巴御前は八幡神の女神だった。

巴御前 https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Tomoe-Gozen.jpg よりお借りしました。
①巴御前
義仲寺(滋賀県大津市)は戦死した木曽義仲の菩提を弔うため、義仲の愛妾・巴御前が開いたと伝えられます。

義仲寺
巴御前といえば、女性の武人として有名ですね。
巴御前について、史料は次のように記しています。
『平家物語』『覚一本』 「木曾最期」 | 木曾四天王とともに源義仲の平氏討伐(治承・寿永の乱)に従軍した。 大力、強弓。 義仲は信濃より、巴・山吹の二人の美女を伴ってきた。 山吹は体調が悪く都にとどまった。巴は色白え髪が長く、容色が優れていた。 強弓精兵、一人で千人の働きをするつわものである。 宇治川の戦いで敗れ落ち延びる義仲に従い、最後の7騎、5騎になっても討たれなかった。 義仲は「お前は女であるから落ちのびよ。自分は討ち死にするつもりだが、最後に女を連れていたと言われたくない」 と言った。 巴は渋っていたが、「最後の奉公でございます)」と言い、大力で評判の敵将・御田(恩田)八郎師重を馬から引き落として首をきった。その後巴は鎧・甲を脱ぎ捨てて東国へ落ち延びた。 |
八坂流 『百二十句本』 | 巴、22~23歳。 巴を追ってきた敵将を返り討ちにした後、義仲に「落ち延びよ、後世を弔うことが最後の奉公である」と諭されて 東へ向かい行方知れずとなった。 |
『長門本』 | 巴、32歳。落ち延びた後、越後国友杉で尼となった。 |
『延慶本』 ※古態を示すといわれる。 | 巴、30歳。 幼少より義仲と共に育った。力技・組打ちの武芸の稽古相手。長じて戦に召し使われた。 京を落ちる義仲勢が7騎になった時、巴は左右から襲いかかってきた武者を左右の脇に挟みこんで絞めた。 2人の武者は頭がもげて死んだ。 粟津の戦いでは義仲勢は5騎になっていたが、既にその中に巴の姿はなく、消息不明となった。 |
『源平盛衰記』 | 巴、28歳。 倶利伽羅峠の戦いでも大将として登場する。 横田河原の戦いではも七騎を討ち取る。(『長門本』にも同様の記述あり)。 宇治川の戦いでは畠山重忠と戦う。 重忠に巴が何者か問われ、半沢六郎はこう答えている。 「義仲の乳母で中原兼遠の娘巴という女性である。義仲の乳母であったが妾となり、強弓の手練れ、荒馬乗りの上手。 今井兼平や樋口兼光とは兄弟で、彼らに劣らぬ怖ろしい者である。」と答えた。 義仲は巴御前にこういっている。 「去年の春、信州に残して来た妻子と二度と会えないのは無念である。 私のことを想うならば、今ここで私と共に討死するより、信州に帰って妻子や人々に私の最期を語り伝えて欲しい。」 これを聞いて巴御前は落ち延び、その後に源頼朝から鎌倉へ召され、和田義盛の妻となって朝比奈義秀を生んだ。 和田合戦の後、越中国礪波郡福光の石黒氏の元に身を寄せ、出家して主・親・子の菩提を弔った。 享年91歳。 |

巴塚
⓶巴御前は義仲より年下でありながら義仲の乳母だった?
木曽義仲は1184年に31歳で亡くなっている。
『源平盛衰記』は巴御前を義仲の乳母で妾と書いているが、巴御前は28歳と義仲より年下ということになっていて、年下なのに乳母というのは変だ。

山吹塚
③巴御前は吾妻鏡には登場しない。
巴御前は『平家物語』『源平盛衰記』のみ登場し、鎌倉幕府が編纂した吾妻鏡その他の史料には登場しない。
武者を両脇に挟んでしめ、頭をもいだというのは明らかに誇張だと思われる。
『吾妻鏡』では、越後の城氏の一族である坂額御前(はんがくごぜん)の健闘により、討伐軍が大被害を受けたという記述があり、女武将は全くいなかったとはいえないが~
『平家物語』は巴御前については①の表に記したとおりであり、義仲との関係や出自などについては記されていない。
後に記された『源平盛衰記』では、義仲との関係、出自などが記されているが、これは後に脚色されたのではないだろうか。
④巴は八幡宮の神紋
巴御前の巴は鞆、鞆絵とも記される。
御前にはさまざまな意味があるが、婦人の敬称としても用いられるので、それで巴御前と言われるのではないかと思う。
さて巴とは勾玉のような形をした伝統的な日本の模様のことである。

石清水八幡宮 追儺式 向かって右手の提灯に石清水八幡宮の神紋である三つ巴が描かれています。
弓を射るときに左手に着用する鞆(とも)を図案化したもので、もとは鞆絵であるとか
勾玉を図案化したものであるなど諸説ある。
鞆は下記リンク先のイラストがわかりやすい。
https://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%9E%86&ei=UTF-8&ts=5615&aq=-1&ai=ae5adedc-c2b8-4d98-b9a4-d3c5e090d5cd&fr=top_ga1_sa#9b8787faad4b1658b419992359bb481a31f4317a49f5258c66cb63d67cd24455
鞆は矢を放った後の弓の弦が腕にあたるのを防ぐ道具で、左手首の内側につける。
古語では「ほむた・ほむだ」というらしい。
武神である八幡神の神紋として巴紋(特に三つ巴)が用いられるようになったとされる。

木曽義仲の像(義仲寺)
⑤巴は八幡神の女神?
八幡神とは応神天皇のことである。
応神天皇は鞆を携えて生まれたとされ誉田別尊(ほむたわけのみこと)、大鞆和気命(おおともわけのみこと)。誉田天皇(ほむたのすめらみこと/ほんだの-)等と呼ばれる。
弓矢神、武人として信仰されている。
源義朝が石清水八幡宮で元服して以来、源氏は武神として八幡神を厚く信仰していた。
巴御前とは、八幡神が女神として現れたものではないだろうか。
日本の神は性別がルーズである。
三輪明神(大神神社の御祭神・大物主)は男神だが、謡曲三輪では女神として登場する。
亀岡祭のご神体の三輪明神も女神だった。また、通常では女神とされるウカノミタマは男神だった。

義仲寺 聖観音菩薩

義仲公墓
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