謎の歌人・猿丸太夫の正体とは?⑥ 道鏡は本当に悪人なのか? よりつづきます~ トップページはこちらです→ 謎の歌人・猿丸太夫の正体とは?①謎の歌人・猿丸太夫 ※北山十八間戸に霊山寺(奈良市中町3879)境内の文殊菩薩像を合成。①非人とハンセン病患者なだらかな登り坂が続く奈良坂。 呼吸の乱れを整えるために立ち止まり、振り返ると坂の下に興福寺の五重塔が見えていた。 大きく深呼吸をしてから再び歩き始める。 しばらくすると柵で囲われた細長い長屋が見えてきた。 長屋の裏に回ってみると18個の裏戸があり、そのひとつひとつに「北山十八間戸」と文字が刻まれていた。 柵の中に入って見学したいと思ったが、出入口には鍵がかけられていた。 見学することはできないのだろうか? 思い切って長屋の隣にあるお好み焼き屋さんに尋ねてみた。 「あのう、北山十八間戸を見学したいんですが、どうしたらいいんでしょうか?」 するとおかみさんが 「はいはい、今鍵をあけますね。ちょっと待っててくださいね」 と言いながら、ぽんと好み焼きをひっくり返した。 どうやらこのお好み焼き屋さんが北山十八間戸を管理されているようである。 おかみさんはすぐに出てきて柵の鍵をあけてくださった。 そして次のように説明していただいた。 「ここは鎌倉時代、ハンセン病患者を救済するための福祉施設だったところです。 奈良時代に光明皇后が建てたとも、鎌倉時代に僧の忍性さんによって建てられましたともいわれています。 ここからもうちょっと北に行ったところに般若寺さんがあるんですが、もともとはその般若寺さんの北東にあったそうです。 1567年に戦災で焼けまして、1660年から1670年ごろにここに移りました。 2畳くらいの部屋が17つ、4畳くらいの部屋がひとつで、合計18つの部屋があります。 4畳くらいの部屋は仏間です。 1万8千人のハンセン病患者が利用したと言われてるんですよ。」 北山十八間戸がいつ誰によって建てられたものなのかについては、おかみさんが説明してくださったように2つの説があってはっきりしない。 しかし、なぜ奈良坂にハンセン病患者のための療養施設が作られたのかについてははっきりしている。 それは奈良坂が非人が住む町であったためである。 非人というと江戸時代に制定された身分制度を思い出すが、関西では中世より非人と呼ばれる人々がおり、多くは坂の町に住んでいた。 非人たちは寺社に隷属し、寺社の清掃、祭りの警備、死体の処理、神事などに携わっていた。 ここ奈良坂の非人たちは興福寺に隷属する民だった。 非人たちは非人宿(夙)に住み、病人の看護にも携わっていた。 奈良坂に北山十八間戸が作られたのは、ここに非人宿があったからだろう。 または北山十八間戸が先にあって、病人を看護するために非人宿が作られたのかもしれない。 いずれにせよ、北山十八間戸と非人に密接な関係があったことは事実である。  荒池より興福寺を望む②ハンセン病患者は文殊菩薩の化身北山十八間戸からさらに坂を上っていくと般若寺がある。 境内にはコスモスが咲き乱れ、その中にうずもれるように本堂が建っていた。 本堂の厨子の中には、獅子にのる文殊菩薩像が安置されていた。 文殊菩薩のお顔は少年のようであり、若々しく生き生きとしている。 般若寺般若寺は629年高句麗の僧・慧灌(えかん)によって創建された。 735年聖武天皇が伽藍を建立し、十三重石塔を建てて天皇自筆の大般若経を安置したといわれる。文殊菩薩の巨像を御本尊としていたが1490年に焼失した。 現在の文殊菩薩像は1324年に慶派仏師・康俊が刻んだもので、もともとは経像の本尊で秘仏だった。 本堂の御本尊が焼けてしまったのでかわりに本尊にしたという。 文殊菩薩は『智慧の菩薩』と言われている。 仏教の修行の結果として得られたさとりの智慧のことを般若という。 般若寺という寺名は文殊菩薩を祀っているところからくるのだろう。 能に用いる般若の面は『嫉妬や恨みの篭る女の顔』を表したもので、角が生えた恐ろしい形相をしている。 なので、鬼のことを般若というのだとずっと思っていたが、それは間違いだったのである。 般若坊という僧侶が面を作ったので般若面と呼ばれるのだとか、 『源氏物語』の葵の上が六条御息所の生霊にとりつかれた時、般若経を読んで怨霊を退治したところからそう呼ばれるようになったなどと言われている。 さきほど見学してきた北山十八間戸は、ハンセン病患者を救済するための福祉施設であったが、かつてハンセン病患者は文殊菩薩の化身であると考えられていたそうである。 宿の町・奈良坂にある般若寺の御本尊が文殊菩薩なのはこのためだろう。 般若寺はハンセン病患者の霊を弔うための寺なのだろうか。 いや、無名のハンセン病患者の霊を弔う寺だとは考えられない。 735年聖武天皇が伽藍を建立し、十三重石塔を建てたということは、それなりの身分で、ハンセン病を患った人がおり、その人物を弔うための寺であったのではないだろうか。 聖武天皇と同時代で、それなりの身分でハンセン病を患った人物がいる。 春日王だ。 回へつづきます~ 般若寺
謎の歌人・猿丸太夫の正体とは?⑧道教の弟・弓削浄人 へ続く~
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謎の歌人・猿丸太夫の正体とは?⑤猿楽と猿の三番叟 よりつづきます~ トップページはこちらです→ 謎の歌人・猿丸太夫の正体とは?①謎の歌人・猿丸太夫
①亥子祭平安時代、亥の日・亥の刻(10月の亥の日、午後10時ごろ)に亥子餅を食べると病気にならないという信仰があり、宮中において玄猪(げんちょ)の儀式が行われていた。 亥子祭はこの平安時代の宮中行事を再現したもので、11月1日に護王神社で行われている。 護王神社の舞殿に十二単姿の女房たち、束帯姿の殿上男たちが登場し、聖上を取り囲むようにして席につくと 舞殿の上は平安絵巻の世界へと一変する。 聖上が「神奈月時雨のあめのあしごとに我がおもふことかなへつくつく」と唱えながら小さな臼と柳の杵でゆっくりと餅をつく。 殿上男たちは「いのちつくつかさ」 女房たちは「いのちつくさいわい」 と唱えた。 その後、人々は餅を献上するため、行列をつくって御所へ向かった。 ②正史と喰い違いをみせる「護王神社絵巻」護王神社の外壁には絵巻物風のパネルが複数枚展示されていた。 タイトルは『護王神社絵巻』となっていて、769年の宇佐八幡宮神託事件などについて記されていた。 護王神社の御祭神は和気清麻呂と清麻呂の姉の広虫であるが、彼らはこの宇佐八幡宮神託事件に大きく関わった人物なのである。 私はこの『護王神社絵巻』を読んで、「えっ?」と思った。 少し私が知っている宇佐八幡神託事件とは内容が異なっていたからだ。 護王神社絵巻が正史の記述と違うからといって、護王神社絵巻の内容が嘘だとはいえない。 しかし正史と内容が違うということはきちんと認識しておいたほうがいいだろう。 ※ピンク色の文字は、護王神社絵巻に記された文章を転記したもの。そのころ弓削道鏡という僧侶がいて政治に口出しをして勝手なことをしていました。 役人たちは恐れてご機嫌を取るだけでした。
ある時、宇佐八幡宮のお告げとして「道鏡を天子さまにするように」と伝えた者がありました。 そこで天子さまは清麻呂公をお呼びになって 「その宇佐八幡宮のお告げが本当かどうか正してまいれ。」 と言いつけられました。
