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惟喬親王の乱㉞ 大原の里 『惟喬親王と愛宕信仰』

 
①惟喬親王陵

大原 彼岸花2 
 大原の里へやってきたわけは

大原 彼岸花

彼岸花を見たかったのと、もうひとつ

惟喬親王陵への道しるべ 

坂道を歩いていく。あっ、道標がある。もう少しだ。

惟喬親王陵 
惟喬親王(これたかしんのう)陵に到着!
ずっと参拝したいと思っていたが、なかなか来れなかった。やっと来れた。

惟喬親王陵 石仏

階段をのぼると石仏があった。倒木なども多くて荒れていた。数年前の台風で木々が倒れ、そのままになっているのかもしれない。

惟喬親王陵2 
この五輪塔が惟喬親王の墓。
滋賀県の木地師の里にも惟喬親王の墓はあるが。
惟喬親王の乱③木地師の里 『世継争いに敗れた皇子』 

惟喬親王は文徳天皇の第一皇子(母は紀静子)で文徳天皇は惟喬親王を皇太子にしたいと考えていた。
しかし権力者・藤原良房の孫で異母弟の惟仁親王(清和天皇/母は藤原良房)が皇太子となった。

惟喬親王は御霊(怨霊が祟らないように慰霊されたもの)として多くの神社に祀られている。

惟喬親王の乱④玄武神社『胴体がなく首の長い神』 
惟喬親王の乱㉛ 惟喬神社  厳島神社 『磐座のある二つの神社』 

大原の里 
↑ 惟喬親王陵付近より大原の里を望む。

⓶大蛇になった娘の正体は惟喬親王?

大原 乙が森

乙が森

大原 乙が森 説明板 

このおつうの大蛇は惟喬親王ではないだろうか。
おつうは女性じゃないか、といわれそうだが、私は小野小町の正体は小野宮と呼ばれた惟喬親王だと考えている。

詳しくは別ブログの次のシリーズをお読みいただけると嬉しいですが、
http://arhrnrhr.blog.fc2.com/blog-category-15.html

簡単にその理由をまとめておく。

a
古今和歌集には男が女の身になって詠んだ歌が多数ある。
b古今和歌集仮名序はやけに小町が女であることを強調しているが、これは小町が男だからではないか。
c.小野小町は穴のない体で性的に不能であったともいわれているが、穴がない体なのは小町が男だからではないか。
d『古今和歌集』に登場する女性歌人に三国町、三条町、がいる。
三国町は一般には継体天皇の母系氏族・三国氏出身の女性だと考えられているが、
 『古今和歌集目録』は三国町を紀名虎の娘で仁明天皇の更衣としている。
  紀名虎の娘で仁明天皇の更衣とは紀種子のことである。
  また三条町は紀名虎の娘で文徳天皇の更衣だった紀静子のことである。
  三国町が紀種子とすれば、三条町=紀静子なので、三国町と三条町は姉妹だということになる。
  そして紀静子は惟喬親王の母親だった。。
  惟喬親王は三国町の甥であり、三条町の息子なので、三国町・三条町とは一代世代が若くなる。
  そういうことで小町なのではないだろうか。
e花のいろは うつりにけりな いたづらに わがみよにふる ながめせしまに
この歌は縁語や掛詞を用いて二重の意味をもたせた技巧的な歌だとされる。
①花の色はすっかり褪せてしまったなあ。春の長い雨のせいで。
②私の容色はすっかり衰えてしまったなあ。恋の物思いにふけっている間に。
※『色』・・・『視覚的な色(英語のColor)』『容色』
※『世』・・・『世の中』と『男女関係』
※『ながめ』・・・『物思いにふける』『長雨』
しかし、もうひとつ違う意味が隠されているように思える。
③はねずの梅の鮮やかな色はあせ、(「はねず」は移るの掛詞なので、花ははねずの梅ととる)私の御代に(「わが御代に 下(ふ)る」とよむ。)長い天下(「ながめ」→「長雨」→「長天」と変化する。さらに「下(ふ)る」を合わせて「天下」という言葉を導く)がやってきたようだ。

③惟喬親王と愛宕信仰は関係ある?


大原 愛宕大神の灯篭

↑ こういう感じの愛宕大神と記された燈籠があちこちにあった。
もしかしたら、惟喬親王と愛宕信仰には関係があるのかもしれない。

そうだ、近いうちに愛宕神社を参拝してみよう。
7kmの山道を登らないといけないようだがw

大原の里 コスモス 
大原 
↑ これは寂光院近くにあった雰囲気のある建物
お漬物屋さんの倉庫?

大原 彼岸花3 

大原 彼岸花4 



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惟喬親王の乱㉟ 愛宕神社 『惟喬親王側について呪詛合戦をした太郎坊天狗』 につづきます~


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惟喬親王の乱㉝ 長源寺『惟喬親王と癌の関係』

トップページはこちらです→惟喬親王の乱① 東向観音寺 『本地垂迹説』  
惟喬親王の乱㉜ 室生寺 室生龍穴神社『室生と雲ヶ畑の共通点、男神を女神に転じる呪術?』  よりつづきます~

「小野小町は男だった」もよかったらよんでみてね。

長源寺-鐘楼と観音像 

長源寺

①惟喬親王が癌封じの秘法を授けた?


宮津の花火を見にいく途中の車中、小高い山の中腹にお寺があるのを見つけたのでふらっと立ち寄ってみた。
山門には「臨済宗妙心寺派 妙行山 長源寺 癌封じ寺」(京都府船井郡京丹波)と記されている。

境内には40歳くらいの品のよさそうな老婦人が参拝にこられていた。
目があったので「こんにちは」とあいさつすると、にっこり笑って「こんにちは」と返してくださり、こんな話をしてくださった。

「ここは癌封じで有名なお寺なんですよ。家族が癌にならないようにお願いにきたんですよ。
平安時代、文徳天皇の第一皇子に惟喬親王いう人がいましてね・・・・」

惟喬親王と聞いて私はテンションがあがってしまった。

「えっ、惟喬親王! 木地師の祖だとかいわれてて、あちこちの神社に祀られてる人ですよね。」

「あら、よくご存じなんですね。
惟喬親王は第一皇子だったんですけど、異母弟の惟仁親王・・・清和天皇が即位されたんですね。
皇立継承に敗れた惟喬親王は貞観14年(874)に出家しはって、僧名を梁覚(りょうかく)と改めましてね・・・」

惟喬親王の僧名は素覚だがここの自伝では梁覚と伝わっているらしい。

「梁覚と名を改めた親王は諸国行脚の旅に出て、ここ出野を訪れて草案を結びはって、観音菩薩さんをまつりはったそうです。
そしてここを出ていきはるとき、お世話になったお礼にと、村人たちに癌封じの秘法を伝授しはったそうです。
7月1日は観音まつりがありましてね、癌封じ茶の接待とかありますよ。そうめん流しもやってますね。」

なんと京丹波にも惟喬親王の伝説があったのだ。

長源寺 方丈 

長源寺

⓶癌は岩とも記されていた。

癌の歴史は古い。
4200年前のエジプトの女性ミイラが乳癌であったことがわかっているという。

史料としては、紀元前400年ごろ、古代ギリシャの医学者ヒポクラテスが、癌について記している。
当事癌はカルキノス(ギリシャ語で「カニ」)と呼ばれてた。

日本における癌の歴史は、というと調べてもよくわからない。

ウィキペディアに次のように記されているのみである。

漢字の「癌」は病垂と「岩」の異体字である「嵒」との会意形声文字で、本来は「乳がん」の意味である。触診すると岩のようにこりこりしているからで、江戸時代の日本においては「岩」と書かれた文書もある。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%82%AA%E6%80%A7%E8%85%AB%E7%98%8D#癌 より引用

ここからわかることは
江戸時代には癌はあり、「岩」とも呼ばれていたといいうこと。
岩のようにこりこりしているため、病垂+嵒(岩の異体字)で癌という漢字ができたことのみである。

③惟喬親王は岩の神→癌の神へと転じた?

多賀大社 さざれ石 
多賀大社 さざれ石 

惟喬親王に仕えていた木地師の藤原朝臣石位左衛門は、親王より「よい椀生地を探せ」と命じられた。
そこであちこち探し回って春日村を発見し、ここに移り住んだ。
石位左衛門は春日村と京を行き来する途中で「さざれ石」を発見して

わが君は 千代に八千代に さざれ石の 磐となりて 苔のむすまで


と詠んだ。

という伝説がある。さざれ石とは惟喬親王をイメージした石なのだ。

惟喬親王の乱㉚ 再び多賀大社『惟喬親王はドクロの神だった?』 

また、惟喬神社の社殿の背後には磐座のようなものがあり、室生龍穴の近くにある天岩戸と呼ばれる磐座によく似ていた。

惟喬親王の乱㉛ 惟喬神社  厳島神社 『磐座のある二つの神社』 

惟喬神社-磐座?

惟喬神社 磐座

室生龍穴神社 天の岩戸

室生龍穴神社 天岩戸

つまり、惟喬親王は岩の神であり、そこから転じて癌の神になったのではないかと思われる。

また惟喬神社の磐座を見ると、二つの岩があり、女性の乳房のようにも見える。
癌とは病垂と「岩」の異体字である「嵒」を合わせた文字で、本来は「乳がん」の意味だったということを思い出してほしい。
惟喬神社の磐座は乳癌のような岩だといえなくもない。

④惟喬親王は天岩戸の神であり、女性の乳房を思わせるところから、女神に転じた?

この長いエッセイの中で、私は何度も惟喬親王と小野小町は同一人物だと述べた。
しつこいが、その理由を繰り返しておく。


これについては詳しく「小野小町は男だった」のシリーズで述べたが、簡単にまとめておく。


a
古今和歌集には男が女の身になって詠んだ歌が多数ある。
b古今和歌集仮名序はやけに小町が女であることを強調しているが、これは小町が男だからではないか。
c.小野小町は穴のない体で性的に不能であったともいわれているが、穴がない体なのは小町が男だからではないか。
d『古今和歌集』に登場する女性歌人に三国町、三条町、がいる。
三国町は一般には継体天皇の母系氏族・三国氏出身の女性だと考えられているが、
 『古今和歌集目録』は三国町を紀名虎の娘で仁明天皇の更衣としている。
  紀名虎の娘で仁明天皇の更衣とは紀種子のことである。
  また三条町は紀名虎の娘で文徳天皇の更衣だった紀静子のことである。
  三国町が紀種子とすれば、三条町=紀静子なので、三国町と三条町は姉妹だということになる。
  そして紀静子は惟喬親王の母親だった。。
  惟喬親王は三国町の甥であり、三条町の息子なので、三国町・三条町とは一代世代が若くなる。
  そういうことで小町なのではないだろうか。
e花のいろは うつりにけりな いたづらに わがみよにふる ながめせしまに
この歌は縁語や掛詞を用いて二重の意味をもたせた技巧的な歌だとされる。
①花の色はすっかり褪せてしまったなあ。春の長い雨のせいで。
②私の容色はすっかり衰えてしまったなあ。恋の物思いにふけっている間に。
※『色』・・・『視覚的な色(英語のColor)』『容色』
※『世』・・・『世の中』と『男女関係』
※『ながめ』・・・『物思いにふける』『長雨』
しかし、もうひとつ違う意味が隠されているように思える。
③はねずの梅の鮮やかな色はあせ、(「はねず」は移るの掛詞なので、花ははねずの梅ととる)私の御代に(「わが御代に 下(ふ)る」とよむ。)長い天下(「ながめ」→「長雨」→「長天」と変化する。さらに「下(ふ)る」を合わせて「天下」という言葉を導く)がやってきたようだ。

