鞍馬駅前の天狗像
①天狗は流星を神格化したもの?
天狗という言葉は中国から伝わった言葉のようである。 というのは、紀元前92~89年ごろ成立した中国の『史記』においてすでに天狗という言葉が登場しているからである。 漢代(25年~220年)に成立した『漢書』や、648年に成立した『晋書』にも天狗は登場する。
流星のうち、火球と呼ばれる大きな流星では、星が流れる際に音を発するらしい。
2020年11月29日、西日本で観測されたものである。
古代の日本では舒明天皇九年(637年)の記事に次のような記述がある。
大きな星が東から西に流れ、雷に似た音がした。
僧旻は 「あれは流星ではなく天狗(アマツキツネ)だ」 と言った。
⓶天の犬が日月を食って日食・月食がおこる。
中国には「天狗食日食月信仰」なるものがあるそうである。
それは次のような内容である。
日神と月神が、人間の起死回生の薬を盗んだので、人々は犬に日と月と追いかけさせた。 日神と月神は薬を飲んでいたので、犬が噛んでも死なないが、犬は追いかけて日月を食う。 そのため日食・月食がおこる。(紅河イ族辞典)
つまり、犬=流星が日月を食べるのが原因で日食・月食がおこるということだろう。
③駆け抜ける獅子頭はハレー彗星を意味している?
⓶の話を聞いて、私は大阪府豊中市・原田神社の獅子神事を思い出した。 上の男性が手にもっているのは獅子舞などに用いられる獅子頭である。
獅子神事を見たのはかなり以前なので、記憶間違いがあるかもしれないが、だいたい次のようなものだった。
手に提灯を持った氏子さんたちが横に並んで向かい合い、道筋を作る。
氏子さんたちが「うおー」と低いうなり声をあげる中、道筋の真ん中を、獅子頭を頭上にかかげた袴姿の青年が物凄いスピードで駆け抜けていく。
氏子さんたちは次々に場所を変えて道筋をつくり、獅子頭は複数人の青年に手渡され、いく筋もの道を駆け抜けていった。
私はこれを、天を駆け抜けるハレー彗星だと思った。
というのは、この獅子神事の起原は684年だといわれるが、この年の10月2日に日本でハレー彗星が観測されたとされるのだ。 そして、その後の11月29日、20時から21時ごろ、太平洋沿岸にマグニチュード8クラスの大地震が起きた。(白鳳地震・天武地震)
山崩れ、河涌き(液状化現象?)、多くの建物が倒壊し、道後温泉や南紀白浜温泉は土砂に埋もれて湧出が止まった。
土佐は津波に飲み込まれて田畑約12km2が海中に没し、調を運ぶ船が多数流失するという大参事。
2011年の東日本大震災を思わせるような大災害だ。
天武年間にはこのほかにも16回も地震がおきている。
ハレー彗星はこれらの災害の予兆だと考えられたことだろう。
狛犬の角がないもののことを獅子という。
赤山禅院 獅子 (狛犬)
青年たちが持って走る獅子頭は犬だといってもいいのではないだろうか。
ハレー彗星は彗星であって流れ星ではないが、天を駆ける星という点では同じである。
④ニギハヤヒが乗ってきた天の磐船は流星だった?
初代神武天皇が日向から東征の旅に出立する際、シオツチノオジが「東にはニギハヤヒがすでに天の磐船を操って天下っている」と発言している。
天の磐船とは何だろうか? それはUFOではないかという人もいるが、さすがにUFOは無いと思うw
ニギハヤヒが天の磐船を操って天下ったという場所が大阪府交野市の磐船神社で、境内には天の磐船という巨石もある。
磐船神社 天の磐船
雲陽誌という書物に次のような内容が記されている。
島根県松江市の松崎神社では延宝7年に石が掘り出され、古語『星隕って石となる』から神・ニギハヤヒ(物部氏の祖神)の石として宝物にした。ニギハヤヒは星の神である。
どうやら昔の人は、大きな石を空から落ちてきた星だと考えていたらしい。
つまり、天の磐船は空から落ちてきた流星であり、天の磐船に乗って天下ったニギハヤヒは星の神ということになる。
⑤なぜ天狗の鼻は長いのか
天狗のもともとの形は嘴のある烏天狗であったらしい。
鼻の高い天狗は、近代に入ってから主流となったとものであると、 村上健司編著『妖怪事典』には記されているようだ。
天狗の鼻が高いのは、天狗がユダヤ人の顔だからだという説がある。 天狗は修験道の山伏の恰好をしているのだが、山伏は頭に頭襟(ときん)と言われる箱のようなものをつけている。
宝山寺 山伏
一方、ユダヤ人は神に祈るときテフィリンと呼ばれる箱のようなものをつける。
他にもユダヤと日本には様々な類似点があり、日ユ道祖論というものが唱えられている。 この日ユ道祖論をベースとして 天狗の鼻が高いのは天狗がユダヤ人だから、などと言われているのだ。
それはありえるかもしれないが、↓ この絵を見て、私は天狗の鼻が長いのは大聖歓喜天の影響があるのかも?と思った。
歌川国芳筆。 大聖歓喜天(聖天)
歓喜天は象頭の男女が抱き合う姿をしており、「子孫の七代までの福を一代にとる」といわれるほど、霊験あらたかなみほとけとして信仰されていた。
この歓喜天の象頭の影響を受けて、歓喜天は象のように長い鼻にされたのかもしれない。
『今昔物語集』の猿神退治
①猿神伝説
ウィキペディア「猿神」に記されている猿神伝説の記述を要約してまとめてみる。
❶『耀天記(ようてんき)』 漢字の発明者・蒼頡(伝説上の人物)「神の出現前に、釈迦が日本の日吉に猿神として現れ吉凶を示す」と知り、「申(さる)に示す」と意味で漢字の「神」を発明した。 蒼頡は釈迦の前世の姿で、釈迦が日吉に祀られると猿たちは日吉大社に集まった。
❷『日本現報善悪霊異記』 近江国野洲郡(現・滋賀県野洲市) の三上山の僧のもとにサルが現れて、 「自分はインドの王だったが生前の罪でサルに生まれ変わり、この神社の神となった」と語った。 『絵本太閤記』 豊臣秀吉の母が男子を授かるよう日吉神に願ったところ、体内に太陽が入る夢を見て秀吉を身ごもった。
❸妖怪の猿神『今昔物語集』「美作國神依猟師謀止生贄語」 美作国(現・岡山県)の中山の神である大ザルは年に一度、人間たちに女性の生贄を求めていた。 若い猟師が大猿退治をするため、少女の身代りとなってサル退治の訓練をつんだ犬とともに櫃に入って生贄となった。 そこへ身長7,8尺(約2メートル以上)の大猿が100匹ほどの猿を引き連れて現れた。 猟師は櫃から飛び出してサルたちを次々にやっつけた。 一匹残った大猿は宮司につき、「二度と生贄を求めないので許してくれ」といったので、猟師は大猿を逃がした。
❹『藤袋の草子』「室町時代)
近江国(現・滋賀県)の老人が畑を耕しながら「猿でもいいから、仕事を手伝ってくれた者を自分の婿にする」と言った。すると大猿が現れて畑仕事を手伝った。 翌日、大猿は老人の娘を奪って山へ連れて行った。 大猿は娘を藤袋に閉じ込めたが、大猿がその場を離れた隙に、貴族が娘を救いだした。 そして袋に犬を入れた。 戻ってきた大猿は犬に噛み殺された。
❺『太平百物語』(享保) 能登国(現・石川県北部)で、武士が化物屋敷の厠に入ると、何者かが尻を撫でた。 引きずり出して刺殺し正体を確認すると老いた猿だった。 屋敷の裏には猿に食われた人骨が無数にあった。
❻岡山県備前地方や徳島県那賀郡木頭地方 猿に憑かれた人は暴れ出す。その害は犬神より大きい。
⓶猿神と狒々は関係が深い
❸❹の話は以前にお話しした妖怪・狒々の話と類似している。
また❷に豊臣秀吉と日吉神の関係が記されているが、日吉大社の神使は猿である。 そして狒々を退治した岩見重太郎は、豊臣秀吉に仕えていた薄田隼人正兼相のことだといわれる。
役職名に隼人正とあるが、隼人とは古に九州南部に住んでいた民で、都に強制移住させられ、宮中の警備の仕事をさせられていた。 隼人たちは犬の鳴きまねをして警備をしていた。 そこから岩見重太郎=薄田隼人正兼相=隼人=犬 と発想されたと考えられる。
秀吉は容貌も猿に似ていたとされるので、犬猿の仲 (「秀吉=猿=狒々」「岩見重太郎=薄田隼人正兼相=犬」)という発想から、岩見重太郎が狒々を退治したという話が創作されたのではないか。 ※ただし、物語としての設定であり、秀吉と薄田隼人正兼相が対立していたわけではない。
③猿丸大夫
猿の神については秀吉以外にも思い当たる人物がいる。猿丸大夫である。 猿丸大夫は生没年は不明だが、古今和歌集や百人一首に
奥山に 紅葉踏み分け 鳴く鹿の 声聞く時ぞ 秋はかなしき という歌が掲載されている。 (ただし古今和歌集では「よみびとしらず」となっている。)
京都・宇治田原にこの猿丸大夫を祀る猿丸神社がある。 猿丸大夫は神なのである。
猿丸神社
④猿丸大夫の正体は志貴皇子・道鏡・弓削浄人の総称?
