①青葉滋蔵尊
無知ゆえ知らなかったのだが、青葉滋蔵尊にまつわる有名な話があるらしい。 本や映画にもなっているそうである。
どんな話なのかはねずさんが「満州従軍看護婦実話」というタイトルで記事に詳しく書いておられる。
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1184.html http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1185.html http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1186.html
簡単にまとめると次のような内容になる。
昭和20年、掘喜身子さんら看護婦34名は、長春第八病院に勤務することになった。 掘喜身子さんは婦長だった。 ソ連陸軍病院第二赤軍救護所から看護婦の応援を要請してきたので看護婦9名を送るがいつまでたっても帰ってこない。 そのうち1名が銃創を負って戻ってきて「私たちはソ連軍将校の慰みものにされている」と告げて息絶えた。 それを知った看護婦22名は「慰みものにされるくらいなら」と自決した。 長春第八病院に向かった9名の看護婦のうち1人はなくなったが、あとの8人は梅毒にかかっていた。 昭和23年、長春の在留邦人に帰国命令が出た。 掘喜身子さんはともに帰国するため梅毒にかかった8人をまっていた。 そのうち3人はやってきたが梅毒を恥じて自決した。5人はやってこなかった。 日本に戻った掘喜身子さんは23名の看護婦の遺骨を、菩提寺の墓所に預けた。 そして元の上官の平尾氏と二人で地蔵菩薩の建立費を積み立てる約束をした。 浪曲家「若梅鶯」こと松岡寛氏は週刊誌で22名の看護婦自決の記事をよみ、『あゝ従軍看護婦集団自殺』浪曲にして全国を公演してまわった。 松岡寛氏は公演先で身元が分からなくなっていた23名の情報を観客に求めた。 そのかいあって19名の身元が判明し、遺骨を家族のもとに返すことができた。 一方、掘喜身子さんは地蔵建立のため平尾氏に送金を続けていたが、平尾氏の妻が病でお金は使いこまれていた。 昭和27年、山下奉文将軍の元副官で、陸軍大尉だった吉田亀治さんは埼玉県大宮市に所有する土地に公園墓地「青葉園」を開園した。 松岡寛氏の講演を聞いた吉田亀治さんは掘喜身子さんに面会し、自決した23名のための「青葉慈蔵尊」を建立した。
②青葉地蔵尊の物語は事実か?
ところがこの話、事実ではないのでははないかという説がある。
その理由は次のようなものである。
●堀喜身子さんが自決した22人の遺族を探した形跡がない。 ●複数回マスコミが報道しているが、堀喜身子さんはマスコミに遺族探しの依頼をしていない。 ●19人の身元がわかったとされるが、身元が発表されていない。 ●身元が分からないので靖国神社に合祀が認められていない。
ネットでぐぐるともっと詳細に検証した記事がたくさんでてくるので、興味があれば読んでみてほしい。
確かに身元が確認できないのであれば、浪曲のために創作された物語である可能性もある。
そしてこれを疑問に感じたある方がねずさんに次のような文書を送ったそうである。
「青葉慈蔵尊に関係する女性たちは、靖国神社に合祀されていないので真実かどうか疑わしい。 真実かどうか疑わしい物語は従軍慰安婦と同じなので、広めないほうがいいのではないか」と。
③ねずさんの反論
これに対する返事としてねずさんが次のような記事を書いておられた。
長いが「文章を切り取った」と言う人がでてきそうなのでwほぼ全文引用しておく。
(リンクの部分など一部は略した。読むのが面倒な方は、④にとんでもらってもok。)
歴史は「学ぶ」ためにある、というのがボクの一貫した姿勢です。
赤穂浪士が討ち入りの際に着ていたいのは、歌舞伎に出てくるだんだら模様の秀麗な着ものであったかなかったかなど、ボクにとってはどうでもいい話で、そういう検証は、したい人、そういうことが好きな人にしていただけばよい。
討ち入りをすれば、死罪は免れないという時代です。 そんな時代に、彼らがなぜ「討ち入り」という選択をしたのか。 後世に生きるわたしたちはそこから、数多くのことを学ぶことができる。
青葉慈蔵尊の物語に関して言えば、その方は、 http://sinzitusikan.iza.ne.jp/blog/entry/262052/ のサイトを見て、青葉慈蔵尊にまつわる女性たちは、靖国神社に合祀されていない。 だから「真実かどうか疑わしい」と考え、この物語は「従軍慰安婦と同じ」であり、だから「広めるのはどうかと思います」なのだそうです。
まず、「真実かどうか疑わしい」ということについて申し上げます。
私はその場に居合せたわけではありません。 ですからこの女性たち自決等を見てきたわけではありません。 ですから「真実であるかどうか」は、私にはわかりません。 けれど、もし私がこの目で見、体験したことであったとしても、そんなことを言っているのはねずきちだけだ、他の誰もそんなことは言っていないと言われれば、「疑わしい」ことなる。
「織田信長が桶狭間で今川義元の首を討った」という話は、日本人のいわば「常識」であり、誰もが知っている物語です。 あったこと、とされています。 けれど、それは本当のことなのでしょうか。 桶狭間で、義元は自ら腹を切って自害したということはないのでしょうか。
桶狭間事件は、勝って天下をとった織田側の歴史です。 つまり戦勝者の歴史です。 そういう歴史観がほんとうに事実を語っているのでしょうか。
雑兵が義元の首を斬ったというけれど、周囲を近衛兵の猛者に囲まれた義元が、たかがひとりふたりの雑兵に討たれるのでしょうか? 義元の周囲には、小姓もいるし、いまでいうならSPのような屈強な近衛兵たちがいたはずです。 いくさの負けを悟った義元が、殺されるのを快しとせず、自ら自害し、その遺体から雑兵が首を取ったとのではないですか?
