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私流 トンデモ百人一首 5番 奥山に…『猿丸大夫の正体は志貴皇子・道鏡・弓削浄人だった?』

猿丸神社 歌碑

猿丸神社 

奥山に もみぢ踏みわけ 鳴く鹿の 声きく時ぞ 秋はかなしき/猿丸大夫
(奥山でもみじを踏み分けて鳴く鹿の声を聞くと、秋は切ないなあとしみじみ感じることだ。)


①謎の歌人・猿丸大夫

猿丸大夫の実体はほとんどわかっていない。猿丸太夫は謎の歌人なのだ。

猿丸太夫という歌人の名前が初めて文献に登場するのは、平安時代初期に成立した古今和歌集の二つの序文、仮名序・真名序である。

しかし仮名序・真名序に猿丸太夫のことは記されているが、古今和歌集には猿丸太夫の歌は一首もない。
それだけでなく、万葉集にも、その後の勅撰集にも猿丸太夫の名前はなく、正史にも登場しない。

『猿丸大夫集』という歌集があるが、万葉集の異体歌と古今集のよみ人しらず歌ばかりで、本当に猿丸太夫が詠んだと確認できる歌は一首もないとされる。

⓶古今和歌集のよみ人知らずの歌24首は猿丸大夫の歌?

平安中期の藤原公任は猿丸太夫を『三十六人撰』の一人に選び、代表歌として三首選んでいる。

●をちこちの たつきもしらぬ 山中に おぼつかなくも 呼子鳥かな
(遠くも近くも見当もつかない山中にたよりなく呼子鳥が鳴いているよ)

●ひたぐらしの 鳴きつるなへに 日は暮れぬと 見しは山のかげにざりける
(ひぐらしが鳴き始めて日が暮れたと思ったのは勘違いで、本当は山の影に入ったいたのだった)

●奥山に もみぢ踏みわけ 鳴く鹿の 声きく時ぞ 秋はかなしき
(深い山の中で 紅葉を踏み分けて鳴く鹿の声を聞くと秋が悲しく思えてくる。)

さきほど猿丸太夫の歌は古今集に1首もないと書いたが、この3首は古今和歌集に掲載されている。
ただし作者は猿丸太夫ではなく、よみ人知らずとなっている。

また藤原盛房の『三十六人歌仙伝』に「延喜の御宇、古今集を撰せらるの日に臨みて()の大夫の歌多く()の集に載す。(醍醐天皇代、古今集撰集に際し、猿丸大夫の歌が多く古今集に載せられた)」 
とある。

 猿丸神社 拝殿

猿丸神社

藤原清輔の歌学書『袋草紙』には「猿丸大夫集の歌多くもつてこれを入れ、読人知らずと称す」とある。

『猿丸大夫集』と『古今和歌集』のよみ人しらずの歌は同じ歌が24首あるが、この24首は猿丸太夫が詠んだ歌である可能性がある。

③猿丸太夫と柿本人麻呂は同一人物?

猿丸太夫といえば、梅原猛さんの「水底の歌」を思い出す。
梅原猛さんは次のように説かれた。

769年に和気清麻呂が称徳天皇の怒りをかって「別部穢麻呂」と改名されられて流罪になったケースがある。
これと同様、柿本人麻呂も皇族の怒りを買い、改名させられて水死させられたのではないか。
『続日本紀』708年の項に柿本猨の死亡記事があるが、この柿本猨は柿本人麻呂と同一人物で、猨は人麻呂が改名させられたものではないか。
そして、この柿本人麻呂=柿本猨=猿丸大夫ではないか。

私は梅原猛氏を尊敬しているが、この説は支持しない。
私は猿丸大夫とは志貴皇子・道鏡・弓削浄人の総称ではないかと考えているのだ。

人麿神社 すすつけ祭

人麿神社 すすつけ祭

④猿丸大夫=弓削道鏡?

下野国河内郡の日光権現と上野国の赤城神が神域をめぐって争ったという伝説がある。
このとき、女体権現は鹿の姿となってあらわれ、弓の名手・小野猿丸(猿丸太夫)の加勢によって勝利した。
猿と鹿は下野国都賀郡日光で住むことを赦され、猿丸は下野国河内郡の宇都宮明神になった。
下野国都賀郡・日光二荒山神社の神職・小野氏はこの「猿丸」を祖とするという。

猿丸大夫とは弓削道鏡の事だとする説があるが、道鏡は称徳天皇崩御後下野国へ流罪となっており、日光の小野猿丸伝説とイメージが重なる。

弥生祭 花家体 門前にて

二荒山神社

⑤猿丸大夫=弓削浄人?