絵巻向かって左にはピンク色の僧衣を着た人物が描かれている。これが道鏡だろう。 道鏡の後ろには御簾があって、その中から女物の着物の裾が見えている。 これが天子さま、称徳天皇だと思われる。 天子さまは女性だったのだ。 道鏡は清麻呂に『わしの望みがかなったなら、おまえを重い役にしてやるからよろしく頼む。』と言いました。 ※ ウィキペディアの説明は正史の記録をもとに記述したものだと思うが、このような記述はない。 宇佐に着いた清麻呂公は八幡宮に一心にお祈りしました。 すると 「我が国は神代から君と家来の区別がはっきりと決まっている。 どんなことがあっても家来を天子さまにすることはできない。道にそむく者は早く追払ってしまえ。」 という神様のお告げがありました。 清麻呂公は都に帰り、神様のお告げを天子さまにお答えしました。 道鏡は怒って清麻呂公を大隈国へ、広虫姫を備後国へ流しました。※ウィキペディアの説明では、清麻呂の奏上に怒って流罪としたのは道鏡ではなく、称徳天皇となっている。 道鏡は清麻呂公を途中で殺そうと思い、家来に追いかけさせました。 その時、急に大嵐になったのでみんな逃げてしまいました。※このような記述もウィキペディアにはない。 清麻呂公は大隈国で少しの間も天子さまのことを忘れません。 藤原百川はお米を送って慰めました。 広虫姫が備後国で暮らしていた時、都から干し柿が届きました。 姫が育てた子供たちが送ってくれたのでした。※藤原百川がお米を送ったというのは、『百川伝』にも記されているので史実とみていいだろう。 1年あまりたちました。 天子さまからお使いがあって、清麻呂公と広虫姫は、都へ呼び戻されることになりました。
頭を下げているのが和気清麻呂だろう。 その前に座っているのは天子さまの使者だろうか? ③天子さまは二人いた。
あることがらについて、故意に話さないということは、世の中で頻繁に行われている。 護王神社絵巻は単に護王神社に伝わる伝説をそのまま描いただけで、故意ではないと思うが、重要なことが抜けている。 天子さまからお使いがあって、清麻呂公と広虫姫は、都へ呼び戻されることになりました。とある。 ここにある「天子さま」とは誰のことだろうか。 「その宇佐八幡宮のお告げが本当かどうか正してまいれ。」 と和気清麻呂にいいつけた天子さま、つまり称徳天皇のことだと思う人が多いのではないだろうか。
しかしこの天子さまは称徳天皇ではない。
宇佐八幡宮信託事件があった翌年の770年、称徳天皇は急病を患って崩御した。 看病のため称徳天皇に近づけたのは女官の吉備由利だけで、病回復のための祈祷も行われていない。 こうしたことから称徳天皇は暗殺されたのではないかとする説がある。 さらに称徳天皇の遺勅には「白壁王を天皇とすべし」と記されていたが この遺勅は藤原永手や藤原百川らがとりかえたものではないかとする説がある。 その結果、藤原永手・藤原百川らが推挙した白壁王が即位して光仁天皇となり、 道鏡は下野国へ流罪となり数年後に亡くなって庶民として葬られた。 和気清麻呂の罪が許されたのは称徳天皇が崩御されたあとのことで、光仁天皇の意思によるものだったのだ。 絵巻の文章は称徳天皇も光仁天皇もどちらも「天子さま」としており、称徳天皇が崩御されたことについては一言も触れられていない。 宇佐八幡宮神託事件についてご存じない方がこの『護王神社絵巻』をよむと、天子さまはひとりだと勘違いしかねない。  上の絵の女性は称徳天皇ではない。(このとき称徳天皇はすでに崩御されている。) ③道鏡は皇族だった?道鏡の父親は志貴皇子だとしている史料もあり、そうであれば道鏡は皇族であって正当な皇位継承権があったということになる。 とすれば称徳天皇が和気清麻呂の奏上、 「我が国は神代から君と家来の区別がはっきりと決まっている。 どんなことがあっても家来を天子さまにすることはできない。道にそむく者は早く追払ってしまえ。」を聞いてかんかんになって怒った理由もわかる。 道鏡は平将門・足利尊氏らとともに日本三大悪人のひとりに数えられるが、本当に彼らは悪い人間なのだろうか? 彼らが日本三大悪人とされたのは明治から戦前の皇国史観によるものだ。 道鏡の地元・大阪府八尾市には「道鏡を知る会」があり、道鏡の名誉回復に努力されているそうである。 謎の歌人・猿丸太夫の正体とは?⑦ハンセン病患者は文殊菩薩の化身だった。 へつづきます~ いつも応援ありがとうございます♪
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謎の歌人・猿丸太夫の正体とは?④猿と三番叟 よりつづきます~ トップページはこちらです→ 謎の歌人・猿丸太夫の正体とは?①謎の歌人・猿丸太夫①新日吉神社は豊国神社の復活を目的として再建された?前回、新日吉神社と方広寺・豊国神社・妙法院・豊国廟(豊臣秀吉の墓)の関係について記した。 方広寺は豊臣秀吉が大仏を建てた寺で、創建当時の方広寺の敷地は、妙法院・現在の豊国神社・京都国立博物館・三十三間堂の敷地を含む広大なものだった。 秀吉の墓は方広寺東にある阿弥陀ヶ峯山頂に埋葬され、阿弥陀ヶ峯の山ろくに廟所が建立された。 廟所は豊国神社と命名された。 1615年、豊臣家が滅亡すると徳川家康は豊国神社を廃絶させた。 (現在、方広寺の隣にある豊国神社は1868年に明治天皇の勅命によって再興されたもの。) 1640年、旧豊国神社参道上(現在地よりもやや北がわ)に新日吉神社が再建された。 (1160年、後白河天皇が法住寺殿の鎮守として現在地より南に創建されたが、遷宮を繰り返していた。) これについて、豊国廟への参拝を妨げるため、幕府が豊国神社旧参道に新日吉神社を再建したのではないかとする説がある。 しかし、ウィキペディアは次のような理由から、新日吉神社の再建は豊国神社の復活ではないかと記しており、 私はこれを支持している。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B9%E5%BA%83%E5%AF%BAa.新日吉神社は、豊国神社の参道を塞ぐように再建されたため、「幕府が豊国廟への参拝を妨げるために再建した」との説が明治以降流布した。 b.新日吉神社の再建に幕府が積極的に関わった形跡はなく、伝承では再建したのは後水尾上皇、直接に関与したのは妙法院の尭然法親王(後水尾実弟)である。 c.再建新日吉神社には明暦元年(1640)に樹下(このした)社(現在は豊国社と改称)が勧請され、そこには妙法院で密かに保管されていた豊国神社のご神体も祀られた。 秀吉の元姓は木下、幼名は日吉丸だった。 d.a~cの理由から、新日吉社の再建は、実は「豊国神社の復活」ではなかったかとの見方もある。 ②後白河上皇の御所・法住寺殿を偲ぶ前回、この付近を訪れたのは紅葉が色づく秋だった。 季節はめぐり、今は春。 桜の花で薄紫色に煙る東山を私はぶらぶらと散歩していた。 新日吉神社豊国神社を復活させるために再建されたとも考えられる新日吉神社。 この新日吉神社の歴史は豊臣秀吉以前に遡る。 平安時代末期、後白河上皇は法住寺殿という広大な御所に住んでおり、新日吉神社はその法住寺殿の鎮守として創建されたのだ。 新日吉神社から少し歩くと法住寺もあるが、大変小さな寺で、広大な敷地面積を有していた法住寺殿の面影はない。 法住寺法住寺の向かい側には三十三間堂がある。 細長い堂内には千一体もの千手観音が安置されていることで有名である。 三十三間堂は法住寺殿の鎮守寺だった。 三十三間堂三十三間堂から東大路通を南に向かって歩いていくと、新熊野神社がある。  新熊野神社は1160年、後白河上皇の命を受けた平清盛が紀伊国・熊野三山の熊野権現を勧請し、後白河上皇の御所・法住寺殿の鎮守社として創建された。 後白河上皇は33回または34回もの熊野御幸を行ったことで有名である。 厚く熊野の神を信仰しており、そのため法住寺殿の鎮守社として熊野の神を勧請したのだろう。 境内にはかつての新熊野神社付近の地図を描いた案内板が建てられていた。 ②熊野本宮大社 境内には和歌山県にある熊野本宮大社についての説明板もあった。 ↑ 新熊野神社のHPを見るとこの像の写真の下に次のような説明が記されていた。 花の窟(はなのいわと)とは三重県熊野市有馬にあり、日本書紀にはイザナミ命の葬られた場所と記されている。現在は切り立った大岸壁の前に鳥居が建っているに過ぎないが、熊野信仰の原点ともいえる場所である。春と秋に例大祭が行われるが、その時には長さ170mの〆縄が張られ、そこに季節の花や果物・扇などが吊り下げられる。この社では、表面にイザナギ・イザナミ命の国造り神話を描くことで、当社の主祭神イザナミ命の神格を記している。
