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謎の歌人・猿丸太夫の正体とは⑪ 志貴皇子が眠る場所 

謎の歌人・猿丸太夫の正体とは⑩ 志貴皇子 暗殺説 よりつづきます~
トップページはこちらです→謎の歌人・猿丸太夫の正体とは?①謎の歌人・猿丸太夫


①春日宮天皇 田原西陵

志貴皇子邸宅跡と伝わる百毫寺。
ここから車を東に走らせる。
車窓から見えるのは山と田圃と民家と。
どこにでもある田舎の風景で、古都奈良の趣はない。

道はしだいに上り坂となり、車窓から見えるのは木々の緑と青い空ばかりとなる。
やがてヘリポート、茶業振興センター、奈良県庁大和茶研究センターなどの建物が見えてくる。
こういった施設が作られているのは、もともと何もないあいた土地だったからではないか、と思ったりした。

ふと左手に目をやると、『春日宮天皇 田原西陵』と墨書された宮内庁の立て看板があった。
ここだ。

春日宮天皇陵

春日宮天皇(志貴皇子)陵へ向かう長い参道

春日宮天皇とは志貴皇子のことである。
志貴皇子は天皇ではなかった。
志貴皇子の第6皇子の光仁天皇が、父・志貴皇子を春日宮天皇と追尊したのである。

車をとめ、長い参道を歩いていく。
そのつきあたりに春日宮天皇 田原西陵はあった。

現在、春日宮天皇 田原西陵の周囲にはヘリポート、茶業振興センター、奈良県庁大和茶研究センターなどがある。
しかし周囲には民家もみあたらず、かつては随分寂しいところだったのではないかと想像される。
何もない土地であったからこそ、ヘリポート、茶業振興センター、奈良県庁大和茶研究センター等の施設がここに作られたのではないだろうか。

そんな場所に志貴皇子は眠っているのだ。



春日宮天皇陵2 
春日宮天皇(志貴皇子)陵

②志貴皇子暗殺説

日本続記や類聚三代格によれば、志貴皇子は716年に薨去したとあるが、万葉集の詞書では志貴皇子の薨去年は715年となっている。

志貴皇子の子である白壁王は、女帝の称徳天皇が急死したのち、即位して光仁天皇となっている。
これは志貴皇子には正統な皇位継承権があったということではないか。
そして志貴皇子は715年に暗殺されて、その死が1年近く隠されていたのではないか、
とする説がある。

私はこの説を支持する。志貴皇子は暗殺されたのだろう。
志貴皇子の薨去年が万葉集の詞書にあるように715年であり、志貴皇子に皇位継承権があったとすると
志貴皇子の死はあまりに元正天皇にとってタイミングが良すぎる。

元正天皇を即位させたいと考える勢力は次期天皇有力候補の志貴皇子を暗殺した。
そして暗殺したことが周囲にばれないように、志貴皇子の死は隠され、1年後にその死が公表されたのではないだろうか。

奈良豆比古神社 翁舞 

奈良豆比古神社 翁舞

奈良豆比古神社 翁舞 黒式尉

奈良豆比古神社 翁舞 三番叟

③志貴皇子と春日王は同一人物?

奈良豆比古神社にはこんな伝説がある。

志貴皇子の第二皇子の春日王がハンセン病を患ってここ奈良坂の庵で療養した。
春日王には浄人王と安貴王という二人の子供があり、彼らは熱心に春日王の看病をした。
兄の浄人王は散楽と俳優(わざおぎ)が得意で、ある時、春日大社で神楽を舞って父の病気平癒を祈った。
そのかいあって春日王の病気は快方に向かった。

浄人王は弓をつくり、安貴王は草花を摘み、これらを市場で売って生計をたてた。
都の人々は兄弟のことを夙冠者黒人と呼んだ。
桓武天皇は兄弟の孝行を褒め称え、浄人王に『弓削首夙人(ゆげのおびとしゅくうど)』の名と位を与えて、奈良坂の春日宮の神主とした。


