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惟喬親王の乱⑩ 帯解寺『帯解寺に小町の宮があるのはなぜ?』

トップページはこちらです→惟喬親王の乱① 東向観音寺 『本地垂迹説』  
惟喬親王の乱⑨ 十輪寺 『惟喬親王と六歌仙』  よりつづきます~

「小野小町は男だった」もよかったらよんでみてね。



帯解寺 本堂 桜

①腹帯地蔵

帯解寺の受付で「参拝したいのですが。大人2名です。」と告げた。
すると受付の女性に「安産祈願はなさいますか」と尋ねられた。
私の隣には友人のk子がいる。
夫婦だと勘違いされたのだ。
私はk子のことが好きで、いつか人生のパートナーになってくれるといいなあと思っているが、まだ彼女にそれを打ち明けたことはない。(したがって彼女がどう思っているかはわからないw)

「い・・・いや、今日は参拝のみでお願いします。」私は若干どもり気味で答えた。

堂内に入ると安産祈願の祈祷が行われている最中で、複数のカップルが地蔵菩薩に手を合わせていた。
ここ帯解寺は安産祈願のお寺として厚く信仰されているのだ。

やがて祈祷が終わると、カップルたちは地蔵菩薩が安置された内陣へと入っていった。
私と友人も僧侶の方に手招きされて内陣に入った。

帯解寺 桜


帯解寺には次のような伝説がつたえられている。

文徳天皇の御妃・染殿皇后(藤原明子)が永い間お子様にめぐまれず、大変悩んでおられた。
あるとき、春日明神のお告げがあり、勅使をたてて帯解子安地蔵菩薩にお祈りされたところ、まもなく御懐妊された。
こうしてお生まれになったのが惟仁(これひと)親王(清和天皇)である。
文徳天皇はたいへん、お喜びになって858年春、更に伽藍を御建立になった。

帯解地蔵の像高は182.6cm。
左手に宝珠、右手に錫杖を執り、左足を踏み下げて岩座上に坐しておられた。
腹前に裳の上端の布や結び紐が表されているところから『腹帯地蔵』と呼ばれている。

②同様の伝説が十臨寺・清和院・染殿院にも。

これと同様の話はすでにみなさんご存じである。
そう、京都の清和院・染殿院・十輪寺にも同様の話が伝えられているのだった。

惟喬親王の乱⑥ 染殿院 『腹帯地蔵は惟喬親王のイメージ?』 
惟喬親王の乱⑧ 清和院 『惟喬親王にろくろ首のイメージ?』 
惟喬親王の乱⑨ 十輪寺 『惟喬親王と六歌仙』 

いずれも染殿皇后に安産をもたらしたとされる地蔵菩薩をお祀りしている。

帯解寺 門 桜

③文徳天皇は惟仁親王(清和天皇)を皇太子にしたくなかった。

藤原明子が惟仁親王(清和天皇)を産んだことを、文徳天皇が喜んだかどうかは疑問である。
というのは、文徳天皇は惟仁親王ではなく、紀静子が産んだ長子の惟喬(これたか)親王を皇太子にしたいと考え、源信に相談しているのだ。
源信は藤原明子の父・藤原良房を憚って「それはやめたほうがいい」と諌めたとされる。

平家物語には紀名虎(紀静子の父)と藤原良房(藤原明子の父)が、どちらの孫を立太子させるかでバトルを繰り広げたようすが記されている。
高僧の祈祷合戦や相撲の勝敗などを繰り返した末に藤原良房が勝利したとある。

実際には紀名虎は惟仁親王が生まれる前に亡くなっているので、平家物語の記述は事実ではない。
しかし紀氏と藤原氏が権力争いをしていたことは事実だと思う。

帯解寺 門 桜 

政治的に不幸だった惟喬親王は玄武神社・大皇器地祖神社・筒井神社などに御霊として祀られていることも、すでにご紹介した。

惟喬親王の乱③木地師の里 『世継争いに敗れた皇子』 
惟喬親王の乱④玄武神社『胴体がなく首の長い神』 

御霊とは怨霊が祟らないように慰霊されたもののことである。
つまり惟喬親王は怨霊だったのだ。
怨霊とは政治的陰謀によって不幸な死を迎えた者のことで、疫病の流行や天災などは怨霊のしわざでひきおこされると考えられていた。

⑤十輪寺・清和院・染殿院・帯解寺の地蔵菩薩は惟喬親王の怨霊封じ込めの像?

