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家原寺は志貴皇子の霊を弔う寺? 

大阪府堺市 家原寺

①行基が創建した文殊菩薩を祀る寺

家原寺 蓮3 
家原寺 蓮


家原寺は行基が生まれたところで、704年に生家を寺に改めたと伝わる。
ご本尊は文殊菩薩である。

⓶ハンセン病患者は文殊菩薩の化身

文殊菩薩といえば、般若寺を思い出す。
般若寺は奈良県庁から東大寺転害門へ至り、さらに緩やかに続く奈良坂を上っていったところにある。


般若寺 十三重石塔 コスモス

般若寺 コスモス

般若寺のご本尊も文殊菩薩なのだ。

般若寺から少し奈良坂を引き戻ったところに北山十八間戸がある。

北山十八間戸2

北山十八間戸

鎌倉時代に作られたハンセン病患者療養施設で、18の部屋と、東西に仏間がある。
なぜここにハンセン病患者療養施設があるのか。
それはかつてこのあたりが非人宿であったからだ。
さきほど般若寺は「奈良坂を上っていったところにある」と書いたが、関西では坂に非人宿が作られることが多かった。

非人というと江戸時代の身分制度における非人を思い出す人が多いと思うが、関西では中世より寺社に隷属する非人がいた。
非人たちは興福寺に隷属し、死体の処理・清掃・警護などを行っていた。
また、ハンセン病患者は文殊菩薩の化身とされ、非人宿に捨てられたり、ハンセン病患者が高貴な家柄の場合、報酬を与えて非人たちに世話させたりしていたようである。

般若寺の本尊が文殊菩薩であることと、このあたりが非人宿であったことは関係があるのだ。

北山十八間戸から般若寺前に戻り、さらに奈良坂をのぼっていくと奈良豆比古神社がある。
奈良豆比古神社では10月8日に翁舞が奉納されている。
能に翁という演目があるが、翁舞はほとんどこの翁と同じ内容である。
ただし、能の翁は一人だが、翁舞の翁は三人である。

奈良豆比古神社 翁舞 三人翁

奈良豆比古神社 翁舞

そして、奈良豆比古神社には翁舞に関係する次のような伝説が伝えられている。

志貴皇子の子の春日王がハンセン病になり、春日王の子の浄人王と安貴王が看病していた。
浄人王が春日王のハンセン病治癒のため舞を舞ったところ春日王の病は快癒した。
桓武天皇が浄人王に『弓削首夙人(ゆげのおびとしゅくうど)』の名と位を与えた。

奈良坂が非人宿であったことと、奈良豆比古神社に春日王がハンセン病を患ったという伝説が伝えられていることは関連があるのだ。

③ハンセン病を患ったのは志貴皇子だった?

しかし『別冊太陽・梅原猛の世界(平凡社)』には、奈良豆比古神社の地元の語り部・松岡嘉平さんが上の伝説とは別の語りを伝承していると書いてあった。

志貴皇子は限りなく天皇に近い方だった。
それで神に祈るときにも左大臣・右大臣がつきそった。
赤い衣装は天皇の印である。
志貴皇子は毎日神に祈った。するとぽろりと面がとれた。
その瞬間、皇子は元通りの美しい顔となり、病は面に移っていた。
志貴皇子がつけていたのは翁の面であった。
左大臣・右大臣も神に直接対面するのは恐れ多いと翁の面をつけていた。
志貴皇子は病がなおったお礼に再び翁の面をつけて舞を舞った。
これが翁舞のはじめである。
のちに志貴皇子は第二皇子の春日王とともに奈良津彦神の社に祀られた。


地元にはハンセン病になったのは春日王ではなくて志貴皇子だという伝承が伝わっているのだ。

④志貴皇子と春日王は同一人物?

