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トンデモもののけ辞典㉘ アマビエ



①瓦版に記されたアマビエ

新型コロナが流行し、疫病封じの神としてアマビエという妖怪が注目を集めている。
アマビエとはいかなる妖怪なのか?

アマビエは江戸時代後期の瓦版に登場する。
瓦版とは、江戸時代に販売されていた1枚刷りの印刷物である。
今でいう新聞の号外のようなものといえるかもしれないが、妖怪出現などのガセネタも多かったというから、ゴシップ誌のようなものか。
下記画像がそれである。

肥後国海中の怪(アマビエ/アマビヱ)

文は以下のとおり。

肥後国海中え毎夜光物出ル所之役人行
見るニづの如く者現ス私ハ海中ニ住アマビヱト申
者也当年より六ヶ年之間諸国豊作也併
病流行早々私シ写シ人々二見せ候得と
申て海中へ入けり右ハ写シ役人より江戸え
申来ル写也
        弘化三年四月中旬

現代語訳するとだいたい次のような意味になると思う。

肥後国海中に毎夜光る物がでた所へ役人が行き
見ると図のような者が現れた。
私は海中に住むアマビエと申す者である。
当年より6か年の間諸国は豊作である。ただし病が流行する。
私の写しを早々と人々に見せるように。
そういって海中へ入った。
右は写し役人より江戸へ送られてきた写しである。
弘化3年4月中旬(1846年5月上旬)

テレビではアマビエの絵は写し描くことで、写し描いた人の疫病除けになると言っていた

⓶アマビエの絵は向かって左なのに、右?

物の怪とは関係ないが、これを読んで私がびっくりしたのは、
「右ハ写シ役人より江戸え申来ル写也(右は写し役人より江戸へ送られてきた写しである。)」とあることである。
アマビエは「私の写しを早々と人々に見せるように。」といっている。
つまり、「写し」とは絵図のことだと思われるが、写し=絵図は、向かって左にあるw
江戸時代の人々は、向かって左のことを、右と言っていたのだろうか?

③右とは何か?

コトバンクによると右について、次のように説明されている。

デジタル大辞泉「右」の解説
みぎ【右】
1 東に向いたとき南にあたる方。大部分の人が、食事のとき箸はしを持つ側。右方。「四つ角を右に曲がる」⇔左。
2 右方の手。みぎて。「右を差して寄って出る」⇔左。
3 左手より右手の利くこと。右利き。「右の速球派投手」⇔左。
4 野球の右翼。ライト。「右越え本塁打」⇔左。
5 保守的な思想傾向があること。右翼。「右寄りの党派」⇔左。
6 二つを比べてすぐれている方。
7 縦書きの文章でそれより前の部分、またはそれより前に記してある事柄。「右に述べたとおり」
8 《御所から見て右側になるところから》京都の町で西側の部分。「右の京」
9 歌合わせ・絵合わせなどで、右側の組。⇔左。
10 官職を左右に分けたときの右方。昔、中国では右を上席とし、日本の官位制度の中では左を上位とした。「右の大臣おとど」⇔左。


1 東に向いたとき南にあたる方。
瓦版を東においたとき、アマビエの写し(絵図)は北にくるので✖。
2 右方の手。
手の話ではないので✖。
3 左手より右手の利くこと。右利き。
きき手の話ではないので✖。
4 野球の右翼。ライト。
野球の話ではないので✖。
5 保守的な思想傾向があること。右翼。
思想の話ではないので✖。
6 二つを比べてすぐれている方。
比較の話ではないので✖。
7 縦書きの文章でそれより前の部分、またはそれより前に記してある事柄。「右に述べたとおり」
これだろうか?
8 《御所から見て右側になるところから》京都の町で西側の部分。「右の京」
京都の町の話ではないので✖。
9 歌合わせ・絵合わせなどで、右側の組。
歌合せの話ではないので✖。
10 官職を左右に分けたときの右方。昔、中国では右を上席とし、日本の官位制度の中では左を上位とした。「右の大臣おとど」。
官職の話ではないので✖。