http://imakumanojinja.or.jp/keidaiannai2.html より引用
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新熊野神社の御祭神はイザナミなのである。 ちなみに和歌山の熊野本宮大社の御祭神は家津美御子(けつみみこ/スサノオ)である。 熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社をあわせて熊野三山といいそれぞれ御祭神は次のようになっている。 熊野本宮大社 御祭神 家津美御子(けつみみこ/スサノオ) 熊野速玉大社 御祭神 熊野速玉大神(イザナギ) 熊野那智大社 御祭神 熊野夫須美大神(イザナミ) ③今熊野猿楽新熊野神社には今熊野猿楽についての石碑も建てられていた。 
石碑に「世阿弥 義光 機縁の地」と書いてあり、その傍らの説明板には次のように記されていた。 能楽大成、機縁の地
当地は能楽の大成者世阿弥が、まだ藤若丸と称していた文中三年(1374)のころ 父の観世清次と共に大和の猿楽結崎座を率い観勧興業を行ったところで、 世に「今熊野勧進猿楽」と呼ばれ、見学していた室町幕府第三代将軍義光が、その至芸に感激、二人を同朋衆に加え 父子を、それぞれ観阿弥・世阿弥と名乗らせた機縁の地である。 時の将軍の援助をうけた世阿弥は父の志をつぎ後顧の憂いなく猿楽の芸術性を高めるため日夜研究努力を重ね、 これを今日の能楽に大成させた。
謡曲史跡保存会 |
※改行は筆者が適当に入れた。 この説明板に猿楽という言葉が出てくる。 帰宅後、ネットで調べてみたところ、能楽と呼ばれるようになったのは明治以降で、それ以前、能楽は猿楽と呼ばれていたそうである。  今熊野能楽の絵が記された石碑もあった。 向かって左上の黒い面、黒い着物を着た人物は三番叟だ。 八坂神社 翁 三番叟④猿が三番叟の姿をしているのは猿楽だから?ここまでの旅の中で、私たちはいくつかの猿の三番叟を見てきた。  猿丸神社 狛猿 京都御所 猿が辻の猿の像 千本閻魔堂狂言 靭猿 新日吉神社 御神猿 新日吉神社 狛猿猿が三番叟の姿をしているのは、三番叟が猿楽の演目だからなのだろうか? 謎の歌人・猿丸太夫の正体とは?⑥ 道鏡は本当に悪人なのか? に続きます~ 写真ブログのはずだったのにほとんど歴史ブログになってしまった 心の旅 もよろしくおねがいします。
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謎の歌人・猿丸太夫の正体とは?③三番叟 よりつづきます~
トップページはこちらです→謎の歌人・猿丸太夫の正体とは?①謎の歌人・猿丸太夫①豊臣秀吉、善光寺如来の祟りで死亡。豊国神社の御祭神となる。1567年、『東大寺大仏殿の戦い』で東大寺大仏殿は戦火によって消失し、大仏の首も落ちてしまった。 (現在の東大寺大仏殿は1709年に再建されたもの。大仏の頭部も江戸時代に補修された。) 豊臣秀吉は東大寺の大仏に変わるものとして新しく大仏を造立し、京都の方広寺大仏殿に安置した。 当時の方広寺の敷地は、妙法院・現在の豊国神社・京都国立博物館・三十三間堂の敷地を含む広大なものだった。 ところが1596年、慶弔伏見地震によってこの大仏は倒壊してしまう。 そこで1597年、秀吉は善光寺如来(善光寺の御本尊だが、当時は甲斐にった。)を大仏殿に移して本尊とした。 1598年 秀吉は病を患い、善光寺如来の祟りではないかということで、善光寺如来は信濃の善光寺へ戻された。 しかし1599年に秀吉は死亡してしまった。 1599年、遺命に従い、秀吉の遺体は方広寺東にある阿弥陀ヶ峯山頂に埋葬され、阿弥陀ヶ峯の山ろくに廟所が建立された。 秀吉は奈良東大寺大仏殿の鎮守・手向山八幡宮にならって自分を「新八幡」として祀るように遺言していた。 しかし、朝廷は「新八幡」ではなく「豊国乃大明神(とよくにのだいみょうじん)」の神号を与え、廟所は豊国神社と命名された。 毎年8月18日の秀吉の年忌には豊国祭と呼ばれる盛大な祭りが行われたという。 ②徳川家康、方広寺鐘銘に大激怒!豊臣家を滅亡させる。秀吉の死後、豊臣秀頼が方広寺の大仏を作り直す計画をたてた。 秀吉が作った大仏は木造漆膠だったが、秀頼は銅造で大仏を作ろうとした。 ところが1602年、流し込んだ銅が漏れ出て火災が起き、造営中の大仏と方広寺大仏殿は消失してしまった。 1610年、方広寺大仏殿は再建され、1610年には梵鐘が完成した。 ところが家康がこの梵鐘の銘文「国 家安 康」「君 臣豊楽」に大激怒! 「国家安康」だと?これは家康の名前を切っているじゃないか! 「君臣豊楽、子孫殷昌」は「豊臣を君として子孫の殷昌を楽しむ」という意味ではないか! けしからんーーーー!と。 そしてこれを理由に豊臣秀頼の居城・大阪城を責め、豊臣家を滅亡させてしまったのである。 ③新日吉神社は豊国廟への参拝を妨げるために再建された?1615年、豊臣家が滅亡すると徳川家康は、後水尾天皇の勅許をえて豊国大明神の神号を剥奪し、豊国神社も廃絶させた。 (現在、方広寺の隣にある豊国神社は1868年に明治天皇の勅命によって再興されたもの。) 1640年、旧豊国神社参道上(現在地よりもやや北がわ)に新日吉神社が再建された。 (1160年、後白河天皇が法住寺殿の鎮守として現在地より南に創建されたが、遷宮を繰り返していた。) これについて、こんなことがまことしやかに言われている。 豊国廟への参拝を妨げるため、幕府が豊国神社旧参道に新日吉神社を再建したのではないかと。 ④新日吉社の再建は豊国神社の復活?ところがウィキペディアを調べてみると、次のようなことが記されていた。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B9%E5%BA%83%E5%AF%BAa.新日吉神社は、豊国神社の参道を塞ぐように再建されたため、「幕府が豊国廟への参拝を妨げるために再建した」との説が明治以降流布した。 b.新日吉神社の再建に幕府が積極的に関わった形跡はなく、伝承では再建したのは後水尾上皇、直接に関与したのは妙法院の尭然法親王(後水尾実弟)である。 c.再建新日吉神社には明暦元年(1640)に樹下(このした)社(現在は豊国社と改称)が勧請され、そこには妙法院で密かに保管されていた豊国神社のご神体も祀られた。 秀吉の元姓は木下、幼名は日吉丸だった。 d.a~cの理由から、新日吉社の再建は、実は「豊国神社の復活」ではなかったかとの見方もある。 この説はつじつまがあっており、読むとなるほどと納得させられる。 ⑤猿の三番叟