惟喬親王は男だが、女性に転じるためのいくつかの呪術があったのではないかと私は考えた。

❶俗謡に「おまえ百までわしゃ九 十九まで、共に白髪の生えるまで(謡曲高砂より)」というのがある。

尉が熊手をもち、姥が箒をもって掃いているのは、熊手=九十九まで、掃く(まで)=百(まで)という語呂合わせ。
尉・・・熊手をもつ→九十九まで→くじゅうくまで
姥・・・箒をもつ→掃く→はく→・ひゃく→百

亀岡祭 高砂山 御神体 
亀岡祭 高砂山 御神体

九十九髪とは白髪のことであるという。
そのココロは

百-一=九十九
百-一=白
∴九十九=白

また百は掃く=はくなので、はく=白に転じる。

尉・・・熊手をもつ→九十九まで→くじゅうくまで)→百-一=白
姥・・・箒をもつ→掃く→はく→・ひゃく→百→はく→白

このように、尉も姥もどちらも白になる。
それで「共に白髪の生えるまで」と謡うのではないだろうか。

さらに、尉も姥もどちらも最終的に白になるので、

尉=白
姥=白
∴尉=姥=白

陰陽 黒と白⑳最終回 『まとめ と 神の性別を変える呪術』  


❷厳島神社(天津石門別雅姫神社)はかつて志明院にあり、惟喬神社より高いところにあった。
女神は山の神、男神は田の神なので、形が整っている。
この厳島神社(天津石門別雅姫神社)を惟喬神社より低いところに移転させ、惟喬神社を雌宮と名付けることで、
惟喬神社を山の神=女神とし、厳島神社(天津石門別雅姫神社)を田の神=男神としたのかもしれない。

http://arhrnrhr.blog.fc2.com/blog-entry-509.html

この二つに加えてもうひとつ、あげられるかもしれない。

❸惟喬親王は天岩戸の神であり、岩がふたつ並ぶ姿が女性の乳房を思わせるところから、女神に転じた。

⑤長源寺の観音祭は七夕の行事?

長源寺では7月1日に観音祭を行っており、そうめん流しを行っているというが、七夕にそうめんを食べる習慣がある。
たぶん、そうめんは天の川のイメージなのではないかと思う。

ちなみに平安時代の宮中では七夕行事としてに索餅を食べる習慣があった。
索餅とは奈良時代に唐より伝わったとされる唐菓子で、そうめんの原型といわれている。
中国では索餅を食べると熱病にかからないと言われていた。

おそらく観音祭は七夕の行事なのだろう。

癌封じ茶はクマザサ、柿の葉、ドクダミ、枇杷の葉などをブレンドしたもので、かつては大変飲みにくかったという。
(おいしくなかったのだろうw)

それはそうと、惟喬親王は法輪寺に籠って虚空蔵菩薩より漆の製法を授かったという伝説がある。

惟喬親王の乱⑪ 法輪寺 十三詣 『惟隆親王、虚空蔵菩薩より漆の製法を授かる?』 

なぜこんな伝説が伝わっているのか。
ひとつには惟喬親王が木地師の祖とされているということがありそうに思える。
木地師が作ったお椀には漆を塗る。

もうひとつ、即身仏となろうとする人は入定する前に漆のお茶を飲んだのだという。
こうすることによって胃の中のものを吐き出し、また漆の防腐効果で腐りにくい体になったとされる。

もしかしたら癌封じ茶は、この漆のお茶にちなむものであるかもしれない。






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惟喬親王の乱㉜ 室生寺 室生龍穴神社『室生と雲ヶ畑の共通点、男神を女神に転じる呪術?』

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「小野小町は男だった」もよかったらよんでみてね。


室生寺 石楠花3

①室生寺五重塔の宝瓶に閉じ込められた龍は井上内親王の霊?

私は室生寺は井上内親王を慰霊するための寺ではないかと考えている。その理由は・・・

770年、藤原百川・藤原永手らに推されて白壁王が即位して光仁天皇となった。
皇太子には光仁天皇と井上内親王との間に生まれた他戸親王がたてられた。

ところが772年、井上内親王は光仁天皇を呪詛したとして皇后の位を剥奪される。
他戸親王も母・井上内親王に連座したとして廃太子となり、代わって山部王(のちの桓武天皇)が立太子した。
 
井上内親王と他戸親王は大和国宇智郡の没官(官職を取り上げられた人)の館、(奈良県五條市須恵あたり)に幽閉され、775年に二人は幽閉先で亡くなった。

公卿補任(くぎょうぶにん)によれば、この一連の事件は『藤原百川の策諜』とある。
藤原百川が策謀をたて、高野新笠が生んだ山部王を皇太子にする為に、井上内親王と他戸親王に無実の罪を被せた、というのだ。

また水鏡には
『(井上内親王の祟りによって)20日にわたって夜ごと瓦や石、土くれが降った。』

『777年冬、雨が降らず、世の中の井戸の水は全て絶えた。宇治川の水も絶えてしまいそうだ。
12月、百川の夢に、百余人の鎧兜を着た者が度々あらわれるようになった。また、
それらは山部王の夢にも現れたので、諸国の国分寺に金剛般若をあげさせた。』


と記されている。 

室生寺の栞には次のようなに記されていた。

奈良時代の末期、山部親王(後の桓武天皇)のご病気平癒の祈願が興福寺の五人の僧によって行なわれ、これに卓効があったことから勅命によって創建された。

 
室生寺の栞には山部王のご病気平癒の祈願が行なわれたのはいつかについては記されていなかった。
でもそれは、777年12月と778年3月に行われたものと考えられる。

というのは『続日本紀』や『宀一山年分度者奏状』(べんいちさんねんぶんどしゃそうじょう)に次のような内容が記されているからだ。

777年12月と778年3月の2回に渡り、山部王(のちの桓武天皇)の病気平癒のため、興福寺の五人の僧が室生の地において延寿の法を修した。

藤原百川や山部王が悪夢に悩まされたのが777年冬だったことを思い出してほしい。
山部王の病は井上内親王の怨霊の祟りであると考えられ、そのため室生寺で僧たちが延寿の法を修したのはないだろうか。

室生寺の五重塔の九輪の上には、水煙のかわりに宝瓶(ほうびょう/壷状の飾り)がつけられており、修円という僧が、この宝瓶に室生の龍神を封じ込めたと言い伝えられている。

修円が室生寺の五重塔の宝瓶に封じ込めた室生の龍神とは、井上内親王の霊ではないだろうか。

室生寺 五重塔 宝瓶 

⓶龍の棲む穴と天岩戸


室生寺をでて室生川を上流に向かうと室生龍穴神社がある。

室生龍穴神社 境内図

室生龍穴神社 鳥居

室生龍穴神社

拝殿には『善女龍王』と記した額があった。女神を祀る神社だと考えられる。

室生龍穴神社 本殿

 お参りをすませて龍穴に向かう。

途中、天の岩戸と呼ばれる岩があった。

室生龍穴神社 天の岩戸    
はて。どこかで見たような形をしている?

天の岩戸からしばらく歩くと清流の傍らに龍穴があった。

龍穴 

清流は龍のようにくねりながら流れていた。
龍とはこの清流のことではないだろうか。

室生川

③惟喬神社の磐座は天岩戸だった?

前回、雲ヶ畑の惟喬神社と厳島神社を参拝した。
惟喬親王の乱㉛ 惟喬神社  厳島神社 『磐座のある二つの神社』 

惟喬神社と厳島神社、ふたつの神社に磐座があったのを思い出してほしい。

まず惟喬神社の磐座を見てみよう。

惟喬神社-磐座?

惟喬神社 磐座

この磐座は、室生龍穴神社の天岩戸によく似ていると思うがどうだろうか?

室生龍穴神社 天の岩戸

室生龍穴神社 天岩戸


もしかして、惟喬神社の磐座は天岩戸ではないのか?

厳島神社(雲ヶ畑)-磐座

厳島神社 磐座

惟喬神社から少し山を下りたところに厳島神社があり、そこにも磐座があった。
この神社はもともとは天津石門別稚(あまついわとわけわかひめ)姫神社と呼ばれていた。

「天津石門」は「あまついわと」とよむ。これは「あまのいわと」と同じものではないか?

④志明院にとじこめた龍とは惟喬親王の霊?

惟喬神社からさらに山を登っていくと志明院という寺がある。

創建は650年、829年に淳和天皇の勅命をうけて空海が創建し、皇室の勅願寺であったという。
本堂の不動明王は空海の作、奥の院の根本中堂には菅原道真作の眼力不動明王を安置する。
護摩洞窟には鳴神上人が竜神を閉じ込めたと伝わる。

雲ヶ畑 観光マップ

ネットで志明院を調べると山門より中写真撮影禁止だったり、荷物を屋外にある受付に預けないといけないとか、etc・・・・w
どうもややこしそうだw
ややこしいのは苦手なので拝観しなかったw。石楠花の花が咲くそうなので、その季節にもしかしたら行くかもしれない。

境内のようすなどはこちらのブログが詳しかった。https://blog.goo.ne.jp/tabi_diary/e/8ddce598f88bb095fcb3dc64075c1fff

ウィキペディアには次のように記されていた。

日本有数の魔所、都から追われた魑魅魍魎の最後の砦と云われている。

作家の司馬遼太郎が新聞記者だった頃、志明院に宿泊した時の奇っ怪な体験をエッセイにしている。司馬は後年アニメの宮崎駿監督との対談時にその話しをし、アニメ映画「もののけ姫」の着想になったといわれている。 


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%97%E6%98%8E%E9%99%A2 より引用

またすでに述べたように、志明院の護摩洞窟に鳴神上人が竜神を閉じ込めたと伝わる。

司馬遼太郎の体験とは、風もないのに障子がカタコト鳴る、とかそういった類のもののようだ。
私はその手のオカルトは証拠がないのに「幽霊だ」「心霊現象だ」と騒いでいるだけのように思えて興味がない。
しかし「都から追われた魑魅魍魎の最後の砦」という伝承は気になる。
オカルト的に気になるというのではなくて、「なぜそう言い伝えられているのか」その理由や背景が気になるのだ。

惟喬神社と近いところから考えて、惟喬親王と関係があるかもしれない。

この竜神もまた室生寺と同様、女神なのではないかと思える。
水の神、川の神は「女神であることが多いのだ。
弁財天は現在の日本においては「財宝を授けてくださる神」として信仰されているが
もともとはインドの川の神で「サラスヴァティー」といった。
日本では宗像三女神のイチキシマヒメと習合されている。
厳島神社はこの宗像三女神を祀る神社なので、雲ヶ畑の厳島神社は
天津石門別稚姫=宗像三女神=弁財天=川の神
としているのだろう。

また室生寺から室生川を上流に向かっていくと、龍穴神社があり、その奥宮に龍が棲むと言われる龍穴がある。
すぐそばを清流が流れているが、まがりくねった室生川はまるで龍そのものだった。

志明院の護摩洞窟に閉じ込められた竜神とは惟喬親王ことではないだろうか。
惟喬親王は男だといわれるかもしれない。
しかし、私は惟喬親王と小野小町は同一人物だと考えている。

これについては詳しく「小野小町は男だった」のシリーズで述べたが、簡単にまとめておく。

a
古今和歌集には男が女の身になって詠んだ歌が多数ある。
b古今和歌集仮名序はやけに小町が女であることを強調しているが、これは小町が男だからではないか。
c.小野小町は穴のない体で性的に不能であったともいわれているが、穴がない体なのは小町が男だからではないか。
d『古今和歌集』に登場する女性歌人に三国町、三条町、がいる。
三国町は一般には継体天皇の母系氏族・三国氏出身の女性だと考えられているが、
 『古今和歌集目録』は三国町を紀名虎の娘で仁明天皇の更衣としている。
  紀名虎の娘で仁明天皇の更衣とは紀種子のことである。
  また三条町は紀名虎の娘で文徳天皇の更衣だった紀静子のことである。
  三国町が紀種子とすれば、三条町=紀静子なので、三国町と三条町は姉妹だということになる。
  そして紀静子は惟喬親王の母親だった。。
  惟喬親王は三国町の甥であり、三条町の息子なので、三国町・三条町とは一代世代が若くなる。
  そういうことで小町なのではないだろうか。
e花のいろは うつりにけりな いたづらに わがみよにふる ながめせしまに
この歌は縁語や掛詞を用いて二重の意味をもたせた技巧的な歌だとされる。
①花の色はすっかり褪せてしまったなあ。春の長い雨のせいで。
②私の容色はすっかり衰えてしまったなあ。恋の物思いにふけっている間に。
※『色』・・・『視覚的な色(英語のColor)』『容色』
※『世』・・・『世の中』と『男女関係』
※『ながめ』・・・『物思いにふける』『長雨』
しかし、もうひとつ違う意味が隠されているように思える。
③はねずの梅の鮮やかな色はあせ、(「はねず」は移るの掛詞なので、花ははねずの梅ととる)私の御代に(「わが御代に 下(ふ)る」とよむ。)長い天下(「ながめ」→「長雨」→「長天」と変化する。さらに「下(ふ)る」を合わせて「天下」という言葉を導く)がやってきたようだ。

そういえば、小野小町の邸宅跡と伝わる髄心院でも石楠花が咲く。

髄心院 石楠花

小野小町の邸宅跡と伝わる髄心院 石楠花

⑤石楠花は磐座に咲く花という意味?

