①五徳の妖怪
上の写真は千葉県木更津市の旧安西家住宅の囲炉裏です。
やかんの下にあるのは五徳といって、
囲炉裏、火鉢、七輪などの熱源の上に置き、その上に鍋・やかん、焼き網などを乗せるための道具である。
上の写真ではわかりにくいが、丸い輪っかに3本の脚がついている。
下記リンク先の写真がわかりやすいと思う。
百鬼夜行絵巻にはこの五徳の妖怪が描かれている。(下記リンク先図1枚目 中央下)
リンク先の説明によると、五徳の妖怪がくわえているのは火をおこす竹であるという。
また、小さな2本の箒が足になっているように見える。
検索すると炉縁用ほうきなる商品が見つかった。こういう道具が昔からあったのだろう。
⓶三本脚なのになぜ五徳?
三本脚なのに、なぜ五徳というのか、長い間疑問だったが、ウィキペディアの記述を読んでまあまあ納得できた。
語源は「コ(炉、火)+ トク/トコ(床)」あるいは「クトコ(火所)」の転訛(音韻変化)。「五徳」という表記からは儒教における「五常の徳」が連想されるが、これは当て字であると考えられる。
より引用
もとは炉床、火床、火所などと書いて「ことく」とか「ことこ」「くとこ」などと言っていたのが「ごとく」となって、それに儒教の言葉である「五徳」があてられたというのだ。
③丑の刻参りと五徳
五徳といえば思い出すのは、丑の刻参りである。
丑時参(うしのときまいり) 鳥山石燕『今昔画図続百鬼』
丑時まいりは胸に一つの鏡をかくし、頭に三つの燭を点じ、丑みつの比神社にまうで、杉の梢に釘うつとかや
はかなき女の嫉妬より起りて人を失ひ身をうしなふ
人を呪詛ば穴二つほれとはよき近き譬ならん
丑時まいりは、胸に一つの鏡をかくし、頭に三つの蝋燭を灯し、丑三つのころ神社に詣で、杉の梢(枝の先)に釘を打つという。
はかない女の嫉妬から起こって、人を失い、身を失う。(呪った人を失い、自分自身の身も失う)
人を呪わば穴二つ掘れとは、よい、近いたとえである。
というような意味だろうか。
鳥山石燕の絵をみればわかるように、五徳を天地逆にして五徳の脚の部分に蝋燭をたてて、頭にかぶる。
もう一度百鬼夜行絵巻を見てみると
五徳の妖怪は、やはり天地が逆になっている。
上の絵は、真珠庵本の冒頭の部分。青鬼が矛を担いで走り出すところを描く。
より引用
とあるので、五徳の妖怪も真珠庵本に描かれているものだろうか。
とすれば室町時代に描かれたものである。
丑の刻参りは鎌倉時代後期の屋代本『平家物語』「剣之巻」(裏平家物語)に描かれているが
「長なる髪をば五つに分け、五つの角にぞ造りける。顔には朱を指し、身には丹を塗り、鉄輪を戴きて、三の足には松を燃し、続松(原文ノママ)を拵へて、両方に火をつけて、口にくはへつつ、夜更け人定まりて後、大和大路へ走り出て……」
とあり、頭に五徳をかぶるというのはない。
「剣の巻」異本では、「鉄輪(かなわ)をかぶり、その三つの足に松明をともす」とあり。
室町時代にこれをベースにした能楽「鉄輪」があるので、
百鬼夜行絵巻の五徳の妖怪は丑の刻参りをしている可能性もある。
④
なぜ五徳は丑の刻参りに用いられるのだろうか。
それはもちろん五徳は蝋燭を立てやすいということもあるだろうが、
「儒教の言葉=五徳と逆の意味」ということかもしれない。
儒教による五徳とは、仁義礼智信のことである。
仁・・・人を思いやる。
義・・・利欲にとらわれないこと。
礼・・・仁の具体的な行動。のちに上下関係。
智・・・道理を知っている。知識がある。
信・・・友情に厚い。誠実。
これと逆の意味となると、
人を思いやらず、自分の欲にとらわれ、上下関係を無視し、理不尽な考えにもとづき、友情をおろそかにする。
のような意味になると思う。
そしてこのような反五徳の感情に基づいて行うのが、丑の刻参りということかもしれない。
かなりトンデモかなw
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