志貴皇子は光仁天皇によって「春日宮御宇天皇」と追尊されている。
志貴皇子の陵は高円山にあり、田原西陵と呼ばれているので田原天皇ともいわれている。

春日宮天皇陵

春日宮天皇(志貴皇子)田原西陵へ向かう長い参道

そして春日王は田原太子とも呼ばれていた。
つまり、春日王と志貴皇子は同じ名前を持っているということになる。

志貴皇子・・・春日宮御宇天皇・・・田原天皇
       春日王・・・・・・・田原太子


皇族で親と子が同じ名前というケースはないと思う。
志貴皇子と春日王は同一人物なのではないか。

神が子を産むとは神が分霊を産むという意味だとする説がある。
とすれば、志貴皇子の子の春日王とは志貴皇子という神の分霊であるとも考えられる。

⑤志貴皇子暗殺説

万葉集詞書は、この年志貴皇子が薨去したと記している。
ところが、日本続記や類聚三代格は、志貴皇子の薨去年を716年としていて万葉集詞書と食い違っている。

笠金村という人が志貴皇子の挽歌を詠んでいる。
高円の 野辺の秋萩 いたづらに 咲きか散るらむ 見る人なしに
(高円山の野辺の秋萩は、むなしく咲いて散るのだろうか。見る人もなく。)
この歌は志貴皇子が人知れず死んだことを思わせる。

御笠山 野辺行く道は こきだくも 繁く荒れたるか 久にあらなくに
(御笠山の野辺を行く道は、これほどにも草繁く荒れてしまったのか。皇子が亡くなって久しい時も経っていないのに。)


こちらの歌は『志貴皇子が死んだのはついこの間のことなのに、野辺道がこんなに荒れているのはなぜなのだ』といぶかっているように思える。

これらの歌から、志貴皇子は715年に暗殺され、その死が1年近く隠されていたのではないか。
のちに志貴皇子の子の光仁天皇が即位しているところから、志貴皇子には正当な皇位継承権があったのではないかとする説がある。

百毫寺 萩4

白毫寺 志貴皇子邸宅跡と伝わる。

⑥喜光寺は志貴皇子薨去年に創建された?


喜光寺 本堂 蓮

喜光寺 蓮

行基の話に戻ろう。
行基が関係する寺は数多くあるが、喜光寺もそのひとつである。

喜光寺にはふたつの創建年が伝えられている。

①『行基年譜(1175年)』・・・721年、寺史乙丸が住居を行基に寄進。722年に行基が寺とした。
②『菅原寺記文遺戒状』・・・715年、元明天皇の勅願によって創建された。

ふたつ伝えられている創建年のうち、715年に注目したい。
そう、万葉集詞書の志貴皇子薨去年が715年だった。

『行基年譜』が伝える「喜光寺の創建は722年、開基は行基」のほうが正しいかもしれない。
もしかしたら、この寺は志貴皇子を弔うための寺であり
そして、それを暗示するために『菅原寺記文遺戒状』は喜光寺の創建を「715年、元明天皇の勅願によって創建された。」と伝えているのではないか?

喜光寺 ひまわり

喜光寺 本堂 花はひまわりかな?




般若寺・北山十八間戸・奈良豆比古神社・春日宮天皇田原西陵・白毫寺・喜光寺などの旅の思い出を振り返ってみると
家原寺のご本尊が文殊菩薩であるということが興味深く思える。

もしかしたら、家原寺はハンセン病の神・志貴皇子を祀る寺ではないか、とも思えてくるからだ。


家原寺 蓮

家原寺 蓮


家原寺 蓮2 
家原寺 蓮 

家原寺 柏葉紫陽花 

家原寺 柏葉紫陽花



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[2020/07/29 10:29] とんでも歴史紀行 | TB(0) | CM(0)

謎の歌人・猿丸太夫の正体とは⑳ 最終回 紅葉は楓ではなく萩だった。 

 謎の歌人・猿丸太夫の正体とは⑲田原祭は春日若宮おん祭に似ていた。※追記あり  よりつづきます~
トップページはこちらです→
謎の歌人・猿丸太夫の正体とは?①謎の歌人・猿丸太夫

猿丸神社 

猿丸神社

①「もみぢ」は楓ではなく萩の黄葉だった。

長い旅を経て、私は再び猿丸神社にやってきた。

境内の入り口には鮮やかに色づいた楓の根元に石碑があり、有名な猿丸大夫の歌が刻まれている。

猿丸神社 歌碑

「奥山に 紅葉踏み分け 鳴く鹿の 声聞く時ぞ 秋はかなしき」

たぶん、この歌にぴったりだということで、石碑の横に楓を植えたのではないかと思う。
しかし、実はこの歌は楓の紅葉を歌った歌ではないのだ。


古今和歌集は隣あった和歌は同じ語句が用いられている。

1.年の内に 春は来にけり ひととせを こぞとや言はむ 今年とや言はむ/在原元方
2. 袖ひちて むすびし水の こぼれるを 春立つ今日の 風やとくらむ/紀貫之
3.霞  立てるや いづこ  み吉野の  吉野の山に  は降りつつ/よみ人知らず
4.の内に  はきにけり  うぐひすの  こほれる涙  今やとくらむ/二条后


