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トンデモもののけ辞典㉑ ぬらりひょん ※追記あり

妖怪ストリート ぬらりひょん

妖怪ストリート(京都) ぬらりひょん

①ぬらりひょんは亀石にそっくり!

細長い頭部が特徴的なこの妖怪は「ぬらりひょん」と呼ばれる。

ウィキペディアには次のように説明されている。

一般に、瓢箪鯰(ひょうたんなまず)のように掴まえ所が無い化物であるとされる。
江戸時代に描かれた妖怪絵巻などにその姿が多く確認できるが、詳細は不明である。
民間の伝承には百鬼夜行の一員(秋田県)、海坊主の一種(岡山県)にその名称が確認されるが、描かれている妖怪画の「ぬらりひょん」との前後の関係性は明らかではない。
「妖怪の総大将」であるとされるが、後代における誤伝・俗説とされている。

江戸時代の『好色敗毒散』には「その形ぬらりひょんとして、たとえばナマズに目口もないようなもの、あれこそ嘘の精なれ」とある。

より引用

私はこれにそっくりなものを見たことがある。
奈良県明日香村にある亀石である。

亀石

眉間の半月状のしわまで同じである。
亀石とぬらりひょんは同じものだと考えられないだろうか。

とすれば、ぬらりひょんは細長いドクロの妖怪であり、亀石はドクロを象った石だということになる。

⓶葛城一言主神社にある亀石もドクロを模した石だった。

葛城一言主神社にも亀石と呼ばれる石がある。

一言主神社 亀石

やはりドクロのような形をしている。

葛城一言主神社には、土蜘蛛の塚と呼ばれる石があり、その土蜘蛛の塚の下に土蜘蛛の胴体が埋められているという。
そして神殿の下には土蜘蛛の頭部が埋められたというのだが、
亀石は山の中腹にある神殿から階段をおりたあたりにあって、神殿の下といえなくもない。

一言主神社 階段

亀石は土蜘蛛の頭部を埋めた上に置いた石で、やはりドクロをあらわしていそうである。

⓶亀石とナマズ

飛鳥の亀石には次のような伝説がある。

かつて大和は湖であり、当麻の蛇と川原のナマズが湖を二分して支配していた。
あるとき、蛇とナマズが湖の支配権をかけて争い、川原のナマズが負けた。
その結果、湖水を当麻に取られて川原の湖は干上がり、多くの亀が死んだ。
亀石はその追悼の意味から造られたもので、この石が当麻のある西を向いた時には、大和盆地は大洪水がおこって湖になると言い伝えられている。

ここに「川原のナマズ」とでてくるが、もう一度①のウィキペディアの記述を読んでみてほしい。

「一般に、瓢箪鯰(ひょうたんなまず)のように掴まえ所が無い化物であるとされる。」とある。

瓢箪鯰のリンクをクリックすると、瓢鮎図(ひょうねんず)のページにとぶ。
瓢鮎図とは、画僧・如拙作の絵画作品でひょうたんでナマズを押さえるという禅の公案を描いた、
鮎はナマズの意味と説明があり、つぎのように現代語訳が記されている。

空を飛ぶものはイグルミでからめとり
水中を泳ぐものは網でとらえる。
これが漁や猟の常法である。
中がうつろで丸くころころした瓢箪で
 鱗がなくネバネバした鮎を深い泥水の中で抑えつけることなど
いったいできるであろうか


どうやらとらえどころがないものを、瓢箪鯰といっているらしい。

ぬらりひょんが瓢箪鯰であり、ぬらりひょんそっくりの亀石伝説にナマズが登場するのは、偶然だろうか?。

③川原のナマズは蘇我入鹿?


多武峰縁起絵巻 複製(談山神社)

多武峰縁起絵巻 複製(談山神社)

川原のナマズとは、645年の乙巳の変で中大兄皇子に首を切られた蘇我入鹿を比喩的に表現したものではないだろうか。

上の絵では、蘇我入鹿の首が皇極天皇の御簾に食らいついている。
蘇我入鹿は皇極天皇に仕えていたのだ。
皇極天皇の宮は飛鳥板蓋宮だった。
また蘇我入鹿の邸宅は飛鳥の甘樫丘にあり、蘇我入鹿は飛鳥と縁が深い人物なのだ。

川原とは飛鳥にある地名である。
皇極天皇は重祚(再び皇位につくこと)して斉明天皇となったが、その斉明天皇の宮を川原宮といった。
その川原宮跡に天智天皇が寺を建てたのが、川原寺である。

川原寺

川原寺

亀石は蘇我入鹿の首を模したものなのかもしれない。

④當麻の蛇は中大兄皇子?

