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「アイヌは先住民族ではない」はまちがい。

640px-AinuGroup jpeg

1904 photograph of a group of Ainu people


ミトコンドリアDNAのみ語ってY染色体DNAを語らないのは変では(竹田学校)

↑ この記事のつづきです。


①先住民族の定義は明治以前


ウヨ系の論者などが「アイヌは先住民族ではない」として「アイヌ新法」を批判している。

前回も述べたように、私は「アイヌ新法」を批判するな、などというつもりはない。

問題にしているのは

「アイヌは13世紀ごろオホーツク系民族が北海道にやってきて、成立した民族なので先住民族ではない」という点についてである。


それが、明確にまちがいだといえる理由が、国立アイヌ民族博物館の記事に書いてあった。


アイヌ民族はなぜ先住民族と認められているのですか?

日本政府は、2019(令和元)年、「アイヌ施策推進法」(略称)でアイヌ民族を「先住民族」と規定しました。

その意味については2009(平成21)年7月にまとめられた『アイヌ政策のあり方に関する有識者懇談会報告書』が参考になります。

 それによれば、

「先住民族とは、一地域に、歴史的に国家の統治が及ぶ前から、国家を構成する多数民族と異なる文化とアイデンティティを持つ民族として居住し、
その後、その意に関わらずこの多数民族の支配を受けながらも、なお独自の文化とアイデンティティを喪失することなく同地域に居住している民族である
(下線は引用者が付加)

とされています。

アイヌの場合は、近代国家(明治政府)が形成される過程で、多数民族の支配を受け、

それでもなお独自の文化とアイデンティティを保持していることから、「先住民族」と考えることができるとされています。

つまり、アイヌ民族にとっては近代国家(明治政府)からの支配を受ける以前から、住んでいたことがポイントなのです。


https://nam.go.jp/inquiry/#q7-%e3%82%a2%e3%82%a4%e3%83%8c%e6%b0%91%e6%97%8f%e3%81%af%e3%81%aa%e3%81%9c%e5%85%88%e4%bd%8f%e6%b0%91%e6%97%8f%e3%81%a8%e8%aa%8d%e3%82%81%e3%82%89%e3%82%8c%e3%81%a6%e3%81%84%e3%82%8b%e3%81%ae  より引用

1878年(明治11年)、イギリス人旅行家・イザベラ・バードが北海道の日高地方でスケッチしたアイヌの男性。


⓶「アイヌが先住民族かどうか」より、「先住民族をどのように定義するべきか」述べる必要があった。


つまり国が規定する先住民族の定義とは明治以前に存在していたかどうかであって

この定義に従う以上、アイヌが鎌倉期にやってきたといくら言っても、

「アイヌが先住民族である」という事実は変わらないということになる。

「アイヌが先住民族である」と言うことに反論するのであれば、

「明治以前に存在していたかどうかで先住民族を規定するのはおかしい。なぜならば~」と論を展開しなければならない。

しかし、竹田さんはそのような論理展開をされていない。


③占有に直接関係する証拠が必用かも


しかし私は、先住民族の定義を明治以前とするのは、妥当だと思う。

(アイヌ新法が妥当と言う意味ではない。先住民族の定義を明治以前に設定する点において妥当といっている。)


たとえば、あなたがこう言われたとしたら、困惑するのではないだろうか。

「あなたの先祖が鎌倉時代にわれわれの土地を奪ったので、あなたが相続して所有している土地はあなたのものではない。」


「そんなこといわれたって、そんな古いことは知らないし、

第一鎌倉時代のあとに戦国時代があって、土地取り合戦やってるじゃん。

仮に私の先祖が土地を奪ったというのが事実としても、鎌倉時代から800年もたってるじゃん。時効だよ!」


そう思う人が多いのではないだろうか。


https://www.cas.go.jp/jp/ryodo/kenkyu/takeshima/chapter01_column_02.html


上記には次のような内容が記されている。


❶イギリスとフランスが、国際司法裁判所で、マンキエ・エクレオの帰属をめぐって争った。

❷両国間に係争領域の帰属を明記する条約がなく、互いに古くから当該領域を領有してきたと主張していた。

❸両国は、中世以降の歴史的事実に基づき、「古くからの権原」や「原始権原」を保持していると主張した。

❹ 裁判所によれば、決定的に重要なのは、中世の出来事から導かれる間接的な推定ではなく、占有に直接関係する証拠。

 (裁判記録、課税、土地の登記、関係法律の制定及び施設の構築)


この❹の規定を、むりやり北海道にあてはめれば、もっとも古く遡ったとしても松前藩成立ぐらいになりそうだ。


③アイヌの瞳は青いか


これについては

ミトコンドリアDNAのみ語ってY染色体DNAを語らないのは変では(竹田学校)

でも疑問を述べたのだが、こういう記事が見つかったので、追記しておく。

ただし、アイヌ人々の中に青い瞳の人はいないと結論づけたわけではない。


ロシア人探検家は古モンゴロイドであるアイヌ人の事を「毛深い」「浅黒い」「髪と目が黒い」と認識し、顎髭のあるロシアの貧農、もしくはロマに似ていると記している。

より引用


④擦文文化からアイヌ文化が繋がっていることを示す記事


前回も詳しく述べたように、

DNAハプロタイプには、父系(Y遺伝子DNA)と 母系(ミトコンドリアDNA)があり

Y1は母刑だが、父系でみると、アイヌ人は縄文系の80%が縄文系のハプログループD1a2aを持っているのだ。

母系のみ語って父系は語らないでもいいのだろうか。

やはり両方の遺伝子で語る必用があるように思う。


母系でみれば、たしかに現代アイヌ人には縄文人や弥生人にはないミトコンドリアDNA Y1を持つ人が20%いる。
おそらくオホーツク文化人との交流によるものだろうが、それがいつ入ったのか、わからない。
あくまでも、Y1を持っているのは、現代のアイヌ人の方々であって、古のアイヌ人ではないのである。


弥生時代に渡来人が九州あたりにやってきて、渡来系弥生人、縄文系弥生人、両者の混血 などに寄って弥生人は形成された。

しかし北海道は稲作に適さないので、渡来人が及ばなかった。

この弥生時代にオホーツク文化人がやってきたのかもしれないし、擦文時代にやってきたのかもしれない。

13世紀ごろにオホーツク文化人がやってきたとは言い切れない。


また、13世紀ごろにオホーツク文化人がやってきて、縄文人と混血してアイヌが形成されたのだとしても

日本人だって、縄文人と弥生人が混血しているので、

アイヌが先住民族ではないと言うならば、日本人も先住民族ではないといわなければおかしいことになる。


竹田さんはオホーツク文化人が13世紀にやってきたとおっしゃっているが、
それは擦文文化とアイヌ文化の変わり目が13世紀となっていることから判断したに過ぎないと思う。

なぜなら、竹田さんはなぜ13世紀にオホーツク文化がやってきてアイヌになったといえるのか

一切の説明をされていないからだ。


そして、ウィキには次のように記されている。

・アイヌは、人類学的には日本列島の北海道縄文人と近く、約3万8千年前に海を渡った本州以南との交易も行われた。
・7世紀以降、東北地方から石狩低地帯への古墳文化人の子孫の移住が見られる。
移住者たちは江別古墳群や祭祀に用いる語彙などの痕跡を残したが、地元人と同化したとみられている。
この頃より続縄文文化が変化して擦文土器に代表される擦文文化が始まっている。
古代の文書に記された「蝦夷」にアイヌが含まれていたかどうかには議論があるが、
これら擦文文化やオホーツク文化は、アイヌ文化の原型が見られるものである
13~14世紀頃には狩猟・漁撈・採集と一部の農耕を組み合わせ、交易を行うアイヌの文化的特色が形成された

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%8C#%E6%AD%B4%E5%8F%B2 より引用


石狩アイヌは、シュムクルの居住圏である千歳川流域を除く石狩川流域一帯(ほぼ石狩国に相当する)を居住地とする集団。
石狩川流域は擦文時代から鮭漁で栄えた地域であり、先住の擦文集団と後に移住してきた奥羽アイヌが交わる形で成立したのではないかと考えられている。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%B5%B7%E9%81%93%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%8C#%E7%9F%B3%E7%8B%A9%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%8C%EF%BC%88%E3%82%A4%E3%82%B7%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%83%AB%EF%BC%89

より引用


ウィキの記述が間違っている可能性もないとはいえないが、こんな記事もある。


擦文文化からアイヌ文化への雑穀農耕の継続性
研究機関 北海道開拓記念館
研究代表者

山田 悟郎 北海道開拓記念館, 総務部, 主任学芸員 (00113473)


13世紀から18世紀初頭にかけた石狩低地帯や日高地方、噴火湾岸のアイヌ文化期7遺跡から、コメを含めたヒエ、アワ、アサなど11種類の作物が出土している。
また、石狩地方や日高地方の1667年に噴出した樽前b火山灰や1739年に噴出した樽前a火山灰下から出土した鍬先や鋤先、鎌などの鉄製農機具や、
噴火湾岸で発見された1663年年に噴出した有珠b火山灰や1640年に噴出した駒ヶ岳d火山灰で直接埋積された畠跡の存在は、
アイヌ民族によって農具を使用して畝をもった畠が造られていたことを示している。
畠の規模は長さ10m前後の畝が10列前後からなる小規模なものだが、発見された砂丘上や台地上一面に広がっており、
小単位の畠が継続して造られていたことを示している。
畠跡の土壌からは寄生虫卵も検出されており、施肥を行っていたことも明らかになった。