猿丸大夫は公的史料の名前がないため、本名ではないとする説がある。 梅原猛さんは「猿丸大夫=柿本猨=柿本人麿説」を唱えておられるが、 私は猿丸大夫とは志貴皇子、弓削浄人、道鏡の三人の総称ではないかと考えている。
❶猿丸神社には三番叟を舞う姿をした猿の像がある。
猿丸神社
また京都・日吉神社、京都御所の猿が辻などの猿像も三番叟の姿をしている。 どうやら、猿と三番叟は関係が深そうである。 ※三番叟とは猿楽(猿楽は明治以降能と呼ばれるようになった。)・翁において、黒い翁面をつけて舞うもののことである。
八坂神社 翁 三番叟
京都・新日吉神宮
❷奈良豆比古神社では猿楽「翁」とほぼ同じ内容の「翁舞」が奉納されている。 ただし、猿楽の「翁」は一人なのにたいし、「翁舞」の翁は三人である。
❸奈良豆比古神社の「翁舞」は同神社に伝わる次のような伝説に基づくものである。
壬申の乱で志貴皇子は異母兄弟・大友皇子側についたが、大友皇子は敗れて大海人皇子が天皇になった。(壬申の乱) そのため乱後の志貴皇子は不遇だった。 その後、志貴皇子の第二皇子の春日王がハンセン病を患ってここ奈良坂の庵で療養した。 春日王には浄人王と安貴王という二人の子供があって、この兄弟が熱心に春日王の看病をした。
兄の浄人王は散楽と俳優(わざおぎ)が得意だったので、ある時、春日大社で神楽を舞って父の病気平癒を祈った。 そのかいあって春日王の病気は快方に向かった。
浄人王は弓をつくり、安貴王は草花を摘み、これらを市場で売って生計をたてていた。 都の人々は兄弟のことを夙冠者黒人と呼んだ。
桓武天皇は兄弟の孝行を褒め称え、浄人王に『弓削首夙人(ゆげのおびとしゅくうど)』の名と位を与えて、奈良坂の春日宮の神主とした。
奈良豆比古神社「翁舞」
❹地元ではハンセン病を患ったのは春日王ではなく志貴皇子だという、もう一つの伝説と伝えられている。 志貴皇子は別名を春日宮天皇、田原天皇という。(追尊であり、実際に好意についていたわけではない。) 春日王は別名を田原太子ともいう。 志貴皇子と春日王は親子で全く同じ名前で呼ばれていたことになる。
志貴皇子・・・・・春日宮天皇・・・田原天皇 志貴皇子の子・・・春日王・・・・・田原太子
このようなケースはないと思う。志貴皇子と春日王は同一人物ではないか。
❺道鏡は志貴皇子の子とする史料がある。(『僧綱補任』『本朝皇胤紹運録』) そして伝説では「浄人王に『弓削首夙人』の名と位を与えて」とある。 夙とは中世、畿内に住んでいたとされる賎民のことである。 つまり浄人王は皇族の身分から賎民=非人の身分にされ、名前は弓削浄人となったということだろう。 弓削浄人とは道鏡の弟の名前である。 少なくとも、奈良豆比古神社付近に住む人々は、志貴皇子、道鏡、弓削浄人は親子であると考えていたということだと思う。
❻志貴皇子の薨去年は正史では716年だが、万葉集詞書では715年となっている。 そのため、志貴皇子は715年に暗殺されたが、その死が1年ちかく隠されていたとする説がある。 また、笠金村がよんだ次の歌は、志貴皇子の死が隠されていることを想起させる。 高円の 野辺の秋萩 いたづらに 咲きか散るらむ 見る人なしに
(高円山の野辺の秋萩は、むなしく咲いて散るのだろうか。見る人もなく。)
御笠山 野辺行く道は こきだくも 繁く荒れたるか 久にあらなくに
(御笠山の野辺を行く道は、これほどにも草繁く荒れてしまったのか。皇子が亡くなって久しい時も経っていないのに。)
志貴皇子邸宅跡と伝わる白毫寺には萩がたくさんうえられている。
❼奥山に 紅葉踏み分け 鳴く鹿の 声聞く時ぞ 秋はかなしき/猿丸大夫
猿丸神社
この歌は楓の紅葉を歌った歌ではない。
古今和歌集は隣あった和歌は同じ語句が用いられている。
214. 山里は 秋こそことに わびしけれ しかのなくねに めをさましつゝ/忠岑
215.奥山に もみぢ踏みわけ 鳴く鹿の 声きく時ぞ 秋はかなしき/読み人知らず
216 秋はぎに うらびれをれば あしひきの 山したとよみ 鹿のなくらむ/読み人知らず
214番と215番の歌は「山」「秋」「鹿」「なく」という言葉でつながっている。
215番と216番の歌は「秋」「鳴く」「鹿」が同じだ。
しかし、「秋」でつながっているとするのではなく、「紅葉」と「秋はぎ」でつながっているとみられている。
つまり、215番の歌に「紅葉」とあるのは楓ではなく、萩の黄葉だということになる。
『定家八代抄』では次のような順番で歌が掲載されている。
a.下もみぢ かつ散る山の 夕時雨 濡れてや鹿の 独り鳴くらん
b.奥山に もみぢ踏みわけ 鳴く鹿の 声きく時ぞ 秋はかなしき
c.秋萩に うらびれ居れば あしびきの 山下とよみ 鹿の鳴くらん
こちらも古今和歌集と同じように語句で歌と歌がつながっているようである。
(番号もつけられているのかもしれないが、わからないので、仮にabcとしておく。)
「もみぢ」を『萩の黄葉」と考えれば、「奥山に」の歌は志貴皇子の死を悼んだ次の歌と対応しているように思える。
高円の 野辺の秋萩 いたづらに 咲きか散るらむ 見る人なしに
(高円山の野辺の秋萩は、むなしく咲いて散るのだろうか。見る人もなく)
❽道鏡を寵愛していた称徳天皇が崩御すると、道鏡は流罪となった。 道鏡の流罪先の下野には二荒山神社があり、かつて猿丸社とも呼ばれており、二荒山神社神職・小野氏の祖である小野猿丸が猿丸大夫だとする説もある。
二荒山神社
二荒山神社の隣には日光東照宮があるが、そこには有名な三猿のレリーフがある。
日光東照宮
❾道鏡が流罪になったとき、道鏡の弟の弓削浄人は土佐に流罪になった。 高知県高岡郡佐川町・猿丸峠に猿丸太夫の墓があり、次のように記されている。 佐川町指定文化財 猿丸太夫伝説の墓
元従二位大納言弓削浄人(猿丸太夫)は、位人臣を極めた兄弓削道鏡の失脚により、土佐の地に流され、ここ猿丸山に居住したといわれている。 佐川における猿丸太夫(弓削浄人)の墓の伝説は、彼の流罪の年、宝亀元年(770)から数えて千二百年余りを経ていて奈良朝時代から夢の跡が長く伝わっているのは他にない。
平成四年三月一日建立
高知県文化財保存事業
佐川町教育委員会
❿猿丸神社境内には「猿丸太夫故址」としるされた石柱があり、猿丸神社からそう離れていない場所に大宮神社があり、その境内に「田原天皇社舊(旧)跡」がある。 田原天皇とは志貴皇子のことである。
宇治田原は志貴皇子と関係の深い土地であり、宇治田原に志貴皇子の陵墓があったとも伝えられている。
猿丸神社
田原天皇社舊(旧)跡
③猿神=道鏡は称徳天皇と男女の仲だった。ゆえに猿神=女好き?
❸の美作国(現・岡山県)中山の神の大ザルは年に一度、人間たちに女性の生贄を求めていた。 ❹の近江国の猿は老人の娘をさらったが、最後は犬に書き殺されている。
犬の早太郎が狒々を退治したという伝説があり、やはり猿神と狒々はかなり伝説がかぶっているようである。 女好きという点でも、猿神と狒々は共通している。
さて、猿神はなぜ女好きだと考えられたのだろうか。 その理由はいくつか考えられる。
猿神とは志貴皇子・道鏡・弓削浄人の総称だと私は考えているのだが このうちの道鏡は、一般に称徳天皇(女帝)の寵愛を受けていたと考えられている。
井沢元彦さんは「逆説の日本史」の中で、道鏡と称徳天皇は男女の仲ではなかったとしておられる。 図書館で借りて読んだので、今手元に本がないが、 当事は鑑真が戒律を持ち込んだばかりであり、称徳天皇も戒律を受けている。 また道鏡は法王という身分であり、そのような身分の人が戒律をおかすはずがない。 寵愛を受けていたとするのは、藤原氏が流したデマだ、というような内容であったと思う。
私はこの説を支持しているが、それはひとまずおいておく。
猿神=志貴皇子・道鏡・弓削浄人 その中の一柱である道鏡は、称徳天皇と男女の仲だった。 ∴ 猿神=女好き
このような連想から、猿神は女好きとされたのかもしれない。
④男女和合は荒神(男神)を鎮める呪術?
もうひとつ考えられることは、男女和合は荒神(男神)を鎮める呪術だったのではないか、ということだ。
神はその現れ方によって3つに分けられるといわれる。
御霊・・・神の本質
和魂・・・神の和やかな側面
荒魂・・・神の荒々しい側面
そして、男神は荒魂を、女神は和魂を表すといわれる。
とすれば御霊は男女双体の神と言うことになると思う。
御霊・・・神の本質・・・・・・・男女双体
和魂・・・神の和やかな側面・・・女神
荒魂・・・神の荒々しい側面・・・男神
大聖歓喜天(聖天)は象頭をした男女双体の神で、次のような伝説がある。
人々に祟りをもたらしていたビナヤキャは十一面観音の化身であるビナヤキャ女神に一目ぼれし、ビナヤキャ女神に結婚を申し込んだ。
ビナヤキャ女神は「仏法守護を誓うならあなたと結婚しましょう」といった。
ビナヤキャは仏法守護を誓い、ビナヤキャ女神と結ばれた。
歓喜天
大聖歓喜天の、足を踏みつけているほうがビナヤキャ女神、足を踏まれているほうがビナヤキャとされる。
この説話は御霊、和魂、荒魂の性質をうまく表していると思う。
すなわち、男神である荒魂は、女神である和魂に足をふみつけられて、動けない状態にされている。
これが「神の結婚」の意味なのだと思う。
つまり猿神が女好きということは、猿神(猿丸大夫)はそれだけ祟る神だったということである。
①「もののけ姫」に登場するデイダラボッチ
ジブリのアニメ「もののけ姫」にシシ神なる神が登場する。 頭には鹿の角のようなものが生えている。
「シシ神」というネーミングの意味は、宮崎駿監督に聞いてみるしかないが、想像するに「獅子神」という意味ではないかと思う。
東北地方に「獅子踊り」という伝統芸能があるが、頭にかぶる獅子頭はいわゆる獅子を象ったものもあるが、鹿の角がついたものもあるからだ。
古には「獅子」とは獣全般を指す言葉であったそうである。
この「シシ神」は神の昼の姿で、夜になるとデイダラボッチという巨大な妖怪に変化する。
上記サイトのイラストではわかりにくいが、このデイダラボッチは巨人で二つの目をもっている。
ウィキペディア「ダイダラボッチ」の項目には妖怪ダイダラボッチの別名としてデイダラボッチとあるので 「もののけ姫」に登場するデイダラボッチは、古より日本に伝わるダイダラボッチをベースに創作したものだと考えてよさそうである。
⓶風土記の巨人や大入道はダイダラボッチとはいいきれないのでは?
