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惟喬親王の乱㉔ 広河原 松上げ 『ペルセウス座流星群とお盆』


トップページはこちらです→惟喬親王の乱① 東向観音寺 『本地垂迹説』  
惟喬親王の乱㉓ 宝山寺『聖天さんに油をかけるのは何のため?』 よりつづきます~

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①惟喬親王を偲ぶ 雲ガ畑 松上げ

惟喬親王の乱⑤雲ヶ畑 松上げ 『惟喬親王の本地仏は地蔵菩薩?』 

↑ こちらの記事で、雲ヶ畑の松上げという行事をご紹介した。
雲ヶ畑は惟喬親王が隠棲した地と伝わり、地蔵盆の日に行われる松上げは惟喬親王を偲んで行われているのだった。

雲ヶ畑 松上げ

雲ヶ畑 松上げ

⓶広河原松上げ

松上げという行事はそのほかの京都の地域でもいくつか行われている。
花背、広河原、小塩などである。(小塩は上げ松といっているが、松上げと同様の行事である。)

しかし一般的に松上げと呼ばれる行事は、雲ヶ畑のものとは違っている。

広河原 松上げ-松明をとりつける 
まず、河原に立てられた無数の竹に松明を取り付ける。(地松)

広河原 松上げ
 

上の写真は広河原の松上げを長時間露光したものである。
地面近くの小さな光の環は、氏子さんたちが小さな松明を手に持ってグルグル回している光の軌跡である。
(地松から松明に着火するのだと思う。)

こうして勢いをつけたのち、中央に建てられた燈籠木めがけて松明を高く放り投げるのだ。
運動会の玉入れを、玉の代わりに松明を用いてするようなものである。
なかなか松明は燈籠木に命中しないのだが、ついに命中して火がつき、燈籠木が燃え始める。

広河原 松上げ-着火


「松上げ」の「松」とは「松明」の「松」を意味しているのではないだろうか。

広河原 松上げ

最後は保存会の人々が綱で燈籠木をひっぱって倒す。

広河原 松上げ-倒れる松明

③ベルセウス座流星群

ペルセウス座流星群は7月20日頃から8月20日頃にかけて観測され、8月13日がピークである。

Leonidas sigloXIX

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Leonidas_sigloXIX.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/84/Leonidas_sigloXIX.jpg よりお借りしました。
作者不明 / Public domain


これはしし座流星群を描いた絵だが、なんとなく松上げに似ている。

ただし、光が流れる方向は逆になっている。
流星群は放射点から広がるように星が流れるが、松上げは燈籠木に向かって松明を投げる。
それはあたかも流星群が逆向きに流れ、放射点に向かっているかのようである。

④お盆はベルセウス座流星群が観測される時期に行われる。

旧暦ではお盆は7月15日を中心とした行事だった。
新暦になってからは8月15日を中心として行われることが多い。
旧暦は新暦の約1か月遅れなので、今も昔もペルセウス座流星群が観測される次期にお盆は行われているといえる。

⑤流星は死んだ人の魂だと考えられていた?


お盆にはお精霊さん(おしょらいさん/先祖の霊のことを京都ではこう言います。)がこの世へ帰ってくると考えられていた。
なぜお盆にはお精霊さんがこの世へ帰ってくるなどと考えらえたのだろうか。

昔の人々は死んだ人の魂は星になると考えていたようで、今でも亡くなった人のことを「星になった」などという。
ペルセウス座流星群でたくさんの星が降るようすを、死んだ人の魂がこの世に戻ってくると考えられたのではないだろうか。

そして松上げは精霊送りの行事だとされるが、この世の戻ってきたお精霊さん=流星を空に戻す行事のように思える。


広河原 松上げ-盆踊り松上げが終わると観音堂で盆踊りが始まる。
腰をまげて踊るしぐさが色っぽい~。


広河原 松上げ-行列  
松上げの行事を終えた男性陣も行列を作って観音堂にやってくる。

広河原 松上げ-行列 太鼓 

広河原 松上げ-盆踊り 
まだまだ盆踊りは続く。





惟喬親王の乱㉕ 白峯神宮 小町踊 『七夕は盆入りの行事だった。』  に続きます~

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惟喬親王の乱㉓ 宝山寺『聖天さんに油をかけるのは何のため?』

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惟喬親王の乱㉒ 磐船神社『ニギハヤヒと神武の争い』 よりつづきます~

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宝山寺2

宝山寺本堂

①宝山寺(生駒聖天)

宝山寺は、655年に役行者が開いたといわれ、都史陀山 大聖無動寺(としださん だいしょうむどうじ)と言う寺名であったそうだ。

本堂の後ろにあるのは般若窟で、弥勒菩薩像などが祀られている。
他にお堂などもあるそうだが、うっかりしていて気がつかなかった。(汗)

役行者がここに般若経をおさめたとか、葛城・金剛の山々修業していた18~20才のころ、生駒山の般若窟に立寄り、捕らえた前鬼・後鬼を般若窟に閉じ込めて改心させたという伝説も残されている。
近くには鬼取という地名があるが、鬼取の地名の由来は役行者が前鬼後鬼を取り押さえたところからくるともいわれている。
前鬼後鬼は夫婦の鬼で、悪さばかりしていたので役行者が彼らの子供を隠し、会心させたのだという。

平安時代には空海もここで修行をしたと伝わる。

また江戸時代、延宝6年(1678年)に湛海律師が再興し、歓喜天を祀った。
宝山寺は生駒聖天ともよばれ、聖天さんのイメージが強いが、ここに聖天さんが祀られるようになったのは江戸時代だったのである。

宝山寺 多宝塔

多宝塔

宝山寺 多宝塔 内部

多宝塔内部。写真撮影ok~。日曜日は開扉していますよ。


⓶生駒山はニギハヤヒの土地だった?

http://sazanami217.blog.fc2.com/blog-entry-278.html
↑ こちらの記事に、奈良の「県民だより 平成23年 1月号」に次のような、奈良の昔話が掲載されていると記されている。
(引用させていただいます。ありがとうございます。)

生駒山の夜叉と湛海さん

生駒山の巨大な岩壁の般若窟(はんにゃくつ)には、役行者の作といわれる不動尊と弁財天の仏像が祀られていた。
山麓の村人は「この古仏を守ってくれる方がいたら山を寄進する」と、修験僧でもあった湛海さんにお願いした。
実は、山には恐ろしい悪霊(あくりょう)が棲(す)んでいたらしい。
延宝六年(一六七八)、湛海さんは菜畑(なばた)村の庄屋の案内で山に入った。
岩をよじ登り般若窟に立つと、奇石が峨峨(がが)として聳(そび)え立つ断崖であった。
湛海さんは石を取り除き、座禅する場所をこしらえた。
ここに籠(こ)もって三、四日過ぎた夕暮れ、突然、怪力の夜叉が組み付いてきた。
夜叉は黒く大きく、肌は岩のように硬くゴツゴツし、毛髪は鉄の針のように鋭く尖っていた。
夜叉は「ここは俺の住まいだ。早く立ち去れ」と言った。
湛海さんが「南無不動明王(なむふどうみょうおう)」と念じると、その腕力は夜叉の数十倍に変化し、夜叉は逃げ去った。
その後、湛海さんは、生駒山には岩船大明神(いわふねだいみょうじん)が住み、山の北にその神が降臨した岩船谷があると聞いて参詣した。
すると岩船の岩肌が、襲ってきた夜叉の肌と大変よく似ている。
この時、大明神が夜叉となって現れたことに気づいた。
今も般若窟には岩船大明神を祀る小社がある。

岩船大明神とは、磐船神社のことだろう。
磐船神社は前回の記事惟喬親王の乱㉒ 磐船神社『ニギハヤヒと神武の争い』 で紹介した。
宝山寺と磐船神社の距離は約7kmほどである。

磐船神社は物部氏の祖神・ニギハヤヒを祀る神社で本殿はなく、天の磐船と呼ばれる巨岩を拝殿より直接拝む。
つまり岩船大明神とはニギハヤヒのことであり、ニギハヤヒが悪霊であり、夜叉であったという話だと思う。

また①に書いた役行者の話を思い出してほしい。

「役行者がここに般若経をおさめたとか、葛城・金剛の山々修業していた18~20才のころ、生駒山の般若窟に立寄り、捕らえた前鬼・後鬼を般若窟に閉じ込めて改心させた」という伝説があるのだった。

この前鬼・後鬼もニギハヤヒの化身であるのかもしれない。

宝山寺3

西門付近から聖天堂拝殿、本堂を望む。

男女和合は荒魂を御霊に転じさせる呪術?

宝山寺 聖天堂

写真左にあるのは聖天堂拝殿である。
この後ろに聖天堂がある。
わかりにくいが、鳥居には「歓喜天(聖天さんのことを歓喜天ともいう。)」と記されていた。

聖天さんは仏教の神である。
その仏教の神を祀る聖天堂に神道のような拝殿があったり、鳥居があるのは初めてみた。

聖天さんとは鬼王ビナヤキャと十一面観音の化身であるビナヤキャ女神がい抱き合う男女双体の神で
もともとインドの神であったのが仏教にとりこまれた。

聖天さんには次のような伝説がある。

鬼王ビナヤキャは祟りをもたらす神であった。
そこへ十一面観音の化身であるビナヤキャ女神があらわれ、鬼王ビナヤキャに「仏法守護を誓うならあなたのものになろう」と言った。
鬼王ビナヤキャは仏法守護を誓い、ビナヤキャ女神を抱いた。




動画お借りしました。動画主さん、ありがとうございます。


↑ 相手の足を踏みつけている方がビナヤキャ女神である。

この物語は、御霊・荒魂・和魂という概念をうまく表していると思う。

神はその現れ方で、御霊(神の本質)・荒魂(神の荒々しい側面)・和魂(神の和やかな側面)の3つに分けられるといわれる。
そして荒魂は男神を、和魂は女神を表すとする説があるのだ。
すると神の本質である御霊とは男女双体と言うことになると思う。

御霊・・・神の本質・・・・・・・歓喜天・・・・・・・男女双体
荒魂・・・神の荒々しい側面・・・鬼王ビナヤキャ・・・男神
和魂・・・神の和やかな側面・・・ビナヤキャ女神・・・女神


男女和合は荒魂を御霊に転じさせる呪術だったのではないだろうか。


宝山寺 聖天堂2

聖天堂拝殿

④聖天さんのシンボルが違い大根なのはなぜ?