梅原猛さんは「聖徳太子は怨霊であり、聖徳太子等身大の像と伝わる救世観音は聖徳太子の怨霊封じ込めの像である」とおっしゃっている。
聖徳太子が怨霊になったのは、彼の子孫は全員斑鳩寺(法隆寺)で首をくくって自害したためであるという。


惟喬親王の乱⓶法隆寺 『救世観音は聖徳太子の怨霊封じ込めの像?』 

これと同様、十輪寺・清和院・染殿院・帯解寺の地蔵菩薩は惟喬親王の怨霊封じ込めの像ではないだろうか。
世継争いに敗れた惟喬親王は怨霊になる要素を持っている。


⑥怨霊は祀り上げれば和魂に転じる

陰陽道では荒ぶる怨霊は十分に祀ればご利益を与えてくださる和魂に転じると考える。
すなわち怨霊である惟喬親王を慰霊して、和霊に転じさせたのが、帯解寺や清和院、染殿院などにある地蔵菩薩ではないかと思うのだ。

 
帯解寺 雪柳


⑨腹帯地蔵と小野小町は同体

帯解寺には小町宮があった。

日本では神仏は習合して信仰されていた。
帯解寺の腹帯地蔵と小野小町は同体であるので、ここに小町宮が祀られているのではないかと私は思った。

帯解寺 小町之宮


⑩小野小町とは小野宮と呼ばれた惟喬親王のことではないか?


小野小町について、井沢元彦さんは惟喬親王が「小野宮」と呼ばれていたことから、惟喬親王の乳母ではないかと説かれた。
しかし私は小野小町とは小野宮と呼ばれた惟喬親王自身のことではないかと考えている。

これについては詳しく「小野小町は男だった」のシリーズで述べたが、簡単にまとめておく。
a古今和歌集には男が女の身になって詠んだ歌が多数ある。
b古今和歌集仮名序はやけに小町が女であることを強調しているが、これは小町が男だからではないか。
c.小野小町は穴のない体で性的に不能であったともいわれているが、穴がない体なのは小町が男だからではないか。
d『古今和歌集』に登場する女性歌人に三国町、三条町、がいる。
三国町は一般には継体天皇の母系氏族・三国氏出身の女性だと考えられているが、
 『古今和歌集目録』は三国町を紀名虎の娘で仁明天皇の更衣としている。
  紀名虎の娘で仁明天皇の更衣とは紀種子のことである。
  また三条町は紀名虎の娘で文徳天皇の更衣だった紀静子のことである。
  三国町が紀種子とすれば、三条町=紀静子なので、三国町と三条町は姉妹だということになる。
  そして紀静子は惟喬親王の母親だった。。
  惟喬親王は三国町の甥であり、三条町の息子なので、三国町・三条町とは一代世代が若くなる。
  そういうことで小町なのではないだろうか。
e花のいろは うつりにけりな いたづらに わがみよにふる ながめせしまに
この歌は縁語や掛詞を用いて二重の意味をもたせた技巧的な歌だとされる。
①花の色はすっかり褪せてしまったなあ。春の長い雨のせいで。
②私の容色はすっかり衰えてしまったなあ。恋の物思いにふけっている間に。
※『色』・・・『視覚的な色(英語のColor)』『容色』
※『世』・・・『世の中』と『男女関係』
※『ながめ』・・・『物思いにふける』『長雨』
しかし、もうひとつ違う意味が隠されているように思える。
③はねずの梅の鮮やかな色はあせ、(「はねず」は移るの掛詞なので、花ははねずの梅ととる)私の御代に(「わが御代に 下(ふ)る」とよむ。)長い天下(「ながめ」→「長雨」→「長天」と変化する。さらに「下(ふ)る」を合わせて「天下」という言葉を導く)がやってきたようだ。

帯解寺に小野小町を祀る小町の宮があるのは偶然とは思われない。
小町の宮の存在は、小野小町=惟喬親王であることを証明するもののように私には思われた。



惟喬親王の乱⑪ 法輪寺 十三詣 『惟隆親王、虚空蔵菩薩より漆の製法を授かる?』 に続きます~

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[ 2020/09/04 ] 惟喬親王の乱 | TB(0) | CM(0)