「中国ではなく支那とよぶべきだ」という意見がネット上などに一定数ある。
これについて、調べたことをまとめて書いてみる。
①中華民国は外交文書に「支那共和国」と記されることに反発した。
上記、ウィキ「中華思想」-中華民国 にこんな内容が書かれていた。
・章炳麟、孫文、梁啓超ら清朝を倒し、1912年に中華民国を建国し、「中華」を正式な国名とした。
・日本の駐清大使伊集院彦吉は、立憲君主制国家の成立を目指していたため共和政体に不満があった。
そのため本国内において「中華民国」の国号を用いず、欧米の「China」の用法にしたがって「支那共和国」と呼称するように具申した。
・これは閣議決定によって承認され、日本側は外交文書に「支那共和国」の国号を用い、中華民国政府側はこれに反発した。
支那という言葉は差別用語ではなく、それまで中国では自分達を支那と呼んででいたのかもしれないが(調査不足すいません)、
1912年以降、「自分達は支那ではなく中華民国である」という意識がめばえた。
にも拘わらず、「日本は外交文書に「支那共和国」と書いている、けしからん。」となったのだと思う。
⓶漢字を用いてきた国は「シナ」ではなく「中国」からくる国名を用いている。
英語「チャイナ」ドイツ語「ヒーナ」オランダ語「シーナ」もシナが変化したものだ。
なぜ日本が「シナ」といってはいけないのか、という意見がある。
たしかにほとんどの国がシナに基づく呼び方をしている。、
しかし朝鮮語の「チュングク」とベトナム語の「トゥルンコック」は「中国」からくる呼称である。
これについて、朝鮮やベトナムは中国の属国だから、という意見があるようである。
日本は聖徳太子の時代から、中国と対等にわたりあってきた国なので、中国と呼んではいけないというのだ。
しかし私は朝鮮やベトナムが中国に基づいた呼称を用いているのは、属国だからではなく、
漢字を使っていた国だからではないかと思う。
漢字文化圏は中国大陸、台湾、ベトナム、朝鮮半島、日本列島である。
韓国では1970年に漢字が廃止されてハングルを使うようになった。
ベトナムでは17世紀にフランスのカトリック宣教師、アレクサンドル・ドゥ・ロードがベトナム語のローマ字転写法を考案し、
これが19世紀後半のフランス植民地化以降「クオック・グー(国語)」と呼ばれるようになって普及して次第に漢字は使われなくなった。
1945年のベトナム民主共和国成立後、北部では漢字教育が行われなくなったが
南ベトナムでは1975年まで中等教育に「漢文科」があった。
韓国・・・1970年まで漢字を用いていた。
ベトナム・・・1975年まで中等教育に「漢文科」があった。
つまり、中華民国ができた1912年、韓国・ベトナムにおいても漢字が用いられていたのである。
モンゴルはモンゴル文字、ペルシャはペルシャ文字を使っている。
漢字を使わない国は、それまでの呼称であるチャイナなどで構わないが、漢字を使う国なのに
外交文書に「中華民国」ではなく「支那共和国」と記されて、気分を害する気持ちは分かるように思う。
③中国が外交文書に日本ではない言葉を用いても構わない?
上記記事によると、中国では日本(Rìběn)と呼び、日本国(Rì běn guó)からジパングという言葉ができたとある。
また、11区(11區/Shíyī qū)、泥轰(泥轟/Ní hōng)、霓虹(Ní hóng)岛国(島國)などの語もあると記されているが、これは呼称だろう。
外交文書には「日本」が用いられていると思う。(未確認)
※「泥轟」の「泥爆弾」、「霓虹」の「にじ」に、特に蔑視の意味はなく、「ニホン」という音写から来た表現、だと説明があるが、泥轟(泥爆弾)という漢字表記には若干嫌みがあるかもしれないw
「シナと呼ぶべき」とする人々は「差別語や侮蔑しているわけではない。相手をどう呼ぶかは呼ぶ側が決めること。」
と主張しているようである。
この理屈でいえば、外交文書に日本ではないちがう名前、たとえばジャパンに漢字の音を当てたものなどを書かれても
日本は文句を言ってはいけないということになる。
しかし、そんなことをされると大勢の日本人が不快感をもつだろう。
④中国において「中国」という言葉は紀元前より用いられていた。