また、アイヌ文化の遺跡で農耕活動の痕跡を辿ることができた8遺跡の内5遺跡では、
その下位から擦文文化の遺構や農耕活動に関わる遺物が発掘され、
擦文文化から近世初頭のアイヌ文化まで雑穀を栽培した農耕活動が継続していたことを示している。

石狩、日高と噴火湾岸には、交易品生産の傍らで農耕活動が行われ、擦文文化の要素が残存していた。

近世後半期の記録にはアイヌ民族によった農耕は、鍬や鋤などの農具を使用せず、畝をもった畠を造らず、施肥をせず、
除草もしない粗放的な農耕と記載されているが、自ら望んでそうしたのではなく、
1669年の「シャクシャインの戦い」後に松前藩によってアイヌ民族統治の強化や、
鉄製品の供給制限と粗製化の強行によって、アイヌ民族が鉄製農具を保持することが出来なくなった結果と考えられる。

https://kaken.nii.ac.jp/ja/report/KAKENHI-PROJECT-10610405/106104052001kenkyu_seika_hokoku_gaiyo/ より引用


あるいは、擦文文化を滅ぼした上にアイヌ文化を作ったのではないかといいう人がいるかもしれないが

遺跡に争ったあとがあれば、それについて書いてあるはずだと思う。

書いていないということは、争ったあとがないということだろう。


今後研究が進んで、新発見などがあり、アイヌは13世紀にオホーツク文化人がやってきたというようなことにならないとも限らないが、

現状は擦文文化とアイヌ文化は連続していると考えられているのではないかと思う。



トンデモもののけ辞典㊸ 太陽、月を食べる天狗(星の神)

日食2

部分日食 あいにくの曇り空でした。

①天狗食日食月信仰


こちらの記事で、こんなことを書いた。

⓶天の犬が日月を食って日食・月食がおこる。
中国には「天狗食日食月信仰」なるものがあるそうである。
それは次のような内容である。
日神と月神が、人間の起死回生の薬を盗んだので、人々は犬に日と月と追いかけさせた。
日神と月神は薬を飲んでいたので、犬が噛んでも死なないが、犬は追いかけて日月を食う。
そのため日食・月食がおこる。(紅河イ族辞典)

舒明天皇九年(637年)の記事に次のような記述がある。
大きな星が東から西に流れ、雷に似た音がした。
僧旻は 「あれは流星ではなく天狗(アマツキツネ)だ」 と言った。

流星のようなものをみて、僧旻は天狗といっている。
つまり、犬=流星が日月を食べるのが原因で日食・月食がおこるということだろう。

これに関することで思いついたことがあるので書いておきたいと思う。

月食

法起寺 月食(合成)

⓶スサノオは星の神

日本で日神・月神といえば、天照大神と月読命である。
記紀によれば
イザナギが左目を洗ったところ天照大神が、月読命の右目を洗ったところ月読命が、鼻を洗ったところスサノオがうまれたという。

一方陰陽道の宇宙観によると、東は太陽の定位置、西は月の定位置、中央は星とするのだという。


西福寺

上は西福寺の熊野歓心十界曼荼羅も、左が日、右が月になっている。
上部の黄色の〇は日、灰色の〇は月である。

日は右で、月は左じゃないかと言われるかもしれないが、
それは正しくは 日は向かって右、月はむかって左なのであって、絵の側にたてば日は左、月は右となる。

高松塚古墳、キトラ古墳には日像、月像、星宿が描かれているが、この陰陽道の宇宙観のとおりに描かれている。

つまり、イザナギの顔は宇宙(天)なのだ。
すると、イザナギの顔の中央にある鼻から生まれたスサノオは星の神ということになる。

船場俊昭さんは次のようにおっしゃている。
スサノオを漢字で書くと素戔鳴尊となるが「輝ける(素)ものを失って(戔)ああ(鳴)と嘆き悲しむ神(尊)」という意味で、スサノオはもともとは星の神だったのが、のちに星の神という神格を奪われたのてはないかと。

※素は白と言う意味もあり、明るいので、船場さんは「輝く」という意味だとしたのだろう。

金環日食

金環日食

③星の神(スサノオ・天津甕星)と天照大神のトラブル

スサノオは、天照大神の田の畔を壊し、溝を埋め、神殿に糞をするなどした。
また、機織場に馬の逆剥ぎを放り込み、それに驚いた一人の織女が杼でほとをついて死んだ。
この事件がきっかけで天照大神は天の岩屋戸に隠れてしまい、高天原は闇になった。
アメノウズメが岩戸の前でストリップダンスをし、八百万の神々がどっと笑ったので、天照大神は岩戸を少しあけて外を伺った。
天岩戸の前に置かれた鏡に天照大神の姿が移り、天照大神が不思議におもっているところをアメノフトダマが天照大神を引っ張り出した。
こうして高天原や葦原中国もは明るくなった。
八百万の神々は、スサノオの髭を切り、手足の爪を抜いて高天原を追放した。

スサノオは天照大神と対立関係にあったのである。

④星の神は日神と対立する?

天津甕星と言う神がいる。
不思議なことに記紀神話には星の神はこの天津甕星たった一柱しか登場しない。
そして、この天津甕星もまた天照大神と対立する神であり
天照大神の葦原中国平定に最後まで抵抗した神と記されている。

どうやら星の神は、天照大神に抵抗する神のようである。

天照大神に抵抗する神という点において、スサノオと天津甕星はイメージが重なる。
このことからも、スサノオは星の神ではないかと思われるのである。

スサノオはイザナギから「大海原を治めよ」と命じられている。
星は航海の指標とされた。
海(航海)の神は星の神の二次的な神格ではないかと思われる。

このように考えたとき、日や月を天狗(流星)が食べるというのは
太陽神である天照大神が、星の神であるスサノオが食べることと同じ話であるかのように思えてくる。

⑤星の神(スサノオ)とオオゲツヒメのトラブル

スサノオは天照大神だけでなくオオゲツヒメともトラブルをおこしている。

高天原を追放されたスサノオはお腹がすいたので、オオゲツヒメに食べ物を求めた。
オオゲツヒメは様々な食べ物をスサノオに与えた。
オオゲツヒメは鼻や口、尻から食材を取り出し、それを調理していたのだった。
スサノオは「よくもそんな汚い物を食べさせやがって!」と怒ってオオゲツヒメを殺した。
オオゲツヒメの死体の頭から蚕が、目から稲が、耳から粟が、鼻から小豆が、陰部から麦が、尻から大豆が生まれた。


⑥オオゲツヒメは月の神?


オオゲツヒメは大宜都比売、大気都比売神、大宜津比売神、大気津比売神のように表記されているが
もともとは大月姫だったのではないかと私は考えている。

その理由を説明する。

月読命はイザナギの御子神(性別不明)だが
オオゲツヒメはイザナギとイザナミの間に生まれた娘である。
二神は交わって国産みをして、その際、一身四面の神・伊予之二名島(四国)を産むのだが
その中の阿波国の別名が大宜都比売となっている。

月読命とオオゲツヒメはどちらもイザナギの御子神なのである。

そして阿波という地名は、粟が多く生産されていたためだとされるが、

粟

上の写真を見ればわかるように、粟の穂がは三日月の形をしている。
阿波国の別名がオオゲツヒメなのは、粟の穂が三日月の形をしているためではないだろうか。

そういうわけで、オオゲツヒメとは大月姫で、月の神ではないかと思うのである。

⑦スサノオは日神・月神を食う犬(流星)?

天照大神とスサノオのトラブルについてはすでに記したが、このとき、スサノオは天照大神を殺したのではないかと思う。

スサノオは、機織場に馬の逆剥ぎを放り込み、それに驚いた一人の織女が杼でほとをついて死んだ。
のだった。

この織女とは天照大神のことだとも考えられるからだ。

スサノオと天照大神は天の安川をはさんで、うけいの子産みをしている。
天の安川を天の川とすれば、スサノオは彦星、天照大神は織姫なのか、と思える。(日神が星神に変身したということになるが)
そして、杼でほとをついて死んだ織女とは天照大神自身の事ではないかと思えてくるのである。

そして、その後天照大神は天岩戸に籠るのだが、天岩戸は石室のイメージだ。
天照大神は死んで石室に葬られているのではないか?

すると、星の神スサノオは、日神(天照大神)も月神(オオゲツヒメ)も殺しているということになる。
これは天狗食日食月信仰と同じである。

日神(天照大神)と月神(オオゲツヒメ)は薬を飲んでいたので、犬(スサノオ)が噛んでも死なないが、犬は追いかけて日月を食う。

⑧日食・月食が起こると星が輝きをます。

なぜ星にくわれて日食・月食がおこるなどと言う伝説ができたのだろうか。

月食が起こって月が見えなくなると星がよく見える。
日食が起こると夜のように暗くなって星が見えると聞いたこともある。
当然流星も見えただろう。

つまり星が日月の輝きを奪ったと昔の人は考え、それをを「犬が食べる」と表現して、このような伝説が作られたのではないだろうか。







ミトコンドリアDNAのみ語ってY染色体DNAを語らないのは変では(竹田学校)※追記1、追記2あり


①アイヌは目が青いのか?

