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謎の歌人・猿丸太夫の正体とは⑪ 志貴皇子が眠る場所 

謎の歌人・猿丸太夫の正体とは⑩ 志貴皇子 暗殺説 よりつづきます~
トップページはこちらです→謎の歌人・猿丸太夫の正体とは?①謎の歌人・猿丸太夫


①春日宮天皇 田原西陵

志貴皇子邸宅跡と伝わる百毫寺。
ここから車を東に走らせる。
車窓から見えるのは山と田圃と民家と。
どこにでもある田舎の風景で、古都奈良の趣はない。

道はしだいに上り坂となり、車窓から見えるのは木々の緑と青い空ばかりとなる。
やがてヘリポート、茶業振興センター、奈良県庁大和茶研究センターなどの建物が見えてくる。
こういった施設が作られているのは、もともと何もないあいた土地だったからではないか、と思ったりした。

ふと左手に目をやると、『春日宮天皇 田原西陵』と墨書された宮内庁の立て看板があった。
ここだ。

春日宮天皇陵

春日宮天皇(志貴皇子)陵へ向かう長い参道

春日宮天皇とは志貴皇子のことである。
志貴皇子は天皇ではなかった。
志貴皇子の第6皇子の光仁天皇が、父・志貴皇子を春日宮天皇と追尊したのである。

車をとめ、長い参道を歩いていく。
そのつきあたりに春日宮天皇 田原西陵はあった。

現在、春日宮天皇 田原西陵の周囲にはヘリポート、茶業振興センター、奈良県庁大和茶研究センターなどがある。
しかし周囲には民家もみあたらず、かつては随分寂しいところだったのではないかと想像される。
何もない土地であったからこそ、ヘリポート、茶業振興センター、奈良県庁大和茶研究センター等の施設がここに作られたのではないだろうか。

そんな場所に志貴皇子は眠っているのだ。



春日宮天皇陵2 
春日宮天皇(志貴皇子)陵

②志貴皇子暗殺説

日本続記や類聚三代格によれば、志貴皇子は716年に薨去したとあるが、万葉集の詞書では志貴皇子の薨去年は715年となっている。

志貴皇子の子である白壁王は、女帝の称徳天皇が急死したのち、即位して光仁天皇となっている。
これは志貴皇子には正統な皇位継承権があったということではないか。
そして志貴皇子は715年に暗殺されて、その死が1年近く隠されていたのではないか、
とする説がある。

私はこの説を支持する。志貴皇子は暗殺されたのだろう。
志貴皇子の薨去年が万葉集の詞書にあるように715年であり、志貴皇子に皇位継承権があったとすると
志貴皇子の死はあまりに元正天皇にとってタイミングが良すぎる。

元正天皇を即位させたいと考える勢力は次期天皇有力候補の志貴皇子を暗殺した。
そして暗殺したことが周囲にばれないように、志貴皇子の死は隠され、1年後にその死が公表されたのではないだろうか。

奈良豆比古神社 翁舞 

奈良豆比古神社 翁舞

奈良豆比古神社 翁舞 黒式尉

奈良豆比古神社 翁舞 三番叟

③志貴皇子と春日王は同一人物?

奈良豆比古神社にはこんな伝説がある。

志貴皇子の第二皇子の春日王がハンセン病を患ってここ奈良坂の庵で療養した。
春日王には浄人王と安貴王という二人の子供があり、彼らは熱心に春日王の看病をした。
兄の浄人王は散楽と俳優(わざおぎ)が得意で、ある時、春日大社で神楽を舞って父の病気平癒を祈った。
そのかいあって春日王の病気は快方に向かった。

浄人王は弓をつくり、安貴王は草花を摘み、これらを市場で売って生計をたてた。
都の人々は兄弟のことを夙冠者黒人と呼んだ。
桓武天皇は兄弟の孝行を褒め称え、浄人王に『弓削首夙人(ゆげのおびとしゅくうど)』の名と位を与えて、奈良坂の春日宮の神主とした。


春日王の子の浄人王が父・春日王の病治癒のために春日大社で舞った舞が、
10月8日に奈良豆比古神社で奉納されている翁舞のルーツなのだろう。

ところが地元にはもうひとつの言い伝えがある。
ハンセン病になったのは志貴皇子の子の春日王ではなく、志貴皇子であるというのだ。

志貴皇子は春日宮天皇と追尊された。また田原天皇とも呼ばれている。
志貴皇子の子の春日王は田原太子とも呼ばれていたという。
つまり、志貴皇子と春日王は、同じ名前をもっていたということになる。

志貴皇子・・・・・春日宮天皇・・・田原天皇
志貴皇子の子・・・春日王・・・・・田原太子

これらのことから私は志貴皇子と春日王は同一人物ではないかと考えた。

政治的陰謀によって不幸な死を迎えた者は怨霊となり、疫病の流行や天災をひきおこすと考えられていた。
暗殺された志貴皇子は怨霊となり、ハンセン病をひきおこす神であると考えられたのではないだろうか。

奈良豆比古神社 社殿

奈良豆比古神社

④志貴皇子は謀反人で死体に塩が振られていたので、萩やハンセン病患者に喩えられた?