石楠花は「石南花」の呉音読み「しゃくなんげ」が転じた名前とされる。
「石南」と書くのは、石の間に生えて、南向きの土地を好むためだという。

但し、中国の「石南」は日本の石楠花とは異なる品種である。
どうも誤って名づけられたらしい。

葉の裏側を中にした筒状にして越冬する白山石楠花という種類もあるそうである。
惟喬親王を祀る神社のひとつに多賀大社近くの白山神社があり、白山石楠花という名前は気になる。

もしかしたら石楠花には磐座に咲く花、山に咲く花というイメージがあり、それで石神である惟喬親王(=小野小町)ゆかりの寺に植えられているのかもしれない。

室生寺に祀られていると考えられる井上内親王も石の神として信仰されていたのかもしれない。

⑥志明院付近と室生寺付近の共通点

気になる記事があった。

本堂の奥では谷が二つに別れていて、左方には歌舞伎の舞台となった護摩洞窟がある。奈良・室生寺奥の龍穴とよく似ており、渓流に面した崖にぽっかりと口を開けている。

http://agua.jpn.org/tour/t21a.html より引用

④ですでにいくつか述べたが、志明院付近と室生寺付近には共通点がある。
志明院付近室生寺付近
清流が流れている。清流が流れている。
川のほとりに洞窟がある。(護摩洞窟)川のほとりに洞窟がある。(龍穴)
石楠花が咲く。(志明院)石楠花が咲く。(室生寺)
天岩戸に似た磐座がある。(惟喬神社・厳島神社)天岩戸がある。
龍をとじこめたという伝説がある。(志明院)龍をとじこめたという伝説がある。(室生寺)
懸造の建物がある。(志明院) 懸造の建物がある。(室生寺 金堂 奥の院)

⑦惟喬親王を女神に転じる呪術

こんな記事もあった。

祭神は、女神の天津石門別雅姫(あまついわとわけわかひめ)、山の神を祀るともいう。都の水源地を守る社として崇敬を集めた。

◆歴史年表 
創建の詳細、変遷は不明。
 年代不詳、当初は、岩屋山中に祀られていた。
 
平安時代
中期、927年の『延喜式』の名神大社に列した、「天津石門別雅姫(あまついわとわけわかひめ)神社」ともいう。
 その後、志明院(北区)の創建に伴い、現在地に遷されたという


https://kyotofukoh.jp/report263.html
より引用

天津石門別雅姫神社は、もともとは岩屋山中にあり、志明院の創建の際に現在地へ遷宮したのだという。
天津石門別雅姫神社はもともと志明院の境内にあったということかもしれない。

https://blog.goo.ne.jp/tabi_diary/e/8ddce598f88bb095fcb3dc64075c1fff

↑ こちらの記事をよむと境内図に薬師如来、鳴神岩屋という二つの磐座が並んで描かれている。
この二つの石が天岩戸であったのかもしれないが、ぐぐっても写真がでてこないので何ともいえない。

現在の厳島神社(天津石門別雅姫神社)が志明院にあったほうが形としては整っているように見える。
というのは、厳島神社(天津石門別雅姫神社)は女神を祀る神社、惟喬神社は男神を祀る神社だからである。
女神は山の神、男神は田の神なので、女神の方が高い場所に祀られるべきだと思うのだ。

交野ケ原の織女石は妙見山の頂上ちかくにあり、牽牛が耕す田の神を祀る天田神社は妙見山をおり、天の川を超えたところにあった。

惟喬親王の乱㉗ 星田妙見宮と天田神社『天田神社の住吉明神は惟喬親王のイメージ?』 


天津石門別雅姫神社が岩屋山中から、惟喬神社よりも低い位置に移転したのは、
そこに志明院が創建されることになって場所をあけわたしたというよりも、呪術的な理由があったのかもしれない。

惟喬神社に「雌宮」の額がかけられていたのを思い出してほしい。
惟喬神社の御祭神・惟喬親王は男なのに、なぜ雌宮なのか。

神は現れ方で御霊・和魂・荒魂にわけられるとされ、和魂は女神、荒魂は男神だとする説がある。

御霊・・・・神の本質
和魂・・・・神の和やかな側面・・・・女神(天津石門別雅姫)・・・・高所
荒魂・・・・神の荒々しい側面・・・・男神(惟喬親王)・・・・…・・低所

荒魂である惟喬親王を和魂である女神に転じるためにはどうすればいいか。
惟喬神社より低い場所に天津石門別雅姫を祀れば、天津石門別雅姫は男神に転じ、惟喬親王は女神に転じる。

御霊・・・・神の本質
和魂・・・・神の和やかな側面・・・・女神(惟喬親王)・・・・・・・・高所
荒魂・・・・神の荒々しい側面・・・・男神(天津石門別雅姫)・・・・・低所


そんな呪術がかけられているのではないか、とふと思った。




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惟喬親王の乱㉛ 惟喬神社  厳島神社 『磐座のある二つの神社』

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惟喬親王の乱㉚ 再び多賀大社『惟喬親王はドクロの神だった?』  よりつづきます~

「小野小町は男だった」もよかったらよんでみてね。



①惟喬神社

再び雲ヶ畑にやってきた。
我々は雲ヶ畑には以前も訪れたことがある。
そう、地蔵盆の8月24日、惟喬親王を偲んで山に点火する文字の火を見にやってきたのだった。
惟喬親王の乱⑤雲ヶ畑 松上げ 『惟喬親王の本地仏は地蔵菩薩?』 

雲ヶ畑 観光マップ

そのときは時間がなくて参拝できず心残りだった惟喬神社をまず参拝する。

惟喬神社 
惟喬神社は予想以上に小さな神社だった。

説明板には次のように記されている。(読みにくいところがところどころあったので細かいところで間違っているかもしれません)

平安時代前期の文徳天皇の第一皇子・惟喬親王を祭神とする。
幼少から聡明だった惟喬親王は父の愛情も深く次の皇位を継ぐはずであったが、時の権力者・右大臣藤原良房の娘と文徳天皇の間に第四皇子・惟仁親王(後の清和天皇)が生まれると、良房らの圧力により皇位を奪われ、都を後にした。
伝承によると、惟喬親王は貞観九年(867)、現在の桟敷ヶ岳辺りに隠棲していたが、翌年雲ヶ畑に迎えられ、現在の雲ヶ畑出張所付近に造影された高雲宮に移りすみ、間もなくそこで出家した。
現在の高雲寺はこの宮に由来するものといわれている。
この神社は、臣下や村人たちが親王の徳を永遠に奉祀するため創建したという。京都や滋賀の山間部では、惟喬親王に対する信仰が強かったことの現れである。
『拾遺都名所図絵』によると、親王が寵愛していた雌鳥がこの地で病死したため、ここに祠を建てたといい、この縁から雌社とも呼ばれている。


⓶惟喬親王の高雲宮に由来する高雲寺

説明板に「高雲寺」とあるのは、以前松上げを見にいったお寺のことである。松上げの写真を3枚はっておく。

雲ヶ畑 高雲寺 石碑

境内の歌碑

雲ヶ畑 中畑町 松上げ 

高雲寺境内から向かいの山に向かって松明を振り「おーい」と叫ぶと、
向かいの山から「おーい」と返事が返ってきて文字が点火される。


 雲ヶ畑 松上げ 
③惟喬親王は男なのに「雌宮」とはこれいかに?

惟喬神社には「雌宮」と記された額がかけられていた。

惟喬神社2 
私は「鳥」とは死んだ人の魂を現していると思う。
というのは、死んだヤマトタケルが白鳥になったとか、アメノワカヒコの葬儀を鳥たちが行ったなどの記述が記紀にはあり、鳥は死のイメージが強いこと
また仁徳天皇陵などの巨大古墳は地上からではその形がわからず、鳥の視線を意識して作られていると思う。
空高く飛ぶ鳥の視線からであればその形がはっきり認識できるだろう。
昔の人は死んだ人の魂は鳥になると考えていたのではないだろうか。

惟喬親王が寵愛していた雌鳥が死んだので葬ったというが、惟喬神社の御祭神は惟喬親王である。
雌鳥とは、死んだ惟喬親王の魂のことではないだろうか。

惟喬親王は男性なのになぜ雄鳥ではなく、雌鳥なのだろうか。

このシリーズの中で何度か述べたが、私は小野小町の正体は小野宮と呼ばれた惟喬親王だと考えている。

これについては詳しく
「小野小町は男だった」のシリーズで述べたが、簡単にまとめておく。

a
古今和歌集には男が女の身になって詠んだ歌が多数ある。
b古今和歌集仮名序はやけに小町が女であることを強調しているが、これは小町が男だからではないか。
c.小野小町は穴のない体で性的に不能であったともいわれているが、穴がない体なのは小町が男だからではないか。
d『古今和歌集』に登場する女性歌人に三国町、三条町、がいる。
三国町は一般には継体天皇の母系氏族・三国氏出身の女性だと考えられているが、
 『古今和歌集目録』は三国町を紀名虎の娘で仁明天皇の更衣としている。
  紀名虎の娘で仁明天皇の更衣とは紀種子のことである。
  また三条町は紀名虎の娘で文徳天皇の更衣だった紀静子のことである。
  三国町が紀種子とすれば、三条町=紀静子なので、三国町と三条町は姉妹だということになる。
  そして紀静子は惟喬親王の母親だった。。
  惟喬親王は三国町の甥であり、三条町の息子なので、三国町・三条町とは一代世代が若くなる。
  そういうことで小町なのではないだろうか。
e花のいろは うつりにけりな いたづらに わがみよにふる ながめせしまに
この歌は縁語や掛詞を用いて二重の意味をもたせた技巧的な歌だとされる。
①花の色はすっかり褪せてしまったなあ。春の長い雨のせいで。
②私の容色はすっかり衰えてしまったなあ。恋の物思いにふけっている間に。
※『色』・・・『視覚的な色(英語のColor)』『容色』
※『世』・・・『世の中』と『男女関係』
※『ながめ』・・・『物思いにふける』『長雨』
しかし、もうひとつ違う意味が隠されているように思える。
③はねずの梅の鮮やかな色はあせ、(「はねず」は移るの掛詞なので、花ははねずの梅ととる)私の御代に(「わが御代に 下(ふ)る」とよむ。)長い天下(「ながめ」→「長雨」→「長天」と変化する。さらに「下(ふ)る」を合わせて「天下」という言葉を導く)がやってきたようだ。

つまり惟喬親王=小野小町(女)なので雄鳥ではなく、雌鳥なのではないかと私は考えた。

③惟喬神社には磐座があった!