春日王の子の浄人王が父・春日王の病治癒のために春日大社で舞った舞が、
10月8日に奈良豆比古神社で奉納されている翁舞のルーツなのだろう。

ところが地元にはもうひとつの言い伝えがある。
ハンセン病になったのは志貴皇子の子の春日王ではなく、志貴皇子であるというのだ。

志貴皇子は春日宮天皇と追尊された。また田原天皇とも呼ばれている。
志貴皇子の子の春日王は田原太子とも呼ばれていたという。
つまり、志貴皇子と春日王は、同じ名前をもっていたということになる。

志貴皇子・・・・・春日宮天皇・・・田原天皇
志貴皇子の子・・・春日王・・・・・田原太子

これらのことから私は志貴皇子と春日王は同一人物ではないかと考えた。

政治的陰謀によって不幸な死を迎えた者は怨霊となり、疫病の流行や天災をひきおこすと考えられていた。
暗殺された志貴皇子は怨霊となり、ハンセン病をひきおこす神であると考えられたのではないだろうか。

奈良豆比古神社 社殿

奈良豆比古神社

④志貴皇子は謀反人で死体に塩が振られていたので、萩やハンセン病患者に喩えられた?

なぜ志貴皇子はなぜハンセン病をひきおこす神であると考えられたのか。
志貴皇子はハンセン病を患っていたのか?
そうではないと思う。

トガノの鹿という話が日本書紀にある。

雄鹿が雌鹿に全身に霜が降る夢を見た、と言った。
雌鹿は夢占いをして、
『それはあなたが殺されることを意味しています。霜が降っていると思ったのは、あなたが殺されて塩が降られているのです。』
と答えた。
翌朝、雄鹿は雌鹿の占どおり、猟師に殺された。


奈良の鹿 親子

鹿の夏毛には白い斑点があるが、その斑点を塩に見立てたのだと思う。

そして謀反の罪で殺された人は塩を振られることがあり、 鹿とは謀反人の比喩ではないか、とする説がある。

さらに萩は別名を鹿鳴草という。
萩の白花はまるで塩をふったかのように見えるので、鹿鳴草と呼ばれているのではないだろうか。
萩の白花は雄鹿である。
萩の紫花のほうは雌鹿だと思う。

紫は ほのさすものぞ 海石榴市の 八十のちまたに 逢へる子や誰
(海石榴市の辻で逢った貴女は、何というお名前ですか。)

紫 の 匂える妹を憎くあらば ひと妻ゆえに 我恋めやも/大海人皇太子
(紫のように美しい貴女を憎く思えたならばどんなによかったでしょう。人妻であるのに私はこんなに貴女に恋焦がれています。)

これらの歌を鑑賞すると、紫とは男に出会った女がぽっと顔を染める様子を表す言葉であるように思えるからだ。

百毫寺 萩4

志貴皇子邸宅跡と伝わる百毫寺には萩の花が植えられていた。

そして、笠金村が志貴皇子の死を悼んで詠んだ晩歌がある。

高円の 野辺の秋萩 いたづらに 咲きか散るらむ 見る人なしに
(高円山の野辺の秋萩は、むなしく咲いて散るのだろうか。見る人もなく。)


この歌に詠まれた萩とは志貴皇子の比喩であることは明らかだ。

なぜ笠金村は志貴皇子を萩に喩えたのか。
笠金村は、志貴皇子が謀反の罪で殺されて塩がふられていることを伝えるため、萩(鹿鳴草)に喩えたのではないか。

ハンセン病患者の症状はさまざまだが、白い斑点ができるものがある。
志貴皇子は謀反の罪で殺されたがゆえに、萩に喩えられ、またハンセン病をもたらす神だと考えられたのではないかと思う。
(貧乏神が貧乏人の姿をしているように、ハンセン病をもたらす神はハンセン病を患った姿をしていると考えられたのではないだろうか。)

⑤道鏡や弓削浄人は志貴皇子の子?