もしその「可能性」があるのなら、「織田信長が桶狭間で今川義元の首を討った」というのは、作り話なのではないですか?
などなど、そのような話をいくらしても、それは学者さんや歴史オタクさんたちにとっては大事な話かもしれないけれど、悪いけれどボクにはまったく関心も興味もありません。
義元が「討たれた」のか、「自決した」のか、そんなことはどうでもよろしい。 このような議論をいくらしても、ボクは不毛だと思う。 もちろん、そういうことを、事実を積み上げて一生懸命冷静に検証する学問的努力は必要です。 けれど、自分が桶狭間に居合せたわけでもなく、記録の検証も原書を直接確認し、研究したわけでもない素人が、あったかなかったかなどを議論しても、それは不毛です。
後世の私たちにとって大切なことは、信長が勇気をもって寡兵で何倍もの敵を討ったということ、迅速な作戦行動の重要性、大将の油断のもたらす危険など、ボクたちが桶狭間事件から「学ぶ」ことはたくさんある。 その「学ぶ」ということが大事なのです。 ボクは、そう思っている。
青葉慈蔵尊の物語でいえば、命を捨ててまで仲間たちを守ろうとした大島看護婦の勇気、操を命より大切なものとして集団自決の道を選んだ22名の乙女たちの心、半分死んだようになっていた拉致被害者の乙女たちを必死で救おうとした掘婦長の誠実さ、「日本に帰れる」そのことが本当に嬉しかったからこそ、現地で死を選ばざるを得なかった彼女たちの愛国の情、帰国後、何年かかかっても、彼女たちの冥福のために人生を捧げた掘元婦長の優しさ、その行動を意気に感じて名を捨ててまで「自分でできることで」全力で支援しようとした浪曲師、事態を知ってお地蔵さんを建立してくれた青葉園の創立者の心、私たちがこの物語を通じて「学ぶ」ことはたくさんある。
歴史を学ぶというのは、そういうことなのではないかと思うのです。 検証作業は、学者や、そういうことが好きな人に任せればよい。 私たちにとって必要なことは、どこぞのサイトに否定の文書が掲載されていたという「理屈」ではなく、この物語を通じて何かを得ることなのではないかと思うのです。
ですから、この物語を否定する人がいるというのなら、それはそれで良い。 その人には、そういう捉え方しかできなかったのだな、とボクは思うだけです。 もっと、はるかに大切なことを、その人は感じ取ることができなかった、かわいそうな人だとボクは思うだけです。
次に、青葉慈蔵尊の物語が「従軍慰安婦と同じ」という指摘についてです。
「疑わしい」から「従軍慰安婦と同じ」というのは、同じ日本人同朋にたいする侮辱であると思います。怒りさえおぼえる。
従軍慰安婦の話は、ハナからねつ造そのものであり、目的は日本政府からカネをふんだくるところにある。 日本兵の給料が月に15円~25円だった時代に、月に1000円も2000円も荒稼ぎして、その成功体験が忘れられず、どこぞの国では、いまでも床屋にさえもマッサージ嬢と称する売春婦が出入りしている。 歳をとって、いまさら売春もできないとなったら、過去の売春は日本軍に強要されたものだとデタラメを言って賠償金を取ろうとする。 そこに見え隠れするのは、醜悪な金の亡者の利己だけです。 学ぶべきことなど何もない。
終戦直後の満州や朝鮮半島において、何が起こったのか。 そこで我々の同朋が、どのような目に遭わされたのか。 それだけではない。 日本に対する侮日工作の過程の中で、何が起こったのか。
~略~
青葉慈蔵尊に祀られた乙女だちだけではないのです。 まだ幼い子供までが強姦され、殺害された。女に生まれると、こんなことまでされるのかと思うほど想像を絶する酷い目に遭わされた。日本人であるというだけで、人間であるということ自体を否定された。
そういう事例が、数限りなく外地で繰り返された。 青葉慈蔵尊の物語は、そのなかのひとつの典型です。
夢と希望をもって大陸に渡った満州開拓団の人々が酷い目に遭わされた。 集団自決した看護婦たちの思い、あるいは、梅毒に罹患して生き残りながら、やっと日本に帰れるとわかったその日に命を絶った乙女たちの思い。 それでも「私たちは満州の地に魂魄として残り、いつの日か、日本の同朋が再びこの地を訪れるとき、ご案内したい」と命を絶った。
その悔しさ、悲しさ、辛さ。 そういうことが、日本人としてけっして忘れてはいけないことだとするならば、この物語は、日本人として未来永劫、語り継がなきゃならない物語だと、ボクは思う。
「仮に」と申し上げました。青葉慈蔵尊にまつわる乙女たちの物語が、単に浪曲のための創作であったとしても、その物語は、終戦直後の国家を喪失したとき、すなわち「ゼロ時」の出来事として、国を考えるときの重要なメッセージが含まれている物語として、伝えていかなければいけない話である、と思うのです。
従軍慰安婦のような、単に欲ボケの利権屋のねつ造物語と、国を大切にすることの重要性や、その他多くのことを教えてくれる物語と、一緒にされては困る。 それこそ、勉強不足というものです。
三つ目に、真実かどうか疑わしいから「広めるのはどうかと思う」という議論です。
ま逆です。 この物語は、広めなければならない。 ボクはそう思っています。
この物語の論拠となっているのは、掘元婦長の話だけです。
伝えられている事件が、あまりにも悲惨で酷い物語であるだけに、これを否定する論が出てくるのは当然のことと思いますし、そうした論調があることも十分承知しています。 それでも伝えなければいけない。 物語として、ボクはこのお話をご紹介しています。