聖天さんのシンボルは違い大根と巾着である。
なぜ聖天さんのシンボルは違い大根と巾着なのか?

大根は聖天さんの好物だからとよくいわれる。
しかし、なぜ聖天さんは大根が好物だとされているのか。

大根は直根の先端にある生長点が石ころなどにあたると、側根が肥大して二股になってしまうことがよくあるそうである。
古の人々は二股の大根を、二本の大根がくっついていると考えたのではないだろうか。
それで大根は好物というよりも、男女双体の聖天さんにふさわしいシンボルであると考えられたのではないか、と思ったりする。

宝山寺 巾着

聖天堂拝殿前に置かれた大根が描かれた巾着袋

⑤聖天さんのシンボル、巾着袋の中には何が入っている?

次にもうひとつの聖天さんのシンボル、巾着について考えてみたいが、
その前に聖天さんの頭が象になっている理由についてみてみよう。

これは聖天さんがビナヤキャ&ビナヤキャ女神のほかに、ガネーシャという神様が聖天さんに関係しているからだと言われている。

ガネーシャは母親のパールヴァティーに命じられて、彼女の入浴の見張りをしていた。
そこへシヴァが戻ってきた。
ガネーシャはシヴァが自分の父だと知らず、入室を拒んだがめ、シヴァは怒ってガネーシャの首を切り落として遠くへ投げ捨ててしまった。
その後、シヴァはガネーシャが自分の子供だと知り、ガネーシャの頭を探しに出かけたが見つからなかった。
そこで象の首を斬り落として持ち帰り、ガネーシャの体につけて生き返らせた。


ガネーシャは斬首されて殺され、象の首をつけることで生き返った神なのである。
ガネーシャはドクロの神だといってもいいだろう。

そして弥勒菩薩の化身と言われる布袋は手に大きな巾着袋をもっている。

萬福寺 布袋   

布袋は死後にその姿を見かけられたという伝説がある。
おそらく布袋は双子だったのだと思うが、布袋の死後に布袋の姿を見た人は、布袋は生き返ったと考えたのだろう。

上の写真は京都・萬福寺の布袋像ですが、手に巾着袋のようなものを持っている。
この風呂敷包みはちょうどヒトのドクロが入っていそうな大きさである。

真言立川流では髑髏に漆や和合水を塗り重ねて髑髏本尊を作り、これを袋に入れて7年間抱いて寝ると髑髏が生き返って語りだすとしている。
聖天さんのルーツとされるガネーシャも体に象の頭部をくっつけることで復活しており
昔の人は髑髏は復活にかかせない呪具であると考えていたのではないかと思う。

つまり、聖天さん=ガネーシャでもあり、首を斬られたが復活した神、ということでそのシンボルが髑髏の入った巾着と言うことではないかと思うのだ。

宝山寺 大根と巾着の額

⑥聖天さんに欲油するのは聖天さんをミイラ仏にするため?

とそこまで考えて、離宮天満宮を思い出した。惟喬親王の乱⑲離宮八幡宮 紅葉 『搾油器を発明した神官の正体とは?』  

貞観年間(859~877年)、離宮八幡宮の神官が神示を受けて「長木」と呼ばれる搾油器を発明し、荏胡麻(えごま)油(神社仏閣の燈明用油)が作られるようになったと伝わっているのだった。

その搾油器を発明したと伝わるのは、惟喬親王ではないかと私は考えた。
惟喬親王は木地師が用いるろくろを発明したと伝わるのだが、その長木のひもを巻き付ける構造が少しろくろに似ているように思ったからだ。
長木の図 
離宮八幡宮 説明板より

ろくろ 

木地師の里 ろくろ


そして「惟喬親王は虚空蔵菩薩より漆の製法を授かった」という伝説もあるが、これは入定する際、漆のお茶を飲むことと関係がありそうに思える。
(漆を飲むことで胃の中のものを吐き出し、また漆の防腐作用で腐りにくい体になるという。)
惟喬親王の乱⑭ 法輪寺 重陽神事 『惟喬親王、菊のしずくを飲んで不老長寿を得る?』 

調べてみると古代エジプトのミイラで防腐剤が使用されていたということがわかった。

英ヨーク大学の考古学者スティーブン・バックレー博士によると
現在、イタリア・トリノのエジプト博物館に保管されている古代エジプトのミイラは次のようなレシピから作られる防腐剤を使用されているという。

●植物性油:おそらくゴマ
●植物か根からの「バルサム(樹脂の一種)のような」抽出液:ガマ属の植物由来とみられる
●植物性ののり:アカシアから抽出されたとみられる糖
●針葉樹の樹脂:おそらく松ヤニ

樹脂を油と混ぜると殺菌特性が備わり、遺体を腐敗から守ってくれる。

https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-45204722


すると、離宮八幡宮の神官(惟喬親王のことか?)が搾油器を発明したという伝説は、その油と松脂などの樹脂をまぜて防腐剤として用いたことから生じた伝説なのかも、と思ってしまう。

さらに、阿弥陀寺には体質を樹脂質化したとされる弾誓のミイラ仏が安置されている。

惟喬親王の乱⑱阿弥陀寺 『体質を樹脂化するとは?』 

聖天さんに欲油祈祷するのは、聖天さんをミイラ仏とするためだったりして?

現代人は心臓が動き、息をしていることを生きていると認識する。
しかし古代人は肉体が腐らないことを永遠の命と考えたのではないかと思う。
というのは、「即身仏になる目的は56億7000万年後、弥勒菩薩があらわれるとき、復活してその聖業に参加するためだった」と聞いたことがあるからだ。

魂が復活するためには魂の入れ物である肉体が必要だと考えられていたのかもしれない。

そう思って見上げると、般若窟には弥勒菩薩像があった。
弥勒菩薩と聖天さんはどちらも復活するみほとけということで、関係が深そうに思えた。

宝山寺 

般若窟には弥勒菩薩像が祀られていた。


宝山寺 浴室

浴室もあった。御坊様が使われるのだろう。

 

惟喬親王の乱㉔ 広河原 松上げ 『ペルセウス座流星群とお盆』 に続きます~

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惟喬親王の乱㉒ 磐船神社『ニギハヤヒと神武の争い』

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惟喬親王の乱㉑  渚の院跡 『惟喬親王の歌会は呪術会だった?』 よりつづきます~

「小野小町は男だった」もよかったらよんでみてね。


星のブランコ 紅葉3 
①星伝説が残る交野ケ原

星田園地の展望台から見下ろすと、見渡す限りオレンジ色の紅葉が広がっていた。
写真に写っている橋は『星のブランコ』と呼ばれている。

星田園地は天の川の上流にある。

天の川は前回の記事惟喬親王の乱㉑  渚の院跡 『惟喬親王の歌会は呪術会だった?』 でご紹介した
伊勢物語「渚の院」の中で出てきた川である。
もう一度、伊勢物語「渚の院」を読んでみよう。

昔、惟喬親王という親王がおられた。
山崎の向こうの水無瀬といふ所に宮があった。
毎年、桜の花盛りには、そのへいらっしゃった。
その時、右馬頭と言う人を常に連れてこられた。
随分昔のことなので、右馬頭の名前は忘れてしまった。

狩りは熱心にはやらず、酒を飲んでは和歌を詠んでいた。
今狩りする交野の渚の家、その院(御所)の桜が特にすばらしかった。
その木のもとに馬から下りて座り、枝を折って髪にさし、上、中、下の者身分を問わず、みな歌詠んだ。

馬頭が詠んだ。
世の中に たえて桜の なかりせば  春の心は のどけからまし
(世の中に 桜というものがなかったならば、春の心は もっとのんびりしていただろうに)


また他の人の歌、
散ればこそ いとど桜は めでたけれ 憂き世になに か久しかるべき
(散るからこそ桜はすばらしいのだ。悩み多き世の中に、変わらないものなどあるだろうか。)


このように歌を詠んで、その木のもとを立って帰る途中日暮れになった。

お供の人が酒を従者にもたせて野より出てきた。
この酒を飲んでみようと、飲むのにふさわしい場所を探していくと天の河というところにやってきた。

親王に馬頭が大御酒をさしあげた。
親王は言った。

「交野を狩りをして天の河のほとりにたどりついた、を題に歌を詠んで杯をつげ。」

馬頭は歌を詠んだ。

狩り暮らし たなばたつめに 宿からむ 天の河原に 我は来にけり
一日中狩りをして日が暮れてしまったので、織姫に宿を借りよう。天の河原に私はやってきたのだから。)


親王は何度も歌を繰り返され、返歌することができない。

紀有常も御供されており、紀有常が返した。
ひととせに ひとたび来ます 君待てば 宿かす人も あらじとぞ思ふ
織姫は一年に一度いらっしゃる君(=彦星)を待っているのだから、宿を貸す人はないだろう。


帰って宮に入った。
夜が更けるまで酒を呑み、語り、主人の親王は床に入ろうとなさった。

十一日の月が山に隠れようとしているのであの馬頭が詠んだ。

飽かなくに まだきも月の 隠るるか 山の端逃げて 入れずもあらなむ
(ずっと眺めていても 飽きないのに 早くも月は隠れてしまうのか。山の端が逃げて月を入れないでおいてほしい。)

親王にかわり申し上げて紀有常

おしなべて 峰も平に なりななむ 山の端なくは 月も入らじを
(すべての峰が平らになってほしい。山の端がなくなれば月は入らないだろう。)

天の川が舞台となっているのはこの部分である。↓

お供の人が酒を従者にもたせて野より出てきた。
この酒を飲んでみようと、飲むのにふさわしい場所を探していくと天の河というところにやってきた。

親王に馬頭が
大御酒をさしあげた。
狩り暮らし たなばたつめに 宿からむ 天の河原に 我は来にけり
一日中狩りをして日が暮れてしまったので、織姫に宿を借りよう。天の河原に私はやってきたのだから。)


親王は何度も歌を繰り返され、返歌することができない。

紀有常も御供されており、紀有常が返した。
ひととせに ひとたび来ます 君待てば 宿かす人も あらじとぞ思ふ
織姫は一年に一度いらっしゃる君(=彦星)を待っているのだから、宿を貸す人はないだろう。

親王は言った。

「交野を狩りをして天の河のほとりにたどりついた、を題に歌を詠んで杯をつげ。」

馬頭は歌を詠んだ。


現在の交野市・枚方市あたりは惟喬親王がおられた平安時代には交野ケ原といわれていた。
天の川は大阪府四条畷市・奈良県生駒市の境に源を発し、交野市・枚方市を経て淀川に流れ込んでいる。

このあたりには星の字のつく地名や、いくつかの星の伝説が残されている。
星田園地の「星田」も地名である。
星のブランコという橋の名前はこういったところからつけられたのだろう。

⓶ニギハヤヒを祀る磐船神社

星田園地の近くに磐船神社という神社がありニギハヤヒを祀っている。

磐船神社 天の磐船

本殿はなく、拝殿より直接ご神体の巨岩『天の磐船』を拝む。

③初代神武天皇より早く天下っていたニギハヤヒ

初代神武天皇は日向より東征をめざすが、出立の際、シオツチの翁が「東にはニギハヤヒが天の磐船を操ってすでに天下っている。」と発言している。
磐船神社はこのニギハヤヒが天下った場所だとされている。

ここから初代神武以前、畿内には物部王朝があったとする説がある。

ニギハヤヒは別名を天照国照彦火明櫛玉饒速日命といい、本当の天照大神とはニギハヤヒではないかともいわれている。
http://ja.uncyclopedia.info/wiki/%E5%A4%A9%E7%9A%87%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7
上記、アンサイクロペディアはなんと初代天皇を天照国照彦天火明櫛玉饒速日としている。
アンサイクロペディアってすばらしい!

