惟喬親王の乱⑲離宮八幡宮 紅葉 『搾油器を発明した神官の正体とは?』
惟喬親王の乱⑱阿弥陀寺 『体質を樹脂化するとは?』 よりつづきます~
「小野小町は男だった」もよかったらよんでみてね。

①天王山は女山?
離宮八幡宮の由緒は次のとおり。
平安時代、清和天皇は夢の中で、「九州の宇佐八幡宮より八幡神を京へご遷座せよ」というお告げを聞いた。
清和天皇は夢告げに従い、僧・行教に、八幡神の遷座を命じた。
早速行教は宇佐に向かい八幡神を奉じて帰京する途中、山崎の津で夜の山(神降山)に霊光が光るのを見た。
その地を掘ると岩間に清水が湧き出したのでここにご神体を鎮座し、社を創建した。
こうして859年に「石清水八幡宮」が創祀された。
その後、石清水八幡宮は山崎から見て淀川の対岸にある男山(八幡市)に移され、山崎の地の八幡宮は名前を変えて呼ばれるようになった。
ここ離宮八幡宮は、石清水八幡宮の元社だったのだ。
惟喬親王の乱⑰ 石清水八幡宮 『石清水八幡宮の神主が紀氏の世襲なのはなぜ?』
http://rikyuhachiman.org/sinryouezu.html
↑ こちらに江戸時代に描かれた離宮八幡宮の絵が掲載されている。
神殿の背後に小高い山が描かれているが、これが神降山だろう。
現在、離宮八幡宮の北にJR山崎駅がある。
そのさらに北に天王山があるが、この天王山が神降山だろうか?
天王山の中腹に自玉手祭来酒解神社(たまでよりまつりきたるさかとけじんじゃ/元山崎天王社)があって、オオヤマツミ・スサノオを祀っているが
元々の祭神は山崎神・酒解神だという。
離宮八幡宮の御祭神は、本殿=応神天皇、左殿=酒解大神(さかとけのおおかみ)、別称大山祇神(おおやまつみしん)、右殿=比売三神ということで、自玉手祭来酒解神社と御祭神がかぶっているので
この天王山が神降山なのかも?(間違っていたら教えてくださーい!)
姫路城は姫山・鷺山に築かれているというが、姫路城の隣には男山がある。
これと同じように、現在の石清水八幡宮が鎮座しているのは男山なのだが、これに対して女山みたいなのがあるのではないかと私は常々思っていた。
もしかして、天王山は女山だろうか?
②油祖
貞観年間(859~877年)、離宮八幡宮の神官が神示を受けて「長木」と呼ばれる搾油器を発明し、荏胡麻(えごま)油(神社仏閣の燈明用油)が作られるようになったと伝わる。
全国にこの製油技術が広まると、離宮八幡宮は朝廷より「油祖」の名を賜り、油の専売特許を得た。
油を商うためには、離宮八幡宮の許状が必要だったという。
※貞観は清和天皇(生没年850~881)の御代

③油を搾るしくみ

離宮八幡宮 説明板より
向かって右下の短い棒に縄を巻き付けることによって、上部の長い棒を下にさげて力を加え、荏胡麻の油を搾る。
離宮八幡宮 説明板より
写真向かって右の縦についている長い棒は、縄を巻き付ける道具だと思う。
この棒を前後させることによって縄を巻き付けている短い棒を回転させるのだろう。
工学に詳しい友人に聞いたところ、逆回転防止の歯車がとりつけられているのではないか、とのこと。


離宮八幡宮 説明板より
④搾油器とろくろ
私は搾油器「長木」は木地師が用いるろくろに似ていると思った。

木地師の里 ろくろ
どちらも棒にロープが巻き付けられている。

木地師資料館に展示されていた掛け軸
使い方は上の絵のとおり。
ひとりがロープの両端を持って棒を回転させる。
そしてもうひとりが棒の先端に取り付けた刃に木をあてて削るのである。
⑤「長木」を発明したのは惟喬親王?
上の絵は木地師資料館に展示されていた掛け軸で、「器地轆轤之祖神 惟喬親王命尊像」と記されている。
惟喬親王は巻物が転がるのを見てろくろを発明したという伝説がある。
しかしこの伝説は事実ではない。
惟喬親王は平安時代の人物だが、奈良時代に作られたろくろびきの百万塔が残されているからであるw
だが「惟喬親王がろくろを発明した」と人々が信じたことは間違いないだろう。
そして、先ほどものべたように、離宮八幡宮の神官が発明した搾油器の構造はろくろに似ている。
ずばり、搾油器を発明した離宮八幡宮の神官とは惟喬親王ではないだろうか。
惟喬親王はろくろを発明したのと同じように、巻物を転がるのを見て搾油器を発明した、と信じられたのではないか?
というのは、石清水八幡宮を創建した清和天皇と惟喬親王(844-897)は異母兄弟なのである。
どちらも父親は文徳天皇、清和天皇の母親は藤原良房の娘・明子、惟喬親王の母親は紀名虎の娘・静子である。
文徳天皇は長子の惟喬親王を皇太子につけたかったのです。
しかし、時の権力者は藤原良房。源信はこの藤原良房を憚って、「惟喬親王を皇太子にしたい」という文徳天皇を諫めた。
こうして清和天皇が皇太子についたわけで、二人の間には藤原氏と紀氏の世継争いという因縁があるのだ。

