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惟喬親王の乱⑲離宮八幡宮 紅葉 『搾油器を発明した神官の正体とは?』  

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惟喬親王の乱⑱阿弥陀寺 『体質を樹脂化するとは?』 よりつづきます~

「小野小町は男だった」もよかったらよんでみてね。



離宮八幡宮 外観 
①天王山は女山?


離宮八幡宮の由緒は次のとおり。

平安時代、清和天皇は夢の中で、「九州の宇佐八幡宮より八幡神を京へご遷座せよ」というお告げを聞いた。
清和天皇は夢告げに従い、僧・行教に、八幡神の遷座を命じた。
早速行教は宇佐に向かい八幡神を奉じて帰京する途中、山崎の津で夜の山(神降山)に霊光が光るのを見た。
その地を掘ると岩間に清水が湧き出したのでここにご神体を鎮座し、社を創建した。
こうして859年に「石清水八幡宮」が創祀された。
その後、石清水八幡宮は山崎から見て淀川の対岸にある男山(八幡市)に移され、山崎の地の八幡宮は名前を変えて呼ばれるようになった。


ここ離宮八幡宮は、石清水八幡宮の元社だったのだ。

惟喬親王の乱⑰ 石清水八幡宮 『石清水八幡宮の神主が紀氏の世襲なのはなぜ?』 

http://rikyuhachiman.org/sinryouezu.html
↑ こちらに江戸時代に描かれた離宮八幡宮の絵が掲載されている。
神殿の背後に小高い山が描かれているが、これが神降山だろう。

現在、離宮八幡宮の北にJR山崎駅がある。
そのさらに北に天王山があるが、この天王山が神降山だろうか?

天王山の中腹に自玉手祭来酒解神社(たまでよりまつりきたるさかとけじんじゃ/元山崎天王社)があって、オオヤマツミ・スサノオを祀っているが
元々の祭神は山崎神・酒解神だという。

離宮八幡宮の御祭神は、本殿=応神天皇、左殿=酒解大神(さかとけのおおかみ)、別称大山祇神(おおやまつみしん)、右殿=比売三神ということで、自玉手祭来酒解神社と御祭神がかぶっているので
この天王山が神降山なのかも?(間違っていたら教えてくださーい!)

姫路城は姫山・鷺山に築かれているというが、姫路城の隣には男山がある。
これと同じように、現在の石清水八幡宮が鎮座しているのは男山なのだが、これに対して女山みたいなのがあるのではないかと私は常々思っていた。

もしかして、天王山は女山だろうか?



②油祖

貞観年間(859~877年)、離宮八幡宮の神官が神示を受けて「長木」と呼ばれる搾油器を発明し、荏胡麻(えごま)油(神社仏閣の燈明用油)が作られるようになったと伝わる。
全国にこの製油技術が広まると、離宮八幡宮は朝廷より「油祖」の名を賜り、油の専売特許を得た。
油を商うためには、離宮八幡宮の許状が必要だったという。

※貞観は清和天皇(生没年850~881)の御代

離宮八幡宮 油祖像 
③油を搾るしくみ
長木の図 
離宮八幡宮 説明板より

向かって右下の短い棒に縄を巻き付けることによって、上部の長い棒を下にさげて力を加え、荏胡麻の油を搾る。
長木 模型

離宮八幡宮 説明板より

写真向かって右の縦についている長い棒は、縄を巻き付ける道具だと思う。
この棒を前後させることによって縄を巻き付けている短い棒を回転させるのだろう。
工学に詳しい友人に聞いたところ、逆回転防止の歯車がとりつけられているのではないか、とのこと。

長木 説明 


山崎 油売り 

離宮八幡宮 説明板より



④搾油器とろくろ

私は搾油器「長木」は木地師が用いるろくろに似ていると思った。

ろくろ 

木地師の里 ろくろ

どちらも棒にロープが巻き付けられている。

木地師資料館 惟喬親王像 

木地師資料館に展示されていた掛け軸


使い方は上の絵のとおり。

ひとりがロープの両端を持って棒を回転させる。
そしてもうひとりが棒の先端に取り付けた刃に木をあてて削るのである。

⑤「長木」を発明したのは惟喬親王?

上の絵は木地師資料館に展示されていた掛け軸で、「器地轆轤之祖神 惟喬親王命尊像」と記されている。

惟喬親王は巻物が転がるのを見てろくろを発明したという伝説がある。
しかしこの伝説は事実ではない。
惟喬親王は平安時代の人物だが、奈良時代に作られたろくろびきの百万塔が残されているからであるw

だが「惟喬親王がろくろを発明した」と人々が信じたことは間違いないだろう。

そして、先ほどものべたように、離宮八幡宮の神官が発明した搾油器の構造はろくろに似ている。

ずばり、搾油器を発明した離宮八幡宮の神官とは惟喬親王ではないだろうか。
惟喬親王はろくろを発明したのと同じように、巻物を転がるのを見て搾油器を発明した、と信じられたのではないか?

というのは、石清水八幡宮を創建した清和天皇と惟喬親王(844-897)は異母兄弟なのである。

どちらも父親は文徳天皇、清和天皇の母親は藤原良房の娘・明子、惟喬親王の母親は紀名虎の娘・静子である。
文徳天皇は長子の惟喬親王を皇太子につけたかったのです。
しかし、時の権力者は藤原良房。源信はこの藤原良房を憚って、「惟喬親王を皇太子にしたい」という文徳天皇を諫めた。
こうして清和天皇が皇太子についたわけで、二人の間には藤原氏と紀氏の世継争いという因縁があるのだ。

山崎 油売り2

離宮八幡宮 説明板より

⑥八幡神は身をひくことで皇位継承をもたらす神

宇佐八幡宮は奈良時代には「道鏡を天皇とするべし」とか「道鏡を天皇にしてはならない」という相反する二つの神託を下している。
どうやって信託を下すのだろう?
巫女に託宣するのだろうか?

それはわからないが、とにかく相反する二つの皇位継承に関する神託をくだしたわけである。

また宇佐八幡宮には天皇即位や国家異変の際に勅使(ちょくし―天皇の使い)が派遣される習慣があった。
八幡神は皇位継承の神として信仰されていたのだと思う。

で、八幡宮の主祭神である応神天皇は、伊奢沙和気大神(福井県敦賀市の気比神宮の神)と、応神天皇の名前を交換したという話がある。(古事記)

応神天皇は伊奢沙和気大神となって気比神宮に祀られ、神饌として大漁のイルカがお供えされた。
そして伊奢沙和気大神は応神天皇となり、ちゃっかり皇位についたという話のように思える。
これは政権交代を意味する物語ではないだろうか。

離宮八幡宮 門

初代神武天皇が東征して畿内入りするよりも早く、ニギハヤヒという神が天下っていたと記紀には記されている。
ニギハヤヒは物部氏の祖神なので、神武以前に物部王朝があったという説がある。

また応神天皇は九州の宇美で生まれ、そこから畿内入りするのだが
そのルートが神武東征ルートと重なるので、同一人物ではないかとする説もある。

記紀は神武は天皇家の人間で九州から東征してやってきたとしているが、九州から東征してやってきたのは物部氏だったのかもしれない。
実際の天皇家は九州からではなく福井県敦賀あたりからやってきたのだったりして?

すると応神天皇が皇位継承の神として信仰されているのは、
彼が物部王朝の王であったが、彼が身を引いたため、イザサワケが皇位について政権交代したため、
だとも考えられる。

そして惟喬親王も身をひくことで、清和天皇の即位をもたらしたと考えられたのではないかと思う。

清和天皇の生没年は850~881年。
石清水八幡宮が創建された859年、清和天皇はまだ9歳であって、まだ自らの意思で神社を創建しようと考えたりはできないと思う。
石清水八幡宮の創建には清和天皇の外祖父・藤原良房が関わっていると考えるのが妥当だと思う。

そして藤原良房は応神天皇に惟喬親王のイメージを重ねて石清水八幡宮に祭ったのではないだろうか。

日本では先祖の霊は子孫が祭祀するべきとする考え方があった。
石清水八幡宮の神官は紀氏の世襲である。
これは「藤原良房は応神天皇に惟喬親王のイメージを重ねて祭った」という説を裏付けると思う。

離宮八幡宮 神馬 

⑥惟喬親王の水無瀬の離宮

伊勢物語の第八十二段には、こんな話が記されている。

惟喬親王は在原業平や紀有常らの寵臣とともに、水無瀬離宮から交野ケ原へ向かい、渚の院で歌会を開いたと。

水無瀬は惟喬親王ゆかりの地なのである。
そして、水無瀬は離宮八幡宮から近い。
離宮八幡宮という名前は、嵯峨天皇の離宮があったところからつけられたというが、本当は惟喬親王の離宮があったところからつけられたんだったりして?