参拝をすませ、次の目的地に向かおうと思ったが、何か気になって宮の背後に回ってみた。
宮の背後は急な山の斜面となっており、見上げると磐座のようなものがあった!

惟喬神社-磐座? 
つきあってここまで一緒にきてくれた友人は、もう階段を降りていたが、私が手招きすると再び階段を上ってきた。
私は友人に「磐座がある」といった。
友人は「これは磐座かな?注連縄してないし」といったが、私はこれは磐座だと思う。
注連縄は、それを人間がかけるかかけないかだけの存在だ。
そんなことより、社殿のま後ろにこの磐座がある、ということが重要ではないだろうか。
社殿をたててから、この磐座が現れたのか?
そんなことないだろう。このような巨大なものを動かしたと考えるよりは、巨大な磐座があるからここに社殿をたてたと考えたほうが自然ではないだろうか。

説明板にもネットの情報にも惟喬神社に磐座があるとは記されていないが、私はこれは磐座だと思う。

もう少し高いところまで登ったら鮮明に磐座の形をカメラでとらえることができただろうが
残念ながら足場が悪くて登ることができなかった。

しかし木々の隙間からふたつの磐が見える。
向かって左は尖がった細長い三角形をしており、向かって右はよく形がわからないが、向かって左よりもやや平べったいように見える。

④惟隆親王は石の神(ミジャクジ様)?

惟喬親王は磐=石の神なのではないか?
各地にミシャグジ様の信仰があり、ミシャグジ様とは「御石神様」がなまったものだといわれている。
そしてミシャグジ様には杓子を奉納する習慣があるが、杓子は人の頭部のような形をしている。
さらに、かつてお多賀杓子はヘラではなく、くぼみのあるスプーンのような形をしていた。
その杓子は木地師によって作られたが、木地師の祖は惟喬親王なのである。
又お多賀杓子を授与している多賀大社から数キロのところにある白山神社では惟喬親王をまつっている。
惟喬親王とミシャグジ様の関係は深そうに思える。


大覚寺身振り狂言 十王堂2jpg

大覚寺(兵庫県尼崎市 大覚寺身振り狂言『十王堂』に登場した琵琶を持つ弁才天/向かって左)

広島県宮島の厳島神社では江戸時代より宮島杓子を授与している。
そして、紀氏の本拠地であった湖東にある多賀大社ではお多賀杓子を奉納しており、
そこから5.6kmほど離れた場所にある多賀町大君ヶ畑の白山神社には惟喬親王を祀っているのだった。

http://arhrnrhr.blog.fc2.com/blog-category-36.html?q=%E7%99%BD%E5%B1%B1%E7%A5%9E%E7%A4%BE&charset=utf-8

多賀屋

この多賀大社の奥の院とも呼ばれる胡宮神社の胡と言う字には「首」という意味がある。
胡宮神社とはドクロの神を祀る神社であり、胡宮神社と関係の深い多賀大社もまたドクロの神を祀る神社ではないかと思う。
それゆえ、多賀大社では切断された人の頭部を思わせるお多賀杓子を授与しているのではないか。
また江戸期のお多賀杓子はスプーンのような形をしており、木地師が杓子を作っていたという。
そして惟喬親王は木地師の祖とされており、境内には、惟喬親王を思わせるさざれ石も祀られていた。

多賀大社 さざれ石 
多賀大社 さざれ石 

惟喬親王に仕えていた木地師の藤原朝臣石位左衛門は、親王より「よい椀生地を探せ」と命じられた。
そこであちこち探し回って春日村を発見し、ここに移り住んだ。
石位左衛門は春日村と京を行き来する途中で「さざれ石」を発見して

わが君は 千代に八千代に さざれ石の 磐となりて 苔のむすまで

と詠んだ。

という伝説がある。さざれ石とは惟喬親王をイメージした石なのだ。

③厳島神社にも磐座があった。


惟喬神社から下っていくと厳島神社があった。

厳島神社

厳島神社(雲ヶ畑) 説明板

もともとは天津石門別稚姫神社と呼ばれていたのが、明治に弁財天と習合されて石門別弁財天、雲ヶ畑弁財天となり、廃仏毀釈の際に厳島神社と改称したとある。

さらに「祭神・天津石門別稚姫(あまついわとわけわかひめ)が出現したという石門岩があると書いてある。

厳島神社(雲ヶ畑)

写真中央は拝殿(舞殿)で、その奥に見えているのが本社。本社の向かって右側に・・・・

  厳島神社(雲ヶ畑)-磐座

磐座があった!

尖がった三角柱の形が、惟喬神社背後にあった磐座(だと思う)と似ている。
これは、惟喬神社と関係のある神社ではないか?

理由はわからないが、日本には2個セットになったものがいくつかある。
例えば上賀茂神社と下鴨神社、諏訪大社上社と諏訪大社下社のように。

そういえば、交野ケ原(大阪府枚方市・交野市)には牽牛星・織女星に喩えられる寺社が、中山観音寺(跡)&機物神社、星田妙見宮&天田神社の2ペアあるのだった。

惟喬親王の乱㉗ 星田妙見宮と天田神社『天田神社の住吉明神は惟喬親王のイメージ?』 
惟喬親王の乱㉖ 中山観音寺跡と機物神社 『惟喬親王=小野小町=織姫?』 

もしかしたら天津石門別稚姫とは、惟喬親王のことではないか?

さらに天津石門別稚姫は弁財天と習合されたようだが、弁財天は琵琶を持っている。
弁財天を祀る広島県宮島の厳島神社では宮島杓子を授与している。

宮島杓子は江戸時代、弁財天が持つ琵琶に形が似ているところから授与されるようになったといわれるが
実は弁財天はドクロの神なのではないか?

Seated Benzaiten (Sarasvati), Kamakura period, 13th century, wood with polychromy, cut gold leaf, and inlaid crystal eyes - Tokyo National Museum - DSC05088


https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Seated_Benzaiten_(Sarasvati),_Kamakura_period,_13th_century,_wood_with_polychromy,_cut_gold_leaf,_and_inlaid_crystal_eyes_-_Tokyo_National_Museum_-_DSC05088.JPG よりお借りしました。

Daderot, Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由で

弁財天の中には、上の写真のように頭上に宇賀神を戴くお姿の者が多い。

宇賀神(うがじん)は人頭蛇体のおすがたをしておられる。


喜光寺 宇賀神 

喜光寺 宇賀神


http://www.senjyuin.or.jp/?page_id=135

上のサイトに「空鉢ご分霊」の写真が掲載されているが、蛇がとぐろを巻いたお姿をされており、宇賀神にそっくりである。

昔の人は蛇とは胴体がなく、頭部に長い首のついた動物だと考えていたのではないだろうか。
すでに述べたように惟喬親王もドクロの神として信仰されていた可能性があり、弁財天と惟喬親王には共通点がある。
弁財天と習合されていた天津石門別稚姫もまたドクロの神ではないだろうか。



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惟喬親王の乱㉙胡宮神社 『胡宮神社の胡はドクロを意味する?』  よりつづきます~

「小野小町は男だった」もよかったらよんでみてね。



秋の訪れをつげる蕎麦の花

多賀大社付近 蕎麦畑

 
①弓の弦で切って作る糸切餅

多賀屋 

↑ 多賀大社門前にある『多賀や』さん。

多賀屋 糸切餅 看板 

『糸切餅の看板が目をひく。

糸切餅は長く引き伸ばした米粉のお餅を三味線の弦で切って作る。
もともとは三味線の弦ではなく、弓の弦で切っていたそうだ。

 糸切餅の起源は約700年前の「蒙古襲来」にまで遡ると言われる。

1274年と1281年の2度にわたり、蒙古(モンゴル帝国)が日本にせめて来た。
しかし神風が吹いて、蒙古は撤退しました。
その後、人々は蒙古が撤退したのは神のご加護があったからだと考えて、多賀大社にお供え物をした。
その中に糸切餅があったという。
赤と青の三本線は蒙古軍旗を模したものなのだとか。

それはともかく、「弓の弦で切っていた」と聞いて私は心臓バクバク状態に!

なぜかって?

糸切餅


②多賀大社の奥の院『胡宮神社』の『胡』とはどういう意味?

前回の記事、惟喬親王の乱㉙胡宮神社 『胡宮神社の胡はドクロを意味する?』 で私はこんな話をした。

❶胡宮神社は多賀大社の奥の院ともいわれている。

❷胡宮神社の「胡」という漢字には次のような意味がある。
胡の意味
獣のあご。垂れ下がった顎の肉
くび多賀大社には杓子(しゃもじ)をお供えする習慣がある。
多賀大社=胡宮神社=胡の神を祀る神社=首(ドクロ)の神を祀る神社
という発想から杓子が奉納されたのではないか?
(杓子は人間の頭部と首を連想させる形をしている)
なんぞ。なに。いずくんぞ。
いのちがながい。としより。おきな多賀大社は延命にご利益があると信仰されている。
とおい。はるか。
えびす。北方の異民族の名。日本にとって蒙古は外国からやってきた異民族。
多賀大社=胡宮神社=胡の神を祀る神社=異民族の神をまつる神社?
昔の中国で、外国から渡来したものをいう。
祭器
でたらめのこと。
ほこの首。ほこの先に曲がってわきに出たもの。

多賀大社 恵比寿・大黒の額

多賀大社


 
③弓で弾く楽器を胡弓というのはなぜ?

胡弓という楽器がある。
三味線に似ているが、三味線と違って弓で弾く。

Playing on Samisen, Yokin and Kokin

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Playing_on_Samisen,_Yokin_and_Kokin.jpg よりお借りしました。
向かって右が胡弓。

胡弓は四角い箱に柄がついたような形をしていて、杓子に似ている。
また胴体から切り離した頭部(首・ドクロ)にも似ている。
それで胡弓という名前がつけられたのではないだろうか。

琉球には胡弓(クーチョー)という楽器があるが、やはり弓で弾く。
琉球の胡弓は昔は椰子の実を割って胴にしていたというので、日本の胡弓よりさらに頭部(首・ドクロ)のイメージに近い。

さらに、擦弦楽器を総称して胡弓と呼ぶこともあり、明治初期にはバイオリンのことも胡弓といっていた。

つまり弓でひくものが胡弓であり、似たような形をしていてもバチで弾いて音を出す三味線には胡という漢字は用いられないのだ。
これはなぜだろうか?

それは弓でひくことに、首を刀などで切断しているイメージがあるからではないだろうか?

多賀大社 寿命蕎麦2

多賀大社境内にある寿命蕎麦の店

④糸切餅は胡弓の弓で切っていた?