奈良豆比古神社の伝説をもう一度みてみよう。

志貴皇子の第二皇子の春日王がハンセン病を患ってここ奈良坂の庵で療養した。
春日王には浄人王と安貴王という二人の子供があり、彼らは熱心に春日王の看病をした。
兄の浄人王は散楽と俳優(わざおぎ)が得意で、ある時、春日大社で神楽を舞って父の病気平癒を祈った。
そのかいあって春日王の病気は快方に向かった。

浄人王は弓をつくり、安貴王は草花を摘み、これらを市場で売って生計をたてた。
都の人々は兄弟のことを夙冠者黒人と呼んだ。
桓武天皇は兄弟の孝行を褒め称え、浄人王に『弓削首夙人(ゆげのおびとしゅくうど)』の名と位を与えて、奈良坂の春日宮の神主とした。


すでに見たように、この伝説には志貴皇子暗殺説をにおわせる情報が含まれていた。
しかし、この伝説が伝えようとしているのは、それでだけではない。

浄人王に弓削首夙人の名と位を与えたとある。
首夙人は位だと思う。夙は宿とも書き、非人のことをいう言葉だった。
(近畿地方には中世より寺社に隷属する非人がおり、坂の町などに住んでいた。)
つまり、首夙人とは『非人の長』というような意味だと思う。

すると、弓削が名だということになる。
弓削に浄人王の浄人をあわせると弓削浄人となる。

弓削浄人という名前には聞き覚えがある。
道鏡の弟が弓削浄人という名前なのだ。
道鏡と言う名前は法名であり、道鏡の俗名はわかっていないが、弓削安貴というのではないだろうか。

さらに『僧綱補任』『本朝皇胤紹運録』などでは、道鏡は志貴皇子の子であるとしている。
正史では道鏡や弓削浄人は志貴皇子の子とはされていない。
しかし、正史は為政者の都合のいいように書きなされるものだ。
『僧綱補任』『本朝皇胤紹運録』などが記すように道鏡は志貴皇子の子だというのが正しい可能性もある。
そして道鏡の弟の弓削浄人もまた志貴皇子の子なのかもしれない。

少なくとも、奈良豆比古神社の伝説を創作した人々は、道鏡や弓削浄人を志貴皇子の子とみなしているように思える。

⑥道鏡には正当な皇位継承権があった?

769年、宇佐八幡神託事件がおこった。

宇佐八幡で「道鏡を天皇にすべし」との神託があり、これを確認させるために女帝の称徳天皇は和気清麻呂を宇佐八幡宮へ派遣した。
宇佐から帰京した和気清麻呂は称徳天皇に「わが国は開闢このかた、君臣のこと定まれり。臣をもて君とする、いまだこれあらず。天つ日嗣は、必ず皇緒を立てよ。無道の人はよろしく早く掃除すべし」という大神の神託を奏上した。

「我が国は開闢以来、君主・臣下の身分が定まっている。臣下を君主にしたことはない。天皇は必ず皇室のものにせよ。皇室と関係のないものを天皇にしてはいけない。」というような意味だ。

これを聞いた称徳天皇はカンカンになって怒り、和気清麻呂を流罪にした。

しかし、770年に称徳天皇は急死してしまい、称徳天皇が重用していた道鏡は失脚して下野薬師寺に流罪となる。
そして志貴皇子の子である光仁天皇が即位した。
道鏡は数年後に下野でなくなり、庶民として葬られた。

しかし、道教もまた光仁天皇と同様、志貴皇子の子であったとしたら、どうだろうか?

「わが国は開闢このかた、君臣のこと定まれり。臣をもて君とする、いまだこれあらず。天つ日嗣は、必ず皇緒を立てよ。無道の人はよろしく早く掃除すべし」
という和気清麻呂の奏上を聞いて、称徳天皇がカンカンになって怒った理由がわかる。

「道鏡は志貴皇子の子で皇緒ではないか!無道なものではない!清麻呂の大ウソつき!」
と称徳天皇が言ったかどうかは知らないがW。

護王神社絵巻

護王神社絵巻より

春日宮天皇陵に背を向け、長い参道を引き返す。
参道からは茶畑の青い畝がなぜか印象的だった。

春日宮天皇陵付近の茶畑 



謎の歌人・猿丸太夫の正体とは⑫天皇の 神の御子の 御駕の 手火の光りぞ ここだ照りたる   へ続きます~



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