そんな歴史を頭の中に思い描きながら、私は京都の町を練り歩いていた。 かつては広大な敷地面積を有していたという方広寺だか、現在は小さな寺で像高19mもあったという大仏もない。 大仏は1610年に作り直されたが、1662年の地震で大破。 大仏に用いられていた銅は銅銭にされたという。 1667年、大仏は木造で作り直された。 ところが1798年の落雷でまたしても焼失している。 天保年間(1830年 - 1844年)、尾張国の有志により、上半身のみの大仏が木造で再興されたが 1973年、この大仏も火災で焼失してしまったという。 かつて大仏殿があったという場所には小さな石碑が建てられているだけである。 ガラス張りの本堂内部には廬舎那仏像が安置されているが、像高は2mぐらいだろうか。 方広寺ただ、徳川家康を激怒させた梵鐘は現存しており、「国 家安 康」「君 臣豊楽」の文字もはっきりと読み取れた。 方広寺 鐘楼 方広寺鐘銘方広寺の隣には1868年に明治天皇の勅命によって再興された豊国神社があった。 方広寺より豊国神社を望む(柵の向こう側が豊国神社)豊国神社の一本東の通りには豊国神社のご神体が密かに保管されていた妙法院がある。  妙法院の南に面した道路には豊国廟参道と記された石碑が建てられていた。  この道を東にまっすぐ進んでいくと新日吉神社だ。  新日吉神社の拝殿の前には金網をかぶせられた阿吽の猿が置かれていたが、その阿形の猿は三番叟のいでたちをしていた。  三番叟とは能・翁で、黒い翁面をつけて舞う舞のことを言う。 八坂神社 翁 三番叟今回の旅のスタート地点・猿丸神社にも同様の像があったが、手には鈴と扇ではなく御幣を持っていた。 ただし、頭にかぶっている帽子は三番叟のものにそっくりである。 猿丸神社 狛猿また、京都御所の猿が辻や千本閻魔堂狂言の演目「靭猿」なども三番叟の細長い帽子をかぶっていたが、手には御幣や扇子をもっていた。  猿が辻 東北の角をつくらないよう、塀を内側に凹ませてある。 京都御所 猿が辻の猿の像(塀の瓦の下に設置されている。) 千本閻魔堂狂言 靭猿しかし、新日吉神社の猿は手に鈴と扇子をもっており、八坂神社で見た三番叟と持ち物が全く同じだった。 新日吉神社 御神猿さらに新日吉神社本殿向拝柱上方にある御神猿(説明版の写真)もまた手に鈴と扇子を持っており三番叟だと考えてよさそうだった。
どうも、三番叟と猿は関係が深そうである。 謎の歌人・猿丸太夫の正体とは?⑤猿楽と猿の三番叟 に続きます~ 写真ブログのはずだったのにほとんど歴史ブログになってしまった 心の旅 もよろしくおねがいします。
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①米原子供歌舞伎 古い民家が立ち並ぶ細い道を、はっぴ姿の若者たちが曳山を曳いてやってくる。 曳山は御殿のような造りになっていて、その中で子供歌舞伎が行われた。 松翁山で上演された「神霊矢口の渡し」。 ヒロイン役の男の子の色っぽさにしびれる❤ j歌舞伎義太夫さんの語りもすばらしい。 ●人形振り
もともと人形浄瑠璃・文楽の演目だったものを歌舞伎の演目としたものがある。 このような演目のものを「義太夫狂言(ぎだゆうきょうげん)」という。 義太夫狂言では俳優が人形の動きをまねて演じる『人形振り』が演じられる。 『ガラスの仮面』の北島マヤもやっていたが、人形を演じるというのは難しそうだ。 ②生き稚児は神の使い? 芝居が終わると大人の男性が子供の役者を抱きかかえて山からおろした。 これを見て、私は祇園祭を思い出した。 祇園祭 長刀鉾 祇園祭・長刀鉾には生き稚児と呼ばれる少年を乗せる。 その生き稚児を鉾から降ろすさい、強力とよばれる男性が稚児を肩に載せて下すのだ。 祇園祭の生き稚児や子供歌舞伎の俳優さんたちはは神の使いなので、地面に足をつけてはいけないと考えられたのではないだろうか。 米原子供歌舞伎 寿山 ③童子は艮=鬼をあらわす? 少年が神聖視されたのは世俗に汚されていないためだろうが、他にも理由があると思う。 干支の丑寅は方角では東北で、東北は鬼の出入りする方角=鬼門とされている。  また鬼の温羅は別名を丑寅御前といい、艮=丑寅は鬼そのものをさす言葉でもあったように思われる。 そして丑寅=艮は八卦では童子を表している。 つまり、童子=艮=鬼、なのだと思う。 節分の鬼は結髪していないが、結髪しないのは子供の髪型で童形(どうぎょう)といわれる。 千本釈迦堂 おかめ節分 京都・八瀬の人々は鬼の子孫と称し、かつては大人になっても結髪しない童形であったため八瀬童子と呼ばれていたという。 このことから考えても、童子は鬼を表しているといえるのではないだろうか。 そして鬼は怨霊と言ってもいいだろうが、日本では怨霊と神とは同義語であったといわれる。 怨霊=祟り神は祀り上げることでご利益を与えてくださる神に転じるというような信仰が古の日本にはあったのである。 子供歌舞伎に登場する少年たちは、鬼でありまた神であると信仰されていたのではないだろうか。 ↓舞台の縁側部分は折り畳み式になっていて、俳優さんが縁側を通るときは大人の男性が縁の下に入って縁側を支える。 まさしく縁の下の力持ちである。 ④『縁の下の力持ち』の語源 ただ縁側を支えるというだけなら縁の下に太い柱などを置いてもよさそうなものだ。
わざわざ人が支えているのは、その上で演技をする子供の役者さんたちを神聖視しているからではないだろうか。
「縁の下の力持ち」の語源は大阪・四天王寺で経供養の際、聖霊院の庭で「縁の下の舞」が行われたことからくるとも言われている。 「縁の下」は建物の縁の下にある庭で行うことを意味しているのだと思う。 経供養の舞は昔は非公開だったそうで、そこから人目につかないところで骨を折ることに例えられたといわれる。 四天王寺 経供養(この日は雨天のため、建物の中で行われたが、通常は庭で行われる。) 現在、経供養の舞は公開されていて、誰でも見学することができる。 しかし、米原子供歌舞伎のほうが「縁の下の力持ち」という言葉にピッタリくるように思える。 案外、「縁の下の力持ち」の語源は米原子供歌舞伎の舞台を支える人の姿が語源なのかもしれない。 ⑤三番叟
旭山では、以前八坂神社で見た、翁の舞に似たような舞が行われていたので、小さく「あっ」と声をあげてしまった。
黒い面は被っていないが、長細い帽子、手に鈴と扇をもっているなどいでたちも似ている。

地元の人に伺ったところ、これは三番叟だという。
「かつて能・翁では父尉・翁・老人(叟)の順に舞を舞うとたんですわ。 室町時代ごろ、父尉が省かれるようになりましてん。 老人の舞を三番叟といい、大変おめでたい舞やいうことで、三番叟のみを舞うようにもなったみたいですね。」
やはり、『翁』だったのだ。
八坂神社 翁 黒式尉(三番叟)

猿丸神社 狛猿
謎の歌人・猿丸太夫の正体とは?④猿と三番叟 につづきます~
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謎の歌人・猿丸太夫の正体とは?①謎の歌人・猿丸太夫 よりつづきます~
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①鴨川は三途の川に喩えられていた?