⑦  漆・樹脂・油は即身仏の防腐剤だった?

それはさておき、⑤に書いたように「搾油器を発明した離宮八幡宮の神官は惟喬親王」が正しいと仮定して、なぜ惟喬親王は搾油器を発明したなどという伝説が生じたのかについて考えてみよう。

惟喬親王は虚空蔵菩薩より漆の製法を授かったという伝説もあるが、これは入定する際、漆のお茶を飲むことと関係がありそうに思える。
(漆を飲むことで胃の中のものを吐き出し、また漆の防腐作用で腐りにくい体になるという。)
惟喬親王の乱⑭ 法輪寺 重陽神事 『惟喬親王、菊のしずくを飲んで不老長寿を得る?』 

調べてみると古代エジプトのミイラで防腐剤が使用されていたということがわかった。

英ヨーク大学の考古学者スティーブン・バックレー博士によると
現在、イタリア・トリノのエジプト博物館に保管されている古代エジプトのミイラは次のようなレシピから作られる防腐剤を使用されているという。

●植物性油:おそらくゴマ
●植物か根からの「バルサム(樹脂の一種)のような」抽出液:ガマ属の植物由来とみられる
●植物性ののり:アカシアから抽出されたとみられる糖
●針葉樹の樹脂:おそらく松ヤニ

樹脂を油と混ぜると殺菌特性が備わり、遺体を腐敗から守ってくれる。

https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-45204722


すると、離宮八幡宮の神官(惟喬親王のことか?)が搾油器を発明したという伝説は、その油と松脂などの樹脂をまぜて防腐剤として用いたことから生じた伝説なのかも、と思ってしまう。



次回に続きます~

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[2020/09/20 20:37] 惟喬親王の乱 | TB(0) | CM(0)

惟喬親王の乱⑱阿弥陀寺 『体質を樹脂化するとは?』 

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「小野小町は男だった」もよかったらよんでみてね。


古知谷阿弥陀寺 門2

①体質を樹脂質化する?

三千院の北に小知谷阿弥陀寺はあった。
紅葉シーズン、三千院あたりはたいへんな人出だが、古知谷阿弥陀寺は観光客もまばらで静寂につつまれていた。
おまけに紅葉の美しさは絶品で、まさしく紅葉の穴場スポットである。

そんな静かな古知谷阿弥陀寺には、開基・弾誓のミイラ仏が安置されている。

阿弥陀寺 
写真向かって右に石廟がある。

阿弥陀寺 石廟 
石廟内部 奥の石棺の中に弾誓上人の即身仏が安置されているのだろう。

堂内にあった説明板には次のように記されていた。
「開基弾誓上人は穀絶ち塩絶ちのすえ、松の実 松の皮を食べ 体質を樹脂質化した後 念仏三昧をもって生きながら石窟の二重になった石棺の中に入り・・・。」

阿弥陀寺 石廟 説明

樹脂とはアカマツ・カラマツなどの樹木から分泌される粘り気のある液体、またはそれが空気に触れて酸化して固まったもののことで、
例としては松脂や琥珀などがあげられる。

「体質を樹脂質化する」というのがどういう状態のことを言っているのか、よくわからない。

是非お姿を拝んでみたい!しかし石室に安置されていて、残念ながらお姿を拝むことはできない。

古知谷阿弥陀寺 門

即身仏になるために防腐剤が用いられていた?

即身仏となるためには木食といって、五穀を断ち、木の皮や木の実のみを食べる修業を行った。
こうして体から脂肪を落とし、死後腐りにくい体をつくるのだという。

説明板には「弾誓上人が松の実や皮を食べた」という旨が記されていたが、これは木食修行だったのだろうか。

即身仏のメッカといえば山形の湯殿山だが、湯殿山は水銀土壌だそうで、ここで育つ木の皮や実は水銀濃度が高いそうである。
水銀には防腐作用があり、そのため即身仏が数多く残ったのではないかと言われる。
もちろん、寒冷な気候も影響しただろう。

また入定する前に漆のお茶を飲むということもされていたようだ。
こうすることによって、胃の中のものを吐き出し、また漆の防腐作用で腐りにくくなったといわれる。

古知谷阿弥陀寺 枯山水

③樹脂は防腐剤だった?

調べてみると古代エジプトのミイラで防腐剤が使用されていたということがわかった。

英ヨーク大学の考古学者スティーブン・バックレー博士によると
現在、イタリア・トリノのエジプト博物館に保管されている古代エジプトのミイラは次のようなレシピから作られる防腐剤を使用されているという。

●植物性油:おそらくゴマ
●植物か根からの「バルサム(樹脂の一種)のような」抽出液:ガマ属の植物由来とみられる
●植物性ののり:アカシアから抽出されたとみられる糖
●針葉樹の樹脂:おそらく松ヤニ

樹脂を油と混ぜると殺菌特性が備わり、遺体を腐敗から守ってくれる。

https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-45204722

京都大原は平安京があったあたりに比べるとかなり寒冷な気候だと思う。
紅葉も早いし、雪も結構降るようである。
しかし、山形の気温と比べると高いだろう。
やはり太原は温暖な気候で、即身仏となるには不向きな気候だといえるのではないか。

それなのに、即身仏が残っているのは、樹脂(松脂)と油をまぜた防腐剤が用いられていたのだったりして?


古知谷阿弥陀寺 茶室

④大原は惟喬親王の隠棲地で墓もある。

ここ大原には惟喬親王が隠棲したとも伝わり(隠棲地は別の場所だとする説もある。)惟喬親王の墓もある。
そして惟隆親王は、嵐山の法輪寺に籠って虚空蔵菩薩より漆の製法を授かったという伝説がある。

また宇治に喜撰法師が籠ったという喜撰洞があるが、喜撰法師とは紀仙法師であり、紀名虎または紀有常のことだとする説がある。

(私は喜撰法師とは紀名虎の娘で、紀有常の妹の紀静子を母親に持つ惟喬親王の事である可能性もあるかなと思っているが)
喜撰洞とは喜撰法師が入定した洞窟ではないだろうか。
喜撰という言葉はお茶の隠語としても用いられているが、それは喜撰法師が漆のお茶を飲んで入定したことから隠語として用いられているのではないかと思ったりもする。

漆はウルシオールという樹脂分を主成分とするという。

空気中の水分を取り込んで乾くそうである。
漆の成分の酵素(ラッカーゼ)が、水分の中の酸素を取り込んで反応し、ウルシオールが液体から固体になるそうである。
漆を乾燥させるのに適した温度は25~30℃だという。
即身仏は寒冷地に残っていることが多いが、仮に漆で樹脂化させるのであれば、気温は25~30度くらいで高めのほうがいいということになるだろうか?

漆を乾燥させるの適している湿度は70%程度で、梅雨の時期が最も漆の乾燥に適しているとのこと。
それ以外の時期でも漆を乾かす必用があるため、「漆風呂」「むろ」と呼ばれる漆用の乾燥室を使っているそうである。

https://www.yamakyu-urushi.co.jp/shikki/21_27/ ←漆風呂の写真が掲載されている。

説明板にあった「体を樹脂質化して・・・ミイラ仏として安置されている」という文章が何度も頭の中に浮かんでくる。

惟喬親王は漆で体を樹脂質化してミイラ仏になったなどというのはトンデモだろうか?

古知谷阿弥陀寺 茶室2 

⑤大原盆

大原と漆器は関係がないのだろうかと思い、調べてみたところ、大原盆という伝統工芸品を作っていることがわかった。
木製くり抜きで、本漆を使用した丸盆で、十六弁の菊の紋が入れられている。

文治年間(1185〜90)の後白河法皇大原御幸の際、建礼門院がおもてなしのために使ったのが始まりと言い伝えられている。

https://www.takashimaya.co.jp/shopping/interior/0500002426/0500004882/0500004893/0500004898/product.html?p_cd=0001309814&sub_cd=001(大原盆の写真)

惟喬親王を祀る大皇木地祖神社の神紋は大原盆のデザインとは若干違うが、十六菊で惟喬親王と関係があるようにも思えた。

古知谷阿弥陀寺 渡り廊下 
古知谷阿弥陀寺  


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[2020/09/13 21:09] 惟喬親王の乱 | TB(0) | CM(0)

惟喬親王の乱⑰ 石清水八幡宮 『石清水八幡宮の神主が紀氏の世襲なのはなぜ?』 

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惟喬親王の乱⑯ 法輪寺 針供養 『法輪寺で針供養が行われているのは何故?』 よりつづきます~

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石清水八幡宮 本殿 
石清水八幡宮 本殿

①石清水八幡宮の創建は藤原良房の意思によるもの?

