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惟喬親王の乱⑭ 法輪寺 重陽神事 『惟喬親王、菊のしずくを飲んで不老長寿を得る?』



トップページはこちらです→
惟喬親王の乱① 東向観音寺 『本地垂迹説』  
惟喬親王の乱⑬ 上加茂神社 烏相撲 『紀名虎&藤原良房の世継ぎ争い』   よりつづきます~

「小野小町は男だった」もよかったらよんでみてね。


①菊の被綿

↓ これは何でしょう?

法輪寺 菊の被綿 

菊の被綿(法輪寺)

古には奇数は陽、偶数は陰の数字と考えられていた。
9は一桁の数字では最も大きな数字なので、陽が極まった数字であるとして、9月9日は「重陽の節句」とされていた。
「重陽の節句」は「菊の節句」とも呼ばれている。

重陽の節句の前夜、菊の花に綿をかぶせ、翌朝、綿についた雫で体を撫でると長寿になると言われていた。
これを「菊の被綿(きせわた)」という。
上の写真はこの菊の被綿を撮影したものである。

⓶700歳の長寿を得た菊滋童

なぜ「菊の被綿」の習慣が生じたのだろうか。
それは700歳の長寿を得た菊滋童の伝説がルーツとなっている。

法輪寺 菊滋童の像

菊滋童の像(法輪寺)


周の穆王が寵愛していた少年・菊慈童は、あるとき誤って帝の枕の上を超えてしまい、レッケン山に流刑となった。
穆王は菊滋童に観世音菩薩 普門品というお経にある「具一切功徳慈眼視衆生、福聚海無量是故応頂禮」を毎日唱えるようにと言った。
菊慈童がこれを菊の下葉に書きつけたところ、菊の下葉の露が不老長寿の薬となった。
そしてそれを飲んだ菊滋童は700歳の長寿を得た。

法輪寺 重陽神事  

菊滋童の舞

③ 穆王と菊滋童はBLだった。

菊滋童が穆王の枕を超えた、という点に注意してほしい。
穆王は菊滋童を寵愛していたとあるが、これは単に「かわいがっていた」という意味ではなく、「BLの関係にあった」ということだろう❤

法輪寺 重陽神事 

④♂と♂が重なることはまさしく重陽

陰陽では男は陽、女は陰である。
♂と♂が重なることはまさしく重陽だといえる。
つまりBLは長寿の妙薬ということだと思う。
日本で男色がたしなみとされていたのはそのためではないだろうか?

⑤惟喬親王、不老長寿を得る?

春の法輪寺では十三詣をする習慣がある。
惟喬親王の乱⑪ 法輪寺 十三詣 『惟隆親王、虚空蔵菩薩より漆の製法を授かる?』 


渡月橋より法輪寺を望む 

渡月橋より法輪寺を望む

「十三歳になった男女が法輪寺の虚空蔵菩薩をお参りすると知恵を授かる」といわれ、十三詣は別名を『知恵もらい』ともいう。
なぜ十三詣(知恵もらい)の習慣が生じたのだろうか。
それは平安時代、惟喬親王が法輪寺に籠り、虚空蔵菩薩より漆の製法を授かったという伝説にちなむのではないかと思う。

昔、即身仏となるべく入定する際、漆のお茶を飲んだという。
漆のお茶を飲むことで胃の中に残ったものを吐き出し、また漆の防腐効果で死後腐らない体になると考えられていたそうである。

惟喬親王は漆のお茶を飲んで即身仏となったのか?

そう考えると、法輪寺において重陽神事が行われていることともつながりが説明できそうである。

つまり、永遠の命をえるとは即身仏になるということで、菊児童と惟喬親王はイメージが重ねられているのではないかということである。


法輪寺 重陽神事4  



 法輪寺 重陽神事2

惟喬親王の乱⑮ 根来寺 『根来塗と小野小町伝説は惟喬親王と関係あり?』 に続きます~

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[ 2020/09/08 ] 惟喬親王の乱 | TB(0) | CM(0)

惟喬親王の乱⑬ 上加茂神社 烏相撲 『紀名虎&藤原良房の世継ぎ争い』

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惟喬親王の乱⑫ 正明寺『惟喬親王を厚く信仰した日野の木地師・塗師たち』 よりつづきます~

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上賀茂神社 烏相撲

①重陽とは何か?

陰陽道ではすべてのものは陰陽両面をもつと考える。
例えば人間は男が陽で女が陰。天地では天が陽で地が陰である。
数字では、奇数が陽、偶数が陰である。

古代中国では、1月7日、3月3日、5月5日、7月7日、9月9日は、「陽(月)+陽(日)=陰」になるとして避邪の行事が行われていた。
1月7日、3月3日、5月5日、7月7日、9月9日は五節句といわれ、お祝いをしたりするが、もともとは避邪の行事だったのである。

特に9は一桁の奇数としては一番大きな数であるために「陽の極まった数」と考えられ、「陽の極まった数の重日」ということで「重陽」と呼ばれていた。
日本においても宮中では「観菊の宴」などが開かれ、盛大に祝われた。

上賀茂神社 烏相撲 斎王代と神官

烏相撲を見つめる斎王代

②重陽と烏相撲

重陽の日(9月9日)、上賀茂神社では烏相撲が行われる。
なぜ、重陽の日に相撲が行われるのだろうか?

①で私は次のように書きました。
a.陰陽道ではすべてのものは陰陽両面をもつと考える。
b.人間は男が陽で女が陰。天地では天が陽で地が陰。数字では奇数は陽、偶数は陰。
性別天地天体光度天気生死数字
偶数
太陽奇数

上賀茂神社の烏相撲は男(陽)と男(陽)が取り組みを行うというもので、これはまさしく重陽である。
そういうわけで、重陽の日に烏相撲を行っているのではないかと私は考えている。

③烏相撲は上賀茂神社の親神である松尾の大山咋神に見せるために行われている。

「烏相撲は上賀茂神社の親神である松尾の大山咋神に見せるために行われている」といわれている。

松尾大社 八朔祭 女神輿

松尾大社


つまり、松尾大社のの御祭神・大山咋神は上賀茂神社の御祭神・別雷命の父神ということになる。

こんな伝説がある。

ある日、川から丹塗りの矢が流れてきた。
玉依姫がこれを持ち帰り、枕元に置いて寝るとやがて妊娠し、別雷命が生まれた。

上賀茂神社の御祭神は別雷命で、下鴨神社の夫婦神・玉依姫と賀茂健角身命の御子が別雷命とされる。
つまり丹塗り矢の正体は賀茂健角身命である。
そして玉依姫の父親が松尾大社のの御祭神・大山咋神ということになる。