なぜ志貴皇子はなぜハンセン病をひきおこす神であると考えられたのか。
志貴皇子はハンセン病を患っていたのか?
そうではないと思う。

トガノの鹿という話が日本書紀にある。

雄鹿が雌鹿に全身に霜が降る夢を見た、と言った。
雌鹿は夢占いをして、
『それはあなたが殺されることを意味しています。霜が降っていると思ったのは、あなたが殺されて塩が降られているのです。』
と答えた。
翌朝、雄鹿は雌鹿の占どおり、猟師に殺された。


奈良の鹿 親子

鹿の夏毛には白い斑点があるが、その斑点を塩に見立てたのだと思う。

そして謀反の罪で殺された人は塩を振られることがあり、 鹿とは謀反人の比喩ではないか、とする説がある。

さらに萩は別名を鹿鳴草という。
萩の白花はまるで塩をふったかのように見えるので、鹿鳴草と呼ばれているのではないだろうか。
萩の白花は雄鹿である。
萩の紫花のほうは雌鹿だと思う。

紫は ほのさすものぞ 海石榴市の 八十のちまたに 逢へる子や誰
(海石榴市の辻で逢った貴女は、何というお名前ですか。)

紫 の 匂える妹を憎くあらば ひと妻ゆえに 我恋めやも/大海人皇太子
(紫のように美しい貴女を憎く思えたならばどんなによかったでしょう。人妻であるのに私はこんなに貴女に恋焦がれています。)

これらの歌を鑑賞すると、紫とは男に出会った女がぽっと顔を染める様子を表す言葉であるように思えるからだ。

百毫寺 萩4

志貴皇子邸宅跡と伝わる百毫寺には萩の花が植えられていた。

そして、笠金村が志貴皇子の死を悼んで詠んだ晩歌がある。

高円の 野辺の秋萩 いたづらに 咲きか散るらむ 見る人なしに
(高円山の野辺の秋萩は、むなしく咲いて散るのだろうか。見る人もなく。)


この歌に詠まれた萩とは志貴皇子の比喩であることは明らかだ。

なぜ笠金村は志貴皇子を萩に喩えたのか。
笠金村は、志貴皇子が謀反の罪で殺されて塩がふられていることを伝えるため、萩(鹿鳴草)に喩えたのではないか。

ハンセン病患者の症状はさまざまだが、白い斑点ができるものがある。
志貴皇子は謀反の罪で殺されたがゆえに、萩に喩えられ、またハンセン病をもたらす神だと考えられたのではないかと思う。
(貧乏神が貧乏人の姿をしているように、ハンセン病をもたらす神はハンセン病を患った姿をしていると考えられたのではないだろうか。)

⑤道鏡や弓削浄人は志貴皇子の子?

奈良豆比古神社の伝説をもう一度みてみよう。

志貴皇子の第二皇子の春日王がハンセン病を患ってここ奈良坂の庵で療養した。
春日王には浄人王と安貴王という二人の子供があり、彼らは熱心に春日王の看病をした。
兄の浄人王は散楽と俳優(わざおぎ)が得意で、ある時、春日大社で神楽を舞って父の病気平癒を祈った。
そのかいあって春日王の病気は快方に向かった。

浄人王は弓をつくり、安貴王は草花を摘み、これらを市場で売って生計をたてた。
都の人々は兄弟のことを夙冠者黒人と呼んだ。
桓武天皇は兄弟の孝行を褒め称え、浄人王に『弓削首夙人(ゆげのおびとしゅくうど)』の名と位を与えて、奈良坂の春日宮の神主とした。


すでに見たように、この伝説には志貴皇子暗殺説をにおわせる情報が含まれていた。
しかし、この伝説が伝えようとしているのは、それでだけではない。

浄人王に弓削首夙人の名と位を与えたとある。
首夙人は位だと思う。夙は宿とも書き、非人のことをいう言葉だった。
(近畿地方には中世より寺社に隷属する非人がおり、坂の町などに住んでいた。)
つまり、首夙人とは『非人の長』というような意味だと思う。

すると、弓削が名だということになる。
弓削に浄人王の浄人をあわせると弓削浄人となる。

弓削浄人という名前には聞き覚えがある。
道鏡の弟が弓削浄人という名前なのだ。
道鏡と言う名前は法名であり、道鏡の俗名はわかっていないが、弓削安貴というのではないだろうか。

さらに『僧綱補任』『本朝皇胤紹運録』などでは、道鏡は志貴皇子の子であるとしている。
正史では道鏡や弓削浄人は志貴皇子の子とはされていない。
しかし、正史は為政者の都合のいいように書きなされるものだ。
『僧綱補任』『本朝皇胤紹運録』などが記すように道鏡は志貴皇子の子だというのが正しい可能性もある。
そして道鏡の弟の弓削浄人もまた志貴皇子の子なのかもしれない。

少なくとも、奈良豆比古神社の伝説を創作した人々は、道鏡や弓削浄人を志貴皇子の子とみなしているように思える。

⑥道鏡には正当な皇位継承権があった?