高知県高岡郡佐川町・猿丸峠に猿丸太夫の墓があり、猿丸大夫とは道鏡の弟の弓削浄人のことだと伝わる。

⑥猿丸大夫は猿楽・翁と関係が深い。

猿丸神社(京都府綴喜郡宇治田原町)はこの猿丸大夫を祀る神社である。
境内には能(江戸時代まで能は猿楽といわれていた。)・三番叟の恰好をした狛猿が置かれている。
能・翁は「父尉」「翁」「三番猿楽」の 三部からなり、このうちの「三番猿楽」のことを三番叟という。(三番三ともいう。)

猿丸神社 狛猿

猿丸神社 狛猿


猿丸神社の狛猿だけでなく、猿の像は三番叟の恰好をしている者が多い。

新日吉神社 猿のレリーフ 

新日吉神社 御神猿

奈良豆比古神社 翁舞 黒式尉

奈良豆比古神社 翁舞 三番叟


猿丸大夫は翁と関係が深そうに思える。

⑦春日王=志貴皇子

奈良豆比古神社には伝統行事・翁舞が伝えられている。
能の翁は一人だけだが、奈良豆比古神社の翁舞は三人翁である。台詞などは能・翁とほとんど同じである。
三人翁の舞のあと、上の写真にある三番叟の舞が行われる。

奈良豆比古神社 翁舞 三人翁

奈良豆比古神社 翁舞 三人翁

奈良豆比古神社には翁舞に関係する二つの伝説が伝えられている。

❶志貴皇子の子・春日王がハンセン病を患い春日王の子の浄人王と安貴王が看病した。
 浄人王が父の快癒を祈って春日大社で舞を舞ったところ春日王の病はよくなった。
 桓武天皇は浄人王に弓削首夙人の名と位を与えた。

❷志貴皇子は天皇に近い方であったがハンセン病を患い、右大臣・左大臣とともに面をつけて舞った。
 あるとき病は面についてとれた。


志貴皇子は光仁天皇より春日宮御宇天皇と追尊された。また陵が田原にあるので田原天皇とも呼ばれている。
春日王は田原太子とも呼ばれている。

志貴皇子=春日宮御宇天皇=田原天皇
         春日王=田原太子

神が子を産むとは神が分霊を作ることではないかとする説がある。
春日王とは志貴皇子という神の分身であり、同一人物ではないだろうか。

⑧浄人王=弓削浄人、安貴央=弓削道鏡、猿丸大夫=弓削道鏡・弓削浄人?

❶の伝説に「桓武天皇は浄人王に弓削首夙人の名と位を与えた。」とある。
弓削は名前で、首夙人は位ではないか。すると浄人王は弓削浄人となる。弓削浄人は弓削道鏡の弟である。

道鏡の俗名はわかっていないが弓削安貴というのではないか。
『僧綱補任』、『本朝皇胤紹運録』などに道鏡は志貴皇子の子だという説があると記されている。
とすれば、道鏡の弟の弓削浄人も志貴皇子の子である可能性が高い。

