①一陽の木
丹生酒殿神社は主祭神として丹生都比売大神を、配祀神として高野御子命、誉田別命を祀る神社で 樹齢800年と伝わる御神木の大公孫樹がある。
その理由は、以下のとおり。
1.古代、太陽は黄色で描かれた。(高松塚古墳、キトラ古墳など) 2.公孫樹の樹形は本来は丸い。 3.御神木を公孫樹とする一言主神社では冬至の日に一陽来復祭を行っている。 4.当時に向かって黄色い葉を散らす公孫樹は、当時に向かって勢いがおとろえていく太陽にぴったりである。
丹生酒殿神社の鮮やかな黄色い葉、丸い樹形は太陽を思わせる。まさしく一陽の木と言うにふさわしい、と感じた。
⓶賽銭箱に記された『心』は熊野観心十界曼荼羅の「心』?
柏手を打ちながら、本殿のほうをみると、本殿の背後に鳥居があるのが見えた。
どうやら、本殿の背後に摂社があるようだ。
本殿の背後に鳥居がみえている。
本殿の向かって右手には、鳥居がある。たぶん、一の鳥居だろう。
鳥居をくぐると、人ひとりが通れるくらいの細い参道が小高い丘に向かってのびている。 その参道のつきあたりに、さきほど見た、本殿の背後にある鳥居があった。二の鳥居だろう。  鳥居の下に賽銭箱が置いてあり、賽銭箱には「心」の文字が記されていた。
この文字は見覚えがある。
上は京都西福寺で撮影した熊野観心十界曼荼羅である。 向かって右に金色の太陽、向かって左に銀色の月があり、その中心よりやや下に「心」と記した丸がある。
これも西福寺で撮影したもので、地獄絵のようなものが描かれているが、やはり「心」と記した丸が描かれている。
ここ和歌山県はかつて熊野といわれた地域だった。 賽銭箱の「心」はこの熊野観心十界曼荼羅の「心」を描いたものだと思う。
③鎌八幡宮
鳥居の向こうには御神木らしきものがあり、ところどころ、銀色の鈍い光を放っている。
なんと、その光の正体は鎌だった!
木の幹に沢山の鎌が刺さっている!
丑の刻参りを思わせるような光景だが、鎌八幡宮は豊穣・子宝祈願にご利益があるとされる。
④熊手八幡宮
もともと鎌八幡宮はここに鎮座していたのではなく、何度か遷宮しているようで、もとは香川県にあったようである。
讃岐国多度郡屏風浦の海岸寺のhpには次のような内容が記されている。
1.香川県多度郡屏風浦に神功皇后の従者・渡辺氏が熊手と旗竿をご神体とする神社を創建した。 2.欽明天皇の頃、応神天皇(誉田別尊)を主祭神とし、熊手八幡宮、もしくは白方八幡宮として祭られた。 3空海の母、玉依御前が、ここで安産祈願をし空海が生まれた。
4.819年、空海が社殿を造営した。 5.空海は八幡大菩薩と対面して、お互いの姿を写し合った。 八幡神は、「わたしとあなたはもと同一体であり、上人の居る所へは必ず影と形のごとく追い随うつもりである」といった。
6.空海が高野山の奥の院に入定。 白方の八幡神は生前の約束を果たすため、ご神体である熊手と旗竿を白龍に変え、高野山へ向けて飛ばしたところ、伊都郡兄井村の松樹に掛かった。
7.同郡大畑村の鬼五郎、次郎は、諏訪次郎右エ門に相談の上、高野山に報告。
高野山はこのご神体を奉迎し、行人方の各院が持ち回りでご神体の祭祀を行った。(巡寺八幡宮) 8.明治二年(1869)の神仏分離令の際、同山から兄井村の諏訪神社へ遷座した。 9.その後、近隣の小社が合祀され、熊手八幡は三谷の丹生酒殿神社へ移された。
