鳥山石燕『百器徒然袋』より「古空穂」
①妖怪・古空穂
うつぼ(靱、靭)とは、矢を入れて背負うための道具である。
上の鳥山石燕の『百器徒然袋』には、古空穂(ふるうつぼ)という名前で、うつぼに顔がついた妖怪が描かれている。
上の絵は画質が悪くてうつぼの形がよくわからない。 下の写真の弓矢をいれている道具がうつぼである。
解説文に「そそ野に命をいたづらに奈須野の原の野干(やかん)をいたる三浦の介(みうらのすけ)上総介(かずさのすけ)が古うつぼにや」はと記されている。
「そそ」には4つの意味がある。 ❶女性の陰部。❷清らかで美しいさま。❸ かすかに吹く風の音。❹注意を促すときに発する声。そら。
❷か❸か❹の意味だと思う。
「奈須野の原」は「栃木県那須郡」、「野干」は「狐の別名」で、九尾の狐(玉藻前)の事と考えられている。
鳥羽上皇が寵愛した玉藻前は実は狐で、那須の地で討伐されて殺生石になったという伝説があるのだ。
「そそ野命をいたづらに」は意味がわからない。 「奈須野の原の野干(やかん)をいたる三浦の介(みうらのすけ)上総介(かずさのすけ)が古うつぼにや」は 「那須のの九尾の狐(玉藻前)を射た三浦介・上総介の古いうつぼだろうか」という意味だろう。
室町時代の妖怪絵巻『百鬼夜行絵巻』には弓矢をかついだうつぼの妖怪が描かれているという。 たぶん、下記リンク先上部に描かれているのがうつぼの妖怪だろう。
⓶古空穂の正体は由岐明神(靭明神)?
「うつぼ」は別名を「やなぐい」「ゆき(漢字表記は靫・靭でうつぼと同じ)」ともいう。 そこで思い出すのは鞍馬寺の境内にある由岐神社である。 由岐明神は靭(ゆき)明神とも呼ばれているのだ。 古空穂の正体とは、この由岐明神は靭(ゆき)明神(靭明神)であるかもしれない。
939年ごろ、都は大地震にみまわれ、また天慶の乱が起きるなどした。
天慶の乱とは平将門の乱と藤原純友の乱のことで、同時期におきたので天慶の乱と総称されている。
また出羽で俘囚(朝廷の支配に属した蝦夷のこと)が反乱を起こしており、これも天慶の乱と呼ばれている。
939年は朝廷にとって大変な年だったのだ。
940年9月9日、朱雀天皇はそれまでは御所で祭っていた由岐明神を鞍馬に遷宮させた。
遷宮の理由として、939年におこったもろもろの悪いことを払拭するという意味合いがあったとする記事もあった。
由岐明神の遷宮の行列は無数の松明を携え、その行列は十町(約1キロ)に及んだ。
『鞍馬の火祭』はこの遷宮の様子を再現したものだといわれている。
鞍馬の火祭
③山中なのに船頭篭手?
上の写真の男性が腕につけているのは船頭篭手(せんどうごて)である。
船頭篭手は船頭の力強い腕力を表すために身に着けているとされるが、鞍馬は山なのに船頭というのは、違和感がある。
近くには鞍馬川という川が流れているので、川を渡る船の船頭さんだろうか?
鞍馬川は水量がそんなに多くないと思うのだが、保津川の急流下りをするような船が中世には鞍馬川を渡っていたのだろうか?
④由岐明神は藤原純友の乱平定を目的として遷宮された?
940年由岐明神が遷宮してきたのは9月9日だというが、9月9日は旧暦だろう。 これを新暦に直すと940年10月12日となる。
平将門は940年3月25日に討死し、由岐明神が鞍馬に遷宮してきたときすでに平将門の乱は鎮圧されていた。
しかし、このとき藤原純友の乱はまだ鎮圧できていなかった。
由岐明神を鞍馬に遷宮させたのは、由岐明神に立派な社殿を奉り、また都の東北におくことで鬼門封じとし、藤原純友の乱を鎮圧させようという呪術的な目的があったのではないかと思う。
⑤藤原純友は海賊の棟梁だった。
藤原純友は海賊の棟梁で、海賊を率いて乱を起こした。
当時の海賊がどのようないでたちをしていたのかわからないが、鞍馬の人々が祭礼で身に着けているような船頭篭手をつけていたのかも?
鞍馬の人々のいでたちは藤原純友率いる海賊のいでたちなのではないだろうか?
941年5月、朝廷の派遣した軍が純友軍を破った。
純友は小舟に乗って伊予に逃れたが、同年6月に捕らえられ、獄中で死亡した。
⑥由岐神社=靭明神は藤原純友?
靭が矢を入れる道具であることはすでに説明したが、ウツボという魚もいる。 ウツボは凶暴な魚で『海のギャング』とも言われる。
ウツボは海賊の首領だった藤原純友のイメージにぴったりだと思うが、いかがだろうか?
魚のウツボは矢をいれる靭にもにている。 由岐神社=靭明神とは魚のウツボの神でもあり、藤原純友のことではないかと思う。
ウツボ
⑦日振島とウツボ
紀伊半島・四国・九州・沖縄ではウツボを食べるそうである。。
なかなか美味であるという。一度食べてみたい!
で、海のギャング=海賊の首領=藤原純友が本拠地としていたのは日振島である。
下は宇和海の地図である。
西には九州の大分県、東には四国の愛媛県がある。
地図上の宇和海という文字の下にwような形をした島が見える。これが日振島である。
日振島でもウツボを食べる食習慣があったことだろう。
⑧日振島は火振島?
日振島という地名の由来について、ウィキペディアには次のように記されている。
昔から船の往来があり、島民がたいまつの火を振ることで灯台の代わりをしたことに因む、との説がある。
もしかして、鞍馬の火祭で用いられるたいまつは日振島の島民たちが灯台がわりに振っていたたいまつがルーツなのではないか?
⑨チョッペンはカシオペア座と日振島を表している?
終電に間に合わなくなっていまうのでやむなく帰宅したのだが、鞍馬の火祭では深夜チョッペンの儀が行われる。
チョッペンの儀とは二人の青年が脚を上向けに開脚して2つのV字形=W字形を作るというものである。
成人式の意味合いがあるなどと言われている。
日振島はwの形をした島である。
チョッペンの儀は日振島を表しているのではないだろうか。
またチョッペンや日振島はカシオペア座にも似ている。
カシオペア座
カシオペア座のWは向かって左側のVが広いのに対し、日振島のWは向かって右側のVが広くなってる。
上図のカシオペア座は地球上から空を見上げたときの形である。
星が天球に貼りついているものとして、天にいる神様が天球の上から眺めるとカシオペア座は日振島と同じように向かって右側のVが広い形に見えるはずである。
⑩錨星(カシオペア座)が北斗七星をつなぎとめる。
古の日本では、カシオペア座は北極星より下にあってW字形のときは錨星、北極星より上にあってⅯ字形のときは山形星と呼ばれていた。
カシオペア座 錨星 山形星
錨とは綱や鎖をとりつけて海底や川底に沈めるもののことで、海賊の首領・藤原純友と関係が深そうに思える。
山形星(カシオペア座)と北斗七星
カシオペア座が錨星のとき、北極星を挟んだ上部には北斗七星がある。
錨星は北斗七星をつなぎとめているようにも見える。
⑪鞍馬七福神
鞍馬寺の山門をくぐるとケーブルカーがあって鞍馬山上の多宝塔前まで行けるのだが
ケーブルカーに乗らずに向かって左手の参道をのぼっていくと途中に由岐神社がある。
由岐神社からさらに参道をのぼっていくと「いのちの像」があり
鞍馬七福神 双福苑〈蛭子神・大黒天)
さらに参道を登っていくと、双福園(恵比須天・大黒天を祀る)・福寿星神祠(福禄寿・寿老人を祀る)・巽の弁才天社(弁才天を祀る)・弥勒堂(布袋尊を祀る)・開運毘沙門天祠(毘沙門天を祀る)が次々に表れる。
これらは鞍馬七福神と呼ばれている。
鞍馬七福神 双福苑〈蛭子神・大黒天)
⑫鞍馬寺境内に北斗七星と錨星があった!