上賀茂神社 八咫烏 

三本脚の八咫烏は賀茂健角身命の神使とされる。

④紀名虎と藤原良房の相撲によるバトル

松尾大社は虚空蔵法輪寺と近い場所にある。
松尾大社は秦氏の氏神だが、虚空蔵法輪寺がある付近にかつては三光明星尊を祀る葛野井宮(かずのいぐう)があり、秦氏は葛野井宮を尋ねてこの地にやってきたと伝わる。
虚空蔵法輪寺は秦氏と関係のある寺である可能性が高い。

そして、この虚空蔵法輪寺には紀氏の母親を持つ惟喬親王の伝説が伝えられている。

平安時代、この寺に惟喬親王が籠もったとき、虚空蔵菩薩が惟喬親王に漆の製法を授けたというのだ。

「なんで紀氏の母親を持つ惟喬親王?秦氏じゃないの?」と思われるだろう。

秦氏創建と伝えられる伏見稲荷大社はもともと紀氏の神を祀る神社であったのを、秦氏が土地を奪ったといわれる。
今でも紀氏の氏神を祀る藤森神社の祭では伏見稲荷大社に乗り込んで「土地返せ、土地返せ」とはやし立てるそうである。
松尾大社・虚空蔵法輪寺のあるあたりも、もともと紀氏の土地だったのが、秦氏に奪われたのかもしれない。

 藤森神社 藤森祭 神輿

藤森神社

もしそうだとしたら、オモシロイことになる。

文徳天皇には紀静子との間に惟喬親王が、藤原明子との間に惟仁親王(清和天皇)があった。
平家物語などに、紀静子の父・紀名虎と藤原明子の父・藤原良房が、いずれの孫を皇太子にするかで対立し、高僧の祈祷合戦・相撲などを行った結果、藤原良房が勝利したと記されている。

紀名虎は847年に亡くなっており、惟仁親王(清和天皇)が生まれたのが850年なので、これは史実ではなく、フィクションなのだが。

「烏相撲は上賀茂神社の親神である松尾の大山咋神に見せるために行われている」といわれてることを思い出してほしい。

紀名虎または惟喬親王は、松尾の大山咋神とイメージが重ねられているのではないだろうか。

つまり、烏相撲は、紀名虎または惟喬親王に、世継ぎを決める相撲で、あなた方は負けたんだよ、ということを思い出させるために行われているのかもしれない。

上賀茂神社 烏相撲 斎王代 
烏相撲を見つめる斎王代

上賀茂神社 烏相撲 鳥居 


惟喬親王の乱⑭ 法輪寺 重陽神事 『惟喬親王、菊のしずくを飲んで不老長寿を得る?』 に続きます~

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[ 2020/09/07 ] 惟喬親王の乱 | TB(0) | CM(0)

惟喬親王の乱⑫ 正明寺『惟喬親王を厚く信仰した日野の木地師・塗師たち』



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「小野小町は男だった」もよかったらよんでみてね。


正明寺 万灯会 
①後水尾天皇の勅願寺

正明寺(滋賀県蒲生郡日野)の万灯会(8月5日から8月15日まで。行かれる際は確認をお願いします。)をk子と見に行った。

観光客は私とk子のふたりだけだった。
本堂から読経の声が聞こえてくる。
本堂の中をうかがうと、20人くらいの人々が正座をして読経を聞いていた。
檀家さんたちが集まってお盆の先祖供養をしてもらっているのだろう。
どうやら正明寺の万灯会はご近所の方々が先祖を迎えるためのもので、観光客用のイベントではなさそうだった。

それでも日野の方々は我々のような異邦人にも温かかった。
ひとりのご婦人がやってきて「どうぞ」といって熱いお茶をすすめてくださり、この寺の創建などについて教えてくださったのだ。
(ありがとうございました!) 
炎天下だが、熱いお茶を飲むとなぜかそのあと体が涼しく感じられるから不思議だ。

ご婦人の話によると、正明寺の由緒は次のようなものだった。

飛鳥時代、聖徳太子が創建したと伝わる。
戦国時代、戦火を受けて消失したが、江戸時代に黄檗宗の寺として再興され、後水尾天皇の勅建寺となった。 

正明寺 魚梆 

黄檗宗の総本山は京都宇治にある萬福寺である。
萬福寺は魚梆(ぎょほう)が有名だが、正明寺にも同様の魚梆があった。
萬福寺のはこちら→ 

⓶日野の木地師・塗師に信仰された惟喬親王

またご婦人は日野の町の歴史についても教えてくださった。
それはだいたい次のような話だった。

1533年、日野領主の蒲生氏が中野城を築いた際、日野は城下町として整備された。
日野には木地師や塗師が招へいされて住み着き、漆器の産地として発展した。

当時の日野には『日野市』という市場町があった。
日野市は上の市と下の市から成り、上の市には世神(渡世の神)である惟喬親王が、下の市では市神が祀られていたのだという。

現在、日野町松尾・井林神社の境内に、惟喬親王をお祀りする世(せ)神社があるそうだ。
高さ1mほどの石室であるという。 
世神社という名前は惟喬親王が世神であるところからくる名前なのかもしれない。

世神社はもともと上市淅上(かみのいち・かしあげ)の辻(現・大窪)にあり(『近江日野町誌』)、「日野椀」塗師屋が厚く信仰していたという。
この世神社が上の市に祀られていた世神・惟喬親王のことなのかもしれない。


渡世とは「この世で生きていくこと。生活すること。世渡り。 生業。」などの意味を持つ。
よくわからないが、現生利益の神、ということだろうか。

市神とは市の守護神として祀られる神の事で、市姫とも呼ばれる。

世神社は1625年、綿向神社に遷宮し、さらに1813年に綿向神社から井林神社へ遷宮した。(「綿向神社文書」)。

日野商人はしだいに「合薬(あわせぐすり)」を主力商品として扱うようになり、1756年に町が大火に襲われたことで、残念ながら日野椀の製造はほぼ消滅したという。

日野の塗師屋仲間が伝えてきた惟喬親王像の画軸一幅が、第十代「塗師安」により近江日野商人館に寄託されているということである。

木地師資料館 惟喬親王像2 

木地師資料館の惟喬親王像

③芦谷神社の山味噌伝説

また、日野町原の芦谷神社には次のような伝説が伝わっているという。

惟喬親王は追手に追われて鈴鹿の山伝いに平子・熊野・西明寺を経て、君ヶ畑へ身を隠した。
その途中、原の村人が芦谷神社で山の神の集まりをしているところに立ち寄られた。
村人たちは、親王一行を山味噌でもてないした。
原の山味噌は、木桶に味噌と豆腐を交互に詰めて作る。
惟喬親王はこの山味噌を召し上がってたいそう気に入り『この味噌は子々孫々に伝えるように』とおっしゃって去っていかれた。