10.ご神体の熊手が長くて、社殿内に入れることができず、軒に掛けていたところ、火花が散るなどの怪があり 柄を短く切って納めるが、台風で大木が倒れ社殿と熊手を納めた木箱が壊れた。
11.その後、建て直された。(下の写真 向かって左)
⒓兄井と三谷に祀られている熊手八幡宮は、現在は鎌八幡宮として知られる。
⒔その由来について。
草刈をしていた宮司がイチイの木に鎌を打ち付けて、そのまま一晩忘れていた。
翌日、鎌を抜こうとしたが、深くめり込んで抜けなかった。
八幡神がこの木に乗り移られたのだろうということになり、願い事がある者は鎌を打ち付けるという奇風が始まった。
願い事がかなう場合はどんどんめり込んでいくが、かなわない願い事は鎌が押し出される。
⒕江戸時代の兄井には、奉納用の鎌を売る店が崇敬あった。
つまり、
.香川県多度郡屏風浦の熊手八幡宮(白方八幡宮) ↓ 伊都郡兄井村 ↓ 高野山 ↓ .明治二年(1869)の神仏分離令の際、兄井村の諏訪神社へ遷座。
↓ 丹生酒殿神社へ遷座。
のように、鎌八幡は4度遷宮を繰り返していることになる。
鎌八幡は豊穣、子宝祈願にご利益があるとされているが、 豊穣は、鎌が農具であるところからくるのではないかと思う。 子宝は、空海の母が讃岐の熊手八幡宮に安産祈願して無事空海が生まれたことにちなむのではないだろうか。
⑤不適切な祈祷詞は除去します。
説明板には、
「不適切な祈祷詞は除去します」
「神社での正しい祈り方は私欲の都合で祈る文語ではないことをご理解ください。」
と書いてあった。
「私欲の都合で祈る」というのはわかりにくいが、「憎い相手に不幸が訪れるように」という願い事をしてはいけない、という意味だろう。
しかし「私欲の都合で祈る文語ではないことをご理解ください。」とわざわざ張り紙がしてあるということは、
「憎い相手に不幸が訪れるように」のような祈願をする人がいるということではないのか?
丑の刻参りは藁人形を五寸釘で木の幹にうちつける。
鎌を木の幹につきたてる行為は、丑の刻参りの信仰を思わせる。 もともとは丑の刻参りのように「憎い相手に不幸が訪れるように」と願っていたものを、近年になって、最近の道徳にあわないということで、「子宝、豊作祈願」の神社と言う風にあらためたということではないか?
⑥鎌を打ち付けた御神木は月をあらわしている?
鎌の曲線は三日月に似ている。 その名もずばり、月鎌と呼ばれる鎌もあり、死神が武器として持っている。
イチョウが太陽の木であるのに対して、鎌八幡宮の御神木の櫟樫は、月の木なのではないか?
丹生酒殿神社は南向きで、その北に鎌八幡宮はある。
陰陽道の宇宙観では東が太陽の定位置、西が月の定位置、中央が星なので方角が90度ずれているが 北野天満宮の三光門の配置も90度ずれていた。
北野天満宮 三光門のレイアウト図
すなわち、南の赤色の丸が太陽、北の三日月が月、中央の黄色の丸が星と考えられるのだった。
丹生酒殿神社の御神木の配置は、北野天満宮・三光門の日月星と同様の配置になっているのではないか?
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①冬至に関係する神社
もともとここには落葉社が鎮座していた。 近世、岩戸社をここに遷宮させて、岩戸落葉神社と呼ばれるようになったという。
そのため境内には岩戸社・落葉社のふたつの本殿がある。
この岩戸社と落葉社はどちらも冬至に関係する神社だと思う。
⓶天岩戸神話は、冬至の衰えた太陽が再び復活することを意味している?