高田祟史さんは七福神は北斗七星として祀られ、北極星の周囲を永遠に回り続けるという呪術がかけられているとおっしゃっていた。
鞍馬七福神は北斗七星の神を祀っているのではないだろうか。
この鞍馬七福神の配置が北斗七星の形になっていたら面白いと思ったが、そうはなっていなかった。
しかし、星田妙見宮に祀られている北斗七星の神々も北斗七星の形には配置されていないので 北斗七星の形になっていないといっても、鞍馬七福神が北斗七星の神でないとはいえない。
※貪狼星・ 巨門星・ 禄存星・ 文曲・ 廉貞星・ 武曲星・ 破軍星の七つの星は北斗七星の神。
七福神信仰は由岐明神が遷宮された940年にはまだなかったかもしれない。
しかし古より北極星や北斗七星に対する信仰があった。 鞍馬寺には古より北斗七星に対する信仰があったのではないだろうか。 そしてその北斗七星に対する信仰を受けて、鞍馬七福神は作られたのかもしれない。
由岐神社=カシオペア 鞍馬七福神=北斗七星 とすると上の境内図の⑱「いのちの像」は北極星を表し、ているのかも?
「いのちの像」は鞍馬寺の御本尊・尊天(宇宙のエネルギーを象徴する神)をあらわすものとされる。
いのちの像は由岐神社と鞍馬七福神をつなぐ場所にあり、なによりこの3つの輪がついたこの形・・・。
全ての星は北極星を中心にして回る。 まるで北極星には宇宙を回転させるパワーがあるかのようだ。 いのちの像とは北極星の像であり、須弥山(かな?)にかかる3つの輪は宇宙を回転させるパワーのように見えてくる。
鞍馬の火祭
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黄表紙における一つ目小僧。北尾政美『夭怪着到牒』
①一つ目、一本足はたたら製鉄の妖怪?
一つ目小僧には、いろんなルーツを持つものがありそうである。
たたら製鉄に携わっていた人々をモデルに、一つ目、一本足の妖怪は作られたとよく言われる。 たたら製鉄では、片目をで火の温度をみるため、片目を失明することが多かったそうだ。 また鞴を踏んで風を送り続ける必要があり、そのため、足を悪くすることが多かったともいう。
上の「黄表紙における一つ目小僧。北尾政美『夭怪着到牒』」は二本足だが、たたら製鉄に携わっていた人々の特徴のうち、目の部分だけをとりあげて創作されたものなのかもしれない。
⓶事八日(2月8日と12月8日)に現れる箕借り婆と一つ目小僧
2月8日と12月8日のいずれか、もしくは両方を事八日という。 どちらを事八日とするのかについては、地域によって異なる。 12月8日を事治め、2月8日を事始めということもあるが、事を「正月行事」とし、12月8日を事始め、2月8日を事治めとする地域が関東の一部などにある。
関東地方には「2月8日と12月8日の事八日の夜に箕借り婆と一つ目小僧がやってくる」という言い伝えがある。
これを追い払うため、目籠(目の粗い竹製の籠)を長い竿に取り付けて、軒先にたてかけておくのだという。
なぜ籠をたてかけておくのかというと、籠のたくさんの目に驚いて妖怪がやってこないということであるらしい。
また門口にヒイラギやイワシの頭、ニンニクを取り付けたり、餅や団子を木に挿したものをとりつけたりすることもあるそうである。
鰯の頭をヒイラギの枝にさしたものを節分の日に門口に飾る習慣がある。 節分には「鬼追い」をするが、鬼は生臭いのが苦手で、鰯の頭を見ると逃げていくなどといわれる。 ヒイラギはとげのある葉が鬼を遠ざけると考えられたのだろうか。
事八日にヒイラギやイワシの頭を門口に飾るのも、節分のヒイラギイワシと同様の意味を持つものかもしれない。
ニンニクというのは西洋の吸血鬼よけを思わせて興味深い。 日本でも西洋でも発想は同じということなのか、あるいは西洋から伝えられたものなのか。
茨城や福島では事八日の日に訪れる妖怪のことをダイマナク、栃木ではダイマナコという。 大きな眼(まなこ)という意味だろうか。
③箕借り婆
千葉県南部では、1月26日から約10日間を「ミカワリ」または「ミカリ」という物忌みの期間としている。 兵庫県の西宮神社・徳島県木頭村(現・那賀町)では、祭りの前の物忌みをミカリといっている。 箕借り婆の「箕借り」とは、物忌みのことだろうか。 「身代わり」が由来とする説もあるらしい。
箕借り婆は、箕や人間の目を借りて行ってしまうという話もある。
④一つ目小僧は針の妖怪?
法輪寺 針供養
京都の法輪寺では12月8日と2月8日に針供養を行っている。 針は普段固いものをさしているので、針供養では柔らかいこんにゃくに針を刺して供養する。
12月8日と2月8日の事八日は魔物が家の中をうかがっていると考えられ、身をつつしむ日とされていた。 (この魔物が、関東では蓑借り婆と一つ目小僧だと考えられたのだろう。)
身をつつしむ日なので女性たちはこの日針仕事をしなかったのだという。
針は一つ目である。
事八日にあらわれる一つ目小僧は針の妖怪ではないだろうか?
そう考えると、身をつつしむ日に針仕事をしなかった理由が説明できると思うのだが。
法輪寺 針供養
⑤法輪寺は惟喬親王、清和天皇ゆかりの寺
針供養の最も古い記録は、この法輪寺の針供養堂を清和天皇が建立したというものである。
法輪寺は惟喬親王ゆかりの寺で、 惟喬親王がこの寺に籠って虚空蔵菩薩より漆の製法を教わったという伝説があるのだが 法輪寺に針供養のお堂を建てた清和天皇は惟喬親王の異母弟である。
法輪寺 針供養
⑥惟喬親王と惟仁親王(清和天皇)の世継争い
文徳天皇には紀静子が産んだ惟喬親王と、藤原明子が産んだ惟仁親王(清和天皇)があった。
文徳天皇は惟喬親王を皇太子にしたいと考えて源信に相談したのだが、源信は明子の父・藤原良房を憚って天皇をいさめたという。 結果、惟仁親王が皇太子となり、即位した。
法輪寺 針供養
⑦小野小町は惟喬親王?
私は小野小町とは小野宮とよばれていた小野小町のことではないかと考えている。 小野小町について、私は小野宮と呼ばれた惟喬親王のことだと考えている。
a 古今和歌集には男が女の身になって詠んだ歌が多数ある。
b 古今和歌集仮名序はやけに小町が女であることを強調しているが、これは小町が男だからではないか。
c .小野小町は穴のない体で性的に不能であったともいわれているが、穴がない体なのは小町が男だからではないか。
待ち針は穴のない針という意味で「小町針」だったのが、訛って待ち針になったといわれている。
d 『古今和歌集』に登場する女性歌人に三国町、三条町、がいる。
三国町は一般には継体天皇の母系氏族・三国氏出身の女性だと考えられているが、
『古今和歌集目録』は三国町を紀名虎の娘で仁明天皇の更衣としている。
紀名虎の娘で仁明天皇の更衣とは紀種子のことである。
また三条町は紀名虎の娘で文徳天皇の更衣だった紀静子のことである。
三国町が紀種子とすれば、三条町=紀静子なので、三国町と三条町は姉妹だということになる。
そして紀静子は惟喬親王の母親だった。。
惟喬親王は三国町の甥であり、三条町の息子なので、三国町・三条町とは一代世代が若くなる。
そういうことで小町なのではないだろうか。
e 花のいろは うつりにけりな いたづらに わがみよにふる ながめせしまに
この歌は縁語や掛詞を用いて二重の意味をもたせた技巧的な歌だとされる。
①花の色はすっかり褪せてしまったなあ。春の長い雨のせいで。
②私の容色はすっかり衰えてしまったなあ。恋の物思いにふけっている間に。
※『色』・・・『視覚的な色(英語のColor)』『容色』
※『世』・・・『世の中』と『男女関係』
※『ながめ』・・・『物思いにふける』『長雨』
しかし、もうひとつ違う意味が隠されているように思える。
③はねずの梅の鮮やかな色はあせ、(「はねず」は移るの掛詞なので、花ははねずの梅ととる)私の御代に(「わが御代に 下(ふ)る」とよむ。)長い天下(「ながめ」→「長雨」→「長天」と変化する。さらに「下(ふ)る」を合わせて「天下」という言葉を導く)がやってきたようだ。
随心院 小野小町像
⑧箕借り婆の正体は百歳の小野小町?
