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惟喬親王の乱⑫ 正明寺『惟喬親王を厚く信仰した日野の木地師・塗師たち』



トップページはこちらです→惟喬親王の乱① 東向観音寺 『本地垂迹説』  
惟喬親王の乱⑪ 法輪寺 十三詣 『惟隆親王、虚空蔵菩薩より漆の製法を授かる?』 よりつづきます~

「小野小町は男だった」もよかったらよんでみてね。


正明寺 万灯会 
①後水尾天皇の勅願寺

正明寺(滋賀県蒲生郡日野)の万灯会(8月5日から8月15日まで。行かれる際は確認をお願いします。)をk子と見に行った。

観光客は私とk子のふたりだけだった。
本堂から読経の声が聞こえてくる。
本堂の中をうかがうと、20人くらいの人々が正座をして読経を聞いていた。
檀家さんたちが集まってお盆の先祖供養をしてもらっているのだろう。
どうやら正明寺の万灯会はご近所の方々が先祖を迎えるためのもので、観光客用のイベントではなさそうだった。

それでも日野の方々は我々のような異邦人にも温かかった。
ひとりのご婦人がやってきて「どうぞ」といって熱いお茶をすすめてくださり、この寺の創建などについて教えてくださったのだ。
(ありがとうございました!) 
炎天下だが、熱いお茶を飲むとなぜかそのあと体が涼しく感じられるから不思議だ。

ご婦人の話によると、正明寺の由緒は次のようなものだった。

飛鳥時代、聖徳太子が創建したと伝わる。
戦国時代、戦火を受けて消失したが、江戸時代に黄檗宗の寺として再興され、後水尾天皇の勅建寺となった。 

正明寺 魚梆 

黄檗宗の総本山は京都宇治にある萬福寺である。
萬福寺は魚梆(ぎょほう)が有名だが、正明寺にも同様の魚梆があった。
萬福寺のはこちら→ 

⓶日野の木地師・塗師に信仰された惟喬親王

またご婦人は日野の町の歴史についても教えてくださった。
それはだいたい次のような話だった。

1533年、日野領主の蒲生氏が中野城を築いた際、日野は城下町として整備された。
日野には木地師や塗師が招へいされて住み着き、漆器の産地として発展した。

当時の日野には『日野市』という市場町があった。
日野市は上の市と下の市から成り、上の市には世神(渡世の神)である惟喬親王が、下の市では市神が祀られていたのだという。

現在、日野町松尾・井林神社の境内に、惟喬親王をお祀りする世(せ)神社があるそうだ。
高さ1mほどの石室であるという。 
世神社という名前は惟喬親王が世神であるところからくる名前なのかもしれない。

世神社はもともと上市淅上(かみのいち・かしあげ)の辻(現・大窪)にあり(『近江日野町誌』)、「日野椀」塗師屋が厚く信仰していたという。
この世神社が上の市に祀られていた世神・惟喬親王のことなのかもしれない。


渡世とは「この世で生きていくこと。生活すること。世渡り。 生業。」などの意味を持つ。
よくわからないが、現生利益の神、ということだろうか。

市神とは市の守護神として祀られる神の事で、市姫とも呼ばれる。

世神社は1625年、綿向神社に遷宮し、さらに1813年に綿向神社から井林神社へ遷宮した。(「綿向神社文書」)。

日野商人はしだいに「合薬(あわせぐすり)」を主力商品として扱うようになり、1756年に町が大火に襲われたことで、残念ながら日野椀の製造はほぼ消滅したという。

日野の塗師屋仲間が伝えてきた惟喬親王像の画軸一幅が、第十代「塗師安」により近江日野商人館に寄託されているということである。

木地師資料館 惟喬親王像2 

木地師資料館の惟喬親王像

③芦谷神社の山味噌伝説

また、日野町原の芦谷神社には次のような伝説が伝わっているという。

惟喬親王は追手に追われて鈴鹿の山伝いに平子・熊野・西明寺を経て、君ヶ畑へ身を隠した。
その途中、原の村人が芦谷神社で山の神の集まりをしているところに立ち寄られた。
村人たちは、親王一行を山味噌でもてないした。
原の山味噌は、木桶に味噌と豆腐を交互に詰めて作る。
惟喬親王はこの山味噌を召し上がってたいそう気に入り『この味噌は子々孫々に伝えるように』とおっしゃって去っていかれた。


