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「NHKが縄文人の人骨を弥生人の人骨と偽った」というのはねずさんの嘘⓶

①小名木氏が提示する写真は、左右どちらも縄文人だった。

「NHKが縄文人の人骨を弥生人の人骨と偽った」というのはねずさんの嘘

こちらの記事で、私は次のような主張をした。


 


4:06あたりで小名木氏は次のように発言している。
「向かって右側の白っぽい写真、平べったい写真を線対称にしてコピーを繰り返した。
人間の顔は左右でちがう。細く写るほうを使って(?)線対称にしてコピーを繰り返しながらこういう写真を捏造した。」


頭蓋骨

上記動画より引用


①この2枚の写真は同じ被写体を左右反転させていることがわかるが、おそらくどちらか一方はフィルムを裏焼きしたのだろう。
ミスはミスだが、「縄文人の写真を加工して弥生人にした」とはいえない。
というのは、どちらの写真もタイトルが縄文人となっているからだ。


「日本人はるかな旅⑤ そして日本人が生まれた(日本放送出版協会)』に掲載されている写真のタイトルを確認すると
むかって左は「岩手県宮野貝塚の縄文人(本138p)」
向かって右は「縄文時代晩期の男性頭骨[国立科学博物館(本37p)」である。


⓶動画で提示されている写真のタイトルは、
「岩手県宮野貝塚の縄文人(左)と島根県古浦遺跡の縄文系弥生系人(右)(本138p)」
の右上に
「縄文時代晩期の男性頭骨[国立科学博物館(本37p)を重ねたものと思われるので
向かって右の写真を「島根県古浦遺跡の縄文系弥生系人(右)」と勘違いする人がいそうだ。

右端に32という数字があるが、本にはこのような数字は記されておらず、何の数字かわからない。


⓶輪郭がつぶれて背景と同化しているため細長い輪郭に見えていた。


写真向かって左が細長く見えるのは、画質が悪く、頭蓋骨の輪郭がつぶれて背景と同化しているためだ。
本の写真と、小名木氏が提示している写真を比較すればすぐわかる。

縄文人 写真比較①

縄文人 写真比較⓶

③放送を見てみたが、縄文人・弥生人の比較は写真ではなくCG


「NHKが放送し、本にした写真」と書いてあるので、本を確認したのだが、
「放送で偽造写真が用いられたのではないか」という意見があった。
NHKがこんなに画質の悪い写真を使うはずがないだろう、と思ったが番組を見てみることにした。


 日本人はるかな旅 第5集 「そして”日本人”が生まれた」 の内容を簡単に記す。


①約2400年前の板付遺跡は縄文時代には見られない環濠集落で、あぜや水路が完備された水田などが発掘された。
縄文の遺跡にはない特徴を持っているので、渡来人がやってきた可能性が考えられた。


⓶板付遺跡に近い福岡空港から2300年前の人骨が見つかった。(水田稲作集落から見つかった始めての人骨)



③人骨は損傷が激しかったため研究チームは CT スキャンによって採取したデータをもとにコンピューター上で骨の修復を試みた。



ここで縄文人の人骨と比較した写真がでてくる。
弥生人(福岡の人骨)と縄文人の人骨比較をしているのはこれだけであるが、
コンピューター上で人骨を修復したCGのようなものであって、小名木氏が提示しているような写真ではない。


また輪郭、歯の並びなども小名木氏が提示しているものとは全く違うし、本に掲載されているものとも違っていた。


④断絶に近い違いがみられるのは渡来人だから



そして次のようにナレーションが入っている。


「その結果新たな人々の顔つきは縄文人と大きく異なっていたことがわかったのです。
左の福岡の人骨はかなり面長な印象です 一方右の縄文人はエラの張った四角い顔に見えます。
計測の結果、顔の横幅はほとんど同じなのに 縦の長さは福岡の人骨が2センチ以上も長くなっていました。
さらに横から見ると 福岡の人骨の方が眉間から鼻にかけての隆起が小さく 扁平な顔をしていることが分かりました。」



そのあと比較研究をしている中橋孝博さんが、次の様に発言している。


「単なる違いが大きいということだけじゃなくて内容的に断絶に近い違いが見られるんですね。
ですから単純に文化的な影響で顔立ちが方が変わったというよりはですね、
おそらくや時代に別の遺伝的な特徴を持った集団が流れ込んできたと思いますね」


小名木氏は、動画3:10あたりでこうのべている。
縄文人と弥生人は民俗がいれかわるくらい大きな変化があったんだという証拠に使われている写真。


中橋孝博さんは「単なる違いが大きいということだけじゃなくて内容的に断絶に近い違いが見られるんですね。」
とおっしゃっているが、これは
「縄文人と弥生人は民族が入れ替わるくらい大きな変化があった」という意味ではない。



この福岡の人骨は渡来系弥生人と考えられている。
だから縄文人とは全く顔つきが違っていると考えられるのだ。



そして縄文人とは、縄文時代に生きていた人々のことをいい、
渡来系弥生人、縄文の血をひいた人、渡来系と縄文系の混血もひっくるめて弥生人という。



⑤日本では一方がもう一方を徹底的に滅ぼしてしまうようなことはなかった。


番組を最後まで聞いてみよう。


①山口県豊北町の土井ヶ浜遺跡で福岡の人骨と同じタイプの骨が大量に発掘された。
埋葬された人骨は20度北を向いた方角に顔を向けて葬られていた。
これは朝鮮半島、中国大陸の方向であり、土井ヶ浜の人々が大陸方面からの渡来人だと考えられるようになった。



⓶中国山東省でリンシで土井ヶ浜遺跡とほぼ同じ時期の人骨が大量に出土した。
人類学者の松下孝之さんは発見された人骨を1体1体を細かく計測した。
中国の人骨は土井ヶ浜の人骨とよく似ていた。
土居ヶ浜の人々は中国大陸からきたのではないか。


ここで写真による土井が浜の人骨と、中国の人骨比較が行われているが、
これは渡来系弥生人である土井ヶ浜の頭蓋骨と、中国で発見された人骨の比較なので
縄文人を加工して弥生人と偽ったとはいえない。
また放送で用いられていた土井が浜の渡来系弥生人の写真は、下記向かって右の「土井が浜遺跡の図骨」と記されている方の写真で、左の縄文時代晩期の男性頭骨ではない。



縄文人 弥生人2

日本人はるかな旅⑤より引用

下の宮野貝塚の縄文人でもない。


縄文人 弥生人


日本人はるかな旅⑤より引用

③日本列島に渡来人が現れた頃、中国大陸は春秋戦国時代。戦乱を逃れて日本にやってきたのではないか。


④人類遺伝学者の徳永勝士さんは、血液の中に含まれる ヒト白血球抗原 通称HLA という物質を分析することで日本人のルーツを調べている。
HLA とは白血球の表面にあって免疫反応を司るタンパク質。 分子構造の違いによって1万を超えるタイプに分かれる。
現代日本人に最も多いタイプD 52₋ DR2は、西日本そして韓国、中国北部に多く分布している。
朝鮮、中国北部から日本へやってきた人たちがいたのではないか。
その数は正確にはわからないが、数百年にわたって何波にも分かれてやってきたと考えられる。



⑤九州大学の中橋 孝博 さんの研究によれば福岡のある遺跡の渡来人の墓は50年で2倍、100年では6倍以上に増加している。
渡来人たちは水田稲作による安定した生活の中で急速に人口を増やしたのではないか。


⑥2300年前、渡来系の人たちは水田稲作によって人口をふやす。数十年で縄文系の人々を上回ったと考えられている。 渡来系の人々は戦いに使う武器を作り、縄文系の人々と争った。
新方遺跡の縄文系の人の骨には17個もの矢尻がささっていた。



⑦考古学者の松木武彦さんは、春秋戦国の乱世を生きた渡来人によって、大陸から戦いが持ち込まれたと考える。
生まれながらにして戦争のある社会に育っているので、戦うことに躊躇はなかっただろう。



⑧大阪平野に住む渡来系の人々は武器に用いるサヌカイトを四国までとりにきていた。



⑨渡来系の人々は濃尾平野に達したが、それ以上東へはなかなかすすめなかった。
遺跡の分布の研究から縄文人の85%は東海・北陸以東の東日本に住んでいたことが分かっている。
水田を切り開くことは困難な深い森 そして縄文系の人々の高い人口密度が東へ進むことを妨げた。


このような状態が200年ほどつづく。


⑩兵庫県伊丹市から、深い溝を複雑に組み合わせた文様の土器が発掘され、考古学者の小林青樹さんが調査を行った。
文様が一致したのは長野県を中心に分布する氷式土器と言う縄文系の土器だった。
しかし粘土は地元の物を使っていると考えられた。
東の縄文人がこちらにきて、地元の土を使って作った土器ではないか。
同様の土器は中国地方の遺跡でも見つかった。
渡来系の人々が大陸からもたらした最先端の生産技術が縄文系の人々を惹きつけ 交流を促した?



⑪約2100年前、渡来系の人々は関東平野に姿をあらわす。
小田原の中里遺跡は面積6万平方メートル、東京ドームが2つ入る。
水田があり、多いときは200人以上の人々が暮らしていた。
西日本の渡来系の集落を思わせるが、縄文系の人々も暮らしていた。(縄文系土器がみつかっている。)
渡来系の小さな斧に混じって縄文系の牛の鍬が見つかっている。
渡来系の人々は縄文系の人々の協力を得て、関東平野に進出した?
遺物の中には武器はほとんどない。
このような例はほかにもあり、日本では一方がもう一方を徹底的に滅ぼしてしまうようなことはなかった。



⑫岩手県北上山地にあるアバクチ洞窟で、約2000年前の弥生時代中頃に葬られた人骨が発掘された。
目のくぼみが丸い・・・渡来系の人々の特徴
鼻の付け根太い・・・・縄文系の人々の特徴
縄文系、渡来系の混血?


※ここでも頭蓋骨の映像が用いられているが、子供の人骨で、小名木氏が提示している写真とは異なっている。



⑬人類学者の松村博文さんは人骨に残された歯を分析している。
小ぶりな歯は縄文系、右の大きな歯は渡来系
松村さんは古代から現代までに1500人の歯を統計的に分析し縄文系・渡来系、どちらの要素が強いか鑑定した。
どちらの要素が強いかは人によって大きなばらつきがあった。
渡来系と土着の縄文系の混じり合いの度合いは地域によっても異なっていた。
西日本は渡来系要素が強く、東に行くほど縄文系の要素が強い。


⑭奈良県の大和盆地に古代国家が芽生える。その中心地、纒向遺跡から形や文様がさまざまな土器が派遣された。
九州から関東まで。当時大和盆地に日本列島の各地から人々がやってきていた。


「日本では一方がもう一方を徹底的に滅ぼしてしまうようなことはなかった。」とあるのに注意してほしい。
小名木氏は「縄文人と弥生人は民俗がいれかわるくらい大きな変化があったんだという証拠に使われている写真。」
といっているが、番組では民族がいれかわるくらい大きな変化があったとはいっていないのだ。


⑥写真を引用しなければ説明できないので、著作権法違反ではない。

この写真の使用が著作権法違反だという人がいるので、説明させていただく。
この記事は、「NHKが縄文人の写真を細長く加工して弥生人と偽った」という小名木氏の主張がまちがいであるということを示すために書いたものである。

そのためには該当する写真を引用しなければ説明できない。
このような場合には著作権法違反にはならないと思う。

https://innovarth.co.jp/writing/copyright.html


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三内円山遺跡は1万人が住む都市ではなかった。(竹田学校について)