いまとは比較にならないくらい貞操観念の強かった時代です。 大陸で強姦されたの性的おもちゃにされたの、梅毒に罹患したの、自殺したのとなれば、彼女たちだけなく、そのご家族の苦しみは想像を絶する。
もし、ご自分の愛娘が、この当事者であったのなら、ご遺族としてはどうするでしょう。 真岡郵便局事件のように、関係者全員が、ソ連兵に強姦される前に自決した、というのなら、合同法要もありかもしれない。
けれど、仲間のうちの何人かが、ソ連兵に拉致され、性的おもちゃにされた揚句、梅毒に罹患し、死んだとなれば、そのことについて住所、氏名を公表し、ご自分がご遺族として世間の前に晒されるという選択を、果たして望まれるでしょうか。
もちろん中には、靖国合祀となれば、氏名住所本籍の公表を受け入れようというご遺族もおいでになるかもしません。 けれど、ご遺族の何人かが「それは困る」と申し出れば、おそらく事態の悲惨さから、事件そのものについて、合祀さえもお断りする。 もし、ボクが彼女たちの誰かの親なら、拒否します。 なぜなら娘の恥を、世間に晒してなどしてほしくないからです。 靖国合祀などされなくても、関係者や「わかってくださる人」が、お地蔵さんを建ててくださったのなら、それだけで十分です。 毎年欠かさず、そこにお参りする。 鶴を持っていく。綺麗な花を手向けてくる。冥福を祈る。次に生まれてくるときには、絶対に絶対に幸多かれと祈る。 それが普通の日本人の感覚なのではないかと、ボクは思います。
それを、逆手にとって、靖国合祀されなかった、住所氏名本籍の公開がなかった、だから事実ではない、と声高に主張する人の方の心が、ボクには、逆に理解できません。 それが論理的帰結というのなら、その論は、あまりに人間を知らなすぎる。人の心を知らなすぎる。日本人としての心を失っている。そのようにボクは思います。
論理というのは、単にどこぞにこう書いてあるとか、どこかの学者がこう言っているというのが論理ではありません。
事実の積み上げが論理です。 そして青葉慈蔵尊の物語でいえば、その物語が事実であったかなかったかということよりも、もっと大切なメッセージがそこに込められている。 その「メッセージがこめられている」という事実を除外しては、それは論理にはならないとボクは思う。
百歩譲って、そのブログのように、この悲劇が単に浪曲の創作話にすぎなかったとしても(ボクはそうは思っていませんが)、この青葉慈蔵尊に関する物語は、語り継ぐべき内容と持った物語であるとボクは思います。
なぜなら、ゼロ時、すなわち国家というものがなくなったとき、私たちの同朋がどのような目に遭わされてしまうのか。 けっして能天気なお花畑ではすまない現実がそこにあるからです。
唯物史観などというもっともらしい言葉がついているようですが、証拠というものは客観的なものです。
けれどそれをつなぎ合わせて、どういう事実をそこに見出すかは「解釈」の問題であり、その「解釈」には、解釈する人の知識や人生観や主観がはいります。 だから対立や論争が起こる。
ボクは学者ではありませんし、歴史家でもありません。 そこいらにいるただのオヤジです。 そしてこのブログも、ねずきちの「ひとりごと」です。
そこに書かれた「物語」が史実であるかどうかなどということは、ボクにとっては問題ではない。 前にも書きましたが、満州でひどい目にあった乙女たちがいた。 そう知ったならば、仲間たちと一緒に一輪の花を手向けに行く。 そして日本をまもる、この国を大切する、金輪際、二度と同じ目に遭わされる乙女が出ないよう、強い日本を造る。 そのために、自分でできることをする。 それが「たいせつなこと」なのだと思います。
「従軍慰安婦と同じ」?
デタラメと一緒にすんじゃねえ、バカヤロー!! てめえの娘が同じ目に遭わされ見ろ! 絶対に許せねえだろーがっ!! 何、屁理屈垂れてんんだっ! 娘さんたちのご遺族の身にもなってみろっってんだっ! 大事なことは、んなことが二度と起んねえようにすることだろうがっ! 日本人を舐めるなっ!!
年甲斐もなく言葉はきたないですが、これがそこらのオヤジであるボクの本音です。
ついでに申し上げると、ボクは理屈たれの朱子学が性に合わず、知行合一を説く陽明学派です(笑)
https://nezu3344.com/blog-entry-1232.htmlより引用
④事実でなくてもいい。学ぶことがあるかどうかが大切?
ねずさんは検証には興味がないということを繰り返し書いている。
(以下、ピンクの文字はすべてhttps://nezu3344.com/blog-entry-1232.htmlより引用)
●赤穂浪士が討ち入りの際に着ていたいのは、歌舞伎に出てくるだんだら模様の秀麗な着ものであったかなかったかなど、ボクにとってはどうでもいい話で、そういう検証は、したい人、そういうことが好きな人にしていただけばよい。
●「織田信長が桶狭間で今川義元の首を討った」という話は、日本人のいわば「常識」であり、誰もが知っている物語です。 あったこと、とされています。 けれど、それは本当のことなのでしょうか。 桶狭間で、義元は自ら腹を切って自害したということはないのでしょうか。
桶狭間事件は、勝って天下をとった織田側の歴史です。 つまり戦勝者の歴史です。 そういう歴史観がほんとうに事実を語っているのでしょうか。
雑兵が義元の首を斬ったというけれど、周囲を近衛兵の猛者に囲まれた義元が、たかがひとりふたりの雑兵に討たれるのでしょうか? 義元の周囲には、小姓もいるし、いまでいうならSPのような屈強な近衛兵たちがいたはずです。 いくさの負けを悟った義元が、殺されるのを快しとせず、自ら自害し、その遺体から雑兵が首を取ったとのではないですか?