00:30 よく言われるのはアイヌ人てみた感じもちょっと普通の日本人と違うと。目が青い。

アイヌ人だけでなく、東北地方にも青い目の人がいると聞いたことはあるが、お会いしたことがなくよくわからない。
アイヌ人の方々の写真を見ると黒い瞳をしておられるように見える。多くのアイヌ人の瞳は黒いのではないだろうか。

⓶アイヌ語が別言語は事実

00:41 それからアイヌ語はこれ明らかに日本語じゃないんですよね。文法も違うわけですよ。

アイヌ語が日本語とはかなり異なる言語であることは確かなようだ。
この件について竹田さんは詳しく説明されていない。
下記動画が詳しい。

 

アイヌ語について述べられたところをまとめてみる。

基本的なアイヌ語の単語は日本語に似ていない。
あえて探せばそれらしい単語も見つかるが、少数。
文法もアイヌ語と日本語は全く異なる。
基本的な文系は sov 主語目的語動詞の順でこの点は日本語と同じ。
❺抱合語。東シベリア・アメリカ先住民族・シベリア諸語・アメリカ先住民署語などと共通の特徴を持つ。
動詞に主語及び目的語 (授与動詞では間接目的語も)の人称および数を示す接辞がつけられ
さらにその他の意味を加える接辞(動詞の相や体、先行名詞との関係を示す関係詞的なものなど)
が付加されて動詞だけでも文に相当する表現が可能。
なお名詞でも体の部分など特に個人と切り離せない関係にあるものには、所有者を示す所有接辞が必須的に付加される。
❻20進法。
60・・・3つの20と表現
フランス語も20進法

文章を読んでもよくわからないが、とにかく日本語とはちがうということは理解できるw

つまり竹田さんが「アイヌ語はこれ明らかに日本語じゃないんですよね。」といっているのは正しいということである。

③純粋に歴史学、考古学として考えてみる。

01:11 近年は法律もできましたね。アイヌを特別扱いするというそういう法律もできましたし
アイヌは日本の北海道の先住民族だという話もありまして、しかもそれにいいタイミングでですね
いまいましいことにロシアがアイヌ人というのは自分たちの同じ系統なんだと
ロシア系なんだなんてことを言い始めちゃって
要するに北海道もロシアの領土だと言いたいみたいですね。

「アイヌを特別扱いする法律」とは「アイヌ新法」のことを言っているのだろう。

「アイヌ民族支援法」(アイヌ新法)はアイヌの人びとを日本列島北部周辺、とりわけ北海道の先住民族であるとの認識を示し、
アイヌの人びとの誇りが尊重される社会を実現するための施策の推進について国や自治体が責務を負うことを定めています。

例えば、地域の活性化を目指してアイヌ文化を活かした事業を計画する市町村が国の認定を受けて交付金を受給する仕組みや、
独自の文化を継承していくためにアイヌ民族の儀式で用いる樹木の国有林での採取や、自治体の許可が必要な川での伝統的なサケ漁の手続きの簡素化などの規制緩和も盛り込まれています。


「ロシアがアイヌ人というのは自分たちの同じ系統なんだと、ロシア系なんだなんてことを言い始めちゃって」
というのは、この記事のことを言っているのだと思う。

プーチン氏は以前、『アイヌ民族をロシアの先住民族に認定する』という考えを示した(2018年12月、モスクワでの人権評議会)。
北方領土への不法占拠が続くなか、今度は北海道が危ない。
ロシアが『アイヌ民族保護』を名目に北海道に乗り込んでくる危険性がある。
ロシアのような独裁国家が今回と同じく、自国民の保護を名目に他国を力で侵略し、国家承認することがまかり通れば、
世界の秩序は完全に崩壊する。日本を含む国際社会はこれ以上、プーチン氏を増長させてはならない。


また モシㇼ コㇽ カムイの会 がプーチンにこんな書簡を送ったという記事もある。
(実際におくったのかどうか、この団体がどのくらいの規模なのかについては不明)

・クリル諸島をアイヌ民族の自治州/区としてください。
・クリル諸島沿海域をアイヌ民族による漁業資源管理エリアとしてください。
・クリル諸島の自然環境を保全してください。とくに南クリル地域については、UNESCO世界自然遺産登録地である知床半島(北海道島)との一体的な保全管理をご検討ください


歴史と政治には密接な関係があるが、政治的意図を念頭においた歴史学・考古学は、学問ではなく
プロパカンダ(特定の思想・世論・意識・行動へ誘導する意図を持った行為)である。

ここでは、このような事情はいったんおいておいて、ここでは純粋に歴史学・考古学として考えてみたい。
(歴史・考古学に無知な私が言うのも変だがw)

④岩宿時代にアイヌはいなかったが、日本人もいなかった。

02:22 岩宿時代は石器が作られたり3万8000年前から始まりましたよね。
この時どんな時代だったかということなんですけども、3万8000年前は今と違って寒冷期ですので
とても寒くて海面の高さが今よりだいぶ低かったわけなんですね。
~略~
本州・北海道そして樺太・大陸というのはですね、ひとつの通路のようにつながっていたという風に見られます。
~略~
岩宿時代ねこの時代に、3万8000年前から始まったこの岩宿時代に、北海道に住んでたの何人でしょうか。
岩宿人なんですね。
前回ね、ちょっと言いましたけどもまあいろんないくつかの系統の人が日本列島に来て、
うほうほとかから始まって気づいたら共通の言葉を持つようになったって話をしましたよね。
そして北海道から沖縄までほぼ均一の文化になったんですね。
同じように磨製石器を作るようになり、磨製石器が出る遺跡は北海道から沖縄へ出るんですね。
~略~
岩宿時代はアイヌ人は北海道には住んでません。

3万8000年前の地図を調べたが、本州・北海道そして樺太・大陸が繋がっているというのは、そのとおりだった。
岩宿時代に、北海道にアイヌ人が住んでいなかったというのもそのとおりだろう。
但し、日本人も住んでいなかったと言える。

その理由を説明する。

岩宿時代の後の時代、縄文時代には、日本列島には縄文人が住んでいた。
その後縄文時代が終わって弥生時代になり、弥生時代には日本列島には弥生人が住んでいたとされる。

その弥生人は大きく分けて3種類あったと考えられる。
①縄文系弥生人
⓶渡来系弥生人
③①と⓶の混血

「NHKが縄文人を加工して弥生人と偽った」という誤った情報が拡散されているので
納得できない人も多いかもしれない。

しかし「NHKが縄文人を加工して弥生人と偽った」というのは、デマであって、NHKの本の写真は加工されていないし、ある人が「NHKが加工した」と主張する写真のタイトルは、弥生人ではなく、縄文人なので
「縄文人を加工して縄文人と偽った」と言うおかしな主張になってしまう。
放送のほうで縄文人と弥生人を比較した映像はあったが、CGであり、その人が見せているような写真ではない。
またCGを作成したのはNHKではなく、ひとりの研究者である。

これについては下記記事で詳しく説明したので参照してほしい。

またこのような記事がある。

東京でサンプルを取った本州の人々では縄文人のゲノムを約10%受け継ぐ一方、北海道のアイヌの人たちでは割合が約7割、沖縄県の人たちで約3割だった。

本州の人々は縄文人のゲノムを10%しか持っていないのだ。
渡来人がやってきたということがなければ、もっと多くの現代人が縄文人ゲノムをもっているはずだと思うが、どうだろうか。
そして弥生時代初期の人骨が、同時期の中国で発見される人骨に似ている、などの研究もあって
弥生時代に渡来人がやってきたと考えられているのである。

そして弥生時代を経たのちに国らしいものが成立する。

一方、北海道は寒冷な気候が稲作に向かなかったため、渡来人は北海道まで足をのばすということはなかったと考えられている。
おそらくだが、渡来人の特徴を持った人骨が北海道では発見されていないということではないかと思った。

簡単に書くとこんな感じになる。

本州以南・・・岩宿人→縄文人→弥生人(渡来人と縄文系の混血がすすむ)→ 日本人
北海道・・・・岩宿人→縄文人→続縄文時代(アイヌ人?)→擦文文化(アイヌ人?)→アイヌ人

これで岩宿時代人や、縄文人が日本人とはいえないことが理解していただけたと思う。

⑤なぜアイヌが13世紀に現れたといえるのか。

05:53 アイヌ人が北海道に現れたのは13世紀です。アイヌ文化は13世紀より前は存在しません
~略~
なんでこんなことが分かるかっていうのをですね、まあ徐々に見ていくだけなんですけども