阪急河原町駅で下車し、四条通を東に向かって歩いていく。 しばらくすると鴨川があり、四条大橋の上を大勢の人が行き交っている。 中には晴れ着を着た人や、破魔矢を手に持つ人の姿がある。 今日は1月3日、八坂神社や六波羅光寺の初詣に行った帰りなのだろう。
橋を半分ほど渡ったところに般若心経を唱える托鉢の僧がいた。 僧の姿を見ると、今からあの世に行くのだ、という思いがこみ上げてきた。
『あの世に行く』とはどういうことか。
北に丘陵、南に湖沼、東に流水、西に大道がある土地のことを四神相応の地という。 丘陵には玄武、湖沼には朱雀、流水には青龍、大道には白虎という想像上の聖獣が棲むと考えられ、風水ではこのような場所を大変縁起のいい場所だとしている。
平安京は四神相応の地を選んで作られた。 すなわち、平安京は北の船岡山、南の小椋池(現存せず)、西の山陰道、東の鴨川に囲まれた土地を選んで建都されたのである。
四条大橋を超えて東山に向かうことは、平安京の外に向かうということである。 (厳密にいえば平安京の東の端は寺町通あたりなので、阪急四条河原町駅についたあたりで平安京を出たことになる。)
昔の人は平安京の中をこの世、平安京の外をあの世と考えたということを聞いた記憶がある。 すると四条大橋を渡ることはこの世(平安京)からあの世(平安京の外)へ行くことになる。 昔、鴨川はこの世とあの世の境を流れる三途の川に喩えられたのではないだろうか。
951年、京の町では疫病が流行し、鴨川のほとりは死体で溢れかえるほどの惨状となったと伝えられる。 当時の人々にとって鴨川はまさしく三途の川そのもののように映ったことだろう。
今でも鴨川の西は商店街や銀行、デパート、オフィスビルなどが立ち並んで人が生活する町という雰囲気であるのに対し、 鴨川の東は神社仏閣が多く、鳥辺野の風葬地の名残を残すという東大谷墓地などもあって、あの世という雰囲気が漂っている。
②翁は猿丸太夫の舞?
四条大橋を超え、まっすぐに歩いていくと突き当りに赤い楼門が見えてくる。 八坂神社である。
大晦日から元旦にかけての深夜、八坂神社は大勢の初詣客で賑わう。 神前で手を合わせるために3時間も並んだなどという話も聞く。 この日は1月3日なので、そこまでのことはなかったが、それでも神前には参拝客の長い行列ができていた。 私は行列の後ろのほうで手を合わせてお参りをし、八坂神社境内にある能舞台へと向かった。 能舞台の前のベンチはすでに人で埋め尽くされていた。 この日、八坂神社では初能奉納があるのだった。 能の演目は「翁」である。
まもなく舞台の上に囃し方が登場し、つづいてシテ(役者)が登場した。
シテは舞台の上でお面をつけた。 舞台上でお面をつけるのは能の中でも翁だけである。
『翁」は『能にして能にあらず』『能というよりも神事である』などといわれている。 シテは舞台に立つ7日前から家族と寝食を別にし、食事を調理する火も共用することが許されない。 これを『別火を喰う』と言う。
「とうとうたらりたりらら」 翁(白式尉/はくしきじょう)のよく通る声が、冬の澄んだ青空にこだました。
「とうとうたらりたりらら」とはどういう意味なのか、よくわかっていないらしい。 おそらく古い言葉で、長い年月を経るうちにわからなくなってしまったのだろう。 和歌の枕詞などももともとは意味があったのだろうが、意味が分からなくなってしまったものが多い。
しばらくするとさきほどの翁とは別の翁がやはり舞台上で面をつけ、鈴を振って足拍子を踏み鳴らした。 私はその翁を見てとても驚いた。
翁の面が真っ黒だったからである。 黒い面の翁(黒式尉)は黒人なのか? しかし顔立は日本人のようである。
また、このいでたちは、猿丸神社の狛猿を思いださせる。

猿丸神社 狛猿
猿丸神社の狛猿は手に御幣を持っていた。 黒式尉が手に持っているのは扇子と鈴で持ち物は違うが、頭にかぶっている帽子のようなものがとてもよく似ているではないか。
もしかして能・翁とは猿丸太夫の舞なのだろうか?