769年、宇佐八幡神託事件がおこった。

宇佐八幡で「道鏡を天皇にすべし」との神託があり、これを確認させるために女帝の称徳天皇は和気清麻呂を宇佐八幡宮へ派遣した。
宇佐から帰京した和気清麻呂は称徳天皇に「わが国は開闢このかた、君臣のこと定まれり。臣をもて君とする、いまだこれあらず。天つ日嗣は、必ず皇緒を立てよ。無道の人はよろしく早く掃除すべし」という大神の神託を奏上した。

「我が国は開闢以来、君主・臣下の身分が定まっている。臣下を君主にしたことはない。天皇は必ず皇室のものにせよ。皇室と関係のないものを天皇にしてはいけない。」というような意味だ。

これを聞いた称徳天皇はカンカンになって怒り、和気清麻呂を流罪にした。

しかし、770年に称徳天皇は急死してしまい、称徳天皇が重用していた道鏡は失脚して下野薬師寺に流罪となる。
そして志貴皇子の子である光仁天皇が即位した。
道鏡は数年後に下野でなくなり、庶民として葬られた。

しかし、道教もまた光仁天皇と同様、志貴皇子の子であったとしたら、どうだろうか?

「わが国は開闢このかた、君臣のこと定まれり。臣をもて君とする、いまだこれあらず。天つ日嗣は、必ず皇緒を立てよ。無道の人はよろしく早く掃除すべし」
という和気清麻呂の奏上を聞いて、称徳天皇がカンカンになって怒った理由がわかる。

「道鏡は志貴皇子の子で皇緒ではないか!無道なものではない!清麻呂の大ウソつき!」
と称徳天皇が言ったかどうかは知らないがW。

護王神社絵巻

護王神社絵巻より

春日宮天皇陵に背を向け、長い参道を引き返す。
参道からは茶畑の青い畝がなぜか印象的だった。

春日宮天皇陵付近の茶畑 



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謎の歌人・猿丸太夫の正体とは⑩ 志貴皇子 暗殺説 



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①鹿鳴草

百毫寺 萩

自然石を積んだ長い石段が白毫寺の山門へと続く。
その石段に覆いかぶさるように、白と紫の萩の花が咲き乱れていた。
萩が風をうけてなびく様は、見ているだけでなぜか心が 切なくなってくる。
秋はなぜ人の心を感傷的にするのだろうか・・・。

萩は別名を鹿鳴草と言う。
なぜ、萩の別名は鹿鳴草なのか。

日本書記に『トガノの鹿』という物語が記されている。

雄鹿が雌鹿に全身に霜が降る夢を見た、と言った。
雌鹿は夢占いをして、
『それはあなたが殺されることを意味しています。霜が降っていると思ったのは、あなたが殺されて塩が降られているのです。』
と答えた。
翌朝、雄鹿は雌鹿の占どおり、猟師に殺された。


奈良の鹿 親子

鹿の夏毛には白い斑点があるが、その斑点を塩に見立てたのだと思う。

そして謀反の罪で殺された人は塩を振られることがあり、 鹿とは謀反人の比喩ではないか、とする説がある。

萩の花には白と紫があるが、白い花のほうはまるで塩を振ったかのように見える。
萩の白い花は殺された雄鹿を表しているのだろう。

紫の花のほうは雌鹿をあらわしているのではないだろうか。

というのは次のような万葉歌があるからだ。

紫は ほのさすものぞ 海石榴市の 八十のちまたに 逢へる子や誰
(海石榴市の辻で逢った貴女は、何というお名前ですか。)

紫 の 匂える妹を憎くあらば ひと妻ゆえに 我恋めやも/大海人皇太子
(紫のように美しい貴女を憎く思えたならばどんなによかったでしょう。人妻であるのに私はこんなに貴女に恋焦がれています。)


これらの歌を鑑賞すると、紫とは男に出会った女がぽっと顔を染める様子を表す言葉であるように思える。

百毫寺 万葉歌碑

③高円の野辺の秋萩

本堂の奥の萩の茂みの中には歌碑が建てられていた。

高円の 野辺の秋萩 いたづらに 咲きか散るらむ 見る人なしに
(高円山の野辺の秋萩は、むなしく咲いて散るのだろうか。見る人もなく。)


この歌は笠金村が志貴皇子の死を悼んで詠んだ晩歌である。
百毫寺は志貴皇子の邸宅跡と伝わっている。
そのためここに歌碑をたてたのだろう。

また笠金村は 次のような歌も詠んでいる。

御笠山 野辺行く道は こきだくも 繁く荒れたるか 久にあらなくに
(御笠山の野辺を行く道は、これほどにも草繁く荒れてしまったのか。皇子が亡くなって久しい時も経っていないのに。)


タイトルや著者名を忘れてしまったのだが(すいません!)
以前、図書館で借りて詠んだ本に、こんな内容が記されていた。

日本続記や類聚三代格によれば、志貴皇子は716年に薨去したとあるが、万葉集の詞書では志貴皇子の薨去年は715年となっている。

笠金村のはじめの挽歌から、志貴皇子が人知れず死んだことがイメージされる。
そして二番目の挽歌では『志貴皇子が死んだのはついこの間のことなのに、野辺道がこんなに荒れているのはなぜなのだ』といぶかっているように思える。

