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トンデモもののけ辞典⑤ろくろ首

ろくろ首2

葛飾北斎『北斎漫画』より「轆轤首」

①ろくろ首には2種類ある。

ろくろ首には2種類あるそうである。
a首が長く伸びるもの
b首が胴体から離れて飛行するもの。

⓶飛行するドクロ

ろくろ首

『諸国百物語』より「ゑちぜんの国府中ろくろ首の事

まず、「⓶首が胴体から離れて飛行するろくろ首」から考えてみよう。

実在の人物の首が胴体から離れて飛行したという話は、いくつかある。

飛鳥時代、乙巳の変で中大兄皇子に殺された蘇我入鹿の首が飛びあがり、皇極天皇の御簾にくらいついたという伝説がある。

多武峰縁起絵巻 複製(談山神社)

多武峰縁起絵巻 複製(談山神社)

奈良時代には、玄昉という僧侶が大宰府で藤原広嗣の怨霊に体をバラバラにされ、その首が奈良まで飛んで興福寺に落ちたという。
頭塔というピラミッド状の建物が玄昉の首がおちた場所だと伝えられている。

頭塔

頭塔

平安時代には、乱を起こして戦死した平将門の首が京都の鴨川のほとりで晒されたが、首は故郷まで飛びかえったという話がある。

京都・膏薬図子にある神田明神は将門の首が晒されたところ、

神田明神元社

膏薬図子 神田明神

東京にある将門の首塚は、故郷にもどった将門の首が落ちたところとされる。

将門の首塚

将門の首塚

つまり、蘇我入鹿、玄昉、平将門らがろくろ首の正体だと言えると思う。

しかし、なぜ飛行する首をろくろ首というのだろうか。

③なぜろくろ首というのか。

ろくろ首についてウィキペディアは次のように記している。(アルファベットは筆者がつけた。)

ろくろ首の名称の語源は、

a.ろくろを回して陶器を作る際の感触
b.長く伸びた首が井戸のろくろ(重量物を引き上げる滑車)に似ている
c.傘のろくろ(傘の開閉に用いる仕掛け)を上げるに従って傘の柄が長く見える


aはろくろで陶器をつくる際、粘土を上方に伸ばすのを首が伸びることに喩えたということだろう。

bの井戸のろくろとは下記写真の円形部のことである。

欣浄寺 ido

欣浄寺 墨染井

私は木地師が用いる木挽ろくろが、ろくろ首という名称の語源ではないかと考えている。

木挽きろくろ

木地師資料館 木挽きろくろ

上の写真の、長細い筒に紐がまきつけてあるのが木挽きろくろである。

ろくろの先端に器などに加工する木材をセットし、ひとりが刃物を木材にあてる。
もうひとりっが巻きつけた紐の両端をもってひっぱり、轆轤を回転させると、木材を丸い形に加工できる。

ひもを巻きつけた細長い棒状の部分、または棒に巻き付けられた紐を首、轆轤の先端にあてた器を頭部に見立てたのではないだろうか。

木挽きろくろは平安時代の人物、惟喬親王が発明したという伝説がある。
しかし、これは事実ではない。

というのは、奈良時代に制作された百万塔が、木挽きろくろで制作されたと考えられているからだ。


⑤惟喬親王はろくろ首だった?

なぜ惟喬親王が木挽きろくろを発明したなどといわれているのだろうか。

惟喬親王は平安時代の人物で父親は文徳天皇、母親は紀静子だった。
文徳天皇には藤原明子との間に惟仁親王(のちの清和天皇)という皇子もあった。
文徳天皇は長子で聡明な惟喬親王を皇太子にしたいと思っていたが、当時は藤原氏が強い権力を持っていたため、惟仁親王が皇太子となった。
世継争いに敗れた惟喬親王は小野の里に隠棲したとされる。
小野の里とは京都の大原あたりとされ、大原には惟喬親王の墓もある。

惟喬親王 墓(大原)

惟喬親王墓(大原)

しかし滋賀県・君ヶ畑ではこれとは別の伝説を伝えている。
世継ぎ争いに敗れた惟喬親王は君ヶ畑に隠棲し、法華経の軸が転がるのを見て木挽きろくろを発明。
そしてこれをこの土地の住民に伝え木地師が生まれたというのだ。

