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惟喬親王の乱㊷『天つ風~は藤原高子入内を妨害する歌?』


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惟喬親王の乱① 東向観音寺 『本地垂迹説』  
惟喬親王の乱㊶『身投げした姥の正体とは?』  よりつづきます~


「小野小町は男だった」もよかったらよんでみてね。

①六歌仙は古今和歌集仮名序で名前をあげられた六人の歌人

惟喬親王の乱 ⑳璉珹寺 茉莉花 『女人裸形の阿弥陀如来は小野小町のイメージ?』  
↑ こちらの記事で六歌仙について記した。
思わずこのシリーズは長くなり、今回で42回、上の記事を書いてからもう3か月近くがたってしまった。

もう一度、六歌仙についておさらいをしておこう。

紀貫之が書いたといわれる古今和歌集仮名序の中で名前をあげられた六人の歌人、僧正遍照・在原業平・喜撰法師・文屋康秀・小野小町・大友黒主のことを六歌仙という。

ただし、古今和歌集仮名序の中で「六歌仙」という言葉は用いられておらず、後の世になってこの6人の歌人のことを「六歌仙」と呼ぶようになったと考えられている。

八坂神社 かるた始め 

八坂神社 かるた始め

⓶喜撰法師は紀名虎または紀有常?

六歌仙のひとり、喜撰法師とは紀仙法師であり、紀名虎またはその子の紀有常のことではないかとする説がある。

紀名虎の娘(紀有常の妹)の紀静子は文徳天皇に入内して惟喬親王を産んだ。
文徳天皇は惟喬親王を皇太子にしたいと考えていたのだが、藤原良房の娘の藤原明子が産んだ惟仁親王(のちの清和天皇)が皇太子になった。

平家物語などに紀名虎と藤原良房が、いずれの孫を立太子させるかでもめ、相撲や高僧の祈祷合戦などのバトルを繰り広げた結果、藤原良房が勝利したと記されている。

これは史実ではない。
というのは、惟仁親王が生まれたときすでに紀名虎はなくなっていたからだ。
しかし、紀氏と藤原氏に確執があったことは確かだろう。

③六歌仙は怨霊だった?

高田祟史さんは六歌仙とは怨霊であるとおっしゃっている。
なるほどそういわれると、その通りかもしれないと思う。

怨霊とは政治的陰謀によって不幸な死を迎えた者のことであり、天災や疫病の流行は怨霊の仕業で引き起こされると考えられていた。
そして六歌仙は全員藤原氏と敵対関係にあった人物なのだ。

遍照は桓武天皇の孫だが、父の良岑安世が臣籍降下した。遍照は俗名を良岑宗貞といった。
彼は藤原良房にすすめられて出家したというが、出家の理由を誰にも話さなかったという。

在原業平は惟喬親王の寵臣だった。
惟喬親王は文徳天皇と紀静子(紀名虎の娘)の間に生まれた長子で、文徳天皇は惟喬親王を皇太子にしたいと考えていた。
しかし、文徳天皇には藤原明子(藤原良房の娘)との間に惟仁親王もあり、惟仁親王のほうが皇太子となった。(のちの清和天皇)
惟喬親王の寵臣である業平を藤原良房がいいように思うはずがなく、業平はなかなか昇進することができなかった。
また業平は紀静子(惟喬親王の母)の兄・紀有常の娘を妻としていて藤原氏と敵対していた紀氏側の人間だった。

大友黒主は大伴黒主と記されることもあり、私は大伴家持と同一人物だと考えている。
私流 トンデモ百人一首 6番 …『大伴家持、白い神から黒い神に転じる?』 
大伴家持は藤原種次暗殺事件の首謀者とされ、当事すでに亡くなっていたのだが、死体が掘り出されて流罪となった。

文屋康秀の文屋は分室と記されることもあり、文室宮田麻呂の子孫かもしれない。
文室宮田麻呂は謀反を企てたとして流罪となったが、死後無罪であることがわかって863年、神泉苑の御霊会で慰霊されている。

小野小町について、私は小野宮と呼ばれた惟喬親王のことだと考えている。
これについては詳しく「小野小町は男だった」のシリーズで述べたが、簡単にまとめておく。
a古今和歌集には男が女の身になって詠んだ歌が多数ある。
b古今和歌集仮名序はやけに小町が女であることを強調しているが、これは小町が男だからではないか。
c.小野小町は穴のない体で性的に不能であったともいわれているが、穴がない体なのは小町が男だからではないか。
d『古今和歌集』に登場する女性歌人に三国町、三条町、がいる。
三国町は一般には継体天皇の母系氏族・三国氏出身の女性だと考えられているが、
 『古今和歌集目録』は三国町を紀名虎の娘で仁明天皇の更衣としている。
  紀名虎の娘で仁明天皇の更衣とは紀種子のことである。
  また三条町は紀名虎の娘で文徳天皇の更衣だった紀静子のことである。
  三国町が紀種子とすれば、三条町=紀静子なので、三国町と三条町は姉妹だということになる。
  そして紀静子は惟喬親王の母親だった。。
  惟喬親王は三国町の甥であり、三条町の息子なので、三国町・三条町とは一代世代が若くなる。
  そういうことで小町なのではないだろうか。
e花のいろは うつりにけりな いたづらに わがみよにふる ながめせしまに
この歌は縁語や掛詞を用いて二重の意味をもたせた技巧的な歌だとされる。
①花の色はすっかり褪せてしまったなあ。春の長い雨のせいで。
②私の容色はすっかり衰えてしまったなあ。恋の物思いにふけっている間に。
※『色』・・・『視覚的な色(英語のColor)』『容色』
※『世』・・・『世の中』と『男女関係』
※『ながめ』・・・『物思いにふける』『長雨』
しかし、もうひとつ違う意味が隠されているように思える。
③はねずの梅の鮮やかな色はあせ、(「はねず」は移るの掛詞なので、花ははねずの梅ととる)私の御代に(「わが御代に 下(ふ)る」とよむ。)長い天下(「ながめ」→「長雨」→「長天」と変化する。さらに「下(ふ)る」を合わせて「天下」という言葉を導く)がやってきたようだ。

④惟喬親王のクーデター計画?


