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惟喬親王の乱⑧ 清和院 『惟喬親王にろくろ首のイメージ?』




トップページはこちらです→惟喬親王の乱① 東向観音寺 『本地垂迹説』  
惟喬親王の乱⑥ 染殿院の腹帯地蔵は惟喬親王のイメージ?  よりつづきます~

「小野小町は男だった」もよかったらよんでみてね。


土蜘蛛の塚

①土蜘蛛の塚

上の写真は惟喬親王の乱① 東向観音寺 『本地垂迹説』  でご紹介した東向観音寺にある土蜘蛛の塚である。
東向観音寺は菅原道真を祀る北野天満宮の神宮寺で、北野天満宮参道の西に面してある。

東向観音寺 舞妓

東向観音寺の門前には「天満宮御本地佛 十一面観世音菩薩」と刻まれた石碑がたてられており、
門に吊るされた赤い提灯にも「天満宮御本地佛」と記されている。

本地佛とは、本地垂迹説からくる言葉である。

本地垂迹説とは「日本古来の神々は仏教の神々が衆上を救うため仮にこの世に姿を現したものである」とする考え方のことで、
日本の神仏習合のベースとなる考え方である。

そして日本の神々のもともとの正体である仏教の神々のことを本地仏、仏教の神々が衆上を救うために仮にこの世に姿をあらわした存在である日本の神々のことを権現、化身などといった。

例えば天照大神の本地仏は大日如来であるとか、市杵島姫は弁才天の権現であるなどとして同一視された。

天満宮とは北野天満宮の御祭神・菅原道真のことである。
つまり「天満宮御本地仏 十一面観世音菩薩」とは「天満宮=菅原道真の本地仏である十一面観音をお祭りしています。」というような意味である。

寺の伝説では、この十一面観音は菅原道真が刻んだと伝えている。
しかし私は道真が仏像を刻んだというのは疑わしいと考えている。
古には著作権という考え方はなかった。
実際には仏師が十一面観音を刻んだのだが、「道真の怨霊が煩悩をすてて成仏し十一面観音になった」という意味で
「道真が十一面観音を刻んだ」と伝えているのではないかと思ったりする。

⓶清和院

もともと土蜘蛛の塚(蜘蛛塚)は、東向観音寺ではなく清和院の近くにあった。
清和院は北野天満宮の東南東400mほどのところにある。
拾遺都名所図会←こちらは『拾遺都名所図会』に描かれた清和院と蜘蛛塚である。
蜘蛛塚は画面向かって左下の桃畑の中にある。
『拾遺都名所図会』は1787年に発刊されたもので、当事蜘蛛塚は清和院門前の桃畑の中にあったことがわかる。
(蜘蛛塚は山伏塚とも呼ばれていたそうである。)
少しわかりにくいが、葛城一言主神社の土蜘蛛の塚と呼ばれるような石のようにも見える。(惟喬親王の乱⑦土蜘蛛とは首のない人間のことだった? 

一言主神社 土蜘蛛の塚 
一言主神社 土蜘蛛の塚

明治期、清和院前の蜘蛛塚の発掘調査をしたところ燈篭の火袋が出土した。
それをある人が貰い受けて庭に置いていたが、よくないことが次々に起こり 蜘蛛の祟りだという噂がたった。
そのため、その火袋は東向観音寺に奉納されたのだという。

『拾遺都名所図会』に描かれた清和院は広そうに見えるが、現在はコンクリート造の小さなお堂と庫裏があるだけである。
また桃畑はマンションや民家となって古の面影はないし蜘蛛塚もない。

清和院 

清和院

清和院という寺名から、染殿院がかつて「清和院釈迦堂」とも呼ばれていたというのを思い出す。
惟喬親王の乱⑥ 染殿院の腹帯地蔵は惟喬親王のイメージ? 