ニギハヤヒが操った天の磐船とはUFOのようなものではないか、という人もいる。
ニギハヤヒは天の磐船からこんなオレンジ色の風景を眺めたのかもしれない。
 
星のブランコ 紅葉2 
④ニギハヤヒは星の神

ニギハヤヒは物部氏の租神とされ、かつてこのあたりには肩野物部氏が住んでいた。
物部氏は製鉄・鋳造の技術に長けており、そのため物部氏の神は星の神だとする説がある。

また雲陽誌という書物には『ニギハヤヒは星の神』だと記されている。

おそらく昔の人は巨岩を空から堕ちてきた星だと考えたのではないだろうか。
するとニギハヤヒが操っていた「天の磐船」とは流星なのではないかと思ったりする。

⑤ニギハヤヒはもともとは太陽神だった?

古事記や日本書紀では単にニギハヤヒと記されているが、先代旧事本紀では『天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてる くにてるひこ あまのほあかり くしたま にぎはやひ の みこと)』と記されている。
また先代旧事本記はニニギの兄・天火明命(アメノホアカリ)と同一の神としている。

ニニギは天照大神の孫で、天照大神に命じられて葦原中国に天下った神である。

本当の天照大神とは天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてる くにてるひこ あまのほあかり くしたま にぎはやひ の みこと)=ニギハヤヒのことではないかとする説がある。
ニギハヤヒはもともとは太陽の神であったのに、神武に政権を奪われて夜の神、星の神へと神格を変えられたのではないだろうか。

星のブランコ 紅葉 

⑥記紀には星の神は天津甕星一柱しか登場しない。

さらに、記紀には星の神はたった一柱、天津甕星(別名カカセオ)しか登場しない。
また天津甕星は天照大神の「葦原中国平定に最後まで抵抗した荒々しい神」と記されている。

雲陽誌にはニギハヤヒは星の神と記されているし、ニギハヤヒと天津甕星は同一神ではないだろうか。

つまり、天照大神とはニギハヤヒの子孫である女性のことであり、神武はその女性と結婚して政権を手に入れた。
さらに葦原中国を治めるのは天照大神の子孫とすることをきめ、同腹の兄妹または姉弟の結婚を禁忌とした。(衣通姫と木梨軽皇子などの例が記紀に記述がある)
こうすると、ニギハヤヒの子孫である物部氏の男子は、物部氏の女性である天照大神と結婚できない(同腹の兄妹または姉弟の結婚を禁忌なので)ということになり、物部氏の男子は皇位につけないということになる。




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惟喬親王の乱㉑  渚の院跡 『惟喬親王の歌会は呪術会だった?』


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惟喬親王の乱 ⑳璉珹寺 茉莉花 『女人裸形の阿弥陀如来は小野小町のイメージ?』  よりつづきます~

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①渚院跡

地図ではだいたいこのあたりにあるはずなのだが、それらしき建物がない。
あたりをうろうろしていると保育園の鉄柵に「渚院跡→」と記された案内板が貼られているのを見つけた。
ここだ。

案内板の矢印は、保育園と民家に挟まれた狭く窪んだ場所を指し示している。
そのつきあたりには金網がめぐらされおり、金網前には「渚院址」と記された古い石碑が建てられていた。
金網の中をのぞき込むと鐘楼と桜の木が見える。

金網の扉は閉まっていたが、隣の保育園で鍵を借りるようにと記した紙がはられていた。
隣の保育園のインターホンを鳴らし、渚の院を見学したいとの旨をつげると、優しそうな保母さんが鍵をもってきてくれた。
渚の院跡までもどり、自分で鍵をあけて中に入る。
そこは民家と保育園の運動場に挟まれた狭い土地で、鐘楼と数本の淡墨桜の木、歌碑などがあるだけだった。

しかしここは平安時代に、伊勢物語「渚の院」の舞台となった由緒ある場所なのである。

渚の院は惟喬親王の宮があったとされるが、のちに十一面観音を本尊とする観音寺という寺が建てられたようだ。
明治初年に廃寺となり、鐘楼だけがここに残された。
本尊は西雲寺(大阪府枚方市渚元町24−1の西雲寺か?)に移されたという。
梵鐘は1796年に枚方村金屋田中家信が鋳造したものだと説明板に書いてあった。

渚の院 桜


⓶伊勢物語「渚の院」

伊勢物語「渚の院」は次のような話である。

昔、惟喬親王という親王がおられた。
山崎の向こうの水無瀬といふ所に宮があった。
毎年、桜の花盛りには、そのへいらっしゃった。
その時、右馬頭と言う人を常に連れてこられた。
随分昔のことなので、右馬頭の名前は忘れてしまった。

狩りは熱心にはやらず、酒を飲んでは和歌を詠んでいた。
今狩りする交野の渚の家、その院(御所)の桜が特にすばらしかった。
その木のもとに馬から下りて座り、枝を折って髪にさし、上、中、下の者身分を問わず、みな歌詠んだ。

馬頭が詠んだ。
世の中に たえて桜の なかりせば  春の心は のどけからまし
(世の中に 桜というものがなかったならば、春の心は もっとのんびりしていただろうに)


また他の人の歌、
散ればこそ いとど桜は めでたけれ 憂き世になに か久しかるべき
(散るからこそ桜はすばらしいのだ。悩み多き世の中に、変わらないものなどあるだろうか。)


このように歌を詠んで、その木のもとを立って帰る途中日暮れになった。

お供の人が酒を従者にもたせて野より出てきた。
この酒を飲んでみようと、飲むのにふさわしい場所を探していくと天の河というところにやってきた。

親王に馬頭が大御酒をさしあげた。
親王は言った。

「交野を狩りをして天の河のほとりにたどりついた、を題に歌を詠んで杯をつげ。」

馬頭は歌を詠んだ。

狩り暮らし たなばたつめに 宿からむ 天の河原に 我は来にけり
一日中狩りをして日が暮れてしまったので、織姫に宿を借りよう。天の河原に私はやってきたのだから。)


親王は何度も歌を繰り返され、返歌することができない。

紀有常も御供されており、紀有常が返した。
ひととせに ひとたび来ます 君待てば 宿かす人も あらじとぞ思ふ
織姫は一年に一度いらっしゃる君(=彦星)を待っているのだから、宿を貸す人はないだろう。


帰って宮に入った。
夜が更けるまで酒を呑み、語り、主人の親王は床に入ろうとなさった。

十一日の月が山に隠れようとしているのであの馬頭が詠んだ。

飽かなくに まだきも月の 隠るるか 山の端逃げて 入れずもあらなむ
(ずっと眺めていても 飽きないのに 早くも月は隠れてしまうのか。山の端が逃げて月を入れないでおいてほしい。)

親王にかわり申し上げて紀有常

おしなべて 峰も平に なりななむ 山の端なくは 月も入らじを
(すべての峰が平らになってほしい。山の端がなくなれば月は入らないだろう。)


渚の院 歌碑

③馬頭は在原業平

ここに登場する右馬頭とは在原業平のことである。
というのは伊勢物語に記された右馬頭の歌は古今和歌集では在原業平作となっているからである。

「右馬頭の名前は忘れた」と伊勢物語の作者は言っているが、これは嘘なのである。
伊勢物語の作者は紀貫之ではないかといわれているが、紀貫之は古今和歌集を編纂した人物であって、知らないはずがないのだ。
彼は土佐日記では自らを女と偽って日記を書いているし、
古今和歌集仮名序でも喜撰法師のことを「よく知らない」と書いているが、おそらく喜撰法師とは紀仙法師で紀名虎(紀有常の父)または紀有常、または惟喬親王のことだと思われ、親族である彼らのことを貫之が知らないはずがない。
紀貫之と言う人は一筋縄ではいかない人だという印象を私は持っている。

それはともかく、私たちは長い旅をしてきたが、ここで初めて惟喬親王、在原業平、紀有常らが語りだした!