1番の「春は来にけり(春は立春のこと。陰暦では1月2月3月が春だった)は、2番の「春立つ(立春)」につながる。
2番の「春立つ」は3番の「春霞」の春と「立てる」につながる。
3番の「春霞」は4番の「春はきにけり」の春に、「雪はふりつつ」の雪は「雪の内に」の雪につながる。

5.が枝に  きゐるうぐひす  かけて  鳴けども今だ  は降りつつ/よみ人知らず
6.たてば  とや見らむ  白の  かかれる枝に  うぐひすの鳴く/素性法師


4番の「うぐひす」「雪」と同じ語句が5番の歌にもある。
5番に「梅が枝」とあるので、6番の「花」は「梅の花」を意味しています。
また5番と6番はどちらにも「枝」「うぐひす」「雪」「鳴く(鳴けども)」という同じ語句があって、繋がっています。

それでは古今和歌集にある「奥山に」の歌は前後の歌とどのようにつながっているのかをみてみましょう。

秋上
214.里は こそことに  わびしけれ しかのなくねに めをさましつゝ/忠岑
215.奥に もみぢ踏みわけ 鳴く鹿の 声きく時ぞ はかなしき/読み人知らず
216  秋はぎに うらびれをれば  あしひきの 山したとよみ 鹿なくらむ/読み人知らず


214番と215番の歌は「山」「秋」「鹿」「なく」という言葉でつながっている。
215番と216番の歌は「秋」「鳴く」「鹿」が同じだ。

しかし、「秋」でつながっているとするのではなく、「紅葉」と「秋はぎ」でつながっているとみられている。
つまり、215番の歌に「紅葉」とあるのは楓ではなく、萩の黄葉だということになる。

また『定家八代抄』では次のような順番で歌が掲載されている。

a.下もみぢ かつ散るの 夕時雨 濡れてや鹿の 独り鳴くらん
b.奥に もみぢ踏みわけ 鳴く鹿の 声きく時ぞ 秋はかなしき
c.秋萩に うらびれ居れば あしびきの 下とよみ 鹿鳴くらん


こちらも古今和歌集と同じように語句で歌と歌がつながっているようである。
(番号もつけられているのかもしれないが、わからないので、仮にabcとしておく。)

こちらでもやはりbの歌の「もみぢ」とcの歌の「秋萩」が対応しており、もみぢとは萩の黄葉ということになる。

⓶猿丸大夫と志貴皇子の死を悼んだ挽歌は対応している?

「もみぢ」を『萩の黄葉」と考えれば、「奥山に」の歌は志貴皇子の死を悼んだ次の歌と対応しているように思える。

高円の 野辺の秋萩 いたづらに 咲きか散るらむ 見る人なしに
(高円山の野辺の秋萩は、むなしく咲いて散るのだろうか。見る人もなく)


奈良大文字送り火 

奈良大文字送り火は高円山に点火される。

③藤原公任が猿丸太夫の代表作として選んだ三首を志貴皇子作として鑑賞すると・・・

古今和歌集では「奥山に」の歌は詠み人しらずとなっているが、百人一首では猿丸太夫が詠んだことになっている。

平安中期の藤原公任が猿丸太夫の代表作として選んだ三首も、猿丸太夫=志貴皇子と考えればぴったりくるように思える。

●をちこちの たつきもしらぬ 山中に おぼつかなくも 呼子鳥かな
(遠くも近くも見当もつかない山中にたよりなく呼子鳥が鳴いているよ)

これは高円山に葬られた志貴皇子の霊が詠んだ歌のように思える。

●ひたぐらしの 鳴きつるなへに 日は暮れぬと 見しは山のかげにざりける
(ひぐらしが鳴き始めて日が暮れたと思ったのは勘違いで、本当は山の影に入っていたのだった)
こちらは志貴皇子の霊が、自らの死を読んだ歌のように思える。
※暗くなったので夜になったと思っていたが、私は高円山に葬られていたのだった?

●奥山に もみぢ踏みわけ 鳴く鹿の 声きく時ぞ 秋はかなしき
(深い山の中で 紅葉を踏み分けて鳴く鹿の声を聞くと秋が悲しく思えてくる。)

※私が葬られた高円山の萩の黄葉を踏み分けて鹿が鳴いているのを聞くと、わが身があわれに思えてくることだ?