とおっしゃるので、ずっと聞いたが、13世紀にアイヌ人が現れることについての根拠は述べられていない。

これについても、上の動画 /何??「アイヌは先住民族ではない」→???→調べてみた。
で説明されている。

内容をまとめてみる。

①竪穴式住居は縄文時代に作られていたもので、その起源は1万年前まで遡る。
しかしアイヌ文化の担い手たちは掘立柱建物に住んでいた。
縄文時代にはこの形式は祭壇や見張り台に使用されていた。
1万年間竪穴式住居が作られてきた北海道の地でなぜ800年前から異なる方式の住居が作られるようになったのか。
縄文→続縄文→擦文の変化は段階的スムーズであるのに対し
擦文アイヌの変化には断絶がある

⓶アイヌ文化は北海道限定で出現しておりしかも得意なものでした。
アイヌ文様の独特の入れ墨の習慣のトリカブトの毒を使った毒矢による狩猟は本州には見られない

これに対し、瀬川拓郎さんの「アイヌと縄文」には次のような内容が記されていた。

①擦文文化ののちの時代をアイヌ文化と呼んでいるが、ニブタニ文化と呼ぶべき。
②アイヌ文化とはアイヌ語、口承文芸、模様、祭祀、儀礼、生業など近世アイヌの生活文化全体をさす。
③考古学でいうアイヌ文化は擦文文化に続く平地住居・鉄鍋・漆塗椀などの物質文化の組み合わせをさす。
一般的な意味でのアイヌ文化とは異なる。
④考古学の文化の設定はその文化に特徴的な物質文化や遺跡がみつかった土地の地名をつける。
⑤アイヌ文化は民俗の名前をつけてしまったため、「13世紀になってアイヌ人がどこからかやってきた」と誤解が生じている。
⑥擦文文化からアイヌ文化への移行はゆるやかで連続的。人間集団の交代を想定する研究者はいない。
⑦よって、ニブタニ遺跡の名前にちなんで、ニブタニ文化と呼ぶべきである。
⑧11世紀ごろ、竪穴式住居が平地住居におきかわり、土器が漆器・鉄鍋におきかわったのは、日本海沿岸だけ。
その他の地域では12世紀から13世紀初めごろまで土器と竪穴住居が用いられていた。

⑥アイヌははプログループY1を20%持っている。

竹田さんの話の続きを聞いてみよう。

岩宿時代北海道に住んでいたのは北海道岩宿人であり、その子孫が北海道縄文人ですよ。
それが北方からやってきたオホーツク人、このオホーツク人って結構凶暴なんですよね。
そしてガンガン北海道に来て、殺戮しまくって、北海道縄文人をたぶん犯しまくったんですよ。
それで一時期この5世紀から10世紀って書いてありますけど、北海道のほぼ全土がオホーツク文化に入れ替わったんですね。
もともとの縄文文化がほぼ消滅して完全にオホーツク文化になっちゃったんですよ
でオホーツク文化ってどういう人達かというとシベリアの沿海、それから樺太・カムチャッカ、
ここらへんが、オホーツク文化なんですね。
このオホーツク文化の人たちが北海道に上陸して、侵略してほぼ制圧しちゃったのがこの約500年間で5世紀から10世記

その時にオホーツク文化人と北海道縄文人の混血がどんどん進んでいきます

あのアイヌ人のミトコンドリア dna のですねうち2割の頻度で現れるのが y 1なんですよ。
 y 1っていうのはまさにこれなんです。オホーツク文化。
これを明らかにわかりますオホーツク周辺のですね、少数民族でいうと、たとえばニヴフっていう民族ありますけど
ニブニの7割が y 1持っています。ウリチの約4割。ネギタールの2割。
オホーツク周辺の民族の多くはy1を持っているので、y1の震源地は地はオホーツク文化ですね
アイヌ人のミトコンドリア dna の2割にこのy1が現れる。
もともと縄文人はy1なんかないんで、y1というのはオホーツク文化の担い手なんですね
だか縄文人とオホーツク文化人が混血混血混血て進んでいくと、その後江戸時代近世以降アイヌ人にy1が現れる。
これはもう完全にオホーツクの血筋が入り込んでいるということですね
だから元々の縄文人の血統にオホーツク文化の血統が完全に混血してアイヌ人ができたということがもうミトコンドリア dna のハプログループからわかるんですよね

ハプログループy1(ミトコンドリアDNA)について、ウィキには次のように記されていた。
※ミトコンドリアDNA(mtDNA)は母系で遺伝するハプログループ。母親から娘にも息子にも伝えられる。
父系で遺伝するY染色体のハプログループもある。

ハプログループYのうちY1系統はオホーツク海周辺の民族で高頻度である。ニヴフに約66%、ウリチに約38%、ネギダールに約21%、アイヌに約20%である 。
またカムチャツカ半島の先住民(コリヤーク人、イテリメン族)にもみられる。

Y2系統
インドネシアやフィリピンにはY2系統が分布している。

アイヌとオホーツク人
アイヌはハプログープYを持つが、縄文人には全く観察されていない。
いっぽうオホーツク人のなかにハプログループYが確認され、アイヌ民族とオホーツク人との遺伝的共通性が判明した。


竹田さんはこのことを言っていたのだ。
アイヌが縄文人にはないハプログループY1を持っていることは間違いないだろう。

⑦ハプログループY1の情報だけでは不十分では

アイヌ人はY1を2割の人が持っていて、オホーツク人の血をひいていることはわかった。
しかし、それは2割であって、8割の人はもっていないのに、
オホーツク人が縄文人を殺し、縄文人の女性を犯しまくって、北海道のほぼ全土がオホーツク文化に入れ替わったのが
アイヌ人だと言えるんだろうか?

そして、アイヌ人は縄文人のゲノムを70%を、本州は10%を、沖縄は30%を引き継ぐという記事もあるのだが?

東京でサンプルを取った本州の人々では縄文人のゲノムを約10%受け継ぐ一方、北海道のアイヌの人たちでは割合が約7割、沖縄県の人たちで約3割だった。


ゲノムとは、遺伝子(gene)と染色体(chromosome)から合成された言葉で、DNAのすべての遺伝情報のことです。
遺伝とは、たとえば鼻の形が似ている、ある病気にかかりやすいなどの、親の生物学的な特徴が子供に伝わることで、
それを伝えるDNAの特定の部分が遺伝子です。


⑧アイヌの80%が縄文系のハプログループD1a2a

ハプログループD1a2a (Y染色体)をウィキで調べたところ次のように書いてあった。

各地における頻度
日本各地で高い頻度を誇るが、特に東日本や沖縄(八重山除く)に多い。

青森:38.5%
静岡:32.8%
徳島:25.7%
九州:26.4%
沖縄:55.6%
(Hammer et al. 2006)

アイヌ:87.5%(Tajima et al. 2004)
また、国外では韓国、ミクロネシア、ティモール島などで低頻度にみられる。

ミクロネシア:5.9%(1/17; Hammer et al. 2006)
韓国:4.0% (3/75; Hammer et al. 2006)
ティモール島:0.2%(Meryanne et al. 2014)
縄文人の古代DNA
北海道礼文島の船泊遺跡(縄文時代後期前葉から中葉(約3,800-3,500 年前))から出土した人骨・船泊5号のY染色体は、ハプログループD1a2a2a(D-CTS220)であった。これにより「ハプログループD1a2a系統は縄文系である」という従来からの仮説が立証された。


竹田さんはオホーツク系のハプログループy1(ミトコンドリアDNA)がアイヌの20%あるので
アイヌは縄文人ではない、と結論づけていたが

縄文系のハプログループD1a2a (Y染色体)を見ると、アイヌの80%もっている。
これを竹田さんは、どう説明するのか?

新しい発見があって、もしかするとアイヌ人は元寇で逃げてきた人々だった、なんてことにならないとも限らないが
論法としておかしいと思う。

※追記 「現在アイヌと名乗っている人は実際にはアイヌではない」と言う意見もある。
この場合、縄文系のハプログループD1a2a (Y染色体)をアイヌの80%がもっているというが
この80%は非アイヌだという主張ですね。(勘違いしていました。すいません)
そうであれば、竹田さんのハプログループによる説明ではなく、アイヌがアイヌではないことの証明が必用となるだろう。

※追記2
No nameさんよりコメントをいただき、記事を紹介していただいた。(ありがとうございました。)

 現在、北海道で確認されている最も古い人類の足跡は、約2万2000年前の後期旧石器時代です。それは、地球規模の最後の氷河期で、大雪山や日高山脈は氷河や万年雪でおおわれていました。海水面は現在より約80~100m前後も低く、宗谷海峡は陸橋として北方大陸と陸続きとなっており、当時、北の厳しい氷河気候から逃れてきた動物を追って人類が北海道にやってきたと考えられています。
 約1万2000年前ころから世界的に気候が温暖化し、氷河期は終わりを告げます。日本各地ではこのころから縄文式土器を使用した狩猟・漁労・採集を基盤とした縄文文化がおこり、約1万年にわたり続きます。様似町(アポイ岳ジオパーク)でも、縄文後期(約3,000年前)ごろを中心とした遺跡が28か所確認されています。


私は上の文章に次の様に書いた。
・竹田恒泰さんの発言
岩宿時代北海道に住んでいたのは北海道岩宿人であり、その子孫が北海道縄文人ですよ。
それが北方からやってきたオホーツク人、このオホーツク人って結構凶暴なんですよね。
そしてガンガン北海道に来て、殺戮しまくって、北海道縄文人をたぶん犯しまくったんですよ。
それで一時期この5世紀から10世紀って書いてありますけど、北海道のほぼ全土がオホーツク文化に入れ替わったんですね。

