪だるまの前にいる男性は左の下駄の鼻緒がきれたので、下駄をぬいで 鼻緒を結びなおしているように見える。
なぜ広景は鼻緒を結びなおす人を描いたのだろうか?
『景徳伝燈録』に次のような物語がある。
『景徳伝燈録』は達磨没後の道教の尸解に類した後日譚を伝える。 中国の高僧伝にはしばしば見られるはなしである。 それは達磨の遷化から3年後、西域からの帰途にあった宋雲がパミール高原の葱嶺という場所で達磨に出会ったというものである。 その時、達磨は一隻履、つまり履き物を片方だけ手にして歩いており、宋雲が「どこへ行かれるのか」と問うと達磨は「インドに帰る」と答えたという。 また「あなたの主君はすでにみまかっている」と伝えたというのである。 宗雲は帰国してからこのことを話してまわった。 帰朝した宋雲は、孝明帝の崩御を知る。 孝荘帝が達磨の墓を開けさせると、棺の中には一隻履のみが残されていたという。
※遷化とは、高僧の死亡のことである。
つまり、広景の絵に描かれている鼻緒を結び直す男性は、達磨の幽霊だと思う。
四天王寺 達磨 石像(向かって左)
③天智天皇は達磨のイメージに重ねられた?
『景徳伝燈録』にある、達磨が履き物の片方を手にして歩いていたという伝説は、天智天皇の伝説を思わせる。
蹴鞠をしていた中大兄皇子(のちの天智天皇)の沓が脱げ、それを中臣鎌足が拾ってさしだしたというものである。
また、天智天皇陵のそばに沓石が置かれており、この沓石にこんな伝説がある。
天智天皇は騎乗して山林に入り、行方不明になった。 そのため、沓が落ちていた場所を陵とした。(『扶桑略記』) 中大兄皇子の伝説は達磨の伝説をもとに創作されたのではないだろうか。
達磨はインドの王の第三王子として生まれたのに、王位をつげず、出家して僧となっている。
出家したということは子孫も残せなかったのかもしれない。 仮に出家前に子をなしていたとしても、彼の子孫は王位につけなかっただろう。
天智天皇(中大兄皇子)は皇位にはついたが、崩御後、弟の大海人皇子(天武天皇)vs子の大友皇子が争い(壬申の乱)
大海人皇子が勝利して即位したので、自らの血を皇位継承させることができなかった。
奈良時代末、天武系天皇の血筋が絶えてしまい、 天智天皇の皇子・志貴皇子の子である光仁天皇が即位したことで、天智天皇の子孫が皇位継承することになったのだが。
もしかしたらそのような点から、中大兄皇子と達磨は同一視されたのかもしれない。
④塗り壁は達磨の妖怪?
だるまは正しくは菩提達磨といい、150歳まで生きたといわれる。
嵩山少林寺において壁に向かって9年坐禅を続けたとされる
このため、手足が腐ってしまったという伝説が生じた。
縁起物としてのだるまはここから作られた。
勝尾寺 だるま
達磨が9年座禅を続けて手足が腐ったという伝説は、達磨の壁観の誤解から生じたのではないかとする説がある。
壁観とは、「壁のように動ぜぬ境地で真理を観ずる禅」のことであるという。
塗り壁という妖怪がいる。
夜道を歩いていると、見えない壁が現れて進めなくなるが、棒で下の方を払うと消えるなどといわれる。 塗り壁はもしかして、壁観もしくは、達磨の妖怪だったりして?
『稲亭物怪録』より、『稲生物怪録』にある壁の怪異
※以前の記事の内容と重複する部分が多くあり、まとまりもありませんが、自分用として公開します。 ご容赦ください。
①竹田恒泰さんは「アイヌが13世紀に成立した」とする根拠を語っていない。
アイヌ人はいつ誕生したのか。 それを13世紀、日本でいえば鎌倉時代だという人がいる。
その理由について、竹田恒泰さんは全く語っておられなかった。
05:53 アイヌ人が北海道に現れたのは13世紀です。アイヌ文化は13世紀より前は存在しません
~略~
なんでこんなことが分かるかっていうのをですね、まあ徐々に見ていくだけなんですけども
とおっしゃるので、ずっと聞いたが、13世紀にアイヌ人が現れると考えられることについての根拠は述べられていない。
⓶擦文文化とアイヌ文化には断絶がある?
