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三内円山遺跡は1万人が住む都市ではなかった。(竹田学校について)


①【竹田学校】歴史・縄文時代編⑮~縄文都市「三内丸山遺跡」~



上記動画の内容をまとめる。読むのがめんどくさい人は、とばして⓶へ。


①歴史の教科書では、世界4大文明(中国・インダス・メソポタミア・エジプト)というのが必ず出てくる。
⓶すべての文明はこの4つのから派生した、亜流だというふうに言われていた。
③日本文明はう中国文明の亜流だとも言われていた。
④現在、亜流という考え方は否定されている。
⑤4大文明を教えている国は世界で日本だけ 。
⑥ 日本文明は中国から来たものではない。中国よりも古い磨製石器・土器がある。
⑦日本から中国に伝わったものもある。
⑧文明という言葉自体が西洋の歴史学者たちが創り出した概念なので、日本にあてはまらない。
⑨三内丸山遺跡(青森県)は巨大な遺跡で、縄文都市と呼んでもいいほど
⑩土器を作る技能を持った人が、大陸から日本にやってきたわけではない。
もともと日本に住んでいた人たちが土器を作る技術を独自に編み出した。
⑪縄文人は岩宿人。岩宿人の子孫が縄文人。縄文人の先祖は岩宿人。
⑫岩宿時代に代々日本人の血統の原型はできている。
⑬縄文時代に大量に外国から、半島やその大陸からたくさん人が渡ってきた痕跡はない。
(DNA、考古学からみて)
渡来人がやってくるのは、縄文から弥生に切り替わるころ。農耕の技術を持った人が中国大陸の南方の方から多少きたということがわかっている。
⑭縄文土器の一番古い大平元Ⅰ遺跡は縄文がついてなかった。
⑮1877年エドワード・モースが大森貝塚を発見し、出土した土器に縄目がついていたので縄文と名付けた。
(考古学の始まり)
⑯土偶がどう使われていたのか何の意味があるのかよくわからない。
全国で出土している。これまで出土した土偶は1万5千個以上
女性。妊娠のも多い。
⑰日本人の価値観の根本的な部分はもしかしたらこの縄文時代にはあの確立していたのではないかともいわれる。
⑱縄文時代は狩猟生活採取経済なので、大規模な集落はないと言われていたが
三内丸山遺跡は大きな集落だった。しかも5,900年前から4300年前まで1600年間営まれている。
広さが35ヘクタール、。3000棟以上。もしかしたら一万何千人にも住んでたのでは。争いのあともない。
栗、瓢箪、エゴマを栽培していた。
糸魚川のヒスイ、岩手の琥珀、それから秋田のアスファルトなども出土している。
何百キロにわたるネットワークができていた。
⑲縄文時代の遺跡からは戦争の跡と思われる出土物がない。
大きなお墓もなく、平等で尊重し合いながら平和に暮らしていたということがわかる。
⑳弥生時代には、西日本などに、戦争で傷ついたと思われる人骨が発見されている。
㉑日本は奪い合うのではなく、分け合う文化といわれるが、縄文時代から日本人の精神性が出来始めていた。
㉒漆は中国大陸から日本に伝わったと考えられていたが、逆転した。
中国より古い漆が平成12年、北海道で発見された。(函館市の垣ノ島B遺跡)
それまで一番古いと考えられていたのは7千年前
㉓日本にはもともと漆の木は自生していなかったと考えられていたが、中国大陸よりも古い時代、12600年前の漆の木が出てきた(福井県三方神中郡若狭町の鳥浜貝塚)
㉔今、最古と言っても次の瞬間には新たな発掘があって塗り替えられる可能性もある。
㉕日本は世界のいろんな地域と比べても少なくとも岩宿時代と縄文時代に関しては主要な品目に関しては最先端をいっていた。


⓶3000棟以上の民家跡は一時期にそれだけの民家があったのではない


⑱縄文時代は狩猟生活採取経済なので、大規模な集落はないと言われていたが
三内丸山遺跡は大きな集落だった。しかも5,900年前から4300年前まで1600年間営まれている。
広さが35ヘクタール、。3000棟以上。もしかしたら一万何千人にも住んでたのでは。


この文章を一読しただけで、あれ?と思う人が大勢いると思う。
そう、3000棟以上の民家跡があるというが、この遺跡は1600年間営まれた集落なので、
普通に考えて3000棟以上の民家跡は一時期にそれだけの民家があったのではなく
1600年という長い期間にわたって存在し、発見された民家跡の数が3000棟なのではないか、
一時期に存在していた民家の数はもっと少ないのではないか、ということだ。

