若草山山焼き
①若草山を焼かないと牛鬼という妖怪が出る
『南都年中行事(村井古道・1740年ごろ)』に次のようなに記されている。
若草山を焼かない時は牛鬼という妖怪が出るといわれる。
このため正月丑の日に放火していたが、近年元旦より三日の間に放火するようになった。
往古より誰が行なうということなく、毎春旅人などが放火していたようだ。
牛鬼とは西日本に伝わっている妖怪で、毒を吐き、人を食い殺す。
若草山焼きは東大寺と興福寺の境界争いがルーツであるともいわれているが
牛鬼を焼き払う神事であるとも考えられていたのだ。
⓶牛=丑=12月、鬼=丑寅=1年の変わり目?
古には方角、12か月、日にち、時刻などを干支であらわしていた。
12か月では12月は丑である。
丑=牛である。
方角では東北は艮(丑寅)で、鬼の出入りする方角、鬼門とされて忌まれていた。
鬼門を作らないようにするため、建物や塀の角を内側に凹ませたり(京都御所 猿が辻)
猿が辻
斜めに切り取ったり(石清水八幡宮)する建築例がある。
石清水八幡宮
私見だが、京都の二条城は東西南北が少しずれているのだが、それは東北の角を作らないためではないかと思ったりもする。
12か月では丑は12月、寅は1月なので、艮(丑寅)は1年の変わり目ということになる。
1年の変わり目である艮(丑寅)は鬼と考えられていたのではないだろうか。
方角・・・・・・・艮(丑寅)・・・東北・・・鬼門
12か月・・・・・・艮(丑寅)・・・1年の変わり目・・・鬼?
つまり、牛=12月 鬼=1年の変わり目で、これを山焼きによって焼き切ることで新年がやってくると考えられていたのではないかと思う。
③牛を牽く童子の像
967年施行の延喜式に次のように記されている。
大寒の日、宮中の諸門に『牛を牽く童子の像』をたて、立春の前日=節分の日に撤去する。
なぜこのようなことをするのだろうか。
節分(2月3日ごろ)は二十四節気の大晦日で、翌日(2月4日ごろ)は二十四節気の新年だった。
そして太陽太陰暦の大晦日と二十四節気の節分は、ほぼ同時期であった。
江戸時代まで、太陽太陰暦と二十四節気、2つの正月があったのである。
宮中の諸門に置く『牛を牽く童子の像』の牛は丑で、12月をあらわしているのだと思う。
そして童子は八卦では艮(丑寅)をあらわす。
つまり『牛を牽く童子』とは『丑を牽く艮《丑寅)』、つまり艮=1年の変わり目が、12月を牽くことで新年がやってくるということではないかと思う。
この『丑を牽く童子』は牛鬼と同じ意味を持つものだと思う。
鬼は茨木童子、酒呑童子などのように「童子」と呼ばれることが多く、
鬼と童子は関係が深そうに思われるのも、興味深い。
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