清和天皇は文徳天皇の第二皇子として850年に生まれ、生まれたばかりで皇太子となった。
そして858年、わずか8歳で即位した。
もちろん8歳の子供に政治がとれるはずはなく、実際の政治は清和天皇の外祖父の藤原良房がとっていた。
石清水八幡宮の創建は860年、清和天皇の勅命によってとされるが、このとき清和天皇は10歳。
石清水八幡宮の創建は藤原良房の意思によるものだと考えるのが妥当だと思う。

石清水八幡宮  鬼門封じ 

石清水八幡宮 本殿 鬼門封じ

石清水八幡宮 鬼門封じ


⓶御霊として祀られた惟喬親王

文徳天皇には清和天皇のほかに第一皇子の惟喬(これたか)親王があった。
清和天皇の母親は藤原良房の娘の藤原明子、惟喬親王の母親は紀名虎の娘の紀静子だった。
文徳天皇は惟喬親王のほうを皇太子につけたいと考えており、これを源信に相談している。
源信は藤原良房をはばかって文徳天皇をいさめたという。

世継争いに敗れた惟喬親王は御霊として大皇器地祖神社 (おおきみきじそじんじゃ)、筒井神社、玄武神社などに祀られている。

惟喬親王の乱③木地師の里 『世継争いに敗れた皇子』 
惟喬親王の乱④玄武神社『胴体がなく首の長い神』 


御霊とは、怨霊が祟らないように慰霊されたもののことをいう。
つまり、惟喬親王は怨霊であったということである。

石清水八幡宮 東総門 雪

 
③石清水八幡宮の神主を紀氏が世襲したのはなぜ?

①で、清和天皇が創建した神社だと書いたが、石清水八幡宮の神主は代々紀氏が世襲していた。

さきほどお話した惟喬親王の外祖父は紀名虎であり、紀名虎は藤原良房とは政治上のライバルだった。
平家物語にはいずれの孫を立太子させるかで紀名虎と藤原良房がもめ、バトルを繰り返したと記されている。

惟喬親王の乱⑬ 上加茂神社 烏相撲 『紀名虎&藤原良房の世継ぎ争い』  

清和天皇が誕生したときすでに紀名虎は亡くなっているので実話ではないとされているが、紀氏と藤原氏の間に確執があったことは事実だろう。

そして石清水八幡宮の創建は清和天皇の勅願によるとされるが、実際には清和天皇の外祖父・藤原良房の意思によるものと考えられる。

藤原良房はなぜ石清水八幡宮の神主を紀氏としたのだろうか?

石清水八幡宮 石清水社 
石清水八幡宮 石清水社

④先祖の霊は子孫が祭祀または供養するべき

日本では古より先祖の霊はその子孫が祭祀または供養するべき、と考えられていた。

古事記にも「大物主神が祟り、その子のオオタタネコが大物主神を祀るお大神神社の神主になったところ、大物主神の祟りがおさまった」と記されている。

どうやら先祖の霊は子孫が祭祀したり供養したりしないと祟ると考えられていたようである。

石清水八幡宮の御祭神・八幡神と惟喬親王はイメージを重ねられており、惟喬親王は紀氏の血筋の親王なので、石清水八幡宮は紀氏が祭祀するべきであると考えられたのではないかと思う。

石清水八幡宮 三女神社 雪 
石清水八幡宮 三女神社



⑤伊奢沙和気大神と名前を交換した応神天皇

八幡神とは応神天皇のことだが、古事記仲哀天皇代にこんな話がある。

武内宿禰の夢の中に伊奢沙和気大神が現れ、「御子(応神天皇)と私の名前を交換してほしい」と言ったので、武内宿禰はこれを承知した。
翌朝、海岸に行ってみると、たくさんの鼻を傷つけられたイルカがいた。
御子は「神様が御饌を下さった」と大喜びした。
イルカの血で臭かったので、血浦となり、これが訛って角鹿(ツヌガ/現在の敦賀)となった。


また日本書紀・垂仁天皇2年条にこんなことが記されています。

垂仁天皇の時意富加羅国の王子・ツヌガアラシトが笥飯(けひ)浦にやってきました。
額に角があったので、この地を角鹿と称しました。

伊奢沙和気大神は福井県敦賀市にある気比神宮の神である。
気比神宮の摂社に角鹿(つぬが)神社があり、ツヌガアラシトを祀っている。

ツヌガアラシトは祟神58年(紀元前40年)に朝鮮半島から日本にやってきて、崇神天皇に5年仕えた。
帰国の際、崇神天皇はツヌガアラシトの国に任那という国号を与えたとされる。

平安時代の女性はおいそれと名前を名乗るべきではなく結婚する相手にのみ名乗ってよいとされていた。
紫式部、清少納言問う名前は相性であって本名ではない。
藤原明子、紀静子というのは本名だが、彼女らの名前が後世に残されているのは、天皇の妻となり位が残されて記録されているためである。
つまり平安時代の女性は入内した女性以外はほとんど本名が後世に伝えられていないということになる。
いまでも名前は大切なものだが、平安時代における名前とは命や存在そのものと同じくらい重要なものであったと推察される。

応神天皇はその大切な名前を交換したというのである。
つまり本物の応神天皇は伊奢沙和気大神となり、伊奢沙和気大神は応神天皇になったということである。
これは大変なことである。
名前を交換するというこの話は政権交代を意味しているのではないかと私は思う。

つまり朝鮮半島からやってきた人物が天皇となり、ほんものの天皇は殺され神として気比神宮に祀られたという話ではないかと思うのだ。

そして文徳天皇が皇太子にしたいと望んでいたが、異母妹で藤原良房の孫である清和天皇にその座を奪われた紀名虎の孫・惟喬親王は、この応神天皇(八幡神)とイメージが重ねられたのではないだろうか。

そのため、石清水八幡宮の神主は代々紀氏が世襲したのではないかと思ったりする。


石清水八幡宮 青山祭

頓宮殿 青山祭の祭場



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[2020/09/11 17:10] 惟喬親王の乱 | TB(0) | CM(0)

惟喬親王の乱⑯ 法輪寺 針供養 『法輪寺で針供養が行われているのは何故?』 


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惟喬親王の乱⑮ 根来寺 『根来塗と小野小町伝説は惟喬親王と関係あり?』 よりつづきます~

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法輪寺 針供養3  


①針供養と事八日

美しい織姫さんたちがピンク色のこんにゃくに針をさしていく。
針はいつも硬いものを刺しているので、やわらかいものに刺して供養するのだという。

針供養は関東では2月8日、関西では12月8日に行われることが多いそうである。
法輪寺では2月8日と12月8日の両方行っている。

法輪寺 針供養2


⓶なぜ針供養は身をつつしむべき「事八日」に行うのか。

なぜ針供養は2月8日と12月8日に行われているのだろうか?

12月8日は『事納め』の日で、その年の農作業を終える日である。
そして2月8日は『事始め』で、その年農作業を始めて行う日だ。
12月8日と2月8日をまとめて『事八日(ことようか)』という。
事八日は魔物が家の中をうかがっていると考えられ、身をつつしむ日とされていた。
それで女性たちはこの日針仕事をしなかったのだという。

どうやら針供養が2月8日と12月8日なのは、「事八日」で針仕事をしない日であったためのようである。

しかし、なぜ身をつつしむべき事八日に針仕事をしてはいけないのだろうか?
家で謹慎するには針仕事はもってこいだと思うのだが?

私は身をつつしむべき事八日に針仕事をしてはいけないと考えられていたのは、針には穴があるからではないかと思ったりする。
女性の穴を魔物が狙っている。
つまり貞操を大事にするという意味で、針仕事をしてはいけないといわれていたのではないだろうかw。

法輪寺 針供養


③針供養は法輪寺で清和天皇代にはじめられた?