微妙な言葉のニュアンスが読み取れず、勘違いしているといけないので、実際の発言を書きだしてみる。

10:11 だいたい3000棟以上3000棟ですからもしかしたら一万何千人住んでたんじゃないかっていう風に考えられるんですね。

12:51 1万人を超す人が一箇所に整然と暮らしていて争いもなくね

12:51ではっきり「1万人を超す人が一箇所に暮らしている」と発言されているので、私の勘違いではない。


③発掘された住居跡は800程度。3000は発掘見込みでは。

ウィキペディアには次のように記されている。

遺跡には、通常の遺跡でも見られる竪穴住居、高床式倉庫の他に、大型竪穴住居が10棟以上、約780軒にもおよぶ住居跡、さらに祭祀用に使われたと思われる大型掘立柱建物が存在したと想定されている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%86%85%E4%B8%B8%E5%B1%B1%E9%81%BA%E8%B7%A1#%E9%81%BA%E8%B7%A1%E3%81%AE%E6%A6%82%E8%A6%81
より引用

また、次のように記された記事もあった。

これまでの発掘調査で、600棟近くの住居跡が見つかっているが、さらに発掘が進められることで最終的には3000棟にも及ぶものと推定されている。多いように思えるが、この数字は1500年間の集積である。これから同一時期にどれだけの住居が建っていたのかを推定するのは極めて難しい。

 今から4500年前の最盛期の住居数は約100棟。1棟に4、5人が住んでいたとすれば、人口400人から500人くらいの集落になっていた可能性が高いといわれる一方で、多くてせいぜい100人とする説(小林達雄)もあり、学者の意見はまちまちである。

http://home.s01.itscom.net/sahara/stone/s_tohoku/038_sannai/038.htm
より引用

3000棟は発掘見込みの数字、ウィキの記事が記されたあと、発掘された住居跡の数は増えたかもしれないが、実際に発掘されたのは800棟程度ではないだろうか。

⑨三内丸山遺跡(青森県)は巨大な遺跡で、縄文都市と呼んでもいいほど


という竹田さんの発言がある。
巨大な遺跡であることは間違いない。


都市とは、「人口の集中した地域で、政治・経済・文化の中心になっている大きなまち。」とコトバンクには記されている。
https://kotobank.jp/word/%E9%83%BD%E5%B8%82-105089 

そういう意味で三内円山遺跡は縄文都市といってもいいだろうが、
「一時期に3000棟あり1万人を超す人がすんでいた」という発言は言い過ぎだろう。
一般的には、一時期に住んでいたのは400~500人と考えられており(この推定が間違いである可能性もあるが)
1万人だと、20倍にもなってしまう。

④縄文人の先祖は大陸からやってきたと考えられている。

⑩土器を作る技能を持った人が、大陸から日本にやってきたわけではない。
もともと日本に住んでいた人たちが土器を作る技術を独自に編み出した。

⑬縄文時代に大量に外国から、半島やその大陸からたくさん人が渡ってきた痕跡はない。

については一般的に、竹田さんが述べておられるように考えられていると思う。
竹田さんは間違ったことは言っていない。ただし、若干誤解を生む表現であるかもしれない。

様々な説があるが「三段階渡来説」について次のように説明されている記事があった。

第一段階は旧石器時代から縄文時代中期に、ユーラシア大陸各地から狩猟採集民が渡来した。
第二段階は縄文後晩期の渡来人の波。大陸沿岸の漁業を中心とした「海の民」が日本列島に移住した。北部と南部にはほとんど影響がなかった。
第三段階は弥生時代以降。前半に朝鮮半島を中心に大陸から遺伝的に少し異なる人々が渡来。九州北部に水田稲作をもたらした。後半(古墳時代以降)は引き続き大陸から渡来民が到来し、列島中央部の政治の中心が九州北部から現在の近畿地方に移った。北海道北部にはオホーツク文化人が渡来し、第一段階の渡来人との混血が進みアイヌが形成されたとの説だ。


また、第三段階で列島中央部に中心軸が形成され、北陸など周辺部分との「うちなる二重構造」が生じたと考えている。

今回のプロジェクトではこのモデルの検証も大きなテーマに掲げているが、「渡来時期など異なる見方もあり、さらに列島内の地域性を詳しく調べる必要がある」(斎藤さん)ため、結論はなお先になりそうだ。

より引用

つまり、縄文人は大陸からやってきたのではなく、石器時代に縄文人の先祖が日本列島にやってきたと考えられているのだ。

もともと日本列島に人が住んでいたのではないか、と言われるかもしれない。


日本列島はユーラシア大陸とつながっていたのが、約3000万年前に大陸から離れたと考えられている。
そして日本列島が形成されたあと、10数万年前に人類はアフリカで誕生し、世界へ拡散したと考えられている。
この説をとれば、日本列島にはもともと人は住んでおらず、どこからかやってきたと考えられるということになると思う。