志貴皇子の子である白壁王は、女帝の称徳天皇が急死したのち、即位して光仁天皇となっている。
これは志貴皇子には正統な皇位継承権があったということではないか。
そして志貴皇子は715年に暗殺されて、その死が1年近く隠されていたのではないか。


④志貴皇子を暗殺した人物とは

志貴皇子を暗殺したのは、元正天皇と舎人親王ではないかと私は考えている。

元正天皇が即位したのは715年である。
志貴皇子の薨去年が万葉集の詞書にあるように715年だったとしたら、志貴皇子の死はあまりに元正天皇にとってタイミングが良すぎる。
志貴皇子の死の原因を、周囲の人々はいぶかしく思うかもしれない。
そのため志貴皇子の死を隠したのではないだろうか。

百毫寺 萩4

元正上皇と舎人親王が贈答しあった歌が、万葉集にある。

あしひきの 山行きしかば 山人の 我に得しめし 山つとぞこれ/元正上皇
(山道を歩いていたところ、たまたま逢った山人が、私にくれた山の土産であるぞ、これは。)

あしひきの 山に行きけむ 山人の 心も知らず 山人や誰/舎人親王
(陛下は山へ行かれて山人に土産をもらったとおっしゃるのですか。「山人」とは誰のことなのでしょうか。山人とは陛下のことではありませんか。)

私はこの歌は志貴皇子の次の歌に対応しているのではないか、と思う。

むささびは 木末(こぬれ)求むと あしひきの 山の猟師(さつを)に 逢ひにけるかも/志貴皇子
(むささびは梢へ飛び移ろうとして、山の猟師につかまってしまったよ。)


大伴坂上郎女という人が次のような歌を詠んでいる。

大夫(ますらを)の 高円山に 迫めたれば 里に下り来る 鼯鼠(むささび)ぞこれ/大伴坂上郎女
(勇士たちが高円山で狩りをして、里に下りてきたむささびがこれです。)


大伴坂上郎の歌の中に『 高円山』とでてくるが、志貴皇子の邸宅跡とされる百毫寺は高円山の西の山麓にある。
高円山に住むむささびとは志貴皇子を比喩したものなのではないだろうか。

浮見堂 月

鷺池より高円山を望む


そして元正上皇がいう『山人』もまた志貴皇子を比喩していったもので、『山人がくれたみやげ』とは『志貴皇子の死=元正天皇の即位』を意味しているのではないか。

山人とは『山に住む人』『仙人』という意味であるが、『いきぼとけ』とよんで『心や容姿の美しい女性』のことをさす言葉でもあった。
それで舎人親王は、「山人=仙人=志貴皇子のことなどしらない。山人とは美しい女性という意味で、元正上皇のことではありませんか。」と答えたのだと思う。

むささびは 木末(こぬれ)求むと あしひきの 山の猟師(さつを)に 逢ひにけるかも/志貴皇子
(むささびは梢へ飛び移ろうとして、山の猟師につかまってしまったよ。)

この歌によまれたむささびとは志貴皇子自身のことで、漁師とは元正天皇または舎人親王のことをさしているのだと思う。

志貴皇子は、自分が元正天皇と舎人親王の陰謀で囚われの身となってしまったと嘆く歌のように私には思える。

百毫寺 萩2

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謎の歌人・猿丸太夫の正体とは?⑨志貴皇子と春日王は同一人物? 

謎の歌人・猿丸太夫の正体とは?⑧道教の弟・弓削浄人  よりつづきます~
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謎の歌人・猿丸太夫の正体とは?①謎の歌人・猿丸太夫

①浄人王は弓削浄人?

長い坂を登って、ようやく奈良豆比古神社へ到着した。

前回、ここを参拝したとき、10月8日に翁舞が行われると教えてくれた人があった。
謎の歌人・猿丸太夫の正体とは?⑧道教の弟・弓削浄人 

その方はこんな伝説も教えてくれた。

志貴皇子の第二皇子の春日王がハンセン病を患ってここ奈良坂の庵で療養した。
春日王には浄人王と安貴王という二人の子供があり、彼らは熱心に春日王の看病をした。
兄の浄人王は散楽と俳優(わざおぎ)が得意で、ある時、春日大社で神楽を舞って父の病気平癒を祈った。
そのかいあって春日王の病気は快方に向かった。

浄人王は弓をつくり、安貴王は草花を摘み、これらを市場で売って生計をたてた。
都の人々は兄弟のことを夙冠者黒人と呼んだ。
桓武天皇は兄弟の孝行を褒め称え、浄人王に『弓削首夙人(ゆげのおびとしゅくうど)』の名と位を与えて、奈良坂の春日宮の神主とした。


私は浄人王という名前と、弓削首夙人という名と位というのが気になっていた。
弓削首夙人という名と位というのは、たぶん弓削が名(姓)で首夙人が位だと思う。
つまり、浄人王は皇族であったが臣籍降下させられ、弓削姓を賜ったということではないかと思う。