④惟喬親王と惟仁親王の世継争い。

文徳天皇には紀静子(紀名虎の娘、紀有常の妹)との間に長子の惟喬親王、藤原良房の娘・藤原明子との間に惟仁親王(のちの清和天皇)があった。
文徳天皇は惟喬親王を皇太子にしたいと源信に相談している。
文徳天皇が世継ぎにしたいと考えていたのは藤原明子所生の惟仁親王ではなく、紀静子所生の惟喬親王だったのだ。
源信は当時の権力者・藤原良房を憚って文徳天皇を諌め、惟仁親王が皇太子になったのだが。

⑤在原業平と紀氏、藤原氏の関係


業平は惟喬親王の寵臣で、また紀静子の兄・紀有常の娘を妻としていて完全に紀氏側の人間だった。
また世継ぎ争いに敗れた惟喬親王は頻繁に歌会を開いていますが、歌会と称してクーデターを計画していたのではないかとも言われている。

伊勢物語・渚の院は、惟喬親王の歌会のようすを描いたものである。

在原業平は惟喬親王の歌会のメンバーであり、クーデターの首謀者だったのではないかとする説もある。
在原業平はなぜか「色好み」ばかりがクローズアップされているが、政治的に不遇で、反骨精神にあふれた人物であったと考えられる。

⑥桜散り老い来る道

言霊という言葉がある。
口に出した言葉は実現する力を持つという信仰のことである。

言霊はプラス思考のことだととらえられがちだ。
例えば、「私はできる」と考えると本当にできるようになると言われる。
これはある程度正しい。

しかし、古の日本人はこのようなプラス思考のほかに、呪術的な目的をもって言霊を信仰していたように思われる。
呪術は他人に気がつかれないようにかけなければいけない。
古には国家や貴人を呪うことは重罪とされていたからだ。
和歌の掛詞・縁語・もののななどのテクニックはこのようなことを背景にできたのではないかと思う。

高田祟史さんは和歌は呪術ではないかとし、在原業平が藤原基経(藤原良房の養子)に送った次のような例をあげておられる。

桜花 散りかひくもれ 老いらくの 来むといふなる 道まがふがに
(桜花よ、散り乱れて空を曇らせておくれ。老いというものがやってくるという道が花びらでまぎれて見分けられなくなるように。)


業平は五七五七七の初句に「かきつばた」を読み込んだ歌を詠んでいる。

唐衣 着つつなれにし つましあれば はるばる来ぬる 旅をしぞ思ふ
(何度もきて身になじんだ唐衣のように、慣れ親しんだ妻を都に置いてきたので はるばる遠いところまで やってきた旅を しみじみと思う)


らころも つつなれにし ましあれば るばるきぬる  びをしぞおもふ

上の歌の五七五七七の初句をつなげると「かきつはた」となる。

花 りかひくもれ いらくの むといふなる まがふがに

上の歌も、「かきつばた」の手法が用いられていると高田祟史氏は主張する。
五七五七七の初句をつなげると「桜散老来道」となる。
「桜散老来道」は漢語であり、読み下すと「桜散り老い来る道」となり、業平が藤原基経を呪った歌だというのだ。

⑦桜は藤原氏または藤原氏の栄華の象徴?

惟喬親王の渚の院での歌会は、呪術会だったのではないか?

世の中に たえて桜の なかりせば  春の心は のどけからまし
(世の中に 桜というものがなかったならば、春の心は もっとのんびりしていただろうに)


また他の人の歌、
散ればこそ いとど桜は めでたけれ 憂き世になに か久しかるべき
(散るからこそ桜はすばらしいのだ。悩み多き世の中に、変わらないものなどあるだろうか。) 


この二首は藤原良房が詠んだ次の歌を受けたものだと思う。

染殿の后のおまへに花瓶(に桜の花をささせたまへるを見てよめる
年ふれば 
()は老いぬ しかはあれど 花をし見れば 物思ひもなし/藤原良房
(年を経たので、齢は老いた。そうではあるが、美しい桜の花をみれば物思いにふけることもない)

染殿の后とは藤原良房の娘、明子のことである。

その明子の前にいけた桜の花を見て、「自分は年をとったが、美しい花を見れば悩みなどない」と良房は歌を詠んだのだ。
桜は藤原氏、または藤原氏の栄華を表しているのだと思う。
つまり、美しい明子が文徳天皇に入内して清和天皇を産んだので、自分は天皇の外祖父となって政治の実権を握ることができた、という意味だととれる。

渚の院 淡墨桜 

世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし/在原業平

この歌に詠まれた、桜とは藤原氏の栄華のことで
「世の中に藤原氏の栄華がなければ、春の心がこんなにイライラすることはなかっただろうに。」という意味ではないだろうか。

また

散ればこそ いとど桜は めでたけれ 憂き世になにか 久しかるべき 
 
は藤原氏の栄華は散るからめでたいのだ。思い悩むことの多い世の中だが、藤原氏の繁栄がいつまでも続いたりはしないだろうという意味だと思う。





惟喬親王の乱㉒ 磐船神社『ニギハヤヒと神武の争い』 に続きます~

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惟喬親王の乱 ⑳璉珹寺 茉莉花 『女人裸形の阿弥陀如来は小野小町のイメージ?』

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惟喬親王の乱⑲離宮八幡宮 紅葉 『搾油器を発明した神官の正体とは?』  よりつづきます~

「小野小町は男だった」もよかったらよんでみてね。



璉珹寺 茉莉花3

①喜撰法師=紀有常?


璉珹寺は奈良時代に聖武天皇の勅願により行基が創建し、平安時代に紀有常が再興したと伝わる。

おお、紀有常!
この「惟喬親王の乱」シリーズの記事の中で何度も登場していただいた人物である。

惟喬親王の乱⑨ 十輪寺 『惟喬親王と六歌仙』 
惟喬親王の乱⑱阿弥陀寺 『体質を樹脂化するとは?』 
惟喬親王の乱⑲離宮八幡宮 紅葉 『搾油器を発明した神官の正体とは?』  

紀貫之が書いたといわれる古今和歌集仮名序の中で名前をあげられた六人の歌人、僧正遍照・在原業平・喜撰法師・文屋康秀・小野小町・大友黒主のことを六歌仙という。

そして喜撰法師とは紀仙法師であり、紀名虎またはその子の紀有常のことではないかとする説がある。

紀名虎の娘(紀有常の妹)の紀静子は文徳天皇に入内して惟喬親王を産んだ。
文徳天皇は惟喬親王を皇太子にしたいと考えていたのだが、藤原良房の娘の藤原明子が産んだ惟仁親王(のちの清和天皇)が皇太子になった。

平家物語などに紀名虎と藤原良房が、いずれの孫を立太子させるかでもめ、相撲や高僧の祈祷合戦などのバトルを繰り広げた結果、藤原良房が勝利したと記されている。

これは史実ではない。
というのは、惟仁親王が生まれたときすでに紀名虎はなくなっていたからだ。
しかし、紀氏と藤原氏に確執があったことは確かだろう。

璉珹寺 石仏 茉莉花


⓶六歌仙は怨霊だった?

喜撰法師は六歌仙の一だが、ついでに六歌仙の意味、六歌仙の残りの5人についても簡単に記しておこう。

先ほども述べたように、六歌仙とは紀貫之が書いたといわれる古今和歌集仮名序の中で、名前をあげられた6人の歌人のことである。
ただし、六歌仙いう言葉は古今和歌集仮名序の中で用いられてはおらず、
後世になって古今和歌集の中で名前をあげられた6人の歌人のことを六歌仙というようになったと考えられている。

高田祟史さんは六歌仙とは怨霊であるとおっしゃっている。

なるほどそういわれると、その通りかもしれないと思う。

怨霊とは政治的陰謀によって不幸な死を迎えた者のことであり、天災や疫病の流行は怨霊の仕業で引き起こされると考えられていた。
そして六歌仙は全員藤原氏と敵対関係にあった人物なのだ。

遍照は桓武天皇の孫だが、父の良岑安世が臣籍降下した。遍照は俗名を良岑宗貞といった。
彼は藤原良房にすすめられて出家したというが、出家の理由を誰にも話さなかったという。

在原業平は惟喬親王の寵臣だった。
惟喬親王は文徳天皇と紀静子(紀名虎の娘)の間に生まれた長子で、文徳天皇は惟喬親王を皇太子にしたいと考えていた。
しかし、文徳天皇には藤原明子(藤原良房の娘)との間に惟仁親王もあり、惟仁親王のほうが皇太子となった。(のちの清和天皇)
惟喬親王の寵臣である業平を藤原良房がいいように思うはずがなく、業平はなかなか昇進することができなかった。
また業平は紀静子(惟喬親王の母)の兄・紀有常の娘を妻としていて藤原氏と敵対していた紀氏側の人間だった。

大友黒主は大伴黒主と記されることもあり、私は大伴家持と同一人物だと考えている。
私流 トンデモ百人一首 6番 …『大伴家持、白い神から黒い神に転じる?』 
大伴家持は藤原種次暗殺事件の首謀者とされ、当事すでに亡くなっていたのだが、死体が掘り出されて流罪となった。

文屋康秀の文屋は分室と記されることもあり、文室宮田麻呂の子孫かもしれない。
文室宮田麻呂は謀反を企てたとして流罪となったが、死後無罪であることがわかって863年、神泉苑の御霊会で慰霊されている。

小野小町について、私は小野宮と呼ばれた惟喬親王のことだと考えている。
これについては詳しく「小野小町は男だった」のシリーズで述べたが、簡単にまとめておく。
a古今和歌集には男が女の身になって詠んだ歌が多数ある。
b古今和歌集仮名序はやけに小町が女であることを強調しているが、これは小町が男だからではないか。
c.小野小町は穴のない体で性的に不能であったともいわれているが、穴がない体なのは小町が男だからではないか。
d『古今和歌集』に登場する女性歌人に三国町、三条町、がいる。
三国町は一般には継体天皇の母系氏族・三国氏出身の女性だと考えられているが、
 『古今和歌集目録』は三国町を紀名虎の娘で仁明天皇の更衣としている。
  紀名虎の娘で仁明天皇の更衣とは紀種子のことである。
  また三条町は紀名虎の娘で文徳天皇の更衣だった紀静子のことである。
  三国町が紀種子とすれば、三条町=紀静子なので、三国町と三条町は姉妹だということになる。
  そして紀静子は惟喬親王の母親だった。。
  惟喬親王は三国町の甥であり、三条町の息子なので、三国町・三条町とは一代世代が若くなる。
  そういうことで小町なのではないだろうか。
e花のいろは うつりにけりな いたづらに わがみよにふる ながめせしまに
この歌は縁語や掛詞を用いて二重の意味をもたせた技巧的な歌だとされる。
①花の色はすっかり褪せてしまったなあ。春の長い雨のせいで。
②私の容色はすっかり衰えてしまったなあ。恋の物思いにふけっている間に。
※『色』・・・『視覚的な色(英語のColor)』『容色』
※『世』・・・『世の中』と『男女関係』
※『ながめ』・・・『物思いにふける』『長雨』
しかし、もうひとつ違う意味が隠されているように思える。
③はねずの梅の鮮やかな色はあせ、(「はねず」は移るの掛詞なので、花ははねずの梅ととる)私の御代に(「わが御代に 下(ふ)る」とよむ。)長い天下(「ながめ」→「長雨」→「長天」と変化する。さらに「下(ふ)る」を合わせて「天下」という言葉を導く)がやってきたようだ。


璉珹寺 茉莉花2 
 ③惟喬親王のクーデター計画?