①【竹田学校】歴史・縄文時代編⑮~縄文都市「三内丸山遺跡」~



上記動画の内容をまとめる。読むのがめんどくさい人は、とばして⓶へ。


①歴史の教科書では、世界4大文明(中国・インダス・メソポタミア・エジプト)というのが必ず出てくる。
⓶すべての文明はこの4つのから派生した、亜流だというふうに言われていた。
③日本文明はう中国文明の亜流だとも言われていた。
④現在、亜流という考え方は否定されている。
⑤4大文明を教えている国は世界で日本だけ 。
⑥ 日本文明は中国から来たものではない。中国よりも古い磨製石器・土器がある。
⑦日本から中国に伝わったものもある。
⑧文明という言葉自体が西洋の歴史学者たちが創り出した概念なので、日本にあてはまらない。
⑨三内丸山遺跡(青森県)は巨大な遺跡で、縄文都市と呼んでもいいほど
⑩土器を作る技能を持った人が、大陸から日本にやってきたわけではない。
もともと日本に住んでいた人たちが土器を作る技術を独自に編み出した。
⑪縄文人は岩宿人。岩宿人の子孫が縄文人。縄文人の先祖は岩宿人。
⑫岩宿時代に代々日本人の血統の原型はできている。
⑬縄文時代に大量に外国から、半島やその大陸からたくさん人が渡ってきた痕跡はない。
(DNA、考古学からみて)
渡来人がやってくるのは、縄文から弥生に切り替わるころ。農耕の技術を持った人が中国大陸の南方の方から多少きたということがわかっている。
⑭縄文土器の一番古い大平元Ⅰ遺跡は縄文がついてなかった。
⑮1877年エドワード・モースが大森貝塚を発見し、出土した土器に縄目がついていたので縄文と名付けた。
(考古学の始まり)
⑯土偶がどう使われていたのか何の意味があるのかよくわからない。
全国で出土している。これまで出土した土偶は1万5千個以上
女性。妊娠のも多い。
⑰日本人の価値観の根本的な部分はもしかしたらこの縄文時代にはあの確立していたのではないかともいわれる。
⑱縄文時代は狩猟生活採取経済なので、大規模な集落はないと言われていたが
三内丸山遺跡は大きな集落だった。しかも5,900年前から4300年前まで1600年間営まれている。
広さが35ヘクタール、。3000棟以上。もしかしたら一万何千人にも住んでたのでは。争いのあともない。
栗、瓢箪、エゴマを栽培していた。
糸魚川のヒスイ、岩手の琥珀、それから秋田のアスファルトなども出土している。
何百キロにわたるネットワークができていた。
⑲縄文時代の遺跡からは戦争の跡と思われる出土物がない。
大きなお墓もなく、平等で尊重し合いながら平和に暮らしていたということがわかる。
⑳弥生時代には、西日本などに、戦争で傷ついたと思われる人骨が発見されている。
㉑日本は奪い合うのではなく、分け合う文化といわれるが、縄文時代から日本人の精神性が出来始めていた。
㉒漆は中国大陸から日本に伝わったと考えられていたが、逆転した。
中国より古い漆が平成12年、北海道で発見された。(函館市の垣ノ島B遺跡)
それまで一番古いと考えられていたのは7千年前
㉓日本にはもともと漆の木は自生していなかったと考えられていたが、中国大陸よりも古い時代、12600年前の漆の木が出てきた(福井県三方神中郡若狭町の鳥浜貝塚)
㉔今、最古と言っても次の瞬間には新たな発掘があって塗り替えられる可能性もある。
㉕日本は世界のいろんな地域と比べても少なくとも岩宿時代と縄文時代に関しては主要な品目に関しては最先端をいっていた。


⓶3000棟以上の民家跡は一時期にそれだけの民家があったのではない


⑱縄文時代は狩猟生活採取経済なので、大規模な集落はないと言われていたが
三内丸山遺跡は大きな集落だった。しかも5,900年前から4300年前まで1600年間営まれている。
広さが35ヘクタール、。3000棟以上。もしかしたら一万何千人にも住んでたのでは。


この文章を一読しただけで、あれ?と思う人が大勢いると思う。
そう、3000棟以上の民家跡があるというが、この遺跡は1600年間営まれた集落なので、
普通に考えて3000棟以上の民家跡は一時期にそれだけの民家があったのではなく
1600年という長い期間にわたって存在し、発見された民家跡の数が3000棟なのではないか、
一時期に存在していた民家の数はもっと少ないのではないか、ということだ。

微妙な言葉のニュアンスが読み取れず、勘違いしているといけないので、実際の発言を書きだしてみる。

10:11 だいたい3000棟以上3000棟ですからもしかしたら一万何千人住んでたんじゃないかっていう風に考えられるんですね。

12:51 1万人を超す人が一箇所に整然と暮らしていて争いもなくね

12:51ではっきり「1万人を超す人が一箇所に暮らしている」と発言されているので、私の勘違いではない。


③発掘された住居跡は800程度。3000は発掘見込みでは。

ウィキペディアには次のように記されている。

遺跡には、通常の遺跡でも見られる竪穴住居、高床式倉庫の他に、大型竪穴住居が10棟以上、約780軒にもおよぶ住居跡、さらに祭祀用に使われたと思われる大型掘立柱建物が存在したと想定されている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%86%85%E4%B8%B8%E5%B1%B1%E9%81%BA%E8%B7%A1#%E9%81%BA%E8%B7%A1%E3%81%AE%E6%A6%82%E8%A6%81
より引用

また、次のように記された記事もあった。

これまでの発掘調査で、600棟近くの住居跡が見つかっているが、さらに発掘が進められることで最終的には3000棟にも及ぶものと推定されている。多いように思えるが、この数字は1500年間の集積である。これから同一時期にどれだけの住居が建っていたのかを推定するのは極めて難しい。

 今から4500年前の最盛期の住居数は約100棟。1棟に4、5人が住んでいたとすれば、人口400人から500人くらいの集落になっていた可能性が高いといわれる一方で、多くてせいぜい100人とする説(小林達雄)もあり、学者の意見はまちまちである。

http://home.s01.itscom.net/sahara/stone/s_tohoku/038_sannai/038.htm
より引用

3000棟は発掘見込みの数字、ウィキの記事が記されたあと、発掘された住居跡の数は増えたかもしれないが、実際に発掘されたのは800棟程度ではないだろうか。

⑨三内丸山遺跡(青森県)は巨大な遺跡で、縄文都市と呼んでもいいほど


という竹田さんの発言がある。
巨大な遺跡であることは間違いない。


都市とは、「人口の集中した地域で、政治・経済・文化の中心になっている大きなまち。」とコトバンクには記されている。
https://kotobank.jp/word/%E9%83%BD%E5%B8%82-105089 

そういう意味で三内円山遺跡は縄文都市といってもいいだろうが、
「一時期に3000棟あり1万人を超す人がすんでいた」という発言は言い過ぎだろう。
一般的には、一時期に住んでいたのは400~500人と考えられており(この推定が間違いである可能性もあるが)
1万人だと、20倍にもなってしまう。

④縄文人の先祖は大陸からやってきたと考えられている。

⑩土器を作る技能を持った人が、大陸から日本にやってきたわけではない。
もともと日本に住んでいた人たちが土器を作る技術を独自に編み出した。

⑬縄文時代に大量に外国から、半島やその大陸からたくさん人が渡ってきた痕跡はない。

については一般的に、竹田さんが述べておられるように考えられていると思う。
竹田さんは間違ったことは言っていない。ただし、若干誤解を生む表現であるかもしれない。

様々な説があるが「三段階渡来説」について次のように説明されている記事があった。

第一段階は旧石器時代から縄文時代中期に、ユーラシア大陸各地から狩猟採集民が渡来した。
第二段階は縄文後晩期の渡来人の波。大陸沿岸の漁業を中心とした「海の民」が日本列島に移住した。北部と南部にはほとんど影響がなかった。
第三段階は弥生時代以降。前半に朝鮮半島を中心に大陸から遺伝的に少し異なる人々が渡来。九州北部に水田稲作をもたらした。後半(古墳時代以降)は引き続き大陸から渡来民が到来し、列島中央部の政治の中心が九州北部から現在の近畿地方に移った。北海道北部にはオホーツク文化人が渡来し、第一段階の渡来人との混血が進みアイヌが形成されたとの説だ。


また、第三段階で列島中央部に中心軸が形成され、北陸など周辺部分との「うちなる二重構造」が生じたと考えている。

今回のプロジェクトではこのモデルの検証も大きなテーマに掲げているが、「渡来時期など異なる見方もあり、さらに列島内の地域性を詳しく調べる必要がある」(斎藤さん)ため、結論はなお先になりそうだ。

より引用

つまり、縄文人は大陸からやってきたのではなく、石器時代に縄文人の先祖が日本列島にやってきたと考えられているのだ。

もともと日本列島に人が住んでいたのではないか、と言われるかもしれない。


日本列島はユーラシア大陸とつながっていたのが、約3000万年前に大陸から離れたと考えられている。
そして日本列島が形成されたあと、10数万年前に人類はアフリカで誕生し、世界へ拡散したと考えられている。
この説をとれば、日本列島にはもともと人は住んでおらず、どこからかやってきたと考えられるということになると思う。

⑪縄文人は岩宿人。岩宿人の子孫が縄文人。縄文人の先祖は岩宿人。

について。


岩宿遺跡は、群馬県みどり市にある旧石器時代の遺跡で、この遺跡の発見によって、日本に石器時代が存在したことが解明された。

つまり、竹田さんは石器時代人が縄文人の先祖だといっているわけで、そのとおりである。

しかし、すでに述べたように、日本列島が形成されたのは約3000万年前で、日本列島が形成されたあと、10数万年前に人類がアフリカで誕生し、世界へ拡散したと考えられているので、
石器時代の人々の先祖はどこからか日本列島に住んでいたと考えられる。

⑥漆は日本の自生種は本当か?

㉒漆は中国大陸から日本に伝わったと考えられていたが、逆転した。
中国より古い漆が平成12年、北海道で発見された。(函館市の垣ノ島B遺跡)
それまで一番古いと考えられていたのは7千年前

これについて調べてみたところ、年代については、下記サイトでも同様の記述がなされていた。
https://urushi-joboji.com/urushi/uruwashi


㉔今、最古と言っても次の瞬間には新たな発掘があって塗り替えられる可能性もある。

という発言も好感がもてる。

㉓日本にはもともと漆の木は自生していなかったと考えられていたが、中国大陸よりも古い時代、12600年前の漆の木が出てきた(福井県三方神中郡若狭町の鳥浜貝塚)

について

ウィキペディアでも竹田さんと同様の記述がなされている。



さらに、こんな記事がみつかった。

http://okinawa.ave2.jp/okinawa/masat/130521Jomon/Urushi-Torihama/Torihama.html

上記記事に次のような内容が記されている。

①鳥浜貝塚から、1984年に発見され、11000年前頃の土器と共に出土した炭化した樹木から作られたプレパラートが最近になって樹種を同定出来るようになり、2012年に12600年前のウルシと判定された。



⓶形状は小枝。樹液の採取痕はない。

③ 現在日本に見られるウルシであるという表現が曲解され、日本固有種と受け取られ独り歩きしている。

④調査の過程でDNA分析は行われていない。組成検査という目視と、炭素分析という燃えカスによる分析。


⑤  三内丸山遺跡出土の漆は佐藤洋一郎氏(静岡大学)によってDNA分析が行われ、比較した中国産とは違うと鑑定された。これを、日本の漆は日本固有種という意味に曲解されたようだ。

⑥Wikipediaの誤りから、ネット上の言葉が研究者の言葉や、事実と誤認された。


⑦鳥浜貝塚から出土した漆の小枝は12,600年前。
鳥浜貝塚出土の漆工芸品は6500年前で、島根県松江市の夫手遺跡からは6,800年前、新潟県大武遺跡は6600年前、石川県三引遺跡は6800年前。日本海側の遺跡からはほぼ同じくらいの年代に完成品が現れる。
12,600年前以後6000年の間漆製品が発見されていないのは、ウルシ採取。漆工芸品の生産は行っていなかったということ


