①皿屋敷の物語を年代別に並べてみる。
皿屋敷の物語は、江戸を舞台とした「番町皿屋敷」と播州姫路を舞台とした「播州皿屋敷」の2つのパターンがあるようである。
物語として小説に描かれたり、浄瑠璃・歌舞伎として上演されたりしている。
私はこれらの作品を、年代別に並べ、その内容を比較してみる必要性を強く感じた。
早速、やってみよう。あらすじの記述が長くなるが、ご勘弁を。(斜め読みで十分と思います。)
❶1577年『竹叟夜話(永良竹叟)』
嘉吉の乱(1441年)の後、山名家の家老・小田垣主馬助が播磨国青山(現・姫路市青山)の館代をしていた頃、
花野という脇妾を寵愛していた。
笠寺新右衛門は花野に恋文を送り続けていたが拒絶されていた。
そこでは笠寺は、小田垣が山名家から拝領していた鮑貝の五つ杯の一つをかくした。
小田垣は杯がないのは花野のしわざだと決めつけ、花野を折檻し、松の木にくくり上げて殺した。
その後、花野の幽霊が現れるようになった。
❷1712年『当世智恵鑑(宍戸円喜)』
江戸牛込の服部氏の妻は、妾が南京の皿の十枚のうち一枚を割ったことを責め、幽閉して餓死させようとしたが、5日たっても死ななかった。
そこで絞め殺して、骸を棺に入れて4人の男に運ばせたが、途中で女は蘇生した。
女は200両あるので命を助けてほしい、といった。
男たちはその金は受け取ったが、女を殺して野葬にした。
その後、服部氏の妻は喉が腫れて塞がってしまい、医者にかかった。
その医者のところに殺された女の幽霊が現れ、「どう治療しようと服部の妻は死ぬ」と告げた。
❸1720年6月、京都の榊山四郎十郎座が、歌舞伎『播州錦皿九枚館』を上演。
台本は現存しないが役割番付から「皿屋敷伝説を完全な形で劇化した」ものと考察されている。
※完全な形とは、おそらくこんな話だろう。
お菊という娘が10枚ある皿のうち1枚を割った罪で折檻され井戸に身投げするか、殺されて井戸に放り込まれる。
それ以降、井戸から皿を数える声が聞こえるようになった。
※同年に金子吉左衛門座が皿屋敷を上演している(題名も内容不詳)
❹1741年 浄瑠璃『播州皿屋敷』
細川家の国家老、青山鉄山は姫路城をのっとりたいと考えていた。
細川家の当主・巴之介が家宝の唐絵の皿を盗まれ、足利将軍の不興を買う。
鉄山は山名宗全と、細川の若殿を毒殺計画をたてていたところ、お菊に聞かれてしまう。
お菊が管理する唐絵の皿の一枚を隠し、その紛失の責任をお菊に押し付け、切り捨てて井戸に投じた。
すると井戸の下からお菊の死霊が現れた。
お菊の死霊は、夫・舟瀬三平に入れ知恵をし、皿を取り戻す。
大阪の豊竹座で初演。
❺1758年『皿屋敷弁疑録(馬場文耕)』が元となった怪談芝居の『番町皿屋敷』
牛込御門内五番町に「吉田屋敷」と呼ばれる屋敷があり、これが赤坂に移転して空き地になった跡に千姫の御殿が造られた。
千姫の御殿も撤去されて空き地となり、そこに火付盗賊改・青山播磨守主膳の屋敷があった。
菊という下女が奉公していたが、1653年正月二日、菊は主膳が大事にしていた皿十枚のうち1枚を割ってしまった。
奥方は菊を責め、主膳は皿一枚の代わりにと菊の中指を切り落とし、手打ちにするといって一室に監禁した。
菊は縄付きのまま部屋を抜け出して裏の古井戸に身を投げた。
その後、夜ごとに井戸の底から皿を数える女の声が聞こえるようになった。
奥方の産んだ子供には右の中指が無かった。
てこの事件は公儀の耳にも入り、主膳は所領を没収された。
その後も屋敷内で皿数えの声が続くので、公儀は小石川伝通院の了誉上人に鎮魂の読経を依頼した。
上人が読経していると皿を数える声が「八つ……九つ……」と聞こえたので、上人は「十」と付け加えると、菊の亡霊は「あらうれしや」と言って消えた。
・江戸幕府の職名。 江戸市中の放火・博奕・盗賊の捜査や検挙を行った。 火盗改(かとうあらため)ともいう。