もしその「可能性」があるのなら、「織田信長が桶狭間で今川義元の首を討った」というのは、作り話なのではないですか?
などなど、そのような話をいくらしても、それは学者さんや歴史オタクさんたちにとっては大事な話かもしれないけれど、悪いけれどボクにはまったく関心も興味もありません。
義元が「討たれた」のか、「自決した」のか、そんなことはどうでもよろしい。 このような議論をいくらしても、ボクは不毛だと思う。
●もちろん、そういうことを、事実を積み上げて一生懸命冷静に検証する学問的努力は必要です。 けれど、自分が桶狭間に居合せたわけでもなく、記録の検証も原書を直接確認し、研究したわけでもない素人が、あったかなかったかなどを議論しても、それは不毛です。
そして学ぶべきことがあるかどうかが大切として次のような例をあげています。
●討ち入りをすれば、死罪は免れないという時代です。 そんな時代に、彼らがなぜ「討ち入り」という選択をしたのか。 後世に生きるわたしたちはそこから、数多くのことを学ぶことができる。
●後世の私たちにとって大切なことは、信長が勇気をもって寡兵で何倍もの敵を討ったということ、迅速な作戦行動の重要性、大将の油断のもたらす危険など、ボクたちが桶狭間事件から「学ぶ」ことはたくさんある。 その「学ぶ」ということが大事なのです。
●青葉慈蔵尊の物語でいえば、命を捨ててまで仲間たちを守ろうとした大島看護婦の勇気、操を命より大切なものとして集団自決の道を選んだ22名の乙女たちの心、半分死んだようになっていた拉致被害者の乙女たちを必死で救おうとした掘婦長の誠実さ、「日本に帰れる」そのことが本当に嬉しかったからこそ、現地で死を選ばざるを得なかった彼女たちの愛国の情、帰国後、何年かかかっても、彼女たちの冥福のために人生を捧げた掘元婦長の優しさ、その行動を意気に感じて名を捨ててまで「自分でできることで」全力で支援しようとした浪曲師、事態を知ってお地蔵さんを建立してくれた青葉園の創立者の心、私たちがこの物語を通じて「学ぶ」ことはたくさんある。
歴史を学ぶというのは、そういうことなのではないかと思うのです。 検証作業は、学者や、そういうことが好きな人に任せればよい。 私たちにとって必要なことは、どこぞのサイトに否定の文書が掲載されていたという「理屈」ではなく、この物語を通じて何かを得ることなのではないかと思うのです。
●青葉慈蔵尊に祀られた乙女だちだけではないのです。 まだ幼い子供までが強姦され、殺害された。女に生まれると、こんなことまでされるのかと思うほど想像を絶する酷い目に遭わされた。日本人であるというだけで、人間であるということ自体を否定された。
そういう事例が、数限りなく外地で繰り返された。 青葉慈蔵尊の物語は、そのなかのひとつの典型です。
夢と希望をもって大陸に渡った満州開拓団の人々が酷い目に遭わされた。 集団自決した看護婦たちの思い、あるいは、梅毒に罹患して生き残りながら、やっと日本に帰れるとわかったその日に命を絶った乙女たちの思い。 それでも「私たちは満州の地に魂魄として残り、いつの日か、日本の同朋が再びこの地を訪れるとき、ご案内したい」と命を絶った。
その悔しさ、悲しさ、辛さ。 そういうことが、日本人としてけっして忘れてはいけないことだとするならば、この物語は、日本人として未来永劫、語り継がなきゃならない物語だと、ボクは思う。
●そこに書かれた「物語」が史実であるかどうかなどということは、ボクにとっては問題ではない。 前にも書きましたが、満州でひどい目にあった乙女たちがいた。 そう知ったならば、仲間たちと一緒に一輪の花を手向けに行く。 そして日本をまもる、この国を大切する、金輪際、二度と同じ目に遭わされる乙女が出ないよう、強い日本を造る。 そのために、自分でできることをする。 それが「たいせつなこと」なのだと思います。
上の内容をよむと、ねずさんは史実かどうかについては興味がなく、その物語に学ぶべき点があるかどうかが大切だと考えておられることがわかる。
⑤ねずさん、青葉滋蔵尊の話が真実かどうかわからないと認める。
●私はその場に居合せたわけではありません。 ですからこの女性たち自決等を見てきたわけではありません。 ですから「真実であるかどうか」は、私にはわかりません。
ねずさんははっきり「真実であるかどうか」わからない、といっている。
そして、そのあとにこう続けている。
●けれど、もし私がこの目で見、体験したことであったとしても、そんなことを言っているのはねずきちだけだ、他の誰もそんなことは言っていないと言われれば、「疑わしい」ことなる。
「事実でも疑わしい」とされることは確かにある。 だからどうだといいたいのか。それについては記されていないが 「事実でも疑わしいとされることはあるのだから、よくわからないものを事実としてもいい」とでもいいたいのだろうか。
⑥真実かどうかわからないのに「実話」と書いていいのか?