平安時代、清和天皇(850~881)が法輪寺に針供養の堂が建てられたと伝えられる。
そして法輪寺のhpには次のように記されている。
「法輪寺針供養は、皇室で使用された針をご供養せよとの天皇の命により始まったといわれている。」と。
https://www.kokuzohourinji.com/events.html

残念ながら、何天皇の命なのかについては記されていない。
しかし法輪寺に針供養の堂をたてた清和天皇の命である可能性が極めて高い。

またこれがもっとも古い針供養のいわれではないかと思う。(違っていたらご指摘お願いします。)
すると法輪寺が針供養発祥の地である可能性も高い。

法輪寺 


④清和天皇、惟喬親王の恨みを怖れる?

清和天皇は文徳天皇と藤原明子(藤原良房の娘)との間に生まれた皇子(惟仁親王)で
惟喬親王は文徳天皇と紀静子(紀名虎の娘)との間に生まれた皇子である。
文徳天皇は惟喬親王(844~897)を皇太子にしたかったのだが、源信にいさめられて、惟仁親王を皇太子にした。
清和天皇(惟仁親王)や藤原良房は惟喬親王の恨みが恐ろしかっただろうし、
藤原良房の子孫は惟喬親王の怨霊を怖れたことだろう。

⑤針供養と小野小町、惟喬親王の関係


まち針は『小町針』がなまったものだと言われている。

 小野小町は『穴のない体』だったという伝承がある。
つまり小野小町は性的に不能だったというのである。
それで穴のない針を『小町針』といい、それがなまって『まち針』になったと言われる。

私は小野小町が『穴のない体』だったというのは小野小町とは実は男だった、小野小町とは小野宮と呼ばれた惟喬(これたか)親王のことであるためではないかと考えている。

そしてここ法輪寺には惟喬親王が籠った際虚空蔵菩薩より漆の製法を授かったという話が伝えられている。
法輪寺は惟喬親王と関係の深い寺なのである。


法輪寺の針供養は小野小町=惟喬親王の供養を目的として始められたなんてことはないだろうか。


法輪寺 針供養 

惟喬親王の乱⑰ 石清水八幡宮 『石清水八幡宮の神主が紀氏の世襲なのはなぜ?』 に続きます~

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[2020/09/10 10:46] 惟喬親王の乱 | TB(0) | CM(0)

惟喬親王の乱⑮ 根来寺 『根来塗と小野小町伝説は惟喬親王と関係あり?』 

トップページはこちらです→惟喬親王の乱① 東向観音寺 『本地垂迹説』  
惟喬親王の乱⑭ 法輪寺 重陽神事 『惟喬親王、菊のしずくを飲んで不老長寿を得る?』 よりつづきます~

「小野小町は男だった」もよかったらよんでみてね。


 

①紀州漆器の担い手たちは滋賀県木地師の里からやってきた?


室町時代から戦国時代(1336~1590年)ごろ、近江の木地師集団が紀州に移住してきたという。
彼らが紀州檜を用いて椀などを製造したのが紀州漆器の始まりとされる。

おお~、近江の木地師!

近江は現在の滋賀県だが、滋賀県東近江市君ヶ畑あたりは「木地師の里」と呼ばれている。
惟喬親王の乱③木地師の里 『世継争いに敗れた皇子』 

また、滋賀県蒲生郡日野では日野漆器が作られていた。
惟喬親王の乱⑫ 正明寺『惟喬親王を厚く信仰した日野の木地師・塗師たち』 

日野は1533年、日野領主の蒲生氏が中野城を築いた際、木地師や塗師が招へいされて住み着き、漆器の産地として発展したとされる。

近江の木地師集団が紀州に移住してきたのは室町時代から戦国時代(1336~1590年)ごろということなので、日野からやってきたということはないか。

紀州漆器の担い手たちは滋賀県東近江市君ヶ畑あたりの「木地師の里」からやってきたのかもしれない。

大皇器地祖神社 
大皇器地祖神社(おおきみきぢそじんじゃ)


君が畑には大皇器地祖神社(おおきみきぢそじんじゃ)があり、木地師の祖神として惟喬親王を祭っている。

大皇器地祖神社の近くには惟喬親王の墓もある。(京都三千院近く、滋賀県筒井峠付近にも惟喬親王の墓がある。)

惟喬親王-墓2 
大皇器地祖神社近くにある惟喬親王の墓

惟喬親王は巻物が転がるのを見て、木地師が用いるろくろを発明したという伝説があり
(奈良時代にろくろで作られた百万塔が現存しているので、この伝説は事実ではないが)
そのため、木地師の祖とされている。

木地師資料館 惟喬親王像 

木地師資料館に展示されていた掛け軸

使い方は上の絵のとおり。

ひとりがロープの両端を持って棒を回転させる。
そしてもうひとりが棒の先端に取り付けた刃に木をあてて削る。

木地師の祖ということで日野漆器の産地だった滋賀県日野でも惟喬親王は厚く信仰されていた。
日野祭の双六町曳山の見送幕は惟喬親王が描かれている。
http://www.diana.dti.ne.jp/~tsuku/yama/sugo.html

近江からやってきて紀州に定住した木地師集団も惟喬親王を信仰していたことだろう。

また惟喬親王の母親は紀静子といい、紀氏の女性だった。
そして紀州は紀氏の本拠地なので、木地師たちは紀州で漆器をつくるということに意義を見出していたかもしれない。

根来寺 紅葉3

②根来塗


近江の木地師集団が定住して漆器をつくったのが紀州漆器とする説のほか、秀吉の根来寺焼き討ちからのがれてきた職人が黒江湊に移住して紀州漆器がつくられはじめたとする説もある。

根来寺に関係する漆器に根来塗があり、寺の僧侶たちが用いていたとされる。

黒漆で下塗りをしたのち、朱漆塗りを重ねてつくるそうである。

たぶん朱塗りは漆に天然の辰砂をまぜるのではないかと思う。(もしちがっていたら教えてね~)
https://www.negoronuri.com/

③なぜ根来に小野小町伝説があるのか

根来寺 紅葉

根来寺

根来寺の裏あたりにある山を根来山というようである。(写真に写っている山が根来山かどうかはわからない。すいません。)

で、この根来山付近にこんな話が伝えられている。

康和(1099~1104年)のころ、根来山の麓の西坂本に室家右兵衛尉忠家(むろやうひょうえのじょうただいえ)が住んでいた。
忠家は金持ちだったが、子供がなかった。
あるとき、忠家の妻は、小野小町の墓に参拝すると子供を授かるという話を聞き、二十一日絶食して小野小町の墓にお参りをした。
やがて妻は身籠り女児を出産した。
女児は桂姫と名付けられ、小野小町そっくりな美女に成長した。
桂姫の髪は住持池(じゅうじがいけ)の水をつけないと梳くことができず、住持池の水を汲んできては梳いていた。
桂姫は和泉国尾崎の大原源蔵高広(おおはらげんぞうたかひろ)という北面(ほくめん)の武士に嫁ぐことになった。
嫁入り行列が住持池を通り過ぎようとしたとき、空がかき曇り池に大波がたり、大蛇があらわれて娘をさらって水の中に消えた。
母親は悲しみもう一度娘に会いたいと願っていましたが、あるとき住持池を泳ぐ二匹の蛇の姿を見た。
桂姫をさらった大蛇は小町に思いをよせていた深草小将の生まれ変わりだといわれている。





なぜ、この地に小野小町の伝説があるのだろうか。

実は私は小野小町とは小野宮と呼ばれた惟喬親王のことではないかと考えている。

詳しくは別ブログの次のシリーズ
http://arhrnrhr.blog.fc2.com/blog-category-15.html

特に、下記記事を詳しく書いているが
小野小町は男だった⑬ 『小野小町は男だった!』 
小野小町は男だった⑯(最終回) 『わがみよにふるながめせしまに』  

ざっとまとめておくと次のような理由があげられる。

a古今和歌集には男が女の身になって詠んだ歌が多数ある。
b古今和歌集仮名序はやけに小町が女であることを強調しているが、これは小町が男だからではないか。
c.小野小町は穴のない体で性的に不能であったともいわれているが、穴がない体なのは小町が男だからではないか。
d『古今和歌集』に登場する女性歌人に三国町、三条町、がいる。
三国町は一般には継体天皇の母系氏族・三国氏出身の女性だと考えられているが、
 『古今和歌集目録』は三国町を紀名虎の娘で仁明天皇の更衣としている。
  紀名虎の娘で仁明天皇の更衣とは紀種子のことである。
  また三条町は紀名虎の娘で文徳天皇の更衣だった紀静子のことである。
  三国町が紀種子とすれば、三条町=紀静子なので、三国町と三条町は姉妹だということになる。
  そして紀静子は惟喬親王の母親だった。。
  惟喬親王は三国町の甥であり、三条町の息子なので、三国町・三条町とは一代世代が若くなる。
  そういうことで小町なのではないだろうか。
e花のいろは うつりにけりな いたづらに わがみよにふる ながめせしまに
この歌は縁語や掛詞を用いて二重の意味をもたせた技巧的な歌だとされる。
①花の色はすっかり褪せてしまったなあ。春の長い雨のせいで。
②私の容色はすっかり衰えてしまったなあ。恋の物思いにふけっている間に。
※『色』・・・『視覚的な色(英語のColor)』『容色』
※『世』・・・『世の中』と『男女関係』
※『ながめ』・・・『物思いにふける』『長雨』
しかし、もうひとつ違う意味が隠されているように思える。
③はねずの梅の鮮やかな色はあせ、(「はねず」は移るの掛詞なので、花ははねずの梅ととる)私の御代に(「わが御代に 下(ふ)る」とよむ。)長い天下(「ながめ」→「長雨」→「長天」と変化する。さらに「下(ふ)る」を合わせて「天下」という言葉を導く)がやってきたようだ。