世継ぎ争いに敗れた惟喬親王はたびたび歌会を開いているが、その歌会のメンバーに遍照・在原業平・紀有常らの名前がある。

紀有常=喜撰法師とすると、六歌仙(遍照喜撰法師在原業平・文屋康秀・小野小町・大友黒主)のうち3人までが惟喬親王の歌会メンバーだったことになる。
彼らは歌会と称して惟喬親王を担ぎ上げてクーデターを企てていたのではないかという説がある。

大友黒主とは大伴家持のことだと私は考えているので、すると彼は六歌仙の他の歌人とは時代がちがってくる。
(家持は奈良時代の人物。他の歌人は平安時代で、同時代に生きている。)

文屋康秀については、小野小町を「一緒に三河にいきませんか」と誘ったとする詞書があり、
小野小町=惟喬親王とすれば、彼もまたクーデターに参加していたのではないかとも考えられる。

そして大阪府東大阪市にある千手寺の寺伝では「惟喬親王の乱によって堂宇は灰燼に帰した」と伝えているのだった。

惟喬親王の乱㊵ 千手寺 『惟喬親王の乱と在原業平腰掛石』 

千手寺

千手院

⑤和歌は呪術だった?

また、高田祟史さんは和歌とは文学ではなく呪術であったとして、次のような例をあげておられた。

桜花 散りかひくもれ 老いらくの 来むといふなる 道まがふがに
(桜花よ、散り乱れて空を曇らせておくれ。老いというものがやってくるという道が花びらでまぎれて見分けられなくなるように。)


業平は五七五七七の初句に「かきつばた」を読み込んだ歌を詠んでいる。

唐衣 着つつなれにし つましあれば はるばる来ぬる 旅をしぞ思ふ
(何度もきて身になじんだ唐衣のように、慣れ親しんだ妻を都に置いてきたので はるばる遠いところまで やってきた旅を しみじみと思う)


らころも つつなれにし ましあれば るばるきぬる  びをしぞおもふ

上の歌の五七五七七の初句をつなげると「かきつはた」となる。

花 りかひくもれ いらくの むといふなる まがふがに

上の歌も、「かきつばた」の手法が用いられていると高田祟史氏は主張する。
五七五七七の初句をつなげると「桜散老来道」となる。
「桜散老来道」は漢語であり、読み下すと「桜散り老い来る道」となり、業平が藤原基経を呪った歌だというのだ。

⑥世の中に藤原氏がいなければ、春の心がこんなにイライラすることはなかっただろうに

高田祟史さんの説を受けて、私は渚の院の歌を次のように解釈してみた。

世の中に たえて桜の なかりせば  春の心は のどけからまし
(世の中に 桜というものがなかったならば、春の心は もっとのんびりしていただろうに)


また他の人の歌、
散ればこそ いとど桜は めでたけれ 憂き世になに か久しかるべき
(散るからこそ桜はすばらしいのだ。悩み多き世の中に、変わらないものなどあるだろうか。) 


この二首は藤原良房が詠んだ次の歌を受けたものだと思う。

染殿の后のおまへに花瓶(に桜の花をささせたまへるを見てよめる
年ふれば 
()は老いぬ しかはあれど 花をし見れば 物思ひもなし/藤原良房
(年を経たので、齢は老いた。そうではあるが、美しい桜の花をみれば物思いにふけることもない)

染殿の后とは藤原良房の娘、明子のことである。

世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし/在原業平

この歌に詠まれた、桜とは藤原氏のことで
「世の中に藤原氏がいなければ、春の心がこんなにイライラすることはなかっただろうに。」という意味ではないだろうか。

渚の院 淡墨桜 
渚の院 淡墨桜(惟喬親王の歌会はここで行われた)

⑦乙女の姿しばしとどめむ


ようやく本題であるw。
歌会メンバーのひとり、僧正遍照の歌についてみてみよう。

天つ風  雲の通ひ路  吹きとぢよ 乙女の姿 しばしとどめむ/僧正遍照
(天の風よ、吹いて雲のすきまを閉じてしまっておくれ。乙女の姿をもう少し見ていたいから。)

この歌は詞書に「五節の舞姫をみてよめる」とありる。

大嘗祭や新嘗祭に行われる、4,5人の舞姫による舞を五節舞という。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E7%AF%80%E8%88%9E#/media/File:Gosechi_no_Mai-Hime_Shozoku.JPG(ウィキペディア 五節舞姫装束)

遍照は宮中を天上になぞらえ、そのため宮中に吹く風を「天つかぜ」と表現したと解釈されている。

僧侶がこんな好色な歌詠んでいいのか、と思っていたが(笑)、古今和歌集では作者は「よしみねのむねさだ(遍照の在俗時の名前)となっており、遍照が出家する以前に詠んだ歌だと一般には考えられている。



動画お借りしました。動画主さん、ありがとうございます。

⑦藤原高子、五節舞姫となる。

さて惟喬親王との世継ぎ争いに勝利した惟仁親王は859年に即位して清和天皇となったのであるが
この際の大嘗祭で、藤原良房の養女・藤原高子が五節舞姫をつとめている。
そして866年に藤原高子は清和天皇に入内して女御となった。

高子が清和天皇に入内したことで藤原良房はますます権力を高めていった。
藤原良房にとって高子は、天皇家と結びつきを強めるための大切な存在であった。

⑧「天つかぜ~」は高子入内を妨害する呪いの歌だった?

すると、僧正遍照が 
天つかぜ 雲の通ひ路 吹きとぢよ をとめの姿 しばしとどめむ
と歌を詠んだ真意が見えてくるような気がする。

この歌にある「をとめ」とは859年の清和天皇即位に伴う大嘗祭で五節舞姫をつとめた藤原高子のことではないだろうか。
遍照は宮中を天上になぞらえてこの歌を詠んだとされていることを思い出してほしい。
遍照は「風よ、高子を天上(宮中)に入れないでくれ。清和天皇に入内させないでくれ」という意味で、この歌を詠んだのではないだろうか。

古今和歌集ではこの歌の作者名は「よしみねのむねさだ」と遍照が在俗時の名前になっているので、出家する前に詠んだ歌だと考えられている。
遍照が出家したのは849年、高子が五節舞姫を務めたのが859年なので、遍照が詠んだ五節舞を舞う乙女とは高子のことではない、と思われる方もいるかもしれない。

遍照出家後に詠んだ歌ではあるが、「高子を入内させないでくれ」というとんでもない内容の歌なので、
呪ったことがばれないように、あえて在俗時の名前で掲載されたという可能性もあると思う。