岩戸社の御祭神は彌都波能賣神(みづはのめのかみ)、稚日女神(わかひめのかみ)、瀬織津姫神(せおりつひめのかみ)である。
このうちの稚日女神は、スサノオが馬の逆剥ぎを高天原の斎服殿(いみはたどの)に投げ込んだとき、これに驚いて持っていた梭(ひ)で身体を刺して亡くなった女神である。
この事件にショックを受けた天照大神は天岩戸に隠れてしまう。
稚日女神という神名は「若く瑞々しい日の女神」という意味で、天照大神は別名を大日女(おおひるめ)というので、 稚日女とは天照大神自身、または天照大神の幼名とする説がある。
そして天照大神が天岩戸にこもったという伝説が何を表すのかについて、ふたつの説がある。
①日食をあらわす。 ②冬至に向かって勢いが衰えた太陽が、冬至を境に再び勢いを増していく様をあらわす。
大阪の枚岡神社では、冬至のころ「お笑い神事」を行っている。 新しくかけなおした注連縄の前で、神職さん、巫女さん、氏子さん、一般の参拝者も並んで「わっはっは」と笑うという神事である。
枚岡神社 お笑い神事
天照大神が天岩戸にこもって、世の中が真っ暗になってしまったとき 天岩戸の前で、アメノウズメがストリップダンスをし、それを見ていた神々が笑った。
天照大神はその笑い声を聞いて「何を笑っているんだろう」と思い、少し天岩戸をあけたところを引っ張り出され、再び世の中に太陽の光がさすようになった。
「お笑い神事」はこの神話を再現したものといわれている。
この神事はもともとは冬至の日におこなっていたそうで、
天照大神が天岩戸にこもったという神話は ②の「冬至に向かって勢いが衰えた太陽が、冬至を境に再び勢いを増していく様をあらわす。」が正しいのではないかとも思える。 (※私は①②の両方をあらわしていると考えているが、それについては機会をみて別稿に記したいと思う。)
③岩戸神社が、公孫樹の巨木のある落葉神社に遷宮された理由
岩戸落葉神社のイチョウの樹齢は不明だそうだが、巨木なので古くから落葉社の御神木として植えられていたのだろう。
私はイチョウという名前は『一陽来復』の『一陽(イチヨウ)』からくるのではないかと考えている。
『一陽来復』とは『冬が終わり春が来ること』や『冬至』を意味する言葉である。
『一陽』とは『たったひとつの太陽』という意味だろうか?
陽は太陽のことで間違いないだろうが、一は斎など、別の意味かもしれない。 いずれにせよ、イチョウとは『一陽の木』という意味だろうと思う。
日本では太陽はなぜか赤で描かれることが多いが、太陽の色は本当は黄色である。 高松塚古墳やキトラ古墳の日像は金色(黄色)で描かれている。 イチョウの黄色い葉は太陽の光に見立てられているのだと思う。
この黄色い葉っぱは秋のはじめごろはたくさん木についているのだが、徐々に散っていき、木についた葉の数はどんどん減っていく。
これは冬に向かって衰えていく太陽のようではないか。
そして最も太陽の光が衰える冬至のころにはすっかり落葉してしまっているというわけだ。
落葉社は源氏物語に登場する朱雀帝の第二皇女「落葉の宮」を御祭神としているが、 この落葉の宮は冬至に向かって衰えていく太陽に喩えられていたため、落葉神社の御神木がイチョウになっているのだと思う。
そして、天岩戸神話が冬至の太陽を擬人化した物語だということで、岩戸社がこの公孫樹のある場所に遷宮されたのではないだろうか。
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1.本来、公孫樹の樹形は丸い。
イチョウは水分を多く含んでいるため、火事になって熱されると、大量の水蒸気を放出するそうである。 そのため、防火用にイチョウが植えられることも多いのだという。
上は明治神宮外苑のイチョウである。
クリスマスツリーのような円錐形をしているが、これは剪定してこのような形にしているようで
「明治神宮外苑 外苑便り」に剪定作業の写真が掲載されている。
街路樹などもこのような形に剪定されていることが多い。
これは奈良・葛城一言主神社の御神木のイチョウ。樹齢1200年と伝わる。
西本願寺のイチョウ。
宝泉寺のイチョウ。樹齢400年以上と考えられている。
葛城一言主神社・西本願寺・宝泉寺のイチョウは丸みを帯びた形をしている。 イチョウ本来の形はこのような丸みを帯びた形であるようだ。 真ん丸の形をした公孫樹を見たこともある。
2.イチョウは一陽の木?
葛城一言主神社では冬至の日に一陽来復祭を行っている。
一陽来復について、goo辞書は次のように記している。
冬が終わり春が来ること。 新年が来ること。 また、悪いことが続いた後で幸運に向かうこと。 陰の気がきわまって陽の気にかえる意から。 ▽もと易えきの語。 陰暦十月は坤こんの卦かにあたり、十一月は復の卦にあたり、陰ばかりの中に陽が戻って来たことになる。 「復」は陰暦十一月、また、冬至のこと。
より引用
一言主神社の一陽来復祭では難転摩滅と書いたお守りが授与されている。
鬼の顔のような形に折った袋を透かしてみると、中に南天の実と葉が入っているようだった。
(糊づけしてあるので、開封していない)
南天の音が難転に通じるので、南天の実と葉を袋の中に入れてあるのだろう。
「一言主神社」「一陽来復祭」「一陽来復御守」「難転(南天)摩滅」「御神木の公孫樹」
これらのワードが頭の中でぐるぐるめぐり、「あっ」と思いついた。
一言主神社で一陽来復祭が行われているのは、 この神社が葛城山の中腹にあって、ここから朝日が昇ってくるのを眺めることができるということもあるだろう。 (早朝、一言主神社に朝日の写真を撮影しにいったことがある。)
しかし、それだけではなく、一言主神社の御神木のイチョウの音が、一陽(イチヨウ)に通じるからではないか?