當麻の蛇とは中大兄皇子のことだろうか。
中大兄皇子は葛城皇子ともいう。
葛城と當麻は場所的に近く、當麻の蛇とは中大兄皇子(葛城皇子)のことを言っているようにも思える。
(當麻と中大兄皇子が結びつきが弱いので、あまり自信ないがw)

⑤ナマズのドクロが亀?

そして死んだ亀とは蘇我入鹿のドクロを比喩したものではないだろうか。

川原のナマズ・・・蘇我入鹿
死んだ亀・・・・・蘇我入鹿のドクロ

このように考えれば、戦いに敗れたのはナマズだが、その結果死んだのが亀だということの説明ができる。
ナマズのドクロが亀だということである。

⑥百鬼夜行

大鏡によれば、956年、藤原師輔が藤原氏を恨んで死んだ亡霊たちの百鬼夜行に遭遇したとある。
その先頭が蘇我入鹿で、蘇我馬子、蘇我倉山田石川麻呂、山背大兄王、大津皇子、山辺皇女などが続いていたという。
蘇我入鹿は鬼の筆頭というわけだ。

ここでもう一度、①を読み返してほしい。

・民間の伝承には百鬼夜行の一員(秋田県)、海坊主の一種(岡山県)にその名称が確認されるが、描かれている妖怪画の「ぬらりひょん」との前後の関係性は明らかではない。

・「妖怪の総大将」であるとされるが、後代における誤伝・俗説とされている。

とある。

蘇我の入鹿は藤原師輔が遭遇した百鬼夜行の一員、というか、行列の先頭にいたのだから、妖怪の総大将といえるかもしれない。


⑦高松塚古墳・キトラ古墳

奈良県明日香村には多くの古墳がある。高松塚古墳と・キトラ古墳も飛鳥にある。

高松塚古墳

高松塚古墳

高松塚古墳には飛鳥美人(女子群像)、官人(男子群像)などのほか、四神図(玄武・朱雀・青龍・白虎の聖獣を四神といいます。高松塚古墳壁画はこのうち朱雀がない。)・太陽・月・星宿図などが描かれている。

高松塚古墳の南1.5kmほどのところにキトラ古墳があるが、キトラ古墳の石室内部には四神図、十二支像、太陽・月・天文図が描かれていた。

高松塚古墳 飛鳥美人 光の地上絵

高松塚古墳 光の地上絵 飛鳥美人

(高松塚古墳の周辺は公園として整備され、高松塚壁画館や芝生広場が作られている。。
展望台へ上って芝生広場を見下ろすと、小さな燈籠をたくさん並べて飛鳥時代の装束をまとった女性たちが描かれていました。)

高松塚古墳壁画に描かれていた飛鳥美人と官人をモチーフとして地上絵を描いたのですね~。
高松塚古墳に描かれた飛鳥美人はこちら → https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Takamat1.jpg?uselang=ja

高松塚古墳とキトラ古墳の四神図はよく似ており、同一人物あるいは同一グループによって描かれたものと考えられている。

高松塚古墳 光の地上絵 四神
四神(玄武・青龍・朱雀・白虎)
高松塚古墳に描かれた四神はこちら → https://www.asuka-park.go.jp/kitora/

壁画が描かれた古墳は九州地方などにもあるが、それらのほとんどは幾何学的な模様を描いたものである。
高松塚古墳・キトラ古墳の壁画はこれらの装飾古墳とは全く異なるセンスで描かれたものであることは一目瞭然である。

そして高松塚古墳・キトラ古墳のような壁画古墳は日本では他には例がない。
ただし天皇陵など宮内庁管轄の古墳は発掘調査が禁じられているため、石室内がどうなっているのか、よくわからないが。

中国や北朝鮮などに高松塚古墳に似た壁画古墳がある。
中国の永泰公主墓 に描かれた壁画が高松塚古墳・キトラ古墳の壁画に似ているとの指摘もある。

なるほど、繊細なタッチは似ている。
しかし、もっと似ている古墳壁画がある。
高句麗壁画古墳壁画である。
↑ 高句麗壁画古墳に描かれた女性像である。
襟のデザイン、プリーツを畳んだようなスカートなど、高松塚のものほとんど同じだ。

⑧高松塚古墳・キトラ古墳の被葬者は誰?