今は人を呪っても罪にはならないが、古には権力者を呪うことは罪として罰せられたのである。

あるいは「僧侶が好色な歌を詠むとはいかがなものか」との批判を避ける目的があったのかもしれない。

京都御所 平安装束の女性たち  
京都御所。(八坂神社 かるた始めに登場したかるた姫さんたちを合成)

 




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惟喬親王の乱㊸ 『業平はなぜ高子と駆け落ちをしたのか』 につづきます~


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惟喬親王の乱㊶『身投げした姥の正体とは?』


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惟喬親王の乱㊵ 千手寺 『惟喬親王の乱と在原業平腰掛石』  よりつづきます~


「小野小町は男だった」もよかったらよんでみてね。

①注連縄掛神事(お笑い神事)『天岩戸神話と冬至』

12月25日はクリスマスだが、この日、 枚岡神社では注連縄(しめなわ)掛神事(お笑い神事)が行われる。
白装束の氏子さんたちが藁で新しい注連縄を作り、古い注連縄を外して新しい注連縄につけかえるのだ。

枚岡神社 注連縄掛神事 

新しい注連縄につけかえたあと、神職さん、巫女さん、氏子さん、一般の参拝者の方々も注連縄の前に並び、一斉に「わっはっはー」と笑う。
それだけ。シンプルな神事である。

枚岡神社 お笑い神事 

次のような神話がある。

天照大神が天岩戸にこもったとき、アメノウズメがストリップダンスをし、それを見ていた神々が笑った。
天照大神はその笑い声を聞いて「何を笑っているんだろう」と思い、少し天岩戸をあけたところを引っ張り出され、再び世の中に太陽の光がさすようになった。


「お笑い神事」はこれを表したものといわれている。

上の神話が何を表しているのかについて、二つの説がある。

①日食をあらわしているという説。
②冬至になって勢いが衰えた太陽をあらわしているという説。

「お笑い神事」はもともとは冬至の日におこなっていたそうなので、天照大神が天岩戸にこもったという神話は、⓶の「冬至になって勢いが衰えた太陽をあらわしている」ではないかと思える。

⓶池の中に浮かぶ神社

枚岡神社のご本殿の玉垣から中をのぞいてみると、そこは池になっており、鯉が泳いでいた。
そして池の向こう側に4つの本殿が並んでいる。
つまり、拝殿があり、池を挟んで本殿が並ぶという配置になっているのだ。
本殿前に池があるというのは珍しくないだろうか。
少なくとも、私は本殿前に池がある神社はここ枚岡神社しか知らない。

http://hiraoka-jinja.org/grounds-of-a-shrine/
上記、枚岡神社のhpには照沢池と書いてある。

枚岡神社 照沢池

 
水辺や池の中にある島に祀られることが多いのは、弁財天という女神である。

枚岡神社の御祭神は天児屋根命・比売御神・経津主命・武甕槌命で、一般には比売御神は女神、比売御神以外は男神だと考えられている。

そうではあるが、枚岡神社の神は女神のイメージが強い神であるような印象をうける。

枚岡神社 照沢池とご本殿

③姥ヶ火

ここ枚岡神社を舞台とした怪談がある。

600年前ごろ、枚岡神社の御神燈の油が盗まれるという事件が相次ぎ、生活に困った老婆が油を盗んで売っていたことが発覚した。
老婆は気の毒だとして許されたが、人の噂にいたたまれなくなり池に身投げした。、
その後、雨の夜になると池のあたりに青白い炎があらわれるようになった。(枚岡神社 姥ヶ池 説明版より)

あるとき、河内に住んでいる者が夜道を歩いていたところ、直径30㎝ほどの火の玉が顔に当たった。
よく見ると鶏のような形をしていたが、やがて火の玉に戻った。(諸国里人談)


Saikaku shokoku banashi Ubagabi

井原西鶴『西鶴諸国ばなし』より「身を捨て油壷」

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/7e/Saikaku_shokoku_banashi_Ubagabi.jpg よりお借りしました。
Ihara Saikaku (井原西鶴, Japansese, *1642, †1693), Public domain, via Wikimedia Commons



枚岡神社本殿から向かって左に歩いていくと、緩やかな山道がある。
この山道を100mほども歩いていくと「姥ヶ池」と記された石碑があり、玉垣の中にコの字の形をした池がある。

土砂が埋まっていたのを、ボランティア団体が復元させたのだという。

姥ヶ池

池の中に弁財天が祀られるときには、下の写真に▲で示した場所に祠が作られることが多いのではないだろうか。
しかし、姥ヶ池の祠は異なる場所にある。

姥ヶ池

これは復元するときに誤った場所に社を建ててしまったのだろうか?
それとも何か呪術的な意味があるのだろうか?

④姥の正体は年をとった天照大神?

それはともかく、姥ヶ火、姥ヶ池というのだから、この妖怪(=神)は女性だ。
そして、鶏のような形をしているというのだから、この妖怪(女神)の正体は天照大神ではないかと思う。
というのは、天照大神の神使は鶏だからだ。

池に身投げした姥の正体は年をとった天照大神なのではないだろうか。

お笑い神事がかつては冬至に行われていたということを思い出してほしい。
冬至とは太陽の南中高度が最も低くなる日のことで、その日を境に太陽は再び南中高度をあげていく。
つまり、冬至とは古い太陽が死んで、新しい太陽が生まれる日だともいえる。

姥が火になった老女は、冬至の古い太陽(年とった天照大神)を比喩したものだといえるかもしれない。

姥ヶ池2

⑤日の神、語呂合わせで火の神に転じる?

こんな話がある。

晩年、小町は天橋立へ行く途中、三重の里・五十日(いかが・大宮町五十河)に住む上田甚兵衛宅に滞在し、「五十日」「日」の字を「火」に通じることから「河」と改めさせた。
すると、村に火事が亡くなり、女性は安産になった。
再び天橋立に向かおうとした小町は、長尾坂で腹痛を起こし、上田甚兵衛に背負われて村まで帰るが、辞世の歌を残して亡くなった。
九重の 花の都に住まわせで はかなや我は 三重にかくるる
(九重の宮中にある花の都にかつて住んだ私であるが、はかなくも三重の里で死ぬのですね。)
後に深草の少将が小町を慕ってやってきたが、やはり、この地で亡くなった。
(妙性寺縁起)


五十日→五十火→火事になる→五十河→河の水で火が消える→火止まる→ひとまる→人産まれる
このような語呂合わせのマジックで村の火事はなくなり、女性は安産になったというわけである。

小野小町は日の神(天照大神)であったが、河の神(水の神)に転じた物語であるとも考えられる。

姥ヶ火伝説の老女のほうは、もともと日の神(天照大神)だったが、語呂合わせで火の神=姥が火に転じたという物語のように思える。

⑥姥ヶ池は石油が湧き出る池だった?