猿丸大夫は翁の三番叟の姿をし、また道鏡であるとも弓削浄人であるとも伝わっている。
猿丸大夫とは弓削道鏡・弓削浄人ではないか。

下野の日光二荒山神社の神職・小野氏は小野猿丸を祖とするといい、道鏡は下野に流罪となっている。
さらに猿丸大夫は道鏡とする説がある。

二荒山神社と関係の深い日光東照宮があるが、そこには有名な三猿のレリーフがある。

日光東照宮 三猿

日光東照宮 三猿

この猿は志貴皇子・弓削道鏡・弓削浄人の3人を現したものだったりしないだろうか。

⑨猿丸神社の近くに田原天皇社跡がある。

猿丸神社は京都府宇治田原にあるが、そこからほど近い宇治田原の大宮神社には田原天皇(志貴皇子)社旧跡がある。

田原天皇旧跡2

志貴皇子はこの地に隠棲し、薨去したという伝説があるのだ。
志貴皇子の墓は奈良の田原西陵とされるが、この地にもあったと伝わっている。

春日宮天皇陵

田原西陵

志貴皇子は別名を田原天皇といい、宇治田原という地名はこの田原天皇からくるのかもしれない。
宇治田原は志貴皇子と関係の深い土地なのだ。

そこからほど近い場所に猿丸神社があるのは偶然とは思えない。

⑩萩(鹿鳴草)は志貴皇子のイメージ

奈良・白毫寺は志貴皇子の邸宅跡と伝わり、秋には萩の花が境内に咲き乱れる。

百毫寺 萩4

白毫寺

笠金村が志貴皇子の挽歌を詠んでいる。
高円の 野辺の秋萩 いたづらに 咲きか散るらむ 見る人なしに
(高円山の野辺の秋萩は、咲いて散ってしまったようだ。誰にもみとられずに)

この歌に詠まれた萩とは、志貴皇子の比喩であることは明らかである。
そして、萩は別名を鹿鳴草という。

ここで④に記した下野国河内郡の日光権現と上野国の赤城神が神域をめぐって争った伝説を思い出してほしい。

女体権現は鹿の姿となってあらわれ、弓の名手・小野猿丸(猿丸太夫)の加勢によって勝利した。
そして猿と鹿は下野国都賀郡日光で住むことを赦され、猿丸は下野国河内郡の宇都宮明神になった。
下野国都賀郡・日光二荒山神社の神職・小野氏はこの「猿丸」を祖とするという。

猿丸大夫とは弓削道鏡の事だとする説があるが、道鏡は称徳天皇崩御後下野国へ流罪となっており、日光の小野猿丸伝説とイメージが重なる。

伝説に登場する鹿、また志貴皇子の子とも考えられる(『僧綱補任』、『本朝皇胤紹運録』などに道鏡は志貴皇子の子だという説があると記されている。)道鏡と小野猿丸のイメージが重なることから、
さらに猿丸、道鏡、志貴皇子のイメージが重なってくる。

⑪トガノの鹿

トガノの鹿という話が日本書紀にある。

雄鹿が雌鹿に全身に霜が降る夢を見た、と言った。
雌鹿は夢占いをして、
『それはあなたが殺されることを意味しています。霜が降っていると思ったのは、あなたが殺されて塩が降られているのです。』
と答えた。
翌朝、雄鹿は雌鹿の占どおり、猟師に殺された。


奈良の鹿 親子

鹿の夏毛には白い斑点があるが、その斑点を塩に見立てたのだと思う。

そして謀反の罪で殺された人は塩を振られることがあり、 鹿とは謀反人の比喩ではないか、とする説がある。

さらに萩は別名を鹿鳴草という。
萩の白花はまるで塩をふったかのように見えるので、鹿鳴草と呼ばれているのではないだろうか。

⑫志貴皇子暗殺説

万葉集詞書は、この年志貴皇子が薨去したと記している。
ところが、日本続記や類聚三代格は、志貴皇子の薨去年を716年としていて万葉集詞書と食い違っている。

笠金村が詠んだ志貴皇子の挽歌をもう一度鑑賞してみよう。
高円の 野辺の秋萩 いたづらに 咲きか散るらむ 見る人なしに
(高円山の野辺の秋萩は、むなしく咲いて散るのだろうか。見る人もなく。)
この歌は志貴皇子が人知れず死んだことを思わせる。

笠金村が詠んだ志貴皇子の挽歌はもう一首ある。

御笠山 野辺行く道は こきだくも 繁く荒れたるか 久にあらなくに
(御笠山の野辺を行く道は、これほどにも草繁く荒れてしまったのか。皇子が亡くなって久しい時も経っていないのに。)


こちらの歌は『志貴皇子が死んだのはついこの間のことなのに、野辺道がこんなに荒れているのはなぜなのだ』といぶかっているように思える。

これらの歌から、志貴皇子は715年に暗殺され、その死が1年近く隠されていたのではないか。
のちに志貴皇子の子の光仁天皇が即位しているところから、志貴皇子には正当な皇位継承権があったのではないかとする説がある。