ウィキペディアにはふたつの「ダイダラボッチ」の文献が紹介されている。要約すると次のような内容である。
常陸国風土記・・・大櫛之岡(おおくしのおか)にいたという長大な人 長大な体。 岡の上から手を伸ばして海浜のハマグリを掘り起こす。 巨人が食べた貝殻は積って丘になった。 巨人の足跡は、長さ40歩あまり、幅20歩あまり。尿の穴は直径20歩あまり。
播磨国風土記・・・播磨国の託賀郡(たかのこおり)に大人がいた。 大人は南海から北海へ到り、東を巡ってこの地にやってきた時、 「他の地は天が低くて常に屈んで歩いていたが、この地は天が高くてまっすぐ立って歩ける」と言った。
これらの巨人はダイダラボッチまたはそれに似たような名称がついていない。 ウィキペディアの記事を書いた人には申し訳ないが、風土記は巨人について記しているが、ダイダラボッチではないかもしれない。
ウィキペディアにはダイダラボッチの伝承も記しているが、ダイダラボッチと確認できない巨人の伝承もまざっていそうである。
また、ダイダラボッチのページに次の画像がはられている。
タイトルは 勝川春章・勝川春英画『怪談百鬼図会』より「大入道」、「ダイダラボッチのイメージに近いものと考えられている」と説明文がある。
ここでもタイトルは「大入道」であり、「ダイダラボッチ」ではないことに注意したい。
③一つ目の巨人・ダイダラボッチ
ウィキペディアには各地の伝承が記されているが、ダイダラボッチなどの名称がないものは
ダイダラボッチという名前の妖怪ではなく、別の巨人について記したものかもしれないので注意が必要と思う。
それはともかく、ウィキペディア・ダイダラボッチ・各地の伝承のところに、「三重県志摩郡の大王町はダイダラボッチに由来する地名である」と記されている。 この大王町のダイダラボッチと関係すると思われる「ダンダラボッチ」というアニメーションを「まんが日本昔ばなし」で見たことがある。 以下は「まんが日本昔ばなし」の「ダンダラボッチ」の内容である。
三重県の名切という漁村の沖合にある大王島に一つ目の巨人・ダンダラボッチが住んでおり 島から海をひとまたぎして岩場を伝ってやってくる。 ダンダラボッチがやってくると、人々は岩陰などに隠れた。 猟師がとってきた魚は船ごと、米は蔵ごともっていってしまう。 抵抗すると泣きながら怒って大暴れし、田畑を荒す。家をつぶす。 くるたびに津波のような大騒ぎになる。 晴れた春の日、ダンダラボッチがまたやってきたが、「おまえより大きな巨人がくる」といって 大きな草鞋をみせて脅したところ ダンダラボッチは怯えて大王島に戻り、二度と現れなかった。
三重県志摩市波切のわらじ祭はこれにちなむものだと思う。
ここにでてくる「ダンダラボッチ」は一つ目である。 ダイダラボッチとはただの巨人ではなく、一つ目の巨人のことなのではないだろうか?
④ダイダラボッチは大踏鞴法師?
ウィキペディアには次の様にも記されている。
柳田國男が「ダイダラ坊の足跡」(1927年(昭和2年)4月、『中央公論』)で日本各地から集めたダイダラボッチ伝説を考察しており、ダイダラボッチは「大人(おおひと)」を意味する「大太郎」に法師を付加した「大太郎法師」で、一寸法師の反対の意味であるとしている。
しかし、私はダイダラボッチとは「大きな踏鞴(たたら)の法師」、大踏鞴法師という意味ではないかと考えている。
踏鞴とはたたら製鉄に使うふいごのことである。
たたら製鉄における踏み鞴による送風作業(『日本山海名物図会』所載)
たたら製鉄は砂鉄や鉄鉱石を溶かすため、炉に木炭をいれて燃焼させるのだが、木炭を燃焼させるためには空気が必用である。 その空気を送り込む装置が踏鞴である。
大踏鞴法師とは「大きな踏鞴の神」、「たたら製鉄」の神という意味である。
たたら製鉄では片目をつぶって火を見るため、片目を失明することが多かったそうである。
天津麻羅という鍛冶の神がいるが、麻羅とは目占の意味で、一つ目の神だと考えられている。
「もののけ姫」ではデイダラボッチはタタラ場(たたら製鉄をする場所)に現れるので
「もののけ姫」の宮崎駿監督もデイダラボッチとは踏鞴の神だという認識を持っておられるのかもしれない。
しかし「もののけ姫」に登場するデイダラボッチは、私が考えるダイダラボッチとは少しイメージが違っていた。 (もちろん物語なのでどんな姿のダイダラボッチであっても全然構わないし、デイダラボッチはダイダラボッチとは別の神という想定かもしれないのだが)
やはり踏鞴の神なのであれば、名切の伝説に登場するような、一つ目がふさわしいように思える。
④ダイダラボッチは台風の神だった?
ダイダラボッチは台風の神だとする説があり、私はこれを支持する。 巨人の踏鞴の神とは、台風のことだと考えると、なるほどと思う点が多い。
もういちど、「まんが日本昔ばなし」の「ダンダラボッチ」の内容を見てみよう。
三重県の名切という漁村の沖合にある大王島に一つ目の巨人・ダンダラボッチが住んでおり
島から海をひとまたぎして岩場を伝ってやってくる。
ダンダラボッチがやってくると、人々は岩陰などに隠れた。
猟師がとってきた魚は船ごと、米は蔵ごともっていってしまう。
抵抗すると泣きながら怒って大暴れし、田畑を荒す。家をつぶす。
くるたびに津波のような大騒ぎになる。
晴れた春の日、ダンダラボッチがまたやってきたが、「おまえより大きな巨人がくる」といって
大きな草鞋をみせて脅したところ
ダンダラボッチは怯えて大王島に戻り、二度と現れなかった。
まず、「ひとつ目の巨人」とあるが、台風は一つ目である。
台風の人工衛星画像(平成25年台風第30号)
次に、「人々は岩陰などに隠れる」とあるが、台風は強風であたりにあるものを吹き飛ばすので、屋外にいた場合は岩陰などの非難するのは良い方法である。
「猟師がとってきた魚は船ごと、米は蔵ごともっていってしまう。」
「抵抗すると泣きながら怒って大暴れし、田畑を荒す。家をつぶす。」
「くるたびに津波のような大騒ぎになる。」
は台風の被害である。ダイダラボッチが泣くというのは大雨をもたらすということだろう。
「晴れた春の日、「おまえより大きな巨人がくる」といって大きな草鞋をみせて脅したところ
ダンダラボッチは怯えて大王島に戻り、二度と現れなかった。」
というのは、春は台風シーズンではないため、ダンダラボッチは」やって来なかったということだろう。 ※台風は7月~10月に多い。
鳥山石燕『今昔画図続百鬼』より「狒々」
①狒々のモデルはゴリラ?
狒々はもとは中国の妖怪で、次のような記述が残されている。
『爾雅』釈獣・・・狒狒は人に似て、ざんばら髪で走るのが速く、人を食う。 郭璞(人物)の注・・・梟陽(きょうよう)のことである。
※「海内南経」には「梟陽国は人面で長い唇、黒い体に毛がはえており、踵は反対に反りかえっている。人が笑うのを見て笑う。これを捕らえるには左手に竹の管を持つといい。」とある。 『山海経』・・・その姿は人の顔で唇が長く、体は黒くて毛が生えており、かかとが曲がっている。人を見ると笑う。
マントヒヒという動物がいるが、これは伝説上の動物・狒々に似ているということで名付けられたようだ。 また、狒々が黒い体毛をもつとあるのに対し、マントヒヒの体毛は明るい灰色である。
狒々のモデルはゴリラかもしれない。
 」
ゴリラ
ゴリラはアフリカの熱帯雨林に生息しているようだが、そのゴリラの噂が中国に伝わって狒々という動物が創作されたのかもしれない。
⓶岩見重太郎の狒々退治
日本る、岩見重太郎が狒々を退治したという話が伝えられている。
岩見重太郎は小早川隆景の剣術指南役・岩見重左衛門の二男だった。 その父が広瀬軍蔵によって殺害され、岩見重太郎は敵討ちを決意して旅にでる。 その道中で彼は、狒々を退治したという。 その後の1590年に、天橋立で広瀬を討ち、叔父の薄田七左衛門の養子となり、薄田兼相(すすきだかねすけ)と名乗ったとされる。 薄田兼相は、小早川隆景の死後浪人となり、のちに豊臣氏に仕官した。 大坂夏の陣の道明寺の戦いにおいて陣頭指揮を取ったたが戦死した。 薄田兼相は薄田隼人正兼相とも呼ばれる。隼人正(はやとのしょう)とは役職のようである。
③野里住吉神社の狒々退治伝説
大阪市西淀川区 野里住吉神社にも石見重太郎の狒々退治伝説が伝えられている。
つて野里村は風水害と疫病の流行が相次ぎ、『泣き村』と呼ばれていた。
こういったことがおこるのは神様が怒っているからに違いない。
村人たちはそう考え、毎年一人の女性を生贄として神にささげていた。
ある時、この町に岩見重太郎という武士がやってきて言った。
「神は人を救うもので人間を犠牲にしたりしない。」
そして乙女の代わりに自分が唐櫃に入った。
翌朝、村人たちが神社に行くと、武士の姿はなく、境内は血まみれになっていた。
血痕は隣の申村まで続いており、大きな狒々が死んでいた。
野里住吉神社で毎年2月20日に行われている一夜官女祭は、かつて女性を生贄として神にささげていた習慣に基づくものである。
野里住吉神社 一夜官女祭 ※お稚児さんたちは人身御供役である。
④犬の早太郎が狒々退治をした
早太郎(はやたろう)とか疾風太郎とかいう名前の犬が狒々退治をしたという伝説もある。
この犬の早太郎とは薄田隼人正兼相(岩見重太郎)のことではないか、という説がある。
薄田隼人正兼相(岩見重太郎) の隼人正を語呂合わせで『早』として、『太郎』をつけたのではないかというのだ。
薄田隼人正兼相(岩見重太郎) =早太郎、というのはなるほど、と思うが、なぜ早太郎は犬にされているのだろうか?