世継ぎ争いに敗れた惟喬親王はたびたび歌会を開いているが、その歌会のメンバーに遍照・在原業平・紀有常らの名前がある。

紀有常=喜撰法師とすると、六歌仙(遍照・喜撰法師・在原業平・文屋康秀・小野小町・大友黒主)のうち3人までが惟喬親王の歌会メンバーだったことになる。
彼らは歌会と称して惟喬親王を担ぎ上げてクーデターを企てていたのではないかという説がある。

璉珹 -茉莉花

④女人裸形の阿弥陀如来は小野小町のイメージ?

本堂には紀有常尊像や女人裸形の阿弥陀如来立像が安置されている。

女人裸形の阿弥陀如来立像は裸の阿弥陀如来さまで上半身は裸である。
そして下半身には布で作った袴をはかせてあった。
50年に1度、独身の女性によって袴が取り換えられるとのこと。
このように裸形のみほとけを作って布の着物を着せるというのか鎌倉時代に流行ったようである。。

画像はこちら→http://meguru.nara-kankou.or.jp/inori/hihou/renjoji/event/tecryor42l/ 

光明皇后をモデルにしたともいわれているようだが、
私はこの像は紀氏の血をひく小野小町(=惟喬親王)をモデルにしたみほとけではないかと思う。

白=九十九=小野小町?

もういちど女人裸形の阿弥陀如来立像の写真を見ていただきたい。
お肌が白いのが特徴である。

この肌の白さも小野小町の像であることを示す暗号のように思われる。

というのは伊勢物語にこんな話があるのだ。

在五中将(在原業平)が色気づいた老婆をかわいそうに思って一緒に寝たが、それっきり老婆のもとにやってこなくなった。
そこで老婆は在五中将の家にいって中をのぞき見した。
在五中将は次のように歌をよんだ。

ももとせに ひととせ足らぬ つくも髪 我を恋ふらし おもかげに見ゆ
(百歳に一年足りない九十九歳の白髪の女が 私を恋い慕っているらしい面影が見える)

この歌は謎々になっている。
100-1=99で、九十九のことを「つくも」というが、
百引く一は白となるので、九十九髪(つくもがみ)とは白髪というわけである。

そして伊勢物語の注釈書・『知顕集』はこの九十九歳の色気づいた女は小野小町であるとしているのだ。

⑥陰蔵相

璉珹寺から10分ほど歩いたところに伝香寺がある。
伝香寺の地蔵菩薩も裸形の地蔵菩薩様に着物を着せてあり、7月23日の着せ替え法要で新しい着物に着せ替えるそうである。


伝香寺 裸地蔵  

伝香寺の裸形の地蔵菩薩は陰蔵相(おんぞうそう)といって、男性のシンボルが体内に密蔵されているとか、
円相が描かれていると記されたサイトもあった。
円相とは禅の書画で一筆で円を描いたもののことである。

つまり、伝香寺の地蔵菩薩の股間には円が描かれており、それは男性のシンボルが体内に密造されていることを表しているということだろう。

みほとけには性別はないとされるので、みほとけの股間は陰蔵相で表されるのだろうか。

⑥奈良国立博物館所蔵の阿弥陀如来の蓮華形は陰蔵相?


奈良国立博物館所蔵の阿弥陀如来立像 ↓ 拡大してみると、股間に円形が描かれ、周囲に花びらのようなものがついている。
調べてみたところ、股間についているのは蓮華形とのことである。
http://www.narahaku.go.jp/collection/658-0.html
これも陰蔵相というのだろうか?よくわからない。

⑦新薬師寺「おたま地蔵」は男の地蔵菩薩だった。

璉珹寺の近くには新薬師寺という寺もあり、ここには「おたま地蔵」と呼ばれる地蔵菩薩がある。
解体修理に出したところ、内部から裸形の体部が発見されたという。
もともと裸形のみほとけであったのを、あとから木製の衣を貼りつけたのだろう。
修理後は裸形の体部に頭部をつなぎ、2体の地蔵菩薩として安置されている。

随分前のことだが、この「おたま地蔵」を拝観したことがある。
裸形のみほとけの方は、陰蔵相ではなく、股間に蓮のつぼみがついていた。
つまり、蓮のつぼみが男性のシンボルになっているのだ。

みほとけには性別はないとされるが、「おたま地蔵」は男性のみほとけだといえるだろう。

⑧璉珹寺の阿弥陀如来はなぜ女人とされているのか?


すると、璉珹寺の女人裸形の阿弥陀如来様の下半身はどうなっているのだろうかう?
「このばちあたりめがーー!」と怒られるかもしれないが、科学的思考とは好奇心である。(笑)

上半身には何も身に着けていないが、お胸はない。
お胸がないなら、女性じゃなくて男性なのか、とも思えるが、胸のない女性もいる。
やはりこのみほとけが女性であるとされているのは袴に隠されている下半身にあるのではないだろうか。


璉珹寺-庭の渦巻き 

ちょっとわかりにくいが、庭に渦巻きが描かれていた。



璉珹寺 張り紙 


璉珹寺の庭には渦巻きが描かれていた。

今探してみても見つからないのだが(汗)、このような渦巻きが描かれた裸形の仏像をネットで見た記憶がある。(記憶間違いかもしれないw)

璉珹寺さんのお庭に渦巻きが描かれているのは、御本尊の阿弥陀如来様の股間に渦巻きが描かれているからではないだろうか?

⑨鳴門の渦潮はイザナミの女性器だった?


イザナギとイザナミが国産みをしたおのころ島の所在について、諸説あるが、淡路島の南海上4.6kmほどのところにある沼島だとする説が有力であす。

でも私はもっと鳴門の渦潮の近くにある飛島あたりではないかな、と思ったりする。
というのは鳴門の渦潮はイザナミの女性器に喩えられているのではないかと思うからだ。

鳴門 渦潮2 
鳴門の渦潮

イザナミは国産みで、淡路島・四国・隠岐島 ・九州 ・.伊伎島・.佐度島・本州・..児島半島・ .小豆島・周防大島・姫島・.五島列島 ・.男女群島と、次々に島を産む。

昔の日本に東北地方や沖縄地方は含まれていなかった。
国産みの記述を見ると、日本の最も東は佐渡島、最も西は男女群島のようである。
すると、鳴門の渦潮のあるあたりがちょうど昔の日本の中心ぐらいになると思う。
鳴門の渦潮は国産みにぴったりな場所だと思うのだがどうだろう?

そして赤ちゃんは右に回転しながらお母さんのお腹の中からでてくる。(左回転のケースもまれにあるとか。)
鳴門の渦潮もまれに左巻もあるそうですが、ほとんど右巻だという。

そういうわけで渦巻きが女性を表すものではないかと思うのである。

男性は蓮のつぼみで、女性はうず巻きとは、なかなか洒落ていると思う。




惟喬親王の乱㉑  渚の院跡 『惟喬親王の歌会は呪術会だった?』 に続きます~

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惟喬親王の乱⑲離宮八幡宮 紅葉 『搾油器を発明した神官の正体とは?』

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「小野小町は男だった」もよかったらよんでみてね。



離宮八幡宮 外観 
①天王山は女山?


離宮八幡宮の由緒は次のとおり。

平安時代、清和天皇は夢の中で、「九州の宇佐八幡宮より八幡神を京へご遷座せよ」というお告げを聞いた。
清和天皇は夢告げに従い、僧・行教に、八幡神の遷座を命じた。
早速行教は宇佐に向かい八幡神を奉じて帰京する途中、山崎の津で夜の山(神降山)に霊光が光るのを見た。
その地を掘ると岩間に清水が湧き出したのでここにご神体を鎮座し、社を創建した。
こうして859年に「石清水八幡宮」が創祀された。
その後、石清水八幡宮は山崎から見て淀川の対岸にある男山(八幡市)に移され、山崎の地の八幡宮は名前を変えて呼ばれるようになった。


ここ離宮八幡宮は、石清水八幡宮の元社だったのだ。

惟喬親王の乱⑰ 石清水八幡宮 『石清水八幡宮の神主が紀氏の世襲なのはなぜ?』 

http://rikyuhachiman.org/sinryouezu.html
↑ こちらに江戸時代に描かれた離宮八幡宮の絵が掲載されている。
神殿の背後に小高い山が描かれているが、これが神降山だろう。

現在、離宮八幡宮の北にJR山崎駅がある。
そのさらに北に天王山があるが、この天王山が神降山だろうか?

天王山の中腹に自玉手祭来酒解神社(たまでよりまつりきたるさかとけじんじゃ/元山崎天王社)があって、オオヤマツミ・スサノオを祀っているが
元々の祭神は山崎神・酒解神だという。

離宮八幡宮の御祭神は、本殿=応神天皇、左殿=酒解大神(さかとけのおおかみ)、別称大山祇神(おおやまつみしん)、右殿=比売三神ということで、自玉手祭来酒解神社と御祭神がかぶっているので
この天王山が神降山なのかも?(間違っていたら教えてくださーい!)

姫路城は姫山・鷺山に築かれているというが、姫路城の隣には男山がある。
これと同じように、現在の石清水八幡宮が鎮座しているのは男山なのだが、これに対して女山みたいなのがあるのではないかと私は常々思っていた。

もしかして、天王山は女山だろうか?



②油祖

貞観年間(859~877年)、離宮八幡宮の神官が神示を受けて「長木」と呼ばれる搾油器を発明し、荏胡麻(えごま)油(神社仏閣の燈明用油)が作られるようになったと伝わる。
全国にこの製油技術が広まると、離宮八幡宮は朝廷より「油祖」の名を賜り、油の専売特許を得た。
油を商うためには、離宮八幡宮の許状が必要だったという。

※貞観は清和天皇(生没年850~881)の御代

離宮八幡宮 油祖像 
③油を搾るしくみ
長木の図 
離宮八幡宮 説明板より

向かって右下の短い棒に縄を巻き付けることによって、上部の長い棒を下にさげて力を加え、荏胡麻の油を搾る。
長木 模型

離宮八幡宮 説明板より

写真向かって右の縦についている長い棒は、縄を巻き付ける道具だと思う。
この棒を前後させることによって縄を巻き付けている短い棒を回転させるのだろう。
工学に詳しい友人に聞いたところ、逆回転防止の歯車がとりつけられているのではないか、とのこと。

長木 説明 


山崎 油売り 

離宮八幡宮 説明板より



④搾油器とろくろ

私は搾油器「長木」は木地師が用いるろくろに似ていると思った。

ろくろ 

木地師の里 ろくろ

どちらも棒にロープが巻き付けられている。

木地師資料館 惟喬親王像 

木地師資料館に展示されていた掛け軸


使い方は上の絵のとおり。

ひとりがロープの両端を持って棒を回転させる。
そしてもうひとりが棒の先端に取り付けた刃に木をあてて削るのである。

⑤「長木」を発明したのは惟喬親王?