「シナと呼ぶべき」という人々は、日本の地方名である中国の歴史は古く1000年前から使っている。
一方日本でシナを中国と呼ぶようになったのは戦後だと主張している。
古には「もろこし」「から」と呼んでいた、というのだ。(未確認)
上記記事によれば、中国において「中国」という言葉は紀元前(西周時代)すでに史書に現れていたとあり
次のような用例が示されている。
皇天既付中國民越厥疆土于先王(皇天既に中國民と厥疆の土地を先の王に付す)
民亦勞止 汔可小康 惠此中國 以綏四方 (この中国に恵あれ、四方安らかに)
また、次の様にも記されている。
しだいに中国という言葉は中華思想に基づく「文化的優越性を持った世界の中心」という意味をもつようになると。
秦始皇は中国を防衛のため長城に建てた。
いにしえより中国には何百もの山と原があり。など。
そして、唐王朝に入ると「現在中国本土と呼ばれる領域が「中国」と認識されるようになったとある。
⑤「中国4000年の歴史」はマスコミによる歴史の捏造ではない。
最近できたばかりの国なのに、「中国4000年の歴史」といってマスコミが歴史を捏造している、という意見もあったが
中国はもともと国名ではなく地域をさす名前であり、黄河文明の始まりは(文明といえるかどうか微妙だが)
紀元前7000年にさかのぼり、殷の成立は紀元前17世紀ごろとされるので「中国4000年の歴史」というのは捏造とはいえない。
⑤中華という言葉は「華夏文化の優越性」というニュアンスを含む。
上記によれば
中華(ちゅうか)あるいは華夏(かか)という用語は、「優れた文化を持つ者」を意味し、漢民族の間で「中国」と同様の自称とある。
また、この言葉は、「中心の国に住む優れた文化の担い手」という意味で、「華夏文化の優越性」というニュアンスを含んでいたと説明がある。
中華思想に基づき、古代日本を倭、卑弥呼などのよくない意味の漢字を当てて呼んでいたこともある。
つまり、支那は差別語ではないが、
中華民国・中国などの国名は、「他国に勝る国」というニュアンスを含み、
周辺国を蔑視する言葉で、差別語といえるかもしれない。
なので、中華民国という国名によい印象を持たない日本人が多いということは理解できる。
上記にも次のように記されている。
・伊集院彦吉が「支那共和国」と呼称するように具申した意図は、
「中華民国と呼べば世界の中心の国として認めることとなり、日本をその付属国としてしまう」
というものであったと分析されている。
・1930年ごろ、日本国内において中華民国という国号を呼ぶ動きには反対が多く見られた。
・しかし幣原喜重郎外相は中国国民の感情などにも配慮し、外交文書上での正式国号は中華民国と呼ぶ方針を決定し、
軟弱外交として批判された。
⑥なぜ民国ではなく中国としたのか?
上記記事によれば、昭和21年(1946年)、外務省は、東京都内の主要マスコミに対して次のような通達を出したとある。
中華民國の國名として支那といふ文字を使ふことは過去に於ては普通行はれて居たのであるが
其の後之を改められ中國等の語が使はれてゐる處
支那といふ文字は中華民國として極度に嫌ふものであり,現に終戰後同國代表者が公式非公式に此の字の使用をやめて貰ひ度いとの要求があつたので、
今後は理屈を拔きにして先方の嫌がる文字を使はぬ樣にしたいと考え念のため貴意を得る次第です。
要するに支那の文字を使はなければよいのですから用辭例としては
中華民國、中國、民國。
中華民國人、中國人、民國人、華人。
日華、米華、中蘇、英華
などのいづれを用ひるも差支なく
唯歴史的地理的又は學術的の敍述などの場合は必しも右に據り得ない
例へば東支那海とか日支事變とか云ふことはやむを得ぬと考へます
中華民国のことを中国でも民国でもよいとしているが、なぜ中国という表現を用いるようになっただろうか。
そのあたりのこともわかれば、追記を入れる。
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石山寺
①平安時代の男性は漢字で、記録文書を書くことしかできなかった?
こんなことを言う人がいる。
「平安時代の男性は漢字しか使えなかった。また記録文書を書くことしかできなかった。」
これは本当だろうか?