⑦の c .小野小町は穴のない体で性的に不能であったともいわれているが、穴がない体なのは小町が男だからではないか。
待ち針は穴のない針という意味で「小町針」だったのが、訛って待ち針になったといわれている。
に注意してほしい。
❶小野小町は「待ち針」に関係が深い。 ❷小野小町の正体は小野宮と呼ばれた惟喬親王? ❸針供養は事八日に行われる。 ❹針供養の最も古い記録は法輪寺。 ❺法輪寺は惟喬親王、清和天皇ゆかりの寺。
❶~❺を考え合わせると、事八日に一つ目小僧とともに現れる箕借り婆とは小野小町ではないかと思える。
小野小町ゆかりの寺には「小町百歳像」なるものが残されていることがある。 能の卒塔婆小町にも百歳の老婆となった小町が登場する。
箕借り婆の「箕借り」の意味はよくわからない。もう少し考えてみる。
妖怪ストリート(京都) ぬらりひょん
①ぬらりひょんは亀石にそっくり!
細長い頭部が特徴的なこの妖怪は「ぬらりひょん」と呼ばれる。
ウィキペディアには次のように説明されている。
一般に、瓢箪鯰(ひょうたんなまず)のように掴まえ所が無い化物であるとされる。 江戸時代に描かれた妖怪絵巻などにその姿が多く確認できるが、詳細は不明である。 民間の伝承には百鬼夜行の一員(秋田県)、海坊主の一種(岡山県)にその名称が確認されるが、描かれている妖怪画の「ぬらりひょん」との前後の関係性は明らかではない。 「妖怪の総大将」であるとされるが、後代における誤伝・俗説とされている。
江戸時代の『好色敗毒散』には「その形ぬらりひょんとして、たとえばナマズに目口もないようなもの、あれこそ嘘の精なれ」とある。
より引用
私はこれにそっくりなものを見たことがある。
奈良県明日香村にある亀石である。 
眉間の半月状のしわまで同じである。 亀石とぬらりひょんは同じものだと考えられないだろうか。
とすれば、ぬらりひょんは細長いドクロの妖怪であり、亀石はドクロを象った石だということになる。
⓶葛城一言主神社にある亀石もドクロを模した石だった。
葛城一言主神社にも亀石と呼ばれる石がある。
やはりドクロのような形をしている。
葛城一言主神社には、土蜘蛛の塚と呼ばれる石があり、その土蜘蛛の塚の下に土蜘蛛の胴体が埋められているという。 そして神殿の下には土蜘蛛の頭部が埋められたというのだが、 亀石は山の中腹にある神殿から階段をおりたあたりにあって、神殿の下といえなくもない。
亀石は土蜘蛛の頭部を埋めた上に置いた石で、やはりドクロをあらわしていそうである。
⓶亀石とナマズ
飛鳥の亀石には次のような伝説がある。
かつて大和は湖であり、当麻の蛇と川原のナマズが湖を二分して支配していた。
あるとき、蛇とナマズが湖の支配権をかけて争い、川原のナマズが負けた。
その結果、湖水を当麻に取られて川原の湖は干上がり、多くの亀が死んだ。
亀石はその追悼の意味から造られたもので、この石が当麻のある西を向いた時には、大和盆地は大洪水がおこって湖になると言い伝えられている。
ここに「川原のナマズ」とでてくるが、もう一度①のウィキペディアの記述を読んでみてほしい。
「一般に、瓢箪鯰(ひょうたんなまず)のように掴まえ所が無い化物であるとされる。」とある。
瓢箪鯰のリンクをクリックすると、瓢鮎図(ひょうねんず)のページにとぶ。 瓢鮎図とは、画僧・如拙作の絵画作品でひょうたんでナマズを押さえるという禅の公案を描いた、 鮎はナマズの意味と説明があり、つぎのように現代語訳が記されている。
空を飛ぶものはイグルミでからめとり
水中を泳ぐものは網でとらえる。 これが漁や猟の常法である。 中がうつろで丸くころころした瓢箪で 鱗がなくネバネバした鮎を深い泥水の中で抑えつけることなど
いったいできるであろうか
どうやらとらえどころがないものを、瓢箪鯰といっているらしい。
ぬらりひょんが瓢箪鯰であり、ぬらりひょんそっくりの亀石伝説にナマズが登場するのは、偶然だろうか?。
③川原のナマズは蘇我入鹿?
多武峰縁起絵巻 複製(談山神社)
川原のナマズとは、645年の乙巳の変で中大兄皇子に首を切られた蘇我入鹿を比喩的に表現したものではないだろうか。
上の絵では、蘇我入鹿の首が皇極天皇の御簾に食らいついている。 蘇我入鹿は皇極天皇に仕えていたのだ。 皇極天皇の宮は飛鳥板蓋宮だった。 また蘇我入鹿の邸宅は飛鳥の甘樫丘にあり、蘇我入鹿は飛鳥と縁が深い人物なのだ。
川原とは飛鳥にある地名である。
皇極天皇は重祚(再び皇位につくこと)して斉明天皇となったが、その斉明天皇の宮を川原宮といった。
その川原宮跡に天智天皇が寺を建てたのが、川原寺である。
川原寺
亀石は蘇我入鹿の首を模したものなのかもしれない。
④當麻の蛇は中大兄皇子?
當麻の蛇とは中大兄皇子のことだろうか。
中大兄皇子は葛城皇子ともいう。
葛城と當麻は場所的に近く、當麻の蛇とは中大兄皇子(葛城皇子)のことを言っているようにも思える。 (當麻と中大兄皇子が結びつきが弱いので、あまり自信ないがw)
⑤ナマズのドクロが亀?
そして死んだ亀とは蘇我入鹿のドクロを比喩したものではないだろうか。
川原のナマズ・・・蘇我入鹿
死んだ亀・・・・・蘇我入鹿のドクロ
このように考えれば、戦いに敗れたのはナマズだが、その結果死んだのが亀だということの説明ができる。 ナマズのドクロが亀だということである。
⑥百鬼夜行
大鏡によれば、956年、藤原師輔が藤原氏を恨んで死んだ亡霊たちの百鬼夜行に遭遇したとある。 その先頭が蘇我入鹿で、蘇我馬子、蘇我倉山田石川麻呂、山背大兄王、大津皇子、山辺皇女などが続いていたという。 蘇我入鹿は鬼の筆頭というわけだ。
ここでもう一度、①を読み返してほしい。
・民間の伝承には百鬼夜行の一員(秋田県)、海坊主の一種(岡山県)にその名称が確認されるが、描かれている妖怪画の「ぬらりひょん」との前後の関係性は明らかではない。
・「妖怪の総大将」であるとされるが、後代における誤伝・俗説とされている。
とある。
蘇我の入鹿は藤原師輔が遭遇した百鬼夜行の一員、というか、行列の先頭にいたのだから、妖怪の総大将といえるかもしれない。
⑦高松塚古墳・キトラ古墳
奈良県明日香村には多くの古墳がある。高松塚古墳と・キトラ古墳も飛鳥にある。
高松塚古墳
高松塚古墳には飛鳥美人(女子群像)、官人(男子群像)などのほか、四神図(玄武・朱雀・青龍・白虎の聖獣を四神といいます。高松塚古墳壁画はこのうち朱雀がない。)・太陽・月・星宿図などが描かれている。
高松塚古墳の南1.5kmほどのところにキトラ古墳があるが、キトラ古墳の石室内部には四神図、十二支像、太陽・月・天文図が描かれていた。
高松塚古墳 光の地上絵 飛鳥美人
(高松塚古墳の周辺は公園として整備され、高松塚壁画館や芝生広場が作られている。。
展望台へ上って芝生広場を見下ろすと、小さな燈籠をたくさん並べて飛鳥時代の装束をまとった女性たちが描かれていました。)
高松塚古墳壁画に描かれていた飛鳥美人と官人をモチーフとして地上絵を描いたのですね~。
高松塚古墳とキトラ古墳の四神図はよく似ており、同一人物あるいは同一グループによって描かれたものと考えられている。
高松塚古墳 光の地上絵 四神
四神(玄武・青龍・朱雀・白虎)
壁画が描かれた古墳は九州地方などにもあるが、それらのほとんどは幾何学的な模様を描いたものである。 高松塚古墳・キトラ古墳の壁画はこれらの装飾古墳とは全く異なるセンスで描かれたものであることは一目瞭然である。
そして高松塚古墳・キトラ古墳のような壁画古墳は日本では他には例がない。
ただし天皇陵など宮内庁管轄の古墳は発掘調査が禁じられているため、石室内がどうなっているのか、よくわからないが。
中国や北朝鮮などに高松塚古墳に似た壁画古墳がある。
中国の永泰公主墓 に描かれた壁画が高松塚古墳・キトラ古墳の壁画に似ているとの指摘もある。
なるほど、繊細なタッチは似ている。 しかし、もっと似ている古墳壁画がある。 高句麗壁画古墳壁画である。 ↑ 高句麗壁画古墳に描かれた女性像である。 襟のデザイン、プリーツを畳んだようなスカートなど、高松塚のものほとんど同じだ。
⑧高松塚古墳・キトラ古墳の被葬者は誰?