またしても、惟喬親王が登場したw。 
この日は残念ながらご婦人に教えていただいた世神社、芦谷神社を参拝することはできなかったのだが、いずれ参拝してみたいと思う。
 
 正明寺 万灯会2

④上の市で惟喬親王が祀られていた理由

惟喬親王は巻物が転がるのを見て木地師の用いる轆轤(ろくろ)を発明したとか、京都の法輪寺に籠って虚空蔵菩薩から漆の製法を授かったなどという伝説がある。

惟喬親王の乱③木地師の里 『世継争いに敗れた皇子』 
惟喬親王の乱⑪ 法輪寺 十三詣 『惟隆親王、虚空蔵菩薩より漆の製法を授かる?』 

そういったことから、惟喬親王は木地師の祖とされ信仰された。
また木地師が作るものは漆器なので、塗師たちも惟喬親王を信仰していたのだろう。
上の市で惟喬親王が祀られていたのはそのためだと思う。 


木地師資料館 惟喬親王像  

木地師資料館の惟喬親王像
下の女性と男性が轆轤を使って器を作っている。


⑤御霊として祀られた惟喬親王

惟喬親王(844- 897)は文徳天皇の第一皇子で母親は紀名虎の娘の静子だった。
文徳天皇には藤原良房の娘・明子との間に第四皇子の惟仁親王(のちの清和天皇)もあった。
文徳天皇は長子の惟喬親王を皇太子にしたいと考えており、これを源信に相談しました。
源信は藤原良房を憚って文徳天皇をいさめたという。
こうして世継ぎ争いに敗れた惟喬親王は出家して小野の地に隠棲し、のちに大皇器地祖神社(おおきみきじそじんじゃ)、玄武神社、筒井神社などに御霊として祀られた。 
 
御霊とは怨霊が祟らないように慰霊されたもののことをいう。
怨霊とは政治的陰謀によって不幸な死を遂げた者のことで、疫病や天災や怨霊の仕業で引き起こされると考えられていた。
惟喬親王はかつて怨霊として畏れられていたということだろう。

ウィキペディア「祟り神」によれば「祟り神(たたりがみ)は、荒御霊であり畏怖され忌避されるものであるが、手厚く祀りあげることで強力な守護神となると信仰される神々である」
と記されている。

⑥清和天皇にイメージを重ねた後水尾天皇

正明寺を再興したのは後水尾天皇だったが、後水尾という諡号は遺諡(遺詔によって自ら決める追号)によって贈られたものである。
つまり後水尾天皇という諡号は後水尾天皇が望んでおくられたということだが、水尾とは清和天皇の異称である。

徳川光圀の『西山随筆』には、「兄を押しのけて即位したことが清和天皇と同様であることからこの諡号を自ら選んだのだろう」とある。

後水尾天皇には良仁親王という異母兄がおり、豊臣秀吉の後押しを受けて皇位継承者とされていた。
ところが秀吉が死亡して徳川家康が政治の実権を握ると、家康の後押しによって後水尾天皇が皇位継承者とされた。

後水尾天皇は自らを清和天皇のイメージとかさね、清和天皇との世継ぎ争いに敗れた惟喬親王を祀り上げることで自らの守護神にしようと考えたのではないだろうか。
そのため惟喬親王に対する信仰の強い日野の正明寺を勅願寺としたのではないかと思ったりする。 

こんなことを考えていると、正明寺にともされたたくさんの灯りは惟喬親王を慰霊するためのもののように思えてきた。


正明寺 万灯会3



 
惟喬親王の乱⑬ 上加茂神社 烏相撲 『紀名虎&藤原良房の世継ぎ争い』に続きます~

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