①で述べたように惟喬親王は木地師の祖として信仰されている。
また惟喬親王が法輪寺に籠って虚空蔵菩薩より漆の製法を授かったという伝説があり、惟喬親王は塗師からも崇拝されていた。
そして根来塗をつくるためには木地師と塗師の存在が必要である。

根来寺付近に住んでいた木地師や塗師は惟喬親王を厚く信仰しており、惟喬親王=小野小町なので、小野小町に関係する伝説が生じたのではないだろうか。

ところで、この話にでてくる小野小町の墓ってどこにあるのだろうか。
和歌山市湯屋谷に小野小町の墓があるそうだが、ここのことだろうか?

根来衆

次回に続きます~

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[2020/09/09 08:59] 惟喬親王の乱 | TB(0) | CM(0)

惟喬親王の乱⑭ 法輪寺 重陽神事 『惟喬親王、菊のしずくを飲んで不老長寿を得る?』 



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惟喬親王の乱⑬ 上加茂神社 烏相撲 『紀名虎&藤原良房の世継ぎ争い』   よりつづきます~

「小野小町は男だった」もよかったらよんでみてね。


①菊の被綿

↓ これは何でしょう?

法輪寺 菊の被綿 

菊の被綿(法輪寺)

古には奇数は陽、偶数は陰の数字と考えられていた。
9は一桁の数字では最も大きな数字なので、陽が極まった数字であるとして、9月9日は「重陽の節句」とされていた。
「重陽の節句」は「菊の節句」とも呼ばれている。

重陽の節句の前夜、菊の花に綿をかぶせ、翌朝、綿についた雫で体を撫でると長寿になると言われていた。
これを「菊の被綿(きせわた)」という。
上の写真はこの菊の被綿を撮影したものである。

⓶700歳の長寿を得た菊滋童

なぜ「菊の被綿」の習慣が生じたのだろうか。
それは700歳の長寿を得た菊滋童の伝説がルーツとなっている。

法輪寺 菊滋童の像

菊滋童の像(法輪寺)


周の穆王が寵愛していた少年・菊慈童は、あるとき誤って帝の枕の上を超えてしまい、レッケン山に流刑となった。
穆王は菊滋童に観世音菩薩 普門品というお経にある「具一切功徳慈眼視衆生、福聚海無量是故応頂禮」を毎日唱えるようにと言った。
菊慈童がこれを菊の下葉に書きつけたところ、菊の下葉の露が不老長寿の薬となった。
そしてそれを飲んだ菊滋童は700歳の長寿を得た。

法輪寺 重陽神事  

菊滋童の舞

③ 穆王と菊滋童はBLだった。

菊滋童が穆王の枕を超えた、という点に注意してほしい。
穆王は菊滋童を寵愛していたとあるが、これは単に「かわいがっていた」という意味ではなく、「BLの関係にあった」ということだろう❤

法輪寺 重陽神事 

④♂と♂が重なることはまさしく重陽

陰陽では男は陽、女は陰である。
♂と♂が重なることはまさしく重陽だといえる。
つまりBLは長寿の妙薬ということだと思う。
日本で男色がたしなみとされていたのはそのためではないだろうか?

⑤惟喬親王、不老長寿を得る?

春の法輪寺では十三詣をする習慣がある。
惟喬親王の乱⑪ 法輪寺 十三詣 『惟隆親王、虚空蔵菩薩より漆の製法を授かる?』 


渡月橋より法輪寺を望む 

渡月橋より法輪寺を望む

「十三歳になった男女が法輪寺の虚空蔵菩薩をお参りすると知恵を授かる」といわれ、十三詣は別名を『知恵もらい』ともいう。
なぜ十三詣(知恵もらい)の習慣が生じたのだろうか。
それは平安時代、惟喬親王が法輪寺に籠り、虚空蔵菩薩より漆の製法を授かったという伝説にちなむのではないかと思う。

昔、即身仏となるべく入定する際、漆のお茶を飲んだという。
漆のお茶を飲むことで胃の中に残ったものを吐き出し、また漆の防腐効果で死後腐らない体になると考えられていたそうである。

惟喬親王は漆のお茶を飲んで即身仏となったのか?

そう考えると、法輪寺において重陽神事が行われていることともつながりが説明できそうである。

つまり、永遠の命をえるとは即身仏になるということで、菊児童と惟喬親王はイメージが重ねられているのではないかということである。


法輪寺 重陽神事4  



 法輪寺 重陽神事2

惟喬親王の乱⑮ 根来寺 『根来塗と小野小町伝説は惟喬親王と関係あり?』 に続きます~

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[2020/09/08 16:18] 惟喬親王の乱 | TB(0) | CM(0)

惟喬親王の乱⑬ 上加茂神社 烏相撲 『紀名虎&藤原良房の世継ぎ争い』  

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「小野小町は男だった」もよかったらよんでみてね。

上賀茂神社 烏相撲

①重陽とは何か?

陰陽道ではすべてのものは陰陽両面をもつと考える。
例えば人間は男が陽で女が陰。天地では天が陽で地が陰である。
数字では、奇数が陽、偶数が陰である。

古代中国では、1月7日、3月3日、5月5日、7月7日、9月9日は、「陽(月)+陽(日)=陰」になるとして避邪の行事が行われていた。
1月7日、3月3日、5月5日、7月7日、9月9日は五節句といわれ、お祝いをしたりするが、もともとは避邪の行事だったのである。

特に9は一桁の奇数としては一番大きな数であるために「陽の極まった数」と考えられ、「陽の極まった数の重日」ということで「重陽」と呼ばれていた。
日本においても宮中では「観菊の宴」などが開かれ、盛大に祝われた。

上賀茂神社 烏相撲 斎王代と神官

烏相撲を見つめる斎王代

②重陽と烏相撲

重陽の日(9月9日)、上賀茂神社では烏相撲が行われる。
なぜ、重陽の日に相撲が行われるのだろうか?

①で私は次のように書きました。
a.陰陽道ではすべてのものは陰陽両面をもつと考える。
b.人間は男が陽で女が陰。天地では天が陽で地が陰。数字では奇数は陽、偶数は陰。
性別天地天体光度天気生死数字
偶数
太陽奇数

上賀茂神社の烏相撲は男(陽)と男(陽)が取り組みを行うというもので、これはまさしく重陽である。
そういうわけで、重陽の日に烏相撲を行っているのではないかと私は考えている。

③烏相撲は上賀茂神社の親神である松尾の大山咋神に見せるために行われている。

「烏相撲は上賀茂神社の親神である松尾の大山咋神に見せるために行われている」といわれている。

松尾大社 八朔祭 女神輿

松尾大社


つまり、松尾大社のの御祭神・大山咋神は上賀茂神社の御祭神・別雷命の父神ということになる。

こんな伝説がある。

ある日、川から丹塗りの矢が流れてきた。
玉依姫がこれを持ち帰り、枕元に置いて寝るとやがて妊娠し、別雷命が生まれた。

上賀茂神社の御祭神は別雷命で、下鴨神社の夫婦神・玉依姫と賀茂健角身命の御子が別雷命とされる。
つまり丹塗り矢の正体は賀茂健角身命である。
そして玉依姫の父親が松尾大社のの御祭神・大山咋神ということになる。