ここで糸切餅のデザインを思い出してほしい。
胡弓には弦が3本ある。糸切餅の3本の線は、蒙古の旗だと言うが、本当は胡弓の3本の弦をイメージしたものではないか。
そして、糸切餅は現在は三味線の弦で切っているが、もともとは弓の弦で切っていたのだった。
弓は弓でも、胡弓の弓の弦で切っていたのではないか。

胡弓の弓の弦は馬の尻尾の毛を束ねて作られている。
もちろん束ねたままでは切れないだろうが、馬の尻尾の毛一本ならば強度があれば切れそうに思うが、どうだろうか。
馬の尻尾の毛が入手できれば試してみたいがw

これが正しければ、糸切餅の起源は蒙古襲来よりも、時代が下って江戸時代ではないかなと思ったりする。
胡弓が歴史上に登場するのは江戸時代だからだ。

⑤杓文字をつくる人の祖先は惟喬親王だった

多賀屋

もう一度多賀屋さんの看板をみてみよう。
これは多賀大社で授与しているお多賀杓子をモチーフにしたものだ。

この杓子のルーツについて、オモシロイ記事を見つけた。
https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/1995-05-15
なんとタイトルは『杓文字(しゃもじ)を作る人々の祖神「惟喬親王」』!
われらの惟喬親王がここにもついに現れたw

たいへんオモシロイ記事で、次のような内容が記されている。
長くなるが、自分用メモという意味で、記事の内容とは直接関係のない記事も記しておくw
重要と思われる点については赤字で記す。

a.字は敵を“メシ取る”という縁起かつぎで、日清戦争の際には、兵士や家族が厳島神社の回廊の柱に打ち付けた。

b.「杓文字」は「柄杓(ひしゃく)」の女房言葉。
 現在では水をすくうのは柄杓、味噌汁をよそうのは杓子(しゃくし)、ご飯を盛るのは杓文字と使い分けているが同じ道具だった。


c『柄杓」は、瓢箪(ひょうたん)の異称「瓠(ひさご)」がなまったもの。
古代人は乾燥させた瓢箪をタテ割りにして、水や汁や飯をすくっていた。

d.近世の伊勢群参のお蔭参りでは、巡礼者が曲物柄杓を腰にさした。

e『多賀神社史』は、お多賀杓子について次のように記している。
「元正天皇の養老年間中、天皇、不予(ご病気)にましまし、供御(くご)を聞こし召されなかったにより、本社に御祈願あり、伺官ら忌火をもって強飯を炊き、神山の#(木偏に夫)栘(しで)の木をもって杓子を作り、これに副えて奉ったところ、とみに御悩みの平癒を見た」

杓子を作った木の枝を地面に差したところ、根が生じたのが、田園にいまも大きな枝を広げるケヤキの大木の「飯盛木(いもろぎ)」で、男木と女木があり、県の天然記念物に指定されている。

※ 養老年中に元正天皇が病を得たという記述は、『続日本紀』にはない。

※江戸中期に書写された『多賀大社儀軌』第一の「飯盛木之事」の項は、元正天皇の故事について言及していない。

※そのため故事は「諸国を勧進廻りした近世の坊人たちが延命・長寿の御神徳を弘布するために“養老”という年号にあやかった創作」とする説もある。

f.多賀大社のある近江は大陸との関係が深い土地。湖東地方には渡来人の集落が築かれ、唐・新羅連合軍に敗れた百済の王族や貴族が亡命していた。

g多賀大社のある犬上郡の首長・犬上君御田鍬(みたすき)は遣唐使、遣隋使として大陸にわたった。

h.蘇我氏は百済系の渡来氏族だとする説が有力。有力渡来氏族と関係が深かった。

i.帝の時代、蒸した強飯(こわめし)を食していた。だったらしい。
※篠田統氏によると、煮飯が主流になるのは釉薬がかかった陶鍋や陶釜が普及する平安中期以降。
※強飯の時代は精白技術が十分ではなく、ぽろぽろの強飯を食べていた。へらの杓文字ではご飯をすくいにくかっただろう。

j.「多賀杓子」は、明治期まではお玉の部分がくぼんでいて、柄はオタマジャクシの尻尾のように曲がっていた。
手強さはお多賀杓子の荒削り ゆがみなりにも命長かれ


http://3-gin.net/3gin-blog/november-20th-2018
上の記事に江戸時代のお多賀杓子の写真が掲載されている。


k.杓文字はお椀やお盆などと同じく、木地師と呼ばれる漂泊の山民によって作られた

木地師は農耕民の穀物などと交換していたので、杓文字は山という異界からもたらされる呪具と考えられた。

l.木地師の発祥地は 君ヶ畑(きみがはた)、蛭谷(ひるたに)、箕川(みのがわ)、政所(まんどころ)、九居瀬(くいぜ)、黄和田(きわだ)の小椋谷(おぐらだに)六ケ畑である。

※君が畑、小椋谷の木地師の里については以前記事を書いた 惟喬親王の乱③木地師の里 『世継争いに敗れた皇子』 

木地師たちは「悲運の皇子」惟喬親王を祖神として崇めている。


m.惟喬親王は文徳天皇(第55代)の第一皇子で母親は紀静子だったが、文徳天皇には藤原明子との間に惟仁親王(清和天皇)もあり、当事の権力者であった藤原良房の娘・藤原明子が産んだ惟仁親王が皇位についた。

※これについては、このシリーズで何度も書いていることである。

n.『三代実録』によれば惟喬親王は貞観14(872)年に出家し、洛北小野に幽居したと記すが、同16年以降、親王の動静は正史からはうかがえず、入寂の日も明らかではない。

木地師の伝説によれば、出家した親王は愛知郡小椋谷の深山に入御され、小松畑を仮御所として幽棲した。
親王は法華経の巻物が転がるのを見て、手引き轆轤(ろくろ)を考案した。
こうして日本の木地業がおこり、小椋谷が木地師の根源地となったる。

君ヶ畑の大皇器地租(おおきみきじそ)神社、蛭谷の筒井神社ほか、各集落ごとに惟喬親王を祀る宮がある。

o.小椋谷のある愛知郡(いまは神崎郡永源寺町から、さらに東近江市)愛東町には推古天皇の御代に聖徳太子の願いで創建された百済寺(ひゃくさいじ)があり、大陸文化が色濃い。

p.愛知(依智)郡一帯を開拓したのは、やはり渡来民の依知秦氏といわれる。
轆轤の技術は高度な製鉄の技術が前提で、その技術は百済の技術民がもたらしたものらしい。

q.紀氏は、紀伊国に本拠を置き、中央豪族として成長した。5、6世紀に大和朝廷が朝鮮半島に進出した際には大活躍した。
その一派は大和国の平群(へぐり)に移り住んだ。
生駒郡平群町に氏神の平群坐紀氏(へぐりにますきのうじ)神社がある。高市郡にはかつて氏寺の紀寺(きのてら)があったとされる。
湖東地域は平安初期~江戸初期まで紀氏の所領だった。

r.紀氏と蘇我氏には共通点がある。
・武内宿禰(たけのうちのすくね)の臣(おみ)系豪族。
・橿原市曽我町の宗我坐宗我都比古(そがのそがつひこ)神社の宮座に伝わる由緒によると、
元正天皇の祖母・持統天皇が、蘇我一門(本宗家)の滅亡を哀れんで、蘇我倉山田石川麻呂の次男・徳永内供に「蘇我氏の支族」である紀氏を継がしめ、内供の子・永末に祖神を奉斎するための土地を与え、社務と耕作をになわせたとある。
・奈良・平群町の平群坐紀氏神社から1キロも離れていない場所に、長屋王とその妃・吉備内親王の墓所が並んでいる。
蘇我氏と紀氏の関係の近さを示す
長屋王・・・父/高市皇子 母/御名部皇女(父/天智天皇 母/蘇我姪娘(蘇我倉山田石川麻呂の娘))
吉備内親王・・・父/草壁皇子(父/天武天皇 母/持統天皇) 母/元明天皇(父/天智天皇 母/蘇我姪娘(蘇我倉山田石川麻呂の娘))

s.紀氏は一時は外戚として栄えたが、応天門の変以後、政治の表舞台から姿を消した。

t.元正天皇の杓文字伝説と惟喬親王伝説には、没落した渡来民の悲しい歴史が隠されているように思える。

u. 明治政府によって山林改革が実施され、戸籍法が施行されて、「飛び」の生活は認められなくなった。

v. 君ヶ畑のさらに山奥の茨川はかつての鉱山で、轆轤に欠かせないノミはここの鉄鉱石で作られた。
江戸期には約1000人の鉱夫で栄えたが、昭和45年に廃村になった


w.かつて小椋谷と木地師支配本所の正統性を競っていた多賀町大君ヶ畑(おじがはた)の白山神社は惟喬親王を祀っている。



杓子は木地師によってつくられており、木地師の祖は惟喬親王とされている。
また多賀大社から5.6kmほど離れた場所にある多賀町大君ヶ畑の白山神社には惟喬親王を祀っているのだという。
さらに湖東は紀氏の本拠地だったという。(惟喬親王の母親は紀静子)

⑥多賀大社の御祭神と惟喬親王はイメージが重ねられていた?

多賀大社にさざれ石があったことを思い出してほしい。

惟喬親王の乱㉘ 多賀大社 『お多賀杓子はミシャクジ様?』 

多賀大社 さざれ石 
多賀大社 さざれ石 


君と言う言葉は天皇を意味することもあったが、自分が仕えている人のことや、貴人、身分の高い女房(朝廷や貴人邸に仕える女性)、男、遊女などを指す言葉としても用いられていた。

わが君は 千代に八千代に さざれ石の 磐となりて 苔のむすまで


歌の作者は古今和歌集では「読み人知らず」となっているが、岐阜県揖斐川町春日には君が代の由来となったといわれるさざれ石があり、藤原朝臣石位左衛門が詠んだ歌だとして次のように伝えられているそうである。

 惟喬親王に仕えていた木地師の藤原朝臣石位左衛門は、親王より「よい椀生地を探せ」と命じられた。
そこであちこち探し回って春日村を発見し、ここに移り住んだ。
石位左衛門は春日村と京を行き来する途中で「さざれ石」を発見して

わが君は 千代に八千代に さざれ石の 磐となりて 苔のむすまで

と詠んだ。

木地師の藤原朝臣石位左衛門のいう「わが君」とは惟喬親王のことだと考えるのが自然だと思う。

惟喬親王は文徳天皇の第一皇子(母/紀静子)で、文徳天皇も惟喬親王を皇太子に死したいと考えていた。
しかし世継争いに敗れ、異母弟の惟仁親王(母/藤原明子)が皇太子となった。

つまり
わが君は 千代に八千代に さざれ石の 磐となりて 苔のむすまで
この歌は、天皇の長寿を寿ぐ歌ではなく、天皇になれなかった者の長寿を寿ぐ歌であったと考えられる。

そのさざれ石が多賀大社にあるのは、多賀大社が惟喬親王と関係が深い神社だからかもしれない。

杓子は人の頭部に似ている。
惟喬親王はドクロの神なのではないか?そして、お多賀杓子は木地師の祖・惟喬親王にちなんで奉納されるようになったのではないか。

多賀大社 寿命蕎麦

多賀大社境内にある寿命蕎麦の店

⑦イザナギはドクロの神?

多賀大社の主祭神はイザナギ・イザナミだが、惟喬親王はイザナギとイメージが重ねられているのではないか。

惟喬親王はドクロの神として信仰されたのではないかと私は考えたが
イザナギもまたドクロの神だといえる。

というのは、こんな話があるからだ。

「イザナギの左目から天照大神が、右目から月読命が、鼻からスサノオが生まれた」

スサノオは星の神だとする説がある。
これは陰陽道の宇宙観を表したものだと思う。

陰陽道では東を太陽の定位置、西を月の定位置、中央を星とするのだという。
地図では左が西で右が東なので、逆じゃないかといわれるかもしれないが
それは正しくは向かって左が西、向かって右が東なのだ。
地図の側からみれば左が東で右が西になる。

つまりイザナギはドクロの神で、イザナギの顔は天に喩えられているのだ。

多賀大社 御神田 
多賀大社 御神田



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惟喬親王の乱㉙胡宮神社 『胡宮神社の胡はドクロを意味する?』

 
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惟喬親王の乱㉘ 多賀大社 『お多賀杓子はミシャクジ様?』  よりつづきます~

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胡宮神社 鳥居 桜 


①胡宮神社と多賀大社の関係


多賀大社を参拝した帰り、桜の咲く神社があったので立ち寄った。
神社の名前は胡宮神社という。
胡宮(このみや)神社はイザナギ・イザナミ・事勝国勝長狭尊(別名/塩土老翁しおつちのおじ)を祀り、延命にご利益があるとされているという。
御祭神は事勝国勝長狭尊をのぞくと前回の多賀大社と同じだ。またご利益も同じ。(惟喬親王の乱㉘ 多賀大社 『お多賀杓子はミシャクジ様?』 

胡宮神社 熊野神社

境内に熊野神社があり、そこから磐座へ向かう山道が伸びていた。(ここから下の写真は秋に撮影したものです。すいませーんw)
磐座があるならば、それを見ないわけにはいかないw
はあはあ言いながら登っていく。
途中、獣除けなのか、金網の扉が設けられており、参拝者はこの扉をあけて山道を進んでいくようになっている。
30分くらいで磐座についた。

胡宮神社磐座

磐座は斜めに筋が入っている。これは何という石で、なぜこのような筋が入っているのだろうか?