しかし、どうやら岩宿時代に北海道には人が住んでいたことは確認されておらず、無人であったと考えられているようだ。
すると、どうなるだろう?
次のような可能性が考えられるだろうか。

①岩宿時代人は縄文人ではなく、遅れてやってきた縄文人に駆逐された。(岩宿時代人はY染色体ハプログループC?)
⓶岩宿時代人は本州で縄文人となり、北海道へ渡って縄文人となり、アイヌ人となった。
(アイヌの80%が縄文系のY染色体ハプログループD1a2aをもっている。)

竹田氏は
そしてガンガン北海道に来て、殺戮しまくって、北海道縄文人をたぶん犯しまくったんですよ。
それで一時期この5世紀から10世紀って書いてありますけど、北海道のほぼ全土がオホーツク文化に入れ替わったんですね。
とおっしゃっていて、アイヌ人はオホーツク人の子孫だといいたいようである。
しかし、すでに述べたように、アイヌの80%が縄文系のY染色体ハプログループD1a2aをもっている。
ということは、アイヌは縄文人の子孫だといえる。

寒冷な気候の北海道では稲作ができず、弥生文化は伝播せず、縄文時代から擦文時代へ移行する。
北海道にオホーツク文化人がやってきたことは事実だが、駆逐されたのは擦文文化人ではなく、オホーツク文化人のほうだとされている。
そしてこの擦文文化がアイヌ文化へ移行したと考えられている。

日本人が最も早く人間になったとはいえない(竹田学校)※追記あり


①砂原遺跡11万年前の遺跡を作ったのは旧人の可能性が高い。

03:24
朝鮮半島では(発掘された最古の打製石器)が50万年前だ、中国では100万年だとか言っているわけです。
ほんまかいな、というところなんですけれども。
そこでですね、まぁちょっと考えてみたいんですが
分子生物学という学問がありまして、近年、大体20年ぐらいの間ですかね、猛烈な勢いで進化してきました。
人間の過去の営みを知る上でですね、
色んな出土物を調べて、だいたいこの地層からでだから何万年前ここにこんな人がいたんだろうなとかっていう
のはわかるんですけれども
それとは別の角度で、人間の遺伝子情報を解析していきまして、そこで人類のどの人たちがどこで混血したのか
どの時期にどう映ってきたのかっていうのがかなり克明にわかるようになってきたんですね。
分子生物学でどういうふうに何がわかるかっていう具体的なことはまた次回以降やりますけれども
人類はかつて全部アフリカにいたらしいんですね。
そして現世人類、つまりかつての猿と人間の中間みたいなのではなくて
私たちと同じような姿形。ホモサピエンス、現世人類と言いますけども、現世人類はアフリカで発生したと。
でアフリカで発生した時期なんですよ。約20万年前から10万年前ということなんですね。
この段階でアフリカで発生しましたと。
そしてアフリカをはじめて出た現世人類はこれ「出アフリカ」というふうに言われるんですけども
これがだいたい6万年前なんですよ
人類は20万年前から10万年前ちょっと開きがありますけどこの時にアフリカで出現しました。
そしてアフリカを最初に出た人類は6万年前なんですね。
ということは何ですか。この砂原遺跡11万年前。
これもし11万年の年代が本当だとしたら、これは人間が作ったんじゃないということです
だから10万年前だが15万年前に人間が住んでてその子孫がついに(3万8000年前の)磨製石器を作ったんじゃなくって
6万年以上前の遺跡って人間の遺跡じゃないということなんですよ

0:17 日本列島に来た旧人原人といえばデニソワ人じゃないかと言われているんですけども、彼らは滅びてしまったということなんですね

砂原遺跡の打製石器を作ったのがデニソワ人ではないか、ということは、こちらの記事ですでに述べた。


小名木氏が次のような内容の記事を書いておられたので、それは新生人類ではなく、デニソワ人であると私は述べたのだった。

a.現生人類が誕生してからおよそ4万年、ネアンデルタール人などの旧人が誕生してからおよそ20万年といわれている。

b.(現生人類はアフリカで誕生し、日本には4万~3万年前にやってきたとする)もっともらしい図が流布しているが、日本ではなぜかおよそ11万~12万年前の石器(島根県出雲市の砂原遺跡)が発見されている。(2013年6月7日発表)。

c.ミトコンドリア・イブの解析によって、人類の始祖はおよそ20万年前〜15万年前あたりに中央アフリカのあたりで発祥し、およそ6万年〜4万年前あたりにそれがイラクのあたりに移動し、そこからヨーロッパや亜細亜方面に広がったのだと、まことしやかにいわれている。

d.しかし人は移動する生き物なので、一箇所にとどまっていると考えるのは不自然。

e.日本で11〜12万年前の石器が発見されたからといって、人類の始祖が日本人であるとも限らない。
万年の単位で人類史を考えるときには、いまとまったく異なる地形を前提に考えなければならないからである。

小名木氏は旧人、デニソワ人などが作った可能性については全く述べておられない。

竹田氏のいう、砂原遺跡はデニソワ人が作った、というのは考え方としてまあ正しいと思うし
私も同様の内容の記事を書いた。

⓶「中国100万年の歴史」と言ったのは誰?

しかし竹田氏の発言のこれは?。

07:52 残念ですけど(中国の)100万年前の打製石器、(半島の)50万年前の打製石器。まだ成績人間じゃないです。
あなたたちの先祖じゃない。はやい時期にきたけどもう滅びちゃった人たちなんですね
だからいきがて、古いのだ、古いのだって言えば言うほど全部無関係の遺跡でしたよねっていうことになっちゃったわけですよ
嘘つくもんじゃないですね。100万年の歴史とか言うもんじゃないですよ。

100万年前、50万年前の打製石器が発見されたら、普通は旧人が作ったものだと判断するだろう。
本当に中国人が「100万年の歴史」などと言ったのか?
言った人がいたとしたら、それは考古学を知らない一般の人でちょっと勘違いしただけだろう。
考古学者がそんな勘違いをするとは思えない。

竹田さん、誰が「中国 100万年の歴史」とか言っておられたんですか?教えて下さいw

③オーストラリアの磨製石器は現生人類が作ったもの?

前回の記事 
で、最古の磨製石器は日本の3万8000年前ではなく、オーストラリアの6万5000年前だとお話しした。

竹田さんの発言をもう一度みてみよう。

03:34 分子生物学という学問がありまして、近年、大体20年ぐらいの間ですかね、猛烈な勢いで進化してきました。
人間の過去の営みを知る上でですね、
色んな出土物を調べて、だいたいこの地層からでだから何万年前ここにこんな人がいたんだろうなとかっていう
のはわかるんですけれども
それとは別の角度で、人間の遺伝子情報を解析していきまして、そこで人類のどの人たちがどこで混血したのか
どの時期にどう映ってきたのかっていうのがかなり克明にわかるようになってきたんですね。
分子生物学でどういうふうに何がわかるかっていう具体的なことはまた次回以降やりますけれども
人類はかつて全部アフリカにいたらしいんですね。
そして現世人類、つまりかつての猿と人間の中間みたいなのではなくて
私たちと同じような姿形。ホモサピエンス、現世人類と言いますけども、現世人類はアフリカで発生したと。
フリカで発生した時期なんですよ。約20万年前から10万年前ということなんですね。
この段階でアフリカで発生しましたと。
そしてアフリカをはじめて出た現世人類はこれ「出アフリカ」というふうに言われるんですけども
これがだいたい6万年前なんですよ
人類は20万年前から10万年前ちょっと開きがありますけどこの時にアフリカで出現しました。
そしてアフリカを最初に出た人類は6万年前なんですね。

竹田さんは
・アフリカで(現生人類)が発生した時期は約20万年前から10万年前。
・アフリカを最初に出た人類は6万年前

といっている。

オーストラリアの磨製石器が作られたのは6万5000年前。
このとき、現世人類は生まれている。
しかし、アフリカを出たのは6万年前。

オーストラリアの磨製石器を作ったのは、旧人なのか。現生人類なのか?