太陽の色は黄色である。公孫樹の丸い樹形、黄色い葉の色は太陽の光のようである。 その太陽の光のような黄色い葉は冬に向かって落葉し、冬至のころには、すっかり葉を落としてしまう。 それは冬至にむかって衰えていく太陽の光のようではないか。
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太陽の木 と 月の木⑦ クリスマスはミトラ教の冬至祭をとりいれたものだった。 よりつづきます~
①天岩戸神話を再現した行事
2010年12月25日、この日はクリスマスだが、私は 枚岡神社の注連縄(しめなわ)掛神事(お笑い神事)を見るためにでかけた。 (現在では12月23日に行っているようです。)

白装束の氏子さんたちが藁で新しい注連縄を作り、古い注連縄を外して新しい注連縄につけかえる。
その作業が終わったあと、神職さん、巫女さん、氏子さん、一般の参拝者の方々も注連縄の前に並び、一斉に「あっはっはー」と笑う。

この神事は天岩戸神話を再現したものではないかといわれている。
記紀には次のように記されている。
天照大神は弟・スサノオの悪戯に耐えかねて天岩戸の中に隠れてしまった。 そこで天岩戸の前アメノウズメがストリップダンスをすると八百万の神が一斉に笑った。 天照大神は天岩戸の扉を少し開けて 『私が岩戸に籠もって世の中は闇だというのに、なぜみな笑っているのか。』と問うと アメノウズメが『貴方様より貴い神が表れたので、喜んでいるのです。』と答えた。 アメノコヤネノミコトとフトダマノミコトが天照大神の前に鏡を差し出したので、天照大神は鏡に映る自分の姿を尊い神だと思い、岩戸をさらに開けた。 それをみはからってアメノタヂカラオがその手をとって引きずり出した。 フトダマノミコトは注連縄を岩戸の入口に張り『注連縄の向こうに入らないで下さい』といった。
この神事は、かつては冬至(12月22日ごろ)の日に行われていたと伝えられている。
⓶天岩戸神話は何を表しているのか。
天岩戸神話が何を表すのかについて、2つの説がある。
①日食を表す。 ②冬になって衰えた太陽が冬至を境に再び勢いを取り戻していく様子を表す。 枚岡神社の注連縄掛神事が冬至に行われていたということは、天岩戸神話は②の『冬になって衰えた太陽が冬至を境に再び勢いを取り戻していく様子』を表しているのかもしれない。 また、①②の両方を表現したものである可能性もある。
太陽の木 と 月の木⑦ クリスマスはミトラ教の冬至祭をとりいれたものだった。 ↑こちらの記事でクリスマスとはミトラ教の冬至祭をキリスト教がとりいれたものだと書いたが、注連縄掛神事は日本版冬至祭、日本版クリスマスといえるだろう。
太陽の木 と 月の木⑨ イチョウは一陽の木? へつづく~
TOPページはこちら 太陽の木 と 月の木① 太陽は赤色ではなく、黄色

太陽の木 と 月の木⑥ 三光門の黄色い円は星? よりつづきます~
①クリスマスはミトラ教の冬至祭をキリスト教がとりいれたもの。
クリスマスはイエス・キリストの誕生日だとされているが、聖書にはキリストの誕生日についての記述はない。 クリスマスは異教であるミトラ教の冬至祭を、キリスト教が取り入れたものだといわれている。 古代ローマ人が信仰していたミトラ教では、冬至から3日目の12月25日に冬至祭を行う習慣があったそうである。 その後、ローマではミトラ教は衰え、変わってキリスト教が信仰されるようになっていくが ミトラ教の冬至祭はキリスト教のキリスト生誕の日として受け継がれた。

②冬至は太陽の南中高度が最も低くなる日 冬至(12月22日ごろ)とは太陽の南中高度が最も低くなる日のことである。 https://keisan.casio.jp/exec/system/1185781259
上のサイトを使って太陽の南中高度を知ることができる。 
③歳差運動
地球の回転軸は、コマの回転軸がぶれるようにぶれており、これを歳差運動という。
地球の歳差運動の周期は約25800年で、この歳差運動の影響で北極星は変化する。 また、現在北半球では見ることのできない南十字星が過去には見えていたこともあるようである。 下の動画では、2000年前の本州では南十字星が見えていたといっている。