『西鶴諸国ばなし』には「身を捨て油壷」と記されている。
「身を捨て油壷」とは「姥が身を捨てて油壷になったという意味だろうか。

油壺とは油を入れる壺のことかとおもったが、どうも油が湧き出るくぼみのことも油壷というようである。

https://naka-go.at.webry.info/201408/article_4.html
上記ブログ写真2枚目に「油壷跡」の写真がある。

姥が池とはもしかしたらこのような石油が湧き出る油壷だったのだろうか。

日本でも新潟県などかつて石油が採掘されていた場所はある。
しかし枚岡神社近辺で石油が採掘されていたという話は聞かないが、どうだろう?

枚岡神社のhpにも
「ご本殿周辺また若宮社周辺には神の森から絶えず命の水が湧き出ています。」
http://hiraoka-jinja.org/grounds-of-a-shrine/ より引用

とあり、姥ヶ池はご本殿からそう離れていないところから、油田ではなく、水がたまった池だった様にも思えるが。

油さし」というと、姥が火が消えるのはなぜ?

この老女が姥ヶ火となった話は、『西鶴諸国ばなし』でも「身を捨て油壷」として記述されている。
姥ヶ火は一里(約4キロメートル)をあっという間に飛び去ったといい、姥ヶ火が人の肩をかすめて飛び去ると、その人は3年以内に死んでしまったという。ただし「油さし」と言うと、姥ヶ火は消えてしまうという。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A7%A5%E3%83%B6%E7%81%ABより引用

なぜ「油さし」というと姥ヶ火は消えるのだろうか。

天ぷら油は360度以上になると発火するそうである。
火を消す方法のひとつに油をたして温度をさげるというのを聞いたことがある。
それで「油さし」というと姥が火は消えるなどと言う話が作られたのではないだろうか。
ただし、油をいれて温度を下げる方法は危険な場合もあるようなので、下記のような方法を試したほうがいいかもしれない。

※天ぷら油
が発火したときの対処法
・鍋の全面を覆うふたをして、空気を遮断しましょう。油温が十分に下がるまで時間をかけましょう。
・炎が大きくなってしまったら、消火器を使用し、速やかに消火しましょう。
・濡れたシーツやバスタオル等で覆い、空気を遮断します。(引火しないように注意してください)。

https://www.nikki-net.co.jp/knowledge/knowledge04  より引用

⑧油壺は血で染まった池?

油壺という地名もある。
神奈川県三浦半島に存在する湾のことを油壺湾といい、その付近(三浦市三崎町小網代の一部)の地名も油壺というようだ。

この地を支配していた三浦氏は、北条早雲の軍と戦ったが、1516年三浦義同(道寸)らは討死にし、残る者は油壺湾へ身を投げたという。
その際、湾一面が血で染まり、まるで油を流したようであったところから「油壺」と呼ばれるようになったといわれる。

『西鶴諸国ばなし』に「身を捨て油壷」とあるのは「姥が身を捨てて血でそまって油のようにみえた」ところからのネーミングだろうか?

⑨姥ヶ火はリンが燃えてできた人魂?

あるいは姥ヶ火は人魂の一種と考えることができるかもしれない。
人魂の正体について、次のようにいわれることがある。

土葬が主流だった時代、異体から抜け出したリンが雨水と反応して青白く光ったのではないか、と。

しかし、人や動物の骨に含まれるリンは発光しないそうだ。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E9%AD%82

⑩長木を作った離宮八幡宮の神官は惟喬親王?

それはさておき姥が火の伝説に
枚岡神社の御神燈の油が盗まれるという事件が相次ぎ、生活に困った老婆が油を盗んで売っていたことが発覚した。
とあるのに注意してほしい。

私たちは長木とよばれる油を絞る道具を作った神官の話を知っている。
そう、平安時代に離宮八幡宮の神官が長木を作ったのだった。
(参照/惟喬親王の乱⑲離宮八幡宮 紅葉 『搾油器を発明した神官の正体とは?』  

山崎 油売り

長木の図 
離宮八幡宮 説明板より

この長木の「棒に綱を巻き付ける構造」は、惟喬親王が発明したといわれるろくろに似ている。

ろくろ

また離宮八幡宮は石清水八幡宮の元社である。

もともと離宮八幡宮の地に石清水八幡宮があったのだが、石清水八幡宮は淀川の対岸にある男山にうつり
この社は離宮八幡宮と神社名が改められたのだ。

私は
搾油器を発明した離宮八幡宮の神官とは惟喬親王ではないかと考えている。
惟喬親王は巻物が転がるのを見てろくろを発明したと伝えられるが、これと同じように、巻物を転がるのを見て搾油器を発明した、と信じられたのではないか?

石清水八幡宮を創建した清和天皇と惟喬親王(844-897)は異母兄弟である。

どちらも父親は文徳天皇、清和天皇の母親は藤原良房の娘・明子、惟喬親王の母親は紀名虎の娘・静子である。
文徳天皇は長子の惟喬親王を皇太子につけたかった。
しかし、時の権力者は藤原良房。
源信はこの藤原良房を憚って、「惟喬親王を皇太子にしたい」という文徳天皇を諫めた。
こうして清和天皇が皇太子についた。

惟喬親王と清和天皇の間には藤原氏と紀氏の世継争いという因縁があるのだ。

山崎 油売り2

離宮八幡宮 説明板より

⑪八幡神は身をひくことで皇位継承をもたらす神

八幡宮の総本社は宇佐八幡宮である。
奈良時代、この宇佐八幡宮は「道鏡を天皇とするべし」「道鏡を天皇にしてはならない」という相反する二つの神託を下している。

また宇佐八幡宮には天皇即位や国家異変の際に勅使(ちょくし―天皇の使い)が派遣される習慣があった。
八幡神は皇位継承の神として信仰されていたのだと思う。

そして八幡宮の主祭神は応神天皇だが、この応神天皇が伊奢沙和気大神(福井県敦賀市の気比神宮の神)と名前を交換したという話が古事記にある。

応神天皇は伊奢沙和気大神となって気比神宮に祀られ、神饌として大漁のイルカがお供えされた。
そして伊奢沙和気大神は応神天皇となり、ちゃっかり皇位についたという話のように思える。
これは政権交代を意味する物語ではないだろうか。

つまり、八幡神=応神天皇は自分の身をひくことによって、他者の皇位継承をもたらす神だといえ、
惟喬親王のイメージと重なるのである。

⑫離宮八幡宮の搾油機を作った神官(陽)と、枚岡神社の油を盗んだ姥(陰)は同じ神?