隼人とは南九州の民のことである。
奈良時代、隼人は強制的に都につれてこられて宮門の警備をさせられていたが、
警備をするにあたり、犬の鳴き声をまねていた。
(鷹狩では鷹のかわりに隼を用いることがあり、鷹狩のさいには鷹狩犬と呼ばれる犬を用いることもあった。そのため隼人は犬の鳴きまねをしていたのではないかと思う。)
そのため薄田隼人正兼相は犬の早太郎にされたのではないだろうか。
あるいは、もともと犬の早太郎の話だったのを、隼人正という役職名から、薄田兼相が狒々退治をしたなどと言う話ができたのかもしれない。
⑤犬猿の仲?
秀吉はその容貌から「猿」と呼ばれており、たいへん女好きだった。
日本における狒々とは、大きな猿の姿をした妖怪で、人間の女性を襲うとされる。 狒々とは秀吉のことなのかも?
狒々が秀吉のことだとすると薄田隼人正兼相が秀吉を退治したということになるが
薄田隼人正兼相は秀吉の臣下で、薄田隼人正兼相が秀吉に逆らったなんて話もない。
事実ではないが、犬猿の仲(犬と猿は仲がわるい)ということで 秀吉を狒々、薄田隼人正兼相を犬として、野里住吉神社の伝説は創作されたのかもしれない。
薄田隼人正兼相=犬 豊臣秀吉=猿
しかし、この説は自信がないw
⑥源義平の狒々退治
金山町祖師野には源義平が狒々退治をしたという伝説も残されている。
昔、祖師野村(岐阜県下呂市金山町祖師野)に狒々が現れては村の若い娘を食べていた。
1159年、源義朝の嫡男、源義平(頼朝・義経の兄)が集兵のため祖師野村を通りかかり、村人たちを可哀想に思って狒々を退治した。
村人たちは源義平が狒々を倒して残していった太刀を「祖師野丸」と名づけ祖師野八幡宮で大切に保管していた。
200年ほどのちに、隣村の代官がその太刀を持ち出すと、村に天変地異がおき、神社に戻すとおさまった。
⑦親の仇討ちには狒々退治が必用?
岩見重太郎と源義平には共通点がある。
【岩見重太郎】
岩見重太郎の父親・岩見重左衛門(小早川隆景の剣術指南役)が広瀬軍蔵に殺されため、重太郎は仇討ちをするため各地を旅した。
旅の途中、狒々退治をするなどし、1590年、天橋立で広瀬軍蔵を討った。
その後、叔父の薄田七左衛門の養子になった。
【源義平】
源義平の父親・源義朝は1160年に長田忠致に殺された。
このとき源義平は飛騨で兵を集めていましたが、義朝が殺されたことが伝えられると、その多くは逃げ去った。 源義平は自害しようと考えたが、自害するくらいなら平清盛か平重盛と相討ちしようと京へ向かった。
石山寺に潜んでいたところ、難波経房の郎党に生け捕られ、六波羅で清盛の尋問を受けた。
源義平は難波経房に「上手く斬れ。まずく斬ったら喰らいついてやる」と言った。
難波経房が「首を斬られた者がどうして喰らいつけるのか」と問うと、「雷になって蹴り殺してやる」といった。
こうして義平は20歳で斬首された。
8年後、難波経房は清盛のお伴をして摂津の布引の滝を訪れたとき、雷に打たれて死んだ。
岩見重太郎と源義平はどちらも親の仇討ちをしようとしている。
岩見重太郎が仇討ちを果たしたのに対し、源義平は仇討ちを果たせず亡くなってはいるが。
親の仇討ちをする際には、まず狒々を倒さなければいけないというような考え方があったのかもしれない。
⑧岩見重太郎は陽、源義平は陰
また、岩見重太郎と源義平には刀という共通点もある。
岩見重太郎は刀で親の仇を討ち取っている。
一方の源義平は「祖師野丸」という太刀を祖師野八幡宮に残していったとある。
⑦の伝説では獅子退治する前に、義平は飛騨で兵を集めていたとある。 そのあと祖師野村で狒々退治をして京へ向かい、捕らえられて殺されたと考えられる。
つまり、源義平は太刀をもたずに京へ向かったということだと思う。
実際には刀は持っていっただろう。
あくまで伝説として、の話である。
岩見重太郎は刀を持っていたので親の仇討ちをすることができた。(陽)
一方、源義平は刀を置いていったので親の仇討ちをすることができなかった。(陰)
ということではないだろうか。
鳥山石燕『今昔画図続百鬼』より「土蜘蛛」
①土蜘蛛はまつろわない民?
土蜘蛛は土雲とも記し、日本書紀や風土記に登場する。
日本書紀では
①神武天皇が即位以前に、大和国で朝廷に従わなかった3か所の土蜘蛛をうちとらせた。 ⓶高尾張邑の土蜘蛛を葛の網を使って討ったため、地名を葛城に改めた。 などの記述があり、一般に土蜘蛛とは「朝廷にまつろわない民」と考えられている。
⓶頭部のない昆虫
昔の人は自然や生物をよく観察し、その特徴をとらえて比喩に用いていたように思う。 例えば日本書記に「トガノの鹿」という、全身に霜が降る夢をみた雄鹿の話がある。 鹿の夏毛には白い斑点を霜に喩えたのではないかと私は考えている。
土蜘蛛という「まつろわぬ民」を考えるにあたり、まず蜘蛛という動物の特徴を見ておきたい。
昆虫の体は頭部・胸部・腹部の3つに分かれているが、蜘蛛は頭胸部と腹部のふたつの部分からなり、昆虫とは別の動物とされている。
また、昆虫の脚は6本なのに対し、蜘蛛の脚は8本である。
昆虫(蟻)
蜘蛛 体
③『土蜘蛛の塚』は蜘蛛、『亀石』はドクロを表している?
一言主神社
葛城一言主神社は葛城山の中腹にあるため、長い階段が設けられている。
その階段の上り口の向かって左手に「亀石」と呼ばれる石がある。
階段を登ると境内で、樹齢1200年と伝わるイチョウの木、神殿、拝殿などがある。
この拝殿の横に土蜘蛛の塚と呼ばれる石がある。
一言主神社 土蜘蛛の塚
一言主神社の『土蜘蛛の塚』は土蜘蛛の胴体を埋めた上に石を置いたもの、頭は神殿の下、足は神殿より100mほど先にある鳥居付近に埋められたといわれている。
一言主神社の言い伝えを整理すると次のようになる。
土蜘蛛の胴体・・・土蜘蛛の塚の下に埋められた。
土蜘蛛の頭部・・・神殿の下に埋められた。
土蜘蛛の脚・・・・神殿より100mほど先にある鳥居付近に埋められた。
『土蜘蛛の塚』は見る角度によっては二つのふくらみがあるように見え、蜘蛛の形をしているように見える。
(蜘蛛は頭胸部と腹部のふたつの部位よりなる。) そして亀石は階段の登り口にあるが、この場所は神殿の下、といえなくもない。
また、亀石はどことなく人間のドクロを思わせるような形をしている。
『土蜘蛛の塚』が土蜘蛛の胴体を埋めた上に置いた石であるならば、亀石は土蜘蛛のドクロを埋めたうえに置いた石なのではないだろうか。
土蜘蛛の胴体・・・土蜘蛛の塚の下に埋められた。・・・土蜘蛛の塚(蜘蛛形の石)
土蜘蛛の頭部・・・神殿の下に埋められた。・・・・・・・・・亀石(ドクロ形の石)
土蜘蛛の脚・・・・神殿より100mほど先にある鳥居付近に埋められた。
『土蜘蛛の塚』は蜘蛛の形に似ているが、これに階段の登り口にある『亀石』を合体させるとアリのような昆虫の形になる。
それで閃いたのだが、昔の人は蜘蛛を頭部のない昆虫だと考えたのではないだろうか。
こう考えれば、土蜘蛛の胴体を埋めたうえに置いた石『土蜘蛛の塚』が蜘蛛の形をしていること、 『土蜘蛛の塚』に『亀石』をくっつけると昆虫のように見えることの説明がつく。
ということは、記紀に登場する土蜘蛛とは首を斬られた人の霊なのではないだろうか。
そして亀石とは土蜘蛛の斬られた首=ドクロを模した石なのだと思う。
④六波羅蜜寺に現れた土蜘蛛
六波羅蜜寺節分会追儺式
江戸時代、六波羅蜜寺の住職が本堂と仏像の修理を行ったが、大変出来栄えが悪かった。
また土蜘蛛の精がたびたび現れて住職を悩ませていた。
そこで中堂寺六斎会の人々が鉦・太鼓を打ち鳴らして土蜘蛛を退散させた。
という伝説があり、六波羅蜜寺の追儺式はこの故事にちなみ、鬼を祓うのではなく、六斎念仏によって土蜘蛛を追い払うというものになっている。
六波羅蜜寺節分会追儺式
六斎念仏とは念仏を唱えつつ太鼓や鉦を打ち鳴らすというもので、六斎念仏の祖は六波羅蜜寺の開基でもある空也とされる。
⑤平将門の慰霊をした空也上人
六波羅蜜寺は951年に空也上人が開いた寺である。
951年、平安京では疫病が流行り鴨川は死体で溢れかえるほどの惨状となった。
そこで空也上人が自ら十一面観音を刻んで車にのせて市中を引き回し、また病人には仏前に献じたお茶を飲ませた。
六波羅蜜寺の創建説話は上記のように伝えられている。
なぜかあまり語られることがないが、空也は平将門の鎮魂に情熱を注いだ人だった。
940年、平将門は東国で反乱をおこし、朝廷が派遣した平貞盛・藤原秀郷らの軍と戦って戦死した。
将門の首は京に持ち帰られて鴨川のほとりで晒された。
膏薬図子にある神田明神は、将門の首が晒されたところで、将門の首が近隣住民に祟ったたという伝説がある。
空也は将門の供養のため念仏道場をつくり毎日念仏をあげたところ、ようやく将門の首は祟らなくなったという。
膏薬図子 神田明神
さらに将門の首は飛び上がり、故郷へ戻ったといわれる。 東京にある将門の首塚は故郷へ戻った将門の首が落ちたとされる場所である。
将門の首塚
951年の疫病の流行は平将門の怨霊の仕業と考えられた結果、空也が六波羅蜜寺を創建したのかもしれない。
そして③で「土蜘蛛とは首を斬られた人の霊なのではないか」と述べたが、もしそうであれば、首を斬られた平将門はまさしく土蜘蛛である。
江戸時代、六波羅蜜寺に現れた土蜘蛛とは平将門の霊ではないだろうか?