⑧もし生産を行っていれば、カリンバ遺跡のように工房跡が出てくる。


三内丸山遺跡のウルシについて
「日本列島のどこかで栽培された可能性が高いことが示された」栽培種であり、自然木でないと言っている。
長江下流説と北方ルートの検証で中国から北方ルートでもたらされたとの見方が強まった。
 (長江下流から直接、または、半島経由で、日本に持ちこまれた説は否定的と言っている。)


⑩それに対して、日本は日本独自の固有種で、独自の技術であると主張。
漆のDNA分析で日本と中国は別種であると流布されているが、それを裏付ける文書はどこにもない。


このうち、
⑦鳥浜貝塚の漆製品 については、竹田さんは述べられていない。


また「漆の木は帰化植物だと言われていたんですけれどももしかしたら原産地日本じゃないの、ということもですね想定されるようになった。実際これわかりません。まだね中国から出たとかあるかもも知れませんから分かりません」
とおっしゃっていて、「漆の原産地が日本である」と断言されているわけでもない。


従って、これは竹田さんの発言に対しての批判ではないので、念のため、申し添えておく。

ただ、垣ノ島B遺跡では工房跡が見つかっているのか、ということは気になる。
ウィキの記述には記述がないし、単に見つかっていないだけかもしれないが、漆製品が出ただけでは生産をおこなっていたとは断言できなさそうである。








 

トンデモもののけ辞典㊷ 赤えい



竹原春泉画『絵本百物語』のうち、三巻の六丁 「赤ゑいの魚」。

竹原春泉画『絵本百物語』のうち、三巻の六丁 「赤ゑいの魚」。

①赤えい

赤えい(あかえい)は、江戸時代後期の奇談集『絵本百物語』(天保12年(1841年)刊)に見える巨大魚。原典には「赤ゑいの魚(あかえいのうお)」の名で記載されている。

概要
安房国(現在の千葉県南端)の野島崎から出航した舟が、大風で遭難して海を漂っていたところ、島が近くに見えてきた。
これで助かったと安堵した船乗りたちは舟を寄せ、上陸した。
ところが、どこを探しても人がおらず、それどころか見渡せば、岩の上には見慣れない草木が茂り、その梢には藻がかかっている。
あちこちの岩の隙間には魚が棲んでいる。
2、3里(およそ10キロメートル前後)歩いたが人も家も一向に見つけることができず、せめて水たまりで渇きを癒そうとしたものの、どの水たまりも海水で飲めはしなかった。
結局、助けを求めるのは諦めて船へ戻り、島を離れたところ、今までそこにあった島は海へ沈んでしまったという。
実はこれが、海面へ浮上した赤えいであったとのことである。


改行は筆者が適当にいれました。

⓶解説文

『絵本百物語』の挿絵中の解説文には、以下のようにある。

この魚その身の丈三里に余れり 背に砂たまれば落さんと海上に浮べり
其時船人島なりと思ひ舟を寄すれば水底に沈めり
 然る時は浪荒くして船これがために破らる 大海に多し

現代語訳は以下の通り。
この魚は体長3里(約12キロメートル)を上回る。
背に砂が溜まれば、砂を払い落とそうと時おり海上に現れる。
人がもしこれを島と見誤って船を近づけようものなら、船は水底に沈められ荒波によって壊されてしまい、乗員も船もろとも渦に呑み込まれてしまう。
この怪異は大海に多い。


また、国書刊行会『竹原春泉 絵本百物語 -桃山人夜話-』にて類話とされているものに説話「赤えいの京」があり、その梗概は以下の通りである。
何隻かの漁船が大きな島に上陸したが、あくる日にその半分ほどの船が海へ流されていたので漁師たちは残りの船で島を脱出したところ、そこは南海の未知の国であった。
実は彼らが上陸したのは島ではなく巨大な赤えいの背であり、知らぬ間に遠くの海へ漂流していたという。
実在の魚であるアカエイは総排出腔の形が人間の女性器に似ているため、美女の喩えである傾城(城主を色香で迷わせて城を傾けるほどの美女)に因む「傾城魚」(けいせいぎょ)の別名があるが、この名称から後に、アカエイの中には背に京(城)を乗せているほど巨大なものがおり、そのアカエイは突然海中に沈んで背の城を傾けるといった話が生まれたとする説もある。
また、アカエイと同じトビエイ目のエイであるオニイトマキエイも、大型の個体は全長5メートルから6メートル、全幅10メートル以上におよぶことが知られている。

なお、『絵本百物語』刊行の半世紀程前、天明5年(1785年)成稿の林子平『三国通覧図説』にも
蝦夷国(北海道)の近海に棲息し「背ノ広キコト方六七十丈(およそ200メートル前後四方)」という「鱝魚」の記述があり、その訓には「アカヱイ」と振られてある。


③赤えいは、野島崎や北海道そのものの妖怪?

まず、千葉県野島崎の場所を確認しておこう。

 

野島崎の形は菱形をしていて、なんとなく赤えいににているような気がする。

赤えい2

北海道も菱形をしている。


もしかして、「赤えい」とは野島崎や北海道そのものの妖怪なんてことはないだろうか。

もう一度、妖怪の絵を見てみよう。

竹原春泉画『絵本百物語』のうち、三巻の六丁 「赤ゑいの魚」。

妖怪には画面上のほうに、手のようにも見える突起が描かれている。
しかし、実際「赤えい」にはこのような突起はない。
しかし、野島崎の地図を見ると、南西に「ナラ島」と記された突起のような場所がある。
妖怪の絵に描かれた突起は、この「ナラ島」ではないか?
 

写真を確認すると、さほど高い土地もなさそうで、ますます赤えいのイメージに近づく。

④「赤えい」の伝説は台風被害を描いたものだった。

「赤えい」の正体が野島崎そのものだとすれば、次の記述は台風による水害で、野島崎が水害にあったことを意味していそうである。
「どこを探しても人がおらず」とあるのは、台風による高波で民家も人も壊されて流されてしまったということだろうか。

大風で遭難して海を漂っていたところ、島が近くに見えてきた。
これで助かったと安堵した船乗りたちは舟を寄せ、上陸した。
ところが、どこを探しても人がおらず、それどころか見渡せば、岩の上には見慣れない草木が茂り、その梢には藻がかかっている。
あちこちの岩の隙間には魚が棲んでいる。
2、3里(およそ10キロメートル前後)歩いたが人も家も一向に見つけることができず、せめて水たまりで渇きを癒そうとしたものの、どの水たまりも海水で飲めはしなかった。
結局、助けを求めるのは諦めて船へ戻り、島を離れたところ、今までそこにあった島は海へ沈んでしまったという。

⑤傾城魚

実在の魚であるアカエイは総排出腔の形が人間の女性器に似ているため、美女の喩えである傾城(城主を色香で迷わせて城を傾けるほどの美女)に因む「傾城魚」(けいせいぎょ)の別名があるが、この名称から後に、アカエイの中には背に京(城)を乗せているほど巨大なものがおり、そのアカエイは突然海中に沈んで背の城を傾けるといった話が生まれたとする説もある。

この文章に記されている総排出腔とは直腸・排尿口・生殖口を兼ねる器官のことで、多くの軟骨魚類、両生類、爬虫類、鳥類や哺乳類の一部はこの総排出腔をもっている。

赤えい

上の写真はエイを腹側からみたものである。
上部の目のように見える二つの穴は鼻、その下にある穴は口である。
口の下、左右に縦に5つ並んでいるのは、鰓(エラ)の穴だ。
一番下にあるのが総排出腔。

妖怪・赤エイのほか、宮古島の伝説には、エイと契る男の伝説などもある。

湧湧川マサリヤという漁師がいました。
ある日漁に出てエイを釣ると、エイは美しい女に変わりました。
マサリヤは女と一夜を共にしましたが、夜が明けると女はいなくなっていました。

数ヶ月後マサリヤが漁をしていると、男の子が海から現れ「お父さんを龍宮にお連れします」と言ってマサリヤを海の中へと誘いました。
龍宮城でエイの女と再会して歓待を受けるマサリヤ。
けれども数日もすると海の暮らしにも飽き飽きして陸へ帰ることにしました。
女は別れ際に酒の入った壺を渡しました。

陸では3年の月日がたっていました。マサリヤがもらった壺の中の酒を飲んでみると、甘露のような美味しさ。壺から尽きることのない美酒は村で飛ぶように売れ、マサリヤは金持ちになりました。

しかしある日マサリヤが「こんな酒はもう飽きた」と言うと、壺は白鳥になって飛んでいき、マサリヤはたちまち老人となってしまいました。


⑥菱形は女陰をあらわす?

しかし、それだけではなく、エイの形が菱形をしていることも関係していそうに思える。
ネットを検索すると雛祭りの菱餅は女陰を、甘酒は精液をあらわしているとする記事ヤカキコミが結構みつかる。
都市伝説だとの意見もあるが、私は菱餅や甘酒にはそういう意味があると思っている。

雛祭りには蛤のお吸い物を食べる習慣があるが、蛤とは女陰の隠語である。

余談となるが、 サンドロ・ボッティチェッリの『ヴィーナスの誕生』にも巨大な貝が描かれている。

サンドロ・ボッティチェッリ「ビーナスの誕生」

サンドロ・ボッティチェッリ『ヴィーナスの誕生』

里中満智子さんの漫画「マンガ・ギリシャ神話①」によると、このような筋であるらしい。

ガイア(大地の女神)は自らの力でウラノス(天空の男神)をうみ、
ガイアとウラノスは交わって、多くの神々を産んだ。
ガイアは一つ目の巨人や、頭が50、手が100ある子を産み、ウラノスは彼らを地底に閉じ込めてしまう。
これに怒ったガイアは我が子・クロノスにウラノスの性器を切り落とさせた。
ウラノスの性器は海に落ち、その泡からアフロティーテがうまれた。
アフロディーテは貝にのってキュプロス島へやってきた。

アフロディーテは英語ではヴィーナスという。

つまりヴィーナスは男性器の泡から生まれ、貝=女性器にのってキュプロス島へやってきたわけで、かなりエロい存在なわけである。




トンデモもののけ辞典㊶ 玄武

新熊野神社 玄武

新熊野神社 玄武

①玄武は亀に蛇がまきついた姿

玄武・青龍・朱雀・白虎という中国伝来の聖獣のことを四神という。
玄武は北、青龍は東、朱雀は南、白虎は西の守護神とされる。

玄武は上の写真のように、亀に蛇がまきついたような姿をしている。

⓶亀は天の北極、蛇は北斗七星?

大阪府交野市にある星田妙見宮を訪れると、幟がたてられており、下のイラストが描かれていた。玄武

亀に蛇が巻き付く姿、これは玄武を描いたものだが、その上に
7つの〇をつないで、その先端に剣のようなものをつけた図が描かれている。
これはいったい何だろうか?

星田妙見宮の参道には北斗七星の神々の石造が置かれている。

宮星田妙見

境内図に貪・ 巨・ 禄・ 文・ 廉・ 武・ 破と記されているが、これらはそれぞれ貪狼星・ 巨門星・ 禄存星・ 文曲・ 廉貞星・ 武曲星・ 破軍星の七つの星の神を示している。

星田妙見 破軍星

上の写真は、星田妙見宮の破軍星の像だが、破軍星の文字の下に北斗七星のようなものが描かれている。

貪狼星・ 巨門星・ 禄存星・ 文曲・ 廉貞星・ 武曲星・ 破軍星は北斗七星の神、ということなのだろう。
しかし、貪狼星・ 巨門星・ 禄存星・ 文曲・ 廉貞星・ 武曲星・ 破軍星の境内の位置は北斗七星の形にはなっていない。

そこで、もう一度、幟に描かれた玄武のイラストを見てみよう。

玄武

星田妙見の北斗七星の神々のレイアウトが、北斗七星の形をしていないように、
このイラストに描かれた七つの〇は北斗七星を表しているのではないか。

そして七つの〇と似た形をしている玄武の「亀に巻き付いた蛇」。
この蛇もまた、北斗七星をあらわしているのではないか。

とすれば、玄武の亀は天の北極をあらわしているように思えてくる。

③織女石は北極星ではないのか?