⓶平安時代の男性が記録文書しか書けなかったというのは間違い。
ちょっと調べればわかることだが、平安時代の男性が記録文書しか書けなかったというのは間違いである。
下記に平安時代の文学作品と作者をあげておく。
作品名 | 作者 | 作者性別 | 成立年 | ジャンル |
日本霊異記 | 景戒 | 男 | 822年頃 | 説話集 |
竹取物語 | 紀貫之? | 男? | 平安時代初期 | 物語 |
伊勢物語 | 紀貫之? | 男? | 平安時代初期 | 歌物語 |
土佐日記 | 紀貫之 | 男 | 935年 | 日記 |
平中物語 | ? | ? | 959-965年頃 | 歌物語 |
蜻蛉日記 | 藤原道綱母 | 女 | 975年 | 日記 |
御堂関白記 | 藤原道長 | 男 | 998~1021年 | 日記 |
落窪物語 | ? | ? | 10世紀末頃 | 物語 |
枕草子 | 清少納言 | 女 | 1001年 | 随筆 |
源氏物語 | 紫式部 | 女 | 1008年 | 物語 |
江談抄 | 大江匡房の談話を藤原実兼が記録 | 男 | 1104~1108年 | 有職故実・故事・説話 |
台記 | 藤原頼長 | 男 | 1136~1155年 | 日記 |
無名草子 | 藤原俊成女? | 女 | 1196~1202年 | 物語・歌集・女流作家などの批評 |
唐物語 | 藤原成範 | 男 | 12世紀後半 | 説話集 |
紫式部日記 | 紫式部 | 女 | 平安時代中期 | 日記 |
和泉式部日記 | 和泉式部 | 女 | 平安時代中期 | 日記 |
狭衣物語 | ばい子 (ばいし) 内親王 | 女 | 平安時代中期 | 物語 |
宇津保物語 | 源順? | 男? | 平安時代中期 | 物語 |
大和物語 | 在原滋春?花山院?伊勢? | ? | 平安時代中期 | 物語 |
更科日記 | 菅原孝標女 | 女 | 平安時代中期 | 日記 |
多武峰少将物語 | 藤原高光? | 男? | 平安時代中期 | 日記文学 |
とりかへばや物語 | ? | ? | 平安時代後期 | 物語 |
夜の寝覚 | 菅原孝標女? | 女? | 平安時代後期 | 物語 |
浜松中納言物語 | 菅原孝標女? | 女? | 平安時代後期 | 物語 |
讃岐典侍日記 | 讃岐典侍藤原長子 | 女 | 平安時代後期 | 日記 |
栄花物語 | 赤染衛門?出羽弁?周防内侍?など複数の女性 | 女 | 平安時代後期 | 歴史物語 |
陸奥話記 | 藤原明衡? | 男? | 平安時代後期 | 軍記物語 |
大鏡 | 源顕房? | 男? | 平安時代後期 | 歴史物語 |
今昔物語集 | 不明 | ? | 平安時代末期 | 説話集 |
今鏡 | 藤原為経(寂超) | 男 | 平安時代末期 | 歴史物語 |
宝物集 | 平康頼 | 男 | 平安時代末期 | 仏教説話集 |
しのびね | ? | ? | 平安時代末期 | 物語 |
堤中納言物語 | ? | ? | 平安時代後期以降 | 短編物語集 |
古本説話集 | ? | ? | 平安末期から鎌倉初期 | 説話集 |
※竹取物語(10世紀半ば?)『源氏物語』に「絵は巨勢相覧、手は紀貫之♂書けり」と書かれているそうです。
京都御所
③平安時代、男性もひらがなを使っていた。
平安時代、男性は漢字しか使わなかったというのは、漢字のことを『男手』、ひらがなのことを『女手』といったりすることから勘違いされているのではないかと思う。
紀貫之は女と偽って仮名で『土佐日記」を書いている。
紀貫之は女と偽るために女性が使う仮名を用いたのではないかと思われるかもしれないが
藤原道長も仮名で日記を書いている。
さらに平安時代、男性が仮名を使っていたと考えられる理由として、古今和歌集の存在がある。
905年に成立した古今和歌集の序文・仮名序は、紀貫之が書いたといわれているが、仮名で書かれている。
上記に次のように記されている。
❶『『古今和歌集』の謎を解く』(2000年 講談社)87ページ
「『古今集』も写本による以外に接することができないが、先にあげた『土佐日記』…(中略)…このことから『古今集』の歌はすべて平仮名で書かれていたであろうと推定することができる。」
89ページに「『古今集』は、こうして整理統合された日本語の音韻を、生まれたばかりの表音文字〈かな〉によって表記した最初の歌集なのである。」とある。
❷『みそひと文字の抒情詩 古今和歌集の和歌表現を解きほぐす』(2012年新装版 笠間書院)
「平安初期に仮名の体系が形成され、短歌は三十一個の音節ではなく、三十一個の仮名連鎖として作られるようになった。…(中略)上代の短歌から新しく生まれ変わった、三十一個の仮名連鎖としての和歌を集めた最初の勅撰集が『古今和歌集』である。」とある。