上の絵は木地師資料館に展示されていた掛け軸で、「器地轆轤之祖神 惟喬親王命尊像」と記されている。

惟喬親王は巻物が転がるのを見てろくろを発明したという伝説がある。
しかしこの伝説は事実ではない。
惟喬親王は平安時代の人物だが、奈良時代に作られたろくろびきの百万塔が残されているからであるw

だが「惟喬親王がろくろを発明した」と人々が信じたことは間違いないだろう。

そして、先ほどものべたように、離宮八幡宮の神官が発明した搾油器の構造はろくろに似ている。

ずばり、搾油器を発明した離宮八幡宮の神官とは惟喬親王ではないだろうか。
惟喬親王はろくろを発明したのと同じように、巻物を転がるのを見て搾油器を発明した、と信じられたのではないか?

というのは、石清水八幡宮を創建した清和天皇と惟喬親王(844-897)は異母兄弟なのである。

どちらも父親は文徳天皇、清和天皇の母親は藤原良房の娘・明子、惟喬親王の母親は紀名虎の娘・静子である。
文徳天皇は長子の惟喬親王を皇太子につけたかったのです。
しかし、時の権力者は藤原良房。源信はこの藤原良房を憚って、「惟喬親王を皇太子にしたい」という文徳天皇を諫めた。
こうして清和天皇が皇太子についたわけで、二人の間には藤原氏と紀氏の世継争いという因縁があるのだ。

山崎 油売り2

離宮八幡宮 説明板より

⑥八幡神は身をひくことで皇位継承をもたらす神

宇佐八幡宮は奈良時代には「道鏡を天皇とするべし」とか「道鏡を天皇にしてはならない」という相反する二つの神託を下している。
どうやって信託を下すのだろう?
巫女に託宣するのだろうか?

それはわからないが、とにかく相反する二つの皇位継承に関する神託をくだしたわけである。

また宇佐八幡宮には天皇即位や国家異変の際に勅使(ちょくし―天皇の使い)が派遣される習慣があった。
八幡神は皇位継承の神として信仰されていたのだと思う。

で、八幡宮の主祭神である応神天皇は、伊奢沙和気大神(福井県敦賀市の気比神宮の神)と、応神天皇の名前を交換したという話がある。(古事記)

応神天皇は伊奢沙和気大神となって気比神宮に祀られ、神饌として大漁のイルカがお供えされた。
そして伊奢沙和気大神は応神天皇となり、ちゃっかり皇位についたという話のように思える。
これは政権交代を意味する物語ではないだろうか。

離宮八幡宮 門

初代神武天皇が東征して畿内入りするよりも早く、ニギハヤヒという神が天下っていたと記紀には記されている。
ニギハヤヒは物部氏の祖神なので、神武以前に物部王朝があったという説がある。

また応神天皇は九州の宇美で生まれ、そこから畿内入りするのだが
そのルートが神武東征ルートと重なるので、同一人物ではないかとする説もある。

記紀は神武は天皇家の人間で九州から東征してやってきたとしているが、九州から東征してやってきたのは物部氏だったのかもしれない。
実際の天皇家は九州からではなく福井県敦賀あたりからやってきたのだったりして?

すると応神天皇が皇位継承の神として信仰されているのは、
彼が物部王朝の王であったが、彼が身を引いたため、イザサワケが皇位について政権交代したため、
だとも考えられる。

そして惟喬親王も身をひくことで、清和天皇の即位をもたらしたと考えられたのではないかと思う。

清和天皇の生没年は850~881年。
石清水八幡宮が創建された859年、清和天皇はまだ9歳であって、まだ自らの意思で神社を創建しようと考えたりはできないと思う。
石清水八幡宮の創建には清和天皇の外祖父・藤原良房が関わっていると考えるのが妥当だと思う。

そして藤原良房は応神天皇に惟喬親王のイメージを重ねて石清水八幡宮に祭ったのではないだろうか。

日本では先祖の霊は子孫が祭祀するべきとする考え方があった。
石清水八幡宮の神官は紀氏の世襲である。
これは「藤原良房は応神天皇に惟喬親王のイメージを重ねて祭った」という説を裏付けると思う。

離宮八幡宮 神馬 

⑥惟喬親王の水無瀬の離宮

伊勢物語の第八十二段には、こんな話が記されている。

惟喬親王は在原業平や紀有常らの寵臣とともに、水無瀬離宮から交野ケ原へ向かい、渚の院で歌会を開いたと。

水無瀬は惟喬親王ゆかりの地なのである。
そして、水無瀬は離宮八幡宮から近い。
離宮八幡宮という名前は、嵯峨天皇の離宮があったところからつけられたというが、本当は惟喬親王の離宮があったところからつけられたんだったりして?

⑦  漆・樹脂・油は即身仏の防腐剤だった?

それはさておき、⑤に書いたように「搾油器を発明した離宮八幡宮の神官は惟喬親王」が正しいと仮定して、なぜ惟喬親王は搾油器を発明したなどという伝説が生じたのかについて考えてみよう。

惟喬親王は虚空蔵菩薩より漆の製法を授かったという伝説もあるが、これは入定する際、漆のお茶を飲むことと関係がありそうに思える。
(漆を飲むことで胃の中のものを吐き出し、また漆の防腐作用で腐りにくい体になるという。)
惟喬親王の乱⑭ 法輪寺 重陽神事 『惟喬親王、菊のしずくを飲んで不老長寿を得る?』 

調べてみると古代エジプトのミイラで防腐剤が使用されていたということがわかった。

英ヨーク大学の考古学者スティーブン・バックレー博士によると
現在、イタリア・トリノのエジプト博物館に保管されている古代エジプトのミイラは次のようなレシピから作られる防腐剤を使用されているという。

●植物性油:おそらくゴマ
●植物か根からの「バルサム(樹脂の一種)のような」抽出液:ガマ属の植物由来とみられる
●植物性ののり:アカシアから抽出されたとみられる糖
●針葉樹の樹脂:おそらく松ヤニ

樹脂を油と混ぜると殺菌特性が備わり、遺体を腐敗から守ってくれる。

https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-45204722


すると、離宮八幡宮の神官(惟喬親王のことか?)が搾油器を発明したという伝説は、その油と松脂などの樹脂をまぜて防腐剤として用いたことから生じた伝説なのかも、と思ってしまう。



惟喬親王の乱 ⑳璉珹寺 茉莉花 『女人裸形の阿弥陀如来は小野小町のイメージ?』  に続きます~

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惟喬親王の乱⑱阿弥陀寺 『体質を樹脂化するとは?』

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惟喬親王の乱⑰ 石清水八幡宮 『石清水八幡宮の神主が紀氏の世襲なのはなぜ?』  よりつづきます~

「小野小町は男だった」もよかったらよんでみてね。


古知谷阿弥陀寺 門2

①体質を樹脂質化する?

三千院の北に小知谷阿弥陀寺はあった。
紅葉シーズン、三千院あたりはたいへんな人出だが、古知谷阿弥陀寺は観光客もまばらで静寂につつまれていた。
おまけに紅葉の美しさは絶品で、まさしく紅葉の穴場スポットである。

そんな静かな古知谷阿弥陀寺には、開基・弾誓のミイラ仏が安置されている。

阿弥陀寺 
写真向かって右に石廟がある。

阿弥陀寺 石廟 
石廟内部 奥の石棺の中に弾誓上人の即身仏が安置されているのだろう。

堂内にあった説明板には次のように記されていた。
「開基弾誓上人は穀絶ち塩絶ちのすえ、松の実 松の皮を食べ 体質を樹脂質化した後 念仏三昧をもって生きながら石窟の二重になった石棺の中に入り・・・。」

阿弥陀寺 石廟 説明

樹脂とはアカマツ・カラマツなどの樹木から分泌される粘り気のある液体、またはそれが空気に触れて酸化して固まったもののことで、
例としては松脂や琥珀などがあげられる。

「体質を樹脂質化する」というのがどういう状態のことを言っているのか、よくわからない。

是非お姿を拝んでみたい!しかし石室に安置されていて、残念ながらお姿を拝むことはできない。

古知谷阿弥陀寺 門

即身仏になるために防腐剤が用いられていた?

即身仏となるためには木食といって、五穀を断ち、木の皮や木の実のみを食べる修業を行った。
こうして体から脂肪を落とし、死後腐りにくい体をつくるのだという。

説明板には「弾誓上人が松の実や皮を食べた」という旨が記されていたが、これは木食修行だったのだろうか。

即身仏のメッカといえば山形の湯殿山だが、湯殿山は水銀土壌だそうで、ここで育つ木の皮や実は水銀濃度が高いそうである。
水銀には防腐作用があり、そのため即身仏が数多く残ったのではないかと言われる。
もちろん、寒冷な気候も影響しただろう。

また入定する前に漆のお茶を飲むということもされていたようだ。
こうすることによって、胃の中のものを吐き出し、また漆の防腐作用で腐りにくくなったといわれる。

古知谷阿弥陀寺 枯山水

③樹脂は防腐剤だった?

調べてみると古代エジプトのミイラで防腐剤が使用されていたということがわかった。

英ヨーク大学の考古学者スティーブン・バックレー博士によると
現在、イタリア・トリノのエジプト博物館に保管されている古代エジプトのミイラは次のようなレシピから作られる防腐剤を使用されているという。

●植物性油:おそらくゴマ
●植物か根からの「バルサム(樹脂の一種)のような」抽出液:ガマ属の植物由来とみられる
●植物性ののり:アカシアから抽出されたとみられる糖
●針葉樹の樹脂:おそらく松ヤニ

樹脂を油と混ぜると殺菌特性が備わり、遺体を腐敗から守ってくれる。

https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-45204722

京都大原は平安京があったあたりに比べるとかなり寒冷な気候だと思う。
紅葉も早いし、雪も結構降るようである。
しかし、山形の気温と比べると高いだろう。
やはり太原は温暖な気候で、即身仏となるには不向きな気候だといえるのではないか。

それなのに、即身仏が残っているのは、樹脂(松脂)と油をまぜた防腐剤が用いられていたのだったりして?