さてさて、高松塚古墳・キトラ古墳の被葬者は誰だろうか?
様々な説があるが、私は高松塚古墳は蘇我入鹿、キトラ古墳は蘇我入鹿の父・蘇我蝦夷の墓ではないかと考えている。
645年の乙巳の変で中大兄皇子に斬られて入鹿は死亡し、その翌日入鹿の父親の蝦夷は自宅に火をつけて自殺した。
乙巳の変の舞台となった飛鳥板葺宮跡
このとき蝦夷は59歳。
蘇我入鹿は生年不祥ですが、蝦夷が20歳のときにできた子供だとすれば39歳だ。
高松塚古墳から出土した頭がい骨片や歯を鑑定した結果、被葬者は4、50歳代の男性、キトラ古墳は熟年の男性とされていて、年齢はほぼあう。
また高松塚古墳・キトラ古墳は高句麗壁画古墳に似ていて、被葬者は高句麗と関係の深い人物だと考えられるが 蘇我稲目(蘇我蝦夷の父、蘇我入鹿の祖父)の父が蘇我高麗という名で、当時、高句麗は高麗と呼ばれていたので蘇我氏は高句麗人ではないか、とする説がある。
⑨消えた頭蓋骨
高松塚古墳の被葬者は下顎の部分の骨はありましたが、その上にあるはずの頭蓋骨がなかった。
梅原猛さんは、時間が経過して死体が白骨化したのちに頭蓋骨だけ除かれたのではないかとおっしゃっている。 梅原さんは高松塚古墳の被葬者は弓削皇子としておられて、私とは考えが違うが
「死体が白骨化したのち頭蓋骨だけ除かれた」とする見解はナルホド~、と思った。
⑩飛行するドクロ
既にご紹介したが、多武峯縁起絵巻(談山神社)には、中大兄皇子に斬られた蘇我入鹿の首が飛び上がり、皇極天皇の御簾に食らいつくシーンが描かれている。
平将門の首が飛んだという伝説は有名だが、蘇我入鹿の首も飛んだのである。
なぜ平将門や蘇我入鹿の首が飛んだなどという伝説が生じたのだろうか。
髑髏は呪術の道具として用いられており、高貴な身分の人の頭蓋骨ほど効力があるとされていたらしい。
実際に頭蓋骨が盗難されたという事件も起きている。 入鹿の死後、かなりたってから入鹿の頭蓋骨は呪術の道具として持ちだされたのかもしれない。
あるいは頭蓋骨があると入鹿の魂が蘇ると考えられ、頭蓋骨を持ちだしたのかもしれない。
私はこの記事に鬼八伝説として次のように書いた。
鬼八の死体をばらばらにして地中に埋めた。 ところが鬼八は一夜のうちに蘇ってもとの姿に戻り、土地を荒らしまわった。
そこで田部重高という者が鬼八を殺し、頭を加尾羽(かおば)に、手足を尾羽子(おばね)に、また胴を祝部(ほうり)の地にそれぞれ分葬した。
そうしたところ、鬼八は蘇生しなくなった。
死体はバラバラにして埋めると蘇生しないと考えられていたのだ。
入鹿の首が飛んだなどという伝説が生じたのは、入鹿のドクロがもちだされたためかもしれない。
そういうわけで、頭蓋骨のない高松塚古墳の被葬者は蘇我入鹿、
高松塚古墳とよく似た四神図が描かれていたキトラ古墳の被葬者は入鹿の父・蘇我蝦夷ではないかと思う
入鹿の首塚(飛鳥寺)
①ふたつの大蛇伝説
大蛇の伝説は各地にあるだろうが、私は旅の中でふたつの伝説を聞いた。
❶比良山系蓬莱山小女郎ヶ池に伝わる伝説。
比良山麓の南船路の集落に、九右衛門とお考という夫婦が住んでいた。
あるときからお考は乳飲み子を残して夜な夜な池に通うようになった。
お考は池の主である大蛇と逢引をしていたのだ。
九右衛門はお考のあとをつけ、池の中に入ろうとしているお考を見つけた。
お考は九右衛門に「私はこの池に住む大蛇に見初められてしまったのです。赤ん坊には乳のかわりに私の目玉をしゃぶらせてください。」と言い 左目をくりぬいて九右衛門に渡し、池の中に姿を消した。
比良山系の山々
❷奈良県曽爾村のお亀ヶ池に伝わる伝説
伊勢国・太郎生村出身のお亀は曽爾村の男の嫁になり、毎日、太郎路池の水を溜めた井戸の水を鏡替わりにして化粧をしていた。
あるとき井戸の水に美しい男性の顔が映り「今夜、太郎路池のほとりに来て欲しい」といった。
それ以来、お亀は夜な夜な太郎路池の男神のもとへ出かけるようになった。
そして男児を出産したあと、姿を消してしまいました。
夫がお亀を探して太郎路池のほとりへやってくるとお亀が現れて子供に乳を飲ませました。
そして「二度と私を探さないでください」と言って姿を消した。
夫は懲りずにまた太郎路池に行きました。
するお亀が蛇となってあらわれ「二度とくるなと言ったのに、なぜ来た?」と言って夫に襲い掛かった。
夫はなんとか逃げ帰ったが、すぐに亡くなった。
お亀は野火から山火事になった時、焼けて死んだ。 その後、太郎路池はお亀ヶ池と呼ばれるようになった。
曽爾高原 お亀ヶ池は曽爾高原にある。
お亀ヶ池
⓶蛇はドクロに長い首がついた動物?
蛇は世界中で太陽神とされることが多かった。
細長い形をした蛇と丸い太陽のイメージがあわないと、私は疑問に思っていたのだが 奈良県桜井市の大神神社のご神体・三輪山は蛇がとぐろを巻く姿とされ、この山から朝日が昇ってくる。
その姿は宇賀神を思わせる。
喜光寺 宇賀神
私は宇賀神の姿をみて、古の人々は、「蛇をドクロに長い首がついた動物」と考えていたのではないか、と思った。
③蛇の長い首はドクロ=太陽を地球に結び付ける紐?
太陽神とは、ドクロに長い首が付いた姿をしていると、古の人々は考えたのではないか。 つまり、天照大神は髑髏に、長い首がついた神ということである。 その髑髏の部分が太陽で、長い首は太陽を地球に結び付た紐、と考えられていたのかもしれない。
飛鳥昭雄さんは次の様な内容のことを述べておられた。
古事記神世第4代/角杙神・妹活杙神 ※ヘブライ語で角・光るは同様に『krn』と記す。このため古代よりしばしば混同され、ミケランジェロがモーゼの像に角をつけてしまったという例もある。 杙は牛や馬を繋ぎとめておくためのもの。 つまり角杙神は光りながら地球のまわりを回る神(太陽)。 妹活杙神は満ち欠けしながら(活)地球の周りをまわる女(妹)神。
④天照大神は男神の蛇神だった?
「伊勢内宮の神は男神の蛇神で、内宮に仕える斎宮のもとへ通っていた」と言われている。
記紀には天照大神は女神だと記されていますが、本当は天照大神は男神であるとする説がある。
天岩戸に隠れた天照大神はアメノウズメのストリップに興味を持って天岩戸から出てきた。
女神のストリップに興味を持つのは男だ、よって天照大神は男神だというのだ。
実際、祇園祭岩戸山のご神体の天照大神は男神である。
祇園祭 岩戸山 ご神体 天照大神
物部氏の祖神のニギハヤヒは、先代旧事本紀では天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてる くにてるひこ あまの ほあかり くしたま にぎはやひ の みこと)と記されていて、この神が本当の天照大神ではないかとも言われている。
そして初代神武天皇が東征して畿内入りするより早く畿内にニギハヤヒが天下っていたとする記述が日本書紀にあり、畿内には神武以前に物部王朝があったのではないかとする説がある。
⑤御霊は男女相対の神?