離宮八幡宮 説明板より
⑥八幡神は身をひくことで皇位継承をもたらす神
宇佐八幡宮は奈良時代には「道鏡を天皇とするべし」とか「道鏡を天皇にしてはならない」という相反する二つの神託を下している。
どうやって信託を下すのだろう?
巫女に託宣するのだろうか?
それはわからないが、とにかく相反する二つの皇位継承に関する神託をくだしたわけである。
また宇佐八幡宮には天皇即位や国家異変の際に勅使(ちょくし―天皇の使い)が派遣される習慣があった。
八幡神は皇位継承の神として信仰されていたのだと思う。
で、八幡宮の主祭神である応神天皇は、伊奢沙和気大神(福井県敦賀市の気比神宮の神)と、応神天皇の名前を交換したという話がある。(古事記)
応神天皇は伊奢沙和気大神となって気比神宮に祀られ、神饌として大漁のイルカがお供えされた。
そして伊奢沙和気大神は応神天皇となり、ちゃっかり皇位についたという話のように思える。
これは政権交代を意味する物語ではないだろうか。

初代神武天皇が東征して畿内入りするよりも早く、ニギハヤヒという神が天下っていたと記紀には記されている。
ニギハヤヒは物部氏の祖神なので、神武以前に物部王朝があったという説がある。
また応神天皇は九州の宇美で生まれ、そこから畿内入りするのだが
そのルートが神武東征ルートと重なるので、同一人物ではないかとする説もある。
記紀は神武は天皇家の人間で九州から東征してやってきたとしているが、九州から東征してやってきたのは物部氏だったのかもしれない。
実際の天皇家は九州からではなく福井県敦賀あたりからやってきたのだったりして?
すると応神天皇が皇位継承の神として信仰されているのは、
彼が物部王朝の王であったが、彼が身を引いたため、イザサワケが皇位について政権交代したため、
だとも考えられる。
そして惟喬親王も身をひくことで、清和天皇の即位をもたらしたと考えられたのではないかと思う。
清和天皇の生没年は850~881年。
石清水八幡宮が創建された859年、清和天皇はまだ9歳であって、まだ自らの意思で神社を創建しようと考えたりはできないと思う。
石清水八幡宮の創建には清和天皇の外祖父・藤原良房が関わっていると考えるのが妥当だと思う。
そして藤原良房は応神天皇に惟喬親王のイメージを重ねて石清水八幡宮に祭ったのではないだろうか。
日本では先祖の霊は子孫が祭祀するべきとする考え方があった。
石清水八幡宮の神官は紀氏の世襲である。
これは「藤原良房は応神天皇に惟喬親王のイメージを重ねて祭った」という説を裏付けると思う。

⑥惟喬親王の水無瀬の離宮
伊勢物語の第八十二段には、こんな話が記されている。
惟喬親王は在原業平や紀有常らの寵臣とともに、水無瀬離宮から交野ケ原へ向かい、渚の院で歌会を開いたと。
水無瀬は惟喬親王ゆかりの地なのである。
そして、水無瀬は離宮八幡宮から近い。
離宮八幡宮という名前は、嵯峨天皇の離宮があったところからつけられたというが、本当は惟喬親王の離宮があったところからつけられたんだったりして?
⑦ 漆・樹脂・油は即身仏の防腐剤だった?
それはさておき、⑤に書いたように「搾油器を発明した離宮八幡宮の神官は惟喬親王」が正しいと仮定して、なぜ惟喬親王は搾油器を発明したなどという伝説が生じたのかについて考えてみよう。
惟喬親王は虚空蔵菩薩より漆の製法を授かったという伝説もあるが、これは入定する際、漆のお茶を飲むことと関係がありそうに思える。
(漆を飲むことで胃の中のものを吐き出し、また漆の防腐作用で腐りにくい体になるという。)
惟喬親王の乱⑭ 法輪寺 重陽神事 『惟喬親王、菊のしずくを飲んで不老長寿を得る?』
調べてみると古代エジプトのミイラで防腐剤が使用されていたということがわかった。
英ヨーク大学の考古学者スティーブン・バックレー博士によると
現在、イタリア・トリノのエジプト博物館に保管されている古代エジプトのミイラは次のようなレシピから作られる防腐剤を使用されているという。
●植物性油:おそらくゴマ
●植物か根からの「バルサム(樹脂の一種)のような」抽出液:ガマ属の植物由来とみられる
●植物性ののり:アカシアから抽出されたとみられる糖
●針葉樹の樹脂:おそらく松ヤニ
https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-45204722
すると、離宮八幡宮の神官(惟喬親王のことか?)が搾油器を発明したという伝説は、その油と松脂などの樹脂をまぜて防腐剤として用いたことから生じた伝説なのかも、と思ってしまう。
惟喬親王の乱 ⑳璉珹寺 茉莉花 『女人裸形の阿弥陀如来は小野小町のイメージ?』 に続きます~
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