●「疑わしい」から「従軍慰安婦と同じ」というのは、同じ日本人同朋にたいする侮辱であると思います。怒りさえおぼえる。
従軍慰安婦の話が捏造とされたのは事実が確認できなかったからだ。 これは当然の事で、事実が確認できないものを事実であると判断する世の中では、嘘がまかりとおってしまう。 そして、青葉地蔵の話が事実かどうか確認できないのに実話としてしまうと、韓国の従軍慰安婦の話と同じで捏造だといわれても仕方がないとなる。 どちらも事実が確認できないのに、韓国の従軍慰安婦の話は捏造とし、日本の青葉滋蔵尊の話は実話だとする態度をとれば、「日本人は嘘つき」とののしられても仕方がないと思う。
青葉地蔵の話は学ぶべき点があるかもしれないが、そういう話はいくらでも創作できる。 それゆえ、小説などとよばれるものが世の中にあるのだ。 なので、いくら学ぶべき点があろうと、事実が確認できないものを事実として語ってはいけない。
「事実かどうか確認できないが、こんな話がある」と但し書きをしてから書くのならよいが、 ねずさんはこれを「満州従軍看護婦実話」として紹介している。
⑦従軍慰安婦が捏造であることを感情的に訴えても、質問の答えにはなっていない。
●従軍慰安婦の話は、ハナからねつ造そのものであり、目的は日本政府からカネをふんだくるところにある。 日本兵の給料が月に15円~25円だった時代に、月に1000円も2000円も荒稼ぎして、その成功体験が忘れられず、どこぞの国では、いまでも床屋にさえもマッサージ嬢と称する売春婦が出入りしている。 歳をとって、いまさら売春もできないとなったら、過去の売春は日本軍に強要されたものだとデタラメを言って賠償金を取ろうとする。 そこに見え隠れするのは、醜悪な金の亡者の利己だけです。 学ぶべきことなど何もない。
上の文章は「従軍慰安婦が捏造であること」につい感情的に述べたもので、 「青葉地蔵の女性たちは真実かどうか疑わしい」「真実かどうかわからない話を広めるのは従軍慰安婦と同じ」という質問に答えたものではない。
しかし、こういう感情に訴える文章は論理的に坦々と事実を述べただけの文章より人の心に響くのだろう。 そういった点で、ねずさんの文章はうまいとはいえる。
⑧どんどん論理が破綻していく・・・・・
彼は感情的に訴えるのはうまいが、論理的に考えることは苦手なようである。 そして後半になってますます、論理が破綻した文章になっていく。
●この物語の論拠となっているのは、掘元婦長の話だけです。
伝えられている事件が、あまりにも悲惨で酷い物語であるだけに、これを否定する論が出てくるのは当然のことと思いますし、そうした論調があることも十分承知しています。
否定する論がでてくるのは、「あまりにも悲惨で酷い物語」だからではない。 事実かかどうかわからないのに「実話」として記事を書いていることが批判されているのだ。
●それでも伝えなければいけない。 物語として、ボクはこのお話をご紹介しています。
えっ?物語として?タイトルは「満州従軍看護婦実話」となっているが?
●もし、ご自分の愛娘が、この当事者であったのなら、ご遺族としてはどうするでしょう。 真岡郵便局事件のように、関係者全員が、ソ連兵に強姦される前に自決した、というのなら、合同法要もありかもしれない。
けれど、仲間のうちの何人かが、ソ連兵に拉致され、性的おもちゃにされた揚句、梅毒に罹患し、死んだとなれば、そのことについて住所、氏名を公表し、ご自分がご遺族として世間の前に晒されるという選択を、果たして望まれるでしょうか。
~略~ それを、逆手にとって、靖国合祀されなかった、住所氏名本籍の公開がなかった、だから事実ではない、と声高に主張する人の方の心が、ボクには、逆に理解できません。 それが論理的帰結というのなら、その論は、あまりに人間を知らなすぎる。人の心を知らなすぎる。日本人としての心を失っている。そのようにボクは思います。
前半のような事情があった可能性はある。 しかし「可能性があること」と「事実であること」はイコールではない。 ところが後半「それを、逆手にとって・・・」と言うに至っては、「可能性があること」と「事実であること」をイコールで結びつけているようにしか思えない。
●論理というのは、単にどこぞにこう書いてあるとか、どこかの学者がこう言っているというのが論理ではありません。
事実の積み上げが論理です。 そして青葉慈蔵尊の物語でいえば、その物語が事実であったかなかったかということよりも、もっと大切なメッセージがそこに込められている。 その「メッセージがこめられている」という事実を除外しては、それは論理にはならないとボクは思う。
メッセージというのは小説にもこめられています。 小説は都合のいいように物語を創作できるので、事実よりもメッセージ性の高いもの、人の心を感動させるものを創作することもできる。 よって「メッセージがこめられている」ことを事実とするのはまちがいである。
●唯物史観などというもっともらしい言葉がついているようですが、証拠というものは客観的なものです。
けれどそれをつなぎ合わせて、どういう事実をそこに見出すかは「解釈」の問題であり、その「解釈」には、解釈する人の知識や人生観や主観がはいります。 だから対立や論争が起こる。
歴史の解釈に主観がはいることは確かだ。 だからといって、事実が確認できないもの(検証作業をおこなっていないもの)を実話と称していいということはない。
(私は文献至上主義ではない。文献には偽り、古代表現などもあるからだ。 文献のほか、発掘物、時系列など複数のものから総合的に判断するべきだと思う。 しかしねずさんは事実と決めつけ検証作業すら興味がないといってやっていない。)
写真ブログのはずだったのにほとんど歴史ブログになってしまった 心の旅 もよろしくおねがいします。