葛城王は臣籍降下して橘姓を賜り橘諸兄と名のった。
橘が姓(セカンドネーム)、諸兄は名前(ファーストネーム)である。

弓削姓を賜った浄人王も橘諸兄のように、弓削何某という名を名乗っていたかもしれない。
しかし、弓削と浄人を単純にくっつけると弓削浄人となる。

私はこの名前には聞き覚えがあった。道鏡の弟の名前が弓削浄人というのだ。

この伝説を聞いて以来、弓削浄人という名前が気になって仕方なく、事あるごとにその名前が頭の中でリフレインされていた。

そして浄人王が春日大社で舞ったという父・春日王のハンセン病治癒を祈る舞をどうしても見たいという気持ちでいっぱいになった。

そういうわけで私は奈良坂を登ってきたのだった。翁舞を見るために。

②三番叟は猿丸太夫の舞?

日が暮れると舞殿前の篝火に火が入れられ、翁舞が始まった。
奈良豆比古神社 翁舞 千歳
篝火がたかれる中、小鼓の音と「いーやー、あいやー、おんはー」という掛け声が続く。
少年が扮する千歳が舞を舞ったのち、三人の大夫が舞台上で翁の面をつけた。
シテに神が憑依する瞬間である。

奈良豆比古神社 翁舞 白式尉2

一人の大夫が舞ったのち、三人翁の舞となった。
京都の八坂神社で見た能の『翁』では翁は一人であったが。

謎の歌人・猿丸太夫の正体とは?② 『翁は猿丸太夫の舞?』 

奈良豆比古神社 翁舞 三人翁

三人翁が退出したのち、三番叟が登場した。
三番叟は舞を舞ったのち、舞台上で黒い翁の面をつけ、鈴を持ってさらに舞った。

奈良豆比古神社 翁舞 黒式尉2

千歳・三人翁の舞はゆったりしたスローテンポの舞だが、三番叟の舞は激しい。
田植えをする所作のようにも見える。
三番叟の舞が終わると割れるような拍手が響き渡った。

奈良豆比古神社 翁舞 黒式尉

動作は奈良豆比古神社の翁舞のほうが激しいものの、八坂神社で見た能・翁とほとんど同じだ。

八坂神社 翁 黒式尉

八坂神社 翁 三番叟

猿丸神社の狛猿は手に御幣を持っていた。
黒式尉が手に持っているのは扇子と鈴で持ち物は違うが、頭にかぶっている帽子のようなものがとてもよく似ていた。

猿丸神社 狛猿

猿丸神社 狛猿

猿丸神社の御祭神は猿丸太夫である。
そして、私たちは旅の中でたくさんの三番叟の姿をした猿の像や狂言の猿を見てきた。
三番叟とは猿丸太夫の舞なのではないだろうか?

猿丸神社 狛猿


猿が辻 猿の像

京都御所 猿が辻の猿の像


千本閻魔堂狂言 靭猿

千本閻魔堂狂言 靭猿


新日吉神社 猿のレリーフ 

新日吉神社 御神猿


新日吉神社 猿の像

新日吉神社 狛猿


③ハンセン病をもたらす神

前回、ここを訪れたとき、ひとりの男性にあい、次のようなことを教えていただいた。

奈良豆比古神社にある3つの社のうち、中央は平城津彦(ならづひこ)神という産土の神を祀っている。

その向かって右には志貴皇子を祀っている。
『いわばしる 垂水のうえの さわらびの 萌えいづる春に なりにけるかも』
という有名な歌を詠まれた方である。
志貴皇子の子、白壁王が即位して光仁天皇となられた。
その際、光仁天皇は父親の志貴皇子を春日宮御宇天皇と追尊された。
志貴皇子の陵は高円山にあり、田原西陵と呼ばれているので田原天皇ともいわれている。

向かって左には志貴皇子の子の春日王を祀っている。
春日王は田原太子とも呼ばれている。

志貴皇子は天智天皇の第七皇子であったが、672年の壬申の乱(大友皇子vs大海人皇子)では大友皇子側についた。
壬申の乱では大海人皇子が勝利し、大友皇子は自害して果てた。
そのため乱後の志貴皇子は政治的に不遇であった。

その後、志貴皇子の第二皇子の春日王がハンセン病を患ってここ奈良坂の庵で療養された。
春日王の二人の息子・浄人王と安貴王は熱心に春日王の看病をされた。
兄の浄人王は散楽と俳優(わざおぎ)が得意だったので、ある時、春日大社で神楽を舞って父の病気平癒を祈った。
そのかいあって春日王の病気は快方に向かった。

浄人王は弓をつくり、安貴王は草花を摘み、これらを市場で売って生計をたてていた。
都の人々は兄弟のことを夙冠者黒人と呼んだ。
桓武天皇は兄弟の孝行を褒め称え、浄人王に『弓削首夙人(ゆげのおびとしゅくうど)』の名と位を与えて、奈良坂の春日宮の神主とした。


奈良豆比古神社 社殿

奈良豆比古神社 社

この話を聞いて私はこんなことを考えた。

⑴「貧乏神はいかにも貧乏そうな姿で表されることが多い。
疫病をもたらす疫病神は疫病を患った姿をしていると考えられたのではないだろうか。
春日王はハンセン病を患ったというが、本当にハンセン病を患ったという意味ではなく、ハンセン病をもたらす怨霊だったのではないか?

