トンデモもののけ辞典① 刑部明神は池戸親王と井上内親王の霊? 追記あり
あまり面白くないけど、自分用としてw
姫路城 ライトアップ
①長壁姫
姫路城には長壁姫(おさかべひめ/小刑部姫、刑部姫、小坂部姫)という妖怪が住んでいるといわれる。
姫という名前から、この妖怪は女性だと思われる。
女性の妖怪だと考えられたのは、姫路城と言う城名、また姫路城が建てられているところが姫山という場所によるのかもしれない。
⓶長壁姫は刑部大神の幽霊?
姫路城は姫山に建てられているが、城が建てられる以前の姫山には「刑部(おさかべ)大神」の社が建てられていたそうである。
姫路城を建設する際、豊臣秀吉が刑部大神の社を遷宮したと伝わる。
兵庫県姫路市立町33には長壁神社がある。
この長壁神社が刑部大神を祀る社だろうか。
ということは長壁姫(おさかべひめ/小刑部姫、刑部姫、小坂部姫)とは、この刑部大神の幽霊ということではないだろうか。
③長壁姫に祟られた池田輝政
姫路城は1346年に赤松貞範が築城して以来、約530年の間に13氏も城主が変わっている。
その城主のひとり池田輝政は城を大規模に改修したが、よくないことが頻繁におこり、1611年、輝政は病を患ってしまう。
輝政の病気は刑部大神の祟りだという噂が流れた。
そのため、池田家は城内に刑部神社を建立した。
現在天守最上階に刑部神社があるそうだが、これが池田家が建立したとされる刑部神社なのだろう。
つまり、もともと姫山には刑部神社があったのに、遷宮させて姫路城を建てたため、
何かよくないことがあると刑部神社の祟りである、と考えられるようになったということではないかと思う。
④長壁神社の由緒
長壁神社について、ウィキペディアは次のように記している。
①刑部親王(おさかべしんのう/光仁天皇の皇子)を主祭神に親王の王女という富姫を配祀する。
⓶刑部親王は藤原百川の讒言によりその地位を追われると、親王の王女であるという富姫も幼い頃より住んでいた姫山の地で薨去。
③国司の角野氏がこの2人を守護神として姫山に祀って以来、代々の国司や守護職からの厚い保護と庶民からも厚い尊敬を受けた。
この刑部親王の王女、富姫が長壁姫の正体なのだろうか。
いや、古くは刑部親王の幽霊なのではないか。
その理由は、刑部と長壁の発音が同じだからである。
⑤刑部親王は他戸親王?
長壁神社の御祭神の刑部親王は光仁天皇の皇子だというが、光仁天皇(709~782)の皇子の中に刑部親王という名前は見当たらない。
昔のことなので、正史に名前が残っていないということも考えられるが、
藤原百川(732 ~779)の讒言によって流罪となった他戸(おさべ)親王(761?~775)は光仁天皇の皇子である。もしかして、刑部親王とは他戸親王のことなのかもしれない。
他戸親王の・母親で光仁天皇の皇后だった井上内親王(717~775)が天皇を呪ったとして后を廃され
他戸親王はこれに連座したとして廃太子となり、母親とともに奈良県五條市の没官の邸に幽閉され急死した。
この事件は山部親王(桓武天皇)を立太子させたいと考えていた藤原百川の陰謀だと考えられている。
『おさかべ親王』と『おさべ親王』は音もよく似ている。
http://blog.livedoor.jp/myacyouen-hitorigoto/tag/%E9%95%B7%E5%A3%81%E7%A5%9E%E7%A4%BE
↑ こちらのブログには、出典はわからないが「刑部親王は池戸親王である」と記されている。
池戸親王の不幸な人生は幽霊にふさわしいようにも思える。
⑥刑部親王は天武天皇の皇子の忍壁皇子ではない。
また、天武天皇の皇子に忍壁皇子があり、刑部親王(?~705)とも記される。
忍壁皇子は大宝律令選定を指揮した方である。
長壁神社の由緒によると刑部親王は藤原百川(732 ~779)の讒言によって地位を追われたとあるが、
忍壁皇子のことだとすると、時代があわない。
藤原百川(732 ~779)の讒言によって地位を追われたということは、やはり光仁天皇の皇子の池戸親王のことだと思われる。
⑦池戸親王に王女(娘)はあったか?
もういちど、長壁神社の伝説についてみてみよう。
⓶刑部親王は藤原百川の讒言によりその地位を追われると、親王の王女であるという富姫も幼い頃より住んでいた姫山の地で薨去。
とあるが、池戸親王は母親で光仁天皇の皇后だった井上内親王(717~775)が天皇を呪った罪に連座したとして、廃太子となり、母親とともに奈良県五條市の没官の邸に幽閉され急死したのだった。
また、親王の王女・富姫とあるが、ウィキによれば、池戸親王の生没年は、761年?~775年となっている。
生年がはっきりしないが、生年を761年とすると14歳で亡くなったことになる。
その根拠は、水鏡に「宝亀三(772年)十二(歳)になる」と記されていることによる。
(これを「二十二(歳)」の間違いとして他戸親王出生を751年とする説もある。)
14歳だと子供を作ることは可能かもしれない。
⑧長壁姫は井上内親王?
『諸国百物語』には、こんな話が伝えられている。
姫路城天主閣で播磨姫路藩初代藩主池田輝政が病気平癒のため、比叡山の阿闍梨に加持祈祷をさせていた。
その阿闍梨の前に、三十歳ぐらいの女が現われ、「うせよ」といった。
阿闍梨が言い返すと、女は身の丈2丈(約6メートル)もの鬼神に変じ、阿闍梨を蹴り殺して消えた。
これは『愚管抄』のの記述を思い出させる。
『井上内親王は龍となって藤原百川を蹴殺した。』と記されているのだ。
『諸国百物語』の記述はこれに似ている。
『諸国百物語』の作者は「長壁姫=井上内親王」という認識があり、『愚管抄』の記述をまねたのではないだろうか。
とすれば、長壁姫は井上内親王である可能性もある。
⑨池戸親王はなぜ刑部親王と記されるようになったのか。
刑部で検索すると、複数の意味があるようだが、その中に刑部省というのがでてくる。
古代日本における律令制下の八省の一つ。和名は「さばきつかさ」。
主な職掌は、司法全般を管轄し重大事件の裁判・監獄の管理・刑罰を執行することである。
しかし、軽罪については各官司が独自に裁判権を持ち、平安時代に検非違使が設置されて以降、ほとんどの職掌を検非違使に奪われることとなり、有名無実化した。
唐名は刑部、秋官、大理。官舎は皇嘉門内にあった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%91%E9%83%A8%E7%9C%81 より引用
池戸親王は光仁天皇を呪詛した母・井上内親王に連座したとして、幽閉されていたのあった。
池戸親王は刑部によって罰をうけていた存在であり、
そこから池戸親王は刑部親王とも呼ばれるようになったのかもしれない。
それから、なぜ池戸親王(=刑部親王?)は姫路で祀られていたのだろうか。
これについては宿題としておくw
※追記 その後、刑部明神は池戸親王と井上内親王の霊ではない、という結論にいたりました。
それについてはこちらの記事をお読みください。トンデモもののけ辞典126 隠神刑部・長壁姫・亀姫