※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。
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①NHKは左右反転させた写真を用いていた。しかし捏造だとは思えない。
A

「日本人はるかな旅⑤」より引用
↑上の写真は「日本人はるかな旅⑤ そして日本人が生まれた(日本放送出版協会)』138ページに掲載されていたもので、 タイトルは「写真1 岩手県宮野貝塚の縄文人(左)と島根県古浦遺跡の渡来系弥生人(右)」となっている。(A)
B
「日本人はるかな旅⑤」より引用
↑こちらの写真は同じ本の37ページに掲載されていた写真である。 タイトルは「左・縄文時代晩期の男性頭骨[国立科学博物館]。右・土井ヶ浜遺跡の頭骨」となっている。(B)
Aの左「岩手県宮野貝塚の縄文人」とBの左「縄文時代晩期の男性頭骨[国立科学博物館]の写真を並べてみたのがⅭである。
Ⅽ
左右とも写真は「日本人はるかな旅⑤」より引用
ややっ、この2枚の写真はなんと左右反転した状態になっているではないか。
残っている歯、骨の欠損状態などを見比べても同じである。 ただ鏡で映したように左右反転してはいるが。
角度が異なっているようにも見えるので、同じ写真ではないかもしれないが、被写体の頭蓋骨そのものは同じものだろう。
②写真が左右反転した理由
なぜ、左右反転した写真を使ってしまったのだろうか。
現在デジカメで撮影した写真はパソコンにとりこんでフォトショップなどで簡単に加工できる。 左右反転など3秒もあればできる。
しかし、『日本人はるかな旅⑤』に掲載された写真は放送された2001年よりももっと古い写真の可能性がある。
たぶんフィルムで撮影したものではないだろうか。
そして印刷時に誤まってフィルムを左右反転してしまったのではないかと思う。 フィルムは透けているので裏表がわかりにくいのだ。
またフィルムをひっくり返してプリントすることもできる。 実際私もラボに依頼して左右反転した写真を焼いてもらったことがある。
具体的な印刷の方法は知らないが、プリントと同じようにフィルムをひっくり返して印刷できるのではないだろうか。
ポジフィルムはフィルムを1コマづつ切り離してマウントと呼ばれる枠にはめこむことがある。 私もやったことがあるが、はめこむさいに表裏を間違うこともよくあった。 誰がフィルムを左右反転させたのか。 NHKのスタッフ、国立科学博物館、どちらの可能性もある。 重大なミスだとはいえるだろうが、捏造とまではいえないと思う。 なぜならば宮野貝塚の縄文人の頭蓋骨を、縄文晩期の男性頭骨といっても嘘でもなんでもないからである。
また、意図的に左右反転させたと考えるには、その意図がわからない。
③細長い輪郭に見えるのは画質が悪く黒く潰れた部分が背景に同化しているためでは?
上の動画を見てみよう。
3:10あたり。 「縄文人と弥生人は民俗がいれかわるくらい大きな変化があったんだという証拠に使われている写真。」とねずさんが説明している。 写真のタイトルは「「岩手県宮野貝塚の縄文人(左)と島根県古浦遺跡の渡来系弥生人(右)」となっている。(Ⅾ)
Ⅾ
この写真は随分画質が悪いが、①-Aで紹介した『日本人はるかな旅⑤ そして日本人が生まれた(日本放送出版協会)』138 ページに掲載されているものである。
A

「日本人はるかな旅⑤」より引用
4:06あたりで写真を見せながら、ねずさんはこんなことを言っている。 「向かって右側の白っぽい写真、平べったい写真を線対称にしてコピーを繰り返した。 人間の顔は左右でちがう。細く写るほうを使って(?)線対称にしてコピーを繰り返しながらこういう写真を捏造した。」
より引用
上の写真のタイトルは「岩手県宮野貝塚の縄文人(左)と島根県古浦遺跡の渡来系弥生人(右)」と3:49の写真のタイトルと同じである。 しかし右は島根県古浦遺跡の渡来系弥生人の写真ではない。 ①― Bで紹介した「日本人はるかな旅⑤」37ページに掲載されていた写真の左、「縄文時代晩期の男性頭骨[国立科学博物館]」の写真だと思う。 B
「日本人はるかな旅⑤」より引用
するとタイトルは「岩手県宮野貝塚の縄文人と縄文晩期の男性頭骨」としなければいけない。 ねずさんが提示しているEの比較画像を「日本人はるかな旅⑤」に掲載された写真を並べて作ってみるとⅭになる。
Ⅽ
左右とも写真は「日本人はるかな旅⑤」より引用
F

FはEの写真部分を切り取ったものである。 ねずさんが提示するFの写真は左の頭蓋骨が細長く見えるが、実際に「日本人はるかな旅⑤」に掲載されている写真Ⅽをみると左の写真はそんなに細長くは見えないと思う。 むしろ右のほうが細長く見えるような気もする。 しかし、本の写真をさらに私が写真に撮ったものであり、写真の性質上、若干縦横の比率がかわるので、そういった影響があるかもしれない。 ねずさんが提示しているEの左の写真と、「日本人はるかな旅⑤」に掲載されていた同じものと思われる写真(Ⅽ左)を並べてみたのがGである。
G
ねずさんが提示している写真の画質がかなり悪いことがわかる。 そして、「日本人はるかな旅⑤」の写真より若干縦長に見えるようにも思える。
Gの写真をよく見ると、ねずさんが動画で用いている写真は顎や頭部など黒く潰れてしまって背景と同化している部分があることがわかる。 そのため、細長く見えているのではないだろうか。
H
※Fの写真の赤ラインはかなりいい加減だが、黒く潰れて背景に同化しているあたりの輪郭を描いてみた。
④縄文人の頭蓋骨を細長くすると弥生人の頭蓋骨の特徴に近づき、NHKは主張に反する捏造を行った事になるが?