胡宮神社 磐座案内

磐座の説明板には、「磐座は胡宮神社の奥院であり、多賀大社の奥院と詠んだ時代もある」と書いてあった。
どうも胡宮神社は多賀大社と関係の深い神社であるらしい。

胡宮神社 お池 
↑ これはかつて身を清めたり、供物を洗ったとされる「お池」



山道をおりると、本殿の横にはわきに敏満寺があった。
大日堂、観音堂、石仏群などがあった。

http://home.s01.itscom.net/sahara/stone/s_kinki/shi_konomiya/konomiya.htm 
上のサイトをよむと、敏満寺に長寿石と呼ばれる石があるようだが、残念ながら、どこにあるのかわからなかった。
同じ名前の石は多賀大社にもあり、ほぼ同様の伝説が伝えられているようである。

多賀大社 長命石

多賀大社 長寿石

多賀大社の長寿石は次のとおり。

後白河上皇に東大寺再建を命じられた重源は、そのときすでに高齢だった。
東大寺再建が完了するまで生きていられるか心配になり、伊勢神宮に参拝した。
すると天照大御神よりお告げがあった。
寿命を延ばしたいのなら、多賀の神を参拝しなさい。」
そこで
多賀大社を参拝したところ、落ちてきた柏葉の虫喰のあとが「莚」の字になっていた。
「莚」は「廿(二十)」「延」と書く。つまり、二十延びる、二十年命が伸びるという意味である。
こうして重源二十年の延命を得て無事東大寺を再建することができた。
再建を完了した重源は多賀大社にお礼まいりをし、石に座り込んでなくなった。
この石が「延命石」である。

そして、敏満寺の伝説として、
http://home.s01.itscom.net/sahara/stone/s_kinki/shi_konomiya/konomiya.htm
上のサイトには次のように記されている。

「寿命石。敏満寺は東大寺とのかかわりが深い。
建久(鎌倉時代初期)の昔、東大寺大勧進職として、
源平の争乱で焼失した東大寺の再建にあたった
俊乗坊重源(しゅんじょうぼうちょうげん)が訪れ、
銅製五輪塔を施入した。
重源はこの石に大願成就までの延命を願ったという。」

http://home.s01.itscom.net/sahara/stone/s_kinki/shi_konomiya/konomiya.htmよりいんよう。

⓶磐座信仰とミシャグジ

惟喬親王の乱㉘ 多賀大社 『お多賀杓子はミシャクジ様?』 
↑ こちらの記事で、私は多賀杓子のルーツは、多賀大社にミシャグジ信仰があったためではないかと私は考えた。
ミシャグジ様は石神が転じたものともいわれ、奉納された杓子を持って帰って喉をなでると咳の病が治るといわれている。
なぜ杓子なのかというと、ミシャグジ様とシャクシの音が似ているからだろう。

それでは、なぜミシャクジ様は咳の病にご利益があるとされたのだろうか。
ミシャグジ様は石神なので、石→セキ(石の音読み)→咳という語呂合わせで咳の神へと神格を広げたのではないかと私は思う。

そして多賀大社と関係が深いと思われる胡宮神社の御神体・青龍山には胡宮磐座がある。
磐座とは信仰の対象となった岩のことを言う。
岩と石のちがいはその大きさだけですから、胡宮磐座は石神=ミシャグジ様だといえるのではないだろうか。

胡宮磐座は多賀大社の奥の院であるともいわれており、多賀大社の信仰はこの胡宮磐座と関係がありそうに思える。
もしかしたら、胡宮磐座がミシャグジ様として信仰され、そこから多賀杓子が作られるようになったのかも?

多賀大社 橋 
多賀大社

③胡という漢字を漢和辞典で調べてみたら、色んなことがわかった。


漢和辞書なんて学生のときは滅多にひかなかったが、歴史や民俗学の謎学(?)にはまってからは結構重宝している。
ネットには書いてないようなことも書いてあるからだ。

さて胡という漢字を家にあった古い漢和辞典で調べてみると、次のように書いてあった。

①獣のあご。垂れ下がった顎の肉。
②くび
③なんぞ。なに。いずくんぞ。
④いのちがながい。としより。おきな。
⑤とおい。はるか。
⑥えびす。北方の異民族の名。
⑦昔の中国で、外国から渡来したものをいう。
⑧祭器。
⑨でたらめのこと。
⑩ほこの首。ほこの先に曲がってわきに出たもの。
角川漢和中辞典(昭和51年 161版)より。


④胡宮神社は蝦夷の神?

⑥えびす。北方の異民族の名。
とある点に注意してください。。
胡宮神社という神社名は、北方の異民族の神、という意味ではないだろうか?

ウィキペディアにも次のように記されています。
ミシャグジは日本古来の神。柳田國男によれば塞の神(サイノカミ)であり、もとは大和民族に対する先住民の信仰。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%90%E3%81%AE%E7%A5%9E より引用

先住民と異民族は同じだと考えていいだろう。

東北地方にはまつろわぬ民・蝦夷が住んでいた。
蝦夷はエビスともいわれていた。
エビスは戎、夷のほか、胡とも記された。
胡宮神社の胡宮とは蝦夷=エビスの宮という意味ではないだろうか。

⑤なぜ多賀大社や胡宮神社は延命にご利益があるとされているのか。

胡には⑥えびす。北方の異民族の名。という意味があり、蝦夷(胡)の神の宮という意味で胡宮神社というのだと思うが
胡には④いのちがながい。としより。おきな。という意味もある。
そこから胡宮神社は延命にご利益があると考えられるようになったのではないだろうか。
そして胡宮神社は多賀大社の奥宮なので、多賀大社にも延命の御利益があると考えられるようになったのではないかと思ったりする。

⑥なぜ弓でひくものを胡弓というのか?

①獣のあご。垂れ下がった顎の肉。
②くび
というのが特に気になる。

胡弓という楽器がある。
三味線に似ているが、三味線と違って弓で弾く。

Playing on Samisen, Yokin and Kokin

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Playing_on_Samisen,_Yokin_and_Kokin.jpg よりお借りしました。
向かって右が胡弓。

琉球には胡弓(クーチョー)、中国には二胡と読いう楽器があるが、やはり弓で弾く。
さらに、擦弦楽器を総称して胡弓と呼ぶこともあり、明治初期にはバイオリンのことも胡弓といっていた。

つまり弓でひくものが胡弓であり、指やバチではじく三味線やギターは胡弓ではないのだ。

もしかしてそれは弓でひくことに、首を刀などで切断しているイメージがあるからではないだろうか?



そう考えると、胡宮神社とはドクロ(首)の神であり、胡宮神社を別宮とする多賀大社もドクロの神ではないかと思われる。
しゃもじは胴体から切り離した首=ドクロを思わせる形をしているではないか。
胡宮磐座もドクロのように見えなくもない。

多賀屋
 
お多賀杓子をデザインした看板
 



惟喬親王の乱㉚ 再び多賀大社『惟喬親王はドクロの神だった?』 につづきます~
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惟喬親王の乱㉘ 多賀大社 『お多賀杓子はミシャクジ様?』

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多賀大社 枝垂れ桜 
①お多賀杓子

枝垂桜の咲く春の多賀大社。

おや? 橋の向うに大きな杓子が見えている。


多賀大社 橋 
近づいてみると杓子の形をした看板だった。
多賀大社では「お多賀杓子(おたがじゃくし)」というお守りの杓子を授与している。
これをモチーフとして杓子の看板を作ったのだろう。

多賀屋 


⓶宮島杓子の由来

杓子を授与したり奉納する習慣のある神社は各地にある。
なぜ、こういうことをするのだろうか?

杓子といえば広島の宮島杓子が思い出す。

広島県宮島の厳島神社が宮島杓子を参拝するようになったのは、江戸時代の寛政年間だという

厳島神社の御祭神は宗像三女神だが、宗像三女神は弁才天と習合されていた。
この弁才天は琵琶を持つお姿にあらわされることが多く、この琵琶に似ているため、僧誓真が授与品として杓子を作ったのが始まりと伝えられている。

日清戦争の際には「敵をめしとる」として、千畳閣(豊国神社)に大量の杓子が奉納されたそうである。

大覚寺身振り狂言 十王堂2jpg 

大覚寺(兵庫県尼崎市 大覚寺身振り狂言『十王堂』に登場した琵琶を持つ弁才天/向かって左)

しかし、多賀大社の御祭神はイザナギとイザナミで、弁才天は祀っていないと思う。(ですよね?)
弁才天が持つ琵琶と多賀杓子は関係がなさそうだ。

③ミシャグジと杓子

ほかに名古屋市南区の石神社などで、ミシャグジという神様に杓子が奉納されているケースがあるそうだ。

横浜市の社宮司社は「咳の神」「おしゃもじさま」と呼ばれ、この社に奉納されている杓子を持って帰り、のどを撫でると咳の病が治ると信仰されている。
治ったときには杓子を2本にして奉納するとのこと。


同様の信仰は各地にある。


多賀大社 しだれ桜3 

④ミシャグジはなぜ咳の神として信仰されているのか

なぜミシャグジは咳の神様として信仰されているのだろうか?
ミシャグジは石神と書いて、シャクジ、サクジなどとも呼ばれていた。
石→せき→咳、という語呂合わせで、ミシャグジは咳の神に転じたのではないだろうか。

余談となるが、大阪四天王寺境内に石神堂があり、少し離れた場所に咳の地蔵尊があり
この石神堂と咳の地蔵尊は関係があるのではないかと思ったりする。

牛王尊


四天王寺 咳の地蔵尊

⑤神は語呂合わせで神格を広げる

このように語呂合わせで神の神格を広げたケースは他にもたくさんある。
たとえば和歌三神の一、柿本人麻呂は人丸とも記され、
ひとまる→火止まる→防火の神、ひとまる→人産まる→安産の神と神格を広げている。

⑥多賀大社は石神だった?