またしても、惟喬親王が登場したw。 
この日は残念ながらご婦人に教えていただいた世神社、芦谷神社を参拝することはできなかったのだが、いずれ参拝してみたいと思う。
 
 正明寺 万灯会2

④上の市で惟喬親王が祀られていた理由

惟喬親王は巻物が転がるのを見て木地師の用いる轆轤(ろくろ)を発明したとか、京都の法輪寺に籠って虚空蔵菩薩から漆の製法を授かったなどという伝説がある。

惟喬親王の乱③木地師の里 『世継争いに敗れた皇子』 
惟喬親王の乱⑪ 法輪寺 十三詣 『惟隆親王、虚空蔵菩薩より漆の製法を授かる?』 

そういったことから、惟喬親王は木地師の祖とされ信仰された。
また木地師が作るものは漆器なので、塗師たちも惟喬親王を信仰していたのだろう。
上の市で惟喬親王が祀られていたのはそのためだと思う。 


木地師資料館 惟喬親王像  

木地師資料館の惟喬親王像
下の女性と男性が轆轤を使って器を作っている。


⑤御霊として祀られた惟喬親王

惟喬親王(844- 897)は文徳天皇の第一皇子で母親は紀名虎の娘の静子だった。
文徳天皇には藤原良房の娘・明子との間に第四皇子の惟仁親王(のちの清和天皇)もあった。
文徳天皇は長子の惟喬親王を皇太子にしたいと考えており、これを源信に相談しました。
源信は藤原良房を憚って文徳天皇をいさめたという。
こうして世継ぎ争いに敗れた惟喬親王は出家して小野の地に隠棲し、のちに大皇器地祖神社(おおきみきじそじんじゃ)、玄武神社、筒井神社などに御霊として祀られた。 
 
御霊とは怨霊が祟らないように慰霊されたもののことをいう。
怨霊とは政治的陰謀によって不幸な死を遂げた者のことで、疫病や天災や怨霊の仕業で引き起こされると考えられていた。
惟喬親王はかつて怨霊として畏れられていたということだろう。

ウィキペディア「祟り神」によれば「祟り神(たたりがみ)は、荒御霊であり畏怖され忌避されるものであるが、手厚く祀りあげることで強力な守護神となると信仰される神々である」
と記されている。

⑥清和天皇にイメージを重ねた後水尾天皇

正明寺を再興したのは後水尾天皇だったが、後水尾という諡号は遺諡(遺詔によって自ら決める追号)によって贈られたものである。
つまり後水尾天皇という諡号は後水尾天皇が望んでおくられたということだが、水尾とは清和天皇の異称である。

徳川光圀の『西山随筆』には、「兄を押しのけて即位したことが清和天皇と同様であることからこの諡号を自ら選んだのだろう」とある。

後水尾天皇には良仁親王という異母兄がおり、豊臣秀吉の後押しを受けて皇位継承者とされていた。
ところが秀吉が死亡して徳川家康が政治の実権を握ると、家康の後押しによって後水尾天皇が皇位継承者とされた。

後水尾天皇は自らを清和天皇のイメージとかさね、清和天皇との世継ぎ争いに敗れた惟喬親王を祀り上げることで自らの守護神にしようと考えたのではないだろうか。
そのため惟喬親王に対する信仰の強い日野の正明寺を勅願寺としたのではないかと思ったりする。 

こんなことを考えていると、正明寺にともされたたくさんの灯りは惟喬親王を慰霊するためのもののように思えてきた。


正明寺 万灯会3



 
惟喬親王の乱⑬ 上加茂神社 烏相撲 『紀名虎&藤原良房の世継ぎ争い』に続きます~

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[ 2020/09/06 ] 惟喬親王の乱 | TB(0) | CM(0)

惟喬親王の乱⑪ 法輪寺 十三詣 『惟隆親王、虚空蔵菩薩より漆の製法を授かる?』

 
渡月橋

①十三詣


関西では旧暦の3月13日ごろ、数え年13歳になった男の子・女の子が虚空蔵菩薩にお詣りする『十三詣』の習慣がある。
京都の『十三詣』は嵐山の虚空蔵法輪寺に参拝する。
おそらく法輪寺が『十三詣』発祥の地ではないかと思ったりするが、どうなんだろう?

渡月橋 しだれ桜 
渡月橋

②知恵もらい

十三詣は別名を『知恵もらい』という。

虚空蔵菩薩は知恵を授けてくれる神として信仰されていた。
空海が虚空蔵求聞持法を行って抜群の記憶力を手に入れたという話は有名だ。
また惟喬親王がここ法輪寺に籠り、虚空蔵菩薩より漆の製法を授かったという伝説もある。

おそらく十三詣(知恵もらい)の習慣は惟喬親王のこの伝説をルーツとするのではないかと思う。

渡月橋より法輪寺を望む 

渡月橋より法輪寺を望む

③決して後ろを振り返ってはいけない!

十三詣を終えて渡月橋を渡る際、「決して後ろを振り返って見てはいけない。」と言われている。
うしろを振り返って見ると、せっかく虚空蔵菩薩より授かった知恵を失ってしまうというのだ。

渡月橋 桜2 
渡月橋

④法輪寺はあの世

有名な記紀神話を思い出す。

イザナギは死んだイザナミを迎えに黄泉の国へ行き「愛しい妻よ、もどってきておくれ」と嘆願した。
イザナミは「黄泉の大王に相談してきます。その間、決して振り返って私の姿を見ないでね。」と言った。
しかしイザナギは我慢できなくなって振り返りイザナミの姿を見てしまう。(ダメな男だなあ~)
イザナミの体は腐り、蛆がわいていた。
それを見たイザナギは恐ろしくなって逃げだした。(ほんっっっっとうにダメな男だなあ~)
イザナミは「よくも私の姿を見たな!」と言って追いかけてきたが、イザナギはなんとか逃げ切って黄泉平坂に大きな石を置いてあの世とこの世の境を塞いだ。


古の人々は法輪寺はあの世、桂川を隔てた対岸をこの世に見立てていたのではないだろうか。
それで渡月橋を渡る際、「決して後ろを振り返って見てはいけない。」と言われているのではないかと思う。

すると渡月橋はあの世とこの世を繋ぐ橋で、渡月橋の下を流れる桂川は三途の川?