上賀茂神社 八咫烏 

三本脚の八咫烏は賀茂健角身命の神使とされる。

④紀名虎と藤原良房の相撲によるバトル

松尾大社は虚空蔵法輪寺と近い場所にある。
松尾大社は秦氏の氏神だが、虚空蔵法輪寺がある付近にかつては三光明星尊を祀る葛野井宮(かずのいぐう)があり、秦氏は葛野井宮を尋ねてこの地にやってきたと伝わる。
虚空蔵法輪寺は秦氏と関係のある寺である可能性が高い。

そして、この虚空蔵法輪寺には紀氏の母親を持つ惟喬親王の伝説が伝えられている。

平安時代、この寺に惟喬親王が籠もったとき、虚空蔵菩薩が惟喬親王に漆の製法を授けたというのだ。

「なんで紀氏の母親を持つ惟喬親王?秦氏じゃないの?」と思われるだろう。

秦氏創建と伝えられる伏見稲荷大社はもともと紀氏の神を祀る神社であったのを、秦氏が土地を奪ったといわれる。
今でも紀氏の氏神を祀る藤森神社の祭では伏見稲荷大社に乗り込んで「土地返せ、土地返せ」とはやし立てるそうである。
松尾大社・虚空蔵法輪寺のあるあたりも、もともと紀氏の土地だったのが、秦氏に奪われたのかもしれない。

 藤森神社 藤森祭 神輿

藤森神社

もしそうだとしたら、オモシロイことになる。

文徳天皇には紀静子との間に惟喬親王が、藤原明子との間に惟仁親王(清和天皇)があった。
平家物語などに、紀静子の父・紀名虎と藤原明子の父・藤原良房が、いずれの孫を皇太子にするかで対立し、高僧の祈祷合戦・相撲などを行った結果、藤原良房が勝利したと記されている。

紀名虎は847年に亡くなっており、惟仁親王(清和天皇)が生まれたのが850年なので、これは史実ではなく、フィクションなのだが。

「烏相撲は上賀茂神社の親神である松尾の大山咋神に見せるために行われている」といわれてることを思い出してほしい。

紀名虎または惟喬親王は、松尾の大山咋神とイメージが重ねられているのではないだろうか。

つまり、烏相撲は、紀名虎または惟喬親王に、世継ぎを決める相撲で、あなた方は負けたんだよ、ということを思い出させるために行われているのかもしれない。

上賀茂神社 烏相撲 斎王代 
烏相撲を見つめる斎王代

上賀茂神社 烏相撲 鳥居 


惟喬親王の乱⑭ 法輪寺 重陽神事 『惟喬親王、菊のしずくを飲んで不老長寿を得る?』 に続きます~

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[2020/09/07 10:32] 惟喬親王の乱 | TB(0) | CM(0)

惟喬親王の乱⑫ 正明寺『惟喬親王を厚く信仰した日野の木地師・塗師たち』 



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惟喬親王の乱⑪ 法輪寺 十三詣 『惟隆親王、虚空蔵菩薩より漆の製法を授かる?』 よりつづきます~

「小野小町は男だった」もよかったらよんでみてね。


正明寺 万灯会 
①後水尾天皇の勅願寺

正明寺(滋賀県蒲生郡日野)の万灯会(8月5日から8月15日まで。行かれる際は確認をお願いします。)をk子と見に行った。

観光客は私とk子のふたりだけだった。
本堂から読経の声が聞こえてくる。
本堂の中をうかがうと、20人くらいの人々が正座をして読経を聞いていた。
檀家さんたちが集まってお盆の先祖供養をしてもらっているのだろう。
どうやら正明寺の万灯会はご近所の方々が先祖を迎えるためのもので、観光客用のイベントではなさそうだった。

それでも日野の方々は我々のような異邦人にも温かかった。
ひとりのご婦人がやってきて「どうぞ」といって熱いお茶をすすめてくださり、この寺の創建などについて教えてくださったのだ。
(ありがとうございました!) 
炎天下だが、熱いお茶を飲むとなぜかそのあと体が涼しく感じられるから不思議だ。

ご婦人の話によると、正明寺の由緒は次のようなものだった。

飛鳥時代、聖徳太子が創建したと伝わる。
戦国時代、戦火を受けて消失したが、江戸時代に黄檗宗の寺として再興され、後水尾天皇の勅建寺となった。 

正明寺 魚梆 

黄檗宗の総本山は京都宇治にある萬福寺である。
萬福寺は魚梆(ぎょほう)が有名だが、正明寺にも同様の魚梆があった。
萬福寺のはこちら→ 

⓶日野の木地師・塗師に信仰された惟喬親王

またご婦人は日野の町の歴史についても教えてくださった。
それはだいたい次のような話だった。

1533年、日野領主の蒲生氏が中野城を築いた際、日野は城下町として整備された。
日野には木地師や塗師が招へいされて住み着き、漆器の産地として発展した。

当時の日野には『日野市』という市場町があった。
日野市は上の市と下の市から成り、上の市には世神(渡世の神)である惟喬親王が、下の市では市神が祀られていたのだという。

現在、日野町松尾・井林神社の境内に、惟喬親王をお祀りする世(せ)神社があるそうだ。
高さ1mほどの石室であるという。 
世神社という名前は惟喬親王が世神であるところからくる名前なのかもしれない。

世神社はもともと上市淅上(かみのいち・かしあげ)の辻(現・大窪)にあり(『近江日野町誌』)、「日野椀」塗師屋が厚く信仰していたという。
この世神社が上の市に祀られていた世神・惟喬親王のことなのかもしれない。


渡世とは「この世で生きていくこと。生活すること。世渡り。 生業。」などの意味を持つ。
よくわからないが、現生利益の神、ということだろうか。

市神とは市の守護神として祀られる神の事で、市姫とも呼ばれる。

世神社は1625年、綿向神社に遷宮し、さらに1813年に綿向神社から井林神社へ遷宮した。(「綿向神社文書」)。

日野商人はしだいに「合薬(あわせぐすり)」を主力商品として扱うようになり、1756年に町が大火に襲われたことで、残念ながら日野椀の製造はほぼ消滅したという。

日野の塗師屋仲間が伝えてきた惟喬親王像の画軸一幅が、第十代「塗師安」により近江日野商人館に寄託されているということである。

木地師資料館 惟喬親王像2 

木地師資料館の惟喬親王像

③芦谷神社の山味噌伝説

また、日野町原の芦谷神社には次のような伝説が伝わっているという。

惟喬親王は追手に追われて鈴鹿の山伝いに平子・熊野・西明寺を経て、君ヶ畑へ身を隠した。
その途中、原の村人が芦谷神社で山の神の集まりをしているところに立ち寄られた。
村人たちは、親王一行を山味噌でもてないした。
原の山味噌は、木桶に味噌と豆腐を交互に詰めて作る。
惟喬親王はこの山味噌を召し上がってたいそう気に入り『この味噌は子々孫々に伝えるように』とおっしゃって去っていかれた。


またしても、惟喬親王が登場したw。 
この日は残念ながらご婦人に教えていただいた世神社、芦谷神社を参拝することはできなかったのだが、いずれ参拝してみたいと思う。
 
 正明寺 万灯会2

④上の市で惟喬親王が祀られていた理由

惟喬親王は巻物が転がるのを見て木地師の用いる轆轤(ろくろ)を発明したとか、京都の法輪寺に籠って虚空蔵菩薩から漆の製法を授かったなどという伝説がある。

惟喬親王の乱③木地師の里 『世継争いに敗れた皇子』 
惟喬親王の乱⑪ 法輪寺 十三詣 『惟隆親王、虚空蔵菩薩より漆の製法を授かる?』 

そういったことから、惟喬親王は木地師の祖とされ信仰された。
また木地師が作るものは漆器なので、塗師たちも惟喬親王を信仰していたのだろう。
上の市で惟喬親王が祀られていたのはそのためだと思う。 


木地師資料館 惟喬親王像  

木地師資料館の惟喬親王像
下の女性と男性が轆轤を使って器を作っている。


⑤御霊として祀られた惟喬親王

惟喬親王(844- 897)は文徳天皇の第一皇子で母親は紀名虎の娘の静子だった。
文徳天皇には藤原良房の娘・明子との間に第四皇子の惟仁親王(のちの清和天皇)もあった。
文徳天皇は長子の惟喬親王を皇太子にしたいと考えており、これを源信に相談しました。
源信は藤原良房を憚って文徳天皇をいさめたという。
こうして世継ぎ争いに敗れた惟喬親王は出家して小野の地に隠棲し、のちに大皇器地祖神社(おおきみきじそじんじゃ)、玄武神社、筒井神社などに御霊として祀られた。 
 