離宮八幡宮の神官は油を搾る道具をつくり、枚岡神社ではご神燈を盗んだ老女が姥ヶ火という妖怪になった。
そして枚岡神社は藤原氏の氏神だが、同じく藤原氏の氏神である大原野神社の狛鹿の雄島は巻物をくわえ、雌鹿はどんぐりの帽子をかぶっていた。

大原野神社 雄鹿 
↑↓ 大原野神社の狛鹿

大原野神社 雌鹿




上の動画で、こんなことを言っている。

1:10あたり 惟喬親王はあるものを見てお椀の形を思いついた。そのあるものとは・・・・どんぐりの帽子。
3:55あたり 手挽きろくろも惟喬親王があるものを見て考案した。そのあるものとは・・・・巻物。

また大原野神社には文徳天皇(惟喬親王の父)が作った鯉沢池や、清和天皇(惟喬親王の異母弟)が産湯につかった瀬和井などもある。

私は大原野神社の御祭神には惟喬親王のイメージが重ねられていると考えた。

すると同じ藤原氏の氏神である枚岡神社の神にも惟喬親王のイメージが重ねられているのではないか?
そして油を盗んだ姥とは年老いた惟喬親王ではないか?

神社名伝説陰陽
離宮八幡宮平安時代、神官が搾油機の長木を発明
枚岡神社約600年前、姥が枚岡神社御神燈の油を盗んだ


惟喬親王は男である。しかし、私は小野小町の正体とは男であり、小野宮と呼ばれた惟喬親王の事ではないかと考えている。
これについては詳しく

これについては詳しく「小野小町は男だった」のシリーズで述べたが、簡単にまとめておく。

a
古今和歌集には男が女の身になって詠んだ歌が多数ある。
b古今和歌集仮名序はやけに小町が女であることを強調しているが、これは小町が男だからではないか。
c.小野小町は穴のない体で性的に不能であったともいわれているが、穴がない体なのは小町が男だからではないか。
d『古今和歌集』に登場する女性歌人に三国町、三条町、がいる。
三国町は一般には継体天皇の母系氏族・三国氏出身の女性だと考えられているが、
 『古今和歌集目録』は三国町を紀名虎の娘で仁明天皇の更衣としている。
  紀名虎の娘で仁明天皇の更衣とは紀種子のことである。
  また三条町は紀名虎の娘で文徳天皇の更衣だった紀静子のことである。
  三国町が紀種子とすれば、三条町=紀静子なので、三国町と三条町は姉妹だということになる。
  そして紀静子は惟喬親王の母親だった。。
  惟喬親王は三国町の甥であり、三条町の息子なので、三国町・三条町とは一代世代が若くなる。
  そういうことで小町なのではないだろうか。
e花のいろは うつりにけりな いたづらに わがみよにふる ながめせしまに
この歌は縁語や掛詞を用いて二重の意味をもたせた技巧的な歌だとされる。
①花の色はすっかり褪せてしまったなあ。春の長い雨のせいで。
②私の容色はすっかり衰えてしまったなあ。恋の物思いにふけっている間に。
※『色』・・・『視覚的な色(英語のColor)』『容色』
※『世』・・・『世の中』と『男女関係』
※『ながめ』・・・『物思いにふける』『長雨』
しかし、もうひとつ違う意味が隠されているように思える。
③はねずの梅の鮮やかな色はあせ、(「はねず」は移るの掛詞なので、花ははねずの梅ととる)私の御代に(「わが御代に 下(ふ)る」とよむ。)長い天下(「ながめ」→「長雨」→「長天」と変化する。さらに「下(ふ)る」を合わせて「天下」という言葉を導く)がやってきたようだ。

とすれば、小野小町は100歳の老婆になったという話があり、枚岡神社の姥とは小野小町=惟喬親王をモデルに創作されたものだと考えられる。

なんでもかんでも惟喬親王に結び付けすぎだよ!
とか言われそうだw。

しかし、ここ枚岡神社は千手寺に近く、直線距離で1.5kmほどしか離れていない。
そして、千手寺パンフレットにはこんな伝説が伝えられていたのだった。

その後、維喬親王(これたかしんのう:844~897)の乱で、堂宇は灰燼に帰したが、本尊の千手観音は深野池(現大東市鴻池新田あたりにあった)に自ら飛入り、夜ごとに光を放つを見た在原業平がこれを奉出し、これを本尊として寺を再建したと伝える。
 維喬親王は文徳天皇の第1皇子。第4皇子の維仁親王(後の清和天皇)の外戚藤原良房の力が強く、皇位継承にはならなかったが、乱を起したというのは史実ではない。

[参考資料] 『恵日山 光堂千手寺』 千手寺パンフレット
         『日本歴史地名体系』大阪府の地名編 平凡社


惟喬親王の乱が本当にあったとしたら、枚岡神社付近にもその影響は及んだことだろう。





石切劔箭神社


・清和天皇は文徳天皇の第二皇子として850年に生まれ、生まれたばかりで皇太子となった。
そして858年、わずか8歳で即位した。政治は清和天皇の外祖父の藤原良房がとっていた。
石清水八幡宮の創建は860年、清和天皇の勅命によってとされるが、このとき清和天皇は10歳。
石清水八幡宮の創建は藤原良房の意思によるものだと考えるのが妥当。

 ・文徳天皇には清和天皇のほかに第一皇子の惟喬親王があった。
清和天皇の母親は藤原良房の娘の藤原明子、惟喬親王の母親は紀名虎の娘の紀静子だった。
文徳天皇は惟喬親王のほうを皇太子につけたいと考えており、これを源信に相談している。
源信は藤原良房をはばかって文徳天皇をいさめたという。