私は天照大神とは歓喜天や道祖神のように男女双体の神なのではないかと考えている。
歓喜天
道祖神
神はその現れ方で御霊(神の本質)・荒霊(神の荒々しい側面)・和霊(神の和やかな側面)に分けられ、荒霊は男神で和霊は女神とする説がある。 とすれば御霊は男女双体となる。
天照大神に仕える伊勢斎宮は男神である天照大神と和合して御霊にさせる存在なのではないだろうか?
伊勢内宮の神は男神の蛇神で、内宮に仕える斎宮のもとへ通っていた」というのは、荒魂(男神・蛇神)と和魂(女神)が和合して御霊になるということを物語的に表現したものではないかと思う。
そして蛇神は男神、お亀やお考は女神ということなのではないだろうか。
御霊・・・神の本質・・・・・・・男女双体
和魂・・・神の和やかな側面・・・女神 ・・・伊勢斎宮(天照大神の女神)/お亀/お考
荒魂・・・神の荒々しい側面・・・男神・・・天照大神の男神/蛇
曽爾のお亀ヶ池伝説では、お亀が蛇になって夫に襲い掛かったとあるが、蛇とは井戸の水に映った美しい男のことだろう。 井戸の水に映った美しい男とあるが、井戸の水に映っていたのは毎日井戸の水に姿を映して化粧をしていたお亀だったはずだ。
つまり、井戸の水に映った美しい男とは、井戸に反転して映ったお亀の姿であると考えられるのではないだろうか。
お亀は女性なので女神で和魂なのだが、鏡に反転させることで、男神である荒魂に転じたということではないかと思う。 そうであれば、男神と考えられる蛇をお亀だと表現することもありえるだろう。
そういえば天岩戸に籠った天照大神はアメノウズメのストリップダンスに興味を持っただけでなく、 鏡に映った自分の姿を見て不思議に思ったこともあって天の岩戸から出てきたのだった。
天岩戸の中に籠っていた天照大神はストリップに興味を持つ男神であり、鏡に映ったのはそれを反転させた女神であったということなのかもしれない。
⑥お亀の伝説は、ナルキッソスとエーコーの話に似ている?
カラヴァッジオによって描かれたナルキッソス
ギリシャ神話にナルキッソス、エーコーという神がいる。
森の妖精・エーコーはナルキッソスに恋をしたが、エーコーはヘラの怒りをかって、他人の言葉を繰り返すことしかできなかった。
そんなエーコーをナルキッソスは退屈に感じて見捨てた。 エーコーは悲しみのあまり姿を失い、声だけの存在となって木霊(山彦)になった。 神に対する侮辱を罰する神ネメシスは、他人を愛せないナルキッソスが、自分だけを愛するように呪術をかけた。 ナルキッソスは水を飲もうとして泉の水面を見ると、中に美しい少年がいた。 ナルキッソスは水の中にいる美少年に恋をし、口づけをしようとして泉に落ちて水死した。 ナルキッソスが死んだあとそこには水仙の花が咲いていた。
お亀がのぞき込んでいた井戸に映っていたのは自分自身の姿であったはずだが、 お亀は自分自身の姿である、鏡に映る人に恋をして、池にいき、鏡に映る人と結ばれようとしておぼれ死んだという話の様に思える。
これはナルキッソスとエーコーの話によく似ている。
記紀神話にはギリシャ神話に似た話がいくつかある。 死んだ妻をとりもどすため冥界に行ったオルフェウスは、冥界の神ハーデースに「冥界から出るまでの間、決して後ろを振り返ってはならない」といわれたのに、つい振り返ってしまったという話なども 黄泉の国へ妻・イザナミを迎えにいったイザナギの話とそっくりである。
古代の日本はシルクロードを通じてギリシャ・ローマとつながっていた。 パルテノン神殿と同じエンタシスの柱が法隆寺や唐招提寺にある。 記紀神話はギリシャ神話の影響を受けて成立したのかもしれない。
⑦お考はなぜ左目をくりぬいたのか?
小女郎ヶ池の伝説では、お考は左の目をくりぬいたとある。
お考はなぜ右の目ではなく、左の目をくりぬいたのか。
記紀に次のような記述がある。
黄泉の国から戻ったイザナギが禊をし、左の目を洗ったところ天照大神が、右の目を洗ったところ月読尊が、鼻を洗ったところスサノオが生まれた。
左は太陽神、天照大神が鎮座する位置である。 小女郎ヶ池の主である蛇とお考の男女双体の神が天照大神であり、 天照大神は左に鎮座する神であるところから
お考は左目をくりぬいたとする話が創作されたのではないだろうか。
鳥山石燕『今昔画図続百鬼』より「野槌」
①妖怪・野槌 妖怪・野槌は野の精霊、野つ霊(ち)という意味であるといわれる。
特徴は、 ❶蛇に似ている。 ❷胴が太い。 ❸頭部に口があるが、目鼻はない。 ❹柄のない槌のような形をしている。 ❺深山にすむ。 ❻ウサギ、リスを食べる。
⓶野槌は蛭の妖怪?
槌のような形、口だけあって目鼻はないというのは蛭ににている。
ヒル
口周辺と肛門の下側が吸盤になっており、捕食活動にも運動にもこれを用いる。
外見的には感覚器は見えないが、体前方の背面に眼点(光の強弱を感じるセンサーで、電子顕微鏡で見える表面が凹んだ器官)があるものが多い。
ヒルには眼点と呼ばれる目のような機関があるにはあるのですが、電子顕微鏡で見てやっとわかるくらいの小さなものなのだ。
野槌とはヒルの妖怪ではないだろうか。
黄表紙の野槌。恋川春町『妖怪仕内評判記』
↑ もともと野槌とは鳥山石燕が描いたような妖怪であったのが、擬人化されて、このような姿になったのだろうか?
③野上神社と石荒神社は山焼きに関係する神社?
今は禁止している自治体も多いが、古より野焼きという習慣があった。
野焼きをする目的は2つあります。
ひとつは若草の肥料とするため、もうひとつは害虫を焼き払うことである。
若草山山焼き
奈良の若草山山焼きは野焼きのひとつである。 山焼きが行われる若草山の山麓に野上神社と石荒神社がある。
野上神社・石荒神社は春日大社の境外社で、野上神社は草野姫(かやのひめ)を、石荒神社は火産霊(ほむすび)神をお祭りしている。
草の神様と火の神様の組み合わせは、若草山の山焼きをイメージさせる。
野上神社と石荒神社は山焼きに関係する神社ではないかと思う。
④若草山山麓にある野上神社は妖怪・野槌をまつる神社だった?
野上神社の御祭神・草野姫はイザナギ・イザナミの間に生まれた神で、別名を野槌という。
野上神社は蛭のような姿をした妖怪・野槌(草野姫)をまつる神社ではないのだろうか?
⑤野槌(草野姫)は榎本の神?
同名の妖怪・野槌は頭のてっぺんに口があるだけで、目も鼻もない。
野槌には口しかないので耳もなかったと考えられる。
先ほども述べたように、若草山山麓にある野上神社は春日大社の境外社で 春日大社は若草山からすぐ近くにある。
春日大社境内にある榎本神社の神には次のような伝説がある。
榎本の神はタケミカヅチに『土地を三尺譲ってほしい』といわれ、承諾した。
ところがタケミカヅチの言う三尺とは地下三尺という意味だった。
榎本の神は広大な神域をタケミカヅチに奪われた。
榎本の神を祀る祠は春日大社本殿のそばにあるが、榎本の神は耳が遠いので、柱を叩き、祠を回って参拝する習慣がある。
野槌(草野姫)とは、榎本の神のことではないのか?
⑥草野姫(野槌)=榎本明神=蛭子神?
蛭子神は耳が悪いので神殿の後ろを叩いてお参りする。 野槌・・・・・耳がない≓耳が悪い 榎本明神・・・耳が悪い。 蛭子神・・・・耳が悪い。
三神は同一神ではないだろうか。 草野姫(野槌)=榎本明神=蛭子神?