春日宮天皇陵 
春日宮天皇(志貴皇子)陵へ向かう長い参道


春日宮天皇陵2 
春日宮天皇(志貴皇子)陵

④天智天皇が詠むのにふさわしい歌なので天智天皇御製とした

死んだ志貴皇子の霊が和歌を詠んだりできるはずがない、といわれそうなので、それについて説明しておこうと思う。
古には著作権という考え方は存在していなかった。
そこで、Aという人が詠んだとするのにふさわしいと考えられる歌の作者をAとする、というようなケースがあった。

秋の田の 仮庵の庵の 苫をあら み わが衣手は 露にぬれつつ
(秋の田の小屋のとまがたいそう粗いので、私の着物は露でびっしょり濡れてしまいました。)

この歌は万葉集にはなく、958年ごろに成立した後撰和歌集の中に天智天皇御製として掲載されている。

万葉集には
秋田刈る 仮庵を作り わが居れば 衣手寒く 露そ置きにける
という読人知らずの歌が掲載されており
その内容から農民が詠んだ歌だと考えられている。

「秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 梅雨にぬれつつ」は「秋田刈る 仮庵を作り わが居れば 衣手寒く 露そ置きにける」を改作したものであり、
実際に天智天皇が詠んだ歌ではないが、天智天皇の心を表す歌であるとして後撰和歌集の撰者たちが天智天皇御作として後撰集に掲載したものと考えられている。

詳しくはこちらの記事をお読みください。近江神宮 かるた祭 かるた開きの儀 『秋の田の・・・は埋葬されないわが身を嘆く歌だった?』 

猿丸神社 奉納された瘤のある木 
猿丸神社には瘤のある木がたくさん奉納されていた。

⑤猿丸神社はなぜ瘤取りの神として信仰されているのか?


猿丸神社は瘤取りの神として信仰されており、瘤のある樹木の枝がたくさん奉納されていた。
なぜ猿丸神社は瘤取りの神として信仰されているのだろうか。

奈良豆比古神社には、春日王または志貴皇子がハンセン病にかかったという伝説があるのだった。
そしてハンセン病になると結節 と呼ばれる瘤ができることがあるということである。

また瘤は音が鼓舞に通じるが、鼓舞のもともとの意味は「鼓を打って舞を舞う」ことである。
そこから転じて「大いに励まし気持ちを奮いたたせること」を鼓舞というようになったようだ。

奈良豆比古神社 三番叟 

奈良豆比古神社 翁舞 三番叟

鼓を打って舞を舞うというのは、まさしく猿楽(能)のことである。
そしてその猿楽のルーツともいうべき翁舞は、弓削浄人または志貴皇子がハンセン病治癒を願って行ったものだった。

うそぶきは志貴皇子?

奈良豆比古神社には古い能面が数多く展示されており、その中に額右に瘤のあるうそぶきの面もあった。

奈良豆比古神社 うそぶきの面

奈良豆比古神社の伝説では、志貴皇子の子・春日王または志貴皇子がハンセン病を患ったという。
つまり奈良豆比古神社の神はハンセン病の神なのだ。
そしてハンセン病では鼓舞(結節)ができることもあるという。

奈良豆比古神社の神=ハンセン病の神=瘤(結節)の神=鼓舞の神=うそぶき

このうそぶきは志貴皇子の神の姿をあらわしたもののように思える。

⑦猿丸大夫は志貴皇子・道鏡・弓削浄人の総称?

猿丸神社には狛犬ならぬ狛猿が置かれているが、その狛猿は猿楽のルーツかもしれない翁舞の三番叟の姿をしている。
鈴の代わりに御幣を持っているが、細長い烏帽子など同じである。

猿丸神社 狛猿

この猿丸神社の狛猿は猿丸大夫そのものの姿であると私は思う。

各地の神社に猿の像があるが、それらの猿の像は翁舞の三番叟の姿をしているものが多い。

新日吉神社 猿のレリーフ 

新日吉神社 御神猿

高知県高岡郡佐川町・猿丸峠に猿丸太夫の墓があり、猿丸大夫とは道鏡の弟の弓削浄人のことだと伝えられている。

道鏡は称徳天皇が次期天皇にしたいと考えていた人物だったが、称徳天皇が急死したことによって失脚し、下野に流罪になった。
このとき道鏡の弟の弓削浄人は土佐に流罪となったのだ。