そもそも、ねずさんは縄文人の頭蓋骨を細くのばして縄文人の頭蓋骨を捏造したと言っているわけで こんなことをしてどういう意味があるといいたいのだろうか。 縄文人の頭蓋骨を細長く加工して縄文人だと偽れば、面長の弥生人の輪郭に近づく。 すると、NHKは弥生人に近い縄文人を捏造したということになるが、NHKの主張は「縄文人と弥生人の頭蓋骨の特徴は異なる」ということなので、主張に反する捏造を行ったというおかしなことになってしまう。 NHKは左右反転させることで写真を捏造したのではなく、写真が左右反転しているのは単なるミスだと思う。
④ソースの提示がないので確認できない。
Ⅰ

ねずさんは「ネットで見つけた縄文中期の人骨」といっておられる。
これと同様の写真は見つかった↓ ねずさんは出典元を明らかにするべきだろう。
⑥ねずさん、弥生人の頭蓋骨を縄文人と偽る。
J
上の写真のタイトルに「雀居遺跡」とあり、ねずさんは「縄文人です」と言っている。
そして「日本人はるかな旅⑤」120ページに同じ写真が掲載されており、 「福岡県雀井遺跡から出土した弥生前期の女性の頭骨」というタイトルがつけられている。 雀居遺跡について調べると 「弥生時代から古墳時代にかけての濠をめぐらした集落や大型の掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)が姿を現したのです。」
とあり、雀居遺跡で出土したのは弥生時代の人骨だと思われる。 ねずさんは「縄文人」だと言ってるが、それではこの頭蓋骨はどこの遺跡で出土したものなのか。 ねずさんはそれをはっきり言うべきだろう。
「日本人はるかな旅⑤」より引用
⑦写真を引用しなければ説明できないので、著作権法違反ではない。
この写真の使用が著作権法違反だという人がいるので、説明させていただく。
この記事は、「NHKが縄文人の写真を細長く加工して弥生人と偽った」という小名木氏の主張がまちがいであるということを示すために書いたものである。
そのためには該当する写真を引用しなければ説明できない。
このような場合には著作権法違反にはならないと思う。
【ねずさんの主張】
ねずさんの主張 ㈠稲作は弥生時代に始まったと学校で習った。 ㈡弥生時代は紀元前1000年~200年300年あたり。 ㈢菜畑遺跡を復元したジオラマ。日本最古の水田。高床式住宅。7000年前。 ㈣弥生時代に渡来人が稲作をもたらしたというのは嘘。 ㈤日本はもともと亜熱帯だったので、ナウマン象や鰐がいた。 ㈥稲は熱帯の植物である。雨季と乾季がある。それを人工的に再現したものが水田。(稲は日本に自生していた。) ㈦日本が温帯に変わる過程で自然と水田が発明された。 ㈧6000年前の岡山県の朝寝鼻貝塚より稲作をやっていたという証拠がでてきた。 ㈨土器のかけらの中にお米の結晶があった。 ㈩弥生時代に稲作が渡来したというのは明らかに間違いである。
①縄文土器の縄はシダで作られた?この動画のコメントにこういうのがある。 「縄文土器に縄目模様があるのは、当時すでに稲作をしていて稲藁で縄をつくったから」 「縄文の縄は稲でしか編めない。麦だと縄のような柔軟性のあるもを編もうとしても折れてしまう。」 縄は稲藁からしか作ることが出来ないということはなく 麻、カラムシ、アカソ、イラクサ、またヒノキなどの樹皮などで作られた可能性も考えらえている。 以前の記事、 鳥浜貝塚から出てきたのは縄だが、縄は布の衣服があったことに結びつくか? にも記したように 日本最古の縄は鳥浜貝塚から出土したもので約1万年前のものと考えられている。 調べたところ大麻製とあったので、記事にも大麻製と書いた。 しかし、 http://aomori-jomon.jp/essay/?p=10027↑ こちらの記事によれば、リョウメンシダの葉柄・中軸、ツヅラフジのツル、ヤマブドウの樹皮などでできていると書いてあった。 鳥浜貝塚から出土した縄文時代前期の三つ組みの縄 の写真も掲載されている。 そういうわけで、「縄があった」事と「稲藁で作った」事を安易に結びつけるのはまちがいなのだ。  平岡神社 注連縄作り 注連縄は稲藁でつくるが、稲藁以外のものでも縄は編める。
②菜畑遺跡は7000年前の遺跡ではない㈢菜畑遺跡を復元したジオラマ。日本最古の水田。高床式住宅。7000年前。とねずさんはおっしゃっているが、動画コメントで多くの人が7000年前は間違いであると指摘している。 https://www.city.karatsu.lg.jp/manabee/kyoiku/kyoiku/inkai/bunkazai/bunkazaihogo/nabatakeiseki.html上記塔津市のサイトによると、「今から約2500~2600年前の縄文時代晩期中頃のもの」とある。 ※縄文時代、弥生時代の区分については議論があるが、ウィキペディアは縄文時代を14000年頃 – 前10世紀、弥生時代を前4世紀ー後3世紀中ごろとしている。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B8%84%E6%96%87%E6%99%82%E4%BB%A3 千早赤坂村 棚田③稲作は半島経由の水田耕作と、中国経由の雑駁農耕があった?朝寝鼻貝塚のものは後者では? ㈧6000年前の岡山県の朝寝鼻貝塚より稲作をやっていたという証拠がでてきた。朝寝鼻貝塚では約4000年前の貝塚基底部より貝殻類や土器片が出土。 さらにその下層部から縄文前期の掻器・ 石鍬・獣骨・炭などが出土しており、約6000年前の遺跡と推定されている。 そして、この土壌から約6000年前の栽培種の稲の細胞化石が検出された。 