トップページはこちらです→
惟喬親王の乱① 東向観音寺 『本地垂迹説』 惟喬親王の乱⑲離宮八幡宮 紅葉 『搾油器を発明した神官の正体とは?』 よりつづきます~
「小野小町は男だった」もよかったらよんでみてね。
①喜撰法師=紀有常?璉珹寺は奈良時代に聖武天皇の勅願により行基が創建し、平安時代に紀有常が再興したと伝わる。
おお、紀有常!
この「惟喬親王の乱」シリーズの記事の中で何度も登場していただいた人物である。
惟喬親王の乱⑨ 十輪寺 『惟喬親王と六歌仙』 惟喬親王の乱⑱阿弥陀寺 『体質を樹脂化するとは?』 惟喬親王の乱⑲離宮八幡宮 紅葉 『搾油器を発明した神官の正体とは?』 紀貫之が書いたといわれる古今和歌集仮名序の中で名前をあげられた六人の歌人、僧正遍照・在原業平・喜撰法師・文屋康秀・小野小町・大友黒主のことを六歌仙という。
そして喜撰法師とは紀仙法師であり、紀名虎またはその子の紀有常のことではないかとする説がある。
紀名虎の娘(紀有常の妹)の紀静子は文徳天皇に入内して惟喬親王を産んだ。
文徳天皇は惟喬親王を皇太子にしたいと考えていたのだが、藤原良房の娘の藤原明子が産んだ惟仁親王(のちの清和天皇)が皇太子になった。
平家物語などに紀名虎と藤原良房が、いずれの孫を立太子させるかでもめ、相撲や高僧の祈祷合戦などのバトルを繰り広げた結果、藤原良房が勝利したと記されている。
これは史実ではない。
というのは、惟仁親王が生まれたときすでに紀名虎はなくなっていたからだ。
しかし、紀氏と藤原氏に確執があったことは確かだろう。
⓶六歌仙は怨霊だった?喜撰法師は六歌仙の一だが、ついでに六歌仙の意味、六歌仙の残りの5人についても簡単に記しておこう。
先ほども述べたように、六歌仙とは紀貫之が書いたといわれる古今和歌集仮名序の中で、名前をあげられた6人の歌人のことである。
ただし、六歌仙いう言葉は古今和歌集仮名序の中で用いられてはおらず、
後世になって古今和歌集の中で名前をあげられた6人の歌人のことを六歌仙というようになったと考えられている。
高田祟史さんは六歌仙とは怨霊であるとおっしゃっている。
なるほどそういわれると、その通りかもしれないと思う。
怨霊とは政治的陰謀によって不幸な死を迎えた者のことであり、天災や疫病の流行は怨霊の仕業で引き起こされると考えられていた。
そして六歌仙は全員藤原氏と敵対関係にあった人物なのだ。
遍照は桓武天皇の孫だが、父の良岑安世が臣籍降下した。遍照は俗名を良岑宗貞といった。
彼は藤原良房にすすめられて出家したというが、出家の理由を誰にも話さなかったという。
在原業平は惟喬親王の寵臣だった。
惟喬親王は文徳天皇と紀静子(紀名虎の娘)の間に生まれた長子で、文徳天皇は惟喬親王を皇太子にしたいと考えていた。
しかし、文徳天皇には藤原明子(藤原良房の娘)との間に惟仁親王もあり、惟仁親王のほうが皇太子となった。(のちの清和天皇)
惟喬親王の寵臣である業平を藤原良房がいいように思うはずがなく、業平はなかなか昇進することができなかった。
また業平は紀静子(惟喬親王の母)の兄・紀有常の娘を妻としていて藤原氏と敵対していた紀氏側の人間だった。
大友黒主は大伴黒主と記されることもあり、私は大伴家持と同一人物だと考えている。
私流 トンデモ百人一首 6番 …『大伴家持、白い神から黒い神に転じる?』 大伴家持は藤原種次暗殺事件の首謀者とされ、当事すでに亡くなっていたのだが、死体が掘り出されて流罪となった。
文屋康秀の文屋は分室と記されることもあり、文室宮田麻呂の子孫かもしれない。
文室宮田麻呂は謀反を企てたとして流罪となったが、死後無罪であることがわかって863年、神泉苑の御霊会で慰霊されている。
小野小町について、私は小野宮と呼ばれた惟喬親王のことだと考えている。
これについては詳しく
「小野小町は男だった」のシリーズで述べたが、簡単にまとめておく。
a | 古今和歌集には男が女の身になって詠んだ歌が多数ある。 |
b | 古今和歌集仮名序はやけに小町が女であることを強調しているが、これは小町が男だからではないか。 |