④古代ローマでは南十字星が見えていた。 現在、地中海沿岸あたりでは南十字星は見えないが、 地球の自転軸が約25800年の周期でコマが首を振るように回転している(歳差運動)ので、 古代ローマでは南十字星が見えていたという。
古代の地中海沿岸地方で観測される南十字星の南中高度は低かったはずである。 そして冬至のころの太陽は南中高度が低くなり、南十字星の高度に近づく。

⑤イエスは太陽神だった。
イエスは死後3日目に復活して生きながらにして昇天したとされる。
そしてイエスは太陽、イエスが磔になった十字架は南十字星、イエスが死後3日目に復活したのは冬至から3日目ごろより、太陽が再び上昇を始めることを比喩したものだとする説がある。 (実際には、太陽の南中高度は冬至から毎日少しづつあがりつづけるので、3日後から上昇をはじめるというのは、視覚的なものだろう。)
このように考えると、ミトラ教の冬至祭とクリスマスが結び付けられたことの理由が上手く説明できると思う。
太陽の木 と 月の木⑧ 天岩戸神話は冬至の衰えた太陽と、太陽の復活を表す? へつづく~
TOPページはこちら 太陽の木 と 月の木① 太陽は赤色ではなく、黄色
①星のない三光(日月星)門?
北野天満宮の三光門は、彫刻の中に日月星があるので、この名前で呼ばれていると説明されるが 星がないとの指摘がある。
これについて、次のようにも伝えられている。
「平安時代に天皇が大内裏(だいだいり、宮殿)から、その北方にある北野天満宮を拝んだ際、この三光門の真上に北極星が瞬いていたため、星を刻まなかった。」 と。
⓶彫刻のある位置
まず三光門の彫刻のある位置を確認しよう。
実は北野天満宮の三光門の写真を撮影したのはかなり昔で、どこに彫刻があったかよく覚えていない。 ↑ こちらの記事を参考にさせてもらって、位置を確認したのだが、もし間違いがあれば指摘してほしい。
南から四脚門の中に入り、振り返って門の上部を見ると、赤い丸の彫刻がある。↓
赤い丸の向かい側上部に黄色い丸の彫刻がある。↓
門を出て、振り返り、本殿に背を向けて三光門を見上げると上部に兎と三日月の彫刻がある。↓
③星は☆ではなく〇
上の記事には次のように記されている。
神職の松大路和弘さんに聞きました。
説明によりますと、三光門の別名は、立て札にあるように、月・月・星の彫刻に由来するとのことでした。雲間に浮かぶ月と見えた彫刻が実は星だったのです。現代の感覚では、ギザギザの星形を思い浮かべますが、丸く彫られた星を月と見誤ったようです。
福井市にある足羽神社の神紋は、日・月・星を丸で囲んだ「三光の紋」ですが、星は丸く表現されています。ただ、三光門にはもともと星の彫刻は無く、旧大極殿から真北に位置する中門の上空に輝く北極星を三光の星に見立てた、という言い伝えもあリ、「星欠け門」との別名もあるそうです。「新撰京都名所図会」(昭和三十六年初版)には星の彫刻を「日の入り」とする記述もあります。
上記記事より引用
つまり、赤い丸が太陽、黄色い丸が星で、三日月とあわせて日月星の三つの天体の彫刻が施されているということになる。
③本来、太陽は黄色で描かれていたが、赤で描くこともあった。
この絵が描かれたのがいつなのかわからないが、
上のサイトに掲載されている六道珍皇寺の熊野観心十界曼荼羅は江戸時代の作品とあり 遅くとも江戸時代には太陽を赤で描くことがあったことがわかる。
そして北野天満宮の三光門は、江戸時代初期の1607年(慶長12年)に豊臣秀頼によって建立されたものである。
よって、三光門にある赤い丸は太陽であるとも考えられる。
④陰陽道の宇宙観では、東が太陽の定位置、西が月の定位置、中央は星
また、陰陽道の宇宙観では、東が太陽の定位置、西が月の定位置、中央は星とするのだった。
三光門は南向きに建てられているので、この陰陽道の宇宙観とは90度ずれて、 南に太陽、北に月、中央を月とすることはありそうに思える。
⑤北極星は黄色