渡月小橋 桜 
渡月小橋

大国主は根の国を振り返らずこの世へ戻った?

また、大国主が根の国(黄泉の国と同一のものだと考えられている)を訪れるという話がある。

大国主が根の国を訪れ、根の国の大王・スサノオに様々な試練を与えられる。
しかし最終的には大国主はスサノオの太刀と弓矢を手に入れ、スサノオの娘・スセリヒメを連れて根の国を逃げ出した。
スサノオは逃げる大国主に「お前が持つ大刀と弓矢で従わない八十神を追い払え。そしてお前が大国主、また宇都志国玉神(ウツシクニタマ)になって、スセリビメを妻として立派な宮殿を建てて住め。この野郎め」と言った。


おそらくスサノオは根の国をふりかえらずにこの世へ戻ってきたのだろう。
それでスサノオは太刀と弓矢とスセリヒメを手に入れたばかりか、スサノオから知恵も授かったのだと考えられる。

法輪寺の十三詣はこれを再現した行事なのかもしれない。

渡月橋

渡月橋

⑥ギリシャ神話・日本神話に共通する「冥界で振り返ってはいけない」

ギリシャ神話には冥界にまつわるこんな話もある。

オルフェイスの妻・エウリュディケーは毒蛇に噛まれて亡くなってしまい、オルフェウスは妻を連れ戻すため冥界にいった。
冥界の王・ハーデースは「エウリュディケーを連れ帰ってもいいが、決して後ろを振り返ってはいけない」といった。
しかしオルフェイスは本当と妻がついてきているのか心配になり、後ろを振り返ってしまったので、妻を連れ帰ることができなかった。


記紀神話のイザナギ・イザナミの話とそっくりである。

日本はシルクロードの東の到達点だった。
古代ギリシャのパルテノン神殿と同じエンタシスの柱が法隆寺や唐招提寺にもある。
記紀神話はギリシャ神話の影響を受けて創作されたものなのかもしれない。

⑦惟喬親王と漆

それにしてもなぜ法輪寺には「惟喬親王が虚空蔵菩薩から漆の製法を授かった」などという伝説が伝えられているのだろうか。

惟喬親王の乱③木地師の里 『世継争いに敗れた皇子』 
↑ こちらの記事に私はこんなことを書いた。

世継ぎ争いに敗れた惟喬親王は君ヶ畑に隠棲し、法華経の軸が転がるのを見て轆轤を発明。
そしてこれをこの土地の住民に伝え木地師が生まれた。


木地師がつくる代表的なものといえば茶碗などの漆器で、漆器には漆を塗る。
それで惟喬親王が虚空蔵菩薩より漆の製法を授かったという伝説が生じたのかもしれない。

ちなみに法輪寺ではこの伝説にちなみ、毎年11月13日に漆祭を行っているそうである。(残念ながら行ったことがない。)

法輪寺 ライトアップ

法輪寺

⑧惟喬親王と髑髏本尊、即身仏


しかし、ほんとうにそれだけだろうか?

惟喬親王は轆轤を発明したというが、親王という高い身分の方が本当に轆轤を発明したとは思えない。
また轆轤にはろくろ首のイメージがある。
蘇我入鹿、玄昉、平将門などの首が飛んだという伝説があるが、ろくろ首は飛行する首のアレンジバージョンの様にも思える。

そして首に漆を塗れば、真言立川流でもちいたとされる髑髏本尊となる。

また即身仏となるために入定する際、漆のお茶を飲んだと言われる。
漆のお茶を飲むことで、胃の中のものをはきだし、さらに死後の防腐効果もあったとされる。

惟喬親王は髑髏本尊や即身仏と関係があるように思えてならない。

法輪寺 ライトアップ

法輪寺


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[ 2020/09/05 ] 惟喬親王の乱 | TB(0) | CM(0)

惟喬親王の乱⑩ 帯解寺『帯解寺に小町の宮があるのはなぜ?』

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惟喬親王の乱⑨ 十輪寺 『惟喬親王と六歌仙』  よりつづきます~

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帯解寺 本堂 桜

①腹帯地蔵

帯解寺の受付で「参拝したいのですが。大人2名です。」と告げた。
すると受付の女性に「安産祈願はなさいますか」と尋ねられた。
私の隣には友人のk子がいる。
夫婦だと勘違いされたのだ。
私はk子のことが好きで、いつか人生のパートナーになってくれるといいなあと思っているが、まだ彼女にそれを打ち明けたことはない。(したがって彼女がどう思っているかはわからないw)

「い・・・いや、今日は参拝のみでお願いします。」私は若干どもり気味で答えた。

堂内に入ると安産祈願の祈祷が行われている最中で、複数のカップルが地蔵菩薩に手を合わせていた。
ここ帯解寺は安産祈願のお寺として厚く信仰されているのだ。

やがて祈祷が終わると、カップルたちは地蔵菩薩が安置された内陣へと入っていった。
私と友人も僧侶の方に手招きされて内陣に入った。

帯解寺 桜


帯解寺には次のような伝説がつたえられている。

文徳天皇の御妃・染殿皇后(藤原明子)が永い間お子様にめぐまれず、大変悩んでおられた。
あるとき、春日明神のお告げがあり、勅使をたてて帯解子安地蔵菩薩にお祈りされたところ、まもなく御懐妊された。
こうしてお生まれになったのが惟仁(これひと)親王(清和天皇)である。
文徳天皇はたいへん、お喜びになって858年春、更に伽藍を御建立になった。

帯解地蔵の像高は182.6cm。
左手に宝珠、右手に錫杖を執り、左足を踏み下げて岩座上に坐しておられた。
腹前に裳の上端の布や結び紐が表されているところから『腹帯地蔵』と呼ばれている。