御霊とは怨霊が祟らないように慰霊されたもののことをいう。
怨霊とは政治的陰謀によって不幸な死を遂げた者のことで、疫病や天災や怨霊の仕業で引き起こされると考えられていた。
惟喬親王はかつて怨霊として畏れられていたということだろう。

ウィキペディア「祟り神」によれば「祟り神(たたりがみ)は、荒御霊であり畏怖され忌避されるものであるが、手厚く祀りあげることで強力な守護神となると信仰される神々である」
と記されている。

⑥清和天皇にイメージを重ねた後水尾天皇

正明寺を再興したのは後水尾天皇だったが、後水尾という諡号は遺諡(遺詔によって自ら決める追号)によって贈られたものである。
つまり後水尾天皇という諡号は後水尾天皇が望んでおくられたということだが、水尾とは清和天皇の異称である。

徳川光圀の『西山随筆』には、「兄を押しのけて即位したことが清和天皇と同様であることからこの諡号を自ら選んだのだろう」とある。

後水尾天皇には良仁親王という異母兄がおり、豊臣秀吉の後押しを受けて皇位継承者とされていた。
ところが秀吉が死亡して徳川家康が政治の実権を握ると、家康の後押しによって後水尾天皇が皇位継承者とされた。

後水尾天皇は自らを清和天皇のイメージとかさね、清和天皇との世継ぎ争いに敗れた惟喬親王を祀り上げることで自らの守護神にしようと考えたのではないだろうか。
そのため惟喬親王に対する信仰の強い日野の正明寺を勅願寺としたのではないかと思ったりする。 

こんなことを考えていると、正明寺にともされたたくさんの灯りは惟喬親王を慰霊するためのもののように思えてきた。


正明寺 万灯会3



 
惟喬親王の乱⑬ 上加茂神社 烏相撲 『紀名虎&藤原良房の世継ぎ争い』に続きます~

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[2020/09/06 08:52] 惟喬親王の乱 | TB(0) | CM(0)

惟喬親王の乱⑪ 法輪寺 十三詣 『惟隆親王、虚空蔵菩薩より漆の製法を授かる?』 

 
渡月橋

①十三詣


関西では旧暦の3月13日ごろ、数え年13歳になった男の子・女の子が虚空蔵菩薩にお詣りする『十三詣』の習慣がある。
京都の『十三詣』は嵐山の虚空蔵法輪寺に参拝する。
おそらく法輪寺が『十三詣』発祥の地ではないかと思ったりするが、どうなんだろう?

渡月橋 しだれ桜 
渡月橋

②知恵もらい

十三詣は別名を『知恵もらい』という。

虚空蔵菩薩は知恵を授けてくれる神として信仰されていた。
空海が虚空蔵求聞持法を行って抜群の記憶力を手に入れたという話は有名だ。
また惟喬親王がここ法輪寺に籠り、虚空蔵菩薩より漆の製法を授かったという伝説もある。

おそらく十三詣(知恵もらい)の習慣は惟喬親王のこの伝説をルーツとするのではないかと思う。

渡月橋より法輪寺を望む 

渡月橋より法輪寺を望む

③決して後ろを振り返ってはいけない!

十三詣を終えて渡月橋を渡る際、「決して後ろを振り返って見てはいけない。」と言われている。
うしろを振り返って見ると、せっかく虚空蔵菩薩より授かった知恵を失ってしまうというのだ。

渡月橋 桜2 
渡月橋

④法輪寺はあの世

有名な記紀神話を思い出す。

イザナギは死んだイザナミを迎えに黄泉の国へ行き「愛しい妻よ、もどってきておくれ」と嘆願した。
イザナミは「黄泉の大王に相談してきます。その間、決して振り返って私の姿を見ないでね。」と言った。
しかしイザナギは我慢できなくなって振り返りイザナミの姿を見てしまう。(ダメな男だなあ~)
イザナミの体は腐り、蛆がわいていた。
それを見たイザナギは恐ろしくなって逃げだした。(ほんっっっっとうにダメな男だなあ~)
イザナミは「よくも私の姿を見たな!」と言って追いかけてきたが、イザナギはなんとか逃げ切って黄泉平坂に大きな石を置いてあの世とこの世の境を塞いだ。


古の人々は法輪寺はあの世、桂川を隔てた対岸をこの世に見立てていたのではないだろうか。
それで渡月橋を渡る際、「決して後ろを振り返って見てはいけない。」と言われているのではないかと思う。

すると渡月橋はあの世とこの世を繋ぐ橋で、渡月橋の下を流れる桂川は三途の川?

渡月小橋 桜 
渡月小橋

大国主は根の国を振り返らずこの世へ戻った?

また、大国主が根の国(黄泉の国と同一のものだと考えられている)を訪れるという話がある。

大国主が根の国を訪れ、根の国の大王・スサノオに様々な試練を与えられる。
しかし最終的には大国主はスサノオの太刀と弓矢を手に入れ、スサノオの娘・スセリヒメを連れて根の国を逃げ出した。
スサノオは逃げる大国主に「お前が持つ大刀と弓矢で従わない八十神を追い払え。そしてお前が大国主、また宇都志国玉神(ウツシクニタマ)になって、スセリビメを妻として立派な宮殿を建てて住め。この野郎め」と言った。


おそらくスサノオは根の国をふりかえらずにこの世へ戻ってきたのだろう。
それでスサノオは太刀と弓矢とスセリヒメを手に入れたばかりか、スサノオから知恵も授かったのだと考えられる。

法輪寺の十三詣はこれを再現した行事なのかもしれない。

渡月橋

渡月橋

⑥ギリシャ神話・日本神話に共通する「冥界で振り返ってはいけない」

ギリシャ神話には冥界にまつわるこんな話もある。

オルフェイスの妻・エウリュディケーは毒蛇に噛まれて亡くなってしまい、オルフェウスは妻を連れ戻すため冥界にいった。
冥界の王・ハーデースは「エウリュディケーを連れ帰ってもいいが、決して後ろを振り返ってはいけない」といった。
しかしオルフェイスは本当と妻がついてきているのか心配になり、後ろを振り返ってしまったので、妻を連れ帰ることができなかった。


記紀神話のイザナギ・イザナミの話とそっくりである。

日本はシルクロードの東の到達点だった。
古代ギリシャのパルテノン神殿と同じエンタシスの柱が法隆寺や唐招提寺にもある。
記紀神話はギリシャ神話の影響を受けて創作されたものなのかもしれない。

⑦惟喬親王と漆

それにしてもなぜ法輪寺には「惟喬親王が虚空蔵菩薩から漆の製法を授かった」などという伝説が伝えられているのだろうか。

惟喬親王の乱③木地師の里 『世継争いに敗れた皇子』 
↑ こちらの記事に私はこんなことを書いた。

世継ぎ争いに敗れた惟喬親王は君ヶ畑に隠棲し、法華経の軸が転がるのを見て轆轤を発明。
そしてこれをこの土地の住民に伝え木地師が生まれた。


木地師がつくる代表的なものといえば茶碗などの漆器で、漆器には漆を塗る。
それで惟喬親王が虚空蔵菩薩より漆の製法を授かったという伝説が生じたのかもしれない。

ちなみに法輪寺ではこの伝説にちなみ、毎年11月13日に漆祭を行っているそうである。(残念ながら行ったことがない。)

法輪寺 ライトアップ

法輪寺

⑧惟喬親王と髑髏本尊、即身仏


しかし、ほんとうにそれだけだろうか?