蛭子は「えびす」とも「ひるこ」とも読まれる。 蛭子という神名は、蛭子が3歳にたっても立つことができず、蛭(ひる)のように骨のない体であったというところからくる。
そしてどうやら野槌とは蛭の妖怪であるらしい?
このように考えていくと、若草山山焼きは 草野姫(野槌)=榎本明神=蛭子神を焼き払うという意味あいがあったように思われる。
竜斎閑人正澄画『狂歌百物語』より「豆腐小僧」
この記事を書いてから、新たに分かったことがあり、豆腐小僧の正体がより鮮明になったと思うので、追記しておく。
①天然痘患者の瘡蓋や膿が感染を防ぐ。
現在、天然痘ウィルスはワクチンができたことによって自然界から撲滅されたといわれる。
しかし、ワクチンができるまでは致死率の高い恐ろしい病だった。
奈良時代にも天然痘は大流行し、藤原不比等の息子たち、藤原三兄弟が次々に感染して死亡している。
天然痘に一度かかって治れば、再び天然痘には感染しない。
このことは古くから知られており、これを利用した人痘接種法が、紀元前1000年頃のインドですでに試みられていたという。
人痘接種法はインドのほか、アフリカ、中国、トルコなどでも古くから行われていた。
人痘接種法とは、感染していない人の皮膚に軽い傷をつけて、天然痘患者の瘡蓋(かさぶた)や膿を植え付けるというものである。 こうすることで天然痘より軽い症状がでるが、重症化する確率を低くすることができたという。
(人痘接種法の副反応で死亡者が出たという話もある。)
人痘接種法は現在のワクチンに相当するものだといえるだろう。
1721年に米ボストンで天然痘が大流行した。
このとき、コットン・マザー牧師が西アフリカ出身の奴隷オネシモから、西アフリカで行われていた人痘接種法の話を聞き、 これをボランティアの人々に試しところ高い効果があったという。
中国より日本に人痘法が伝わったのは1744年、李仁山によってである。
1789年~1790年に天然痘が筑前国で流行したとき、緒方春朔医師が、子どもたちに人痘法を行って成果をあげた。
イギリスのジェンナーは「乳しぼりをする人が牛痘にかかると天然痘にかからない」という言い伝えから、牛痘接種による天然痘予防法を成功させ、1798年に発表した。 その後、天然痘ワクチンが世界中で使用されるようになり、1980年に天然痘の根絶が宣言された。
⓶人痘接種法のメカニズム
人間は生まれながらに「自然免疫」をもっているが、細菌やウィルスに感染することで「獲得免疫」をえる。
たとえば天然痘ウィルスに感染した場合、天然痘ウィルスをやっつける抗体が体内に形成される。
この抗体の存在によって、天然痘ウィルスに感染しにくくなる。
これが獲得免疫である。
人痘法は、天然痘患者の膿やかさぶたを感染していない人に接種することで、体に感染したと錯覚させるのだ。
感染したと錯覚した体は天然痘の抗体をつくる。
そのため、天然痘にかかりにくくなる。
このメカニズムは現在のワクチンでもほぼ同じである。(と思う・・・w)
③豆腐は人痘接種法、笠は瘡蓋を意味している?
豆腐小僧が文献などに登場するのは、安永年間(1772年-1781年)のこととされる。
一方、中国より日本に人痘法が伝わったのは1744年、李仁山によってである。 そして日本において人痘接種法が行われたのは、1789年~1790年であり、
豆腐小僧の登場と、人痘接種人痘接種法法の時期はほぼ同時期である。
もしかして、豆腐小僧はこの人痘接種法の妖怪ではないか?
北尾政美『夭怪着到牒』。大頭小僧。
前回、詳しく説明したが、豆腐小僧の着物の柄、達磨・鯛・春駒(馬の頭部に棒を付けた玩具)・ミミズク・梅などは、天然痘除けの効果があると考えられていたものである。
そして豆腐小僧が手にもっている豆腐。 豆腐は大豆を原料としてつくられ、天然痘の丘疹は大豆に似ている。
豆腐は天然痘の丘疹や、その瘡蓋や膿を用いる人痘接種法を比喩したものなのではないだろうか。
あるいは 豆腐小僧→とうふこぞう→とうそう→痘瘡(天然痘のこと)をあらわしているのかもしれない。
とすれば豆腐小僧がかぶっている笠は瘡蓋(かさぶた)を意味しているのではないだろうか。
1枚目の豆腐小僧の絵には雨が描かれているが、2枚目の大頭小僧の絵には雨は描かれていない。 (前回ものべたが、大頭は大豆を意味しているのだろう) 豆腐小僧や大頭小僧が笠をかぶっており、笠は雨除けに用いるものなので、雨を描きいれたのであって、雨に意味はないかもしれない。
「豆腐小僧が持っている豆腐を食べると体中にカビが生えてしまう」という信仰については、わからない。
前回も書いたように、昭和の史料には「豆腐小僧が持っている豆腐を食べると、体中にカビが生えてしまう」とと記されているものもあるが
江戸時代の文献にはこのような記述がないので、昭和になって豆腐小僧の意味がわからなくなって、そういう話が付加されたのかもしれない。
水尾の里 アサギマダラ
①超化身
ギリシャ神話のプシュケ、荘子の「胡蝶の夢」、ケルト神話のエーディンなど、蝶を死と生の境界を浮遊するものとして死者の化身や霊魂と結びつける伝承は世界各地に存在し、日本においても盆に祖霊が蝶や蛾になって帰ってくるという思想がある。
蝶化身については、水木しげるの「日本妖怪大全」において、蔵王山の麓に立ち寄った旅人があばら家の中に舞う無数の蝶を発見し、その蝶の群が飛び去った後に黒髪と人骨を発見したという話が紹介されている。
⓶不吉なので和名の「かわひらこ」という言葉は口にしなくなり、忘れられてしまった?
蝶という言葉は漢名で、やまと言葉では「かわひらこ」という。
ところが、この「かわひらこ」という名前はいつのまにか忘れ去られてしまい、 漢名の蝶という言葉が用いられるようになった。
なぜ「かわひらこ」という和名は忘れ去られてしまったのだろうか。
丸谷才一さんは次のようにおっしゃっています。
かわひらこ(蝶)は亡くなった人の魂を表し不吉なので口にしなくなり、そのため「かわひらこ」という和名は忘れ去られてしまったのではないかと。
③巨大古墳は鳥や蝶などの目線を意識して作られた?
少彦名神という小さい神様がいる、日本書紀ではミソササイの皮をきていたとある。 ミソササイは体調11cmほどの小さな鳥である。 日本の野鳥の中では、キクイタダキと共に最小種のひとつとされる。
さえずりいがいの鳴き声のことを地鳴きといい、ミソサザイは下の動画のように鳴く。
↑ 全長103メートルのナガレ山古墳である。 このくらいの大きさであれば、地上からでもなんとなく形がわかるのだが
 上は堺市役所21階展望ロビーから見た仁徳天皇陵である。 巨大すぎて、古墳の形がまったくわからない。
空高く舞い上がる鳥の目線であれば、その形は容易に認識できるだろう。  す。
堺市役所21階展望ロビーにあった模型(見やすくするため一部加工しました。)
日本書紀では「少彦名神はミソササイの皮をきていた」とあるが、古事記では「少彦名神は鵞の皮をきていた」とある。
鵞は蛾のことではないかと考えられている。
蝶と蛾は区別できないほど似ており、蛾と蝶を区別せず同じ言葉になっている国もあるそうである。
巨大古墳は、鳥や蛾や蝶の目線を意識して作られたのではないだろうか。
そして昔の人は「死んだ人の魂は鳥や蛾や蝶となって天へ向かう」と考えたのではないかと思う。
ミソササイの皮をきていた少彦名神とは死んだ人の霊ではないかと思われる。
仁徳天皇という名前は後世につけられたもので、『日本書紀』では大鷦鷯(オオササキ)天皇となっている。
鷦鷯とはミソサザイのことである。
仁徳天皇はミソサザイの皮を着ていた少名彦神とイメージがだぶる。
竜斎閑人正澄画『狂歌百物語』より「豆腐小僧」
①豆腐をもって歩く妖怪
傘をかぶり豆腐を持って歩く子供。雨の夜に人間のあとをつけて歩くが、特に悪事を働くわけではないという。 昭和の史料には、豆腐小僧が持っている豆腐を食べると、体中にカビが生えてしまうと記されているものもあるが 江戸時代の文献にはこのような記述がないので、昭和になってからそういう話が付加されたのではないかと考えられている。
絵に描きこまれた斜めの線は雨を表しているのだろうか。
文章が記されているが、崩し字でよめない。(情けない!)