これまでオーストラリア大陸に人類が定住したのは47,000年から50,000年前とされてきた。
しかし、最近、研究者チームが北部準州(NT)のカカドゥ国立公園に近い土地の岩窟を調査した結果、
実際にはそれより18,000年遡る65,000年以上前という推定が強まってきた。

 ABC放送(電子版)が伝えた。

 しかし、この岩窟発掘現場そのものの年代について30年近く争われてきた。

 この発掘現場からは磨製石斧、砥石、火打ち石、オーカーなど多様な遺物に加え、現場一帯に焚き火跡が残っている。
この遺跡はマジェドベベと呼ばれており、ここがオーストラリア国内でこれまでに発見されたうちでは
もっとも古い人類の定住の痕跡であることを認める学者は多かったが、
現場の堆積物を最新の年代決定機器にかけた結果、世界でも有数の文化遺跡、人類学的に重要な遺跡であることが確認された。


この記事では、
・オーストラリア大陸に(現生)人類が定住したのは47,000年から50,000年前とされてきた。
・実際にはそれより18,000年遡る65,000年以上前という推定が強まってきた。

とある。

この記事では、オーストラリアの磨製石器を作ったのは旧人ではなく、新生人類と考えているようである。

ネアンデルタール人は毛皮をまとい、洞窟に住み、石器を使い、狩猟採集生活を行っていた。
石器は打製石器である剥片石器の技術を使っている。
これは、ルヴァロワ式石器ともいわれる旧石器文化が最も発達した形式である。
ネアンデルタール人の遺跡からは、石器で肉を引き剥がされ、骨がたたき割られた人骨が出土する。
これは彼らが食人を行っていた証拠とされる。
一方で、明らかに埋葬された人骨が見つかっており、家族や部落の仲間の死を悼む心を持っていた。
頭蓋骨の内側の形で大脳皮質がどの程度発達しているかが判り、前頭葉が一定の大きさに達していたこと、喉や胸骨の構造も現代人とほとんど同じであることなどから、
複雑な石器の製造や、狩猟での集団作業で言葉を使ったことは十分考えられる。
しかし、抽象的、象徴的言語を用いることはなかっただろう。


こちらの記事には、ネアンデルタール人は磨製石器は使っていない、と書いてある。

いまのところ、オーストラリアの6万5000年前の磨製石器は現生人類がつくったもの、と考えてよさそうである。

④竹田さんの理屈では、最初に人間になったのは当時オーストラリアに住んでいた人。

11:18 ちょっと前ぐらいに日本列島に住み始めた人でも最初は文化を持っていないただの方がの人だったわけですね
ところがあるとき才覚(?)した。

11:49 そこで磨製石器を作っちゃったわけですよ。そこで人は人間になったんですね。
ですからそのとき地球のあちこちに人はいたんでしょう。
でも最初に人間になったのは日本列島に住んでいた現生人類。ホモサピエンス。

磨製石器をつくったら、人間になる、という理屈は「は?」と思うし
磨製石器をつくった時期がはやかったからどうだといいたいのか、よくわからないが
竹田さんの理屈に従えば、最初に人間になったのは65000年前にオーストラリアに住んでいた人、ということになる。

(日本の旧石器時代の磨製石器は数が多い、と反論してくるかもしれないが。)の原住民

⑤砂原遺跡が現生人類の遺跡である可能性は?

ウィキの記事にも、竹田さんの話でも「砂原遺跡はデニソワ人など旧人の遺跡」と結論づけている。
私も以前の記事で、「砂原遺跡はデニソワ人によるもの」と述べた。

しかし、今回記事を検索してみて、現生人類の遺跡である可能性も、もしかしたらあるかもしれないと思った。

❶2015年10月14日にNatureに報告された、中国南部の洞窟で出土した歯化石によって、
ホモ・サピエンスが約10万年前には中国に到達していたことが明らかになった1。
これまで多くの研究者は、この年代に我々ホモ・サピエンスがアフリカから遠く離れた地域に達していたとは考えていなかった。

歯の年代の特定は容易ではなかった。
この化石には放射性炭素(5万年でほぼ消滅する)が含まれていなかったのだ。
そこで研究チームは、化石が含まれていた地層の上に堆積した方解石堆積物の年代測定を行った。
その結果、この化石が少なくとも8万年より古く、また同時に発見された動物化石が更新世後期(約12万~1万年前)によく見られるものであることから、
このヒトの歯がおそらく12万~8万年前のものであるという結論に達した。


日本最古とみられる約12万年前の旧石器が出土した島根県出雲市の砂原遺跡について、同遺跡学術発掘調査団の団長で、
同志社大の松藤和人教授は23日、都内で開かれた日本考古学協会総会で
「国内最古級の石器であることには変わりないが、年代は約12万年前から7万年前までの可能性が出てきた」と発表した。
松藤教授によると、12万7千年前ごろにできた地層の上に石器が出土した地層があり、その層のすぐ上にあった火山灰層は、
昨年の記者会見では三瓶木次層(約11万年前)と発表していたが、分析の結果、三瓶雲南層(約7万年前)と判明したという。

旧石器発掘捏造(ねつぞう)問題とは無関係な遺跡の金取遺跡(岩手県遠野市)では国内最古級の9万~5万年前の石器が出土している。

松藤教授は「前回は発掘面積も狭かった。今後さらに石器や地層を調査したい」としている。


❶の記事・・・ホモ・サピエンスが約10万年前には中国に到達していたことが明らかになった。

とあり、すると、人類がアフリカを出た年代を竹田さんは6万年前とおっしゃっているが、もう少し古く修正する必用がでてきた。

❷の記事・・・砂浜遺跡は12万年前から7万年前の可能性がでてきた。

中国にホモサピエンスが到達したのが10万年前で、砂原遺跡が7万年前なら、7万年前の砂原遺跡もホモサピエンスのものという可能性もあるのではないだろうか。

今後の研究に注目したい。

※追記

ある方からコメントを戴いて、次の記事を紹介していただいた。(ありがとうございます!)

現生人類、5万年前以降にに中国南部に出現か 最新研究で解明
2021年2月13日 19:30 発信地:中国 [ 中国 中国・台湾 ]
新華社
現生人類、5万年前以降にに中国南部に出現か 最新研究で解明‹ ›

【2月13日 Xinhua News】中国の南京大学の孫雪峰(Sun Xuefeng)副教授率いる国際共同研究チームはこのほど、解剖学的現代人(現生人類)が中国南部で出現した時期について、5万年以内の可能性があるとの研究成果を発表した。同大学が12日、明らかにした。

 論文の共同筆頭著者である孫氏によると、研究チームは中国南部にある洞窟5カ所(湖北省鄖西県の黄竜洞、同省建始県の楊家坡洞、同省宜昌市の三遊洞、広西チワン族自治区田東県の陸那洞、湖南省道県の福岩洞)を調査。研究者は詳細な地形・層序学的調査を行い、洞窟内の未固結堆積物や石灰質堆積物、哺乳類の化石、人類の化石を総合的に年代測定するとともに、上海市の復旦大学と協力して人類化石の古代DNAを分析した。

 その結果、5カ所の洞窟から採取した未固結堆積物と石灰質堆積物に比べ、哺乳類化石の堆積物の大半が比較的遅く形成されたことが判明した他、放射性炭素年代測定や古代DNA解析の結果、化石人類の年代も5万年前を超えないことが明らかになった。

 孫氏は、中国南部のカルスト地形にある洞窟で見つかった古人類遺跡の大半が、水流による浸食や再堆積など複雑な過程を経て形成されたと説明。上部の石灰質堆積層が下部の化石層を覆っているのは、堆積過程で形成された「偽の覆い」の可能性があり、新しい地層の上に古い地層がかぶさる「地層の反転」が起きやすい傾向があったと指摘した。

 孫氏はさらに「こうした状況下で、従来の年代測定法を用いても化石人類の年代を正確に特定できない。ここ数年の国際的な研究では、現生人類は7万年前から13万年前に中国に出現していたとされているが、今回の研究は学術的論争に重要な年代学的証拠を提供することとなる」と語った。


私は上に下記の記事を引用した。

「中国南部の洞窟で出土した歯化石によって、
ホモ・サピエンスが約10万年前には中国に到達していたことが明らかになった1。


この記事は2015年のものだが
ご紹介いただいた記事は、2021年のものであり、どうやら新生人類が中国に到達したのは、5万年前以降と修正されたようだ。

シロウトが書いているブログなので、間違い、情報が古いなどいろいろあると思います(汗)
何かお気づきの点があれば、どんどんコメントいただけると嬉しいです。


日本の旧石器時代の磨製石器は、大陸の磨製石器のルーツとはいいきれない。(竹田学校)


※追記 「オーストラリアの磨製石器は摩耗か磨製かの判断は難しい」とのコメントを戴いています。
(記事のかなり下のほうにコメント欄あります。)
確認できればお知らせします。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%80%E9%83%A8%E7%A3%A8%E8%A3%BD%E7%9F%B3%E6%96%A7
(局部磨製【
石斧】)では
「この年代は、日本出土のものが世界最古とされている。」と微妙な書き方をしていました。

オーストラリアの6万5000年前のものとされる磨製石器の写真⤵

①世界最古の磨製石器はオーストラリア

上記動画 05:44辺りで、竹田さんは、次の様に発言されている。

ところが関東ローム層(岩宿遺跡)からでてきちゃったんですね、この磨製石器が。
でこれがですね、35000年前だったんです。なんと世界最古の磨製石器だったんですよ。


コメント欄で何人かの視聴者さんが指摘されているが、世界最古の磨製石器はオーストラリアのものだとウィキペディアには記されている。

磨製石器は新石器時代を代表する道具で、世界で広く使われた。
世界最古の磨製石器は、オーストラリアで、6万5000年以上前に遡る。
日本最古は、旧石器時代の3万8千年前から3万5千年前で、刃部磨製石斧(局部磨製石斧)が作られたが、3万年前には見られなくなった。
鉄器が普及しなかった一部地域では、20世紀に入っても石斧が普通に使われていた。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A3%A8%E8%A3%BD%E7%9F%B3%E5%99%A8#%E4%BD%BF%E7%94%A8%E6%99%82%E6%9C%9F より引用