八坂神社 舞殿

八坂神社 西楼門
謎の歌人・猿丸太夫の正体とは?③三番叟 につづきます~
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小野小町は男だった⑯(最終回) 『わがみよにふるながめせしまに』 よりつづきます~
新宿にゴジラが現れた! ①日本の新型コロナウィルス対策は感染拡大やむなし、重症患者を救うことを意図している。
新型コロナウィルスが流行している。
厚生労働省は「みなさまにお願いしたいこと」としてHPに次のように記している。
この1~2週間の動向が、国内で急速に感染が拡大するかどうかの瀬戸際であると考えています。そのため、我々市民がそれぞれできることを実践していかねばなりません。 特に、風邪や発熱などの軽い症状が出た場合には、外出をせず、自宅で療養してください。ただし、以下のような場合には、決して我慢することなく、直ちに都道府県に設置されている「帰国者・接触者相談センター」にご相談下さい。
●風邪の症状や37.5°C以上の発熱が4日以上続いている(解熱剤を飲み続けなければならないときを含みます) ●強いだるさ(倦怠感)や息苦しさ(呼吸困難)がある ※ 高齢者や基礎疾患等のある方は、上の状態が2日程度続く場合
また、症状のない人も、それぞれが一日の行動パターンを見直し、対面で人と人との距離が近い接触(互いに手を伸ばしたら届く距離)が、会話などで一定時間以上続き、多くの人々との間で交わされるような環境に行くことをできる限り、回避して下さい。症状がなくても感染している可能性がありますが、心配だからといって、すぐに医療機関を受診しないで下さい。医療従事者や患者に感染を拡大させないよう、また医療機関に過重な負担とならないよう、ご留意ください。 教育機関、企業など事業者の皆様も、感染の急速な拡大を防ぐために大切な役割を担っています。それぞれの活動の特徴を踏まえ、集会や行事の開催方法の変更、移動方法の分散、リモートワーク、オンライン会議などのできうる限りの工夫を講じるなど、協力してください。
https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/newpage_00006.html より引用
増上寺と東京タワー
この方針について反対意見もあるが、私はまず妥当ではないかと考えている。
「風邪をひいたら病院に行くのは当たり前、なぜ病院に行ってはいけないのだ」という考え方の人もおられるだろう。 しかし、素人考えだが、普通の風邪なら2~3日も寝ていれば治るのではないかと思う。 以前、風邪をひいて診療所にいったら、医師に「こんなところにこなくても寝てたら治るのに」と言われたことがある。 それ以来、風邪をひいても病院にはいっていないが、確かに2日~3日寝ていると治る。 またある程度熱を出したほうがウィルスをやっつけられると聞いたことがあり、薬なども飲んでいない。
かえって病院に行くことで、ウィルスに感染してしまうリスクもあるし 自分がすでにウィルスに感染していた場合、自分は軽症でも持病のある人に染してしまうと重症になることもある。
ただし、高齢者や持病のある人、重症の場合は遠慮せず、ただちに保健所などに相談したり、病院に行った方がいいと思う。 診療拒否されるという話も聞くが、うちの近所の病院では特別外来をもうけているところが多い。 たぶん、診ていただけるのではないだろうか。
新型コロナウィルスに感染しても多くのケースでは軽症または無症状だという。 大勢の軽症患者が病院に押しかけると、重症患者の治療が出来ず医療崩壊につながりかねない。
厚生労働省が打ち出している方針は、感染拡大やむなし、重症患者を救う、という政策なのだと思う。
【2020年7月1日追記】 考えを改めました。 厚生労働省の「4日熱が続いたら帰国者・接触者相談センターに連絡する」というのは間違いだったと思います。 というのはコロナは病状が急変することがあり、4日縛りのせいで死亡したと思われる患者さんがでているからです。 またPCR検査が受けられないため、一般の病院が発熱のある患者さんの受診を拒否するということもおきたようです。 考えが浅かったと反省しています。 またいまだにどこの病院でもPCR検査ができるという状況にないので、他の病気などで入院する際、CTを撮っている病院などもあります。院内感染を防ぐための対策というのはわかるのですが、CTは被曝する上、陽性率が57%くらいと低いのです。 ですからCTよりもPCR検査を行ったほうがよいと思います。
それはさておき新型コロナウィルスの影響で、2020年東京オリンピックの開催はどうなるだろうか?
新宿御苑
②君が代の歌詞が作られたのは平安時代だった。
リオデジャネイロオリンピック閉会式の2020年東京大会プレゼンテーションでは、オープニングの「君が代」の合唱がとても美しかった。
https://www.youtube.com/watch?v=sk6uU8gb8PA&feature=emb_err_watch_on_yt
君が代は 千代に八千代に さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで
国歌の「君が代」は軍国主義の歌だとして嫌う人もいるが、私個人としては気にいっている。 曲は1880年(明治13年)に創られたものだが、歌詞はなんと平安時代の古今和歌集にある和歌である。 ちゃんと調べたわけではないが、国歌としては世界一古いのではないだろうか。 しかも、作者は「読み人知らず」だなんてシブい。
ただし初句は「わが君は」となっている。
わが君は 千代に八千代に さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで
長寿を寿ぐ歌として長い間詠われていくうちに「わが君は」が「君が代は」に変化したと考えられている。
浅草寺 雷門
③「君」は天皇を指す言葉ではなかった。
「君」と言う言葉は天皇を意味することもあったが、 自分が仕えている人のことや、貴人、身分の高い女房(朝廷や貴人邸に仕える女性)、男、遊女などを指す言葉としても用いられていた。
浅草寺五重塔
④「わが君」とは惟喬親王のことだった。
わが君は 千代に八千代に さざれ石の 磐となりて 苔のむすまで
さきほど、この歌の作者は「読み人知らず」だといったが、岐阜県揖斐川町春日には君が代の由来となったといわれるさざれ石があり、藤原朝臣石位左衛門が詠んだ歌だとして次のように伝えられているそうである。
惟喬親王に仕えていた木地師の藤原朝臣石位左衛門は、親王より「よい椀生地を探せ」と命じられた。 そこであちこち探し回って春日村を発見し、ここに移り住んだ。 石位左衛門は春日村と京を行き来する途中で「さざれ石」を発見して わが君は 千代に八千代に さざれ石の 磐となりて 苔のむすまで と詠んだ。
木地師の藤原朝臣石位左衛門のいう「わが君」とは惟喬親王のことだと考えるのが自然ではないだろうか。

三社祭 浅草寺
⑤天皇になれなかった惟喬親王
惟喬親王は文徳天皇の第一皇子だが、天皇にはなれなかった。
文徳天皇には紀静子(紀名虎の娘)との間に惟喬親王、藤原明子(藤原良房の娘)との間に惟仁親王があった。 文徳天皇は惟喬親王を皇太子にしたいと考えて源信に相談したが、源信は時の権力者であった藤原良房を憚り文徳天皇を諌めたという。 そして生まれたばかりの惟仁親王が皇太子となり、8歳で即位して清和天皇となった。 藤原良房は天皇の外祖父となり、政治の実権を握った。
つまり わが君は 千代に八千代に さざれ石の 磐となりて 苔のむすまで この歌は、天皇の長寿を寿ぐ歌ではなく、天皇になれなかった者の長寿を寿ぐ歌であったと考えられる。
それにしても、惟喬親王に仕えていた木地師の名前がなぜ紀氏と敵対していた藤原なのか?