そして道鏡が流罪になった下野には二荒山神社があるが、かつて猿丸社とも呼ばれており、二荒山神社神職・小野氏の祖である小野猿丸が猿丸大夫だとする説もある。

二荒山神社の隣には日光東照宮があるが、そこには有名な三猿のレリーフがある。

日光東照宮 三猿

また猿丸大夫とは道鏡のことであるとする説もある。
私はこの三猿のレリーフをみて、これは三人翁の姿であり、志貴皇子・道鏡・弓削浄人の姿でもあるのではないかと思った。

『僧綱補任』、『本朝皇胤紹運録』などに道鏡は志貴皇子の子だという説があると記されている。
とすれば、道鏡の弟の弓削浄人も志貴皇子の子である可能性が高い。

また奈良豆比古神社の伝説によれば、弓削浄人(浄人王)の父親は志貴皇子の子の春日王となっているが
貴皇子の別名は春日宮天皇・田原天皇、春日王の別名は田原太子で同じ名前なので、志貴皇子と春日王は同一人物ではないかと思う。)

猿丸神社 境内 
猿丸神社境内には「猿丸太夫故址」としるされた石柱があった。


そしてここからそう離れていない場所に大宮神社があり、その境内に「田原天皇社舊(旧)跡」がある。

田原天皇旧跡2 
田原天皇とは志貴皇子のことだ。
宇治田原は志貴皇子と関係の深い土地であり、宇治田原に志貴皇子の陵墓があったとも伝えられている。

⑧宇治田原と春日宮天皇田原陵の近くに茶畑があるのは偶然か?

春日宮天皇陵付近の茶畑

↑ 春日宮天皇田原陵近くの茶畑

宇治田原 茶畑

↑ 宇治田原の茶畑

猿丸神社 境内


↑ これは猿丸神社境内だが、大きな茶壺のようなものが置いてあり、猿丸大夫と茶には何か関係がありそうに思える。

どういう意味があるのか、まだ考えはまとまっていない。

しかし猿丸大夫の正体についての輪郭はかなり浮かび上がってきたように思える。

「とうとうたらりたらりろ」

そう謡いながら猿丸大夫は黒式尉は舞いつづけている。
私にはそう思えてならない。



end.



ながながとおつきあいくださり、ありがとうございました♪

また旅の中でお会いしましょう~。




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謎の歌人・猿丸太夫の正体とは⑲田原祭は春日若宮おん祭に似ていた。※追記あり 


謎の歌人・猿丸太夫の正体とは⑱俵藤太は田原藤太だった? よりつづきます~
トップページはこちらです→謎の歌人・猿丸太夫の正体とは?①謎の歌人・猿丸太夫

①田原祭に翁が登場するのは偶然?

今年はコロナの影響でたぶん10月13日の田原祭還幸祭は中止になるのではないかと予想している。
しかし、
http://blog.livedoor.jp/rekishi_tanbou/archives/1793222.html
↑ こちらのブログに祭の様子が詳細に記されており、楽しく読ませていただいた。(ありがとうございました。)


田原祭還幸祭では「聲翁(せいのお)」という芸能が奉納されるとあり、写真も掲載されている。

https://livedoor.blogimg.jp/rekishi_tanbou/imgs/c/e/cedf5d51.jpg


聲翁とあり、翁面のようなものをつけている。
ただし一般的な能の翁面は顎の部分が割れているのに対し、田原祭の面は割れていない。

奈良豆比古神社 翁舞 三人翁

翁とは能(猿楽)の演目であるが、そのルーツは奈良豆比古神社の翁舞ではないかと思う。

そして奈良豆比古神社には次のような伝説がある。

㈠志貴皇子の子の春日王がハンセン病になり、春日王の子の浄人王と安貴王が看病していた。
㈡浄人王が春日王のハンセン病治癒のため舞を舞ったところ春日王の病は快癒した。
㈢桓武天皇が浄人王に『弓削首夙人(ゆげのおびとしゅくうど)』の名と位を与えた。

㈠について。
志貴皇子の別名は春日宮天皇、田原天皇。春日王の別名は田原太子。
親子は同じ名前であったことになる。こういう例はないと思う。志貴皇子と春日王は同一人物ではないか。

㈡について。
奈良豆比古神社に伝えられる翁舞のルーツは、春日王(志貴皇子と同一人物か?)のハンセン病治癒祈願の舞ということだろう。

㈢について。
浄人王は臣籍降下させられて弓削姓を賜った、つまり、浄人王は弓削浄人という名前になったということではないか。
弓削浄人は道鏡の弟の名前である。
また『僧綱補任』『本朝皇胤紹運録』などでは、道鏡は志貴皇子の子であるとしている。
とすれば、道鏡の弟の弓削浄人も志貴皇子の子である可能性が高い。