古知谷阿弥陀寺 茶室

④大原は惟喬親王の隠棲地で墓もある。

ここ大原には惟喬親王が隠棲したとも伝わり(隠棲地は別の場所だとする説もある。)惟喬親王の墓もある。
そして惟隆親王は、嵐山の法輪寺に籠って虚空蔵菩薩より漆の製法を授かったという伝説がある。

また宇治に喜撰法師が籠ったという喜撰洞があるが、喜撰法師とは紀仙法師であり、紀名虎または紀有常のことだとする説がある。

(私は喜撰法師とは紀名虎の娘で、紀有常の妹の紀静子を母親に持つ惟喬親王の事である可能性もあるかなと思っているが)
喜撰洞とは喜撰法師が入定した洞窟ではないだろうか。
喜撰という言葉はお茶の隠語としても用いられているが、それは喜撰法師が漆のお茶を飲んで入定したことから隠語として用いられているのではないかと思ったりもする。

漆はウルシオールという樹脂分を主成分とするという。

空気中の水分を取り込んで乾くそうである。
漆の成分の酵素(ラッカーゼ)が、水分の中の酸素を取り込んで反応し、ウルシオールが液体から固体になるそうである。
漆を乾燥させるのに適した温度は25~30℃だという。
即身仏は寒冷地に残っていることが多いが、仮に漆で樹脂化させるのであれば、気温は25~30度くらいで高めのほうがいいということになるだろうか?

漆を乾燥させるの適している湿度は70%程度で、梅雨の時期が最も漆の乾燥に適しているとのこと。
それ以外の時期でも漆を乾かす必用があるため、「漆風呂」「むろ」と呼ばれる漆用の乾燥室を使っているそうである。

https://www.yamakyu-urushi.co.jp/shikki/21_27/ ←漆風呂の写真が掲載されている。

説明板にあった「体を樹脂質化して・・・ミイラ仏として安置されている」という文章が何度も頭の中に浮かんでくる。

惟喬親王は漆で体を樹脂質化してミイラ仏になったなどというのはトンデモだろうか?

古知谷阿弥陀寺 茶室2 

⑤大原盆

大原と漆器は関係がないのだろうかと思い、調べてみたところ、大原盆という伝統工芸品を作っていることがわかった。
木製くり抜きで、本漆を使用した丸盆で、十六弁の菊の紋が入れられている。

文治年間(1185〜90)の後白河法皇大原御幸の際、建礼門院がおもてなしのために使ったのが始まりと言い伝えられている。

https://www.takashimaya.co.jp/shopping/interior/0500002426/0500004882/0500004893/0500004898/product.html?p_cd=0001309814&sub_cd=001(大原盆の写真)

惟喬親王を祀る大皇木地祖神社の神紋は大原盆のデザインとは若干違うが、十六菊で惟喬親王と関係があるようにも思えた。

古知谷阿弥陀寺 渡り廊下 
古知谷阿弥陀寺  


惟喬親王の乱⑲離宮八幡宮 紅葉 『搾油器を発明した神官の正体とは?』  に続きます~

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惟喬親王の乱⑰ 石清水八幡宮 『石清水八幡宮の神主が紀氏の世襲なのはなぜ?』

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石清水八幡宮 本殿 
石清水八幡宮 本殿

①石清水八幡宮の創建は藤原良房の意思によるもの?

清和天皇は文徳天皇の第二皇子として850年に生まれ、生まれたばかりで皇太子となった。
そして858年、わずか8歳で即位した。
もちろん8歳の子供に政治がとれるはずはなく、実際の政治は清和天皇の外祖父の藤原良房がとっていた。
石清水八幡宮の創建は860年、清和天皇の勅命によってとされるが、このとき清和天皇は10歳。
石清水八幡宮の創建は藤原良房の意思によるものだと考えるのが妥当だと思う。

石清水八幡宮  鬼門封じ 

石清水八幡宮 本殿 鬼門封じ

石清水八幡宮 鬼門封じ


⓶御霊として祀られた惟喬親王

文徳天皇には清和天皇のほかに第一皇子の惟喬(これたか)親王があった。
清和天皇の母親は藤原良房の娘の藤原明子、惟喬親王の母親は紀名虎の娘の紀静子だった。
文徳天皇は惟喬親王のほうを皇太子につけたいと考えており、これを源信に相談している。
源信は藤原良房をはばかって文徳天皇をいさめたという。

世継争いに敗れた惟喬親王は御霊として大皇器地祖神社 (おおきみきじそじんじゃ)、筒井神社、玄武神社などに祀られている。

惟喬親王の乱③木地師の里 『世継争いに敗れた皇子』 
惟喬親王の乱④玄武神社『胴体がなく首の長い神』 


御霊とは、怨霊が祟らないように慰霊されたもののことをいう。
つまり、惟喬親王は怨霊であったということである。

石清水八幡宮 東総門 雪

 
③石清水八幡宮の神主を紀氏が世襲したのはなぜ?

①で、清和天皇が創建した神社だと書いたが、石清水八幡宮の神主は代々紀氏が世襲していた。

さきほどお話した惟喬親王の外祖父は紀名虎であり、紀名虎は藤原良房とは政治上のライバルだった。
平家物語にはいずれの孫を立太子させるかで紀名虎と藤原良房がもめ、バトルを繰り返したと記されている。

惟喬親王の乱⑬ 上加茂神社 烏相撲 『紀名虎&藤原良房の世継ぎ争い』  

清和天皇が誕生したときすでに紀名虎は亡くなっているので実話ではないとされているが、紀氏と藤原氏の間に確執があったことは事実だろう。

そして石清水八幡宮の創建は清和天皇の勅願によるとされるが、実際には清和天皇の外祖父・藤原良房の意思によるものと考えられる。

藤原良房はなぜ石清水八幡宮の神主を紀氏としたのだろうか?

石清水八幡宮 石清水社 
石清水八幡宮 石清水社

④先祖の霊は子孫が祭祀または供養するべき

日本では古より先祖の霊はその子孫が祭祀または供養するべき、と考えられていた。

古事記にも「大物主神が祟り、その子のオオタタネコが大物主神を祀るお大神神社の神主になったところ、大物主神の祟りがおさまった」と記されている。

どうやら先祖の霊は子孫が祭祀したり供養したりしないと祟ると考えられていたようである。

石清水八幡宮の御祭神・八幡神と惟喬親王はイメージを重ねられており、惟喬親王は紀氏の血筋の親王なので、石清水八幡宮は紀氏が祭祀するべきであると考えられたのではないかと思う。

石清水八幡宮 三女神社 雪 
石清水八幡宮 三女神社



⑤伊奢沙和気大神と名前を交換した応神天皇

八幡神とは応神天皇のことだが、古事記仲哀天皇代にこんな話がある。

武内宿禰の夢の中に伊奢沙和気大神が現れ、「御子(応神天皇)と私の名前を交換してほしい」と言ったので、武内宿禰はこれを承知した。
翌朝、海岸に行ってみると、たくさんの鼻を傷つけられたイルカがいた。
御子は「神様が御饌を下さった」と大喜びした。
イルカの血で臭かったので、血浦となり、これが訛って角鹿(ツヌガ/現在の敦賀)となった。


また日本書紀・垂仁天皇2年条にこんなことが記されています。

垂仁天皇の時意富加羅国の王子・ツヌガアラシトが笥飯(けひ)浦にやってきました。
額に角があったので、この地を角鹿と称しました。

伊奢沙和気大神は福井県敦賀市にある気比神宮の神である。
気比神宮の摂社に角鹿(つぬが)神社があり、ツヌガアラシトを祀っている。

ツヌガアラシトは祟神58年(紀元前40年)に朝鮮半島から日本にやってきて、崇神天皇に5年仕えた。
帰国の際、崇神天皇はツヌガアラシトの国に任那という国号を与えたとされる。

平安時代の女性はおいそれと名前を名乗るべきではなく結婚する相手にのみ名乗ってよいとされていた。
紫式部、清少納言問う名前は相性であって本名ではない。
藤原明子、紀静子というのは本名だが、彼女らの名前が後世に残されているのは、天皇の妻となり位が残されて記録されているためである。
つまり平安時代の女性は入内した女性以外はほとんど本名が後世に伝えられていないということになる。
いまでも名前は大切なものだが、平安時代における名前とは命や存在そのものと同じくらい重要なものであったと推察される。

応神天皇はその大切な名前を交換したというのである。
つまり本物の応神天皇は伊奢沙和気大神となり、伊奢沙和気大神は応神天皇になったということである。
これは大変なことである。
名前を交換するというこの話は政権交代を意味しているのではないかと私は思う。

つまり朝鮮半島からやってきた人物が天皇となり、ほんものの天皇は殺され神として気比神宮に祀られたという話ではないかと思うのだ。

そして文徳天皇が皇太子にしたいと望んでいたが、異母妹で藤原良房の孫である清和天皇にその座を奪われた紀名虎の孫・惟喬親王は、この応神天皇(八幡神)とイメージが重ねられたのではないだろうか。

そのため、石清水八幡宮の神主は代々紀氏が世襲したのではないかと思ったりする。


石清水八幡宮 青山祭

頓宮殿 青山祭の祭場



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惟喬親王の乱⑯ 法輪寺 針供養 『法輪寺で針供養が行われているのは何故?』


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法輪寺 針供養3  


①針供養と事八日

美しい織姫さんたちがピンク色のこんにゃくに針をさしていく。
針はいつも硬いものを刺しているので、やわらかいものに刺して供養するのだという。

針供養は関東では2月8日、関西では12月8日に行われることが多いそうである。
法輪寺では2月8日と12月8日の両方行っている。

法輪寺 針供養2


⓶なぜ針供養は身をつつしむべき「事八日」に行うのか。

なぜ針供養は2月8日と12月8日に行われているのだろうか?

12月8日は『事納め』の日で、その年の農作業を終える日である。
そして2月8日は『事始め』で、その年農作業を始めて行う日だ。
12月8日と2月8日をまとめて『事八日(ことようか)』という。
事八日は魔物が家の中をうかがっていると考えられ、身をつつしむ日とされていた。
それで女性たちはこの日針仕事をしなかったのだという。

どうやら針供養が2月8日と12月8日なのは、「事八日」で針仕事をしない日であったためのようである。

しかし、なぜ身をつつしむべき事八日に針仕事をしてはいけないのだろうか?
家で謹慎するには針仕事はもってこいだと思うのだが?