手に持っているのは紅葉豆腐といって江戸時代後期にこのような豆腐が販売されていたそうだ。
豆腐小僧が文献などに登場するのは、安永年間(1772年-1781年)で、それ以前には確認できないため 安永年間ごろに創作されたと考えられている。 幕末から明治時代ごろには、凧、すごろく、かるたなどの玩具絵(おもちゃ絵)として描かれていたという。
⓶大頭=だいず=大豆=豆腐?
北尾政美『夭怪着到牒』。大頭小僧。
上の絵は豆腐小僧と同様の笠をかぶり、同様の紅葉豆腐をもっているが、ウィキペディアでは大頭小僧とタイトルがつけられている。
プロポーションは約3頭身で、大頭小僧と呼ぶにふさわしい。
おそらく、大頭は「だいず」とよむのだろう。 大頭=だいず=大豆 という謎かけになっていると思う。
さらに大豆=豆腐という連想から、大頭小僧は豆腐小僧になったのではないだろうか。 大頭=だいず=大豆=豆腐
③大頭小僧の着物の柄は疱瘡除けの玩具だった。
大頭小僧の着物には、いろんな模様がついている。 達磨、梅、鯛、春駒(馬の頭部に棒をつけ、子供がまたがって遊ぶ玩具)。 大頭小僧の左脚辺りに描かれているのはミミズクではないだろうか。
上記サイトに赤い玩具(達磨・ミミズク・ベコ・鯛)の写真が掲載されており、 次のような内容が記されている。
❶奈良時代に大陸から持ち込まれた疱瘡(=痘瘡/天然痘)は、明治に種痘が用いられるようになるまで日本人を苦しめた伝染病。
❷罹患者の多くは子供で、死を免れても、高熱によって失明したり、深刻な後遺症が生じたりした。 ❸「疱瘡神」を送り出すために、赤い色が大きな意味をもつと考えられていた。
❹「……屏風衣桁に赤き衣類をかけ、そのちごにも赤き衣類を着せしめ、看病人もみな赤き衣類を着るべし………」 (香月啓益著『小児必用養育草』元禄16・1703年刊) 「屏風や衣桁(えもんかけ)に赤い衣類をかけ、その子供にも赤い衣類を着せ、勘病人もみな赤い衣類を切るべきである」 というような意味だろう。
⑤江戸時代の絵図や文献をみると、病室には赤い屛風を広げ、疱瘡に罹った子も看病する親も赤い着物をまとっている。 子どもの傍には赤い張子玩具が置かれ、壁には獅子頭や猿や犬などを描いた赤い絵が貼られている。
また、上の記事には疱瘡絵の絵と説明があり、次のような内容が説明されている。
❺疱瘡絵は、江戸時代流行していた疱瘡(天然痘)除けとして用いられた木版画。
❻赤一色で摺られている。赤絵ともいう。
❼赤色は古来より疫病や災難除けに効果があると信じられてきた。
❽疱瘡絵は、赤色の力だけでなく、描かれている絵柄によっても効力を持たせた。 桃太郎や金太郎・・・疱瘡神が恐れる豪傑 鯛・・・めでたい 春駒、うさぎ・・・疱瘡にかかっても軽くすむように
↑ こちらのサイトの疱瘡絵には「梅と犬張子と春駒」という作品もある。 理由はよくわからないが、梅も疱瘡除けに効果があると考えられたようである。
④なぜ豆腐小僧はひとつ目なのか?
勝川春亭画『大時代唐土化物』。一つ目の豆腐小僧
豆腐小僧は一つ目の姿でも描かれた。 なぜ豆腐小僧は一つ目に描かれたのだろうか。
③-❷をもう一度読んでみてほしい。
「❷罹患者の多くは子供で、死を免れても、高熱によって失明したり、深刻な後遺症が生じたりした。」
一つ目の豆腐小僧は天然痘を患った姿なのだろう。 すなわち、天然痘によって片目を失明した姿が、一つ目ではないかということである。
⑤天然痘の丘疹を大豆に喩えた?
天然痘の症状とはどのようなものなのか。
天然痘ウイルスに感染してから約2週間後に、39℃以上の高熱、倦怠感、頭痛、嘔吐などの全身症状が現れ、3~4日ほど経過するといったん熱が下がり、顔や四肢を中心に強い痛みや灼熱感しゃくねつかんを伴う斑状の皮疹が現れます (水痘では皮疹が胸や腹部に多く見られるのと対照的)。皮疹は当初、斑状の丘疹(皮膚の盛り上がり)ですが、経過とともに水疱(水ぶくれ)となり、さらに膿疱のうほう(水疱の内容物が膿となる状態)を形成した後にかさぶたとなって治癒します。
上の画像のように、丘疹が現れるようである。 この皮疹を大豆にみたて、た結果、大頭(大豆)小僧が生まれ、さらに大豆の加工品である豆腐小僧が産まれたのではないだろうか。
⑥紅葉豆腐は天然痘除けとしてつくられた?
①で江戸時代後期に紅葉豆腐が販売されていたということを書いたが、なぜこのような豆腐が作られたのだろうか。 豆腐は大豆からつくるので、人々に天然痘を想起させたことだろう。
①の絵をみると、豆腐に象られた紅葉には着色はされていないようだ。 しかしながら紅葉は赤く色づく。 赤い色は天然痘除けの効果があると信じられていた。 そういったことから、豆腐に紅葉のデザインを施したのではないだろうか。
ということは、天然痘除けの紅葉豆腐を手にもち、 天然痘除けの達磨、鯛、春駒、ミミズクの絵柄の着物を着ている大頭(大豆)小僧や、豆腐小僧は 天然痘をはやらせる妖怪というよりは、天然痘を鎮めてくださる妖怪といえそうだ。
雨と豆腐小僧の関係 豆腐小僧が持っている豆腐を食べると体中にカビが生えてしまうという信仰は どのようにして生じたのか、わからない。
①なぜリスが山伏なのか?
日本にはシマリス、二ホンリスが生息している。 最近はタイワンリスもいるが、タイワンリスは外来種である。 古にはタイワンリスは日本には生息していなかったと考えられる。
こんなにかわいいリスだが、「リスは魔物である」という伝説がある。 リスを一匹殺すと無数のリスが現れるというのだ。
リスが修験道の山伏になって現れ占いをするという伝説もある。
なぜリスが山伏なのか?
⓶木食
リスの門歯は人間の爪や髪の毛のように伸び続ける。
そのため木など硬いものをかじって歯をすり減らす必要があるそうである。
木食といって、五穀を絶ち、木の実や木の皮、草を食べるという修験道の行がある。
リスは木の実を食べたり、木をかじったりするところから、木食を行う修験道の山伏に喩えられたのではないだろうか。
山伏
③即身仏となるためにも木食は行われた。
即身仏となるためにも木食は行われた。
木食を行って体脂肪を減らすと死後腐りにくい体になるためである。
しかし高温多湿の日本では即身仏となることは難しく、入定した多くの行者の死体は腐ってしまったようだ。
即身仏のメッカといえば山形県の湯殿山だが、この地域の土壌は水銀濃度が高いらしい。
水銀には防腐作用がある。
そのためこの地域の木の実や木の皮、草などを食べると水銀が体内にたまって死後腐りにくい体になったと言われている。
④日本リスが穴に入る様子が入定に喩えられた?
ニホンリスは樹上性で冬眠もしない。 しかし、シマリスは半樹上性で、巣穴を地中に作り、そこで冬眠もするそうである。 ただし、3~7日に1回の割合で起きて、蓄えた餌を食べたり、排泄してはまた眠るのだそうだ。 シマリスは(ニホンリスもだが)雑食で昆虫なども食べるらしいが、おもに植物食である。 そして穴を掘って冬眠する。 これは木食をして即身仏になるべく入定する人のイメージと重なるように思うが、どうだろうか。
⑤冬眠しては起きて活動を始めるリスを複数のリスが現れると表現した?