そして猿丸大夫とは道鏡の弟の弓削浄人であるという言い伝えが土佐にはある。
奈良豆比古神社の翁舞は猿楽(能)の演目「翁」のルーツであるとも考えられるが、翁の中で演じられる三番叟の姿をした猿の像が各地にある。
猿丸大夫とは土佐の伝説とおり、弓削浄人ではないだろうか。

奈良豆比古神社 三番叟 

奈良豆比古神社 翁舞 三番叟

日吉大社 猿  

新日吉神社 御神猿

そして宇治田原には猿丸大夫を祀る猿丸神社がある。
また、宇治田原の大宮神社境内には「田原天皇社舊(旧)跡」もある。
田原天皇とは志貴皇子のことだ。

もう一度繰り返しておく。
『僧綱補任』『本朝皇胤紹運録』などでは、道鏡は志貴皇子の子であるとしている。
とすれば、道鏡の弟の弓削浄人も志貴皇子の子である可能性が高いのだ。

その志貴皇子とゆかりの深い能(猿楽)翁。
志貴皇子の子かもしれない弓削浄人(弓削首夙人の姓と位を与えられた浄人王)と同じ翁面をかぶった人が田原祭に登場するのは偶然なのか?

⓶「聲翁」と「細男」

記事中で次のように記されているのも、興味深かった。

「春日若宮おん祭」と同様の名称が「田原祭」にあるので興味を持っていたのです。例えば「聲翁」。「おん祭り」では、「細男」と書き、どちらも「せいのお」と呼びます。「おん祭」は立烏帽子に白丁姿の6人、目の下に白布を下げて覆面していて独特の出で立ちです。海底の精霊を表すともいわれています。「田原祭」はかつて、烏帽子、白衣、羽織袴姿で翁面をつけた2人
が舞っていたそうです。

http://blog.livedoor.jp/rekishi_tanbou/archives/1793222.html より引用

そこでおん祭の細男について調べてみた。
おん祭の御渡り祭は数回行ったことがあるのだが、すべて雨や雪で中止となりいまだに見学したことがないのだw。



おん祭「細男」の動画が見つかった。(ありがとうございます。)

田原祭の聲翁は翁面だが、おん祭の「細男」は布で口元をかくしている。
私はこれと同様のものを見たことがあった。

 祇園祭 棒振り

山鉾巡行 綾傘鉾

山鉾巡行 綾傘鉾 

山鉾巡行 綾傘鉾

祇園祭綾傘鉾に登場する人々だ。

この人々のいでたちは犬神人ではないかと思う。
犬神人は祇園社(現在の八坂神社)に隷属する非人で、「弦召せ」と言って弓の弦を売り歩いていたので「つるめそ」とも呼ばれていた。

犬神人(つるめそ)の 緋縅着たる 暑さかな 

この川柳は、祇園祭で緋色の着物を着た犬神人たちが警護のために町をうろついている様を詠んだものである。

本願寺聖人伝絵に犬神人の絵が描かれているが、やはり口元を白い布で覆っている。

犬神人 本願寺聖人伝絵

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:%E7%8A%AC%E7%A5%9E%E4%BA%BA_%E6%9C%AC%E9%A1%98%E5%AF%BA%E8%81%96%E4%BA%BA%E4%BC%9D%E7%B5%B5.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/e6/%E7%8A%AC%E7%A5%9E%E4%BA%BA_%E6%9C%AC%E9%A1%98%E5%AF%BA%E8%81%96%E4%BA%BA%E4%BC%9D%E7%B5%B5.jpg よりお借りしました。

<a title="覚如 [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で" href="
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:%E7%8A%AC%E7%A5%9E%E4%BA%BA_%E6%9C%AC%E9%A1%98%E5%AF%BA%E8%81%96%E4%BA%BA%E4%BC%9D%E7%B5%B5.jpg"><img width="256" alt="犬神人 本願寺聖人伝絵" src="https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/e6/%E7%8A%AC%E7%A5%9E%E4%BA%BA_%E6%9C%AC%E9%A1%98%E5%AF%BA%E8%81%96%E4%BA%BA%E4%BC%9D%E7%B5%B5.jpg"></a>