さてさて、高松塚古墳・キトラ古墳の被葬者は誰だろうか?
様々な説があるが、私は高松塚古墳は蘇我入鹿、キトラ古墳は蘇我入鹿の父・蘇我蝦夷の墓ではないかと考えている。

645年の乙巳の変で中大兄皇子に斬られて入鹿は死亡し、その翌日入鹿の父親の蝦夷は自宅に火をつけて自殺した。

飛鳥板葺宮跡

乙巳の変の舞台となった飛鳥板葺宮跡

このとき蝦夷は59歳。
蘇我入鹿は生年不祥ですが、蝦夷が20歳のときにできた子供だとすれば39歳だ。

高松塚古墳から出土した頭がい骨片や歯を鑑定した結果、被葬者は4、50歳代の男性、キトラ古墳は熟年の男性とされていて、年齢はほぼあう。

追記
「この皇極元年(642)蝦夷は、何か期するところでもあるかのように、葛城の高宮に先祖の廟を新設し、中国の王家の舞である八併舞(やつらのまい)を奉納する。さらに引き・続いて全国から大勢の人夫を徴発、今来の地に自分と息子入鹿のために双墓を造営し、蝦夷の墓を大陵と呼ぴ、入鹿の墓を小陵と呼んだ。蝦夷が、墓の建設は自分の死後人に苦労をかけないためだと言ったのに対して、上宮王家の春米(つきしね)女王は「蘇我臣は、国政を我がものとし、非道な行いが目に余る。天に二日なく、国に二王なしと言うのに、なぜ全国の民を勝手に使役するのだ。」と非難したと伝えられる。」
 より引用

↑ こちらの記事によれば、蝦夷の墓が大陵、入鹿の墓が小陵となっている。
高松塚・キトラ古墳が蝦夷・入鹿父子の今木の双墓だとすれば、大きい高松塚古墳が蝦夷の墓、小さいキトラ古墳が入鹿の墓となる。

蘇我入鹿の首が中大兄皇子に斬られて皇極天皇の御簾に食らいついた、という伝説から、頭蓋骨が発見されていない高松塚古墳を蘇我入鹿の墓と考えたのだが、考えなおしが必用ですね。すいません。

また高松塚古墳・キトラ古墳は高句麗壁画古墳に似ていて、被葬者は高句麗と関係の深い人物だと考えられるが
蘇我稲目(蘇我蝦夷の父、蘇我入鹿の祖父)の父が蘇我高麗という名で、当時、高句麗は高麗と呼ばれていたので蘇我氏は高句麗人ではないか、とする説がある。

⑨消えた頭蓋骨

高松塚古墳の被葬者は下顎の部分の骨はありましたが、その上にあるはずの頭蓋骨がなかった。
梅原猛さんは、時間が経過して死体が白骨化したのちに頭蓋骨だけ除かれたのではないかとおっしゃっている。
梅原さんは高松塚古墳の被葬者は弓削皇子としておられて、私とは考えが違うが
「死体が白骨化したのち頭蓋骨だけ除かれた」とする見解はナルホド~、と思った。

⑩飛行するドクロ

既にご紹介したが、多武峯縁起絵巻(談山神社)には、中大兄皇子に斬られた蘇我入鹿の首が飛び上がり、皇極天皇の御簾に食らいつくシーンが描かれている。

平将門の首が飛んだという伝説は有名だが、蘇我入鹿の首も飛んだのである。

なぜ平将門や蘇我入鹿の首が飛んだなどという伝説が生じたのだろうか。
髑髏は呪術の道具として用いられており、高貴な身分の人の頭蓋骨ほど効力があるとされていたらしい。
実際に頭蓋骨が盗難されたという事件も起きている。
入鹿の死後、かなりたってから入鹿の頭蓋骨は呪術の道具として持ちだされたのかもしれない。

あるいは頭蓋骨があると入鹿の魂が蘇ると考えられ、頭蓋骨を持ちだしたのかもしれない。

私はこの記事に鬼八伝説として次のように書いた。

鬼八の死体をばらばらにして地中に埋めた。
ところが鬼八は一夜のうちに蘇ってもとの姿に戻り、土地を荒らしまわった。
そこで田部重高という者が鬼八を殺し、頭を加尾羽(かおば)に、手足を尾羽子(おばね)に、また胴を祝部(ほうり)の地にそれぞれ分葬した。
そうしたところ、鬼八は蘇生しなくなった。 

死体はバラバラにして埋めると蘇生しないと考えられていたのだ。

入鹿の首が飛んだなどという伝説が生じたのは、入鹿のドクロがもちだされたためかもしれない。

そういうわけで、頭蓋骨のない高松塚古墳の被葬者は蘇我入鹿、
高松塚古墳とよく似た四神図が描かれていたキトラ古墳の被葬者は入鹿の父・蘇我蝦夷ではないかと思う

入鹿の首塚

入鹿の首塚(飛鳥寺)




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