7の「縦書きの文章でそれより前の部分」が当てはまるかどうか、もう少し詳しくみてみよう。

a.肥後国海中に毎夜光る物がでた所へ役人が行き
見ると図のような者が現れた。
私は海中に住むアマビエと申す者である。
当年より6か年の間諸国は豊作である。ただし病が流行する。
私の写しを早々と人々に見せるように。
そういって海中へ入った。
b.右は写し役人より江戸へ送られてきた写しである。

7の「縦書きの文章でそれより前の部分」
の意味であるとするならば、
右はaの部分をさすことになる。

しかしbでは 右=写し役人より江戸へ送られてきた写し
と説明されている。
アマビエは「私の写しを早々と人々に見せるように。」といっているので
写しとはアマビエの姿を写したもののこと、つまり絵図のことだと思われる。
すると7でもなさそうに思える。

④見る人が対面する瓦版の側から見て左右を記した?

そこで思い出すのは、薬師三尊像である。

薬師三尊像

薬師寺 薬師三尊像

薬師寺の薬師三尊像は、薬師如来が中央、向かって右に日光菩薩、向かって左に月光菩薩を配置している。
しかし、これは記紀神話の記述と照らす合わせてみるとおかしい。
記紀神話ではイザナギの左目から天照大神(太陽神)、右目から月読命(月神)、鼻からスサノオが産まれたとしているのだ。

右・・・・日光菩薩・・・・月読命
左・・・・月光菩薩・・・・天照大神
中央・・・薬師如来・・・・スサノオ

と書いてみたが、なんのことはない。
イザナギの左目は、イザナギに対面する人からみれば右であり、イザナギの右目はイザナギに対面する人から見れば左である。
従って上は次のように書き直さなければならない。

左(向かって右)・・・・日光菩薩・・・・天照大神
右(向かって左)・・・・月光菩薩・・・・月読命
中央・・・・・・・・・・薬師如来・・・・スサノオ

これと同様で、江戸時代には瓦版などを見る人の側から左右を記すのではなく、見る人が対面する瓦版の側から見た左右で記すという習慣があったということではないか。

ただし、他の史料の例にもあたってみなければ、断定はできない。

アマビエはアマビコの誤記?

アマビエはアマビコの誤記だとする説がある。
アマビコは江戸時代後期から明治中期にかけて新聞記事などに登場する妖怪である。

新聞記事の内容は
・絵と文がいっしょに書かれていてて、人々の間に風説として広まった。
・根拠のない迷信
ということのようである。

アマビコ

尼彦の肉筆画(湯本豪一所蔵。明治時代以降のものと考えられている)

恥ずかしながら、崩し字を読む能力が私にはないのだが、
ウィキペディアには次のように記されている。

熊本県の海に現われ、豊作と疫病の流行を告げ、自分の姿を家の中に貼っておけば病難をまぬがれるとも語ったという文がいっしょに書かれている。

この文章の内容は、アマビエと全くおなじである。

⑥アマビコの特徴

ウィキペディアに記されたアマビコの特徴を箇条書きにするとだいたい次のようになる。
❶異様な生物(3本足など)の絵
❷・「自分の名前」
 ・「人間の大多数が死に絶える」あるいは「豊作や疫病が発生する」
 ・「自分の姿をかきしるした者は難をのがれることが出来る」
  などを告げて去った。
❸海にあやしい光を放って出現した。(光を放たず、単に海から出たとするものもある。)
❹猿の声で人を呼ぶと記されているケースもある。
❺アマビコが出現した海の多くは肥後国(現・熊本県)の海。
それにつづく郡名は架空(真字郡]、真寺郡、青沼郡など)であることも多い。
❻アマビコ出現場所が越後国(現・新潟県)、日向国(現・宮崎県)、越後国の湯沢近辺の田んぼとなっていることもある。
❼アマビコの正体を確認しにいった役人は、柴田という武士や、芝田忠太郎となっていることがある。
❽アマヒコは「数年間の豊年がつづくが、同時に疫病などで大多数の人が死ぬ」ことを告げる。
アマビコが豊作であると予言している期間は6年間だが、7年間となっているケースもある。
❾大多数の人が死ぬ原因についてアマビコは「疫病」と語っているケースが多いが、死因を語らないケースもある。
❿「自分の姿を見た者は疫病をのがれられる」と告げる。
⓫古い例では1843年-1844年のあま彦の書写例がある。