そして多賀大社には、寿命石と呼ばれる石がある。

多賀大社 長命石

長寿石

後白河上皇に東大寺再建を命じられた重源は、そのときすでに高齢だった。
東大寺再建が完了するまで生きていられるか心配になり、伊勢神宮に参拝した。
すると天照大御神よりお告げがあった。
寿命を延ばしたいのなら、多賀の神を参拝しなさい。」
そこで
多賀大社を参拝したところ、落ちてきた柏葉の虫喰のあとが「莚」の字になっていた。
「莚」は「廿(二十)」「延」と書く。つまり、二十延びる、二十年命が伸びるという意味である。
こうして重源二十年の延命を得て無事東大寺を再建することができた。
再建を完了した重源は多賀大社にお礼まいりをし、石に座り込んでなくなった。
この石が「延命石」である。


ミシャグジとは石神のことであり、多賀大社の延命石は石神として信仰されていたのではないだろうか。
そして石神はミシャグジとして信仰され、その語呂合わせから杓子をお守りとして授与する習慣が生じたのではないだろうかと思う。

⑦さざれ石

多賀大社 さざれ石 
多賀大社 さざれ石 

境内にはさざれ石もあり、「さざれ石」の由来として、次のように記された石碑がたてられていた。

さざれ石の由来

君が代は 千代に八千代に さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで

この石は通称さざれ石といわれ、岐阜県春日村の産
古今集に天皇の大御代の繁栄を寿ぎ祈り この石のごとくましませと詠われ 後に一部改作されて日本の国家となりました。
学名は石灰資質角礫磐で、長い年月の間に溶解した石灰石が多くの小石を終結して次第に大きく成長したもので、まことに目出度い石であります。
岐阜県揖斐川町の小林宗一翁がはじめて発見したものです


⑧「わが君」とは惟喬親王のことだった。

君と言う言葉は天皇を意味することもあったが、自分が仕えている人のことや、貴人、身分の高い女房(朝廷や貴人邸に仕える女性)、男、遊女などを指す言葉としても用いられていた。

わが君は 千代に八千代に さざれ石の 磐となりて 苔のむすまで


歌の作者は古今和歌集では「読み人知らず」となっているが、岐阜県揖斐川町春日には君が代の由来となったといわれるさざれ石があり、藤原朝臣石位左衛門が詠んだ歌だとして次のように伝えられているのだとか。

 惟喬親王に仕えていた木地師の藤原朝臣石位左衛門は、親王より「よい椀生地を探せ」と命じられた。
そこであちこち探し回って春日村を発見し、ここに移り住んだ。
石位左衛門は春日村と京を行き来する途中で「さざれ石」を発見して

わが君は 千代に八千代に さざれ石の 磐となりて 苔のむすまで

と詠んだ。

木地師の藤原朝臣石位左衛門のいう「わが君」とは惟喬親王のことだと考えるのが自然だと思う。

惟喬親王は文徳天皇の第一皇子(母/紀静子)で、文徳天皇も惟喬親王を皇太子に死したいと考えていた。
しかし世継争いに敗れ、異母弟の惟仁親王(母/藤原明子)が皇太子となった。

つまり
わが君は 千代に八千代に さざれ石の 磐となりて 苔のむすまで
この歌は、天皇の長寿を寿ぐ歌ではなく、天皇になれなかった者の長寿を寿ぐ歌であったと考えられる。

さざれ石と呼ばれる石は、多賀大社だけでなく、各地の神社にある。
京都の護王神社にもあった。

多賀大社にさざれ石があることに大した意味はないかもしれないが、なんとなく気になりつつ、多賀大社を後にした。






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惟喬親王の乱㉗ 星田妙見宮と天田神社『天田神社の住吉明神は惟喬親王のイメージ?』



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惟喬親王の乱㉖ 中山観音寺跡と機物神社 『惟喬親王=小野小町=織姫?』 よりつづきます~

「小野小町は男だった」もよかったらよんでみてね。


①牽牛星・織女星に喩えられた寺社は2ペアあった。


前回の記事、惟喬親王の乱㉖ 中山観音寺跡と機物神社 『惟喬親王=小野小町=織姫?』 
中山観音寺跡と機物神社は天の川を挟んで対面しており、牽牛星(アルタイル)と織女星(ベガ)に喩えられているという話をした。

機物神社 七夕飾り

機物神社

観音山公園 牽牛 七夕飾り

中山観音寺跡

しかし、天の川流域にはもう一ペア、牽牛星と織女星に喩えられた寺社がある。
天田神社と織女神社だ。
こちらのペアは中山観音寺跡&機物神社ペアよりも、天の川の上流にあって、やはり天の川を挟んで対面している。

天田神社 神楽 猿田彦行列

天田神社

星田妙見宮 織女石

星田妙見宮 織女石(たなばたいし)

次のように伝えられています。

「このあたりの土地が肥えて作物が豊かにとれるところから甘野、天の川は甘野川、甘野にある田は天田と呼ばれていた。
そして甘田に他の神を祀って甘田宮とした。
七夕信仰から、甘野川は天の川、となり、天田は牽牛が耕す田と考えられた」

牽牛は牛飼いとされるが、昔は田おこしの際には牛を牽いて田を耕していたので、牽牛は田の神と考えられたのだろう。

天田神社 神楽 獅子

②石清水八幡宮所領

調べてみたところ、天田神社ちかく(森地区)は石清水八幡宮の所領であったことがわかった。
平安時代の三宅山荘園の遺構も発掘されている。
森地区の氏子さん方は石清水八幡宮の勅祭石清水祭に御先払神人として奉仕もされているそうである。

石清水八幡宮 鬼やらい神事-豆まき

石清水八幡宮

③石清水八幡宮の御祭神・応神天皇は惟喬親王とイメージが重ねられている?

おお!石清水八幡宮!
惟喬親王の乱⑰ 石清水八幡宮 『石清水八幡宮の神主が紀氏の世襲なのはなぜ?』 
上野記事に私は次のようなことを書いた。

a.清和天皇は文徳天皇の第二皇子として850年に生まれ、生まれたばかりで皇太子となった。
そして858年、わずか8歳で即位した。実際の政治は清和天皇の外祖父の藤原良房がとっていた。
石清水八幡宮の創建は860年、清和天皇の勅命によってとされるが藤原良房の意思によるものだと考えるのが妥当。

b.文徳天皇には清和天皇のほかに紀静子所生の第一皇子の惟喬(これたか)親王があり、文徳天皇は惟喬親王を皇太子にしたいと考え源信に相談している。ていた。をいさめたという。
しかし源信は藤原良房を憚って天皇を諫め、藤原明子所生の清和天皇が即位した。

c.世継争いに敗れた惟喬親王は御霊(怨霊が祟らないように慰霊されたもの)として大皇器地祖神社
(おおきみきじそじんじゃ)、筒井神社、玄武神社、惟喬神社などに祀られている。

d.石清水八幡宮の神主は代々紀氏が世襲していた。

e.石清水八幡宮の創祀は藤原良房の意思によるものと思われるが、良房ははなぜ石清水八幡宮の神主を紀氏としたのか。
日本では古より先祖の霊はその子孫が祭祀または供養するべき、と考えられていた。
石清水八幡宮の御祭神・八幡神と惟喬親王はイメージを重ねられており、惟喬親王は紀氏の血筋の親王なので、石清水八幡宮は紀氏が祭祀するべきであると考えられたのではないか。


④天田神社付近、肩野物部氏の所領から石清水八幡宮の所領になる?

そして牽牛星に喩えられる天田神社があるあたりは石清水八幡宮の所領であったという。

しかし、この付近は古には肩野物部氏の本拠地だった。
の近くには磐船神社もあるが(惟喬親王の乱㉒ 磐船神社『ニギハヤヒと神武の争い』 
磐船神社の御祭神・ニギハヤヒは物部氏の祖神だ。

磐船神社 天の磐船

磐船神社 ご神体 天の磐船


私は星田妙見宮はもともと物部氏が祭祀する神社だったのではないかと思う。
天田神社の創建年代は不明のようだが、星田妙見宮の創建から遅れて、紀氏または藤原氏によって創建されたのではないかと思う。

⑤ふたつの織女石は北極星をあらわしている?

星田妙見宮 境内図

上は星田妙見宮の境内図だが、①織女石(たなばたいし)のイラストの注目してほしい。
石はふたつあるように見える。

星田妙見宮のhpには『享和元年刊『河内名所図絵』にみる「星田妙見宮」』の図が掲載されていた。
https://www.hoshida-myoken.com/%E3%81%94%E7%94%B1%E7%B7%92/

この絵を見ると、やはり二つ石があるように見える。
織女石の背後は茂みになっているが、その茂みに隠れてもうひとつ石があるのではないだろうか。


そして妙見宮とは北辰信仰(天の北極、北極星、北斗七星に対する信仰)の宮のことである。
星田妙見宮の境内図を見ると、頂上近くに織女石があり、頂上へいたる参道に北斗七星の神々(文・禄・巨・貧・廉・武・破)が祀られている。(下図をみると、北斗七星ではなくこぐま座の神々なのかもしれない、と私は考えている。)

この位地関係から見て、織女石は北極星または北辰のように見える。

アルタイル ベガ 北斗七星 

下手クソな図ですいません~。

つまり、アルタイルとベガが和合して北極星になった、ということで、この二つの石を北極星として信仰していたのではないかと思ったりするのだがどうだろう?

また織女石と書くが、読み方は「たなばたいし」である。
本来「七夕石」と書いていたのを、のちに石清水八幡宮が天田神社を創建し、天田神社を牽牛星に喩えるようになったので、「織女石」という字をあてて「たなばたいし」とよませるようになった、なんてことはないだろうか?


⑥天田神社の住吉明神と惟喬親王のイメージが重ねられた?

③で書いたように、石清水八幡宮の御祭神の応神天皇は、惟喬親王のイメージと重ねられていると思う。

そして、伊勢物語 渚の院の段につぎのようにあるのだった。

親王は言った。

「交野を狩りをして天の河のほとりにたどりついた、を題に歌を詠んで杯をつげ。」

馬頭(在原業平の事だと考えられている。)は歌を詠んだ。

狩り暮らし たなばたつめに 宿からむ 天の河原に 我は来にけり
一日中狩りをして日が暮れてしまったので、織姫に宿を借りよう。天の河原に私はやってきたのだから
。)

親王は何度も歌を繰り返され、返歌することができない。

紀有常も御供されており、紀有常が返した。
ひととせに ひとたび来ます 君待てば 宿かす人も あらじとぞ思ふ
織姫は一年に一度いらっしゃる君(=彦星)を待っているのだから、宿を貸す人はないだろう。


「和歌は呪術である」と高田祟史さんは言っておられるが、もしそうであるとすれば、この二首はどんな意味になるだろうか。

それはわからないが、天田神社の御祭神が惟喬親王とイメージが重ねられているとはいえそうに思える。

天田神社の御祭神はもともとはニギハヤヒであったというが、のちに住吉四神に変わっている。
つまり、惟喬親王はニギハヤヒともイメージが重ねられたのではないか、ということである。

上の2首の意味はわからないが、天田神社の住吉明神と惟喬親王のイメージが重ねられたことを暗示しているようにも思われる。

天田神社 地車 塩で浄める

天田神社



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惟喬親王の乱㉖ 中山観音寺跡と機物神社 『惟喬親王=小野小町=織姫?』

 

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惟喬親王の乱㉔ 広河原 松上げ 『ペルセウス座流星群とお盆』 よりつづきます~

「小野小町は男だった」もよかったらよんでみてね。


①星田妙見宮は織女星、天田神社は牽牛星

惟喬親王の乱㉑  渚の院跡 『惟喬親王の歌会は呪術会だった?』 
↑ こちらの記事で大阪府枚方市の渚の院と、伊勢物語の渚の院の段についてお話しした。
渚の院から1.5kmほど南に向かうと現在京阪枚方市駅があり、その枚方市駅の近くに天の川という川が流れている。

天の川 夕景

天の川

②中山観音寺の牽牛石はアルタイル、機物神社はベガ

この天の川を挟んで中山観音寺跡(観音山公園)・織物神社が対面しており、中山観音寺跡は牽牛星、織物神社は織女星に喩えられているといわれている。

そのため、このあたりは七夕伝説発祥の地とも呼ばれている。

下の地図の東側、第二京阪道路とJR片町線が交差するあたりに機物神社が、西側香里ヶ丘中央公園の南あたりに中山観音寺跡がある。
天の川を挟んで対面はしているが、かなり距離がある。
5kmほど離れているだろうか。



郡津駅の西側を南北に流れる川は天野川である。

天野川は天上の天の川を、中山観音寺はアルタイル(牽牛星)を、機物神社はベガ(織女星)を表すものとされ
天野川には牽牛と織姫が年に一度逢瀬を楽しむという逢合橋もある。