⑥空也堂系六斎が芸能系六斎として発展した理由
かつて六斎念仏を行うためには干菜寺または空也堂で許可を得る必要があった。
空也が六斎念仏の祖とされているということは、④ですでに述べた。
干菜寺系六斎は念仏のみを行う念仏六斎、空也堂系は土蜘蛛や獅子などの芸能も行う芸能六斎である。
現在では芸能とは娯楽であるが、かつて芸能とは神事であった。
そう考えるとなぜ空也堂系が芸能六斎として発展したのかがわかる。
空也は平将門の慰霊に情熱をささげた人であり、六斎念仏の人気演目である「土蜘蛛」は平将門を慰霊するための神事だったということである。
※京都には中堂寺六斎会のほか、多数の六斎会があり、六斎念仏は京都のお盆の風物詩となっている。 六斎には四つ太鼓、祇園囃子などさまざまな演目があるが、もっとも人気があるのは土蜘蛛だろう。 また、京都では大念仏狂言というパントマイム劇も盛んにおこなわれているが(千本閻魔堂狂言は台詞がある)、 大念仏狂言においても土蜘蛛は人気の演目である。
千本閻魔堂狂言 土蜘蛛
⑦興福寺の阿修羅像は土蜘蛛?
五部浄像(ごぶじょうぞう)は像の冠をかぶっている。
沙羯羅像(さからぞう)は頭に蛇を巻いている。
乾闥婆像(けんだつばぞう)は獅子の冠をかぶっている。
迦楼羅像(かるらぞう)は頭が鳥で体が人間。
畢婆迦羅像(ひばからぞう)はニシキヘビを神格化した神。
興福寺の八部衆の一である阿修羅像もまた、何かの動物をあらわしているのではないか。
その美しい顔立ちにうっとりしてしまい、つい見過ごしてしまいそうになるが、美しい顔だちよりももっと特徴的なのはその長い腕ではないだろうか。
腕は長いだけでなく、筋肉がまったくついておらず、昆虫的である。
もう一度、蜘蛛の写真を見て、阿修羅の写真と比べてみてほしい。
私は阿修羅の腕は蜘蛛の脚に似ていると思う。 また腕と脚と合わせて8本であり、蜘蛛の脚と同じ数である。 阿修羅は土蜘蛛なのではないか?
また阿修羅の左目は、白でキャッチライトを入れたあと、墨でキャッチライトが消されている。
阿修羅は片目をつぶされているのだ。 阿修羅がまつろわぬ民・土蜘蛛であるので、片目をつぶされたのかもしれない。
⑧三月堂の不空羂索観音も土蜘蛛?
リンク先の東大寺三月堂の不空羂索観音の光背を見てほしい。 蜘蛛の巣のようではないだろうか。 阿修羅ほど昆虫的な腕ではないが、腕と脚の合計が8本で蜘蛛の脚の数と同じだ。
また不空羂索観音は手に羂索をもっている。 羂索とは仏教用語では罠の色糸を撚り合わせた縄のことだが、鳥獣をとらえる罠のことでもある。 不空羂索観音がこの羂索をなげると、よりあわせた綱がぱあっとほどけてひろがるのではないだろうか。 それはまさしく土蜘蛛の姿である。
清水寺 六斎念仏 獅子と土蜘蛛
⑨不空羂索観音は和魂、執金剛神は荒魂?
不空羂索観音の後ろには、厨子があり執金剛神が安置されている。
この執金剛神には次のような伝説がある。
940年、平将門の乱がおこったとき、執金剛神の前で将門誅討の祈祷を行った。
すると執金剛神の髻が大きな蜂となって東方へ飛びさり乱を平定した。
そのため、執金剛神には髻の元結紐の端が決失している。
日本では長らく神仏は習合されて信仰されていた。 そして神はその現れ方で3つに分けられるといわれる。
御霊・・・・神の本質 和霊・・・・神の和やかな側面 荒霊・・・・神の荒々しい側面
不空羂索観音は和魂、不空羂索観音の後ろの厨子にあって秘仏とされている執金剛神は荒魂なのではないだろうか。 荒魂であるからこそ、祟ったりしないように普段は厨子の中に安置されているのでは? しかし荒々しい神(荒魂)は乱がおこったりしたときには、その荒々しさをいかすことができると信仰され 平将門の乱を平定したなどという伝説が生じたのではないかと思う。
御霊・・・・神の本質
和霊・・・・神の和やかな側面・・・・不空羂索観音? 荒霊・・・・神の荒々しい側面・・・・執金剛神?
⑩蜂=鉢=ドクロ?
「金剛神の髻が大きな蜂となって東方へ飛びさり乱を平定した。」 という一文に注意してほしい。 蜂は鉢の掛詞になっているのではないだろうか。
朝護孫子寺に伝わる『信貴山縁起絵巻(平安末期)』には飛行する鉢の絵が記されている。 鉢は飛行するという認識が、昔の人にはあったのだ。
信貴山縁起 山崎長者の巻(部分)
「執金剛神のの髻が蜂となって東方へ飛びさった」とあるが「執金剛神のの髻が鉢となって東方へ飛びさった」ということではないだろうか。
そして『鉢巻』『お鉢が開く』などのように、頭のことを鉢ということがある。 つまり、「執金剛神のの髻がドクロ(頭)となって東方へ飛びさった」 ということになる。
つまり、執金剛神はドクロの神であり、頭部のない土蜘蛛であると考えることができる。 そして、その執金剛神の和魂である不空羂索観音もまた土蜘蛛であると、そういうことになるのではないだろうか。
①高千穂神社の鬼八伝説
宮崎県・高千穂神社に「鬼八伝説」が伝えられている。
鬼八は足がたいへん強く、昼間は辺り一帯を荒らしまわりった。
人々は鬼八の行いに困り果てていたので、御毛沼命は鬼八を退治を決意した。
鬼八は夜になると窟に隠れてしまう。 そこで御毛沼命はは沈もうとしていた夕陽を呼び戻して鬼八をまちぶせた。 そこへ鬼八が現れたので、御毛沼命は鬼八を剣で切って殺した。
そして、鬼八の死体をばらばらにして地中に埋めまた。
ところが鬼八は一夜のうちに蘇ってもとの姿に戻り、土地を荒らしまわった。 そこで田部重高という者が鬼八を殺し、頭を加尾羽(かおば)に、手足を尾羽子(おばね)に、また胴を祝部(ほうり)の地にそれぞれ分葬した。 そうしたところ、鬼八は蘇生しなくなった。
ところが、鬼八は死んだ後も地下で唸り声をあげ、霜を降らせて村人を困らせた
村人は鬼八申霜宮という祠をたてて鬼八の霊を祀った。 また毎年16歳の生娘を人身御供として鬼八の霊にささげていた。
天正年間(1573-93年)、生娘のかわりに猪がささげられるようになり、猪掛祭(12月3日)と呼ばれるようになった。
神前に猪をささげ、『鬼八眠らせ歌』を歌いながら笹を左右に振る『笹振り神楽』を舞うと、 霜を降らせる鬼八は、霜害を防ぐ霜宮に転生すると信仰された。
⓶鬼八は冬の太陽の光?
これは「足がはやくて、昼間は辺り一帯を荒らしまわり、夜になると窟に隠れ、死体がバラバラにされても一夜のうちに蘇り、霜害をもたらすものはなあに」という謎々だと思う。
その答えは「冬の太陽の光」だろう。
宮崎県2022年の夏至の日(6月21日)の日の出時刻は 05時09分、日の入時刻は 19時24分 宮崎県2022年の冬至の日(12月22日)の日の出時刻は7時11分 、日の入時刻は17時16分
である。
夏至の日の日照時間は14時間15分、冬至の日の日照時間は10時間5分なので、その差は4時間10分である。
「足がはやい」とは、冬の太陽が夏の太陽に比べて遅く出て、早く沈むことを言っていると思う。
「昼間は辺り一帯を荒しまわり」というのは、冬の日照時間が短くて、霜で農作物の収穫に害がでることを言っているのだろう。
太陽の光は「夜になると窟に隠れ」、ばらばらにしても、翌日また太陽が昇れば太陽の光も復活する。
③なぜ鬼八に猪をささげるのか?