星田妙見宮の妙見は妙見大菩薩の妙見だろう。
妙見大菩薩とは北辰(天の北極)を神格化した菩薩。
ということは、星田妙見宮は北極星を祀る神社ということになる。
(天之御中主を御祭神としているが。天之御中主という神様は北極星の神様なのかもしれない。)

妙見山の参道には北斗七星の神々が祀られているので、妙見山の頂上は天の北極だろうか。

ところが、妙見山の頂上近くに磐座があって織女石(たなばたいし)と呼ばれている。
これはおかしい。
織女石と呼ばれている石は織女星(ベガ)ではなく、北極星または天の北極をあらわしているのではないのか?

星田妙見宮

星田妙見宮 織女石

④北斗七星ではなく小熊座の神々?


歳差運動による北極星の変化

歳差運動による星の間の北天の極の経路
作者/タウオルンガ さん

上図+2000の文字の向かって左にある星(ポラリス)から緑色の線でつながる7個の星は小熊座である。

星田妙見宮の参道に祀られている貪狼星・ 巨門星・ 禄存星・ 文曲・ 廉貞星・ 武曲星・ 破軍星は本当は北斗七星ではなく、小熊座の神々ではないのか、とも思えるのだがどうだろうか。

すると、玄武の亀に巻き付く蛇もまた、子熊座ではないかと思えてくる。

星が降る伝説は流星群をあらわしている?

余談だが、星田妙見宮にある大阪府交野市には、こんな伝説がある。

嵯峨天皇の御代、弘仁年間(810~823年)に、弘法大師が獅子窟寺吉祥院の獅子の窟に入り、佛眼仏母尊の秘法を唱えたところ天上より七曜の星(北斗七星)が降り、
星の森・光林寺・星田妙見宮の三か所に落ちた。

空海の秘宝は星を降らせるほど強力な呪術力を持っていたのか?
なんて考えるのは、今の時代ナンセンスである。
星が降るというのは流れ星のことだと思う。
それも北斗七星が降ったとあり、7個の星が降ったというこで、この伝説は流星群を物語にしたものではないかと思った。

いろいろな流星群があるが
しかし、北斗七星流星群や、大熊座流星群(北斗七星は大熊座を構成する星)というのはない。

小熊座流星群ならある。
小熊座付近を放射点として流星群が見られるそうだ。

こぐま座流星群

小熊座流星群

小熊座が観測されるのは12月17日~12月26日で、ピークは12月22日である。
12月22日は冬至である。
冬至は太陽の南中高度が最も低くなる日である。

空の真南で1年で最も南中高度の低い太陽が昇ると、夜にはほぼ真北の空で流星群が降る。
この現象を昔の人はどんな風に感じただろう。
冬至の衰えた太陽が北の空に移動して流星となって散る。
そして冬至のあとに新しい太陽ができ、再び南中高度をあげていく。
などと考えていた、なんてことないだろうか。




トンデモもののけ辞典㊵ なすび婆


なす

①なすび婆

延暦寺には『なすび婆』の伝説が伝えられている。

昔宮中に仕えていた女が人を殺して地獄に堕ちた。
しかし仏の慈悲によって心は比叡山に住むことが許された。
織田信長の比叡山焼き討ちのとき、なすび婆は大講堂鐘楼の鐘をついて人々にこれを知らせた。

延暦寺 鐘楼

延暦寺 大講堂 鐘楼

②一富士・二鷹・三茄子の謎

私は初夢で見ると縁起がいいとされる「一富士・二鷹・三茄子」とは、鉱山の隠語ではないかと考えている。
この「トンデモもののけ辞典」シリーズでも何度か書いたが、その理由は次のようなものである。

❶栃木県那須町の近くには足尾銅山がある。愛媛県新居浜市のなすび平の近くには銅山川が流れ、別子銅山がある。
       銅は茄子色をしている。そして茄子が鈴なりになっている状態を坑道に見立てたのではないか。
に.鷹は鷹の爪ではないか。
       鷹の爪の赤い色は辰砂(丹/水銀)を、また鷹の爪の実が鈴なりになるようすを坑道に見立てたのではないか。
ほ.富士は不死の意味で、輝きを失わない金を意味しているのではないか。
       富士はまた藤をも意味し、藤の花が房になって咲くようすが坑道に喩えられたのではないか。

延暦寺 東塔 弥陀堂前の鐘楼

延暦寺 東塔 阿弥陀堂前の鐘楼

③信仰心からくる言葉の表現

日本語では、信仰心から事実とは異なる表現を用いることがある。
事実とは違うことを言うのは嘘だが、嘘ともいいきれない。『言い回し』というべきか。

たとえば日本語では「亡き父が見守ってくれたおかげで事業がうまくいった」のように言うことがある。
実際には事業がうまくいったのは自分や社員が努力した結果だといえるのだが、こういう言葉を聞いて「嘘つき」と思う人はいないだろう。
この人にとっては亡き父親は神様のように自分を見守ってくれる存在なのだ。
また、この人にとって「亡き父が見守ってくれたおかげ」というのは嘘ではない。
「亡き父がいつも見守ってくれている」と信じているのだから。

織田信長の比叡山焼き討ちのとき、なすび婆は大講堂鐘楼の鐘をついて人々にこれを知らせました。
というのも、これと同様の表現ではないかと思う。

延暦寺 東塔 阿弥陀堂

延暦寺 東塔 阿弥陀堂

④「なすび婆」とは大講堂鐘楼を擬人化したものだった?

「なすび婆」とは大講堂鐘楼を擬人化したものではないだろうか。
鐘は銅でできている。
「銅=なすび」なので、「なすび婆」なのではないだろうか。
鐘の形はなんとなくなすびに似ているようにも思える。

そして「なすび婆」は単なる鐘という存在を超え、神として信仰されていたのではないかと思う。

比叡山焼き討ちのとき、誰かがこの大講堂鐘楼の鐘をついて人々に危険を知らせたのかもしれない。
ところが実際にはそうでも、人々はなすび婆(大講堂鐘楼)を神のように信仰していたため、
なすび婆(大講堂鐘楼)が自ら鐘を鳴らしたという表現を用いたのではないかと思ったりする。

⑤比叡山の僧侶たちは遊女を招き入れていた。

余談となるが、
織田信長の比叡山焼き討ちについてのこんな記事があった。


おもしろいので、内容を簡単にまとめてみる。

織田信長は比叡山焼き討ちの時、女子供まで殺した。
比叡山は女人禁制だったが堕落した僧侶たちが比叡山に遊女を招き入れていた。
「信長公記」によると、「僧侶たちは魚や肉を食べ,金もうけにふけっている」と記されている。
しかし実際には大量虐殺はなかったと考えられている。
・比叡山焼き討ちで焼け落ちたのは根本中堂と大講堂だけ。他の建物はそれ以前に廃されていた。
・比叡山焼き討ちのとき、僧侶らは山をおりて坂本の地に避難していた。(多門院日記)

⑥茄子婆の正体

さて、茄子婆とは鐘楼を擬人化したものではないかという話をしたが、
昔宮中に仕えて殺人をし、地獄に堕ちたが心は比叡山に住むことが許された女とは
茄子婆=鐘楼の前世であり、実在していたのかもしれない。
とすれば、それは誰のことだろう。

❶枚方市に茄子作という地名があり、ここで惟喬親王の愛鷹につける名鈴を作ったことから、茄子作になったと言われる。

❷小野小町とは、小野宮ともよばれたこの惟喬親王のことではないか、と考えている。

これについては詳しく「小野小町は男だった」のシリーズで述べたが、簡単にまとめておく。

小野小町歌碑 隨心院

小野小町歌碑 隨心院

a 古今和歌集には男が女の身になって詠んだ歌が多数ある。

b 古今和歌集仮名序はやけに小町が女であることを強調しているが、これは小町が男だからではないか。

c .小野小町は穴のない体で性的に不能であったともいわれているが、穴がない体なのは小町が男だからではないか。
待ち針は穴のない針という意味で「小町針」だったのが、訛って待ち針になったといわれている。

d 『古今和歌集』に登場する女性歌人に三国町、三条町、がいる。
三国町は一般には継体天皇の母系氏族・三国氏出身の女性だと考えられているが、
 『古今和歌集目録』は三国町を紀名虎の娘で仁明天皇の更衣としている。
  紀名虎の娘で仁明天皇の更衣とは紀種子のことである。
  また三条町は紀名虎の娘で文徳天皇の更衣だった紀静子のことである。
  三国町が紀種子とすれば、三条町=紀静子なので、三国町と三条町は姉妹だということになる。
  そして紀静子は惟喬親王の母親だった。。
  惟喬親王は三国町の甥であり、三条町の息子なので、三国町・三条町とは一代世代が若くなる。
  そういうことで小町なのではないだろうか。

e 花のいろは うつりにけりな いたづらに わがみよにふる ながめせしまに
この歌は縁語や掛詞を用いて二重の意味をもたせた技巧的な歌だとされる。
①花の色はすっかり褪せてしまったなあ。春の長い雨のせいで。
②私の容色はすっかり衰えてしまったなあ。恋の物思いにふけっている間に。
※『色』・・・『視覚的な色(英語のColor)』『容色』
※『世』・・・『世の中』と『男女関係』
※『ながめ』・・・『物思いにふける』『長雨』
しかし、もうひとつ違う意味が隠されているように思える。
③はねずの梅の鮮やかな色はあせ、(「はねず」は移るの掛詞なので、花ははねずの梅ととる)私の御代に(「わが御代に 下(ふ)る」とよむ。)長い天下(「ながめ」→「長雨」→「長天」と変化する。さらに「下(ふ)る」を合わせて「天下」という言葉を導く)がやってきたようだ。

❸惟喬親王は比叡山のふもとの小野の里(大原)に隠棲した。

「茄子」「宮中に住んでいた女」「比叡山」というキーワードから、惟喬親王を思い浮かべてしまうが
彼が人を殺した、というのは思い浮かばない。

また惟喬親王が異母弟の惟仁親王と世継争いをしたという話があり
惟喬親王には空海の高弟が、惟仁親王には天台僧がついたという。
空海は真言宗を開いた人物なので、惟喬親王は真言宗派であり、そうすると彼の心が比叡山に住むというのは考えにくい。

私は惟喬親王が好きなので、なんでも惟喬親王に結びつけてしまうのかもしれないw

この点は宿題にしておきたいと思う。

比叡山より京都方面を望む

比叡山より京都方面を望む





トンデモもののけ辞典㊴ 伊佐々王

①伊佐々王(いざさおう)

播磨国宍粟郡の安志(兵庫県姫路市)に出たという巨大な鹿です。
『峯相記』によれば、その昔、安志の奥には伊佐々王という大鹿が棲んでいたといいます。その身の丈は二丈余、角は七又に分かれ、背には笹もしくは苔が生え、目は日光のごとく輝き、数千頭の鹿を従えて人類を襲い食らっていました。
帝は勅使を遣わして国中の衛士を集めて伊佐々王を退治したといいます。
このことは物語として小盲たちが語り伝えていたと記されており、盲目の芸能者たちの演目として知られていたことがうかがえます。
伊佐々王が退治されたのは光仁天皇の時代、宝亀四年(773)であるともいい、足には水かきがあったともされています。鹿を率いて野山を荒らし人畜を害するので、国中の衛士らによって長い狩りの末に遂に滅ぼされたといわれています。
姫路市安富町にある鹿が壺と呼ばれる滝壺の連なりは、このときに伊佐々王が荒れ狂いのた打ち回ったために形作られたものといわれています。最奥部の鹿が横たわったような形をしている滝壺は、伊佐々王が最期に「このあと消ゆることなかれ」と己の姿を岩盤にとどめたものであるといいます。
また、「安志」という地名も、大鹿が退治されたことで人々が安堵して帰ってきたことが由来だと語られています。
 
「いざさおう」という名前や背中に笹が生えているという特徴は奈良の伯母峰などに出たと伝わる大猪「猪笹王」とも共通するもので、このような大猪退治の話が伝播の過程で変化した一例ではないかと思われます。


⓶伊佐々王は光仁天皇代の人物?