❸『図説かなの成り立ち事典』(2006年 教育出版)152ページ(下段)
「延喜五年〈九〇五〉には初の勅撰和歌集である『古今和歌集』が撰進されるに至りました。
和歌を記す仮名、つまり女手が確固たる地位を占めるようになっていたからこそ、であり、こうした和歌の隆盛が、ますます女手の発達を促しました。」とある。
❹『日本語の世界5 仮名』(1981年 中央公論社)166ページ
「延喜五年(九〇五)勅によって『古今和歌集』の撰進が行われた。これは、日本語の文字の歴史の上で、極めて大きな意味を持っている。
それは平仮名文という文体が、私的な世界から公的な世界へ躍り出たという、画期的な出来事であり、その後の仮名文学発展の素地を形成したものであった。」とある。
当時、公的記録には漢字を用い、漢文の形で記していたのだろう。
続日本後紀 (833年~850年)
日本文徳天皇実録(850年~858年)
日本三代実録 (858年8月~887年)
は全て漢文で記されている。
しかし漢文で漢詩は読まれているが、漢文で和歌を詠むのはむつかしいだろう。
和歌を詠む場合、万葉集では万葉仮名が用いられている。
しかし平安時代にはひらがなが成立しており、紀貫之が序文として仮名序を書いているところから、
和歌はひらがなを用いて詠まれているのではないかと思われる。
そして古今和歌集には女性歌人の歌もあるが、多くの男性歌人の歌が収録されている。
平安時代の男性はかなを使っていたと考えられるだろう。
京都御所
④平仮名は漢字を使いこなせる男性が作った。
上記サイトに次のような内容が記されている。
❶江戸時代まで空海が作ったと信じられていたが、ありえない。
空海がいろは歌を作ったという俗説もあるが、いろは歌ができたのは11世紀なのでこれもありえない。
いろは歌は仏教の無常観を詠ったものなので、空海と結び付けられた。
さらにいろは歌は子供が平仮名を使う際の手本として使われたため、いろは歌や平仮名も空海が作ったといわれるようになった。
❷片仮名は江戸時代まで,吉備真備が作ったといわれていた。
❸初期の平仮名の資料で,明らかに女性が書いた,という証拠があるものは一つもない。
❹初期の平仮名の資料には,男性が書いたことが明らかなものが存在する。
・「有年申文(ありとしもうしぶ)み」・・・讃岐介のた藤原有年という男性が,貞観9(867)年に書いた。
・「円珍病中言上状」・・・円珍(814年生~891年没)が書いた。
❺平安時代の平仮名の多くは、書いた年月日を記さない。署名がない。
私的なやりとりなどに使われたのではないか。
❻藤原良相邸跡より平仮名を記した土器が発見された。
❼平仮名を作ったのは,個人ではなく,平安時代9世紀中頃の都にいた漢字が使いこなせる男性たちだと考えられる。
❽平仮名の誕生以前,万葉仮名の時代にも,私的な手紙(正倉院文書の中の万葉仮名文書)や土器の落書き(飛鳥京跡苑池遺構出土の刻書土器)がある。
そうしたものがやがて平仮名に変わっていったと考えられる。
❾平仮名に女性のイメージが付いたのは,平仮名が文字として成熟してからのち,女性文学が発達したためだろう。
平仮名が作られた当初から、多くの男性がひらがなを使い、徐々に女性も使うようになったということだと思う。
⑤紀貫之は平仮名を使うのが恥ずかしいから女と偽ったのではない。
こういう意見があった。
紀貫之は平仮名を使うのが恥ずかしいから女と偽って土佐物語を書いたのだ。
ということは当時男が平仮名を使うのは恥ずかしいという風潮があったのではないか。と。
紀貫之が土佐物語を書いたのは935年、古今和歌集が成立したのは905年で土佐物語よりも30年も早い。
その古今和歌集で紀貫之は古今和歌集仮名序を漢字仮名交じり文で書いている。
また、その古今和歌集の和歌も漢字仮名交じりで記されていたと考えられ、男性は普通に平仮名を使っていたと考えられる。
それではなぜ紀貫之は女と偽って土佐日記を書いたのか。
実は古今和歌集には男性歌人が女の身になって詠んだ歌というのがたくさんあるのだ。
当時、女のふりをして文章を書くのが流行っていたのだろう。
⑥女性は漢字を使うのを憚っていた。
男性は漢字とひらがなと両方使っていたのではないかと思う。
記録文書・・・・漢字
和歌その他・・・ひらがな
しかし女性は漢字を使うのを憚っていたのではないかと思う。
女性は公文書の記録をするような仕事はしていなかっただろう。
また当時、漢字は使う女性は「知性をひけらかす」と考えられていたそうで
紫式部は一の字も書けないぶりをしていたそうである。
そして紫式部は清少納言のことを
「漢字を書き散らして偉そうにしている。」と日記の中で悪口を言っている。
平安時代に女性が漢詩を詠んだというのも聞いたことがない。(あったら教えてくださいね)