そして、天の北極は地球が歳差運動(コマがふれるように回転軸がぶれること。周期は26000年)をしているので、現在の北極星はポラリスだが、過去には異なる星が北極星であった時期もある。 しかし西暦500年以降はポラリスが天の北極に最も近く北極星とみなされている。
現在の北極星であるこぐま座のポラリスは、明るさ2等星の恒星です。 北極星の色合いは、少し黄色かかっていているように見えます。 スペクトル分析でも黄白色に分類されていますので、黄色っぽく見えるので間違いないでしょう。
とあるように、ポラリスの色は黄色なので、三光門の黄色い丸は北極星を表している可能性はある。
また高松塚古墳に描かれた星は金色(黄色)で描かれていた。
キトラ古墳に描かれた星も金色(黄色)である。
もしかすると、太陽も星も金色(黄色)ではややこしいので、太陽を赤で表現するようになったなんてことがあるかもしれない。
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①日本では星は☆ではなく〇であらわす。
下記は京都・城南宮の祭礼に用いる鉾である。 京都では祭礼の際に、このような鉾がよく用いられる。
鉾や旗にあしらわれている紋は城南宮の御神紋で「三光の紋」という。
日、月、星をデザインしたものだとされる。
現代人は、星をあらわすのは☆型だと思いがちだが、三光の紋に☆型はない。
古の日本では星は☆ではなく〇であらわしていたようである。
上は高松塚古墳石室に描かれた星だが、金色の丸で表現されている。 相撲でも黒星は●、白星は〇であらわす。
また、家紋などで●をもちいたものは星紋といった。
絢爛たる暗号の著者・織田正吉さんはヨーロッパでは空気が乾いているので星は☆にみえ、日本では空気が湿っているので〇にみえるのではないかとおっしゃっていた。
しかしこの織田正吉さんの意見は、申し訳ないが、間違っているかもしれない。
というのは、私には、星のほか、街灯やヘッドライト、信号など光るものは、全て輝線の入った☆型に見えるのだ。 もちろん住んでいるのは日本で、私は純粋な日本人である。 ところが、家族に聴いてみると、☆型には見えない。〇型に見えるという。
ネットでぐぐってみたが、そのような症状がおきる病は見つからなかったので、たぶん体質的なものではないかと思っている。
あるいは、私は強度の近眼なので、もしかしたらそれが影響しているのかもしれない。
⓶小さい丸が太陽で、大きな丸が星?
で、私たちは次のようなことを学んだ。
陰陽道の宇宙観では、東を太陽の定位置、西を月の定め位置、中央を星とすると 向きは正面が南なので、向かって右が東、向かって左が西となる。
「三光の紋」は向かって左に月があるので、これは陰陽道の宇宙観どおりである。 すると、向かって右の小さい方の丸が太陽で、大きな丸は星ではないかと思う。
星は小さいので、小さいほうの丸のほうが星だと考えがちだが、陰陽道の宇宙観で考えればそうなると思う。
上のサイトに土佐街道沿いの「街の駅城跡」に復元されたキトラ古墳壁画の写真がある。 この写真を見ると、向かって左上部に日、むかって右上部に月、天井部に星宿図(天文図)が描かれている。
「三光の紋」の大きな丸はこの星宿図を表現したものかもしれない。
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①太陽は黄色だけでなく、赤で描かれることもある。
において、私たちは、太陽の色は本来は黄色であることをしり、
において、高松塚古墳・キトラ古墳では太陽は金(黄色)、月は銀で描かれているのを見た。
ところが、日光菩薩・月光菩薩をヤフーで画像検索すると、日光菩薩は赤い丸を、月光菩薩は白っぽい色の三日月をもっている画像がたくさん見つかった。
たとえば
aは時代がわからない。bは最近描かれた作られたものだろう。
また、京都・西福寺で撮影させていただいた写真にこういう絵があった。
これはいわゆる地獄絵と呼ばれるものだと思うが、向かって右に赤い丸、向かって左に白い丸があり、それぞれ日・月を表すものだと思う。
残念ながら描かれた時代がわからないが