染殿院という寺名は藤原明子が染殿后と呼ばれていたことと関係がある。
藤原明子がここの地蔵尊に祈願して清和天皇を御産みになられた。
それで染殿地蔵といわれるようになり、寺名も染殿院となったのだろう。
また染殿院が清和院釈迦堂と呼ばれていたのは藤原明子が清和天皇を産んだことにちなむ呼称だと思う。

清和院釈迦堂と清和院が関係あるかどうかわからないが、清和院も清和天皇にちなむ寺である。

清和院はもともとは京都御苑内の現在は京都迎賓館がある場所にあったらしい。
平安時代、ここには藤原良房の邸宅(染殿第)があり、良房の娘・藤原明子が文徳天皇に入内したのち、明子の願いを聞き入れて仏心院という寺をたてて地蔵菩薩を安置したのが始まりという。
876年、清和天皇は譲位したのち、仏心院を御在所・後院とした。
その後廃れたが、1306年に浄土宗西山義の照空真日が再興し、朝廷より清和院の号を賜った。
1661年に御所が炎上したため、現在地に移転したようである。

なぜ藤原明子は地蔵菩薩を安置する寺を欲したのか。
それはやはり、文徳天皇の皇子を生み、生んだ子を文徳天皇の皇太子にしたいという願いをかなえるためだろう。
そして、染殿院の地蔵菩薩もたぶんそうだと思うが、清和院の地蔵菩薩には惟仁親王(清和天皇)のライバルである惟喬親王のイメージが重ねられていたのではないかと思う。

清和院 本堂 

清和院 本堂

③源頼光が退治した土蜘蛛とは平将門だった?
拾遺都名所図会に描かれた蜘蛛塚の話に戻ろう。
この蜘蛛塚平安時代に源頼光が退治した土蜘蛛が住んでいた場所だとされる。

蜘蛛塚と呼ばれる巨岩(岩ではないかもしれないw)が、桃畑の中にあったというのがなかなか興味深い。
桃は邪気を祓う、などといわれていて節分には桃の弓で葦の矢を射て清めの儀式を行ったりする。
つまり、蜘蛛塚は桃畑の中に置かれることで、そこから外に土蜘蛛が彷徨い出ないような呪術的仕掛けがなされているのではないだろうか。

蜘蛛塚は平安時代に源頼光が退治した土蜘蛛が住んでいた場所だとされている。
源頼光の生没年は948-1021年である。
時代から考えて、源頼光が退治した土蜘蛛とは940年に討ち死にした平将門のことだと思われる。
土蜘蛛とは斬首されて頭部のない人間のことではないかと私は考えているが、平将門の首は斬首されて京に持ち帰られ、晒されたのだ。

④惟喬親王にろくろ首のイメージ?

さきほども述べたように、清和院はもともとは京都御所の東にあったのだが、1661年に火災にあい、この場所に移転している。
これを信じるならば、蜘蛛塚は清和院が移転してくる前からここにあったということになる。

しかし、本当に平安時代から蜘蛛塚がここにあったかどうかはわからない。

また言い伝えとおり平安時代から蜘蛛塚があって、清和院があとからここに移転してきたのだとしても、
清和院は蜘蛛塚となんらかの関係があったために、ここに移転してきたという可能性がありそうに思える。

惟喬親王は法華経の巻物の軸が回転するのを見て轆轤(ろくろ)を発明したという伝説がある。

かつて木を削るために用いられていた轆轤は巻物のように細長い形で、そこに何重にも綱を巻きつけ、1人がその紐を引っ張ることで軸を回転させる仕組みになっていた。
で、その軸の先端に木材をとりつけ、もうひとりが回転する木材に刃物をあてて削っていた。

木地師資料館 惟喬親王像 

木地師資料館に展示されていた掛け軸


轆轤の形は妖怪・ろくろ首を思わせる形をしている。
轆轤の先端にセットされたお椀が頭で、轆轤の軸が首のイメージである。

蘇我入鹿やゲンボウ、平将門の髑髏が飛んだという伝説があるが、ろくろ首とは飛行する髑髏の変形バージョンなのではないだろうか。

まさか本当に親王とも有ろうお方が轆轤を発明したとも思えないが、なぜ惟喬親王が轆轤を発明したなどと言われているのだろうか。

惟喬親王にはろくろ首のイメージがある。

ろくろ首は飛行する首の別バージョンだと考えられる。
ということは、惟喬親王もまた平将門と同様、土蜘蛛(首のない人間)ではないのか。

それで清和院が移転する場所として、蜘蛛塚のある場所が選ばれたのかもしれない。

境内には首のない地蔵菩薩が祀られていた。
この石仏の由緒が知りたいと思ったが説明書はなかった。

清和院 首無地蔵 

清和院 首無地蔵


首がない石仏は珍しいものではなく、あちこちで見かけた記憶がある。
しかし気になる。


惟喬親王の乱⑨ 十輪寺 『惟喬親王と六歌仙』 に続きます~

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[ 2020/09/01 ] 惟喬親王の乱 | TB(0) | CM(0)