②同様の伝説が十臨寺・清和院・染殿院にも。

これと同様の話はすでにみなさんご存じである。
そう、京都の清和院・染殿院・十輪寺にも同様の話が伝えられているのだった。

惟喬親王の乱⑥ 染殿院 『腹帯地蔵は惟喬親王のイメージ?』 
惟喬親王の乱⑧ 清和院 『惟喬親王にろくろ首のイメージ?』 
惟喬親王の乱⑨ 十輪寺 『惟喬親王と六歌仙』 

いずれも染殿皇后に安産をもたらしたとされる地蔵菩薩をお祀りしている。

帯解寺 門 桜

③文徳天皇は惟仁親王(清和天皇)を皇太子にしたくなかった。

藤原明子が惟仁親王(清和天皇)を産んだことを、文徳天皇が喜んだかどうかは疑問である。
というのは、文徳天皇は惟仁親王ではなく、紀静子が産んだ長子の惟喬(これたか)親王を皇太子にしたいと考え、源信に相談しているのだ。
源信は藤原明子の父・藤原良房を憚って「それはやめたほうがいい」と諌めたとされる。

平家物語には紀名虎(紀静子の父)と藤原良房(藤原明子の父)が、どちらの孫を立太子させるかでバトルを繰り広げたようすが記されている。
高僧の祈祷合戦や相撲の勝敗などを繰り返した末に藤原良房が勝利したとある。

実際には紀名虎は惟仁親王が生まれる前に亡くなっているので、平家物語の記述は事実ではない。
しかし紀氏と藤原氏が権力争いをしていたことは事実だと思う。

帯解寺 門 桜 

政治的に不幸だった惟喬親王は玄武神社・大皇器地祖神社・筒井神社などに御霊として祀られていることも、すでにご紹介した。

惟喬親王の乱③木地師の里 『世継争いに敗れた皇子』 
惟喬親王の乱④玄武神社『胴体がなく首の長い神』 

御霊とは怨霊が祟らないように慰霊されたもののことである。
つまり惟喬親王は怨霊だったのだ。
怨霊とは政治的陰謀によって不幸な死を迎えた者のことで、疫病の流行や天災などは怨霊のしわざでひきおこされると考えられていた。

⑤十輪寺・清和院・染殿院・帯解寺の地蔵菩薩は惟喬親王の怨霊封じ込めの像?

梅原猛さんは「聖徳太子は怨霊であり、聖徳太子等身大の像と伝わる救世観音は聖徳太子の怨霊封じ込めの像である」とおっしゃっている。
聖徳太子が怨霊になったのは、彼の子孫は全員斑鳩寺(法隆寺)で首をくくって自害したためであるという。


惟喬親王の乱⓶法隆寺 『救世観音は聖徳太子の怨霊封じ込めの像?』 

これと同様、十輪寺・清和院・染殿院・帯解寺の地蔵菩薩は惟喬親王の怨霊封じ込めの像ではないだろうか。
世継争いに敗れた惟喬親王は怨霊になる要素を持っている。


⑥怨霊は祀り上げれば和魂に転じる

陰陽道では荒ぶる怨霊は十分に祀ればご利益を与えてくださる和魂に転じると考える。
すなわち怨霊である惟喬親王を慰霊して、和霊に転じさせたのが、帯解寺や清和院、染殿院などにある地蔵菩薩ではないかと思うのだ。

 
帯解寺 雪柳


⑨腹帯地蔵と小野小町は同体

帯解寺には小町宮があった。

日本では神仏は習合して信仰されていた。
帯解寺の腹帯地蔵と小野小町は同体であるので、ここに小町宮が祀られているのではないかと私は思った。

帯解寺 小町之宮


⑩小野小町とは小野宮と呼ばれた惟喬親王のことではないか?


小野小町について、井沢元彦さんは惟喬親王が「小野宮」と呼ばれていたことから、惟喬親王の乳母ではないかと説かれた。
しかし私は小野小町とは小野宮と呼ばれた惟喬親王自身のことではないかと考えている。

これについては詳しく「小野小町は男だった」のシリーズで述べたが、簡単にまとめておく。
a古今和歌集には男が女の身になって詠んだ歌が多数ある。
b古今和歌集仮名序はやけに小町が女であることを強調しているが、これは小町が男だからではないか。
c.小野小町は穴のない体で性的に不能であったともいわれているが、穴がない体なのは小町が男だからではないか。
d『古今和歌集』に登場する女性歌人に三国町、三条町、がいる。
三国町は一般には継体天皇の母系氏族・三国氏出身の女性だと考えられているが、
 『古今和歌集目録』は三国町を紀名虎の娘で仁明天皇の更衣としている。
  紀名虎の娘で仁明天皇の更衣とは紀種子のことである。
  また三条町は紀名虎の娘で文徳天皇の更衣だった紀静子のことである。
  三国町が紀種子とすれば、三条町=紀静子なので、三国町と三条町は姉妹だということになる。
  そして紀静子は惟喬親王の母親だった。。
  惟喬親王は三国町の甥であり、三条町の息子なので、三国町・三条町とは一代世代が若くなる。
  そういうことで小町なのではないだろうか。
e花のいろは うつりにけりな いたづらに わがみよにふる ながめせしまに
この歌は縁語や掛詞を用いて二重の意味をもたせた技巧的な歌だとされる。
①花の色はすっかり褪せてしまったなあ。春の長い雨のせいで。
②私の容色はすっかり衰えてしまったなあ。恋の物思いにふけっている間に。
※『色』・・・『視覚的な色(英語のColor)』『容色』
※『世』・・・『世の中』と『男女関係』
※『ながめ』・・・『物思いにふける』『長雨』
しかし、もうひとつ違う意味が隠されているように思える。
③はねずの梅の鮮やかな色はあせ、(「はねず」は移るの掛詞なので、花ははねずの梅ととる)私の御代に(「わが御代に 下(ふ)る」とよむ。)長い天下(「ながめ」→「長雨」→「長天」と変化する。さらに「下(ふ)る」を合わせて「天下」という言葉を導く)がやってきたようだ。

帯解寺に小野小町を祀る小町の宮があるのは偶然とは思われない。
小町の宮の存在は、小野小町=惟喬親王であることを証明するもののように私には思われた。



惟喬親王の乱⑪ 法輪寺 十三詣 『惟隆親王、虚空蔵菩薩より漆の製法を授かる?』 に続きます~

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[ 2020/09/04 ] 惟喬親王の乱 | TB(0) | CM(0)