引用文には「猪笹王」との関連について記されているが、
この「猪笹王」については、こちらの記事で私の見解を記した。→ トンデモもののけ辞典㊳ 猪笹王

❶イザサワケと名前を交換してイザサワケとなった応神天皇・・・猪笹王
❷応神天皇と名前を交換して応神天皇となったイザサワケ・・・・射馬兵庫

私も伊佐々王は猪笹王と関係があると思う。
どちらも「いざさおう」とよむ。
日本では同じ名前に異なる漢字をあてて表記することはよくあることだ。

しかし、伊佐々王のほうは、イザサワケのイメージと重ねられた別の人物の妖怪であるように思える。
というのは、物語に「伊佐々王が退治されたのは光仁天皇の時代、宝亀四年(773)」とでてくるからだ。

伊佐々王は光仁天皇の時代の人物ではないだろうか。

③鹿は謀反の罪で殺された人の比喩

日本書記にトガノの鹿という話がある。

雄鹿が雌鹿に「全身に霜が降る夢をみた」と言った。
雌鹿は偽った夢占いをして「霜だと思ったのは塩。あなたは殺されて塩漬けにされているのです」と答えた。
翌朝、雄鹿は猟師に射られて死んだ。

鹿の夏毛には白い斑点がある。
これを塩や霜に喩えたのだろう。

鹿の夏毛

かつて、謀反の罪で死んだ人には塩が振られることがあった。ゆえに鹿は謀反人の比喩だとする説がある。

➂萩の白花は雄鹿、紫花は雌鹿

萩は別名を鹿鳴草という。
萩には白花と紫花があるが、白花もまた、謀反人にふられる塩に見立てているのだろう。

紫花のほうは雌鹿だろうと思う。

❶紫の にほへる妹を 憎くあらば 人妻故に 吾恋ひめやも/大海人皇子
(紫草のように美しいあなた。あなたが憎ければ、人妻と知りながら、こんなに恋い焦がれずにいられるものを。)

❷紫は ほのさすものぞ 海石榴市の 八十のちまたに 逢へる子や誰/詠人知らず
(顔をぽっと赤らめた海石榴市の辻で逢った貴女は、何というお名前ですか。)
※紫色に布を染める際、媒染剤として椿の灰をいれると鮮やかに染まった。

この2つの歌を鑑賞すると、女が男に恋する様子を紫と表現していたのかな、と思える。紫は恋する女を意味しているように思えるからだ。

白毫寺

白毫寺 萩

④志貴皇子暗殺説

本のタイトルや著者名を忘れてしまったのだが(すいません!)
以前図書館で借りた本次のような内容が記されていた。

❶ 日本続記や類聚三代格によれば、志貴皇子は716年に薨去したとあるが、万葉集の詞書では志貴皇子の薨去年は715年となっている。

高円の 野辺の秋萩 いたづらに 咲きか散るらむ 見る人なしに
(高円山の野辺の秋萩は、むなしく咲いて散るのだろうか。見る人もなく。)

この歌は志貴皇子が人知れず死んだことを思わせる。

また笠金村は 次のような歌も詠んでいる。

御笠山 野辺行く道は こきだくも 繁く荒れたるか 久にあらなくに
(御笠山の野辺を行く道は、これほどにも草繁く荒れてしまったのか。皇子が亡くなって久しい時も経っていないのに。)

こちらの歌は『志貴皇子が死んだのはついこの間のことなのに、野辺道がこんなに荒れているのはなぜなのだ』といぶかっているように思える。
これらの歌から、志貴皇子は715年に暗殺され、その死が1年近く隠されていたように思われる。

❷ 萩は別名を『鹿鳴草』というが、日本書紀に次のような物語がある。

雄鹿が『全身に霜がおりる夢を見た。』と言うと雌鹿が『霜だと思ったのは塩であなたは殺されて塩が振られているのです。』と答えた。
翌朝猟師が雄鹿を射て殺した。

謀反の罪で殺された人は塩を振られることがあり、 鹿とは謀反人の象徴なのではないか。

笠金村は
高円の 野辺の秋萩 いたづらに 咲きか散るらむ 見る人なしに 
と歌を詠んでいるが、
志貴皇子を野辺の秋萩にたとえており、志貴皇子が謀反人であることを示唆しているように思われる。

❸ のちに志貴皇子の子・白壁王は即位して光仁天皇となっていることから、志貴皇子には正統な皇位継承権があったのではないか。

❸で光仁天皇の名前がでてきた。

⑤春日王と志貴皇子は同一人物?

奈良豆比古神社 三人翁

奈良豆比古神社 三人翁

奈良市の奈良豆比古神社に次のような伝説が伝えられている。

天智天皇の第七皇子・志貴皇子は壬申の乱において大友皇子側についていた。
ところが壬申の乱では天武方が勝利して大友皇子は自害して果てた。
そのため、志貴皇子は壬申の乱の後は政治的に不遇で、その亡骸は奈良山の春日離宮に葬られた。
志貴皇子の第二皇子である春日王(田原太子)はハンセン病を患い、奈良坂の庵で療養していた。
春日王の二人の息子、浄人王と安貴王(秋王)は春日王をよく看病していた。
兄の浄人王は散楽と俳優(わざおぎ)に長けており、ある日春日大社で神楽を舞い、父の病気平癒を祈った。
そのかいあって春日王の病気は快方に向かった。
浄人王は弓をつくり、安貴王は草花を摘み、市場で売って生計をたてていた。
都の人々は兄弟のことを夙冠者黒人と呼んだ。
桓武天皇はこの兄弟の孝行を褒め称え、浄人王に「弓削首夙人(ゆげのおびとしゅくうど)」の名と位を与えて、奈良坂の春日宮の神主とした。
のちに志貴皇子の皇子である光仁天皇が即位すると、志貴皇子は光仁天皇より『田原天皇』と追尊された。

この伝説にも光仁天皇の名前がでてくる。

図書館で『別冊太陽・梅原猛の世界(平凡社)』という雑誌を借りて読んだ。
その中にここ奈良豆比古神社の翁舞についての記事があり、地元の語り部・松岡嘉平さんが次のような語りを伝承していると書いてあった。

志貴皇子は限りなく天皇に近い方だった。
それで神に祈るときにも左大臣・右大臣がつきそった。
赤い衣装は天皇の印である。
志貴皇子は毎日神に祈った。するとぽろりと面がとれた。
その瞬間、皇子は元通りの美しい顔となり、病は面に移っていた。
志貴皇子がつけていたのは翁の面であった。
左大臣・右大臣も神に直接対面するのは恐れ多いと翁の面をつけていた。
志貴皇子は病がなおったお礼に再び翁の面をつけて舞を舞った。
これが翁舞のはじめである。
のちに志貴皇子は第二皇子の春日王とともに奈良津彦神の社に祀られた。

なんと、地元にはハンセン病になったのは春日王ではなくて志貴皇子だという伝承が伝わっているのだ。

志貴皇子は光仁天皇によって「春日宮御宇天皇」と追尊されている。
志貴皇子の陵は高円山にあり、田原西陵と呼ばれているので田原天皇ともいわれている。

そして春日王は田原太子とも呼ばれていた。
つまり、春日王と志貴皇子は同じ名前を持っているということになるが、皇族で親と子が同じ名前というケースはないと思う。

志貴皇子と春日王は同一人物なのではないか。

神が子を産むとは神が分霊を産むという意味だとする説がある。
とすれば、志貴皇子の子の春日王とは志貴皇子という神の分霊であるとも考えられる。

⑥浄人王は弓削浄人、安貴王は道鏡?

春日王が志貴皇子のことであるとすれば、春日王の子の浄人王・安貴王は志貴皇子の子だということになる。

桓武天皇は浄人王と安貴王に弓削という姓を与えたが、弓削浄人とは道鏡の弟の名前である。
道鏡の俗名はわかっていないが、弓削安貴という名前ではなかっただろうか。

さらに『僧綱補任』『本朝皇胤紹運録』などでは、道鏡は志貴皇子の子であるとしている。

⑦宇佐八幡神託事件

護王神社絵巻

護王神社絵巻に描かれた道鏡 御簾の中から着物の裾だけ見えているのが称徳天皇

769年宇佐八幡神託事件がおきた。
このころ、称徳天皇(女帝)は僧の弓削道鏡を寵愛し、道鏡は朝廷内で権力を持つようになっていた。
宇佐八幡宮で「道鏡を天皇にするべき」という神託があり、称徳天皇が確認のため和気清麻呂を宇佐八幡宮に派遣したのだが
和気清麻呂は「日嗣は、必ず天皇の血をひくものにせよ。血をひかないものは排除せよ」という別の内容の神託を持ち帰った。
これを聞いた称徳天皇は怒って和気清麻呂を別部穢麻呂と改名させ、大隅国へ流罪とした。
しかし翌770年称徳天皇は崩御し、道鏡は失脚して下野国薬師寺へ流罪となった。
772年、道鏡は亡くなり庶民として葬られた。
道鏡の弟の浄人は土佐国へ流罪となり、781年に赦免されたが、平城京に入ることは許されなかった。

「⑥浄人王は弓削浄人、安貴王は道鏡?」をもう一度読んでほしい。

春日王が志貴皇子のことであるとすれば、春日王の子の浄人王・安貴王は志貴皇子の子だということになる。

桓武天皇は浄人王と安貴王に弓削という姓を与えたが、弓削浄人とは道鏡の弟の名前である。
道鏡の俗名はわかっていないが、弓削安貴という名前ではなかっただろうか。

さらに『僧綱補任』『本朝皇胤紹運録』などでは、道鏡は志貴皇子の子であるとしている。

もしかすると道鏡は志貴皇子の子で正当な皇位継承権があったなどということはないだろうか?
そうだとすると、和気清麻呂の奏上をきいて称徳天皇がかんかんになった理由もわかる。
「道鏡は志貴皇子の子で、天智天皇の孫である。道鏡は安貴王という名前だ。天皇の血をひいているではないか!」
そんな風に称徳天皇は憤ったのかもしれない。

⑧伊佐々王の正体は道鏡?

「①伊佐々王」の伝説を思い出してほしい。

伊佐々王が退治されたのは光仁天皇の時代、宝亀四年(773)であるともいい、足には水かきがあったともされています。

道鏡がなくなったのは、772年。伊佐々王が退治されたのは773年で1年ずれているが、1年ぐらいのずれはありえそうだ。
道鏡が流罪となったのは下野国薬師寺だが、薬師寺というからにはご本尊は薬師如来だろう。
薬師如来の手には縵網相といって、みずかきがついているケースがある。
伊佐々王の正体は道鏡ではないだろうか?

⑨道鏡はなぜイザサワケとイメージが重ねられたのか?