⑪縄文人は岩宿人。岩宿人の子孫が縄文人。縄文人の先祖は岩宿人。

について。


岩宿遺跡は、群馬県みどり市にある旧石器時代の遺跡で、この遺跡の発見によって、日本に石器時代が存在したことが解明された。

つまり、竹田さんは石器時代人が縄文人の先祖だといっているわけで、そのとおりである。

しかし、すでに述べたように、日本列島が形成されたのは約3000万年前で、日本列島が形成されたあと、10数万年前に人類がアフリカで誕生し、世界へ拡散したと考えられているので、
石器時代の人々の先祖はどこからか日本列島に住んでいたと考えられる。

⑥漆は日本の自生種は本当か?

㉒漆は中国大陸から日本に伝わったと考えられていたが、逆転した。
中国より古い漆が平成12年、北海道で発見された。(函館市の垣ノ島B遺跡)
それまで一番古いと考えられていたのは7千年前

これについて調べてみたところ、年代については、下記サイトでも同様の記述がなされていた。
https://urushi-joboji.com/urushi/uruwashi


㉔今、最古と言っても次の瞬間には新たな発掘があって塗り替えられる可能性もある。

という発言も好感がもてる。

㉓日本にはもともと漆の木は自生していなかったと考えられていたが、中国大陸よりも古い時代、12600年前の漆の木が出てきた(福井県三方神中郡若狭町の鳥浜貝塚)

について

ウィキペディアでも竹田さんと同様の記述がなされている。



さらに、こんな記事がみつかった。

http://okinawa.ave2.jp/okinawa/masat/130521Jomon/Urushi-Torihama/Torihama.html

上記記事に次のような内容が記されている。

①鳥浜貝塚から、1984年に発見され、11000年前頃の土器と共に出土した炭化した樹木から作られたプレパラートが最近になって樹種を同定出来るようになり、2012年に12600年前のウルシと判定された。



⓶形状は小枝。樹液の採取痕はない。

③ 現在日本に見られるウルシであるという表現が曲解され、日本固有種と受け取られ独り歩きしている。

④調査の過程でDNA分析は行われていない。組成検査という目視と、炭素分析という燃えカスによる分析。


⑤  三内丸山遺跡出土の漆は佐藤洋一郎氏(静岡大学)によってDNA分析が行われ、比較した中国産とは違うと鑑定された。これを、日本の漆は日本固有種という意味に曲解されたようだ。

⑥Wikipediaの誤りから、ネット上の言葉が研究者の言葉や、事実と誤認された。


⑦鳥浜貝塚から出土した漆の小枝は12,600年前。
鳥浜貝塚出土の漆工芸品は6500年前で、島根県松江市の夫手遺跡からは6,800年前、新潟県大武遺跡は6600年前、石川県三引遺跡は6800年前。日本海側の遺跡からはほぼ同じくらいの年代に完成品が現れる。
12,600年前以後6000年の間漆製品が発見されていないのは、ウルシ採取。漆工芸品の生産は行っていなかったということ


⑧もし生産を行っていれば、カリンバ遺跡のように工房跡が出てくる。


三内丸山遺跡のウルシについて
「日本列島のどこかで栽培された可能性が高いことが示された」栽培種であり、自然木でないと言っている。
長江下流説と北方ルートの検証で中国から北方ルートでもたらされたとの見方が強まった。
 (長江下流から直接、または、半島経由で、日本に持ちこまれた説は否定的と言っている。)


⑩それに対して、日本は日本独自の固有種で、独自の技術であると主張。
漆のDNA分析で日本と中国は別種であると流布されているが、それを裏付ける文書はどこにもない。


このうち、
⑦鳥浜貝塚の漆製品 については、竹田さんは述べられていない。


また「漆の木は帰化植物だと言われていたんですけれどももしかしたら原産地日本じゃないの、ということもですね想定されるようになった。実際これわかりません。まだね中国から出たとかあるかもも知れませんから分かりません」
とおっしゃっていて、「漆の原産地が日本である」と断言されているわけでもない。


従って、これは竹田さんの発言に対しての批判ではないので、念のため、申し添えておく。

ただ、垣ノ島B遺跡では工房跡が見つかっているのか、ということは気になる。
ウィキの記述には記述がないし、単に見つかっていないだけかもしれないが、漆製品が出ただけでは生産をおこなっていたとは断言できなさそうである。








 

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