⑵日本には先祖の霊はその子孫が祭祀(供養)すべきという考え方があった。
春日王が怨霊であったとすれば、春日王は謀反人として不幸な死を迎えた人であったと考えることができる。
春日王の怨霊の祟りを鎮めることができるのは春日王の子である浄人王と安貴王、また彼らの子孫だということになる。

⑶浄人王と安貴王は夙冠者黒人と呼ばれていたが、夙とは中世から近年にかけて近畿地方に多く住んでいた賎民のことである。
春日王の子の浄人王と安貴王は非人だったのである。

⑷平安時代に承和の変をおこしたとして橘逸勢が姓を非人と改められて流罪になっている
非人とは謀反人もしくはその子孫のことではないか。

⑸桓武天皇は兄弟の孝行を褒め称え、浄人王に『弓削首夙人(ゆげのおびとしゅくうど)』の名と位を与えたというが、これは桓武天皇が浄人王と安貴王の官位をはく奪し『弓削』という名前を与えて非人にした、ということだろう。

⑹浄人王は皇族であったが、父の春日王が謀反人とされたため非人とされ弓削浄人という名前になったのだろう。
弓削浄人とは道鏡の弟の名前である。
道鏡は称徳女帝が次期天皇にしたいと考えていた人物である。

護王神社絵巻に描かれた道鏡 
護王神社絵巻に描かれた道鏡

④春日王は志貴皇子の荒霊?

先日、図書館で『別冊太陽・梅原猛の世界(平凡社)』という雑誌を借りて読んだ。
その中にここ奈良豆比古神社の翁舞についての記事があり、地元の語り部・松岡嘉平さんが次のような語りを伝承していると書いてあった。

志貴皇子は限りなく天皇に近い方だった。
それで神に祈るときにも左大臣・右大臣がつきそった。
赤い衣装は天皇の印である。
志貴皇子は毎日神に祈った。するとぽろりと面がとれた。
その瞬間、皇子は元通りの美しい顔となり、病は面に移っていた。
志貴皇子がつけていたのは翁の面であった。
左大臣・右大臣も神に直接対面するのは恐れ多いと翁の面をつけていた。
志貴皇子は病がなおったお礼に再び翁の面をつけて舞を舞った。
これが翁舞のはじめである。
のちに志貴皇子は第二皇子の春日王とともに奈良津彦神の社に祀られた。


室町時代、金春流の祖となる人が奈良坂に能を習いに通っていた。
京都御所でおこなわれる能舞台に立つために奈良豆比古神社に伝わる『肉つき面』を借りた。
しかし面はなかなか返却されず、ようやく戻ってきたのは『肉つき面』ではなかった。
村人たちは激怒して坂下で殺し、金春塚に葬った。


なんと、地元にはハンセン病になったのは春日王ではなくて志貴皇子だという伝承が伝わっているのだ。

志貴皇子は光仁天皇によって「春日宮御宇天皇」と追尊されている。
志貴皇子の陵は高円山にあり、田原西陵と呼ばれているので田原天皇ともいわれている。

そして春日王は田原太子とも呼ばれていた。
つまり、春日王と志貴皇子は同じ名前を持っているということになるが、皇族で親と子が同じ名前というケースはないと思う。

志貴皇子と春日王は同一人物なのではないか。

神が子を産むとは神が分霊を産むという意味だとする説がある。
とすれば、志貴皇子の子の春日王とは志貴皇子という神の分霊であるとも考えられる。
春日王が志貴皇子のことであるとすれば、春日王の子の浄人王・安貴王は志貴皇子の子だということになる。

桓武天皇は浄人王と安貴王に弓削という姓を与えたが、弓削浄人とは道鏡の弟の名前である。
道鏡の俗名はわかっていないが、弓削安貴という名前ではなかっただろうか。
さらに『僧綱補任』『本朝皇胤紹運録』などでは、道鏡は志貴皇子の子であるとしているのだ。
⑤瘤のあるうそぶき面

翁舞の奉納のあと、特別に公開されていた宝物館を見学させていただいた。
古い能面・狂言面が展示されていた。

その中にうそぶき(ひょっとこ)のお面があった。
額の右に瘤がある。

奈良豆比古神社 うそぶきの面

そういえば猿丸神社に瘤のある木がたくさん奉納されていたっけ・・・・。

猿丸神社 奉納された瘤のある木




謎の歌人・猿丸太夫の正体とは⑩ 志貴皇子 暗殺説 に続きます~





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謎の歌人・猿丸太夫の正体とは?⑧道教の弟・弓削浄人 

謎の歌人・猿丸太夫の正体とは?⑦ハンセン病患者は文殊菩薩の化身だった。  よりつづきます~
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謎の歌人・猿丸太夫の正体とは?①謎の歌人・猿丸太夫