羽田空港 夕景
⑥天皇家の先祖・ニニギは繁栄を選び、長寿を選ばなかった。
天皇家の先祖・ニニギは葦原中国に天下ったのち、オオヤマツミより二人の娘・イワナガヒメとコノハナサクヤヒメを与えられた。 しかしめんくいだったニニギは容姿の醜いイワナガヒメを送り返してしまったと記紀神話には記されている。 オオヤマツミはニニギの長寿を祈ってイワナガヒメを、ニニギの繁栄を祈ってコノハナサクヤヒメを差し出したので ニニギの子孫である天皇の命は短くなったと記紀には記されている。
天皇家はこの世での繁栄を選び、長寿を選ばなかったというのがテーマなのだと思う。
天皇になれなかった惟喬親王は53歳で亡くなっている。 なので彼が長寿であったとはいえないが、惟喬親王は玄武神社・大皇器地祖神社などの御祭神として祀られ、今でも厚く信仰されている。
磐座信仰といって神は磐の上に降臨するという信仰があった。 この世で天皇になれなかった惟喬親王は神となり、さざれ石となって永遠に生き続けるということなのかもしれない。 なんだか「銀河鉄道999」を思い出す。。 鉄郎は永遠の命を得るため機械の体を求めて旅をするのだが、機械の体とは惑星を支えるネジになることだったのだ。
スカイツリー 夕景
⑦我が御代に下る長天せしまに
花のいろは うつりにけりな いたづらに わがみよにふる ながめせしまに
この歌の私流解釈については下記記事に書いたが、簡単にまとめておく。
小野小町は男だった⑯(最終回) 『わがみよにふるながめせしまに』
この歌は掛詞や縁語などのテクニックを駆使して詠まれているため、二重の意味があるとされる。
①花の色はすっかり褪せてしまったなあ。春の長い雨のせいで。 ②私の容色はすっかり衰えてしまったなあ。恋の物思いにふけっている間に。
しかし、この歌にはもう一つの意味がある。三重の意味を持つ歌だと私は考えている。

東京都庁展望ロビーより富士山を望む
a 鮮やかなはねずの梅が長雨で色あせ淡い色の桜になった。
小野小町の邸宅跡と伝わる,京都・,随心院にはたくさんの「はねずの梅」が植えられている。 はねずの梅は遅咲きで3月ごろに赤やピンクなどの鮮やかな花をつける。
また鮮やかな赤やピンクのはねずの梅の色のこともはねずといい、色褪せやすいことから『はねず』は『移る』の枕詞になっている。 花のいろは うつりにけりな いたづらに わがみよにふる ながめせしまに この歌に詠まれた花とははねずの梅のことだと考えたほうがぴったりくる。
しかしこの歌は古今和歌集のならびでは桜の歌として取り入れられている。
惟喬親王との世継ぎ争いに勝利して即位した惟仁親王(清和天皇)の母親は藤原明子だが、明子の父・藤原良房が次のような歌を詠んでいる。
染殿の后のおまへに花瓶(はながめ)に桜の花をささせたまへるを見てよめる (染殿の后の前の花瓶に桜の花をいけてあるのを見て詠んだ。)
年ふれば 齢(よはひ)は老いぬ しかはあれど 花をし見れば 物思ひもなし (年を重ねたので齢は老いたが、美しい桜の花を見れば、悩みなどありはしない。)
染殿の后とは良房の娘の明子のことである。 桜の花のように美しい娘の明子は文徳天皇の后となって惟仁親王を産み、その惟仁親王は皇太子となった。 惟仁親王が即位して清和天皇となると、良房は清和天皇の摂政となって政治の実権を握った。 娘の明子が清和天皇を産んだので良房には悩みなどなかったのである。
この歌から当時桜は栄華の象徴だと考えられていたということがわかる。
桜の花の色は淡いピンク色である。 一方はねずの梅は鮮やかなピンク色をしている。 その鮮やかなピンク色のはねずの梅の花の色が長雨のために色が落ち、淡いピンク色の桜になったということで桜の歌として取り上げられたのではないかと思う。
羽田空港より東京ゲートブリッジを望む
b.「わがみよに」は「我が御代に」
そして、歌はつぎのように切って詠むのではないかと思う。 花の いろは うつりにけりな いたづらに わが みよに ふる ながめせしまに
漢字で書くと意味がはっきりする。
花の色は 移りにけりな いたづらに 我が 御代に 下る ながめせしまに
『御代』とは『天皇の治世』、『我が御代に』とは『私の治世に』という意味である。
惟喬親王は自分とは一字違いの異母弟、惟仁親王(後の清和天皇)との世継ぎ争いに敗れて小野の里に隠棲し、渚の院(現在の枚方市)などで歌会を開いている。 その歌会のメンバーの中に六歌仙の遍照、在原業平、喜撰法師(紀有常)らの名前がある。 彼らは歌会と称し、実は惟喬親王を担ぎあげてクーデターを計画していたのではないかとする説がある。 私は小野小町とは小野宮と呼ばれた惟喬親王のことだと考えているが、クーデターに成功した暁には惟喬親王は即位して天皇になるつもりだったと考えれば、彼が『わが御代に』と歌を詠んだ意味が理解できる。 実際には彼らのクーデターは未遂に終わったようであるが。
スカイツリーと花火
Ⅽ「ふる.ながめせしまに」は「下る長雨せしまに」から「長い天下」という言葉をひきだす。
「ながめせしまに」は「眺めせしまに」と「長雨せしまに」というふたつの意味をかけているとされる。 「長雨」の「雨」は「天」の掛詞になっているのではないかと思う。
「ふる」は漢字では「下る」と書くのだと思う。
「わがみよにふるながめせしまに」→「我が御代に下る長雨せしまに」→「我が御代に下る長天せしまに」と変化し、 「下る長天」から「長い天下」という言葉を導いているのではないか。
はねずの梅は長雨で色が褪せて栄華の象徴である桜となった。 私が天皇となって長い天下をおさめるときがきた。 そんな眺めを私は見るのである。
私は小野小町は男であり、小野宮と呼ばれた惟喬親王のことだと考えているが、(参照/小野小町は男だった⑬ 『小野小町は男だった!』 この歌は惟喬親王が詠むにふさわしい歌だといえると思う。

葛飾納涼花火大会
⑧対応する二つの歌
私はふたつの歌は対応していると思う。
花の色は 移りにけりな いたづらに 我が御代に下る 長天せしまに/小野小町(小野宮≓惟喬親王) わが君は 千代に八千代に さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで(藤原朝臣石位左衛門)
つまり、惟喬親王が「わが御代に長い天下がやってくるだろう」と詠んだのをうけて、藤原朝臣石位左衛門が、「わが君(惟喬親王)の世はさざれ石が巌となり苔がむすまで続くでしょう」と唱和したのではないかと思うのだ。
日本には古来より言霊信仰があった。 言霊信仰とは言葉にはものごとを実現させる力があるとする信仰のことである。
そして わが君は 千代に八千代に さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで この歌は言霊を持つ歌であった。
わが君・・・惟喬親王は神として、玄武神社・惟喬神社・大皇器地祖神社に祀られ、永遠の時を生きている。
 足立の花火
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7:54 あたり 「ヨーロッパとか中国とか野蛮な国は、男が女を所有するんですよ。 だからたとえばアダムという男のあばら骨からイブという女性ができたとか、そういう話になる。 ところが日本は一番上の神様は天照大神、女性ですよね。男の神様スサノオは三男坊。そういう風に日本はできてて・・・・」
最近、ネットでよく聞く話に 「アダムの肋骨からイブを作ったと聖書に書いてある。だからキリスト教徒の欧米は男尊女卑の文化である。」 というのがある。 「変なこと言う人が大勢いるなあ」と思っていたが、大学教授までこういういことを言うとは、びっくりだ。 https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Albrecht_D%C3%BCrer_-_Adam_and_Eve_(Prado)_2.jpg https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/a2/Albrecht_D%C3%BCrer_-_Adam_and_Eve_%28Prado%29_2.jpg Albrecht Dürer / Public domain①ひとつのエピソードから全体がそうであるかのように語るのは間違い。
あたり前のことだが、聖書はひとつのエピソードだけでなりたっているものではない。 聖書を読んだことがないので、詳細な内容までは知らないが、聖書がたくさんのエピソードから成り立っていることは事実だ。 キリスト教や聖書を語る場合には、それらの多くのエピソードを全体としてとらえて語るべきで ひとつのエピソードから全体がそうであるかのように語るのは間違いなのだ。  ヴォーリス通り 今津基督教会館 ②イブがアダムから出たように、男もまた女からうまれた。
たとえば聖書にはこういう一文もある。 「主にあっては、男なしには女はないし、女なしには男はない。それは、女(イブ)が男(アダム)から出たように、男もまた女から生まれたからである。そして、すべてのものは神から出たのである」(コリント人への手紙第一、一一・一一~一二) イブはアダムから生まれたが、男は女から生まれたので、男と女は互いに助け合うべき存在であるというような意味だろうか。 御堂筋の教会③キリスト教の男女平等的な思想
私は宗教については詳しくないが、ぐぐってみたところ、キリスト教の男女平等的な思想として、 ②のほかに、次のようなものがみつかった。 ⑴あなたがたはみな、キリスト・イエスにある信仰によって、神の子なのである。……もはや、ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない」(ガラテヤ人への手紙三・二六~二八) ⑵イエス・キリストは、五回離婚した女性に真の幸福について諭した。彼女が信仰心を持ったとき、胸がいっぱいで食事になかなか手をつけようとしなかった。 ⑶姦淫の現行犯で捕らえられた女性を責め立てるものたちに、キリストはこういった。 「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」 なばなの里 イルミネーション 天草教会群 ④キリスト教の男尊女卑的な思想キリスト教の男尊女卑的な思想もあげておこう。 ⑷旧約時代のルツ記では男が女を守り、女性は従うという思想がある。 ⑸キリストの奇跡の話で、集まった人々のうち、、男性の人数だけが伝えられ、女性の人数は伝えられていない。 陀々堂 大般若経転読⑤仏教は男尊女卑的な宗教だった?