惟喬親王の乱⑨ 十輪寺 『惟喬親王と六歌仙』


トップページはこちらです→惟喬親王の乱① 東向観音寺 『本地垂迹説』  
惟喬親王の乱⑧ 惟喬親王にろくろ首のイメージ?  よりつづきます~

「小野小町は男だった」もよかったらよんでみてね。

十輪寺 庭 

十輪寺 三方普感庭 由来 
 

①文徳天皇が藤原明子の世継ぎ誕生を祈願したというのは藤原氏の嘘。

十輪寺(京都市西京区)は文徳天皇が藤原明子の世継ぎ誕生を祈願した場所と伝わる。
しかしこの話は疑わしい。

文徳天皇には紀静子との間に長子の惟喬親王(これたかしんのう)、藤原良房の娘・藤原明子との間に惟仁親王(これひとしんのう/のちの清和天皇)があった。
文徳天皇は惟喬親王を皇太子にしたいと考え、源信に相談している。
文徳天皇が世継ぎにしたいと考えていたのは藤原明子所生の惟仁親王ではなく、紀静子所生の惟喬親王だったのだ。
源信は当時の権力者・藤原良房を憚って文徳天皇を諌めたことで、惟仁親王が皇太子になったのだが。

子供が無事に生まれてくることを願わない父親などいないかもしれないが、伝説では「文徳天皇が世継誕生を祈願した」とある。
これは「文徳天皇が藤原明子が生んだ子を世継、すなわち皇太子にしたいと望んだ」ということである。
藤原明子は惟仁親王を産み、惟仁親王は生まれたばかりで文徳天皇の皇太子になった。

しかし、実際には、文徳天皇は惟仁親王ではなく惟喬親王を皇太子にしたいと考えていたのだ。

十輪寺は文徳天皇の勅願所から藤原北家の菩提寺になったとされるところから考えて
「文徳天皇が藤原明子の世継ぎ誕生を祈願した」というのは藤原氏がでっちあげた嘘だと考えるのが妥当だと思う。

平家物語には藤原良房(明子の父・惟仁親王の外祖父)と紀名虎(紀静子の父・惟喬親王の外祖父)がいずれの孫を立太子させるかでもめ、高僧の祈祷合戦や相撲などのバトルを繰り返した結果、藤原良房が勝利したと記されている。
この物語は史実ではない。
というのは、惟仁親王が生まれたとき、紀名虎はすでに亡くなっていたからである。
しかし、藤原氏と紀氏に確執があったことは確かだろう。

十輪寺 しだれ桜

⓶腹帯地蔵

十輪寺の本堂は鳳輦(ほうれん)の形をしている。
鳳輦(ほうれん)は、「屋根に鳳凰の飾りのある天子の車」「天皇の乗り物」という意味で、鳳凰の飾りのある神輿のことを鳳輦という。

この鳳輦の形をした本堂の中に、伝教大師作と伝わる地蔵菩薩が祀られている。

この地蔵菩薩は腹部に腹帯をまいておられる。
染殿皇后(藤原明子)がこの地蔵菩薩に祈願して惟仁親王(清和天皇)を御産みになられたところから、腹帯地蔵尊とも呼ばれ、子授け安産にご利益があるとして信仰されている。

私たちは藤原明子が地蔵菩薩に祈願して惟仁親王を産んだという話を、以前に何度か聞いている。
そう、染殿院や清和院も同様の寺だった。

惟喬親王の乱⑥ 染殿院の腹帯地蔵は惟喬親王のイメージ? 
惟喬親王の乱⑧ 惟喬親王にろくろ首のイメージ? 

この延命地蔵は染殿院や清和院の地蔵菩薩と同じく、惟喬親王のイメージが重ねられていると思う。
今も惟喬親王を偲んで行われている雲ヶ畑の松上げは地蔵盆に行われており、惟喬親王には地蔵菩薩のイメージがある。
惟喬親王の乱⑤惟喬親王の本地仏は地蔵菩薩? 


そして藤原氏は地蔵菩薩を惟喬親王にみたて、「あなたが身をひいて皇太子になるのを諦めてくれれば、藤原明子が生んだ皇子が皇太子になれる」と祈願したのではないかと思う。

⓶在原業平と紀氏、藤原氏の関係

晩年の在原業平がここに隠棲していたといい、十輪寺は別名を「なりひら寺」という。

業平は惟喬親王の寵臣だった。
また業平は紀静子(惟喬親王の母)の兄・紀有常の娘を妻としていて完全に紀氏側の人間だった。

十輪寺は藤原北家の菩提寺だったということを思い出してほしい。
業平は惟喬親王に仕えており、惟喬親王は藤原氏と確執があるのに、在原業平が藤原北家の菩提寺に隠棲したりするだろうか。

この伝説も怪しいと思う。

③十輪寺に残る在原業平のおもかげは偽りか?

十輪寺の回廊で囲まれた中庭には美しいしだれ桜があり、なりひら桜と呼ばれている。

十輪寺 しだれ桜2 
しかし江戸時代後期に描かれた都名所図会 旧十輪寺風景には桜は描かれていない。
http://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/kyoto/page7t/km_01_332.html
この桜は推定樹齢200年ということだが、それ以前には桜はなかったのだろう。
この桜がなりひら桜と呼ばれているのは十輪寺が別名をなりひら寺というところからくるものだと思う。
境内にはなりひら楓、業平の墓、業平が塩焼きを楽しんだという塩釜もある。

十輪寺 在原業平の墓 

在原業平の墓

十輪寺 塩釜 
塩釜

しかし、⓶で述べたように、在原業平が藤原氏の菩提寺に隠棲したとは考えにくい。
ただし、もともと十輪寺は紀氏または在原業平の邸宅であり、のちに藤原氏の所有になった可能性はある。

十輪寺 業平紅葉 

十輪寺 業平紅葉


④惟喬親王と六歌仙

十輪寺には六歌仙の絵像が飾られていた。


十輪寺 六歌仙 


六歌仙とは古今和歌集仮名序で名前をあげられた六人の歌人、僧正遍照・在原業平・大友黒主・喜撰法師・文屋康秀・小野小町のことをいう。

高田祟史さんは六歌仙とは怨霊であり藤原氏と敵対していた6人の歌人であると指摘された。
業平が藤原氏と敵対していた理由については記したので、残り5人について記しておこう。