惟喬親王は轆轤を発明したというが、親王という高い身分の方が本当に轆轤を発明したとは思えない。
また轆轤にはろくろ首のイメージがある。
蘇我入鹿、玄昉、平将門などの首が飛んだという伝説があるが、ろくろ首は飛行する首のアレンジバージョンの様にも思える。

そして首に漆を塗れば、真言立川流でもちいたとされる髑髏本尊となる。

また即身仏となるために入定する際、漆のお茶を飲んだと言われる。
漆のお茶を飲むことで、胃の中のものをはきだし、さらに死後の防腐効果もあったとされる。

惟喬親王は髑髏本尊や即身仏と関係があるように思えてならない。

法輪寺 ライトアップ

法輪寺


惟喬親王の乱⑫ 正明寺『惟喬親王を厚く信仰した日野の木地師・塗師たち』 に続きます~

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[2020/09/05 08:50] 惟喬親王の乱 | TB(0) | CM(0)

惟喬親王の乱⑩ 帯解寺『帯解寺に小町の宮があるのはなぜ?』 

トップページはこちらです→惟喬親王の乱① 東向観音寺 『本地垂迹説』  
惟喬親王の乱⑨ 十輪寺 『惟喬親王と六歌仙』  よりつづきます~

「小野小町は男だった」もよかったらよんでみてね。



帯解寺 本堂 桜

①腹帯地蔵

帯解寺の受付で「参拝したいのですが。大人2名です。」と告げた。
すると受付の女性に「安産祈願はなさいますか」と尋ねられた。
私の隣には友人のk子がいる。
夫婦だと勘違いされたのだ。
私はk子のことが好きで、いつか人生のパートナーになってくれるといいなあと思っているが、まだ彼女にそれを打ち明けたことはない。(したがって彼女がどう思っているかはわからないw)

「い・・・いや、今日は参拝のみでお願いします。」私は若干どもり気味で答えた。

堂内に入ると安産祈願の祈祷が行われている最中で、複数のカップルが地蔵菩薩に手を合わせていた。
ここ帯解寺は安産祈願のお寺として厚く信仰されているのだ。

やがて祈祷が終わると、カップルたちは地蔵菩薩が安置された内陣へと入っていった。
私と友人も僧侶の方に手招きされて内陣に入った。

帯解寺 桜


帯解寺には次のような伝説がつたえられている。

文徳天皇の御妃・染殿皇后(藤原明子)が永い間お子様にめぐまれず、大変悩んでおられた。
あるとき、春日明神のお告げがあり、勅使をたてて帯解子安地蔵菩薩にお祈りされたところ、まもなく御懐妊された。
こうしてお生まれになったのが惟仁(これひと)親王(清和天皇)である。
文徳天皇はたいへん、お喜びになって858年春、更に伽藍を御建立になった。

帯解地蔵の像高は182.6cm。
左手に宝珠、右手に錫杖を執り、左足を踏み下げて岩座上に坐しておられた。
腹前に裳の上端の布や結び紐が表されているところから『腹帯地蔵』と呼ばれている。

②同様の伝説が十臨寺・清和院・染殿院にも。

これと同様の話はすでにみなさんご存じである。
そう、京都の清和院・染殿院・十輪寺にも同様の話が伝えられているのだった。

惟喬親王の乱⑥ 染殿院 『腹帯地蔵は惟喬親王のイメージ?』 
惟喬親王の乱⑧ 清和院 『惟喬親王にろくろ首のイメージ?』 
惟喬親王の乱⑨ 十輪寺 『惟喬親王と六歌仙』 

いずれも染殿皇后に安産をもたらしたとされる地蔵菩薩をお祀りしている。

帯解寺 門 桜

③文徳天皇は惟仁親王(清和天皇)を皇太子にしたくなかった。

藤原明子が惟仁親王(清和天皇)を産んだことを、文徳天皇が喜んだかどうかは疑問である。
というのは、文徳天皇は惟仁親王ではなく、紀静子が産んだ長子の惟喬(これたか)親王を皇太子にしたいと考え、源信に相談しているのだ。
源信は藤原明子の父・藤原良房を憚って「それはやめたほうがいい」と諌めたとされる。

平家物語には紀名虎(紀静子の父)と藤原良房(藤原明子の父)が、どちらの孫を立太子させるかでバトルを繰り広げたようすが記されている。
高僧の祈祷合戦や相撲の勝敗などを繰り返した末に藤原良房が勝利したとある。

実際には紀名虎は惟仁親王が生まれる前に亡くなっているので、平家物語の記述は事実ではない。
しかし紀氏と藤原氏が権力争いをしていたことは事実だと思う。

帯解寺 門 桜 

政治的に不幸だった惟喬親王は玄武神社・大皇器地祖神社・筒井神社などに御霊として祀られていることも、すでにご紹介した。

惟喬親王の乱③木地師の里 『世継争いに敗れた皇子』 
惟喬親王の乱④玄武神社『胴体がなく首の長い神』 

御霊とは怨霊が祟らないように慰霊されたもののことである。
つまり惟喬親王は怨霊だったのだ。
怨霊とは政治的陰謀によって不幸な死を迎えた者のことで、疫病の流行や天災などは怨霊のしわざでひきおこされると考えられていた。

⑤十輪寺・清和院・染殿院・帯解寺の地蔵菩薩は惟喬親王の怨霊封じ込めの像?

梅原猛さんは「聖徳太子は怨霊であり、聖徳太子等身大の像と伝わる救世観音は聖徳太子の怨霊封じ込めの像である」とおっしゃっている。
聖徳太子が怨霊になったのは、彼の子孫は全員斑鳩寺(法隆寺)で首をくくって自害したためであるという。


惟喬親王の乱⓶法隆寺 『救世観音は聖徳太子の怨霊封じ込めの像?』 

これと同様、十輪寺・清和院・染殿院・帯解寺の地蔵菩薩は惟喬親王の怨霊封じ込めの像ではないだろうか。
世継争いに敗れた惟喬親王は怨霊になる要素を持っている。


⑥怨霊は祀り上げれば和魂に転じる

陰陽道では荒ぶる怨霊は十分に祀ればご利益を与えてくださる和魂に転じると考える。
すなわち怨霊である惟喬親王を慰霊して、和霊に転じさせたのが、帯解寺や清和院、染殿院などにある地蔵菩薩ではないかと思うのだ。

 
帯解寺 雪柳


⑨腹帯地蔵と小野小町は同体

帯解寺には小町宮があった。

日本では神仏は習合して信仰されていた。
帯解寺の腹帯地蔵と小野小町は同体であるので、ここに小町宮が祀られているのではないかと私は思った。

帯解寺 小町之宮


⑩小野小町とは小野宮と呼ばれた惟喬親王のことではないか?


小野小町について、井沢元彦さんは惟喬親王が「小野宮」と呼ばれていたことから、惟喬親王の乳母ではないかと説かれた。
しかし私は小野小町とは小野宮と呼ばれた惟喬親王自身のことではないかと考えている。

これについては詳しく「小野小町は男だった」のシリーズで述べたが、簡単にまとめておく。
a古今和歌集には男が女の身になって詠んだ歌が多数ある。
b古今和歌集仮名序はやけに小町が女であることを強調しているが、これは小町が男だからではないか。
c.小野小町は穴のない体で性的に不能であったともいわれているが、穴がない体なのは小町が男だからではないか。
d『古今和歌集』に登場する女性歌人に三国町、三条町、がいる。
三国町は一般には継体天皇の母系氏族・三国氏出身の女性だと考えられているが、
 『古今和歌集目録』は三国町を紀名虎の娘で仁明天皇の更衣としている。
  紀名虎の娘で仁明天皇の更衣とは紀種子のことである。
  また三条町は紀名虎の娘で文徳天皇の更衣だった紀静子のことである。
  三国町が紀種子とすれば、三条町=紀静子なので、三国町と三条町は姉妹だということになる。
  そして紀静子は惟喬親王の母親だった。。
  惟喬親王は三国町の甥であり、三条町の息子なので、三国町・三条町とは一代世代が若くなる。
  そういうことで小町なのではないだろうか。
e花のいろは うつりにけりな いたづらに わがみよにふる ながめせしまに
この歌は縁語や掛詞を用いて二重の意味をもたせた技巧的な歌だとされる。
①花の色はすっかり褪せてしまったなあ。春の長い雨のせいで。
②私の容色はすっかり衰えてしまったなあ。恋の物思いにふけっている間に。
※『色』・・・『視覚的な色(英語のColor)』『容色』
※『世』・・・『世の中』と『男女関係』
※『ながめ』・・・『物思いにふける』『長雨』
しかし、もうひとつ違う意味が隠されているように思える。
③はねずの梅の鮮やかな色はあせ、(「はねず」は移るの掛詞なので、花ははねずの梅ととる)私の御代に(「わが御代に 下(ふ)る」とよむ。)長い天下(「ながめ」→「長雨」→「長天」と変化する。さらに「下(ふ)る」を合わせて「天下」という言葉を導く)がやってきたようだ。

帯解寺に小野小町を祀る小町の宮があるのは偶然とは思われない。
小町の宮の存在は、小野小町=惟喬親王であることを証明するもののように私には思われた。



惟喬親王の乱⑪ 法輪寺 十三詣 『惟隆親王、虚空蔵菩薩より漆の製法を授かる?』 に続きます~

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[2020/09/04 08:58] 惟喬親王の乱 | TB(0) | CM(0)