上の動画をみると、これについて、長濱浩明さんが、次のように理由を述べておられるようだ。 (実際に長濱さんの著書を読んだわけではないが、上記動画で長濱さんの説だといっている。)
①竪穴式住居は縄文時代に作られていたもので、その起源は1万年前まで遡る。
しかしアイヌ文化の担い手たちは掘立柱建物に住んでいた。
縄文時代にはこの形式は祭壇や見張り台に使用されていた。
1万年間竪穴式住居が作られてきた北海道の地でなぜ800年前から異なる方式の住居が作られるようになったのか。
縄文→続縄文→擦文の変化は段階的スムーズであるのに対し
擦文アイヌの変化には断絶がある
⓶アイヌ文化は北海道限定で出現しておりしかも得意なものでした。
アイヌ文様の独特の入れ墨の習慣のトリカブトの毒を使った毒矢による狩猟は本州には見られない
③アイヌ語と日本語は全く異なる言語である。
③擦文文化からアイヌ文化への移行はゆるやかで連続的。人間集団の交代を想定する研究者はいない。
これに対し、瀬川拓郎さんの「アイヌと縄文」には次のような内容が記されていた。
①擦文文化ののちの時代をアイヌ文化と呼んでいるが、ニブタニ文化と呼ぶべき。
②アイヌ文化とはアイヌ語、口承文芸、模様、祭祀、儀礼、生業など近世アイヌの生活文化全体をさす。
③考古学でいうアイヌ文化は擦文文化に続く平地住居・鉄鍋・漆塗椀などの物質文化の組み合わせをさす。
一般的な意味でのアイヌ文化とは異なる。
④考古学の文化の設定はその文化に特徴的な物質文化や遺跡がみつかった土地の地名をつける。
⑤アイヌ文化は民俗の名前をつけてしまったため、「13世紀になってアイヌ人がどこからかやってきた」と誤解が生じている。
⑥擦文文化からアイヌ文化への移行はゆるやかで連続的。人間集団の交代を想定する研究者はいない。
⑦よって、ニブタニ遺跡の名前にちなんで、ニブタニ文化と呼ぶべきである。
⑧11世紀ごろ、竪穴式住居が平地住居におきかわり、土器が漆器・鉄鍋におきかわったのは、日本海沿岸だけ。
その他の地域では12世紀から13世紀初めごろまで土器と竪穴住居が用いられていた。
少し瀬川さんの批判をさせていただくが、(擦文文化とアイヌ文化の継続性を否定するものではない) ニブタニ遺跡は15世紀から17世紀にかけての遺跡である。 この遺跡の名前を文化の名前につけてしまうと、やはり13世紀になってアイヌ人がどこからかやってきた、と誤解が生じそうである。
また、「擦文文化からアイヌ文化への移行はゆるやかで連続的。人間集団の交代を想定する研究者はいない。」という発言も 擦文文化とアイヌ文化の継続性についての具体的な説明がないので、懐疑的にとられてもやむをえないかもしれない。
④アイヌ文化の遺跡の下から擦文文化の遺構が発見されている。
擦文文化とアイヌ文化の継続性について、具体的な事例について述べている記事を見つけた。
擦文文化からアイヌ文化への雑穀農耕の継続性
研究機関 北海道開拓記念館
研究代表者
山田 悟郎 北海道開拓記念館, 総務部, 主任学芸員 (00113473)
13世紀から18世紀初頭にかけた石狩低地帯や日高地方、噴火湾岸のアイヌ文化期7遺跡から、コメを含めたヒエ、アワ、アサなど11種類の作物が出土している。
また、石狩地方や日高地方の1667年に噴出した樽前b火山灰や1739年に噴出した樽前a火山灰下から出土した鍬先や鋤先、鎌などの鉄製農機具や、
噴火湾岸で発見された1663年年に噴出した有珠b火山灰や1640年に噴出した駒ヶ岳d火山灰で直接埋積された畠跡の存在は、
アイヌ民族によって農具を使用して畝をもった畠が造られていたことを示している。
畠の規模は長さ10m前後の畝が10列前後からなる小規模なものだが、発見された砂丘上や台地上一面に広がっており、
小単位の畠が継続して造られていたことを示している。
畠跡の土壌からは寄生虫卵も検出されており、施肥を行っていたことも明らかになった。
また、アイヌ文化の遺跡で農耕活動の痕跡を辿ることができた8遺跡の内5遺跡では、
その下位から擦文文化の遺構や農耕活動に関わる遺物が発掘され、
擦文文化から近世初頭のアイヌ文化まで雑穀を栽培した農耕活動が継続していたことを示している。
石狩、日高と噴火湾岸には、交易品生産の傍らで農耕活動が行われ、擦文文化の要素が残存していた。
近世後半期の記録にはアイヌ民族によった農耕は、鍬や鋤などの農具を使用せず、畝をもった畠を造らず、施肥をせず、
除草もしない粗放的な農耕と記載されているが、自ら望んでそうしたのではなく、