⑦アリエという妖怪もいる。

アリエ

明治9年(1876年)、「アリエの図を信心する者がいるそうだが、迷信である」という内容の記事が、甲府日日新聞(現在は山梨日日新聞)や長野新聞に掲載されたそうである。

アリエの図には次のような話が添えられていたという。

肥後国(現・熊本県)青鳥郡の海に、夜になると鱗を光らせる妖怪が出現した。
旧熊本藩の柴田という士族が正体を探りにいった。
妖怪は海にすむ鱗獣の首魁・アリエと名乗り、次のように告げた。
「今年から6年間は豊年がつづくが、6月からはコロリ(コレラ)に似た病気が流行して、世の人々は六割死ぬ。
しかし、私の図を信心すれば難をさけることができる。」
そのため、稼業もせずにアリエの絵を信心する人が出たと、出雲国の船頭が新潟県で語った。

これを読むと、アリエもアマビエと同様のものの様に思える。

⑧アマビコがアマビエやアリエに変化した理由

私はアマビエやアリエはアマビコが変化したものだと思う。
たぶん、アマビエはアマビコの「コ」を「エ」と誤記したのだろう。
アマビコがアリエに変化した理由はわからない。

⑨コロリ(コレラ)

⑤でアリエは次のように告げたと書いた。
「今年から6年間は豊年がつづくが、6月からはコロリ(コレラ)に似た病気が流行して、世の人々は六割死ぬ。
しかし、私の図を信心すれば難をさけることができる。」

コロリとはコレラのことである。

以下、次の記事を参考にしてまとめた。

コレラはコレラ菌に感染することで発症する感染病で、下痢と嘔吐を繰り返し、脱水症状をおこす。

もともとガンジス川流域の風土病であったのが、19世紀前半から全世界に広がった。
イギリスがインドを植民地として、アジア貿易を行うようになったことが原因と考えられている。

日本にコレラが入ってきたのは1822年。中国より沖縄、九州に上陸したと考えられている。
本州にも広がり、西日本で大きな被害を出した。

1858年には、米国艦船ミシシッピー号が中国より長崎に入った際、乗員にコレラ患者が出て、これが江戸にまで広がった。
コレラによる江戸の死者数ははっきりしないが、約10万人、28万人、30万人などの記録が残されている。
さらにコレラは廻船(貨物船)によって東北の港町にも運ばれ、被害を出した。

コレラ流行以前の日本の感染症対策は、加持祈禱、疫病退散のお札を戸口に貼る、太鼓や鉦を打ち鳴らすなど
呪術的なものであったが
江戸幕府はオランダ医師のフロインコプスが記した『衛生全書』の抄訳本『疫毒預防説(えきどくよぼうせつ)』を刊行するなどして、
・身体と衣服を清潔に保つ
・室内の換気
・適度な運動と節度ある食生活
などを推奨している。

明治になってもコレラはたびたび流行し、特に明治12(1879)年と19年には死者10万人を超える大流行となった。
コレラは水による感染が多いことに着目し
・井戸水をむやみに飲まない
・換気して部屋を乾燥させる
・生ものや傷んだものを食べない
などが推奨された。

大久保利通らによる明治10年の「虎列刺(コレラ)病豫防(よぼう)心得書」には次のような感染症対策が記されている。
・石炭酸(フェノール)による消毒
・便所・下水溝の清掃などの予防対策
・看護する者以外は他家に避難させる
・患者が回復または死亡した後、家族は家中を消毒してからも、10日たつまでは学校に入ることを禁じる。