私は身をつつしむべき事八日に針仕事をしてはいけないと考えられていたのは、針には穴があるからではないかと思ったりする。
女性の穴を魔物が狙っている。
つまり貞操を大事にするという意味で、針仕事をしてはいけないといわれていたのではないだろうかw。

法輪寺 針供養


③針供養は法輪寺で清和天皇代にはじめられた?

平安時代、清和天皇(850~881)が法輪寺に針供養の堂が建てられたと伝えられる。
そして法輪寺のhpには次のように記されている。
「法輪寺針供養は、皇室で使用された針をご供養せよとの天皇の命により始まったといわれている。」と。
https://www.kokuzohourinji.com/events.html

残念ながら、何天皇の命なのかについては記されていない。
しかし法輪寺に針供養の堂をたてた清和天皇の命である可能性が極めて高い。

またこれがもっとも古い針供養のいわれではないかと思う。(違っていたらご指摘お願いします。)
すると法輪寺が針供養発祥の地である可能性も高い。

法輪寺 


④清和天皇、惟喬親王の恨みを怖れる?

清和天皇は文徳天皇と藤原明子(藤原良房の娘)との間に生まれた皇子(惟仁親王)で
惟喬親王は文徳天皇と紀静子(紀名虎の娘)との間に生まれた皇子である。
文徳天皇は惟喬親王(844~897)を皇太子にしたかったのだが、源信にいさめられて、惟仁親王を皇太子にした。
清和天皇(惟仁親王)や藤原良房は惟喬親王の恨みが恐ろしかっただろうし、
藤原良房の子孫は惟喬親王の怨霊を怖れたことだろう。

⑤針供養と小野小町、惟喬親王の関係


まち針は『小町針』がなまったものだと言われている。

 小野小町は『穴のない体』だったという伝承がある。
つまり小野小町は性的に不能だったというのである。
それで穴のない針を『小町針』といい、それがなまって『まち針』になったと言われる。

私は小野小町が『穴のない体』だったというのは小野小町とは実は男だった、小野小町とは小野宮と呼ばれた惟喬(これたか)親王のことであるためではないかと考えている。

そしてここ法輪寺には惟喬親王が籠った際虚空蔵菩薩より漆の製法を授かったという話が伝えられている。
法輪寺は惟喬親王と関係の深い寺なのである。


法輪寺の針供養は小野小町=惟喬親王の供養を目的として始められたなんてことはないだろうか。


法輪寺 針供養 

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惟喬親王の乱⑮ 根来寺 『根来塗と小野小町伝説は惟喬親王と関係あり?』

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①紀州漆器の担い手たちは滋賀県木地師の里からやってきた?


室町時代から戦国時代(1336~1590年)ごろ、近江の木地師集団が紀州に移住してきたという。
彼らが紀州檜を用いて椀などを製造したのが紀州漆器の始まりとされる。

おお~、近江の木地師!

近江は現在の滋賀県だが、滋賀県東近江市君ヶ畑あたりは「木地師の里」と呼ばれている。
惟喬親王の乱③木地師の里 『世継争いに敗れた皇子』 

また、滋賀県蒲生郡日野では日野漆器が作られていた。
惟喬親王の乱⑫ 正明寺『惟喬親王を厚く信仰した日野の木地師・塗師たち』 

日野は1533年、日野領主の蒲生氏が中野城を築いた際、木地師や塗師が招へいされて住み着き、漆器の産地として発展したとされる。

近江の木地師集団が紀州に移住してきたのは室町時代から戦国時代(1336~1590年)ごろということなので、日野からやってきたということはないか。

紀州漆器の担い手たちは滋賀県東近江市君ヶ畑あたりの「木地師の里」からやってきたのかもしれない。

大皇器地祖神社 
大皇器地祖神社(おおきみきぢそじんじゃ)


君が畑には大皇器地祖神社(おおきみきぢそじんじゃ)があり、木地師の祖神として惟喬親王を祭っている。

大皇器地祖神社の近くには惟喬親王の墓もある。(京都三千院近く、滋賀県筒井峠付近にも惟喬親王の墓がある。)

惟喬親王-墓2 
大皇器地祖神社近くにある惟喬親王の墓

惟喬親王は巻物が転がるのを見て、木地師が用いるろくろを発明したという伝説があり
(奈良時代にろくろで作られた百万塔が現存しているので、この伝説は事実ではないが)
そのため、木地師の祖とされている。

木地師資料館 惟喬親王像 

木地師資料館に展示されていた掛け軸

使い方は上の絵のとおり。

ひとりがロープの両端を持って棒を回転させる。
そしてもうひとりが棒の先端に取り付けた刃に木をあてて削る。

木地師の祖ということで日野漆器の産地だった滋賀県日野でも惟喬親王は厚く信仰されていた。
日野祭の双六町曳山の見送幕は惟喬親王が描かれている。
http://www.diana.dti.ne.jp/~tsuku/yama/sugo.html

近江からやってきて紀州に定住した木地師集団も惟喬親王を信仰していたことだろう。

また惟喬親王の母親は紀静子といい、紀氏の女性だった。
そして紀州は紀氏の本拠地なので、木地師たちは紀州で漆器をつくるということに意義を見出していたかもしれない。

根来寺 紅葉3

②根来塗


近江の木地師集団が定住して漆器をつくったのが紀州漆器とする説のほか、秀吉の根来寺焼き討ちからのがれてきた職人が黒江湊に移住して紀州漆器がつくられはじめたとする説もある。

根来寺に関係する漆器に根来塗があり、寺の僧侶たちが用いていたとされる。

黒漆で下塗りをしたのち、朱漆塗りを重ねてつくるそうである。

たぶん朱塗りは漆に天然の辰砂をまぜるのではないかと思う。(もしちがっていたら教えてね~)
https://www.negoronuri.com/

③なぜ根来に小野小町伝説があるのか

根来寺 紅葉

根来寺

根来寺の裏あたりにある山を根来山というようである。(写真に写っている山が根来山かどうかはわからない。すいません。)

で、この根来山付近にこんな話が伝えられている。

康和(1099~1104年)のころ、根来山の麓の西坂本に室家右兵衛尉忠家(むろやうひょうえのじょうただいえ)が住んでいた。
忠家は金持ちだったが、子供がなかった。
あるとき、忠家の妻は、小野小町の墓に参拝すると子供を授かるという話を聞き、二十一日絶食して小野小町の墓にお参りをした。
やがて妻は身籠り女児を出産した。
女児は桂姫と名付けられ、小野小町そっくりな美女に成長した。
桂姫の髪は住持池(じゅうじがいけ)の水をつけないと梳くことができず、住持池の水を汲んできては梳いていた。
桂姫は和泉国尾崎の大原源蔵高広(おおはらげんぞうたかひろ)という北面(ほくめん)の武士に嫁ぐことになった。
嫁入り行列が住持池を通り過ぎようとしたとき、空がかき曇り池に大波がたり、大蛇があらわれて娘をさらって水の中に消えた。
母親は悲しみもう一度娘に会いたいと願っていましたが、あるとき住持池を泳ぐ二匹の蛇の姿を見た。
桂姫をさらった大蛇は小町に思いをよせていた深草小将の生まれ変わりだといわれている。





なぜ、この地に小野小町の伝説があるのだろうか。

実は私は小野小町とは小野宮と呼ばれた惟喬親王のことではないかと考えている。

詳しくは別ブログの次のシリーズ
http://arhrnrhr.blog.fc2.com/blog-category-15.html

特に、下記記事を詳しく書いているが
小野小町は男だった⑬ 『小野小町は男だった!』 
小野小町は男だった⑯(最終回) 『わがみよにふるながめせしまに』  

ざっとまとめておくと次のような理由があげられる。

a古今和歌集には男が女の身になって詠んだ歌が多数ある。
b古今和歌集仮名序はやけに小町が女であることを強調しているが、これは小町が男だからではないか。
c.小野小町は穴のない体で性的に不能であったともいわれているが、穴がない体なのは小町が男だからではないか。
d『古今和歌集』に登場する女性歌人に三国町、三条町、がいる。
三国町は一般には継体天皇の母系氏族・三国氏出身の女性だと考えられているが、
 『古今和歌集目録』は三国町を紀名虎の娘で仁明天皇の更衣としている。
  紀名虎の娘で仁明天皇の更衣とは紀種子のことである。
  また三条町は紀名虎の娘で文徳天皇の更衣だった紀静子のことである。
  三国町が紀種子とすれば、三条町=紀静子なので、三国町と三条町は姉妹だということになる。
  そして紀静子は惟喬親王の母親だった。。
  惟喬親王は三国町の甥であり、三条町の息子なので、三国町・三条町とは一代世代が若くなる。
  そういうことで小町なのではないだろうか。
e花のいろは うつりにけりな いたづらに わがみよにふる ながめせしまに
この歌は縁語や掛詞を用いて二重の意味をもたせた技巧的な歌だとされる。
①花の色はすっかり褪せてしまったなあ。春の長い雨のせいで。
②私の容色はすっかり衰えてしまったなあ。恋の物思いにふけっている間に。
※『色』・・・『視覚的な色(英語のColor)』『容色』
※『世』・・・『世の中』と『男女関係』
※『ながめ』・・・『物思いにふける』『長雨』
しかし、もうひとつ違う意味が隠されているように思える。
③はねずの梅の鮮やかな色はあせ、(「はねず」は移るの掛詞なので、花ははねずの梅ととる)私の御代に(「わが御代に 下(ふ)る」とよむ。)長い天下(「ながめ」→「長雨」→「長天」と変化する。さらに「下(ふ)る」を合わせて「天下」という言葉を導く)がやってきたようだ。

①で述べたように惟喬親王は木地師の祖として信仰されている。
また惟喬親王が法輪寺に籠って虚空蔵菩薩より漆の製法を授かったという伝説があり、惟喬親王は塗師からも崇拝されていた。
そして根来塗をつくるためには木地師と塗師の存在が必要である。

根来寺付近に住んでいた木地師や塗師は惟喬親王を厚く信仰しており、惟喬親王=小野小町なので、小野小町に関係する伝説が生じたのではないだろうか。

ところで、この話にでてくる小野小町の墓ってどこにあるのだろうか。
和歌山市湯屋谷に小野小町の墓があるそうだが、ここのことだろうか?

根来衆

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