1669年の「シャクシャインの戦い」後に松前藩によってアイヌ民族統治の強化や、
鉄製品の供給制限と粗製化の強行によって、アイヌ民族が鉄製農具を保持することが出来なくなった結果と考えられる。
アイヌ文化の遺跡の下から擦文文化の遺構が発見されているので 擦文文化からアイヌ文化への連続性が認められるということだろう。
しかし、この記事をよんでも、それはアイヌ文化の遺跡ではなく、和人の遺跡ではないか、という人がいそうである。 なぜアイヌの遺跡だとされているのかについての、説明がないためである。
⑤オホーツク文化は北海道北沿岸にも5世紀から9世紀ごろあった。
ハプログループには2つある。
Y染色体ハプログループ(父系) ミトコンドリアDNAハプログループ(母系)
そして、現代アイヌ人のY染色体ハプログループ、ミトコンドリアDNAハプログループは次のようになっている。
Y染色体ハプログループ(父系)/D1a2aが87.5%(うちD1a2a*が13/16=81.25%、D1a2a1aが1/6=6.25%)C2が12.5% D1a2aは縄文系 (※青森:38.5% 静岡:32.8% 徳島:25.7% 九州:26.4% 沖縄:55.6%)
ミトコンドリアDNAハプログループ(母系)/Ⅾ、G、M7a,M7bc、A、N9b、B、F,Yなど Yが20%ほどあり、このYは本土日本人や沖縄にはない。 Yはオホーツク文化人に多い。
現代アイヌ人にはミトコンドリアDNAハプログループ(母系)Yが20%ほどあり、 このYは本土日本人や沖縄にはなく、オホーツク文化人に多いため、アイヌは13世紀ごろにやってきたというのが 竹田恒泰さんの主張だったが、なぜ13世紀としているのかについての説明がなかった。
ところでこのオホーツク文化だが、実はこの文化は北海道北沿岸にも5世紀から9世紀ごろあったとされる。
ウィキペディアの記述は次のとおり。
擦文文化 つづいて、7世紀後半より土師器の影響を受けて縄文がなくなり、木片の刷毛で擦ったような文様の擦文式土器を特徴とする擦文時代となって、 この文化を8世紀までを前期、9世紀 - 10世紀を中期、12世紀頃までを後期の三期に区分する。 この文化は和人(本州以南の日本人)との交易によって、12世紀頃には鉄器を持ち、狩猟のほかに農業、漁労を営むアイヌ文化に成熟した。
オホーツク文化期
擦文文化が営まれていた頃、オホーツク海沿岸には、道東に漁業と海獣狩猟を中心とするオホーツク文化を持った人々が移住したが、 アイヌ文化が成熟した頃に姿を消した。 アイヌと完全に同化したか、アイヌに追われたものと考えられる。 この古代文化は、3世紀から13世紀に樺太、北海道のオホーツク海沿岸、千島列島に展開された。 うち北海道に分布するこの文化の遺跡の年代は5世紀から9世紀までと推測されている。
アイヌの2割にY1があるのは、擦文文化人が北海道のオホーツク文化人と交わった結果だと考えられているようだ。
すると擦文文化人とオホーツク文化人と交わったのは5世紀から9世紀(401年~900年頃)となって、竹田さんのいう13世紀ではないということになると思う。
日本の飛鳥時代は593年に始まる。 続く奈良時代は710年。
飛鳥時代ごろより本土人が北海道に進出しているとする史料はあるが、 401年~900年頃の北海道が日本であったと考えられるだろうか? かなり難しいのではないかと思う。
ウィキペディアの オホーツク文化を持った人々が移住したが、アイヌ文化が成熟した頃に姿を消した。 アイヌと完全に同化したか、アイヌに追われたものと考えられる。
という記述は、「擦文文化がアイヌ文化にゆるやかに移行した」「オホーツク文化はアイヌ文化とは別の特徴をもつ」 ということだろうが、 やはり、そのあたり、もっと視覚的に納得できる説明があったほうがいいのではないかと思った。

平取町立二風谷アイヌ文化博物館の外の復元チセ(住宅)の写真。二風谷、北海道
①「ハプログループY遺伝子」は間違いで誤解を招く。
よいブログ記事があったので、内容をまとめさせていただいた。
https://sicambre.at.webry.info/201910/article_5.html
これは擦文人との関係ではなくオホーツク文化人のハプログループY遺伝子を引き継いでいるという記事です。 つまりオホーツク文化人の男系遺伝子を引き継いだという証明。 すでに女系のmtDNAを引き継いでいる事は証明されているのでアイヌのホームタウンはアムール川流域である事を示していますね。