遍照は桓武天皇の孫だが、父の良岑安世が臣籍降下した。遍照は俗名を良岑宗貞といった。
彼は藤原良房にすすめられて出家したというが、出家の理由を誰にも話さなかったという。

大友黒主は大伴黒主と記されることもあり、私は大伴家持と同一人物だと考えている。
私流 トンデモ百人一首 6番 …『大伴家持、白い神から黒い神に転じる?』 
大伴家持は藤原種次暗殺事件の首謀者とされ、当事すでに亡くなっていたのだが、死体が掘り出されて流罪となった。

喜撰法師は紀仙法師で、紀有常またはその父紀名虎のことではないかといわれている。
紀名虎は惟喬親王の母親・紀静子の父である。
また紀有常は紀静子の兄であり、在原業平と同様、惟喬親王の寵臣であった。

文屋康秀の文屋は分室と記されることもあり、文室宮田麻呂の子孫かもしれない。
文室宮田麻呂は謀反を企てたとして流罪となったが、死後無罪であることがわかって863年、神泉苑の御霊会で慰霊されている。

小野小町について、私は小野宮と呼ばれた惟喬親王のことだと考えている。
これについては詳しく「小野小町は男だった」のシリーズで述べたが、簡単にまとめておく。
a古今和歌集には男が女の身になって詠んだ歌が多数ある。
b古今和歌集仮名序はやけに小町が女であることを強調しているが、これは小町が男だからではないか。
c.小野小町は穴のない体で性的に不能であったともいわれているが、穴がない体なのは小町が男だからではないか。
d『古今和歌集』に登場する女性歌人に三国町、三条町、がいる。
三国町は一般には継体天皇の母系氏族・三国氏出身の女性だと考えられているが、
 『古今和歌集目録』は三国町を紀名虎の娘で仁明天皇の更衣としている。
  紀名虎の娘で仁明天皇の更衣とは紀種子のことである。
  また三条町は紀名虎の娘で文徳天皇の更衣だった紀静子のことである。
  三国町が紀種子とすれば、三条町=紀静子なので、三国町と三条町は姉妹だということになる。
  そして紀静子は惟喬親王の母親だった。。
  惟喬親王は三国町の甥であり、三条町の息子なので、三国町・三条町とは一代世代が若くなる。
  そういうことで小町なのではないだろうか。
e花のいろは うつりにけりな いたづらに わがみよにふる ながめせしまに
この歌は縁語や掛詞を用いて二重の意味をもたせた技巧的な歌だとされる。
①花の色はすっかり褪せてしまったなあ。春の長い雨のせいで。
②私の容色はすっかり衰えてしまったなあ。恋の物思いにふけっている間に。
※『色』・・・『視覚的な色(英語のColor)』『容色』
※『世』・・・『世の中』と『男女関係』
※『ながめ』・・・『物思いにふける』『長雨』
しかし、もうひとつ違う意味が隠されているように思える。
③はねずの梅の鮮やかな色はあせ、(「はねず」は移るの掛詞なので、花ははねずの梅ととる)私の御代に(「わが御代に 下(ふ)る」とよむ。)長い天下(「ながめ」→「長雨」→「長天」と変化する。さらに「下(ふ)る」を合わせて「天下」という言葉を導く)がやってきたようだ。

そして六歌仙のうち、在原業平・喜撰法師(=紀有常または紀名虎?)は惟喬親王の歌会に参加しており
惟喬親王が遍照に送った歌がある。
また小野小町(=惟喬親王?)は遍照や文屋康秀と交流があった。
大伴黒主をのぞき、六歌仙は惟喬親王と関係があった人物なのである。

彼らは惟喬親王を担ぎ上げてクーデターを企てていたとする説もある。
鳳輦(ほうれん)型の本堂に祀られた地蔵菩薩と、クーデターの中心に祀り上げられたかもしれない惟喬親王のイメージがますます重なってくる。

十輪寺 渡り廊下 

惟喬親王の乱⑩ 帯解寺『帯解寺に小町の宮があるのはなぜ?』 に続きます~

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[ 2020/09/03 ] 惟喬親王の乱 | TB(0) | CM(0)

惟喬親王の乱⑧ 清和院 『惟喬親王にろくろ首のイメージ?』




トップページはこちらです→惟喬親王の乱① 東向観音寺 『本地垂迹説』  
惟喬親王の乱⑥ 染殿院の腹帯地蔵は惟喬親王のイメージ?  よりつづきます~

「小野小町は男だった」もよかったらよんでみてね。


土蜘蛛の塚

①土蜘蛛の塚

上の写真は惟喬親王の乱① 東向観音寺 『本地垂迹説』  でご紹介した東向観音寺にある土蜘蛛の塚である。
東向観音寺は菅原道真を祀る北野天満宮の神宮寺で、北野天満宮参道の西に面してある。

東向観音寺 舞妓

東向観音寺の門前には「天満宮御本地佛 十一面観世音菩薩」と刻まれた石碑がたてられており、
門に吊るされた赤い提灯にも「天満宮御本地佛」と記されている。

本地佛とは、本地垂迹説からくる言葉である。

本地垂迹説とは「日本古来の神々は仏教の神々が衆上を救うため仮にこの世に姿を現したものである」とする考え方のことで、
日本の神仏習合のベースとなる考え方である。

そして日本の神々のもともとの正体である仏教の神々のことを本地仏、仏教の神々が衆上を救うために仮にこの世に姿をあらわした存在である日本の神々のことを権現、化身などといった。

例えば天照大神の本地仏は大日如来であるとか、市杵島姫は弁才天の権現であるなどとして同一視された。

天満宮とは北野天満宮の御祭神・菅原道真のことである。
つまり「天満宮御本地仏 十一面観世音菩薩」とは「天満宮=菅原道真の本地仏である十一面観音をお祭りしています。」というような意味である。

寺の伝説では、この十一面観音は菅原道真が刻んだと伝えている。
しかし私は道真が仏像を刻んだというのは疑わしいと考えている。
古には著作権という考え方はなかった。
実際には仏師が十一面観音を刻んだのだが、「道真の怨霊が煩悩をすてて成仏し十一面観音になった」という意味で
「道真が十一面観音を刻んだ」と伝えているのではないかと思ったりする。

⓶清和院

もともと土蜘蛛の塚(蜘蛛塚)は、東向観音寺ではなく清和院の近くにあった。
清和院は北野天満宮の東南東400mほどのところにある。
拾遺都名所図会←こちらは『拾遺都名所図会』に描かれた清和院と蜘蛛塚である。
蜘蛛塚は画面向かって左下の桃畑の中にある。
『拾遺都名所図会』は1787年に発刊されたもので、当事蜘蛛塚は清和院門前の桃畑の中にあったことがわかる。
(蜘蛛塚は山伏塚とも呼ばれていたそうである。)
少しわかりにくいが、葛城一言主神社の土蜘蛛の塚と呼ばれるような石のようにも見える。(惟喬親王の乱⑦土蜘蛛とは首のない人間のことだった? 