「鉄器が普及しなかった一部地域では、20世紀に入っても石斧が普通に使われていた。」というのはおかしいw
2世紀の間違いだろうか。

そういう間違いはあるが、「世界最古の磨製石器は、オーストラリアで、6万5000年以上前に遡る。」というのは間違いではなさそうである。

というのは、次のような記事があるからだ。

これまでオーストラリア大陸に人類が定住したのは47,000年から50,000年前とされてきた。
しかし、最近、研究者チームが北部準州(NT)のカカドゥ国立公園に近い土地の岩窟を調査した結果、実際にはそれより18,000年遡る65,000年以上前という推定が強まってきた。

 ABC放送(電子版)が伝えた。

 しかし、この岩窟発掘現場そのものの年代について30年近く争われてきた。

 この発掘現場からは磨製石斧、砥石、火打ち石、オーカーなど多様な遺物に加え、現場一帯に焚き火跡が残っている。
この遺跡はマジェドベベと呼ばれており、ここがオーストラリア国内でこれまでに発見されたうちではもっとも古い人類の定住の痕跡であることを認める学者は多かったが、現場の堆積物を最新の年代決定機器にかけた結果、世界でも有数の文化遺跡、人類学的に重要な遺跡であることが確認された。


⓶35000年前の日本の磨製石器は、一部を磨いたもの。

ネットの書き込みを読むと、勘違いしている人がいたので、書いておくが、
35000年前の日本の磨製石器は石器の一部のみ磨いたもので、石器全面を磨いたものではない。
たとえば、下記リンク先のようなものではないので注意してほしい。

上記サイト、図③に日本の旧石器時代の磨製石器のイラストが掲載されている。
これが日本の旧石器時代の磨製石器である。

③無土器時代という言葉は古い言葉では。

07:38 土器が作られる前ですから 先土器時代とか無土器時代とかっていう名前なんですよ。
でもさ、先土器とか無土器とか、何々が無い時代っていうのをなんか変でしょ
何かがある時代って言わないといけないのね
だから無土器時代・先土器時代というのは、私はつまんないと思うんですね
そこで提唱されている中でこれがいいなと思うのはこれです。岩宿時代。

次のように記された記事があった。

一九七二(昭和四七)年九月、都建設局公園緑地部都市公園課は、都立城北中央公園の整備事業として、明大、武蔵野博調査個所(一九五一年、P地点と仮称) の旧馬場跡、現グラウンドの改造計画を都文化課に相談した。栗原遺跡は、現在、復元家屋が公園内に残っており、旧石器時代(当時、「無土器時代」と呼ばれた) の石器類が出土したP地点の崖は、この家屋の南側の石神井川直上に位置している。


旧石器時代(当時、「無土器時代」と呼ばれた)とあるのに注意してほしい。
当時「無土器時代」と呼ばれたということは、現在は旧石器時代とよばれているということではないだろうか。

「岩宿時代」と提唱しているのは誰なのか。検索したがわからなかった。

磨製石器は3万年以降見られなくなった。

>10:43 日本でとのあっちこっちにですね、3万6000年前の遺跡がダーッとできますから
まあ3万8000年前ぐらい前から徐々に磨製石器が作られ始め、
それがどんどんトン2000年の間に日本中に増えていったということになるんですね

発言に間違いはないが、言葉が足らないので、視聴者に誤解を与えそうだ。

磨製石器は新石器時代を代表する道具で、世界で広く使われた。
世界最古の磨製石器は、オーストラリアで、6万5000年以上前に遡る。
日本最古は、旧石器時代の3万8千年前から3万5千年前で、刃部磨製石斧(局部磨製石斧)が作られたが、3万年前には見られなくなった。
鉄器が普及しなかった一部地域では、20世紀(2世紀の誤りか?)に入っても石斧が普通に使われていた。
 より引用

一九八〇年代になると、全国規模で旧石器文化の磨製石斧が発見され出した。その分布範囲は、北は東北地方北部から南九州地方にまで及び、現在では約九〇〇点を超える膨大な数に上っている。時期的には、南関東地方の層位的事実から、立川ローム下半部の姶良Tn火山灰(AT)堆積層(第VI層、約二万九〇〇〇~二万六〇〇〇年前)以前の、第II黒色帯(第VII~IX層)~第X層中で、年代にして約三万二〇〇〇~三万年前頃に集中している(須藤二〇〇七)。


これらの記事には「磨製石器は30000年以降は見られなくなった」
「年代にして約三万二〇〇〇~三万年前頃に集中している」とある。
これを抑えておかないと、そのあとの話を勘違いしてしまう。

⑤磨製石器は3万年前、四大文明は紀元前10000~5000年。

※四大文明という言葉は現在はあまり使われないが、タイトルが長くなるので総称としてこの言葉を用いた。

>15:10 実は日本ってこの時代世界最先端犯のものづくりの地域だったんですね。
人類の最先端の最先端です。
だいたい教科書を見てるとね、その文明は中国の黄河文明
だとかね
あとは長江文明、インド・インダス文明・メソポタミア文明・エジプト文明
こう
進んでて、日本は中華文明の亜流みたいな感じでね

この話には非常におかしな点がある。

④から、日本の磨製石器は3万8000年前から、3万年前と思われる。
そして、それぞれの文明の年代は、次のとおり。

中国文明(紀元前14000年から紀元前12000年頃)
インダス文明(紀元前7000年頃)
メソポタミア文明(紀元前5500年頃)
エジプト文明(紀元前5000年頃)

磨製石器と、これら諸文明は年代がまったく異なっている。

仮に3万年前、縄文人が最先端の技術をもっていたとしても(あくまで仮の話。石器のみで文化は測れない)
1万年前も同じではない。
その差は2万年もあり、それだけの期間があれば遅れていた文化が他の文化を追い越したりすることは十分にある。

上記文明と比較するのであれば、縄文時代、弥生時代と比較するべきだろう。
旧石器時代 – 紀元前14000年頃
縄文時代 前14000年頃 – 前10世紀
弥生時代 前10世紀 – 後3世紀中頃
古墳時代 3世紀中頃 – 7世紀頃


⑥「磨製石器は明らかに日本から中国・朝鮮半島に伝わった」などとはいえない。

個人的には、①の日本の「磨製石器が世界最古」は、ちょっとした間違いで、大した問題ではないと考えている。

それよりも、次の発言が問題だと思う

6:36 つまんない高校学者たちが、石器の文明はね中国大陸とかシベリアから日本にわたってきて受け取ったって言うんですけれども、「は?」って話ですよ。
文明って高い所から低い所に流れるのはあるんですけど、低いところから高いところに流れるのはありませんから。
シベリアにも半島にも中国大陸にも何の磨製石器もない時代に、日本でコツコツと磨製石器を作ってたわけですね
打製石器に関して受け取ったものがあるでしょうけど、磨製石器に関しては、あきらかに日本から伝播したものであって
石器文化がね、よその地域から渡ってきたって、みんな言うんですけども、とんでもない話なんですよ
何かあると全部、半島から来た、大陸から来たって言うけど、いやもちろんきたものもありますよ。
でも日本が最先端で日本から渡したものもたくさんありますから
何を受け取ったのかで何を渡したのか両方を見てこそ初めて文化の交流 っていうのはわかりますからね。

こう書くと、「なんでも大陸から日本にやってきたというのか」と怒る人がいそうだが、そうではない。
言いたいことは
「(おそらく)日本で発見されている世界最古級の磨製石器は3万年前以降は見られなくなっている」
ということを踏まえて考えなければいけないということだ。

大陸系磨製石器(たいりくけいませいせっき)とは、弥生時代になって朝鮮半島から水稲農耕技術が流入するとともに日本列島に流入した、朝鮮半島に直接的な起源を持つ磨製石器の一群である。
多くは、水稲農耕技術や、それに伴って列島に渡来した様々な生活様式を採用するに伴って、新たに必要になった道具である。


弥生時代とは、前10世紀 – 後3世紀ごろの時代をさす。
紀元前10世紀とは、紀元前1000年 – 紀元前901年のことであり、
大陸系磨製石器とは、そのころに大陸から日本に伝わったと考えられている磨製石器である。

岩宿・栗原などの旧石器時代の磨製石器は38000年前ごろより作られ始め、30000年前には見られなくなったようである。
そうであれば、旧石器時代の磨製石器と、弥生時代の大陸系磨製石器には連続性がないということになるだろうし
仮に継続して作られていたとしても、朝鮮半島のものと似たようなものであれば、「ルーツは別ではないか」と考えるべきだと思う。

14:30
日本は3万8000年前、中国大陸で1万5000年前、朝鮮半島で7000年前。

とおっしゃっている。
日本の旧石器時代の磨製石器が30000年前以降みられなくなったというのが正しければ
中国の磨製石器とは1万5000年、朝鮮半島とは2万3000年時期がちがっている。
これだけ時期がずれていては、「磨製石器に関しては、あきらかに日本から(中国・朝鮮半島へ)伝播したもの」
などとはいえないと思う。
磨製石器が、中国や朝鮮半島で独自に生み出された可能性もあるし、
もしかしたらオーストラリアから中国や朝鮮半島に伝えられた可能性もあるかもしれない。