神功皇后は妊娠中に朝鮮征伐に出兵し、途中で応神天皇が産まれそうになったが、腰に石をおき冷やすことで出産を遅らせた。
その後日本に戻り、筑紫の宇美で応神天皇を産んだ。
建内宿禰は応神天皇を連れて敦賀に行った。
その夜、建内宿禰(タケノウチスクネ)の夢にイザサワケ神が現れて
「私の名前と、御子の名前を交換してほしい」と言った。
建内宿禰が了承すると、イザサワケは「明朝、浜にいくように」と言った。
言われたとおりにすると、海岸には鼻を傷つけられた入鹿が大漁にいた。
御子は「神が御食をくださった」と喜んだ。

これは「名(ナ)」と「魚(ナ)」を掛けた謎掛けで、角賀地域が大和朝廷の支配下に入ったことを意味するともいわれる。

しかし、私はそうは思わない。
名と魚を掛けた謎かけというのはありえるが、応神天皇は魚(入鹿)とひきかえに、相手に自分の名前を与えたのだ。
名前を与えるというのは、応神天皇の生まれ育ちや地位(神功皇后の御子)なども相手に与えたという意味ではないのだろうか。
応神天皇がイザサワケという神になり、イザサワケが応神天皇になったという話の様に思えるのだ。
これは政権交代を意味しているのかもしれない。
天皇家は万世一系といわれるが、実は政権交代があったのではないか、ということである。

そして道鏡は志貴皇子の子であり、皇位継承権があったのに、光仁天皇(父親は志貴皇子なので、道鏡とは異母兄弟かもしれない)に奪われたということで
道鏡はイザサワケと名前を交換した応神天皇とイメージが重ねられたのではないか。

それで道鏡は伊佐々王と呼ばれたのではないだろうか。


トンデモもののけ辞典㊳ 猪笹王


馬見岡綿向神社 猪像

馬見岡綿向神社 猪像

①猪笹王(いざさおう)

奈良県吉野山中、吉野郡川上村伯母ヶ峰に伝わる妖怪です。
生笹、一本足、一本だたらと呼ばれることもあります。
「いのささおう」という読みがあてられている場合もあります。
昔、天ヶ瀬に射馬兵庫という猟師がいて、あるとき伯母ヶ峰の奥で背中に熊笹の生えた大猪を撃ち倒しました。
それから数日後、紀州湯の峰の温泉に、足を傷めた野武士が湯治にやって来ました。
武士は自分の寝ている部屋を見るなと言いつけていましたが、それを破った宿の主人は、背中に熊笹の生えた怪物が座敷一杯になって寝ている姿を目撃します。
驚いた主人に対して怪物は「自分は伯母ヶ峰にすむ猪笹王だが、射馬兵庫という猟師に撃ち殺され、亡霊となってしまった。恨みを晴らしたいから、兵庫の犬と鉄砲をどうにかしてくれ」と言います。
土地の役人は猪笹王の亡霊を恐れ、犬と鉄砲を渡すよう兵庫に交渉を持ちかけます。しかし兵庫はそれを聞き入れず、鉄砲と犬は彼の手にあるままとなってしまいました。
やがて猪笹王の亡霊は一本足の鬼となり、伯母ヶ峰に現れては旅人を襲うようになったので、遂に東熊野街道は廃道同様になってしまいました。

その後、丹誠上人が伯母ヶ峰の地蔵尊を勧請して猪笹王を封じてからは、旅人もまた安心して街道を通れるようになりましたが、毎年十二月二十日だけ鬼は自由の身となるため、伯母ヶ峰ではこの日を「果ての二十日」と呼び、厄日の扱いにしたといいます。




⓶一本足の猪笹王はたたら製鉄の神?

「生笹、一本足、一本だたらと呼ばれることもあります。」
とあるが、「たたら」とは古の製鉄法(たたら製鉄)に用いる、炉に空気を送り込む装置の鞴(ふいご)のことである。
「たたら製鉄」では「たたら」を踏み続けるため、職業病で片足を悪くすることがあり、製鉄の神は一本足であるといわれる。
また片目をつぶって火の温度をみるため、片目を失明することもあり、製鉄の神は一つ目であるともいわれる。
すると、一本足、一本だたらと呼ばれる猪笹王はたたら製鉄の神なのかもしれない。



⓶猪笹王はイザサワケ?

猪笹王という名前から思い浮かべるのはイザサワケという神様の名前である。

イザサワケとは福井県敦賀市曙町にある気比神宮の御祭神の名前である。

④応神天皇とイザサワケは入れ替わった?(政権交代?)

こんな話がある。

神功皇后は妊娠中に朝鮮征伐に出兵し、途中で応神天皇が産まれそうになったが、腰に石をおき冷やすことで出産を遅らせた。
その後日本に戻り、筑紫の宇美で応神天皇を産んだ。
建内宿禰は応神天皇を連れて敦賀に行った。
その夜、建内宿禰(タケノウチスクネ)の夢にイザサワケ神が現れて
「私の名前と、御子の名前を交換してほしい」と言った。
建内宿禰が了承すると、イザサワケは「明朝、浜にいくように」と言った。
言われたとおりにすると、海岸には鼻を傷つけられた入鹿が大漁にいた。
御子は「神が御食をくださった」と喜んだ。

これは「名(ナ)」と「魚(ナ)」を掛けた謎掛けで、角賀地域が大和朝廷の支配下に入ったことを意味するともいわれる。

しかし、私はそうは思わない。
名と魚を掛けた謎かけというのはありえるが、応神天皇は魚(入鹿)とひきかえに、相手に自分の名前を与えたのだ。
名前を与えるというのは、応神天皇の生まれ育ちや地位(神功皇后の御子)なども相手に与えたという意味ではないのだろうか。
応神天皇がイザサワケという神になり、イザサワケが応神天皇になったという話の様に思えるのだ。
これは政権交代を意味しているのだろうか。
天皇家は万世一系といわれるが、実は政権交代があったのではないか、ということである。

とすれば、猪笹王を撃ち殺した射馬兵庫とは名前を交換する前のイザサワケということになる。

ちなみに物射馬(ものいうま)は、犬追物 (いぬおうもの) や笠懸 (かさがけ) など、騎射に慣れた馬のこと、
兵庫は「つわものぐら」「へいこ」などと読み、 武器庫の意味である。
射馬兵庫というのはいかにも偽名っぽい名前である。

犬追物とは騎乗して犬を射る弓術で、矢が犬を貫かないよう「犬射引目」(いぬうちひきめ)という鏑矢を使用した。

犬追物

犬追物

笠懸は騎乗して的を射るものである。

上賀茂神社 笠懸神事

↑↓ 上賀茂神社 笠懸神事

上賀茂神社 笠懸神事2

⑤果ての二十日

身を慎み災いを避ける忌み日。

由来については諸説あり、近畿地方では罪人の処刑をこの日に行っていたからと言われる。また、山の神に深く関る忌み日とされ、この日に山に入ることが忌まれる。


山の神というと、森林や山菜などの山の恵みをもたらす神と思うかもしれないが、
山の神がもたらす最大のものといえば鉱物だろう。
山の神とは鉱山の神ということではないだろうか。

多田銀山

多田銀山 青木間歩

⑥イザサワケ=ツヌガアラシト=アメノヒボコ?

猪笹王は一本足の鬼になったというが、鉱山の神は一本足だといわれる。
たたら製鉄ではたたらと呼ばれる鞴を足で踏んで空気を送り続ける必要があり、そのため片足を悪くすることが多かったというのである。

すると、イザサワケは鉱山や製鉄、鋳造などに関わる神なのだろうか。

イザサワケを祀る気比神宮の摂社に、ツヌガアラシトを祀る角鹿神社がある。
ツヌガアラシトは『日本書紀』に加羅国王の息子として登場する。
同じ神社に祀られていることから、イザサワケとツヌガアラシトは同一神と考えてよいかもしれない。

とすれば、もともとのイザサワケは渡来人で、応神天皇と名前を交換し、渡来人が応神天皇となり、応神天皇がイザサワケになったということになりそうだ。

日本書記にツヌガアラシトに関するこんな話が記されている。

阿羅斯等が国にある時、黄牛の代償として得た白石が美しい童女と化したため、阿羅斯等は合(まぐわい)をしようとした。
すると童女は阿羅斯等のもとを去って日本に行き、難波並びに豊国の国前郡の比売語曽社の神になったという。

より引用

これと同様の話が、『古事記』の天之日矛(天日槍)&阿加流比売神説話にある。

天之日矛は玉を持ち帰り、それを床のあたりに置くと玉は美しい少女の姿になった。
そこで天之日矛はその少女と結婚して正妻とした。
しかしある時に天之日矛が奢って女を罵ると、女は祖国に帰ると言って天之日矛のもとを去り、小船に乗って難波へ向いそこに留まった。
これが難波の比売碁曾(ひめごそ)の社の阿加流比売神であるという。(大阪府大阪市の比売許曾神社に比定)。

天之日矛は妻が逃げたことを知り、日本に渡来して難波に着こうとしたが、浪速の渡の神(なみはやのわたりのかみ)が遮ったため入ることができなかった。
そこで再び新羅に帰ろうとして但馬国に停泊したが、そのまま但馬国に留まり多遅摩之俣尾(たじまのまたお)の娘の前津見(さきつみ)を娶り、前津見との間に多遅摩母呂須玖(たじまのもろすく)を儲けた。
そして多遅摩母呂須玖から息長帯比売命(神功皇后:第14代仲哀天皇皇后)に至る系譜を伝える(系図参照)。

より引用

このように同様の話が伝わっているので、ツヌガアラシトとアメノヒボコ(天之日矛)は同一神ではないかとする説がある。
同じ気比神社に祀られているイザサワケとツヌガアラシトが同一人物であるとすれば三柱の神は同一神ということになる。

イザサワケ=ツヌガアラシト=アメノヒボコ?

⑦イザサワケはふたりいる。

アメノヒボコは「天日槍」「天之日矛」と表記する。
「槍」「矛」は武器であり、金属と関係が深い。

須賀神社 角豆祭(ささげまつり)

須賀神社 角豆祭(ささげまつり)の鉾

イザサワケ=ツヌガアラシト=アメノヒボコとするならば、イザサワケは金属の神、鉱山の神ともいえ、
猪笹王(イザサワケ?)が鉱山の神の姿=一本足の鬼になった、という伝説にあっている。

また
毎年十二月二十日だけ鬼は自由の身となるため、伯母ヶ峰ではこの日を「果ての二十日」と呼び、厄日の扱いにした
というが、
「果ての二十日」は「山の神に深く関る忌み日」とされており
「イザサワケ=ツヌガアラシト=アメノヒボコ=鉱山の神」
なので、これも説明できるということになる。

ここでややこしいのは、イザサワケはふたりいるということである。

❶イザサワケと名前を交換してイザサワケとなった応神天皇
❷応神天皇と名前を交換して応神天皇となったイザサワケ

❶が猪笹王、❷が猪笹王を殺した射馬兵庫 だと思う。

❶イザサワケと名前を交換してイザサワケとなった応神天皇・・・猪笹王
❷応神天皇と名前を交換して応神天皇となったイザサワケ・・・・射馬兵庫

④で、私は次のように書いた。

物射馬(ものいうま)は、犬追物 (いぬおうもの) や笠懸 (かさがけ) など、騎射に慣れた馬のこと、
兵庫は「つわものぐら」「へいこ」などと読み、 武器庫の意味であり
射馬兵庫というのはいかにも偽名っぽい名前である。
と。

猪笹王は鉱山の神で、金属を用いて製造する武器の神であるともいえるが、
射馬兵庫もまた鉱山の神で、金属を用いて製造する武器の神だと考えられる。


トンデモもののけ辞典㊲ からかさ小僧

①笠の柄が足、蛇の目模様が目?