細男は非人ではないだろうか。
すると聲翁も非人ではないかと思えるが、ここで奈良豆比古神社の伝説をもう一度思い出してほしい。

㈠志貴皇子の子の春日王がハンセン病になり、春日王の子の浄人王と安貴王が看病していた。
㈡浄人王が春日王のハンセン病治癒のため舞を舞ったところ春日王の病は快癒した。
㈢桓武天皇が浄人王に『弓削首夙人(ゆげのおびとしゅくうど)』の名と位を与えた。

㈢について。
浄人王は臣籍降下させられて弓削姓を賜った、つまり、浄人王は弓削浄人という名前になったということではないか。
弓削浄人は道鏡の弟の名前である。
また『僧綱補任』『本朝皇胤紹運録』などでは、道鏡は志貴皇子の子であるとしている。
とすれば、道鏡の弟の弓削浄人も志貴皇子の子である可能性が高い。


そして弓削首夙人の夙とは非人のことである。

奈良豆比古神社の翁舞では「とうとうたらりたらりろ」という謡いにあわせて翁が舞う。
そして春日若宮おん祭で12月16日に若宮神社の前で奏される新楽乱声(しんがくらんじょう)の唱歌(しょうが/邦楽における楽譜のようなもの)は「『トヲ‥‥トヲ‥‥‥タア‥‥‥ハア・ラロ・・トヲ・リイラア‥‥』である。

私は翁の「とうとうたらりたらりろ」はこの唱歌であり、春日若宮様のテーマソングなのではないかと思う。

つまり、春日若宮とは翁・・・志貴皇子なのではないかと私は考えているのだ。

すると、田原祭に春日若宮おん祭と同じ聲翁=細男が演じられるのも、偶然とは思えなくなってくる。

宇治田原の大宮神社に「田原天皇社舊(旧)跡」が存在しているからだ。
田原天皇とはすでに説明したように志貴皇子のことである。

つまり、春日若宮おん祭も、田原祭も志貴皇子を慰霊するための祭ではないかということである。

もしかすると宇治田原という地名も田原天皇からくるのかもしれない。

王の鼻=猿田彦=ニギハヤヒ=志貴皇子?

↓ これは王の鼻というらしい。

天狗のように見える。木製の兜の上には茶色い鶏がついている。

https://livedoor.blogimg.jp/rekishi_tanbou/imgs/f/0/f08be360.jpg



【追記】「王の鼻」の独特の動きについて友人に聞いてみたところ、「鶏をまねているのではないか」と意見を述べてくれた。
友人の意見は鋭いと思う。
以前、千本閻魔堂狂言の二人大名という演目を見たことがあるが、大名が鶏のマネをする際、片足をあげ、その足指には扇子をつけていた。
扇子は鶏の尾をイメージしているのだろう。
「王の鼻」の歩き方も鶏っぽい。




↑ 千本閻魔堂狂言保存会さんの「二人大名」の動画お借りしました。

「王の鼻」の茶色い鶏に注意してほしい。

私はこれと同様の鶏の像を見た記憶があった。

岩戸山ご神体 天照大神 

祇園祭 岩戸山 ご神体 天照大神 (こちらの天照大神は男神です。)神使の鶏がいます。

祇園祭・岩戸山のご神体、天照大神の前におかれていたのがやはり茶色い鶏だったのだ。
岩戸山の天照大神は男神である。

天照大神が男神であるというのは、各地に伝わっており、物部氏の祖神・ニギハヤヒは先代旧事本紀では天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあまのほのあかりくしたまにぎはやひのみこと)となっており、この神が本当の天照大神ではないかともいわれている。
そして天皇家以前、畿内には物部王朝があったのではないかとする説もある。

また猿田彦という神は記紀において「高天原から葦原中国までを照らす神」と記されている。
高天原とは天、芦原中国は国なので、猿田彦は天照国照彦だといえる。
ニギハヤヒと猿田彦は同一神ではないだろうか。

猿田彦は天孫であるニニギを高天原から葦原中国まで道案内した神である。
猿田彦=ニギハヤヒとすれば、猿田彦は物部氏の神だということになる。
その猿田彦=ニギハヤヒがなぜライバルである天皇家の祖神・ニニギを葦原中国まで道案内したのか。

これはたぶん、陰陽道による考え方だと思う。
陰陽道では、荒ぶる怨霊は十分に慰霊すればご利益を与えてくださる和魂に転じると考える。
つまり、ニギハヤヒは怨霊であったが、慰霊されて和魂に転じた結果、猿田彦という神になったということではないだろうか。