下記リンク先に大陸系磨製石器の写真が掲載されている。

https://www.kaf2.org/josetsu/yayoi/yayoi_ibutsu/yayoi_tools


弥生時代の水稲耕作は、初期の水田にみられるように当初から完成した形で伝来している。使用された主な農耕具も太形蛤刃石斧・扁平片刃石斧・柱状片刃石斧・石庖丁などの大陸系磨製石器や木製農具など、新しい道具によって構成されている。これらの道具のうち、大陸系磨製石器は朝鮮半島の遺跡から出土するものと類似し、特に抉入(えぐりいり)柱状片刃石斧・有柄(ゆうへい)式磨製石剣・柳葉形磨製石鏃や、擦切(すりきり)技法による孔を施す石庖丁などは日本と朝鮮半島南部にだけ分布するものである(第2図)。


最古の大陸系磨製石器の年代、写真
最古の朝鮮半島磨製石器の年代(年代については竹田さんが7000年といっているが)写真
などを知りたかったが、よくわからなかったので、この点は宿題とさせていただく。

⑦世界最古の釣り針かどうか不明。

18:18
人類最古の釣り針は日本列島から出土してます。
これは沖縄なんですけどね
平成28年2016年に沖縄県の南城市のサキタリ洞っていうところで23000年前の釣り針が発見されました。
これまでの世界最古はどこかといいますと、パプアニューギニアの18000年前ですよ。

これについては次のような記事があり、釣り針かどうか議論がわかれているようだ。

沖縄県立博物館・美術館が9月19日、発表した。釣り針は貝製で幅約14ミリ。使われていたのは、2万3000年前(後期旧石器時代)だという。


この針で魚を釣れるのか。BuzzFeed Newsは、国内大手の釣り具メーカーに聞いてみた。
釣り針かどうかを社内で話し合ったといい、こう回答してくれた。

「針の先端近くに、食いついた魚が外れないための『カエシ』がないため、判断はつきません」

仮に釣り針であるとするなら、魚を釣ることは可能なのか。

「一般的な釣り針の概念から、魚を釣ることは可能だと思います。針先が尖っていることと、針が全体的に丸みを帯び、魚を逃しにくい形状だからです。その形状から、魚を”引っ掛ける”ことは可能であると推測します。ただし、引っ掛けた魚との引き合いに耐えうる強度の素材であるかといった判断はできないので、あくまで形状からの判断です」

沖縄県立博物館・美術館の藤田主任もこう主張する。


「疑う意見はありますが、私たちはこれを釣り針だと考えています。まず、釣り針の形をしていること。さらに、同じ地層から魚の骨が多数見つかったことから、魚を獲るなんらかの手段があったのは明らかだからです。素材となった貝は、イノシシの骨よりも強度があります」

これまでの世界最古の釣り針は、東ティモールの同じく貝製の釣り針(2万3000〜1万6000年前)。国内最古は、神奈川県横須賀市の夏島貝塚で見つかった約1万年前のイノシシの骨製のものだ。



おわり


※ 以下は自分用メモw

①1949(昭和24)年、群馬県岩宿遺跡の発掘調査で、日本に縄文時代以前に「無土器文化」の存在が確認された。

⓶1951(昭和26)年、「栗原遺跡」にも無土器時代の存在が確かめられた。

③栗原遺跡の発掘調査の結果、1973(昭和48)年に、「立川ローム第X層」(約32000年前)から「磨製石斧」が発見された。
当時、長野県茶臼山遺跡、同県杉久保A遺跡か、千葉県三里塚No55遺跡からも磨製石斧の発見があったが、年代がわからなかった。
「関東ローム層」は32000年前と年代が確定されていたので、栗原遺跡は32000年前のもの。

④記事には「日本最古の暦製石斧」(世界でも最古)と記されているが、
この記事の日付が2017年5月であり、オーストラリアの磨製石器が世界最古と認められたのは2017年7月なので、この記事を書いた2017年5月当時は日本の磨製石器が世界最古だったということになる。
竹田さんの動画は2020/03/29に公開されたものなので、世界最古はオーストラリアとするべきだった。

⑤1949(昭和24)年、群馬県岩宿遺跡で「旧石器文化」が発見される以前は、日本最古の文化は「縄文時代」と考えられていた。

⑥稲荷台遺跡の発掘調査で、黒色土の下に厚く堆積していた「赤土」の最上部軟質部(ソフトローム)に10cm程食い込んで撚糸文土器が発見された。

⑦この赤土は岩宿遺跡で「旧石器文化包含層」と判明する前は、火山活動が活発な時代で人間の生活痕跡(遺跡) が無いと考えられ、発掘されてこなかった。(竹田さんもそういう説明をされている。)
しかし⑤をうけて、発掘されるようになり、岩宿遺跡や茂呂遺跡の大発見に繋がった。

⑧1938~9年、(昭和13~14)栗原遺跡で撚糸文様の土器片・尖底土器片・刃部磨製石斧が発見された。

⑨「栗原式」と命名された撚糸文土器型式は、その後の研究史では消滅してしまったが、現在の縄文土器編年では早期の平坂式あるいは花輪台II式に相当する。

⑩栗原遺跡は無土器時代、縄文時代、弥生時代、そして奈良・平安時代にかけての大集落遺跡であることが確認された。

⑪1972年についての記述のところに、旧石器時代(当時、「無土器時代と呼ばれた) という記述がある。

⑫栗原遺跡 第X層、約四万~三万二〇〇〇年前の「局部磨製石斧」が発見された。

⑬当時、磨製石器は無土器文化では長野県茶臼山遺跡、同県杉久保遺跡、それと千葉県三里塚遺跡No55地点の資料などしかなく、いずれも時代的認定(混入か) やローム層準の判定などに議論が存在していた。

⑭岩宿遺跡や磯山遺跡例は、「磨製か磨耗か」という論争に決着が着いていなかった。

⑮刃部を研磨した石斧、いわゆる「磨製石斧」は、一般的には1万年前以降の完新世の「新石器時代」から登場する石器。
磨製石斧は地球上のあらゆる石器文化段階の人々が使用した道具。
金属器時代の到来で「鉄斧」が出現すると、やがてその役割を終え消滅した。

⑯1949(昭和24)日本で初めて「旧石器文化」が岩宿遺跡で発見された。
ヨーロッパの旧石器時代下部(前期)文化段階に伴う「ハンドアックス」と呼ばれる特徴的な石器器種に類似していた。

⑰ヨーロッパ旧石器時代前期の真正なハンドアックスの形態より退化した終末的な段階と考えられたが
岩宿Ⅰの両面加工石器の1点が「磨製石器」ではないかという意見もあった。

⑱確かな旧石器文化陪から明確な「研磨痕」をもつ磨製石斧が出土したことによって、「旧石器時代の磨製石器」とされた。

⑲関東地方の遺跡の磨製石器の石材は緑色凝灰岩、緑色岩、輝緑岩、砂岩、透閃石岩ホルンフェルス、千枚岩など
緑色系岩石を多く使用している

ことから、他の石器石材(黒曜石、頁岩)と異なり、何か「緑色」に意義を持たせたことが推察されている。これは縄文時代に多用された、蛇紋岩製磨製石斧(緑色系石材)の利用意識とも共通しているという。

⑳現在、旧石器時代の磨製石斧は、ヨーロッパ、ロシア、オーストラリアなどで発見されている

㉑オーストラリア・ナワモイン遺跡(21,450±380Y.B.P.)から一六点。マランガンガー遺跡(29,000±11,OOOY.B.P.)から五点の磨製石斧が出土している。
自然礫の一端を直接磨いた例が多い。原住民のアボリジニによって、この種の磨製石斧が現代にまで長く受け継がれて使用されている。

㉒日本の旧石器時代の磨製石斧は、東北地方北部からと九州地方離島部まで約二五〇ヵ所近くの遺跡から約九〇〇点以上出土している。その大半は約三万二〇〇〇~三万年前に集中している。

㉓日本列島に初めて人類(ホモ・サピエンス)遺跡が確認されるのは、この立川ローム最下層部の「第X層文化」(約四万~三万二〇〇〇年前) 。

㉔ 石刃技法をもつ旧石器人の渡来
 磨製石斧は先ナイフ形石器文化には未だ存在せず、次のナイフ形石器文化Ⅰに集中して発見される。
この時期の特徴は、それまでの不定形剥片を使用した錐状石器やナイフ状石器、そして礫器に特徴を持った石器群に代わって、石刃技法を持ち、基部加工のナイフ形石器、横長剥片を使用した台形状石器が登場している。
こうした石器群は、先ナイフ形石器文化には認められないことから、新しく日本列島に渡来した石器群と考えることが可能である。

いまのところ周辺大陸の旧石器文化との比較は難しいが、「石刃技法」の存在という観点から推定すると、南の東南アジア方面の礫核石器群より、北の剥片石器群(中国北部、朝鮮半島) の旧石器文化との関係を検討していく必要が あろう(小田二〇一三)。

㉕ いまのところ、周辺大陸には認められないことから、日本列島内で発生した可能性が大きい。