上記、東京国立博物館のブログに掲載されている 「熊野観心十界曼荼羅 江戸時代・17世紀 京都・六道珍皇寺蔵」にも向かって右に赤い丸、向かって左に白い丸が描かれている。 これも、それぞれ日・月を表していると思う。 少なくとも江戸時代には、太陽を黄色や金色ではなく、赤く描くこともあったということだと思う。
西福寺 熊野観心十界曼荼羅
熊野観心十界曼荼羅も画像検索してみたが、こちらは太陽は黄色、月はグレイで描かれていることが多いようである。
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高松塚古墳
①高松塚古墳・キトラ古墳は陰陽道の宇宙観にもとづいて日月星が描かれていた。
奈良県明日香村にある高松塚古墳の石室には、 飛鳥美人(女子群像)、官人(男子群像)、四神図(玄武・朱雀・青龍・白虎の聖獣を四神という。高松塚古墳壁画はこのうち朱雀がない。)・太陽・月・星宿図などが描かれている。
高松塚古墳壁画については、こちらのサイトがわかりやすい。
陰陽道では、東を太陽の定位置、西を月の定位置、中央を星とすることを知ったが、 高松塚古墳はこのとおりになっている。
すなわち、東壁上部に日像、西壁上部に月像、中央といえる天井部には星宿図が描かれている。
高松塚古墳の南1.5kmほどのところにキトラ古墳があるが、こちらには四神図、十二支像、太陽・月・天文図が描かれていた。
キトラ古墳については、こちらのサイトがわかりやすい。
やはり東壁上部に日像、西壁上部に月像が描かれている。
高松塚古墳・キトラ古墳は陰陽道の宇宙観に基づいて日月星を描いていたのだ。
高松塚古墳 光の地上絵(石室壁画の女子群像を表現したもの)
⓶高松塚古墳・キトラ古墳の太陽は金、月は銀
太陽の温度は5000~6000kで黄色い天体であることを学んだが
上記サイトをみると、高松塚古墳の日像は金、月像は銀で描かれているのを確認できる。
↑ こちらのサイトには 土佐街道沿いにあるキトラ古墳復元石室の写真があり、これをみるとキトラ古墳はやはり日像は金、月像は銀で描かれている。
金色は黄色といってよいだろう。
現代の日本人の多くは太陽といえば赤色という固定観念に縛られて、正しい太陽の色を認識できていないが 古代人は太陽の色を正しく黄色であると認識していたのだ。
へつづく~
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薬師寺
よりつづく~
①薬師三尊像は陰陽道の宇宙観をあらわす。
奈良・薬師寺のご本尊は薬師三尊像である。 薬師三尊像とは、中央に薬師如来、薬師如来の左手(向かって右)に日光菩薩を、薬師如来の右手(向かって左)に月光菩薩を配置したもののことである。
薬師寺 薬師三尊像
薬師三尊像は、陰陽道の宇宙観を表していると思う。
陰陽道の宇宙観では東を太陽の定位置、西を月の定位置、中央を星とする。
薬師三尊像は、南をむくように置かれているので、中尊の薬師如来の左が東、右が西となり 薬師如来の左には日光菩薩、右には月光菩薩が置かれているので、陰陽道の宇宙観と一致する。 すると、薬師如来は星を神格化した神だと考えられる。
⓶イザナギの顔は宇宙、スサノオは星の神
記紀には次のような記述がある。
イザナミの左目から天照大神が、右目から月読命が、鼻からスサノオが生まれた。
この記述も、陰陽道の宇宙観を表していると思う。
東・・・・太陽の定位置・・・・日光菩薩・・・天照大神 西・・・・月の定位置・・・・・月光菩薩・・・月読命 中央・・・星・・・・・・・・・薬師如来・・・スサノオ
すると、イザナミの顔は宇宙、イザナミの顔の中心にある鼻からうまれたスサノオは星の神ということになるが
船場俊昭さんは次のようにおっしゃている。
スサノオを漢字で書くと素戔鳴尊となるが、これは輝ける(素)ものを失って(戔)ああ(鳴)と嘆き悲しむ神(尊)という意味で、スサノオはもともとは星の神だったのが、のちに星の神という神格を奪われたのてはないかと。
薬師寺花会式
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