一言主神社 土蜘蛛の塚 
一言主神社 土蜘蛛の塚

明治期、清和院前の蜘蛛塚の発掘調査をしたところ燈篭の火袋が出土した。
それをある人が貰い受けて庭に置いていたが、よくないことが次々に起こり 蜘蛛の祟りだという噂がたった。
そのため、その火袋は東向観音寺に奉納されたのだという。

『拾遺都名所図会』に描かれた清和院は広そうに見えるが、現在はコンクリート造の小さなお堂と庫裏があるだけである。
また桃畑はマンションや民家となって古の面影はないし蜘蛛塚もない。

清和院 

清和院

清和院という寺名から、染殿院がかつて「清和院釈迦堂」とも呼ばれていたというのを思い出す。
惟喬親王の乱⑥ 染殿院の腹帯地蔵は惟喬親王のイメージ? 

染殿院という寺名は藤原明子が染殿后と呼ばれていたことと関係がある。
藤原明子がここの地蔵尊に祈願して清和天皇を御産みになられた。
それで染殿地蔵といわれるようになり、寺名も染殿院となったのだろう。
また染殿院が清和院釈迦堂と呼ばれていたのは藤原明子が清和天皇を産んだことにちなむ呼称だと思う。

清和院釈迦堂と清和院が関係あるかどうかわからないが、清和院も清和天皇にちなむ寺である。

清和院はもともとは京都御苑内の現在は京都迎賓館がある場所にあったらしい。
平安時代、ここには藤原良房の邸宅(染殿第)があり、良房の娘・藤原明子が文徳天皇に入内したのち、明子の願いを聞き入れて仏心院という寺をたてて地蔵菩薩を安置したのが始まりという。
876年、清和天皇は譲位したのち、仏心院を御在所・後院とした。
その後廃れたが、1306年に浄土宗西山義の照空真日が再興し、朝廷より清和院の号を賜った。
1661年に御所が炎上したため、現在地に移転したようである。

なぜ藤原明子は地蔵菩薩を安置する寺を欲したのか。
それはやはり、文徳天皇の皇子を生み、生んだ子を文徳天皇の皇太子にしたいという願いをかなえるためだろう。
そして、染殿院の地蔵菩薩もたぶんそうだと思うが、清和院の地蔵菩薩には惟仁親王(清和天皇)のライバルである惟喬親王のイメージが重ねられていたのではないかと思う。

清和院 本堂 

清和院 本堂

③源頼光が退治した土蜘蛛とは平将門だった?
拾遺都名所図会に描かれた蜘蛛塚の話に戻ろう。
この蜘蛛塚平安時代に源頼光が退治した土蜘蛛が住んでいた場所だとされる。

蜘蛛塚と呼ばれる巨岩(岩ではないかもしれないw)が、桃畑の中にあったというのがなかなか興味深い。
桃は邪気を祓う、などといわれていて節分には桃の弓で葦の矢を射て清めの儀式を行ったりする。
つまり、蜘蛛塚は桃畑の中に置かれることで、そこから外に土蜘蛛が彷徨い出ないような呪術的仕掛けがなされているのではないだろうか。

蜘蛛塚は平安時代に源頼光が退治した土蜘蛛が住んでいた場所だとされている。
源頼光の生没年は948-1021年である。
時代から考えて、源頼光が退治した土蜘蛛とは940年に討ち死にした平将門のことだと思われる。
土蜘蛛とは斬首されて頭部のない人間のことではないかと私は考えているが、平将門の首は斬首されて京に持ち帰られ、晒されたのだ。

④惟喬親王にろくろ首のイメージ?

さきほども述べたように、清和院はもともとは京都御所の東にあったのだが、1661年に火災にあい、この場所に移転している。
これを信じるならば、蜘蛛塚は清和院が移転してくる前からここにあったということになる。

しかし、本当に平安時代から蜘蛛塚がここにあったかどうかはわからない。

また言い伝えとおり平安時代から蜘蛛塚があって、清和院があとからここに移転してきたのだとしても、
清和院は蜘蛛塚となんらかの関係があったために、ここに移転してきたという可能性がありそうに思える。

惟喬親王は法華経の巻物の軸が回転するのを見て轆轤(ろくろ)を発明したという伝説がある。

かつて木を削るために用いられていた轆轤は巻物のように細長い形で、そこに何重にも綱を巻きつけ、1人がその紐を引っ張ることで軸を回転させる仕組みになっていた。
で、その軸の先端に木材をとりつけ、もうひとりが回転する木材に刃物をあてて削っていた。

木地師資料館 惟喬親王像 

木地師資料館に展示されていた掛け軸


轆轤の形は妖怪・ろくろ首を思わせる形をしている。
轆轤の先端にセットされたお椀が頭で、轆轤の軸が首のイメージである。

蘇我入鹿やゲンボウ、平将門の髑髏が飛んだという伝説があるが、ろくろ首とは飛行する髑髏の変形バージョンなのではないだろうか。

まさか本当に親王とも有ろうお方が轆轤を発明したとも思えないが、なぜ惟喬親王が轆轤を発明したなどと言われているのだろうか。

惟喬親王にはろくろ首のイメージがある。

ろくろ首は飛行する首の別バージョンだと考えられる。
ということは、惟喬親王もまた平将門と同様、土蜘蛛(首のない人間)ではないのか。

それで清和院が移転する場所として、蜘蛛塚のある場所が選ばれたのかもしれない。

境内には首のない地蔵菩薩が祀られていた。
この石仏の由緒が知りたいと思ったが説明書はなかった。

清和院 首無地蔵 

清和院 首無地蔵


首がない石仏は珍しいものではなく、あちこちで見かけた記憶がある。
しかし気になる。


惟喬親王の乱⑨ 十輪寺 『惟喬親王と六歌仙』 に続きます~

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