「リスを一匹殺すと無数のリスが現れる」というのは、シマリスは3~7日ごとに冬眠をしては起きて活動を始めるのを複数のリスが現れると表現したのかも?(これは自信がないw)
化成寺(岡山県真庭市勝山) 九尾の狐
①九尾の狐、殺生石となる。
九尾の狐はもともとは中国に伝わる9本の尾を持つ狐のことである。 九尾の狐は泰平の世や明君のいる代に現れると考えられていた一方で、美女に変化して人々を惑わすとも考えられていた。
この伝説は日本にも伝わり、次のような伝説が残されている。
753年、吉備真備は遣唐副使となって入唐し、帰国する際に若藻という少女を遣唐使船に乗せた。
若藻は九尾の狐が少女に化けていたのだった。
平安時代、九尾の狐は絶世の美女・玉藻前に化け、鳥羽院(生没年/1103-1156 在位/1107-1123)の寵愛を受けた。(鳥羽院は退位後1129年に院政を開いていますから、玉藻前を寵愛したのは1129年以降ということになる。もちろん、フィクションだが。)
ところが玉藻前を寵愛するようになってから鳥羽院の体調がすぐれなくなった。
陰陽師・安倍泰成はこれを玉藻前の仕業と見抜き、泰成が真言を唱えると玉藻前は九尾の狐の姿に戻って逃げていった。
その後、九尾の狐は那須野(栃木県那須郡)で女性をさらうなどしたため、鳥羽院は討伐軍を那須野に送った。
討伐軍は狐の妖しの術にまどわされ苦戦したため、犬追物で騎射を特訓した。
(犬追物とは騎乗して犬を射るものだが、矢が犬を貫かないように特殊な鏑矢が用いられた。) 特訓のかいあって九尾の狐は退治されたが、死後、巨大な毒石・殺生石に変化して人や動物が近づくと毒気を出して命を奪った。
南北朝時代、玄翁和尚(生没年/1329-1400)が殺生石を破壊したところ、破壊された殺生石のかけらは全国3ヶ所の高田の地に飛んでいって落ちた。 3か所の高田の地は、越後國高田(新潟県上越市)、安芸国高田(広島県安芸高田市)または豊後国高田(大分県豊後高田市)、美作国高田(岡山県真庭市勝山)とされる。
この殺生石は栃木県那須町那須湯本温泉付近に実在している溶岩のこととされる。
溶岩があるあたりには有毒ガスが噴出していて、現在では立ち入り規制されることもあるらしい。
また美作高田は現在の岡山県真庭市勝山で、勝山の化生寺には殺生石の塚がある。
上の写真、鳥居の奥にある石垣で囲まれた中に殺生石が埋まっているといわれている。
⓶九尾の狐は彗星?
『日本書紀』によれば637年に大流星があり、これを僧旻が 「あれは流星ではなく天狗(アマツキツネ)だ」 と言ったとある。
すると殺生石も落ちてきた星であり、殺生石に化生した九尾の狐の正体も星ではないだろうか。
天狐という想像上の動物がいます。
狐が1000年生きると天狐になれるといわれ、尾の数は四尾とされる。
九尾の狐は天狐に似ていますが、尾の数が九尾なので、天狐とは少し違うようだ。
天狗(あまつきつね)が流星のことだとすれば、九尾の狐は彗星のことではないだろうか。
彗星は別名を箒星ともいうが、九つにわかれた尾は箒のようにも見える。
③西洋の魔女も彗星?
彗星は別名を箒星(ほうきぼし)ともいう。 西洋の魔女は箒に乗って飛ぶが、これも彗星を表しているのではないかと思う。
④殺生石は黄泉の国から噴き出してきた星?
雲陽誌によれば、大阪府交野市・磐船神社に祀られているニギハヤヒは星の神だというが
ニギハヤヒは天の磐船を操って磐船神社付近に天下ったとされ、磐船神社には天の磐船と呼ばれるご神体の巨石がある。
磐船神社 天の磐船
「昔の人は岩を空から落ちてきた星だと考えていた」と考えると、 ニギハヤヒという神が星の神であること、磐船神社に天の磐船と呼ばれる巨岩があることの説明がつくと思う。
一方、殺生石は殺された九尾の狐の死体で、栃木県那須町那須湯本温泉付近に実在している溶岩のことだという。 昔の人は溶岩が火山が噴き出すものであることは知っていたのではないかと思う。 火山の噴火を目撃した人は多数いたと考えられるからである。
九尾の狐は彗星であり、地上に天下ってきたが、殺されて地下の神、黄泉の国の神になり、その黄泉の国から噴き出してきた星、ということではないだろうか。
石・・・天から降ってきた星 溶岩・・・地から噴き出してきた星
⑤殺生石はなぜ高田という地名の場所に飛散したのか?
殺生石は玄翁に破壊され、全国3か所の高田という地名の場所に飛散したとされる。
❶越後國高田(新潟県上越市) ❷安芸国高田(広島県安芸高田市)または豊後国高田(大分県豊後高田市) ❸美作国高田(岡山県真庭市勝山)※勝山はかつて高田という地名だった。
殺生石はなぜ高田という土地に落ちたなどと言う伝説が作られたのだろうか?
殺生石の本体は栃木県那須町の那須湯本温泉付近にある溶岩である。
私はこの那須という地名が気になっている。
初夢で見ると縁起がいいとされるものとして、一富士・二鷹・三茄子という。
徳川家ゆかりの駿河国での高いものの順(富士山、愛鷹山、初物のなすの値段)など様々な説があるが、 私は、一富士・二鷹・三茄子とは鉱山または鉱物の隠語ではないかと考えている。 殺生石のある栃木県那須町の近くには足尾銅山がある。
愛媛県新居浜市のなすび平の近くには銅山川が流れ、別子銅山がある。
銅は茄子色をしている。 そして茄子が鈴なりになっている状態を坑道に見立てたのではないだろうか。
茄子
つまり、茄子は銅を表す隠語ではないかと思うのだ。
鷹は鷹の爪のことだと思う。
鷹の爪の赤い色は水銀を、また鷹の爪の実が鈴なりになるようすをやはり坑道に見立てたのではないだろうか。
鷹の爪
藤は不死の意味で、輝きを失わない金を意味しているのだと思う。
藤の花が房になって咲くようすもやはり坑道に喩えられたのではないか。
白毫寺(兵庫)藤
大阪府枚方市には藤田川(とうだがわ)・高田(こうだ)・茄子作という地名があり、一富士・二鷹・三茄子が揃っている。
そして茄子作という地名は「惟喬親王の愛鷹につける鈴を作ったところから名鈴となり茄子作になった」と言われている。 鈴は金属のスズを表しているのかもしれませんし、愛鷹は鷹の爪=水銀を表しているようにも思える。
すると高田の高は同音であるということで、鷹、水銀を表しているのではないかと思える。
高野山には水銀の鉱脈があるそうで、それで高野山という地名がつけられたのではないか。
水銀はかつて不老不死の妙薬と考えられていた。
実際には水銀を体内に大量に摂取すると水俣病になったりして不老不死どころか体に悪いのだが~。
九尾の狐のしっぽが九尾なのは、九と言う数字が不老不死を示しているのかもしれない。 そして高田と言う地名は水銀に関係する地名であり、水銀は不老不死の妙薬とされていたところから、 九尾の狐が化生した殺生石のかけらが高田という地名の場所に飛散したなどといわれているのではないかと思ったりする。
※追記 易の本に次のように記されていた。 1は神・起源 2は対比・分裂 3は懐妊 4は実現・世界 5は智恵・想像力 6は星・健在意識と潜在意識の調和 7は神的受胎・休息・沈黙 8は無限 9は完成・達成 10は神・男性=1と女性=0の相互作用
8は無限。9はその上にあって完成・達成を意味している。完成・達成は「不老不死」といえるかもしれない。
※追記2(2022年5月14日)
上の動画に毛玉がたくさんできて、まるで九尾の狐の姿のようになった猫の写真が登場する。
この動画の写真が事実かどうかわからないが、長い毛の犬に毛玉ができるのはテレビなどで見たこともあり、 ありえそうではある。
私は人間のかわいらしい女の子の髪にたくさん毛玉ができているのを発見したことがある。
性格のいいマジメな女性だったので、仕事が忙しすぎて、髪の毛まで気にする余裕がなかったのだろうw
人間の髪の毛でも毛玉ができるのだから、
猫や狐の毛が毛玉になって尻尾のように見えたりすることはあるのではないだろうか。
九尾の狐は箒星(彗星)であると同時に、毛玉がたくさんの尾のように見える狐をモデルとしているのかもしれない。
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