↑ ブログ主さんは、この記事に対して次の様に批判されている。
・「ハプログループY遺伝子」という用語からして不適切。
・ハプログループとは特定の遺伝子のことではない。 ・ハプログループの分類名の後に遺伝子をつけるような用語は不適切

アイヌのチセ(家)・内部(北海道、沙流川流域)
⓶Y染色体ハプログループ(父系)とミトコンドリアDNAハプログループ(母系)
確かにそのとおりである。(ニワカ知識なので、間違っている点があれば指摘してほしい)
DNA解析には二種類ある。ウィキペディアの記述に従って表記すると ・Y染色体ハプログループ・・・・・・・・・父系 ・ミトコンドリアDNAハプログループ・・・・母系
③ミトコンドリアDNAハプログループY(母系)≠ハプログループY遺伝子
アイヌ人のミトコンドリアDNAのタイプはⅮ、G、M7a,M7bc、A、N9b、B、F,Yなどである。 そのうちYが20%ほどあり、このYは本土日本人や沖縄にはない。 
https://www.ff-ainu.or.jp/about/files/2014_kouenkai3.pdf より引用
「オホーツク文化人のハプログループY遺伝子」というのは 正しくは「オホーツク文化人のミトコンドリアDNA Y」というべきであって、 「ハプログループY遺伝子」といってしまうと、父系のY染色体ハプログループのことだと勘違いさせてしまう。
ブログ主さんもこのようにおっしゃっている。 ・「オホーツク文化人の男系遺伝子を引き継いだという証明」となる研究ではない。 ・上記発言では「すでに女系のmtDNAを引き継いでいる事は証明されている」とあるが、それがこの研究を指している。
④Y染色体ハプログループにYはない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/Y%E6%9F%93%E8%89%B2%E4%BD%93%E3%83%8F%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%97
上記にY染色体ハプログループの系統樹が記されているが、ÅからRまでであって、現在のところYはない。 (増える可能性はある。)
⑤現代アイヌ人のY染色体ハプログループは縄文系で、オホーツク系ではない。
ニブフ(オホーツク文化人)のY染色体 ハプログループ(父系)は C2が71% O2が7.7%、Qが7.7%、D1が5.8%、O1aが3.8%、O1bが1.9%、Nが1.9%
アイヌのY染色体 ハプログループ(父系)は D1a2aが87.5%(うちD1a2a*が13/16=81.25%、D1a2a1aが1/6=6.25%)C2が12.5%
そして、D1a2aは日本固有のY染色体ハプログループであり、アイヌがとびぬけて割合が高い。 ちなみに各地の頻度は、 青森:38.5% 静岡:32.8% 徳島:25.7% 九州:26.4% 沖縄:55.6%
となっている。
また 北海道礼文島の船泊遺跡(縄文時代後期前葉から中葉(約3,800-3,500 年前))から出土した人骨・船泊5号のY染色体は、ハプログループD1a2a2a(D-CTS220)であった。 これにより「ハプログループD1a2a系統は縄文系である」という従来からの仮説が立証された。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%97D1a2a_(Y%E6%9F%93%E8%89%B2%E4%BD%93)#%E7%B8%84%E6%96%87%E4%BA%BA%E3%81%AE%E5%8F%A4%E4%BB%A3DNA
とあり、現在のところ、アイヌは縄文の血を濃く残すと考えられている。
⑥ハプログループの名前は何度も書き換えられている。
上記動画12:12 あたりで、次のような発言がある。 D1b系統は日本国内でしか見つかっていない。
これはD1b系統ではなく、D1a2aの間違いではないだろうか。
フィリピン・マクタン島
フィリピンのセブ州マクタン島ラプ=ラプ市において、D1a1,D1a2に属さない、ハプログループ【D1b】の人物が複数見つかっている。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%97D_(Y%E6%9F%93%E8%89%B2%E4%BD%93)#%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%83%94%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%82%AF%E3%82%BF%E3%83%B3%E5%B3%B6 より引用