c | .小野小町は穴のない体で性的に不能であったともいわれているが、穴がない体なのは小町が男だからではないか。 |
d | 『古今和歌集』に登場する女性歌人に三国町、三条町、がいる。 三国町は一般には継体天皇の母系氏族・三国氏出身の女性だと考えられているが、 『古今和歌集目録』は三国町を紀名虎の娘で仁明天皇の更衣としている。 紀名虎の娘で仁明天皇の更衣とは紀種子のことである。 また三条町は紀名虎の娘で文徳天皇の更衣だった紀静子のことである。 三国町が紀種子とすれば、三条町=紀静子なので、三国町と三条町は姉妹だということになる。 そして紀静子は惟喬親王の母親だった。。 惟喬親王は三国町の甥であり、三条町の息子なので、三国町・三条町とは一代世代が若くなる。 そういうことで小町なのではないだろうか。 |
e | 花のいろは うつりにけりな いたづらに わがみよにふる ながめせしまに この歌は縁語や掛詞を用いて二重の意味をもたせた技巧的な歌だとされる。 ①花の色はすっかり褪せてしまったなあ。春の長い雨のせいで。 ②私の容色はすっかり衰えてしまったなあ。恋の物思いにふけっている間に。 ※『色』・・・『視覚的な色(英語のColor)』『容色』 ※『世』・・・『世の中』と『男女関係』 ※『ながめ』・・・『物思いにふける』『長雨』 しかし、もうひとつ違う意味が隠されているように思える。 ③はねずの梅の鮮やかな色はあせ、(「はねず」は移るの掛詞なので、花ははねずの梅ととる)私の御代に(「わが御代に 下(ふ)る」とよむ。)長い天下(「ながめ」→「長雨」→「長天」と変化する。さらに「下(ふ)る」を合わせて「天下」という言葉を導く)がやってきたようだ。 |
③惟喬親王のクーデター計画?世継ぎ争いに敗れた惟喬親王はたびたび歌会を開いているが、その歌会のメンバーに遍照・在原業平・紀有常らの名前がある。
紀有常=喜撰法師とすると、六歌仙(遍照・喜撰法師・在原業平・文屋康秀・小野小町・大友黒主)のうち3人までが惟喬親王の歌会メンバーだったことになる。
彼らは歌会と称して惟喬親王を担ぎ上げてクーデターを企てていたのではないかという説がある。
④女人裸形の阿弥陀如来は小野小町のイメージ?
本堂には紀有常尊像や女人裸形の阿弥陀如来立像が安置されている。
女人裸形の阿弥陀如来立像は裸の阿弥陀如来さまで上半身は裸である。
そして下半身には布で作った袴をはかせてあった。
50年に1度、独身の女性によって袴が取り換えられるとのこと。
このように裸形のみほとけを作って布の着物を着せるというのか鎌倉時代に流行ったようである。。
画像はこちら→
http://meguru.nara-kankou.or.jp/inori/hihou/renjoji/event/tecryor42l/ 光明皇后をモデルにしたともいわれているようだが、
私はこの像は紀氏の血をひく小野小町(=惟喬親王)をモデルにしたみほとけではないかと思う。
⑤白=九十九=小野小町?もういちど女人裸形の阿弥陀如来立像の写真を見ていただきたい。
お肌が白いのが特徴である。
この肌の白さも小野小町の像であることを示す暗号のように思われる。
というのは伊勢物語にこんな話があるのだ。
在五中将(在原業平)が色気づいた老婆をかわいそうに思って一緒に寝たが、それっきり老婆のもとにやってこなくなった。
そこで老婆は在五中将の家にいって中をのぞき見した。
在五中将は次のように歌をよんだ。
ももとせに ひととせ足らぬ つくも髪 我を恋ふらし おもかげに見ゆ
(百歳に一年足りない九十九歳の白髪の女が 私を恋い慕っているらしい面影が見える)
この歌は謎々になっている。
100-1=99で、九十九のことを「つくも」というが、
百引く一は白となるので、九十九髪(つくもがみ)とは白髪というわけである。
そして伊勢物語の注釈書・『知顕集』はこの九十九歳の色気づいた女は小野小町であるとしているのだ。
⑥陰蔵相
璉珹寺から10分ほど歩いたところに伝香寺がある。