①志貴皇子と春日王

般若寺の参拝をすませたあと、般若寺の向かいにある植村牧場さんソフトクリームを買い(ミルクの味が濃くてとても美味しいです。)ソフトクリームを食べながら、さらに奈良坂を登っていった。

ソフトクリームを食べ終わったころ、私は奈良豆比古神社に到着した。

境内の奥には丹塗りの玉垣と鳥居があり、鳥居の下から中をのぞき込むと3つの社が建てられていた。


奈良豆比古神社 社殿  

参拝を済ませた私に「こんにちは」と声をかけてくださる方があった。
振り向いてみると年配の男性が立っていた。
話を伺ったところ近所に住んでおられるということだった。
男性は次のようなことを教えてくださった。

「3つ社がありますやろ、真ん中の社に祀られている神さんは平城津彦(ならづひこ)神ゆうて、産土の神・・・この土地の守護神ですわ。
向かって右は志貴皇子です。有名な歌がありますやろ、
いわばしる 垂水のうえの さわらびの 萌えいづる春に なりにけるかも
この歌を詠みはった人です。
田原天皇・春日宮天皇ともいいますね。」

「ああ、志貴皇子の子の白壁王が即位して光仁天皇となられ、父親の志貴皇子を春日宮御宇天皇と追尊されたんでしたっけ。」

「そう、実際には志貴皇子は天皇ではなかったんですが、息子の光仁天皇が天皇の位をおくられたわけですわ。
志貴皇子の陵は高円山にあるんですけど、田原西陵と呼ばれているので田原天皇ともいわれています。
それから向かって左には志貴皇子の子の春日王をお祭りしています。
春日王は田原太子とも呼ばれていますが」

「えっ、父親が田原天皇で息子が田原太子ですか?」

「そうです、志貴皇子は天智天皇の第七皇子やったんですが、672年に壬申の乱がおきましてね・・・・」

「天智天皇の皇子の大友皇子と、天智天皇の弟の大海人皇子が皇位をめぐって争った戦いですね。」

「はい、その壬申の乱で志貴皇子は異母兄弟である大友皇子側につかれました。
御存じのように大友皇子は敗れて大海人皇子が天皇になられました。
そういうわけで乱後の志貴皇子は不遇でした。

その後、志貴皇子の第二皇子の春日王がハンセン病を患ってここ奈良坂の庵で療養されました。
春日王には浄人王と安貴王という二人の子供があって、この兄弟が熱心に春日王の看病をされました。
兄の浄人王は散楽と俳優(わざおぎ)が得意だったので、ある時、春日大社で神楽を舞って父の病気平癒を祈りはった。
そのかいあって春日王の病気は快方に向かったそうです。

浄人王は弓をつくり、安貴王は草花を摘み、これらを市場で売って生計をたてておられました。
都の人々は兄弟のことを夙冠者黒人と呼んだそうです。
親孝行な兄弟の評判が桓武天皇にの耳にもはいりまして、桓武天皇は兄弟の孝行を褒め称え、浄人王に『弓削首夙人(ゆげのおびとしゅくうど)』の名と位を与えて、奈良坂の春日宮の神主とされたそうです。」

「弓削・・・・・・?」

「木や竹を削っ弓を作ってはったんで弓削という名前を与えはったんと違いますかな。
・・・・・そうそう、10月にはここで翁舞の奉納がありますんで、よかったら見に来てください。」

「えっ、翁舞?能の翁と何か関係があるんですか?」

私は正月に八坂神社で翁という能を見たことを思い出していた。
謎の歌人・猿丸太夫の正体とは?② 『翁は猿丸太夫の舞?』 

八坂神社 翁 白式尉

八坂神社 翁 白式尉


八坂神社 翁 黒式尉

八坂神社 翁 三番叟

「奈良豆比古神社は古くから芸能の神として信仰されてましてね、明治維新頃までは能や歌舞伎の役者は奈良豆比古神社を参拝して興行許可を得とったそうです。
能の翁のルーツはここの翁舞やと私は思います。
セリフとかもよう似てますし。
ここの翁舞は三人翁いうて、翁が3人出てきますけどね。

10月8日に翁舞奉納がありますので、ぜひ見に来てください。」


②春日王はハンセン病をもたらす怨霊だった?

古においては神と怨霊は同義語であったとされる。
怨霊とは政治的陰謀により不幸な死を迎えた人のことで、天災や疫病の流行は怨霊の仕業で引き起こされると考えらえていた。
おそらく陰陽道の考えによるものなのだろうが、このような怨霊は神として祀り上げることで、守護神に転じるという信仰があった。
つまり、穢れ多い怨霊と、神聖なる神は表裏一体の存在だったのである。

ハンセン病患者は文殊菩薩の化身であると考えられていた。
先ほどお参りしてきた般若寺はハンセン病を患ったといわれる春日王を慰霊するための寺だと私は考える。
もしかすると春日王がハンセン病を患ったというのは事実ではないかもしれない。

こんな伝説がある。

光明皇后は千人の垢を長そうと発願された。
最後の一人は皮膚病(天然痘)の老人だった。
老人は光明皇后に背中の膿を口で吸いだしてくれ、と頼んだ。
光明皇后はためらうことなく、老人の背中の膿を口で吸いだした。
すると老人はたちまち阿閦如来となった。