⑬もみぢは楓ではなく秋萩だった。


ここで、猿丸大夫の歌に戻ろう。

奥山に もみぢ踏み分け 鳴く鹿の 声聞く時ぞ 秋はかなしき

ここに詠われている「もみぢ」は実は楓ではなく、秋萩だと考えらえている。

古今和歌集は隣あった和歌は同じ語句が用いられている。

古今和歌集にある「奥山に」の歌は前後の歌とどのようにつながっているのかをみてみよう。

214.里は こそことに  わびしけれ しかのなくねに めをさましつゝ/忠岑
215.奥に もみぢ踏みわけ 鳴く鹿の 声きく時ぞ はかなしき/読み人知らず
216  秋はぎに うらびれをれば  あしひきの 山したとよみ 鹿なくらむ/読み人知らず


214番と215番の歌は「山」「秋」「鹿」「なく」という言葉でつながっている。
215番と216番の歌は「秋」「鳴く」「鹿」が同じだ。

しかし、「秋」でつながっているとするのではなく、「もみぢ」と「秋はぎ」でつながっているとみられている。
つまり、215番の歌に「紅葉」とあるのは楓ではなく、秋萩ということになる。


⓶猿丸大夫と志貴皇子の死を悼んだ挽歌は対応している?

「もみぢ」を『萩の黄葉」と考えれば、「奥山に」の歌は志貴皇子の死を悼んだ次の歌と対応しているように思える。

高円の 野辺の秋萩 いたづらに 咲きか散るらむ 見る人なしに
(高円山の野辺の秋萩は、むなしく咲いて散るのだろうか。見る人もなく)


奈良大文字送り火 

奈良大文字送り火は高円山に点火される。

⑭藤原公任が猿丸太夫の代表作として選んだ三首を志貴皇子作として鑑賞すると・・・

古今和歌集では「奥山に」の歌は詠み人しらずとなっているが、百人一首では猿丸太夫が詠んだことになっている。

平安中期の藤原公任が猿丸太夫の代表作として選んだ三首も、猿丸太夫=志貴皇子と考えればぴったりくるように思える。

●をちこちの たつきもしらぬ 山中に おぼつかなくも 呼子鳥かな
(遠くも近くも見当もつかない山中にたよりなく呼子鳥が鳴いているよ)

これは高円山に葬られた志貴皇子の霊が詠んだ歌のように思える。

●ひたぐらしの 鳴きつるなへに 日は暮れぬと 見しは山のかげにざりける
(ひぐらしが鳴き始めて日が暮れたと思ったのは勘違いで、本当は山の影に入っていたのだった)
こちらは志貴皇子の霊が、自らの死を読んだ歌のように思える。
※暗くなったので夜になったと思っていたが、私は高円山に葬られていたのだった?

●奥山に もみぢ踏みわけ 鳴く鹿の 声きく時ぞ 秋はかなしき
(深い山の中で 紅葉を踏み分けて鳴く鹿の声を聞くと秋が悲しく思えてくる。)

※私が葬られた高円山の萩の黄葉を踏み分けて鹿が鳴いているのを聞くと、わが身があわれに思えてくることだ?

⑮天智天皇が詠むのにふさわしい歌なので天智天皇御製とした

死んだ志貴皇子の霊が和歌を詠んだりできるはずがない、といわれそうなので、それについて説明しておこうと思う。
古には著作権という考え方は存在していなかった。
そこで、Aという人が詠んだとするのにふさわしいと考えられる歌の作者をAとする、というようなケースがあった。

秋の田の 仮庵の庵の 苫をあら み わが衣手は 露にぬれつつ
(秋の田の小屋のとまがたいそう粗いので、私の着物は露でびっしょり濡れてしまいました。)

この歌は万葉集にはなく、958年ごろに成立した後撰和歌集の中に天智天皇御製として掲載されている。

万葉集には
秋田刈る 仮庵を作り わが居れば 衣手寒く 露そ置きにける
という読人知らずの歌が掲載されており
その内容から農民が詠んだ歌だと考えられている。

「秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 梅雨にぬれつつ」は「秋田刈る 仮庵を作り わが居れば 衣手寒く 露そ置きにける」を改作したものであり、
実際に天智天皇が詠んだ歌ではないが、天智天皇の心を表す歌であるとして後撰和歌集の撰者たちが天智天皇御作として後撰集に掲載したものと考えられている。

詳しくはこちらの記事をお読みください。近江神宮 かるた祭 かるた開きの儀 『秋の田の・・・は埋葬されないわが身を嘆く歌だった?』 





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