・青山主膳という火附盗賊改は存在しない。
・1653年の話としているが、火付盗賊改の役職が創設されたのは1662年。
・向坂甚内が盗賊として処刑されたのは1613年。
・了誉上人は1420年(応永27年)に没している。
・千姫が姫路城主・本多忠刻と死別した後に移り住んだのは五番町から北東に離れた竹橋御殿。
千姫(天樹院)の肖像画(部分)
❻皿屋舗弁疑録(馬場文耕 1758年)
将軍家光の代、小姓組番頭の吉田大膳亮の屋敷を召し上げ、将軍の姉・天樹院(千姫)を住まわせた。
天樹院は愛人の花井壱岐と女中の竹尾を恋仲と疑って虐殺し、井戸に捨てた。
この井戸は「小路町の井戸」と恐れられた。
天樹院の死後、この吉田屋敷は荒廃し妖怪屋敷と呼ばれた。
❼1795年、大量発生したジャコウアゲハが大量発生し、そのサナギが「お菊虫」と呼ばれた。
ジャコウアゲハの蛹、いわゆる「お菊虫」
お菊虫 『絵本百物語』竹原春泉画
❽津村淙庵『譚海(1796年)』
尼崎のお菊の話(❾とほぼ同じ内容)。
・1795年のお菊虫の大量出現を、お菊の100年忌としている。
❾蜀山人こと大田南畝『石楠堂随筆( 1800年)』
1696年、尼崎の城主青山氏の老臣、木田玄蕃(喜多玄蕃)の屋敷に奉公していたお菊が食事を出したが、
飯の中に針がまぎれており、木田はお菊を井戸に投げ込んだ。
謝罪に駆け込んだ母もお菊のあとを追って井戸に飛び込んだ。
その後、木田家では怪異や祟りが連発し、それが尼崎侯の耳に入り、木田は改易、屋敷は祟りがあると恐れられ廃屋となった。
のちに青山氏にかわり尼崎侯となった松平遠州侯が、木田宅の跡地に建てたのが尼崎の源正院。
怪奇はおさまったが、菊を植えても花が咲かなかった。
・1795年のお菊虫の大量出現を、お菊の100年忌としている。
❿根岸鎮衛『耳嚢(1814年)』
尼崎のお菊の話(❾とほぼ同じ内容)だが、旧木田邸の古井戸の場所が「播州岸和田」となっている。
・1795年のお菊虫の大量出現を、お菊の100年忌としている。
・元禄の頃は、青山播磨守幸督が尼崎の城主。
⓫滝沢馬琴『皿皿郷談(べいべいきょうだん)』(1815)
武蔵国豊島郡東大久保村(東京都新宿区)の西向天神の別当大聖院には紅皿欠皿の旧跡という紅皿塚があった。
応仁(1467~69)のころ高田村に住んでいた落武者の子で、姉の継娘は美人、妹の実子は不美人だった。
近所の人は姉を紅皿、妹を欠皿とよんだ。
紅皿は太田持資(道灌/どうかん)に仕えたが、持資の死後尼になった。
・昔話には継子と実子の名を糠福・紅皿とするものもあり、紅皿は実子の名。
・江戸後期の青本の『紅皿闕皿(かけざら)昔物語』もある。
⓬1862年、暁鐘成『雲錦随筆』
お菊虫が、「まさしく女が後手にくくりつけられたる形態なり」と形容し、その正体は「蛹(よう)」であると記す。
⓭江戸後期「成立年不詳) 播州皿屋敷実録
姫路城第9代城主小寺則職の家臣・青山鉄山が主家乗っ取りを企てていたが、これを衣笠元信なる忠臣が察知、自分の妾だったお菊という女性を鉄山の家の女中にし、鉄山の計略を探らせた。
元信は、青山が増位山の花見の席で則職を毒殺しようとしていることを突き止め、則職を救出する。
鉄山の家来・町坪弾四郎は密告者がお菊であったことを突き止め、お菊に「妾になれ」というが拒まれた。
これを恨んだ弾四郎は、10枚セットの家宝の毒消しの皿「こもがえの具足皿」のうちの一枚を隠し
お菊に責任を押し付けて、殺し、古井戸に死体を捨てた。
以来その井戸から夜な夜なお菊が皿を数える声が聞こえた。
やがて則職の家臣によって鉄山は討たれ、姫路城は則職の元に返った。
則職はお菊の死を哀れみ、十二所神社の中にお菊を「お菊大明神」として祀った。
その後300年程経って城下に奇妙な形をした虫が大量発生し、人々はお菊が虫になって帰ってきたと言っていた(お菊虫)
⓶皿屋敷は更屋敷?
