①葬式で鷺が箒を持つ役をする
箒の神といえばいくつか思い出すことがある。
古事記はアメノワカヒコの葬儀について、次のように記している。
ガンが死者の食物を持つ役を、サギが帚を持つ役を、カワセミが料理人を、スズメが臼をつく女を、キジが泣き女を担当した。
どうやら鳥と死は関係が深いと考えられていたようだ。
おそらく、死者の魂は鳥になって天上に向かうと古の人々は考えたのではないだろうか。
そして、この中にサギが箒を持つ役をしたとある。
なぜ葬式に箒が必用なのか。
式場を掃除するというよりも、穢れを祓う神具として、サギは箒をもっているのではないかと思う。
⓶帰ってほしい客人
京都では早く帰ってほしい客人があるときは、箒を逆さにして立てておくという。
帰ってほしい客人を穢れとみなし、箒でで祓い浄めるという意味もあるのだろうが
葬式の「箒持ち」を意味しているのかもしれない。
つまり、その客人の葬式のまねごとをすることで、客人の存在を消すという呪術ではないかということだ。
③高砂の尉は熊手を、姥は箒を持つ
山東庵京伝(山東京伝)著『絵本宝七種』(蔦屋重三郎刊、1804年)より「高砂」。
九州の阿蘇の神主・友成は都へ向かっていましたが、途中、高砂の浦へ立ち寄った。
友成は有名な高砂の松をさがしていると、尉が熊手を、姥が箒をもって掃除をしていた。
友成は尉と姥に「高砂の松と住吉の松は、遠く離れているのに、どうして相生の松というのですか?」と尋ねた。
尉は「相生の松は夫婦のようなもので、遠く離れていても心が通じ合うことから相生の松とよばれているのだ」と答え
姥は「松は一千年も緑色の葉を茂らせているので、おめでたいとされているのです」と答えた。
そして、「私たちは松の精。住吉で待っています」といって姿を消した。
高砂神社
住吉というのは大阪市住吉区にある住吉大社付近のことだろう。
現在、住吉大社は海岸から随分離れているが、かつては住吉大社の太鼓橋付近まで海が迫っていたという。
大和川が大量の土砂を運んできて、陸地が増えたのだそうだ。
住吉大社
「おまえ百まで、わじゃ九十九まで 共に白髪がのはえるまで」という俗謡がある。
これは「高砂」をベースに作られた俗謡なのだろうか。
百は「掃く」
九十九までは「熊手」の掛詞になっているといわれる。
「ともに白髪がはえるまで」については、私は次のように考えている。
伊勢物語に九十九髪とかいて、白髪と読ませるものがある。
そのココロは
百ひく一は、九十九
百ひく一は、白
つまり、尉の「九十九」は「白」という意味につながる。
さらに姥の「百」は「掃く」=「ハク」=「白」となる。
つまり、九十九も掃くも白なので、「ともに白髪がはえるまで」となるのではないかと。
本題にもどろう。
住吉大社のホームページには、次のように記されている。
祓の神
住吉大神は伊邪那岐命の禊祓 (みそぎはらえ) の際に海中より出現されたので、神道でもっとも大事な「祓(はらえ)」を司る神です。 住吉大社の夏祭り「住吉祭」が単に「おはらい」と呼ばれ、大阪はもとより摂津国・河内国・和泉国ひいては日本中をお祓いする意義があるほど、古くより「祓の神」として篤い崇敬を受けてきました。
住吉大社は祓の神なのだ。
そして住吉で待っていると告げた尉と姥は高砂の神でもあり、また住吉の神でもあり
祓のため、箒と熊手をもっているのではないだろうか。
④土俵入り、出産祝い、妊婦、遺体と箒
相撲の土俵入りの際には呼び出しが箒で土俵を掃くが、これは単なる掃除ではなく、浄めの儀式であると考えられている。
赤ちゃんが産まれたときに、箒を贈る習慣や
妊婦の腹を箒で掃いたり、遺体の足の上に箒をおくなどの習慣があるが、これらも浄めの儀式だといえるだろう。
⑤上賀茂神社 燃灯祭 小松と玉箒草は夫婦和合を意味している?
上賀茂神社 燃灯祭
上賀茂神社で燃灯祭が行われている。
御阿礼野(みあれの)で小松を引き、境内に戻り、土舎で引いた小松に玉箒草(燃灯草)を添えて紙に包むという神事である。
玉箒草(燃灯草)はアザミに似た紅紫色の花を8月から10月ごろに咲かせる。
玉箒草というのは古名で、現在は田村草と呼ばれている。
古名の玉箒は、花後に多数の実がつく様子が箒に似ているところからくるのではないか、そしてそれが転訛して田村草になったのではないかといわれている。
また、その花が美しい紫色なので、多くの紫色の花をつける草、多紫草から田村草になったのだという説もある。
万葉集に次のような歌がある。
紫は ほのさすものぞ 海石榴市の 八十のちまたに 逢へる子や誰
(海石榴市の辻で逢った貴女は、何というお名前ですか。)
紫色に布を染めるためには、椿の灰を媒染剤とした。
紫とは道で出会った女、灰汁は男のことで、男と目があったとたん、女がぱっと美しく瞳を輝かせた、というような意味だろうか。
こんな歌もある。
紫草(むらさき)のにほへる妹を憎くあらば 人妻ゆゑに我恋ひめやも.
( 紫草の紫色のように美しいあなたのことを憎いと思っているとしたら、どうして私はあなたのことがこんなに恋しいのだろうか。あなたは人妻だというのに)
大海人皇子(のちの天武天皇)が額田王に贈った有名な歌である。
この2首を鑑賞すると、恋する女が美しく瞳を輝かせるようすを『紫』といっているように思える。
つまり、玉箒草は恋する女だ。
すると、小松は男ということではないか。
玉箒草は箒、松は熊手ににているといえないだろうか。
とすれば、玉箒草は高砂の姥、小松は高砂の尉をあらわしているような気もする。
⑥御霊・和霊・荒霊と男神・女神
神はその表れ方によって御霊・和霊・荒霊に分けられるという。
御魂・・・神の本質
和魂・・・神の和やかな側面
荒魂・・・神の荒々しい側面
そして和霊は女神、荒霊は男神だとする説がある。
とすれば御霊は男女双体ということになる。
御魂・・・神の本質・・・男女双体
和魂・・・神の和やかな側面・・・女神
荒魂・・・神の荒々しい側面・・・男神
⑦男女和合は怨霊を守護神にする呪術?
大聖歓喜天(聖天)という仏教の神は象頭の男女双体のおすがたをしている。
大聖歓喜天は祟りをもたらす鬼王ビナヤキャが、十一面観音の化身であるビナヤキャ女神を抱くことによって仏法守護の神となったものである。
小松は男神(荒魂)、玉箒草は女神(和魂)で燃灯祭はこの二つをあわせることによって、荒魂を鎮める儀式なのかもしれない。
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