猪は陽炎を神格化した摩利支天の神使とされている。
建仁寺塔頭 禅居庵 摩利支尊天堂の狛猪
摩利支天の原語は Marīciで、太陽や月の光線を意味するが、陽炎を神格化したものとされる。
陽炎は太陽光線によっておこるものなので、Marīci=摩利支天は太陽の光の神、と考えてよいのではないだろうか。
すると、「冬の太陽の光」の神である鬼八に、「太陽の光」の神である摩利支天の神使・猪をお供えしていることになる。
その理由は2つ考えてみた。
①死んだ猪を鬼八の神前に並べることによって、鬼八に「自分はすでに死んでいる」ということを思い知らせることを目的としている。
⓶猪の神・鬼八に、同じ猪の女神をお供えしているのかもしれない。
猪をお供えする以前には生娘を人身御供としていたので⓶のほうがありえそうだろうか。
④男女和合は荒魂を和魂に転じる呪術?
神はその現れ方によって3つに分けられるといわれる。
御霊・・・神の本質
和魂・・・神の和やかな側面
荒魂・・・神の荒々しい側面
そして、男神は荒魂を、女神は和魂を表すといわれる。 とすれば御霊は男女双体の神と言うことになると思う。
御霊・・・神の本質・・・・・・・男女双体 和魂・・・神の和やかな側面・・・女神 荒魂・・・神の荒々しい側面・・・男神
大聖歓喜天(聖天)は象頭をした男女双体の神で、次のような伝説がある。
人々に祟りをもたらしていたビナヤキャは十一面観音の化身であるビナヤキャ女神に一目ぼれし、ビナヤキャ女神に結婚を申し込んだ。
ビナヤキャ女神は「仏法守護を誓うならあなたと結婚しましょう」といった。
ビナヤキャは仏法守護を誓い、ビナヤキャ女神と結ばれた。
大聖歓喜天の、足を踏みつけているほうがビナヤキャ女神、足を踏まれているほうがビナヤキャとされる。
この説話は御霊、和魂、荒魂の性質をうまく表していると思う。
すなわち、男神である荒魂は、女神である和魂に足をふみつけられて、動けない状態にされている。
これが「神の結婚」の意味なのだと思う。
冬の衰えた太陽の光の神である鬼八は、女神によって脚をふみつけられることによって、動けない状態にされているということなのかもしれない。
鳥山石燕『今昔画図続百鬼』より「鵼」
①近衛天皇を怯えさせた鵺
近衛天皇が妖怪・鵺に怯えたという話が平家物語に記されている。
近衛天皇が毎晩何かに怯えるようになったため、源頼政が警護をすることになった。 深夜、頼政が御所の庭を警護していたところ、艮(うしとら)の方角(=北東の方角)よりもくもくと黒雲が湧き上がり、その中から頭が猿、胴が狸、手足が虎、尾が蛇という鵺と呼ばれる怪物が現れた。
頼政は弓で鵺を射、郎党・猪早太(いのはやた)が太刀で仕留めた。
その後、頼政は仕留めた鵺の体をバラバラに切り刻み、それぞれ笹の小船に乗せて海に流した。
⓶鵺は崇徳の生霊?
私は鵺とは近衛の異母兄・崇徳の生霊ではないかと考えている。
というのは、当時「近衛の崩御は、前帝・崇徳が呪詛したためだ」という噂が流れていたからである。
崇徳の呪詛を妖怪の形にしたものが鵺だといってもいいかもしれない。
崇徳と近衛はともに鳥羽天皇の皇子とされる。
しかし『古事談』には、「崇徳の本当の父親は鳥羽ではなく鳥羽の祖父・白河である」と記されています。
白河は養女としていた藤原璋子を鳥羽に与えたのですが、このとき璋子は白河の子である崇徳を身籠っていたというのだ。 鳥羽は崇徳を「叔父子」と呼んで嫌っていたそうである。 「叔父子」とは、叔父にして子、という意味だ。
崇徳は1123年に4歳で即位。 1141年、崇徳は鳥羽に退位を迫られて異母弟の近衛に譲位した。
近衛は崇徳の養子として即位するはずだったが、譲位の宣命には「皇太弟」となっていた。
近衛が皇太弟では、崇徳は院政が行うことができない。 そのため、崇徳が上皇となってからも鳥羽が権力を握っていた。
崇徳が近衛を呪詛したというのが本当なのかどうかはわからないが、崇徳が不満をつのらせていたことは確かだろう。 近衛が17歳で崩御したのち、崇徳の第一皇子・重仁親王が次期天皇として有力視された。
ところが崇徳を嫌う鳥羽は後白河(崇徳の同母弟)を天皇とした。
1156年、崇徳は保元の乱を起こして後白河と争う。 しかし後白河側が勝利して、崇徳は讃岐へ流罪となった。
崇徳が流刑地の讃岐で没したあと、延暦寺の強訴、安元の大火、鹿ヶ谷の陰謀などがおこった。 また建春門院・高松院・六条院・九条院らが相次いで死去し、 これらは崇徳の怨霊の仕業であると考えられた。
讃岐に流された崇徳上皇(歌川国芳画)
③猪早太=亥隼人=亥犬?(隼人は犬の鳴きまねをしていた)
①に書いた鵺伝説を思い出してほしい。 鵺を太刀でしとめた郎党の名前は猪早太だった。
古代、九州に住んでいた民のことを隼人といった
奈良時代、隼人たちは畿内に強制移住させられ、宮廷の警備の仕事をさせられていた。
隼人たちは犬の鳴き声をまねて警護を行っていたとされる。
犬の鳴きまねをするのに、彼らはなぜ隼なのか。 鷹狩には隼を用いることもあった。
隼人と言われる人々が犬の鳴きまねをして警護を指せられていたのは、彼らが鷹狩をする民族であり、その際、犬を用いていたからではないだろうか。
そして、猪早太の早は隼人=犬=干支の戌、また猪は干支の亥を表し、猪早太とは干支の戌亥(いぬい/乾)を表すとする説がある。
乾は八卦では全陽を表す。
一方鵺は頭が猿とあり、これは干支の申または羊申(ひつじさる/坤)を意味しているのではないでしょうか。
坤は八卦では全陰で、乾と正反対の符である。
④鵺は崇徳の陰の気、猪早太は崇徳の陽の気?
陰陽道では「陰が極まると陽に転じる」と考える。
またウィキペディアの「祟り神」の項目には次のように記されている。
祟り神(たたりがみ)は、荒御霊であり畏怖され忌避されるものであるが、手厚く祀りあげることで強力な守護神となると信仰される神々である。
この「荒御霊は手厚く祀ると守護神になる」とする考え方は陰陽道の「陰が極まると陽に転じる」という考え方からくるものだと思う。
ということは、猪早太(戌亥=乾)とは、鵺(未申=坤)が陽に転じたものなのではないだろうか。。
鵺=崇徳の生霊と考えれば、崇徳の陰の気が、陽に転じたものが猪早太だということになる。
つまり鵺は崇徳の陰の気、猪早太は崇徳の陽の気であり、崇徳は自分で自分を殺したということである。
①瓢箪小僧は鉢叩きの付喪神?
鳥山石燕『百器徒然袋』より「瓢箪小僧」(下)と「乳鉢坊」(上)
上の絵の下に描かれているのが瓢箪小僧、上に描かれているのが乳鉢坊である。
乳鉢坊は、、鐃鈸(にょうはち、にゅうばち)、銅鈸子(どうばつし)・銅拍子などと呼ばれる楽器の妖怪とされる。 シンバルのようなものだろう。
これと同様のものは見たことがある。
上の写真は大阪四天王寺の聖霊会を撮影したものである。 僧侶が手に持っているのが鐃鈸ではないかと思う。
瓢箪も楽器のように用いられることがあった。
上の写真は京都・北野天満宮の節分狂言である。 角度的にわかりにくくて申し訳ないが、手に瓢箪をもち、バチで叩いている。
これは『鉢叩き』だと思う。
かつて京都・空也堂の僧侶たちは鉢や瓢箪を叩きながら和讃を唱えるなどして金銭を得ていた。
そのため、彼らは『鉢叩き』と呼ばれていた。
特に年末(旧暦11月13日から大晦日まで)に瓢箪を叩きながら手作りの茶筅を売り歩く習慣が近年まであった。
空也堂の僧以外にもこれを行う者が出てきたようで、江戸時代には門付け芸(人家の門前で芸能を行って金品をもらうこと)となり、広く全国で行われた。
鉢叩きのルーツは空也上人がはじめたと伝わる踊り念仏だろう。 上の写真は、空也堂の空也忌で奉納された踊り念仏である。
上は六波羅蜜寺所蔵の空也像である。 疫病を鎮めるため、空也は南無阿弥陀仏と称えながら踊る踊り念仏を行ったという。 その姿を刻んだものだ。
胸元には鉦が見える。空也は鉦をうちならしながら踊り念仏を行ったのだ。
妖怪・乳鉢坊はこの踊念仏に用いる鉦の付喪神なのかもしれない。 (付喪神/器物は100年を経ると精霊が宿ると信じられていた。)
だとすれば、瓢箪小僧もまた踊念仏や鉢叩きに用いられる瓢箪の付喪神であるのかもしれない。
⓶瓢箪の二つのふくらみが男女和合をあらわす?
