大阪府堺市 家原寺
①行基が創建した文殊菩薩を祀る寺
家原寺 蓮
家原寺は行基が生まれたところで、704年に生家を寺に改めたと伝わる。
ご本尊は文殊菩薩である。
⓶ハンセン病患者は文殊菩薩の化身文殊菩薩といえば、般若寺を思い出す。
般若寺は奈良県庁から東大寺転害門へ至り、さらに緩やかに続く奈良坂を上っていったところにある。
般若寺 コスモス般若寺のご本尊も文殊菩薩なのだ。
般若寺から少し奈良坂を引き戻ったところに北山十八間戸がある。
北山十八間戸鎌倉時代に作られたハンセン病患者療養施設で、18の部屋と、東西に仏間がある。
なぜここにハンセン病患者療養施設があるのか。
それはかつてこのあたりが非人宿であったからだ。
さきほど般若寺は「奈良坂を上っていったところにある」と書いたが、関西では坂に非人宿が作られることが多かった。
非人というと江戸時代の身分制度における非人を思い出す人が多いと思うが、関西では中世より寺社に隷属する非人がいた。
非人たちは興福寺に隷属し、死体の処理・清掃・警護などを行っていた。
また、ハンセン病患者は文殊菩薩の化身とされ、非人宿に捨てられたり、ハンセン病患者が高貴な家柄の場合、報酬を与えて非人たちに世話させたりしていたようである。
般若寺の本尊が文殊菩薩であることと、このあたりが非人宿であったことは関係があるのだ。
北山十八間戸から般若寺前に戻り、さらに奈良坂をのぼっていくと奈良豆比古神社がある。
奈良豆比古神社では10月8日に翁舞が奉納されている。
能に翁という演目があるが、翁舞はほとんどこの翁と同じ内容である。
ただし、能の翁は一人だが、翁舞の翁は三人である。
奈良豆比古神社 翁舞そして、奈良豆比古神社には翁舞に関係する次のような伝説が伝えられている。
志貴皇子の子の春日王がハンセン病になり、春日王の子の浄人王と安貴王が看病していた。
浄人王が春日王のハンセン病治癒のため舞を舞ったところ春日王の病は快癒した。
桓武天皇が浄人王に『弓削首夙人(ゆげのおびとしゅくうど)』の名と位を与えた。
奈良坂が非人宿であったことと、奈良豆比古神社に春日王がハンセン病を患ったという伝説が伝えられていることは関連があるのだ。
③ハンセン病を患ったのは志貴皇子だった?しかし
『別冊太陽・梅原猛の世界(平凡社)』には、奈良豆比古神社の地元の語り部・松岡嘉平さんが上の伝説とは別の語りを伝承していると書いてあった。
志貴皇子は限りなく天皇に近い方だった。
それで神に祈るときにも左大臣・右大臣がつきそった。
赤い衣装は天皇の印である。
志貴皇子は毎日神に祈った。するとぽろりと面がとれた。
その瞬間、皇子は元通りの美しい顔となり、病は面に移っていた。
志貴皇子がつけていたのは翁の面であった。
左大臣・右大臣も神に直接対面するのは恐れ多いと翁の面をつけていた。
志貴皇子は病がなおったお礼に再び翁の面をつけて舞を舞った。
これが翁舞のはじめである。
のちに志貴皇子は第二皇子の春日王とともに奈良津彦神の社に祀られた。
地元にはハンセン病になったのは春日王ではなくて志貴皇子だという伝承が伝わっているのだ。
④志貴皇子と春日王は同一人物?
志貴皇子は光仁天皇によって「春日宮御宇天皇」と追尊されている。
志貴皇子の陵は高円山にあり、田原西陵と呼ばれているので田原天皇ともいわれている。

春日宮天皇(志貴皇子)田原西陵へ向かう長い参道
そして春日王は田原太子とも呼ばれていた。
つまり、春日王と志貴皇子は同じ名前を持っているということになる。
志貴皇子・・・春日宮御宇天皇・・・田原天皇
春日王・・・・・・・田原太子
皇族で親と子が同じ名前というケースはないと思う。
志貴皇子と春日王は同一人物なのではないか。
神が子を産むとは神が分霊を産むという意味だとする説がある。
とすれば、志貴皇子の子の春日王とは志貴皇子という神の分霊であるとも考えられる。
⑤志貴皇子暗殺説
万葉集詞書は、この年志貴皇子が薨去したと記している。
ところが、日本続記や類聚三代格は、志貴皇子の薨去年を716年としていて万葉集詞書と食い違っている。
笠金村という人が志貴皇子の挽歌を詠んでいる。
高円の 野辺の秋萩 いたづらに 咲きか散るらむ 見る人なしに
(高円山の野辺の秋萩は、むなしく咲いて散るのだろうか。見る人もなく。)
この歌は志貴皇子が人知れず死んだことを思わせる。
御笠山 野辺行く道は こきだくも 繁く荒れたるか 久にあらなくに
(御笠山の野辺を行く道は、これほどにも草繁く荒れてしまったのか。皇子が亡くなって久しい時も経っていないのに。)
こちらの歌は『志貴皇子が死んだのはついこの間のことなのに、野辺道がこんなに荒れているのはなぜなのだ』といぶかっているように思える。
これらの歌から、志貴皇子は715年に暗殺され、その死が1年近く隠されていたのではないか。
のちに志貴皇子の子の光仁天皇が即位しているところから、志貴皇子には正当な皇位継承権があったのではないかとする説がある。