④をよんで、「ほら、やっぱりキリスト教は男尊女卑じゃないか」といわれるかもしれないが、 我々日本人になじみの深い仏教にも男尊女卑的な思想はある。 というか、もしかしたら仏教のほうが男尊女卑が激しいかもしれない。 ㈠糞尿に満ちた女に、私はたとえ足ででも触れたくない。スッタニパータ〈835) ㈡子供を産まない女性は筍を探し続ける地獄に堕ちるとして、地獄絵にも描かれている。 ※なぜ筍なのかというと、筍は種子でなく地下茎で増えるからということらしい。 ㈢女性が仏や菩薩になるためには、一度男子に生まれ変わらなけれならない。(変成男子/へんじょうなんし) http://www.totetu.org/assets/media/paper/t175_203.pdf#search=%27%E4%BB%8F%E6%95%99+%E7%94%B7%E5%A5%B3%E5%B9%B3%E7%AD%89%27↑上の記事なども参考にしてほしい。 しかしブッダは遊女を教団に迎え入れたりもしている。
「キリスト教と仏教、どちらが男尊女卑的思想が強い宗教だったか」についてはもっと深く掘り下げて研究する必用があるだろうが ここではキリスト教・仏教どちらにも「男女平等的な思想」と『男尊女卑的」な思想の両方があったことを押さえておいてほしい。

法隆寺
⑥聖書の一文から欧米の文化を断定することができるのであれば、仏教の聖典の一文から日本の文化を断定することができるとしなければ筋が通らない。
仏教は我々日本人にはなじみが深い。
「アダムの肋骨からイブを作ったと聖書に書いてある。だからキリスト教徒の欧米は男尊女卑の文化である。」 というのであれば 同時に、 「ブッダは女性を糞尿にまみれたと言っている。だから仏教徒の多い日本は男尊女卑の文化である。」と言わなくてはいけないことになる。
「アダムの肋骨からイブを作ったと聖書に書いてある。だからキリスト教徒の欧米は男尊女卑の文化である。」 が 「ブッダは女性を糞尿にまみれたと言っている。しかし仏教徒の多い日本は男尊女卑の文化ではない。」というのは矛盾している。
聖書の一文から欧米の文化を断定することができるのであれば、仏典の一文から日本の文化を断定することができるとしなければ筋が通らない。
もちろん、聖書や仏典の一文から欧米や日本の文化を断定することはまちがいであるが。
永観堂
⑦天照大神が女神だから日本は男女幸福社会だった?
「ヨーロッパとか中国とか野蛮な国は、男が女を所有するんですよ。 だからたとえばアダムという男のあばら骨からイブという女性ができたとか、そういう話になる。 ところが日本は一番上の神様は天照大神、女性ですよね。男の神様スサノオは三男坊。そういう風に日本はできてて・・・・」
曖昧な表現だが、武田氏は「神道は一番上の神が天照大神という女神なので、男女幸福社会である」と言いたいのだと思う。
「男女平等である」という主張ではないと思う。 武田氏の主張では日本では、男は外で仕事をし、女は家を守るという役割分担があるが、お互いを尊重していて男女幸福社会なのだそうだ。
もちろんこれも、一つの神話から全体を語るという間違った話法である。
神道では血を穢れとし、生理のある女性の境内への立ち入りを禁じたり、神事の参加を禁じたりしいる。 それは単なる習慣だ、というかもしれないが、 生理のある女性は穢れているからダメ、という思想が根底にあるのだ。
また、神道の神話は記紀に記されているもので、元明天皇に献上されたものだ。 元明天皇は女帝である。そのため、天照大神を女神にしたとする説もある。
「日本では女性元首もいる。男女平等社会じゃないか。」といわれるかもしれないが、日本の女帝はすべて男子を即位させるための中継ぎとしての即位である。
また独身で即位した天皇、元正・孝謙(称徳)・明正・後桜町は全員結婚が許されていない。 男性天皇は結婚して子を持つことができたが、独身で即位した女性天皇は女として生きることが許されなかったのだ。
人権侵害甚だしいと私は思うが、女として生きることを奪う社会をはたして、男女幸福社会といえるだろうか。 疑問である。
知井八幡神社
⑧なぜ大勢の人が口をそろえて「アダムの肋骨からイブをつくったから欧米は男尊女卑」というのか。
それにしても、なぜ大勢の人が一律に口をそろえて「アダムの肋骨からイブをつくったから欧米は男尊女卑」というのか。 おそらく、誰かがそういうことを言い出し、それが多くの人に広まっていったのだろう。
ということは、聞いたことをそのまま、あたかも自分の意見であるかのように語っている人が大勢いるということで、 こういう人が自分の頭できちんと考えているかどうか疑わしい。
それぞれが自分の頭で考えてそれぞれで結論をだしたのであれば、もっといろんな例をあげそうなものである。
伏見稲荷大社
⑨自分の主張にあう事例だけを列挙して論じてはいけない。
もうひとつ、武田氏の論法の問題点を あげておく。
2:29あたりでこんなことをおっしゃっている。
それ以上望むな。生物として一番大切な子供を産んで育てることができる。 女性は長寿だし、性格もしぶといし、かっとしないし、言語中枢が発達している、これで何で文句いってるんだ。 デパートの売り上げは8割が女性、2割が男性。女性が損してるってどこ損してるんですかね。
この女性が得していることの羅列は、単に武田氏の主張である「女性は損していない」に合うものだけを並べているのである。
特に女性差別の問題は労働の現場で問題視されていることであるのに、彼は労働に関する事例をひとつもあげていない。
たとえば女性のみ掃除やお茶くみをさせられる、女性のほうが貧困率が高い、女性であることを理由に昇進昇給がおさえられている、出産育児によって働けない時期が生じる。
このような事例もとりあげて、話をするべきだろう。
私は、「キリスト教は男尊女卑とはいいきれない」という主張をしたが、キリスト教の男尊女卑でない例だけでなく、キリスト教の男尊女卑の例もあげた。 自分の主張にあう事例だけを列挙して論じてはいけないのだ。

藤森神社
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