君が畑にある金龍寺はこの地で惟喬親王が住んだ高松御所跡とされる。

金龍寺

金龍寺境内にある小さな社

金龍寺境内に小さな社があり、 石碑には「惟喬親王勧請 鎮守神 御池大龍権現 天狗堂大僧頭権現」と記されていた。
「惟喬親王が勧請した御池大龍権現と天狗堂大僧頭権現をお祀りしています」というような意味だろうか。

また金龍寺の隣には惟喬親王の墓があり、君が畑から近い筒井峠にも惟喬親王の墓がある。

惟喬親王 墓(筒井峠)

惟喬親王 墓(筒井峠)

しかし、すでに述べたように惟喬親王が木挽きろくろを発明したというのは事実ではない。
もしかすると、惟喬親王自身が、ろくろ首であったため、惟喬親王が木挽きろくろを発明したなどと言う伝説が生じたのではないか?

⑥惟喬親王を祀る玄武神社は三輪明神と関係が深い?

惟喬親王を祀る神社は多数ある。
京都の玄武神社もそのひとつである。

玄武神社の境内には三輪明神を祀る社がある。
三輪明神とは大神神社の神、大物主のことである。

平安時代の律令の注釈書『令義解(りょうのぎげ)』に次のように記されている。
「春、疫神が流行病を起こすので、これを鎮めるため、大神神社と狭井神社で祭りを行う。」
これが鎮花祭のルーツと考えられているのだが、玄武神社でおこなわれている「やすらい祭」もまた鎮花祭である。
どうも玄武神社は大神神社と関係が深そうである。

玄武神社 やすらい祭

玄武神社 やすらい祭

玄武神社境内に祀られている三輪明神=大物主についてだが
この神は蛇神とされ、大物主を祀る奈良・大神神社境内には蛇の好物である卵が供えられていたりするのをよく見かける。

⑦蛇は頭に長い首がついた動物?

三室戸寺 宇賀神

↑ 上の写真は三室戸寺の境内に置かれている宇賀神の石像であるが
人間の頭部に蛇の体というお姿をしている。

世界各地で太陽神を蛇神とする信仰がある。
脱皮を繰り返す蛇は再生をイメージさせ、同様に再生を繰り返す太陽のイメージと重ねられたと言われる。

しかし、太陽が丸いのに対し、蛇は細長く全く形が異なる。
なぜ蛇が太陽神とされたのか納得できなかったのだが、宇賀神のおすがたを見て、なぜ蛇が太陽神とされたのかがわかったような気がした。

↑ 大神神社のHPに大神神社のご神体である三輪山の日の出の写真が掲載されている。
この写真と上の宇賀神の写真を見比べてみてほしい。

三輪山は蛇がとぐろを巻くおすがただといわれている。
すると宇賀神の頭部と、三輪山の頂近くに昇った太陽が重なって見えてくる。
宇賀神の頭部は山の頂に昇った太陽を擬人化したものではないだろうか。

また、昔の人は蛇とは胴体がなく、頭部に長い首のついた動物だと考えていたのではないだろうか。

大神神社の御祭神・大物主も宇賀神のように胴体がなく、頭(髑髏)に長い首がついたおすがたをした神だと考えられていたのではないかと思う。

惟喬親王も大物主同様、胴体がなく髑髏に長い首がついたおすがたをした神であると考えられた結果、
惟喬親王をまつる玄武神社境内に三輪明神がまつられているのではないか。

また、惟喬親王が胴体がなく髑髏に長い首がついたおすがたをした神だという認識があったため
「惟喬親王が木挽きろくろを発明した」などという伝説が生じたのかもしれない。

先ほども述べたように、お椀が頭部、木挽きろくろ、またはその長い棒に巻き付けられた紐が長い首のようにみえると思う。
(宇賀神のおすがたを考えると、木挽きろくろの長い棒ではなく、棒に巻き付けられた紐を首としたほうがいいかもしれない。)
そういえば木地師史料館に祀られている惟喬親王像は手にお椀を持っている。

惟喬親王像





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