白毫寺 志貴皇子邸宅跡と伝わる。
⑥喜光寺は志貴皇子薨去年に創建された?

喜光寺 蓮
行基の話に戻ろう。
行基が関係する寺は数多くあるが、喜光寺もそのひとつである。
喜光寺にはふたつの創建年が伝えられている。
①『行基年譜(1175年)』・・・721年、寺史乙丸が住居を行基に寄進。722年に行基が寺とした。
②『菅原寺記文遺戒状』・・・715年、元明天皇の勅願によって創建された。
ふたつ伝えられている創建年のうち、715年に注目したい。
そう、万葉集詞書の志貴皇子薨去年が715年だった。
『行基年譜』が伝える「喜光寺の創建は722年、開基は行基」のほうが正しいかもしれない。
もしかしたら、この寺は志貴皇子を弔うための寺であり
そして、それを暗示するために『菅原寺記文遺戒状』は喜光寺の創建を「715年、元明天皇の勅願によって創建された。」と伝えているのではないか?

喜光寺 本堂 花はひまわりかな?
⑦
般若寺・北山十八間戸・奈良豆比古神社・春日宮天皇田原西陵・白毫寺・喜光寺などの旅の思い出を振り返ってみると
家原寺のご本尊が文殊菩薩であるということが興味深く思える。
もしかしたら、家原寺はハンセン病の神・志貴皇子を祀る寺ではないか、とも思えてくるからだ。