日本
日本列島で見られる「ハプログループD1a2a」は、ハプログループDの中でも、M64.1/Page44.1, M55, M57, M179/Page31, M359.1/P41.1, P37.1, P190, 12f2.2など少なくとも8つの特徴的なSNP(一塩基多型)によって、4万年以上前に分岐している。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%97D_(Y%E6%9F%93%E8%89%B2%E4%BD%93)#%E6%97%A5%E6%9C%AC より引用
実はハプロタイプの名前はしょっちゅう書き換えられている。
ISOGGでの名称
2006年 ハプログループD2
2014年5月 ハプログループD1b (D1,D2,D3->D1a,D1b,D1c)
2019年6月 ハプログループD1a2 (D1a,D1c->D1a1a,D1a1b D1b->D1a2)
2020年4月 ハプログループD1a2a (D1a2,D1a3->D1a2a,D1a2b)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%97D1a2a_(Y%E6%9F%93%E8%89%B2%E4%BD%93) より引用
上はハプログループ名が書き換えられた時期について書かれている。
この動画で、「ハプログループD1b」 と言っているのは、2014年5月から2019年6月の間の呼称で 2019年に「ハプログループD1b」は「ハプログループD1a2」に、 2020年4月には「ハプログループD1a2」は「ハプログループD1a2a」と名称が変更されたということだと思う。
動画が公開された日付は2022年3月6日なので、チャンネル主さんはハプログループの名称が変更されたことを知らなかったのだろう。
⑦チャンネル主さんは、ミトコンドリアDNAハプログループY(母系)のことを、Y染色体ハプログループ(父系)と勘違いしていると思う。 20:12 アイヌの人たちって何者なんだって言われたりするわけですよ。 なぜなら縄文人がいたのは間違いないけども、オホーツク人って人たちもうわーっておりてきているから。 そこで駆逐されたから、先住民つっても違うんじゃねーのっていう説もあるんですけど DNA的に見たら明らかでオホーツク人と縄文人交わってるんですよ だって y 染色体だからね。 男性全員殺して女性だけっていうわけにいかない。
最初聞いた時、何を言っているのは意味が分からなかった。 y 染色体とおっしゃっているが、ミトコンドリアDNAのまちがいじゃないのかと。
それは正しいと思う。 きっとチャンネル主さんは、ミトコンドリアDNAハプログループY(母系)のことを、Y染色体ハプログループ(父系)と勘違いして「だってY染色体だからね」とおっしゃっているのだと思う。
申し訳ないけれど、この動画主さんは、遺伝子解析のことはあまりご存じなく、 誤解したまま誤った情報を拡散させている、ということだ。

⑧勘違いは誰にでもあるが、訂正や削除は必要
勘違いは誰にでもあるが、訂正や削除は必要だろう。
そうしなければ誤情報を拡散することになってしまうし、何より、「間違いがばれる」と恥ずかしい。
しかしそうは、考えない人がいて 間違ったことを平気で書き、間違いを指摘しても、訂正したり削除しない人が結構いる。
ある人気YouTuberさんに、「内容が大きく間違っているので、削除したほうがいい」とメールを出したこともあるが 放置されており、誤情報が拡散されつづけている。
しかし、そこはプライドをもって、削除する誠意を見せていただきたいところだ。 あなたの「日本素晴らしい論」はどこへ行ったのだ?
先に引用させたいただいたブログ主さんはこのようにおっしゃっている。
率直に言って、アカウントを削除してもおかしくないくらいの失態だと思うのですが、 こういう発言をする人は多くがふてぶてしいので、今後もアイヌ問題関連で遺伝学的研究を都合よく理解して、 というか誤認して恥ずかしい発言を続けるのでしょう。
https://sicambre.at.webry.info/201910/article_5.html より引用
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