歌川芳員『百種怪談妖物双六』に描かれている傘の妖怪「一本足」

歌川芳員『百種怪談妖物双六』に描かれている傘の妖怪「一本足」

からかさ小僧が一本足なのは傘の形状をみるとわかる。
傘の柄の部分を足にたとえると、柄は一本なので一本足になる。

それではからかさ小僧が一つ目なのはなぜだろう。
それは蛇の目傘からくるのかもしれない。

蛇の目とは下図のような模様のことをいう。

蛇の目2

この模様を蛇の目というのは、蛇の目ににているからである。
そして、上のからかさ小僧の傘を広げると、この蛇の目模様になる。
からかさ小僧の傘は蛇の目傘なのだ。

蛇の目傘が2本あれば2つ目だが、1本しかないので、からかさ小僧は一つ目なのかもしれない。

⓶からかさ小僧はたたら製鉄の神?

たたら製鉄の神は、一つ目で一本足といわれる。
たたら製鉄では、炉を燃焼させるため、たたら(たたら製鉄にもちいる鞴のこと)で空気を送り続ける必要があり、
そのため片足を悪くすることが多かったという。
また片目をつぶって火の温度を見るため、片目を失明することも多かったらしい。
それで、たたら製鉄の神は一つ目で一本足なのであると。


からかさ小僧も一つ目で一本足だが、たたら製鉄と関係あるだろうか?

私は関係がありそうに思う。

というのは、傘の形が風を送る装置である鞴に似ているからだ。

ふいご

構造図 1.吸い込むように穴から空気が入る。 2.穴から勢いよく空気が放出される。 3.弁。開いたり閉じたりする。

より引用

上のからかさ小僧の絵をみると、ふいごの空気を取り入れる部分のように穴があいている個所がある。
古くなって穴があいた蛇の目傘を鞴に見立てているのではないだろうか。

甚風呂(銭湯跡歴史資料館) 鞴


工楽松右衛門旧宅(兵庫県高砂市) 霧笛

霧笛 鞴の先端にラッパをつけて音がでるようにしたもの

③百鬼夜行絵巻の妖怪は傘ではなく鞴では?

一つ目・一本足のからかさ小僧が確認できるのは、江戸時代以降のようである。

ウィキペディアには次のように記されている。
古いものは室町時代の絵巻物『百鬼夜行絵巻』にも見られるが、同絵巻での傘の妖怪は、たたんだ傘を頭部に頂いた人型の妖怪である。


真珠庵蔵『百鬼夜行絵巻』(部分) 伝土佐光信(室町時代)

上の絵の藁草履のような妖怪の向かって右が傘の妖怪だろうか?
傘にしては、開口部が閉じすぎているようにも思える。

工楽松右衛門旧宅(兵庫県高砂市) 傘

和傘を閉じると上のような形状になる。
開口部を隙間なく閉じようと思えばできるかもしれないが、なんとなく不自然な感じがする。

この妖怪は傘の妖怪ではなく、鞴の妖怪だったりしないだろうか?

傘の柄のように見えるのは、空気を送り込む穴(上の鞴の図でいえば2の部分)ではないか?


上記リンク先には鹿の皮で作った鞴の動画が紹介されている。
ようは空気を送り込むことができればいいので、鞴には様々な形があるようだ。


祇園 八朔







トンデモもののけ辞典 皿屋敷 追記あり 追記2あり(2月17日)


葛飾北斎「百物語・さらやしき」

①皿屋敷の物語を年代別に並べてみる。

皿屋敷の物語は、江戸を舞台とした「番町皿屋敷」と播州姫路を舞台とした「播州皿屋敷」の2つのパターンがあるようである。
物語として小説に描かれたり、浄瑠璃・歌舞伎として上演されたりしている。
私はこれらの作品を、年代別に並べ、その内容を比較してみる必要性を強く感じた。
早速、やってみよう。あらすじの記述が長くなるが、ご勘弁を。(斜め読みで十分と思います。)

❶1577年『竹叟夜話(永良竹叟)』
嘉吉の乱(1441年)の後、山名家の家老・小田垣主馬助が播磨国青山(現・姫路市青山)の館代をしていた頃、
花野という脇妾を寵愛していた。
笠寺新右衛門は花野に恋文を送り続けていたが拒絶されていた。
そこでは笠寺は、小田垣が山名家から拝領していた鮑貝の五つ杯の一つをかくした。
小田垣は杯がないのは花野のしわざだと決めつけ、花野を折檻し、松の木にくくり上げて殺した。
その後、花野の幽霊が現れるようになった。

❷1712年『当世智恵鑑(宍戸円喜)』
江戸牛込の服部氏の妻は、妾が南京の皿の十枚のうち一枚を割ったことを責め、幽閉して餓死させようとしたが、5日たっても死ななかった。
そこで絞め殺して、骸を棺に入れて4人の男に運ばせたが、途中で女は蘇生した。
女は200両あるので命を助けてほしい、といった。
男たちはその金は受け取ったが、女を殺して野葬にした。
その後、服部氏の妻は喉が腫れて塞がってしまい、医者にかかった。
その医者のところに殺された女の幽霊が現れ、「どう治療しようと服部の妻は死ぬ」と告げた。

❸1720年6月、京都の榊山四郎十郎座が、歌舞伎『播州錦皿九枚館』を上演。
台本は現存しないが役割番付から「皿屋敷伝説を完全な形で劇化した」ものと考察されている。
※完全な形とは、おそらくこんな話だろう。
お菊という娘が10枚ある皿のうち1枚を割った罪で折檻され井戸に身投げするか、殺されて井戸に放り込まれる。
それ以降、井戸から皿を数える声が聞こえるようになった。

※同年に金子吉左衛門座が皿屋敷を上演している(題名も内容不詳)

❹1741年 浄瑠璃『播州皿屋敷』
細川家の国家老、青山鉄山は姫路城をのっとりたいと考えていた。
細川家の当主・巴之介が家宝の唐絵の皿を盗まれ、足利将軍の不興を買う。
鉄山は山名宗全と、細川の若殿を毒殺計画をたてていたところ、お菊に聞かれてしまう。
お菊が管理する唐絵の皿の一枚を隠し、その紛失の責任をお菊に押し付け、切り捨てて井戸に投じた。
すると井戸の下からお菊の死霊が現れた。
お菊の死霊は、夫・舟瀬三平に入れ知恵をし、皿を取り戻す。

大阪の豊竹座で初演。

❺1758年『皿屋敷弁疑録(馬場文耕)』が元となった怪談芝居の『番町皿屋敷』
牛込御門内五番町に「吉田屋敷」と呼ばれる屋敷があり、これが赤坂に移転して空き地になった跡に千姫の御殿が造られた。
千姫の御殿も撤去されて空き地となり、そこに火付盗賊改・青山播磨守主膳の屋敷があった。
菊という下女が奉公していたが、1653年正月二日、菊は主膳が大事にしていた皿十枚のうち1枚を割ってしまった。
奥方は菊を責め、主膳は皿一枚の代わりにと菊の中指を切り落とし、手打ちにするといって一室に監禁した。
菊は縄付きのまま部屋を抜け出して裏の古井戸に身を投げた。
その後、夜ごとに井戸の底から皿を数える女の声が聞こえるようになった。
奥方の産んだ子供には右の中指が無かった。
てこの事件は公儀の耳にも入り、主膳は所領を没収された。
その後も屋敷内で皿数えの声が続くので、公儀は小石川伝通院の了誉上人に鎮魂の読経を依頼した。
上人が読経していると皿を数える声が「八つ……九つ……」と聞こえたので、上人は「十」と付け加えると、菊の亡霊は「あらうれしや」と言って消えた。

・江戸幕府の職名。 江戸市中の放火・博奕・盗賊の捜査や検挙を行った。 火盗改(かとうあらため)ともいう。
・青山主膳という火附盗賊改は存在しない。
・1653年の話としているが、火付盗賊改の役職が創設されたのは1662年。
・向坂甚内が盗賊として処刑されたのは1613年。
・了誉上人は1420年(応永27年)に没している。
・千姫が姫路城主・本多忠刻と死別した後に移り住んだのは五番町から北東に離れた竹橋御殿。

千姫(天樹院)の肖像画(部分)

千姫(天樹院)の肖像画(部分)

❻皿屋舗弁疑録(馬場文耕 1758年)
将軍家光の代、小姓組番頭の吉田大膳亮の屋敷を召し上げ、将軍の姉・天樹院(千姫)を住まわせた。
天樹院は愛人の花井壱岐と女中の竹尾を恋仲と疑って虐殺し、井戸に捨てた。
この井戸は「小路町の井戸」と恐れられた。
天樹院の死後、この吉田屋敷は荒廃し妖怪屋敷と呼ばれた。

❼1795年、大量発生したジャコウアゲハが大量発生し、そのサナギが「お菊虫」と呼ばれた。

ジャコウアゲハの蛹、いわゆる「お菊虫」

ジャコウアゲハの蛹、いわゆる「お菊虫」

お菊虫 『絵本百物語』竹原春泉画

お菊虫 『絵本百物語』竹原春泉画

❽津村淙庵『譚海(1796年)』
尼崎のお菊の話(❾とほぼ同じ内容)。
・1795年のお菊虫の大量出現を、お菊の100年忌としている。

❾蜀山人こと大田南畝『石楠堂随筆( 1800年)』
1696年、尼崎の城主青山氏の老臣、木田玄蕃(喜多玄蕃)の屋敷に奉公していたお菊が食事を出したが、
飯の中に針がまぎれており、木田はお菊を井戸に投げ込んだ。
謝罪に駆け込んだ母もお菊のあとを追って井戸に飛び込んだ。
その後、木田家では怪異や祟りが連発し、それが尼崎侯の耳に入り、木田は改易、屋敷は祟りがあると恐れられ廃屋となった。
のちに青山氏にかわり尼崎侯となった松平遠州侯が、木田宅の跡地に建てたのが尼崎の源正院。
怪奇はおさまったが、菊を植えても花が咲かなかった。
・1795年のお菊虫の大量出現を、お菊の100年忌としている。

❿根岸鎮衛『耳嚢(1814年)』
尼崎のお菊の話(❾とほぼ同じ内容)だが、旧木田邸の古井戸の場所が「播州岸和田」となっている。
・1795年のお菊虫の大量出現を、お菊の100年忌としている。
・元禄の頃は、青山播磨守幸督が尼崎の城主。

⓫滝沢馬琴『皿皿郷談(べいべいきょうだん)』(1815)
武蔵国豊島郡東大久保村(東京都新宿区)の西向天神の別当大聖院には紅皿欠皿の旧跡という紅皿塚があった。
応仁(1467~69)のころ高田村に住んでいた落武者の子で、姉の継娘は美人、妹の実子は不美人だった。
近所の人は姉を紅皿、妹を欠皿とよんだ。
紅皿は太田持資(道灌/どうかん)に仕えたが、持資の死後尼になった。
・昔話には継子と実子の名を糠福・紅皿とするものもあり、紅皿は実子の名。
・江戸後期の青本の『紅皿闕皿(かけざら)昔物語』もある。

1862年、暁鐘成『雲錦随筆』
お菊虫が、「まさしく女が後手にくくりつけられたる形態なり」と形容し、その正体は「蛹(よう)」であると記す。

⓭江戸後期「成立年不詳) 播州皿屋敷実録
姫路城第9代城主小寺則職の家臣・青山鉄山が主家乗っ取りを企てていたが、これを衣笠元信なる忠臣が察知、自分の妾だったお菊という女性を鉄山の家の女中にし、鉄山の計略を探らせた。
元信は、青山が増位山の花見の席で則職を毒殺しようとしていることを突き止め、則職を救出する。
鉄山の家来・町坪弾四郎は密告者がお菊であったことを突き止め、お菊に「妾になれ」というが拒まれた。
これを恨んだ弾四郎は、10枚セットの家宝の毒消しの皿「こもがえの具足皿」のうちの一枚を隠し
お菊に責任を押し付けて、殺し、古井戸に死体を捨てた。
以来その井戸から夜な夜なお菊が皿を数える声が聞こえた。
やがて則職の家臣によって鉄山は討たれ、姫路城は則職の元に返った。
則職はお菊の死を哀れみ、十二所神社の中にお菊を「お菊大明神」として祀った。
その後300年程経って城下に奇妙な形をした虫が大量発生し、人々はお菊が虫になって帰ってきたと言っていた(お菊虫)

⓶皿屋敷は更屋敷?