家原寺 蓮
家原寺 蓮
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謎の歌人・猿丸太夫の正体とは⑲田原祭は春日若宮おん祭に似ていた。※追記あり よりつづきます~
トップページはこちらです→謎の歌人・猿丸太夫の正体とは?①謎の歌人・猿丸太夫
猿丸神社①「もみぢ」は楓ではなく萩の黄葉だった。長い旅を経て、私は再び猿丸神社にやってきた。
境内の入り口には鮮やかに色づいた楓の根元に石碑があり、有名な猿丸大夫の歌が刻まれている。
「奥山に 紅葉踏み分け 鳴く鹿の 声聞く時ぞ 秋はかなしき」
たぶん、この歌にぴったりだということで、石碑の横に楓を植えたのではないかと思う。
しかし、実はこの歌は楓の紅葉を歌った歌ではないのだ。
古今和歌集は隣あった和歌は同じ語句が用いられている。
1.年の内に 春は来にけり ひととせを こぞとや言はむ 今年とや言はむ/在原元方
2. 袖ひちて むすびし水の こぼれるを 春立つ今日の 風やとくらむ/紀貫之
3.春霞 立てるや いづこ み吉野の 吉野の山に 雪は降りつつ/よみ人知らず
4.雪の内に 春はきにけり うぐひすの こほれる涙 今やとくらむ/二条后1番の「春は来にけり(春は立春のこと。陰暦では1月2月3月が春だった)は、2番の「春立つ(立春)」につながる。
2番の「春立つ」は3番の「春霞」の春と「立てる」につながる。
3番の「春霞」は4番の「春はきにけり」の春に、「雪はふりつつ」の雪は「雪の内に」の雪につながる。
5.梅が枝に きゐるうぐひす 春かけて 鳴けども今だ 雪は降りつつ/よみ人知らず
6.春たてば 花とや見らむ 白雪の かかれる枝に うぐひすの鳴く/素性法師4番の「うぐひす」「雪」と同じ語句が5番の歌にもある。
5番に「梅が枝」とあるので、6番の「花」は「梅の花」を意味しています。
また5番と6番はどちらにも「枝」「うぐひす」「雪」「鳴く(鳴けども)」という同じ語句があって、繋がっています。
それでは古今和歌集にある「奥山に」の歌は前後の歌とどのようにつながっているのかをみてみましょう。
秋上
214. 山里は 秋こそことに わびしけれ しかのなくねに めをさましつゝ/忠岑
215.奥山に もみぢ踏みわけ 鳴く鹿の 声きく時ぞ 秋はかなしき/読み人知らず
216 秋はぎに うらびれをれば あしひきの 山したとよみ 鹿のなくらむ/読み人知らず214番と215番の歌は「山」「秋」「鹿」「なく」という言葉でつながっている。
215番と216番の歌は「秋」「鳴く」「鹿」が同じだ。
しかし、「秋」でつながっているとするのではなく、「紅葉」と「秋はぎ」でつながっているとみられている。
つまり、215番の歌に「紅葉」とあるのは楓ではなく、萩の黄葉だということになる。
また『定家八代抄』では次のような順番で歌が掲載されている。
a.下もみぢ かつ散る山の 夕時雨 濡れてや鹿の 独り鳴くらん
b.奥山に もみぢ踏みわけ 鳴く鹿の 声きく時ぞ 秋はかなしき
c.秋萩に うらびれ居れば あしびきの 山下とよみ 鹿の鳴くらんこちらも古今和歌集と同じように語句で歌と歌がつながっているようである。
(番号もつけられているのかもしれないが、わからないので、仮にabcとしておく。)
こちらでもやはりbの歌の「もみぢ」とcの歌の「秋萩」が対応しており、もみぢとは萩の黄葉ということになる。
⓶猿丸大夫と志貴皇子の死を悼んだ挽歌は対応している?
「もみぢ」を『萩の黄葉」と考えれば、「奥山に」の歌は志貴皇子の死を悼んだ次の歌と対応しているように思える。
高円の 野辺の秋萩 いたづらに 咲きか散るらむ 見る人なしに
(高円山の野辺の秋萩は、むなしく咲いて散るのだろうか。見る人もなく)
奈良大文字送り火は高円山に点火される。③藤原公任が猿丸太夫の代表作として選んだ三首を志貴皇子作として鑑賞すると・・・古今和歌集では「奥山に」の歌は詠み人しらずとなっているが、百人一首では猿丸太夫が詠んだことになっている。
平安中期の藤原公任が猿丸太夫の代表作として選んだ三首も、猿丸太夫=志貴皇子と考えればぴったりくるように思える。
●をちこちの たつきもしらぬ 山中に おぼつかなくも 呼子鳥かな
(遠くも近くも見当もつかない山中にたよりなく呼子鳥が鳴いているよ)
これは高円山に葬られた志貴皇子の霊が詠んだ歌のように思える。
●ひたぐらしの 鳴きつるなへに 日は暮れぬと 見しは山のかげにざりける
(ひぐらしが鳴き始めて日が暮れたと思ったのは勘違いで、本当は山の影に入っていたのだった)
こちらは志貴皇子の霊が、自らの死を読んだ歌のように思える。
※暗くなったので夜になったと思っていたが、私は高円山に葬られていたのだった?
●奥山に もみぢ踏みわけ 鳴く鹿の 声きく時ぞ 秋はかなしき
(深い山の中で 紅葉を踏み分けて鳴く鹿の声を聞くと秋が悲しく思えてくる。)※私が葬られた高円山の萩の黄葉を踏み分けて鹿が鳴いているのを聞くと、わが身があわれに思えてくることだ?
春日宮天皇(志貴皇子)陵へ向かう長い参道
春日宮天皇(志貴皇子)陵
④天智天皇が詠むのにふさわしい歌なので天智天皇御製とした
死んだ志貴皇子の霊が和歌を詠んだりできるはずがない、といわれそうなので、それについて説明しておこうと思う。
古には著作権という考え方は存在していなかった。
そこで、Aという人が詠んだとするのにふさわしいと考えられる歌の作者をAとする、というようなケースがあった。
秋の田の 仮庵の庵の 苫をあら み わが衣手は 露にぬれつつ
(秋の田の小屋のとまがたいそう粗いので、私の着物は露でびっしょり濡れてしまいました。)
この歌は万葉集にはなく、958年ごろに成立した後撰和歌集の中に天智天皇御製として掲載されている。
万葉集には
秋田刈る 仮庵を作り わが居れば 衣手寒く 露そ置きにける
という読人知らずの歌が掲載されており
その内容から農民が詠んだ歌だと考えられている。
「秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 梅雨にぬれつつ」は「秋田刈る 仮庵を作り わが居れば 衣手寒く 露そ置きにける」を改作したものであり、
実際に天智天皇が詠んだ歌ではないが、天智天皇の心を表す歌であるとして後撰和歌集の撰者たちが天智天皇御作として後撰集に掲載したものと考えられている。
詳しくはこちらの記事をお読みください。近江神宮 かるた祭 かるた開きの儀 『秋の田の・・・は埋葬されないわが身を嘆く歌だった?』
猿丸神社には瘤のある木がたくさん奉納されていた。
⑤猿丸神社はなぜ瘤取りの神として信仰されているのか?
猿丸神社は瘤取りの神として信仰されており、瘤のある樹木の枝がたくさん奉納されていた。
なぜ猿丸神社は瘤取りの神として信仰されているのだろうか。
奈良豆比古神社には、春日王または志貴皇子がハンセン病にかかったという伝説があるのだった。
そしてハンセン病になると結節 と呼ばれる瘤ができることがあるということである。
また瘤は音が鼓舞に通じるが、鼓舞のもともとの意味は「鼓を打って舞を舞う」ことである。
そこから転じて「大いに励まし気持ちを奮いたたせること」を鼓舞というようになったようだ。
奈良豆比古神社 翁舞 三番叟
鼓を打って舞を舞うというのは、まさしく猿楽(能)のことである。
そしてその猿楽のルーツともいうべき翁舞は、弓削浄人または志貴皇子がハンセン病治癒を願って行ったものだった。
⑥うそぶきは志貴皇子?
奈良豆比古神社には古い能面が数多く展示されており、その中に額右に瘤のあるうそぶきの面もあった。

