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惟喬親王の乱① 東向観音寺 『本地垂迹説』 惟喬親王の乱⑮ 根来寺 『根来塗と小野小町伝説は惟喬親王と関係あり?』 よりつづきます~
「小野小町は男だった」もよかったらよんでみてね。
①針供養と事八日美しい織姫さんたちがピンク色のこんにゃくに針をさしていく。
針はいつも硬いものを刺しているので、やわらかいものに刺して供養するのだという。
針供養は関東では2月8日、関西では12月8日に行われることが多いそうである。
法輪寺では2月8日と12月8日の両方行っている。
⓶なぜ針供養は身をつつしむべき「事八日」に行うのか。なぜ針供養は2月8日と12月8日に行われているのだろうか?
12月8日は『事納め』の日で、その年の農作業を終える日である。
そして2月8日は『事始め』で、その年農作業を始めて行う日だ。
12月8日と2月8日をまとめて『事八日(ことようか)』という。
事八日は魔物が家の中をうかがっていると考えられ、身をつつしむ日とされていた。
それで女性たちはこの日針仕事をしなかったのだという。
どうやら針供養が2月8日と12月8日なのは、「事八日」で針仕事をしない日であったためのようである。
しかし、なぜ身をつつしむべき事八日に針仕事をしてはいけないのだろうか?
家で謹慎するには針仕事はもってこいだと思うのだが?
私は身をつつしむべき事八日に針仕事をしてはいけないと考えられていたのは、針には穴があるからではないかと思ったりする。
女性の穴を魔物が狙っている。
つまり貞操を大事にするという意味で、針仕事をしてはいけないといわれていたのではないだろうかw。
③針供養は法輪寺で清和天皇代にはじめられた?平安時代、清和天皇(850~881)が法輪寺に針供養の堂が建てられたと伝えられる。
そして法輪寺のhpには次のように記されている。
「法輪寺針供養は、皇室で使用された針をご供養せよとの天皇の命により始まったといわれている。」と。
https://www.kokuzohourinji.com/events.html残念ながら、何天皇の命なのかについては記されていない。
しかし法輪寺に針供養の堂をたてた清和天皇の命である可能性が極めて高い。
またこれがもっとも古い針供養のいわれではないかと思う。(違っていたらご指摘お願いします。)
すると法輪寺が針供養発祥の地である可能性も高い。
④清和天皇、惟喬親王の恨みを怖れる?清和天皇は文徳天皇と藤原明子(藤原良房の娘)との間に生まれた皇子(惟仁親王)で
惟喬親王は文徳天皇と紀静子(紀名虎の娘)との間に生まれた皇子である。
文徳天皇は惟喬親王(844~897)を皇太子にしたかったのだが、源信にいさめられて、惟仁親王を皇太子にした。
清和天皇(惟仁親王)や藤原良房は惟喬親王の恨みが恐ろしかっただろうし、
藤原良房の子孫は惟喬親王の怨霊を怖れたことだろう。
⑤針供養と小野小町、惟喬親王の関係まち針は『小町針』がなまったものだと言われている。
小野小町は『穴のない体』だったという伝承がある。
つまり小野小町は性的に不能だったというのである。
それで穴のない針を『小町針』といい、それがなまって『まち針』になったと言われる。
私は小野小町が『穴のない体』だったというのは小野小町とは実は男だった、小野小町とは小野宮と呼ばれた惟喬(これたか)親王のことであるためではないかと考えている。
そしてここ法輪寺には惟喬親王が籠った際虚空蔵菩薩より漆の製法を授かったという話が伝えられている。
法輪寺は惟喬親王と関係の深い寺なのである。
法輪寺の針供養は小野小町=惟喬親王の供養を目的として始められたなんてことはないだろうか。
惟喬親王の乱⑰ 石清水八幡宮 『石清水八幡宮の神主が紀氏の世襲なのはなぜ?』 に続きます~