ウィキペディアには瓢箪小僧について、次のように記されている。
瓢箪小僧(ひょうたんこぞう)は、鳥山石燕『百器徒然袋』に描かれている日本の妖怪で、瓢箪の妖怪である。
これを読むと、瓢箪小僧とは鳥山石燕が創作した妖怪の様に思える。 鳥山石燕は、瓢箪を妖怪にしようという着想をどこから得たのか。
彼は念仏踊や鉢叩きから着想を得たのかもしれないが、瓢箪はそれ以前より霊力のある植物であると考えられていたという事実もある。
たとえば中国にこんな伝説がある。
あるとき大洪水がおこって多くの人間が死んたが、伏羲と女媧という兄妹は巨大な瓢箪の中に隠れていたので無事だった。
兄妹は結婚して子供を産み、人類の祖となった。
中国版ノアの方舟である。
なぜこんな伝説が生じたのだろうか。 それは瓢箪の実が二つのふくらみを持っていることによると思う。 瓢箪の実の、大きい方のふくらみが伏羲、小さい方のふくらみが女媧ということだろう。
つまり、昔の中国の人々は、瓢箪の実を男女が合体した姿、男女和合した姿であると考えたのではないかと思われる。
③沈まなかった瓢箪
この中国版ノアの方舟の影響を受けたと思われる話が、日本書紀に記されている。
茨田堤は難工事で、どうしても決壊してしまう場所が2か所あった。
そんなとき仁徳天皇の夢の中に神様があらわれ「武蔵のコワクビ(強頸)と河内の人の茨田連衫子(まむたのむらじころもこ)を人柱にすれば工事は成功するだろう」と告げた。
そこでこの二人が人柱にされることになった。 コワクビは泣きながら川の中に入って没した。
工事は成功しコワクビの断間(こわくびのたえま)と呼ばれた。
コロモコはヒョウタンを川に投げ入れ、「神よ、このヒョウタンを沈めてみよ。沈めることができなければ偽りの神だ。」と言った。 ヒョウタンは沈まず、コロモコは人柱にならずに済んだ。 コロモコは人柱にならなかったが工事は成功し、コロモコの断間(ころもこのたえま)と呼ばれた。
大阪府門真市の堤根神社境内には茨田堤跡が残されている。
茨田堤(堤根神社)
大阪府寝屋川市太間(たいま)町 の地名の由来はコロモコの断間からくるといわれ、淀川の堤防に茨田堤の石碑が建てられている。
茨田堤 (寝屋川市太間町)
④福禄寿は瓢箪の神だった?
上の写真は石切七福神にあた福禄寿像である。
福禄寿は筒の様な長い頭のお姿であらわされることが多いが、写真のように頭の上にもうひとつ頭がついたようなお姿であらわされることもある。
滋賀県の西教寺にもこういう福禄寿が安置されていた。 
石切七福神 ポスター(文字は筆者がいれました。)
七福神のメンバーは蛭子・大黒・布袋・毘沙門天・弁財天・福禄寿・寿老人の七柱だが、このうち福禄寿も寿老人も南老人星を神格化した神とされる。
布袋の頭が長いのは、頭部がふたつ(福禄寿と寿老人)くっついているためではないだろうか。
上の石切七福神のポスターもそうだが、寿老人は頭に頭巾をかぶった姿であらわされることが多い。 この頭巾をとると寿老人も福禄寿のように長い頭をしているのかもしれない。
⑤南極老人星は南の低い位置に出る。
南極老人星とはカノープス(りゅうこつ座α星)という星のことで、連星でも、見かけ上の連星(北斗七星のミザールとアルコルなど)でもない。
それなのに、なぜ南極老人星の神は二柱いるのだろうか。
南極老人星は南の空の非常に低い位置に出る。
東京から見たカノープス
赤緯マイナス52度42分に位置するため、南半球では容易に観測できるが、北半球では原理的には北緯37.3(=90-52.7)度以北では南中時でも地平線の下に隠れて見ることができない。
ただし、大気を通るときの屈折があるため、北限はわずかに北上する。
日本では東北地方南部より南の地域でしか見ることはできない。
角度では可能とされる地域であっても、北緯36度の東京の地表では南の地平線近く2度程度、北緯35度の京都でも3度程度の高さにしか上らず、地上からの光害や、大気を通る距離も長いため全天でシリウスに次いで明るいとは思えないほどに減光して赤くなり、見つけることはより困難となる。本州よりは高い位置に観測でき、九州南部の鹿児島では6度程度、沖縄の那覇では10度程度の高さまでのぼる。
南緯37.3度以南、たとえばp-ストラリアのメルボルンでは、年中沈まない周極星になる。
⑥北半球でも南十字星が見えていた時期があった。
現在、北半球から南十字星は見えませんが、地球の歳差運動の影響で、過去に北半球でも南十字星が見えていた時代があった。
天の北極にある星のことを北極星というが、時代によって北極星は変わる。
北極星が変わるのは、地球が歳差運動といって下図のように独楽がぶれるような動きをしているためである。 地球の歳差運動の周期は約25800年である。
す。
⑦キリストは冬至に向かって南中高度を下げていく太陽、十字架は南十字星の比喩?
イエスキリストは十字架にかけられて3日後に復活したとされる。
これについて、イエスキリストは太陽の比喩、十字架は南十字星の比喩ではないかとする説がある。
冬至にむかって太陽はどんどん南中高度をさげていき、南十字星の位置にまで達する地域があった。
「キリストが十字架にかけられた」のは、これを意味しているのではないかというのだ。
またキリストは死後3日目に復活していますが、これは冬至から再び太陽が南中高度をあげていくことをあらわしているのではないかとしている。
⑧トマスは冬至に向かって南中高度を下げていく太陽、キリストは冬至から3日後より南中高度をあげていく太陽?
キリストにはトマスという双子の兄弟がいたという説がある。
トマスとはアラム語で「双子」という意味である。
また「トマス行伝」にはトマスのことを「メシアの双子、至高者の使徒」、
「剣闘者トマスの書」では、トマスはイエスに「私の双子の兄弟」と呼びかけられている。
さらにキリストが十字架にかけられて死んだというが、実は双子のトマスがキリストの身代わりになったのであり
トマスの死後3日後に、キリストがしゃあしゃあと姿を現し、人々はキリストが生き返ったと錯覚したのではないかという説もある。
すると、トマスは冬至に向かって南中高度を下げていく太陽
キリストは冬至から3日目より南中高度を上げていく太陽
ということになる。
⑨南極老人星は南十字星と同じく冬至の太陽の南中高度の低さをあらわす?
南極老人星は南十字星と同じく、南中高度が低くなった太陽の位置の目安とされたのではないだろうか。
そして福禄寿と寿老人は南極老人星の神というよりは、南中高度が南極老人星に近づいた冬至のころの太陽を擬人化した神なのかもしれない。
つまり福禄寿と寿老人のうち片方は冬至に向かって南中高度をさげ南極老人星に近づいていく太陽、
もう片方は冬至から3日目より南中高度をあげ南極老人星から離れていく太陽を神格化した神ではないかと思うのだ。
⑨鹿は死を、鶴(白鳥)は復活を意味する?
それでは福禄寿と寿老人のうち、どちらが南中高度をさげていく太陽で、どちらが南中高度をあげていく太陽なのだろうか。
南中高度を下げていく太陽は寿老人で、南中高度をあげていく太陽は福禄寿だと思う。
寿老人は鹿を、福禄寿は鶴をつれているとされる。
日本書紀に『トガノの鹿』という物語があり、鹿とは謀反人を比喩したものであるとする説がある。
雄鹿が『全身に霜がおりる夢を見た。』と言うと雌鹿が『霜だと思ったのは塩であなたは殺されて塩が振られているのです。』と答えた。
翌朝猟師が雄鹿を射て殺した。
時の人々は『夢占いのとおりになってしまった』と噂した。 (トガノの鹿)
一方、鶴は大空高く舞い上がる動物なので、南中高度をあげていく太陽にふさわしく思える。
このように考えてみると、瓢箪小僧とは、 冬至に向かって南中高度をさげていく太陽と、冬至から南中高度をあげていく太陽等を 神格化した妖怪だといえるかもしれない。
葛飾北斎『北斎漫画』より「轆轤首」
①ろくろ首には2種類ある。
ろくろ首には2種類あるそうである。 a首が長く伸びるもの b首が胴体から離れて飛行するもの。
⓶飛行するドクロ
『諸国百物語』より「ゑちぜんの国府中ろくろ首の事
まず、「⓶首が胴体から離れて飛行するろくろ首」から考えてみよう。
実在の人物の首が胴体から離れて飛行したという話は、いくつかある。
飛鳥時代、乙巳の変で中大兄皇子に殺された蘇我入鹿の首が飛びあがり、皇極天皇の御簾にくらいついたという伝説がある。
多武峰縁起絵巻 複製(談山神社)
奈良時代には、玄昉という僧侶が大宰府で藤原広嗣の怨霊に体をバラバラにされ、その首が奈良まで飛んで興福寺に落ちたという。
頭塔というピラミッド状の建物が玄昉の首がおちた場所だと伝えられている。
頭塔
平安時代には、乱を起こして戦死した平将門の首が京都の鴨川のほとりで晒されたが、首は故郷まで飛びかえったという話がある。
京都・膏薬図子にある神田明神は将門の首が晒されたところ、
膏薬図子 神田明神
東京にある将門の首塚は、故郷にもどった将門の首が落ちたところとされる。
将門の首塚
つまり、蘇我入鹿、玄昉、平将門らがろくろ首の正体だと言えると思う。
しかし、なぜ飛行する首をろくろ首というのだろうか。
③なぜろくろ首というのか。
ろくろ首についてウィキペディアは次のように記している。(アルファベットは筆者がつけた。)
ろくろ首の名称の語源は、
a.ろくろを回して陶器を作る際の感触
b.長く伸びた首が井戸のろくろ(重量物を引き上げる滑車)に似ている
c.傘のろくろ(傘の開閉に用いる仕掛け)を上げるに従って傘の柄が長く見える
aはろくろで陶器をつくる際、粘土を上方に伸ばすのを首が伸びることに喩えたということだろう。
bの井戸のろくろとは下記写真の円形部のことである。
欣浄寺 墨染井
私は木地師が用いる木挽ろくろが、ろくろ首という名称の語源ではないかと考えている。
木地師資料館 木挽きろくろ
上の写真の、長細い筒に紐がまきつけてあるのが木挽きろくろである。
ろくろの先端に器などに加工する木材をセットし、ひとりが刃物を木材にあてる。
もうひとりっが巻きつけた紐の両端をもってひっぱり、轆轤を回転させると、木材を丸い形に加工できる。
ひもを巻きつけた細長い棒状の部分、または棒に巻き付けられた紐を首、轆轤の先端にあてた器を頭部に見立てたのではないだろうか。
木挽きろくろは平安時代の人物、惟喬親王が発明したという伝説がある。 しかし、これは事実ではない。
というのは、奈良時代に制作された百万塔が、木挽きろくろで制作されたと考えられているからだ。
⑤惟喬親王はろくろ首だった?