観音山公園 牽牛 七夕飾り 
中山観音寺跡(観音山公園)

中山観音寺 牽牛石 
中山観音寺跡(観音山公園) 牽牛石

機物神社 七夕飾り 
機物神社

合逢橋

逢合橋

機物神社の背後には交野山があり、巨大な磐座がある。交野山の磐座は機物神社のご神体でだそうである。
この磐座はもしかしたら織女石なのかもしれない。

交野山

交野山 ↑↓


交野山

交野山 観音岩

交野山 磐座

③小さな男神と大きな女神

牽牛石に比べて交野山の磐座ははるかに巨大である。
その巨大な磐座が女神の織姫を表す磐であるというのはおかしいように思うかもしれない。

しかし、雛人形のルーツになったともいわれる和歌山県加太の淡島大社の雛守りは、男装をした神功皇后と赤子の応神天皇のペアであり、神功皇后の方が大きく作られている。

また少彦名神と大穴持命のペアの話が記紀にあるが、大きな穴を持つ神(命)とは女神ではないだろうか。

大穴持命は大国主の別名とされ、大国主には妻があるところから男神だと考えられる。
すると大穴持命も男じゃないのか、といわれそうだが、
どうも日本の神は性別がルーズなようで、

謡曲三輪では男神であるはずの三輪明神は女神として登場している。
また祇園祭の岩戸山のご神体の天照大神は女神ではなく男神だった。

聖徳太子が女性に生まれ変わって親鸞の妻になろう、と言ったという話もある。

伊勢物語 渚の院

http://arhrnrhr.blog.fc2.com/blog-entry-489.html

さて、上の記事に書いた伊勢物語の渚の院の段を思い出してほしい。

渚の院 桜

渚の院跡

昔、惟喬親王という親王がおられた。
山崎の向こうの水無瀬といふ所に宮があった。
毎年、桜の花盛りには、そのへいらっしゃった。
その時、右馬頭と言う人を常に連れてこられた。
随分昔のことなので、右馬頭の名前は忘れてしまった。

狩りは熱心にはやらず、酒を飲んでは和歌を詠んでいた。
今狩りする交野の渚の家、その院(御所)の桜が特にすばらしかった。
その木のもとに馬から下りて座り、枝を折って髪にさし、上、中、下の者身分を問わず、みな歌詠んだ。

馬頭が詠んだ。
世の中に たえて桜の なかりせば  春の心は のどけからまし
(世の中に 桜というものがなかったならば、春の心は もっとのんびりしていただろうに)


また他の人の歌、
散ればこそ いとど桜は めでたけれ 憂き世になに か久しかるべき
(散るからこそ桜はすばらしいのだ。悩み多き世の中に、変わらないものなどあるだろうか。)


このように歌を詠んで、その木のもとを立って帰る途中日暮れになった。

お供の人が酒を従者にもたせて野より出てきた。
この酒を飲んでみようと、飲むのにふさわしい場所を探していくと天の河というところにやってきた。

親王に馬頭が大御酒をさしあげた。
親王は言った。

「交野を狩りをして天の河のほとりにたどりついた、を題に歌を詠んで杯をつげ。」

馬頭は歌を詠んだ。

狩り暮らし たなばたつめに 宿からむ 天の河原に 我は来にけり
一日中狩りをして日が暮れてしまったので、織姫に宿を借りよう。天の河原に私はやってきたのだから。)


親王は何度も歌を繰り返され、返歌することができない。

紀有常も御供されており、紀有常が返した。
ひととせに ひとたび来ます 君待てば 宿かす人も あらじとぞ思ふ
織姫は一年に一度いらっしゃる君(=彦星)を待っているのだから、宿を貸す人はないだろう。


帰って宮に入った。
夜が更けるまで酒を呑み、語り、主人の親王は床に入ろうとなさった。

十一日の月が山に隠れようとしているのであの馬頭が詠んだ。

飽かなくに まだきも月の 隠るるか 山の端逃げて 入れずもあらなむ
(ずっと眺めていても 飽きないのに 早くも月は隠れてしまうのか。山の端が逃げて月を入れないでおいてほしい。)

親王にかわり申し上げて紀有常

おしなべて 峰も平に なりななむ 山の端なくは 月も入らじを
(すべての峰が平らになってほしい。山の端がなくなれば月は入らないだろう。)

ここに今までお話ししてきた天の川が登場する。
天の川について述べられているのは次の部分である。

親王に馬頭が大御酒をさしあげた。
親王は言った。

「交野を狩りをして天の河のほとりにたどりついた、を題に歌を詠んで杯をつげ。」

馬頭は歌を詠んだ。


狩り暮らし たなばたつめに 宿からむ 天の河原に 我は来にけり
一日中狩りをして日が暮れてしまったので、織姫に宿を借りよう。天の河原に私はやってきたのだから。)


親王は何度も歌を繰り返され、返歌することができない。

紀有常も御供されており、紀有常が返した。
ひととせに ひとたび来ます 君待てば 宿かす人も あらじとぞ思ふ
織姫は一年に一度いらっしゃる君(=彦星)を待っているのだから、宿を貸す人はないだろう。

⑤七夕は荒魂(男神)に和魂(女神)を和合させて御霊にする行事?

惟喬親王の乱㉕ 白峯神宮 小町踊 『七夕は盆入りの行事だった。』  
↑こちらの記事には次のようなことを書いた。

・旧暦ではお盆は7月15日(旧暦)を中心とした行事だった。
 7月7日(旧暦)の七夕はお盆の行事だったのである。
 
・折口信夫さんによればお盆には先祖の霊だけでなく、悪霊も帰ってくると考えられ、そのために念仏踊りをしたのだという。
 小町踊りは念仏踊りとは念仏を唱えながら、太鼓や鉦をたたいて踊るもののことをいう。
 七夕に小町踊りを踊る習慣があるが、小町踊りの童女たちは手に太鼓や鉦をもっている。
 小町踊りは念仏踊りの一種だといえる。

・七夕には彦星と織姫が、天の川の上にかささぎが並んでかけた橋を渡って逢瀬を楽しむという伝説がある。
 こんなロマンチックな伝説が、なぜ先祖の霊をお迎えする行事・お盆の行事なのか?
 神はその現れ方で御霊(みたま/神の本質)、荒霊(あらたま/神の荒々しい側面)、和霊(にぎたま/神の和やかな側面)の3つに分けられるという。
 そして男神は荒霊を、女神は和霊を表しているのではないかとする説がある。 

 御霊・・・・・神の本質・・・・・・・・男女双体
 荒魂・・・・・・神の荒々しい側面・・・・・男神
 和魂・・・・・・神の和やかな側面・・・・・女神


また、怨霊が祟らないように慰霊されたもののことを御霊(ごりょう)という。
男神(荒霊)と女神(和霊)を和合させることは、荒霊を御霊とするための呪術だったのではないか。

・折口信夫さんがおっしゃるように、お盆には先祖の霊だけでなく、悪い霊も帰ってくると考えられたのだろう。
 悪い霊とは荒魂であり、男神である。そこで、この荒魂である男神=牽牛を和魂である女神=織姫と和合させて御霊にしよう、というのが七夕の意味ではないだろうかと。

白峯神宮 小町踊2

小町踊り 白峯神宮

⑥惟喬親王=小野小町=織姫?


そして惟喬親王の乱㉑  渚の院跡 『惟喬親王の歌会は呪術会だった?』 
↑ こちらの記事で、

・和歌は呪術であると高田祟史さんが言っておられること

世の中に たえて桜の なかりせば  春の心は のどけからまし
(世の中に 桜というものがなかったならば、春の心は もっとのんびりしていただろうに)


の桜は藤原氏の栄華を比喩的に表現したものであり、「藤原氏などいなければいいのに」という意味ではないかとお話しした。

天の川の歌2首も呪術だとすれば、どういった意味が込められているのだろうか。

親王に馬頭が大御酒をさしあげた。
親王は言った。

「交野を狩りをして天の河のほとりにたどりついた、を題に歌を詠んで杯をつげ。」

馬頭は歌を詠んだ。


狩り暮らし たなばたつめに 宿からむ 天の河原に 我は来にけり
一日中狩りをして日が暮れてしまったので、織姫に宿を借りよう。天の河原に私はやってきたのだから。)


親王は何度も歌を繰り返され、返歌することができない。

紀有常も御供されており、紀有常が返した。
ひととせに ひとたび来ます 君待てば 宿かす人も あらじとぞ思ふ
織姫は一年に一度いらっしゃる君(=彦星)を待っているのだから、宿を貸す人はないだろう。

何か呪術的な意味がありそうにも思うが、よくわからない。

ただ、この歌は小野小町の正体が惟喬親王であることを示しているように思える。
私は小野小町の正体は小野宮と呼ばれた惟喬親王だと考えている。

これについては詳しく「小野小町は男だった」のシリーズで述べたが、簡単にまとめておく。

a
古今和歌集には男が女の身になって詠んだ歌が多数ある。
b古今和歌集仮名序はやけに小町が女であることを強調しているが、これは小町が男だからではないか。
c.小野小町は穴のない体で性的に不能であったともいわれているが、穴がない体なのは小町が男だからではないか。
d『古今和歌集』に登場する女性歌人に三国町、三条町、がいる。
三国町は一般には継体天皇の母系氏族・三国氏出身の女性だと考えられているが、
 『古今和歌集目録』は三国町を紀名虎の娘で仁明天皇の更衣としている。
  紀名虎の娘で仁明天皇の更衣とは紀種子のことである。
  また三条町は紀名虎の娘で文徳天皇の更衣だった紀静子のことである。
  三国町が紀種子とすれば、三条町=紀静子なので、三国町と三条町は姉妹だということになる。
  そして紀静子は惟喬親王の母親だった。。
  惟喬親王は三国町の甥であり、三条町の息子なので、三国町・三条町とは一代世代が若くなる。
  そういうことで小町なのではないだろうか。
e花のいろは うつりにけりな いたづらに わがみよにふる ながめせしまに
この歌は縁語や掛詞を用いて二重の意味をもたせた技巧的な歌だとされる。
①花の色はすっかり褪せてしまったなあ。春の長い雨のせいで。
②私の容色はすっかり衰えてしまったなあ。恋の物思いにふけっている間に。
※『色』・・・『視覚的な色(英語のColor)』『容色』
※『世』・・・『世の中』と『男女関係』
※『ながめ』・・・『物思いにふける』『長雨』
しかし、もうひとつ違う意味が隠されているように思える。
③はねずの梅の鮮やかな色はあせ、(「はねず」は移るの掛詞なので、花ははねずの梅ととる)私の御代に(「わが御代に 下(ふ)る」とよむ。)長い天下(「ながめ」→「長雨」→「長天」と変化する。さらに「下(ふ)る」を合わせて「天下」という言葉を導く)がやってきたようだ。

雲ヶ畑 松上げ

雲ヶ畑 松上げ

地蔵盆には雲ヶ畑では惟喬親王を偲んで松上げの行事が行われており、惟喬親王はお盆の関係が深そうに思える。
そして七夕には小町踊りをする習慣があったのである。
なぜ七夕に小町踊りをする習慣が生じたのか。
それは小野小町は織姫とイメージが重ねられたということだろう。

さらに小野小町の正体は小野宮と呼ばれた惟喬親王だと私は考えているのだ。



惟喬親王の乱㉗ 星田妙見宮と天田神社『天田神社の住吉明神は惟喬親王のイメージ?』 に続きます~

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惟喬親王の乱㉕ 白峯神宮 小町踊 『七夕は盆入りの行事だった。』

トップページはこちらです→惟喬親王の乱① 東向観音寺 『本地垂迹説』  
惟喬親王の乱㉔ 広河原 松上げ 『ペルセウス座流星群とお盆』 よりつづきます~

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