❺1758年『皿屋敷弁疑録(馬場文耕)』では次のような話が付け加えられているらしい。

小姓組番頭の吉田大膳亮の屋敷を召し上げ、将軍の姉・天樹院(千姫)が住んだとされる吉田屋敷は
妖怪屋敷と呼ばれたが、その後空屋敷となったため、更屋敷(サラ屋敷)と呼ばれた。
皿事件とは関係がない。

③お菊井戸は、姫路城にあったのではなかった。

現在、姫路城にお菊井戸なるものがあるが、これは近年になって皿屋敷伝説にもとづいてそういう名前を付けたようである。

こんな記事があった。

現在二の丸にあるお菊井戸は、近代に入ってから命名されたもので、本来「播州皿屋敷」の舞台となったのは、
現在の姫路東消防署と兵庫県立姫路東高等学校の敷地の一部、桐の馬場にあった武家屋敷と言われています。

そして青山鉄山からひどい暴力を受けたお菊さんは、姫路城車門近くに合った梅雨松で、縛られたとも伝わっており、
見た目に縛られているお菊さんのように見えるといって、現在でもジャコウアゲハを別名お菊虫とも言われています

より引用

姫路城

姫路城

④初期はお菊ではなく花野。10ではなく5。

❶1577年『竹叟夜話(永良竹叟)』が一番古そうであるが、一般的な皿屋敷の話とはいくつか異なる点がある。
・娘の名前はお菊ではなく、花野
・なくなったのは皿ではなく杯
・もともとあった杯の数は10個ではなく5個
・井戸に身投げしたり、死体を井戸に捨てたという話がない。
・幽霊が数を数える話がない。

次に古そうなのが❷1712年『当世智恵鑑(宍戸円喜)』だが、やはり一般的な皿屋敷の話とは異なる点がある。

・女性の名前はお菊ではなく、服部氏の妻。
・井戸に身投げしたり、死体を井戸に捨てたという話がない。
・幽霊が数を数える話がない。

❸1720年6月、京都の榊山四郎十郎座が、歌舞伎『播州錦皿九枚館』を上演したものは、
台本は現存しないが役割番付から「皿屋敷伝説を完全な形で劇化した」ものと考察されているということなので
1720年には皿屋敷伝説の形はほぼできあがっていた、と考えられるだろう。

その後、もともとの話にお菊虫の話をつけたり、皿を割ったのではなく、飯に針が入っていたことを責められ、折檻のうえ殺されたというように、バリエーションをつけた話が創作されたのだと思う。

⑤菊=クク=99

物語の主人公がお菊、もともと10枚あった皿の1枚が亡くなったり割れたりして9枚となり、
お菊の幽霊が1枚から9枚まで数えるという話へと整えられたのはなぜだろうか。

日本書記一書(第十)に菊里媛という神が登場するが、菊里媛はククリヒメとよむ。
つまり、菊はククとも読むわけだ。

菊の節句は重陽の節句ともいい、9月9日のことである。
なぜ9月9日を重陽というのかというと、9は一けたの数字では最も大きい陽の数字だからである。
(陰陽道では偶数を陰、奇数を陽とする)
そして、菊はククともよむ。ククは語呂合わせで99と書くことができる。

お菊という名前と、お皿を9枚まで数えることには関係があるのではないかと思う。

追記
❺1758年『皿屋敷弁疑録(馬場文耕)』ではお菊は中指を切り落とされているが
手の指は10本なので、お菊の手の指は9本になったことになり、ここでも9の数字が繰り返されている。


⑤幽霊は不老不死?

9月9日、京都の法輪寺っでは重陽神事を行っており、菊滋童の舞が舞われる。
菊滋童は中国の周の穆 (ぼく) 王に寵愛された(BL❤)少年で、枕をこえた罪で流されたが
不老不死の薬となった、菊の葉の露を飲んで、少年の姿のまま 700年を生きたとされる。

幽霊になったお菊は不老不死になったと考えられ、そのためお菊という名前や、9という数字がもちいられた、なんてことはないだろうか。

法輪寺 菊滋童

法輪寺 菊滋童

追記2
お菊虫はジャコウアゲハの幼虫だと考えられているが、ジャコウアゲハの成虫の写真を見てみた。
上記リンク先の写真がわかりやすい。
羽根に杯または皿のような形の斑が10個ついている。
ジャコウアゲハがお菊虫と呼ばれたのは、蛹の形からだけでなく、この斑を杯または皿にみたてたのかもしれない。
またコノジャコウアゲハを擬人化して花野・お菊は創作された可能性もある。
花野の話は杯5個セットだったが、片羽根の斑の数をとったのだとも考えられる。

記事はジャコウアゲハの幼虫の大量発生について報じたもの。
「つる性のウマノスズクサを食草とする」と記されている。


❼の、お菊虫と呼ばれるジャコウアゲハの蛹の写真をみてみると、蛹は菊の花びらのような形態をしている。
ジャコウアゲハの蛹が「お菊虫」と呼ばれるようになったのはいつなのか。
もしかすると、皿屋敷の物語ができる前から「お菊虫」と呼ばれていたのかもしれない。



トンデモもののけ辞典 蚊になった文武王㉟

蚊

①文武王

昔、文武王という人の生血を吸うのが大好きな王様がいて、みな困ったので、王子と家来が図って生駒山の岩屋に閉じ込めた。30日してあけてみると、文武王は幾万という蚊と化していた。それで大和には蚊が多い。


⓶生駒聖天(宝山寺)

岩屋とは洞窟のことである。
生駒聖天(宝山寺)にも岩屋がある。
もしかすると、生駒の岩屋とは、生駒聖天の岩屋のことなのかもしれない。

宝山寺 岩屋2

宝山寺

③文武天皇に関する年表

文武王とは第42代文武天皇(683ー707)のことではないだろうか。


文武天皇は草壁皇子(天武天皇第二皇子、母は持統天皇)の長子で、母は阿陪皇女(天智天皇皇女、持統天皇の異母妹、のちの元明天皇)だった。

女帝の持統天皇は、天智天皇の娘で鸕野讚良(うののさらら)という諱だった。

657年、鸕野讚良は天智天皇の同母弟(鸕野讚良の叔父)の大海人皇子の妻となった。

662年、鸕野讚良は草壁皇子を産む。

671年、大海人皇子(天智天皇の同母弟)vs大友皇子(天智天皇の子)が皇位をめぐって争う。
     大海人皇子が勝利し、即位して天武天皇となる。鸕野讚良皇后となる。
             大友皇子は自害して果てた。


679年、に天武天皇と皇后、6人の皇子、吉野の盟約を交わす。
   草壁皇子(父/天武、母/鸕野讚良)
   大津皇子(父/天武、母/大田皇女) 
   高市皇子(父/天武、母/宗形徳善の娘、尼子娘)
   忍壁皇子(父/天武、母/明日香部皇女?)
   川島皇子(父/天智、母/忍海小竜娘、色夫古娘)
   志貴皇子(父/天智、母/越道君伊羅都売)
   天武、皇子らに「争わずに協力する」と誓わせる。

681年、草壁皇子を皇太子にする。

686年、病気がちの天武天皇にかわり、鸕野讚良皇后・草壁皇子が共同で政務を執る。
    天武天皇、崩御。
    大津皇子の謀反が発覚して、大津皇子、自殺する。

689年、草壁皇子病により薨去。

690年、鸕野讚良、即位して持統天皇となる。

696年、高市皇子、薨去。

697年、持統天皇の孫で、草壁皇子の子の軽王(軽皇子)が立太子。
    誰を皇太子にするかで群臣らがそれぞれの意見を言い決着がつかなかったが
    葛野王が「わが国では、天位は子や孫がついできた。兄弟に皇位をゆずると、それが原因で乱がおこる。」
    と発言。
    弓削皇子が何か発言をしようとしたが、葛野王が叱り付け、口をつぐんでしまった(懐風藻)
    軽王、即位して文武天皇となる。

707年、文武天皇崩御。草壁皇子の妻で文武天皇の母親である元明天皇が、
    文武の子・首皇子(聖武天皇)の中継ぎとして即位する。

715年、首皇子(聖武天皇)がまだ幼かったため、中継ぎとして元正天皇(文武天皇の同母姉)が即位する。

724年、元正天皇、聖武天皇に譲位する。

729年、長屋王(父/高市皇子)、「左道を学びて国家を傾けんと欲す」として取り調べを受け、自殺。
    藤原四兄弟の陰謀とされる。

宝山寺 岩屋

宝山寺

④文武天皇即位のために犠牲になった人々

③の表には血生臭い事件や、陰謀めいた事件が多数含まれている。

❶671年の「壬申の乱」は叔父(大海人皇子)vs甥(大友皇子)の戦いで、劣勢だった大友皇子が自害して果てた。

❷686年、大津皇子は「謀反の意有り」として捕えられ、翌日自害したとされる。24歳という若さだった。
『日本書紀』によれば、大津皇子の后の山辺皇女が殉死したとある。
我が子・草壁皇子を皇太子にしたいという鸕野讚良の意志が働いたものと考えられている。

❸696年高市皇子が薨去しているが、万葉集には柿本人麻呂が詠んだ高市皇子への挽歌がある。
その挽歌では「高市皇子尊」「後皇子尊」と尊称されている。
長屋王の母は天智天皇の娘・御名部皇女であり、血筋は文部天皇のひけをとらないことから、高市皇子は皇位継承有力者であったのではないかとする説がある。
高市皇子の長男・長屋王の邸宅跡から発見された「長屋親王宮鮑大贄十編」の木簡などから、彼は天皇であったのではないかとする説もある。

❹697年、誰を皇太子にするかでもめたとき、弓削皇子は何かいいかけたが、葛野王が叱り付け、口をつぐんでしまったとあり、彼は皇位継承の意志を示そうとしたのかもしれない。
その2年後の696年に、彼は27歳という若さで薨去している。

文武天皇が即位するためには、❶❷❸❹が必用であった。
❷❸❹は事件の真相がわからないが、人々がそれらを文武を即位させるための工作だと信じていた可能性はある。

文武の子・聖武が即位する際にも、陰謀めいた事件が起きている。

❺715年、首皇子(聖武天皇)がまだ幼かったため、中継ぎとして元正天皇(文武天皇の同母姉)が即位しているが
その翌年、志貴皇子が亡くなっている。

万葉集詞書では志貴皇子の薨去年は715年となっており、志貴皇子は皇位継承権があったが暗殺され
その死が1年近くかくされていたとする説がある。


宝山寺 弥勒菩薩

宝山寺 弥勒菩薩

⑤虫偏に文武の「文」で「蚊」

つまり、文武王とは、文武天皇のことで、
文武王を生駒山の岩屋に閉じ込めた皇子とは文武天皇の子の聖武天皇ではないかと思うのだ。

文武王が「生血を吸うのが好き」というのは、大津皇子など、彼が即位するために多くの人々を犠牲にし
時にはその命まで奪ったことの比喩ではないだろうか。

その文武王が蚊になったというのは、虫偏に文武の「文」を書くところからの謎かけだと思う。

宝山寺 多宝塔

宝山寺 多宝塔