貧乏神はいかにも貧乏そうな姿で表されることが多い。
疫病をもたらす疫病神は疫病を患った姿をしていると考えられたのではないだろうか。
光明皇后と行基の前に現れた天然痘を患った病人とは天然痘をもたらした神ではないだろうか。

法華寺 山茱萸 

光明皇后の千人風呂伝説が伝わる奈良・法華寺の浴室(からぶろ)


729年、長屋王が左道(正しくない方法)を用いて国家を傾けようとしているの密告があり、長屋王は厳しい取り調べにたえきれず自殺してしまった。
この事件は藤原四兄弟(藤原不比等の4人の息子、武智麻呂・房前・宇合・麻呂)の陰謀と考えられており、長屋王の死後、藤原四兄弟の妹・光明子は人臣として初めて皇后となり、藤原氏の権力は強固なものとなった。

ところがこの後、藤原四兄弟は天然痘で相次いで亡くなり「長屋王の怨霊のしわざ」だと噂された。
光明皇后の前にあらわれた天然痘を煩った老人とは長屋王の怨霊ではないだろうか。

しかし光明皇后が長屋王の怨霊の背中の膿を口で吸いだしたので、長屋王の怨霊は煩悩を捨てて成仏し、阿閦如来になったと、そういう話ではないかと思う。

これと同様、ハンセン病をもたらす神はハンセン病を患った姿をしていると考えられたのかもしれない。
すなわち、春日王は政治的陰謀によって不幸な死を迎え、死後怨霊になったと考えられた。
そしてハンセン病は春日王の怨霊の仕業でひきおこされると考えられていたのではないかということである。

③どんな人が非人になったのか

謎の歌人・猿丸太夫の正体とは?⑦ハンセン病患者は文殊菩薩の化身だった。 でお話したように、かつてここは非人の町だった。
一方、翁は能というよりは神事であるといい、、『別火を喰う』と言って、舞台に立つ7日前から家族と寝食を分かち、食事を調理する火も共用することが許されないという。
それほど神聖で穢れを嫌う神事を、非人が行っていたということに疑問を感じる人がいるかもしれない。
非人とは穢れた存在として差別された人々のことではなかったのか、と。

『別火』についてだが、昭和の時代の部落出身の人が『別火といって煙草の火を貸してもらえなかった』という意味の文章を書いておられたことを思いだす。
昭和という時代には『別火を喰う』ことは、神聖視というよりも蔑視の意味合いを持っていたようだ。

非人とは「人に非ず」という意味だが、人に非ずとは鬼であり、また神でもあるという両面の意味を持っていたのではないかと私は思う。
というのは先ほども述べたように、古において怨霊(鬼)と神は同義語であったとされるからだ。

それではどのような人たちが非人となったのだろうか。

日本には先祖の霊はその子孫が祭祀(供養)すべきという考え方があった。
その例は記紀にも記述がある。
崇神天皇代に大物主神の怨霊の祟りで疫病が流行ったが、大物主神の子の大田田根子を大神神社(大物主神を御祭神としている)の神官にしたところ疫病がおさまったというのである。
この話は、子孫が祭祀することで怨霊の祟りを鎮めることができるという信仰があったことを物語っている。

春日王が怨霊であったとすれば、春日王は謀反人として不幸な死を迎えた人であったと考えることができる。
春日王の怨霊の祟りを鎮めることができるのは春日王の子である浄人王と安貴王、また彼らの子孫だということになる。

さきほどの男性の話では、兄弟は夙冠者黒人と呼ばれていたということだったが、夙とは中世から近年にかけて近畿地方に多く住んでいた賎民のことである。
奈良坂に住む賎民は北山夙と呼ばれていた。
夙と非人は同様のものだと考えてもいいだろう。
春日王の子の浄人王と安貴王は非人だったのである。

また平安時代に承和の変をおこしたとして橘逸勢が姓を非人と改められて流罪になっている
非人とは謀反人もしくはその子孫のことではなかっただろうか。

桓武天皇は兄弟の孝行を褒め称え、浄人王に『弓削首夙人(ゆげのおびとしゅくうど)』の名と位を与えたということだったが、これを栄誉あることであるなどと考えてはいけない。
橘逸勢のケースと同様で、桓武天皇は浄人王と安貴王の官位をはく奪し『弓削』という名前を与えて非人にした、ということだろう。

浄人王は皇族であったが、父の春日王が謀反人とされたため非人とされ弓削浄人という名前になったのだろう。

弓削浄人という名前には聞き覚えがある。
奈良時代の女帝・称徳天皇が寵愛し、次期天皇にしたいとまで考えていた僧の名前を道鏡という。
道鏡は弓削氏の出身のため弓削道鏡とも呼ばれている。
その道鏡の弟の名前が弓削浄人なのだ。
弓削氏は王族ではないが・・・・。

護王神社絵巻に描かれた道鏡 
護王神社絵巻に描かれた道鏡





謎の歌人・猿丸太夫の正体とは?⑧志貴皇子と春日王は同一人物? へ続く~





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