⑩アマビエの絵図が伝染病流行に効果があるというデマ

簡単な年表を作ってみた。

江戸時代後期~明治中期 新聞記事、アマビコを迷信と報道する。
1822年、西日本でコレラ流行。
1846年 瓦版にアマビエが描かれる。
1858年 江戸などでコレラ流行。
1862年 江戸幕府『衛生全書』の抄訳本『疫毒預防説』を刊行。
    「身体と衣服を清潔に保つ」
    「室内の換気をよくする」
    「適度な運動と節度ある食生活」などを推奨する。
1876年(明治9年)「アリエの図を信心する者がいるそうだが、迷信である」という内容の記事が、甲府日日新聞(や長野新聞に掲載される。
1877年(明治10年)「虎列刺(コレラ)病豫防(よぼう)心得書」
    「石炭酸(フェノール)による消毒」、
    「便所・下水溝の清掃などの予防対策」
    「看護する者以外は他家に避難させる」
    「患者が回復または死亡した後、家族は家中を消毒してからも、10日たつまでは学校に入ることを禁じる」
1879年(明治12年) コレラ流行
1886年(明治19年) コレラ流行

この年表をみると、下記のように思えるのだが、どうだろうか。

当時コレラという感染病が日本に入ってきて、人々は恐れていた。
そんな人々の心理をつくように、感染病に効果があるとされるアマビエ、アマビコ、アリエなどの絵図を写せば感染しないというデマが出回った。

アマビエ・アマビコ・アリエが現れたのは熊本の海上となっており、コレラが中国から沖縄・九州に伝わったことを思わせる。

人々は藁をつかむような気持でその絵図を写して拝んだ。
しかし明治政府は科学的な感染症予防策を推奨していた。(明治になって陰陽道も禁止されている。)
新聞社は人々が迷信に走ることを危惧し、アマビエ、アマビコ、アリエなどを信仰するのは迷信であるという記事を書いた。

現在はマスコミなどが、新型コロナをおさめてくれるゆるキャラのようにアマビエを拡散させているが、
江戸から明治にかけてのマスコミは、アマビエ・アマビコ・アリエらを迷信だとして注意喚起していたと思われるのだ。

⑪アマビエ・アマビコ・アリエの正体は天照国照彦火明櫛玉饒速日命?

アマビコの絵図をみると三本脚である。
三本脚と言えば、八咫烏を思い出す。
八咫烏とは天孫(天照大神の子孫)である初代神武天皇を畿内まで道案内した鳥である。

神代にはやはり天孫であるニニギを、高天原から葦原中国まで道案内した神がいる。
猿田彦である。
八咫烏=猿田彦?

また高天原を天、葦原中国を国とすると、これにぴったりな神名を持つ神がいる。
天照国照彦火明櫛玉饒速日命である。
物部氏の祖神で、記紀ではニギハヤヒという神名になっている。
八咫烏=猿田彦=ニギハヤヒ?

雲陽誌という書物には、星の神と記されている。
大阪の住吉大社や福岡県の宗像大社は海の神とされているが、本当は三ツ星の神ではないかといわれている。
というのは、神殿の配置が、オリオン座の三ツ星の配置に似ているためである。
オリオン座の三ツ星は真東からでて真西に沈むので航海の指標とされていた。
つまり、海の神は星の神の2次的な神格であるともいえる。
そしてニギハヤヒは住吉明神と習合されていると思われるケースもある。(磐船神社・天田神社など)
海の神といえばスサノオもいるが、スサノオは疫神としても信仰されている。
八咫烏=猿田彦=ニギハヤヒ=スサノオ=疫神?

三本脚は八咫烏、毛深い容姿や「猿の声」とされているところは猿田彦、海上にでるところは住吉明神やスサノオ、
疫病を予言するところはスサノオのイメージがある。

アマビコとは天彦で、天照国照彦火明櫛玉饒速日命を略したのかもしれない。



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