伝香寺の地蔵菩薩も裸形の地蔵菩薩様に着物を着せてあり、7月23日の着せ替え法要で新しい着物に着せ替えるそうである。
伝香寺の裸形の地蔵菩薩は陰蔵相(おんぞうそう)といって、男性のシンボルが体内に密蔵されているとか、
円相が描かれていると記されたサイトもあった。
円相とは禅の書画で一筆で円を描いたもののことである。
つまり、伝香寺の地蔵菩薩の股間には円が描かれており、それは男性のシンボルが体内に密造されていることを表しているということだろう。
みほとけには性別はないとされるので、みほとけの股間は陰蔵相で表されるのだろうか。
⑥奈良国立博物館所蔵の阿弥陀如来の蓮華形は陰蔵相?奈良国立博物館所蔵の阿弥陀如来立像 ↓ 拡大してみると、股間に円形が描かれ、周囲に花びらのようなものがついている。
調べてみたところ、股間についているのは蓮華形とのことである。
http://www.narahaku.go.jp/collection/658-0.htmlこれも陰蔵相というのだろうか?よくわからない。
⑦新薬師寺「おたま地蔵」は男の地蔵菩薩だった。璉珹寺の近くには新薬師寺という寺もあり、ここには「おたま地蔵」と呼ばれる地蔵菩薩がある。
解体修理に出したところ、内部から裸形の体部が発見されたという。
もともと裸形のみほとけであったのを、あとから木製の衣を貼りつけたのだろう。
修理後は裸形の体部に頭部をつなぎ、2体の地蔵菩薩として安置されている。
随分前のことだが、この「おたま地蔵」を拝観したことがある。
裸形のみほとけの方は、陰蔵相ではなく、股間に蓮のつぼみがついていた。
つまり、蓮のつぼみが男性のシンボルになっているのだ。
みほとけには性別はないとされるが、「おたま地蔵」は男性のみほとけだといえるだろう。
⑧璉珹寺の阿弥陀如来はなぜ女人とされているのか?すると、璉珹寺の女人裸形の阿弥陀如来様の下半身はどうなっているのだろうかう?
「このばちあたりめがーー!」と怒られるかもしれないが、科学的思考とは好奇心である。(笑)
上半身には何も身に着けていないが、お胸はない。
お胸がないなら、女性じゃなくて男性なのか、とも思えるが、胸のない女性もいる。
やはりこのみほとけが女性であるとされているのは袴に隠されている下半身にあるのではないだろうか。
ちょっとわかりにくいが、庭に渦巻きが描かれていた。
璉珹寺の庭には渦巻きが描かれていた。
今探してみても見つからないのだが(汗)、このような渦巻きが描かれた裸形の仏像をネットで見た記憶がある。(記憶間違いかもしれないw)
璉珹寺さんのお庭に渦巻きが描かれているのは、御本尊の阿弥陀如来様の股間に渦巻きが描かれているからではないだろうか?
⑨鳴門の渦潮はイザナミの女性器だった?イザナギとイザナミが国産みをしたおのころ島の所在について、諸説あるが、淡路島の南海上4.6kmほどのところにある沼島だとする説が有力であす。
でも私はもっと鳴門の渦潮の近くにある飛島あたりではないかな、と思ったりする。
というのは鳴門の渦潮はイザナミの女性器に喩えられているのではないかと思うからだ。
鳴門の渦潮イザナミは国産みで、淡路島・四国・隠岐島 ・九州 ・.伊伎島・.佐度島・本州・..児島半島・ .小豆島・周防大島・姫島・.五島列島 ・.男女群島と、次々に島を産む。
昔の日本に東北地方や沖縄地方は含まれていなかった。
国産みの記述を見ると、日本の最も東は佐渡島、最も西は男女群島のようである。
すると、鳴門の渦潮のあるあたりがちょうど昔の日本の中心ぐらいになると思う。
鳴門の渦潮は国産みにぴったりな場所だと思うのだがどうだろう?
そして赤ちゃんは右に回転しながらお母さんのお腹の中からでてくる。(左回転のケースもまれにあるとか。)
鳴門の渦潮もまれに左巻もあるそうですが、ほとんど右巻だという。
そういうわけで渦巻きが女性を表すものではないかと思うのである。
男性は蓮のつぼみで、女性はうず巻きとは、なかなか洒落ていると思う。
惟喬親王の乱㉑ 渚の院跡 『惟喬親王の歌会は呪術会だった?』 に続きます~
スポンサーサイト