なぜ惟喬親王が木挽きろくろを発明したなどといわれているのだろうか。
惟喬親王は平安時代の人物で父親は文徳天皇、母親は紀静子だった。
文徳天皇には藤原明子との間に惟仁親王(のちの清和天皇)という皇子もあった。 文徳天皇は長子で聡明な惟喬親王を皇太子にしたいと思っていたが、当時は藤原氏が強い権力を持っていたため、惟仁親王が皇太子となった。 世継争いに敗れた惟喬親王は小野の里に隠棲したとされる。 小野の里とは京都の大原あたりとされ、大原には惟喬親王の墓もある。
惟喬親王墓(大原)
しかし滋賀県・君ヶ畑ではこれとは別の伝説を伝えている。 世継ぎ争いに敗れた惟喬親王は君ヶ畑に隠棲し、法華経の軸が転がるのを見て木挽きろくろを発明。 そしてこれをこの土地の住民に伝え木地師が生まれたというのだ。
君が畑にある金龍寺はこの地で惟喬親王が住んだ高松御所跡とされる。
金龍寺境内にある小さな社
金龍寺境内に小さな社があり、 石碑には「惟喬親王勧請 鎮守神 御池大龍権現 天狗堂大僧頭権現」と記されていた。
「惟喬親王が勧請した御池大龍権現と天狗堂大僧頭権現をお祀りしています」というような意味だろうか。
また金龍寺の隣には惟喬親王の墓があり、君が畑から近い筒井峠にも惟喬親王の墓がある。
惟喬親王 墓(筒井峠)
しかし、すでに述べたように惟喬親王が木挽きろくろを発明したというのは事実ではない。 もしかすると、惟喬親王自身が、ろくろ首であったため、惟喬親王が木挽きろくろを発明したなどと言う伝説が生じたのではないか?
⑥惟喬親王を祀る玄武神社は三輪明神と関係が深い?
惟喬親王を祀る神社は多数ある。 京都の玄武神社もそのひとつである。
玄武神社の境内には三輪明神を祀る社がある。
三輪明神とは大神神社の神、大物主のことである。
平安時代の律令の注釈書『令義解(りょうのぎげ)』に次のように記されている。 「春、疫神が流行病を起こすので、これを鎮めるため、大神神社と狭井神社で祭りを行う。」 これが鎮花祭のルーツと考えられているのだが、玄武神社でおこなわれている「やすらい祭」もまた鎮花祭である。 どうも玄武神社は大神神社と関係が深そうである。
玄武神社 やすらい祭
玄武神社境内に祀られている三輪明神=大物主についてだが この神は蛇神とされ、大物主を祀る奈良・大神神社境内には蛇の好物である卵が供えられていたりするのをよく見かける。
⑦蛇は頭に長い首がついた動物?
↑ 上の写真は三室戸寺の境内に置かれている宇賀神の石像であるが 人間の頭部に蛇の体というお姿をしている。
世界各地で太陽神を蛇神とする信仰がある。
脱皮を繰り返す蛇は再生をイメージさせ、同様に再生を繰り返す太陽のイメージと重ねられたと言われる。
しかし、太陽が丸いのに対し、蛇は細長く全く形が異なる。
なぜ蛇が太陽神とされたのか納得できなかったのだが、宇賀神のおすがたを見て、なぜ蛇が太陽神とされたのかがわかったような気がした。
↑ 大神神社のHPに大神神社のご神体である三輪山の日の出の写真が掲載されている。
この写真と上の宇賀神の写真を見比べてみてほしい。
三輪山は蛇がとぐろを巻くおすがただといわれている。
すると宇賀神の頭部と、三輪山の頂近くに昇った太陽が重なって見えてくる。 宇賀神の頭部は山の頂に昇った太陽を擬人化したものではないだろうか。
また、昔の人は蛇とは胴体がなく、頭部に長い首のついた動物だと考えていたのではないだろうか。
大神神社の御祭神・大物主も宇賀神のように胴体がなく、頭(髑髏)に長い首がついたおすがたをした神だと考えられていたのではないかと思う。
惟喬親王も大物主同様、胴体がなく髑髏に長い首がついたおすがたをした神であると考えられた結果、 惟喬親王をまつる玄武神社境内に三輪明神がまつられているのではないか。
また、惟喬親王が胴体がなく髑髏に長い首がついたおすがたをした神だという認識があったため 「惟喬親王が木挽きろくろを発明した」などという伝説が生じたのかもしれない。
先ほども述べたように、お椀が頭部、木挽きろくろ、またはその長い棒に巻き付けられた紐が長い首のようにみえると思う。 (宇賀神のおすがたを考えると、木挽きろくろの長い棒ではなく、棒に巻き付けられた紐を首としたほうがいいかもしれない。) そういえば木地師史料館に祀られている惟喬親王像は手にお椀を持っている。
①「狐の嫁入り」2つの現象
京都・ねねの道を行く怪しげな行列に遭遇した。
東山花灯路 狐の嫁入り行列
人力車に白無垢を着た狐さんが乗っている。狐の嫁入行列だ!
東山花灯路 狐の嫁入り行列2
「狐の嫁入り」と言われる現象には2通りの意味がある。
①行列のように見える無数の怪火
⓶天気雨(日が差しているのに、雨が降る現象)
⓶狐の嫁入りは燃える石油?
宝暦年間(1751年~1764年)に記された地誌『越後名寄』には次のような記述があるそうである。
夜何時(いつ)何處(いづこ)共云う事なく折静かなる夜に、提灯或は炬の如くなる火凡(およそ)一里余も無間続きて遠方に見ゆる事有り。右何所にても稀に雖有、蒲原郡中には折節有之。これを児童輩狐の婚と云ひならはせり
現代語訳/ 夜、いつどこともいうことなく、静かな夜に、提灯または炬(たいまつ)のようなものが、1里以上もたえまなく続いているのが遠方に見えることがある。 これはまれに稀にありといえど、蒲原郡中にはときどきこれがある。
これを児童輩(意味わからず)狐の婚と言い習わしている。
(現代語訳まちがっているかも 汗)
越後国とは、現在の新潟県のことだ。
新潟県は古くから石油や天然ガスの産地だった。
「日本書紀」天智 天皇の7年(668年)の記事に 「越国、燃ゆる土燃ゆる水を献ず」とある。
燃える土、燃える水とは石油のことだと考えられている。
狐火は雨の日に出現するといわれるが、油に水をかけるとよけいに勢いよく燃える。
なので天ぷら油や石油ストープが燃え上がっていても、決して水をかけてはいけないのだという。
狐火が石油だと考えると、雨の日に出現する理由が説明できないだろうか。
⓶世界中にある天気雨を動物の結婚と結びつける信仰
もうひとつの狐の嫁入り、天気雨についても考えてみたい。
似たような話は、海外にもあるようで、次のように記した記事もある。
さらに面白いことに、天気雨に関する俗信は世界各地に存在するようだということ。
代表的なものは天気雨と動物の結婚を結びつけるもので、日本の「狐の嫁入り」のほか、アフリカでは猿やジャッカル、アラビア語圏の一部では鼠、ブルガリアの一部では熊、大韓民国では虎が結婚するとされる。
イタリアのカラブリア州・サレント半島やイギリス南西部では日本と同じく狐が結婚するといわれているようだ。
③狐が雨を降らせるという信仰
レファレンス協同データベースに引用文として、次の様に記されている。
【キツネの嫁入り行列】の由来!太田版」に次の記述あり。
「昔から、讃岐平野は月夜に枯れる(田の水が干上がる)と言われる水不足に悩む土地柄です。ところが、太田辺りでは、雨乞い行事もしないで水の取り合いばかりしていたのです。それを見るに見兼ねたキツネが【嫁入り行列】という雨乞いをして、雨を降らせたのです。
この行列は、日が照りながら雨が降るような時、蓮池のお地蔵さん付近から野田池に向かって眩しい光を放ちながら進んでいったのです。・・・(太田地区コミュニティ協議会(太田コミュニティセンター)
どうも狐は雨を降らせる動物だと考えられたようである。
④狐は誰と結婚するのか
狐は、誰と結婚するのだろうか。 下の記事は、ソースがわからないので信憑性にややかけるが、 雨の神である狐が、太陽神のもとに嫁ぐ(生贄になる)という意味で、天気雨を狐の嫁入りと言っているようである。
ずっと雨が降らない村が狐をいけにえにして雨を降らそうと、男前の村人が狐の娘を騙して嫁入りさせようとする。途中、狐の娘を気に入ったその男は、「これは罠だから逃げて!」というのだが、狐はその男が好きだったので、「いいんです」と人間の娘に化けてそのまま嫁入りをし、村人たちにいけにえにされた。すると晴れている空から大粒の雨が降ってきた。
東山花灯路 狐の嫁入り行列
陰陽では晴が陽で、陰が雨。 雨の神である狐が、旱魃をもたらす太陽のもとに嫁いで雨を降らせる。 そういう状態が天気雨であると考えられたのではないだろうか。
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