そして、さきほど、私は弓削浄人が猿丸大夫だとする説があると書いたが、弓削氏は物部氏の一派なのだ。

そして祭に登場する天狗はたいてい猿田彦と呼ばれていて、猿丸大夫と関係があるように思える。

そういえば、猿丸大夫と同一人物だという伝説が伝わる弓削浄人の兄、弓削道鏡は、称徳天皇が次期天皇にしたいと考えていた人物だった。
しかし称徳天皇が急死したことで失脚し、志貴皇子の子である光仁天皇が即位した。
つまり光仁天皇が即位できたのは、弓削道鏡のおかげということで、天孫ニニギを葦原中国まで道案内した猿田彦と道鏡のイメージがだぶる。

もしかしてこの「王の鼻」とは弓削道鏡を現しているのではないか?

いや、王の鼻は志貴皇子を表しているのかもしれない。
というのは奈良豆比古神社にはこんな伝承も伝えられているからだ。

志貴皇子は限りなく天皇に近い方だった。
それで神に祈るときにも左大臣・右大臣がつきそった。
赤い衣装は天皇の印である。
志貴皇子は毎日神に祈った。するとぽろりと面がとれた。
その瞬間、皇子は元通りの美しい顔となり、病は面に移っていた。
志貴皇子がつけていたのは翁の面であった。
左大臣・右大臣も神に直接対面するのは恐れ多いと翁の面をつけていた。
志貴皇子は病がなおったお礼に再び翁の面をつけて舞を舞った。
これが翁舞のはじめである。
のちに志貴皇子は第二皇子の春日王とともに奈良津彦神の社に祀られた


「志貴皇子は限りなく天皇に近い方だった」とあるのに注意してほしい。

男神・天照大神である猿田彦(天狗)は志貴皇子ではないか。

そういえば、「聲翁」は「烏帽子、白衣、羽織袴姿で翁面をつけた2人が舞っていた」ということだった。

猿田彦(天狗)が志貴皇子で、「聲翁」のふたりは道鏡(安貴王)と弓削浄人(浄人王)なのではないか。

④田楽の年配の男性は志貴皇子、二人の少年は浄人王(弓削浄人)と安貴王(道鏡)?

田楽も同様に共通していますが、今は簡略化された「田原祭」でもかつては、烏帽狩衣姿の人と、饅頭笠をつけ赤紐を顎下で結んだ人によって演じられていたようです。烏帽子の人が「開口」といって能に先駆けて祝言の謡をすると、饅頭笠の人が舞い、次に2人が舞い謡い、最後に「閉口」の謡がありました。さらに、今年の「おん祭」の「日使」は、神戸製鋼所の佐藤会長が務められましたが、この役は忠通の名代として一行(約千人)を先導する大役。一方の「田原祭」の「日使」は、「荒木一族座」に属するおよそ40歳くらいまでの若者が務めるそうです。

このように「春日若宮おん祭」の影響が色濃い「田原祭」を実見できて本当に良かったです。

http://blog.livedoor.jp/rekishi_tanbou/archives/1793222.html より引用

上の記事で述べられているように、田原祭と春日若宮おん祭には上に述べた点のほかにも田楽、日使などの共通点があるようである。

春日若宮おん祭 田楽坐宵宮詣  
春日若宮おん祭 田楽座宵宮詣

上の写真は12月17日の春日若宮おん祭の御渡り祭ではなく、12月16日の田楽坐宵宮詣である。
御渡り式は何回行っても雨だが、前日のこの日は晴れたw

かつての田原祭では「烏帽狩衣姿の人と、饅頭笠をつけ赤紐を顎下で結んだ人によって演じられていたようです」と書いてあるが
現在は「年配の男性が狩衣、烏帽子姿の二人の少年をひきつれて3周し最後に拝礼する。」ようである。

https://livedoor.blogimg.jp/rekishi_tanbou/imgs/f/7/f7184fbd.jpg

なぜ年配の男性が二人の少年をひきつれているのだろうか。

私は再び奈良豆比古神社の翁舞を思い出した。

奈良豆比古神社 翁舞

もしかして年配の男性は志貴皇子、二人の少年は志貴皇子の子の浄人王(弓削浄人)と安貴王(道鏡)だったりして?

そのほか、日使も春日若宮おん祭と共通しているということである。


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