奈良豆比古神社の伝説では、志貴皇子の子・春日王または志貴皇子がハンセン病を患ったという。
つまり奈良豆比古神社の神はハンセン病の神なのだ。
そしてハンセン病では鼓舞(結節)ができることもあるという。
奈良豆比古神社の神=ハンセン病の神=瘤(結節)の神=鼓舞の神=うそぶき
このうそぶきは志貴皇子の神の姿をあらわしたもののように思える。
⑦猿丸大夫は志貴皇子・道鏡・弓削浄人の総称?
猿丸神社には狛犬ならぬ狛猿が置かれているが、その狛猿は猿楽のルーツかもしれない翁舞の三番叟の姿をしている。
鈴の代わりに御幣を持っているが、細長い烏帽子など同じである。
この猿丸神社の狛猿は猿丸大夫そのものの姿であると私は思う。
各地の神社に猿の像があるが、それらの猿の像は翁舞の三番叟の姿をしているものが多い。
新日吉神社 御神猿
高知県高岡郡佐川町・猿丸峠に猿丸太夫の墓があり、猿丸大夫とは道鏡の弟の弓削浄人のことだと伝えられている。
道鏡は称徳天皇が次期天皇にしたいと考えていた人物だったが、称徳天皇が急死したことによって失脚し、下野に流罪になった。
このとき道鏡の弟の弓削浄人は土佐に流罪となったのだ。
そして道鏡が流罪になった下野には二荒山神社があるが、かつて猿丸社とも呼ばれており、二荒山神社神職・小野氏の祖である小野猿丸が猿丸大夫だとする説もある。
二荒山神社の隣には日光東照宮があるが、そこには有名な三猿のレリーフがある。

また猿丸大夫とは道鏡のことであるとする説もある。
私はこの三猿のレリーフをみて、これは三人翁の姿であり、志貴皇子・道鏡・弓削浄人の姿でもあるのではないかと思った。
『僧綱補任』、『本朝皇胤紹運録』などに道鏡は志貴皇子の子だという説があると記されている。
とすれば、道鏡の弟の弓削浄人も志貴皇子の子である可能性が高い。
また奈良豆比古神社の伝説によれば、弓削浄人(浄人王)の父親は志貴皇子の子の春日王となっているが
志貴皇子の別名は春日宮天皇・田原天皇、春日王の別名は田原太子で同じ名前なので、志貴皇子と春日王は同一人物ではないかと思う。)
猿丸神社境内には「猿丸太夫故址」としるされた石柱があった。
そしてここからそう離れていない場所に大宮神社があり、その境内に「田原天皇社舊(旧)跡」がある。
田原天皇とは志貴皇子のことだ。
宇治田原は志貴皇子と関係の深い土地であり、宇治田原に志貴皇子の陵墓があったとも伝えられている。
⑧宇治田原と春日宮天皇田原陵の近くに茶畑があるのは偶然か?

↑ 春日宮天皇田原陵近くの茶畑

↑ 宇治田原の茶畑

↑ これは猿丸神社境内だが、大きな茶壺のようなものが置いてあり、猿丸大夫と茶には何か関係がありそうに思える。
どういう意味があるのか、まだ考えはまとまっていない。
しかし猿丸大夫の正体についての輪郭はかなり浮かび上がってきたように思える。
「とうとうたらりたらりろ」
そう謡いながら猿丸大夫は黒式尉は舞いつづけている。
私にはそう思えてならない。
end.
ながながとおつきあいくださり、ありがとうございました♪
また旅の中でお会いしましょう~。
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