・世継争いに敗れた惟喬親王は御霊として大皇器地祖神社
(おおきみきじそじんじゃ)、筒井神社、玄武神社などに祀られている。
御霊とは、怨霊が祟らないように慰霊されたもののことをいう。
つまり、惟喬親王は怨霊であったということである。

・石清水八幡宮の神主は代々紀氏が世襲していた。
日本では古より先祖の霊はその子孫が祭祀または供養するべき、と考えられていた。
石清水八幡宮の御祭神・八幡神と惟喬親王はイメージを重ねられており、惟喬親王は紀氏の血筋の親王なので、石清水八幡宮は紀氏が祭祀するべきであると考えられたのではないか。




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惟喬親王の乱㊷『天つ風~は藤原高子入内を妨害する歌?』 につづきます~


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惟喬親王の乱㊵ 千手寺 『惟喬親王の乱と在原業平腰掛石』


トップページはこちらです→惟喬親王の乱① 東向観音寺 『本地垂迹説』  

惟喬親王の乱㊴『大原野神社の神相撲は世継争いに負けたことを知らしめるための行事?』  よりつづきます~


「小野小町は男だった」もよかったらよんでみてね。


大阪府東大阪市 千手寺

石切神社

石切劔箭神社

①千手寺

新石切駅から石切劔箭神社へ。
石切劔箭神社から石切参道商店街の緩やかな坂をのぼると
石切大仏がある。

石切大仏 

石切大仏

石切は精力ドリンク「赤まむし」などを製造・販売するサカンポー(阪本漢方製薬)の創業地で、
そのサカンポーの4代目・阪本昌胤さんが石切大仏を建立したそうである。

そういえば石切商店街にこんな ↓ 看板があった。店自体はなかったが、看板のみ残してあるのだろう。

石切参道商店街3

石切大仏からさらに登っていくと千手寺がある。

千手寺

千手寺

②維喬親王=惟喬親王、維仁親王=惟仁親王

千手寺について、次のように記されているサイトがあった。

当山の縁起は1574年(天正2年)に記された寺伝によれば、今から約1300年前、笠置山の千手窟で修行していた役行者が、神炎に導かれ当地に来て千手観音の出現に出会い、一宇を創建し、恵日山千手寺と名付けた。以後里人はこの堂を光堂とよび、この地を神並(こうなみ)の里と呼ぶようになった。
 また、平安時代の初め、弘法大師がこの寺に止宿した際、当寺守護の善女竜王が夢に現れ、補陀落山の香木を与えた。大変喜んだ大師はこの木で千手観音像を刻し本尊とした。
 その後、維喬親王(これたかしんのう:844~897)の乱で、堂宇は灰燼に帰したが、本尊の千手観音は深野池(現大東市鴻池新田あたりにあった)に自ら飛入り、夜ごとに光を放つを見た在原業平がこれを奉出し、これを本尊として寺を再建したと伝える。
 維喬親王は文徳天皇の第1皇子。第4皇子の維仁親王(後の清和天皇)の外戚藤原良房の力が強く、皇位継承にはならなかったが、乱を起したというのは史実ではない。

 いずれにしても、役行者、弘法大師、維喬親王、在原業平と歴史上の人物が次々と登場するこの寺の寺伝は一大叙事詩でもある。

[参考資料] 『恵日山 光堂千手寺』 千手寺パンフレット
         『日本歴史地名体系』大阪府の地名編 平凡社



http://www12.plala.or.jp/HOUJI/otera-2/newpage175.htmより引用

ここに維喬親王(これたかしんのう:844~897)とでてくるが、これは惟喬親王のまちがいだろうか?

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%83%9F%E5%96%AC%E8%A6%AA%E7%8E%8B
上記ウィキペディアに惟喬親王について記されているが、生没年も同じだし、文徳天皇の第1皇子というのも同じである。
また第4皇子を維仁親王(後の清和天皇)としてるが、こちらも惟仁親王のまちがいではないかと思う。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E5%92%8C%E5%A4%A9%E7%9A%87
あるいは維喬親王・維仁親王のように記すこともあったのかもしれないが、ネット上でそういった表記は他に見たことがない。

もしかしたら千手寺では惟喬親王・惟仁親王ではなく維喬親王・維仁親王と伝えているのかもしれない。

維喬親王は惟喬親王、維仁親王は惟仁親王と考えて間違いはないだろう。
ややこしくなるので、以下、維喬親王・維仁親王ではなく惟喬親王、惟仁親王と記すこととする。

惟喬親王像 

惟喬親王像 (木地師の里)

惟喬親王の乱

②でご紹介した記事に「惟喬親王の乱で、堂宇は灰燼に帰した。」とある。

私は惟喬親王については大変興味があり、いろいろ調べて記事をたくさん書いている。
しかし「惟喬親王の乱」というのはウィキペディアにも記述がないし、他のサイトでも読んだことがない。

上の記事でも次のように記している。

「惟喬親王は文徳天皇の第1皇子。第4皇子の維仁親王(後の清和天皇)の外戚藤原良房の力が強く、皇位継承にはならなかったが、乱を起したというのは史実ではない。」


しかし、私は「惟喬親王の乱」がなかったとはいいきれないと思う。

千手寺 在原業平 菅原道真を祀る社 

千手寺 在原業平 菅原道真を祀る社

④藤原氏vs紀氏のバトル!

惟喬親王は文徳天皇の第1皇子。第4皇子の惟仁親王(後の清和天皇)の外戚藤原良房の力が強く、皇位継承にはならなかった」について、このシリーズで何度も書いたが、復習の意味で繰り返しておく。

文徳天皇は紀静子(紀名虎の娘)との間に第一皇子の惟喬親王、藤原明子(藤原良房の娘)との間に第四皇子の惟仁親王をもうけていた。
文徳天皇は長子の惟喬親王を皇太子につけたいと考えて源信に相談しましたが、源信は時の権力者・藤原良房を憚って天皇をいさめた。

こうして生まれたばかりの惟仁親王が皇太子となった。

平家物語などに次のように記されている。

藤原良房と紀名虎はいずれの孫(惟仁親王vs惟喬親王)を立太子させるかでもめ、高僧による祈祷合戦、相撲などによるバトルを繰り返した末、藤原良房が勝利し、惟仁親王が立太子した。

この話は史実ではない。
というのは惟仁親王が生まれたとき、紀名虎はすでに亡くなっていたからだ。
しかし藤原氏と紀氏に確執があったことは確かだろう。

ちなみに愛宕山にはこれに関係する次のような伝説が伝えられている。

空海の高弟であった知恵優れた僧が、惟喬親王と惟仁親王(後の清和天皇)の皇位争いの際に惟喬親王について、
惟仁親王についた天台僧と壮絶な呪詛合戦を繰り広げた末に敗北し、この恨みをはらすために天狗(怨霊)となって天皇家を脅かし続けた。
この天狗が、生前に修行を積んだ愛宕山に住み着いて太郎坊天狗となった。

惟喬親王の乱㉟ 愛宕神社 『惟喬親王側について呪詛合戦をした太郎坊天狗』 


千手寺2

⑤惟喬親王の歌会はのろいの会だった?