❺1758年『皿屋敷弁疑録(馬場文耕)』では次のような話が付け加えられているらしい。
小姓組番頭の吉田大膳亮の屋敷を召し上げ、将軍の姉・天樹院(千姫)が住んだとされる吉田屋敷は
妖怪屋敷と呼ばれたが、その後空屋敷となったため、更屋敷(サラ屋敷)と呼ばれた。
皿事件とは関係がない。
③お菊井戸は、姫路城にあったのではなかった。
現在、姫路城にお菊井戸なるものがあるが、これは近年になって皿屋敷伝説にもとづいてそういう名前を付けたようである。
こんな記事があった。
現在二の丸にあるお菊井戸は、近代に入ってから命名されたもので、本来「播州皿屋敷」の舞台となったのは、
現在の姫路東消防署と兵庫県立姫路東高等学校の敷地の一部、桐の馬場にあった武家屋敷と言われています。
そして青山鉄山からひどい暴力を受けたお菊さんは、姫路城車門近くに合った梅雨松で、縛られたとも伝わっており、
見た目に縛られているお菊さんのように見えるといって、現在でもジャコウアゲハを別名お菊虫とも言われています
より引用
姫路城
④初期はお菊ではなく花野。10ではなく5。
❶1577年『竹叟夜話(永良竹叟)』が一番古そうであるが、一般的な皿屋敷の話とはいくつか異なる点がある。
・娘の名前はお菊ではなく、花野
・なくなったのは皿ではなく杯
・もともとあった杯の数は10個ではなく5個
・井戸に身投げしたり、死体を井戸に捨てたという話がない。
・幽霊が数を数える話がない。
次に古そうなのが❷1712年『当世智恵鑑(宍戸円喜)』だが、やはり一般的な皿屋敷の話とは異なる点がある。
・女性の名前はお菊ではなく、服部氏の妻。
・井戸に身投げしたり、死体を井戸に捨てたという話がない。
・幽霊が数を数える話がない。
❸1720年6月、京都の榊山四郎十郎座が、歌舞伎『播州錦皿九枚館』を上演したものは、
台本は現存しないが役割番付から「皿屋敷伝説を完全な形で劇化した」ものと考察されているということなので
1720年には皿屋敷伝説の形はほぼできあがっていた、と考えられるだろう。
その後、もともとの話にお菊虫の話をつけたり、皿を割ったのではなく、飯に針が入っていたことを責められ、折檻のうえ殺されたというように、バリエーションをつけた話が創作されたのだと思う。
⑤菊=クク=99
物語の主人公がお菊、もともと10枚あった皿の1枚が亡くなったり割れたりして9枚となり、
お菊の幽霊が1枚から9枚まで数えるという話へと整えられたのはなぜだろうか。
日本書記一書(第十)に菊里媛という神が登場するが、菊里媛はククリヒメとよむ。
つまり、菊はククとも読むわけだ。
菊の節句は重陽の節句ともいい、9月9日のことである。
なぜ9月9日を重陽というのかというと、9は一けたの数字では最も大きい陽の数字だからである。
(陰陽道では偶数を陰、奇数を陽とする)
そして、菊はククともよむ。ククは語呂合わせで99と書くことができる。
お菊という名前と、お皿を9枚まで数えることには関係があるのではないかと思う。
追記
❺1758年『皿屋敷弁疑録(馬場文耕)』ではお菊は中指を切り落とされているが
手の指は10本なので、お菊の手の指は9本になったことになり、ここでも9の数字が繰り返されている。
⑤幽霊は不老不死?
9月9日、京都の法輪寺っでは重陽神事を行っており、菊滋童の舞が舞われる。
菊滋童は中国の周の穆 (ぼく) 王に寵愛された(BL❤)少年で、枕をこえた罪で流されたが
不老不死の薬となった、菊の葉の露を飲んで、少年の姿のまま 700年を生きたとされる。
幽霊になったお菊は不老不死になったと考えられ、そのためお菊という名前や、9という数字がもちいられた、なんてことはないだろうか。
法輪寺 菊滋童
追記2
お菊虫はジャコウアゲハの幼虫だと考えられているが、ジャコウアゲハの成虫の写真を見てみた。
上記リンク先の写真がわかりやすい。
羽根に杯または皿のような形の斑が10個ついている。
ジャコウアゲハがお菊虫と呼ばれたのは、蛹の形からだけでなく、この斑を杯または皿にみたてたのかもしれない。
またコノジャコウアゲハを擬人化して花野・お菊は創作された可能性もある。
花野の話は杯5個セットだったが、片羽根の斑の数をとったのだとも考えられる。
記事はジャコウアゲハの幼虫の大量発生について報じたもの。
「つる性のウマノスズクサを食草とする」と記されている。
❼の、お菊虫と呼ばれるジャコウアゲハの蛹の写真をみてみると、蛹は菊の花びらのような形態をしている。
ジャコウアゲハの蛹が「お菊虫」と呼ばれるようになったのはいつなのか。
もしかすると、皿屋敷の物語ができる前から「お菊虫」と呼ばれていたのかもしれない。
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