紀名虎の子で紀静子の兄(つまり惟喬親王の叔父)・紀有常、在原業平は惟喬親王の寵臣だった。
世継争いに敗れた惟喬親王は紀有常や在原業平をお供として交野ケ原(現在の交野市・枚方市付近)に狩をしにやってきて、渚の院(枚方市)で桜をめでつつ歌会を催すなどしている。

これについて、世継ぎ争いに敗れた惟喬親王は文学の世界に情熱を傾けたのだろう、と一般にはいわれている。

しかし、そうではなく、彼らは歌会と称して藤原氏をのろっていたのではないかというような意味のことを高田祟史さんがおっしゃっていた。

私は彼の説を支持する。

たとえば伊勢物語「渚の院」の段ににこんな歌が掲載されている。

世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし /右馬頭(在原業平)
(世の中に桜がなかったなら、春の心はもっとのどかなものだっただろうに。)

散ればこそ いとど桜は めでたけれ 憂き世になにか 久しかるべき ※この歌を詠んだのは右馬頭ではない別の人だと記されているだけで、名前は記されていません。
(散るからこそ、桜はすばらしいのです。憂世に永遠に存在するものなんてあるでしょうか。)


渚の院 歌碑 

⑥馬頭は在原業平

ここに登場する右馬頭とは在原業平のことである。
というのは伊勢物語に記された右馬頭の歌は古今和歌集では在原業平作となっているからである。

「右馬頭の名前は忘れた」と伊勢物語の作者は言っているが、これは嘘なのである。
伊勢物語の作者は紀貫之ではないかといわれているが、紀貫之は古今和歌集を編纂した人物であって、知らないはずがないのだ。
彼は土佐日記では自らを女と偽って日記を書いているし、
古今和歌集仮名序でも喜撰法師のことを「よく知らない」と書いているが、おそらく喜撰法師とは紀仙法師で紀名虎(紀有常の父)または紀有常、または惟喬親王のことだと思われ、親族である彼らのことを貫之が知らないはずがない。
紀貫之と言う人は一筋縄ではいかない人だという印象を私は持っている。

⑦惟喬親王と惟仁親王の世継争い。

文徳天皇には紀静子(紀名虎の娘、紀有常の妹)との間に長子の惟喬親王、藤原良房の娘・藤原明子との間に惟仁親王(のちの清和天皇)があった。
文徳天皇は惟喬親王を皇太子にしたいと源信に相談している。
文徳天皇が世継ぎにしたいと考えていたのは藤原明子所生の惟仁親王ではなく、紀静子所生の惟喬親王だったのだ。
源信は当時の権力者・藤原良房を憚って文徳天皇を諌め、惟仁親王が皇太子になったのだが。

⑧在原業平と紀氏、藤原氏の関係


業平は惟喬親王の寵臣で、また紀静子の兄・紀有常の娘を妻としていて完全に紀氏側の人間だった。
また世継ぎ争いに敗れた惟喬親王は頻繁に歌会を開いていますが、歌会と称してクーデターを計画していたのではないかとも言われている。

伊勢物語・渚の院は、惟喬親王の歌会のようすを描いたものである。

在原業平は惟喬親王の歌会のメンバーであり、クーデターの首謀者だったのではないかとする説もある。
在原業平はなぜか「色好み」ばかりがクローズアップされているが、政治的に不遇で、反骨精神にあふれた人物であったと考えられる。

⑨桜散り老い来る道

言霊という言葉がある。
口に出した言葉は実現する力を持つという信仰のことである。

言霊はプラス思考のことだととらえられがちだ。
例えば、「私はできる」と考えると本当にできるようになると言われる。
これはある程度正しい。

しかし、古の日本人はこのようなプラス思考のほかに、呪術的な目的をもって言霊を信仰していたように思われる。
呪術は他人に気がつかれないようにかけなければいけない。
古には国家や貴人を呪うことは重罪とされていたからだ。
和歌の掛詞・縁語・もののななどのテクニックはこのようなことを背景にできたのではないかと思う。

高田祟史さんは和歌は呪術ではないかとし、在原業平が藤原基経(藤原良房の養子)に送った次のような歌の例をあげておられる。

桜花 散りかひくもれ 老いらくの 来むといふなる 道まがふがに
(桜花よ、散り乱れて空を曇らせておくれ。老いというものがやってくるという道が花びらでまぎれて見分けられなくなるように。)


業平は五七五七七の初句に「かきつばた」を読み込んだ歌を詠んでいる。

唐衣 着つつなれにし つましあれば はるばる来ぬる 旅をしぞ思ふ
(何度もきて身になじんだ唐衣のように、慣れ親しんだ妻を都に置いてきたので はるばる遠いところまで やってきた旅を しみじみと思う)


らころも つつなれにし ましあれば るばるきぬる  びをしぞおもふ

上の歌の五七五七七の初句をつなげると「かきつはた」となる。

花 りかひくもれ いらくの むといふなる まがふがに

上の歌も、「かきつばた」の手法が用いられていると高田祟史氏は主張する。
五七五七七の初句をつなげると「桜散老来道」となる。
「桜散老来道」は漢語であり、読み下すと「桜散り老い来る道」となり、業平が藤原基経を呪った歌だというのだ。

⑩桜は藤原氏または藤原氏の栄華の象徴?

惟喬親王の渚の院での歌会は、呪術会だったのではないか?

世の中に たえて桜の なかりせば  春の心は のどけからまし
(世の中に 桜というものがなかったならば、春の心は もっとのんびりしていただろうに)


また他の人の歌、
散ればこそ いとど桜は めでたけれ 憂き世になに か久しかるべき
(散るからこそ桜はすばらしいのだ。悩み多き世の中に、変わらないものなどあるだろうか。) 


この二首は藤原良房が詠んだ次の歌を受けたものだと思う。

染殿の后のおまへに花瓶(に桜の花をささせたまへるを見てよめる
年ふれば 
()は老いぬ しかはあれど 花をし見れば 物思ひもなし/藤原良房
(年を経たので、齢は老いた。そうではあるが、美しい桜の花をみれば物思いにふけることもない)

染殿の后とは藤原良房の娘、明子のことである。

世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし/在原業平

この歌に詠まれた、桜とは藤原氏の栄華のことで
「世の中に藤原氏の栄華がなければ、春の心がこんなにイライラすることはなかっただろうに。」という意味ではないだろうか。

また

散ればこそ いとど桜は めでたけれ 憂き世になにか 久しかるべき 
 
は藤原氏の栄華は散るからめでたいのだ。思い悩むことの多い世の中だが、藤原氏の繁栄がいつまでも続いたりはしないだろうという意味だと思う。

古の日本では言霊信仰といって、口に出した言葉には実現させる力があると信じられていた。
これは、つまり歌は文学などではなく呪術であったということである。

惟喬親王は歌会と称して藤原氏を呪っていたのではないだろうか。

渚の院 淡墨桜 
渚の院 淡墨桜

⑪なぜ惟喬親王と在原業平は鍛冶屋の祖とされているのか?

枚方市には茄子作という地名がありここで惟喬親王の愛鷹につける鈴を作ったことから名鈴となり、それがなまって茄子作りになったといわれている。

惟喬親王は鉄鋼鋳造と関係が深そうに思える。

本尊掛松(枚方市茄子作) 

本尊掛松(枚方市茄子作)

大阪府三島郡島本町広瀬には粟辻神社があって、鍛冶屋の祖神として惟喬親王と在原業平を祀っている。

なぜ惟喬親王と在原業平は鍛冶屋の祖とされているのだろうか。

惟喬親王は木地師の祖とされているが、木地師が用いるカンナはかつては木地師自身で作っていたという。
つまり、木地師は鍛冶屋でもあったのだ。
そのため惟喬親王は鍛冶屋の祖とされているのかもしれない。

また、かつて鍛冶屋は刀や弓矢などの武器をつくっていた。
惟喬親王と在原業平は挙兵をけいかくしており、武器を製造していたため、鍛冶屋の祖神として祀られているのかもしれない。


粟辻神社

粟辻神社

⑫腰掛石は怨霊の執念がしみついた石?

在原業平腰掛石 

千手寺 在原業平腰掛石

千手寺境内には在原業平腰掛石があった。

腰掛石と呼ばれるものはほかの寺にもある。

宇多天皇が創建した京都の仁和寺には菅公腰掛石があり、次のような伝説がある。

道真は藤原時平の讒言により流罪となった。
道真は大宰府に向かう途中、仁和寺に立ち寄り、冤罪であることを宇多上皇に訴えようとした。
しかし宇多上皇は留守だった。
仕方なく道真は石に座って帰りを待っていたが、会うことができないまま大宰府へ流されていった。


仁和寺 菅公腰掛石

仁和寺 菅公腰掛石

また奈良の手向山八幡宮にも菅公腰掛石がある。

道真は宇多天皇の行幸に付き従って手向山八幡宮へやってきてこんな歌を詠んだとされる。


このたびは 幣もとりあへず 手向山 紅葉の錦 神のまにまに/菅家(菅原道真)
(今回の旅は急な旅で幣も用意することができませんでした。かわりに紅葉の錦を捧げます。どうぞ神の御心のままお受け取りください。)


手向け山八幡宮 紅葉

手向山八幡宮

『このたびは』の『たび』は『度』と『旅』に掛かる。

幣とは神への捧げ物のことで、絹や紙を細かく切ったものを道祖神の前で撒き散らす習慣があった。
今でも、神事のときに神主さんが細かく切った紙をまき散らしているのを見かけるが、これが幣だと思う。

一言主神社 天狗と幣を撒く人

幣(一言主神社にて)

道真が手向山八幡へやってきたとき、風がふいて紅葉がはらはらと散っていたのだろう。
それで、道真は紅葉を幣のかわりにしたということだろう。

菅原道真は宇多天皇にひきたてられて昇進した人物だった。
897年、宇多天皇は醍醐天皇に譲位した。
このとき宇多天皇は『ひきつづき藤原時平と菅原道真を重用するように』と醍醐天皇に申し入れた。

醍醐天皇の御代、菅原道真は右大臣、藤原時平は左大臣になった。
当時の官職や位は家の格によって最高位が定まっており、道真の右大臣という地位は菅原氏としては破格の昇進だった。

道真の能力を恐れた藤原時平は醍醐天皇に次のように讒言した。
『道真は斉世親王を皇位に就け醍醐天皇から簒奪を謀っている』と。
斉世親王は宇多天皇の第3皇子で、醍醐天皇の異母弟である。
そして斉世親王は道真の娘を妻としていた。

醍醐天皇は時平の讒言を聞き入れ、901年、道真を大宰府に流罪とした。
そして903年、道真は失意のうちに大宰府で死亡した。

大阪天満宮 人形 

大阪天満宮に展示されている雷神となって祟る菅原道真の怨霊の人形

その後、都では疫病が流行り、天変地異が相次ぎ、これらは菅原道真の怨霊の仕業だと考えられた。

⑬菊野大明神

京都市中京区に法雲寺という寺があり、境内に菊野大明神が祀られている。

菊野大明神

菊野大明神


ご神体は深草少将が腰掛けたという石だというが、柵で囲まれているので御神体の石がどこにあるのかわからなかった~。

髄心院に伝わる伝説によれば、深草少将は小野小町に「百夜通したならば100日目に会ってあげる。」と言われて実行したのだが、99日目の夜に死んでしまったとされる。

深草少将腰掛石にはその恨みが籠もっているので男女の仲を裂くといわれている。

このように見てみると、官公腰掛石は官公の、菊野大明神の深草少将腰掛石は深草少将の恨みが籠った石ではないかと思える。
すると在原業平腰掛石もまた、業平の恨みが籠った石なのではないだろうか?

千手寺 在原業平腰掛石 
千手寺 在原業平腰掛石

千手寺-石切観音 水子地蔵 
千手寺-石切観音 水子地蔵




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