なので「6000年前の岡山県の朝寝鼻貝塚より栽培種の稲の細胞化石がでてきた」のは正しいのだが 「栽培種の稲の細胞化石がでてきた」ことと「6000年前稲作をやっていた」ことを容易に結びつけるのが科学的な態度であるとは思えない。 これについてはいろいろと議論があるようだ。 たとえば、 https://www.athome-academy.jp/archive/biology/0000000116_all.html上のサイトで、静岡大学農学部助教授の佐藤 洋一郎 氏が稲作について次のような趣旨を話されている。 ●日本の稲作はインドのアッサムや中国の雲南が起源だというのが通説だった。(建物の煉瓦に含まれているモミの長さなどを元に推測) ●中国の長江下流の河姆渡(かぼと)で7000年前の遺跡が発見され、栽培稲、栽培稲の先祖に当る野生稲の痕跡が発見された。 さらに野生稲から栽培稲へと変わっていった痕跡も発見されている。 ●稲はインディカとジャポニカの2種類ある。 さらにジャポニカは温帯ジャポニカ(水田栽培向き)と、熱帯ジャポニカ(陸稲。畑作向き)の2種類に分れる。 ●河姆渡のものはジャポニカで、地面にモミを播いて栽培(雑駁農耕)したのではないか。 ●その理由は、長江流域は湿地帯でモミを播くだけで稲が育つためである。 ●アジアで水田で稲作をしているのは半分くらい、あとの半分は今でも雑駁農耕。 ●日本の稲作は水田栽培が中心で、縄文時代晩期に渡来人達によって持ち込まれたとされるが、水田栽培以外の稲作も行われていたのではないか。 ●縄文時代の地層から、稲のプラントオパールが検出されている。 プラントオパールとは、植物の細胞にたまる0.05−o程のガラス状のケイ酸の塊が地中に残ったもののこと。 プラントオパールにより過去の植生や栽培植物の種を判別することができる。日本で最も古いプラントオパールは岡山の朝寝鼻貝塚のもので、6000年前のもの。●1990年代、縄文時代にも稲作があったと考えられるようになった。 ●青森の縄文遺跡・三内丸山遺跡はおよそ5000年前のものと考えられているが、クリを大量に栽培していた可能性がある。 ●野生植物の集団はDNAの並びはバラバラだが、三内丸山遺跡のクリはDNAパターンが揃っていた。 これは意図的に選抜して植林したためではないか。 ●ヒョウタンやマメ、ゴボウなどの栽培植物も発見されている。●水田は、通説通り、縄文時代晩期に持ち込まれた可能性が高い。 しかしジャポニカの起源だと考えられる長江流域は日本から近く、別のルートで日本に伝来していた可能性もある。 (つまり朝寝鼻貝塚の6000年前の稲のプラントオパールは水田耕作ではなく雑駁農耕されていた可能性がある。)●曲金北(まがりがねきた)遺跡で、約5万−uもの広さを持つ古墳時代の水田跡が発見された。 3−4畳半程の小区画が連続しており、休耕田が含まれていた。 100の小区画のうち、水田は22区画。 DNA分析をしてみると、近在栽培されていた稲は、2割が水稲、4割が陸稲だった。 見掛けは水田だが、焼畑などの雑駁農耕をしていた。これは全国の弥生遺跡に共通する特徴。 (菜畑遺跡の水田あとも同様であった可能性がある。) ●縄文晩期から作られたごく初期の水田は、縄文人が朝鮮半島を訪れ、そこで見た水田を見よう見真似で作ったのではないか? ●大阪の池上曽根遺跡や奈良の唐古・鍵遺跡から出土した2200年以上前の弥生米のDNA分析を行なったところ、朝鮮半島には存在しない中国固有の水稲の品種が混ざっている。 稲が朝鮮半島を経由せずに直接日本に伝来したルートがあることを裏付ける証拠である。 ●柳田國男氏は「稲作は熱帯の島々から琉球列島を経て九州に達する」と説かれたが、南西諸島に稲作跡がない。●日本の各所に点在する稲のRM1-b遺伝子。 中国では90品種を調べた結果、61品種に、RM1-b遺伝子を持つ稲が見付かったが、朝鮮半島では、55品種調べてもRM1-b遺伝子を持つ稲は見付からなかった。なお現在の日本に存在する稲の遺伝子は、RM1-a、RM1-b、RM1-cの3種類わかりやすく、しかも面白い記事なので、一読をオススメしたい。 佐藤氏の主張が絶対正しいとは言わない。 朝寝鼻貝塚のプラントオパールの品種、遺伝子について述べられていない点も気にはなる。 しかし、こういう記事を読むと、6000年前のプラントオパールの発見を、水田耕作に結び付けるのがいかに安易であるかがわかるかと思う。 稲は水田耕作しかしないなんてことはないのだ。 なお、 岡山県灘崎町にある 彦崎貝塚でも約6000年前のイネのプラントオパールが見つかっている。朝寝鼻貝塚(岡山市)でプラントオパールは微量であったため、上層から混入したとか、風で飛ばされて飛来した可能性も説かれていたが、 彦崎貝塚のものは大量に発見されており、稲作を行っていた可能性が指摘されている。しかし、 このプラントオパールは中国南部原産の可能性があるという。 ということは、水田耕作ではなく雑駁農耕であった可能性も考えなければいけない。  白米千枚田
④朝寝鼻貝塚より発見されたのは6000年前の栽培種の稲の細胞化石で、野生種の細胞化石ではない。㈥稲は熱帯の植物である。雨季と乾季がある。それを人工的に再現したものが水田。(稲は日本に自生していた。)㈦日本が温帯に変わる過程で自然と水田が発明された。
これについては、③でご紹介した記事を読む限り、次のような理由で否定されているのではないかと思う。
中国・河姆渡(かぼと)で7000年前の栽培稲・栽培稲の先祖に当る野生稲の痕跡が発見されている。 朝寝鼻貝塚より発見されたのは6000年前の栽培種の稲の細胞化石なので、これだけでは稲が日本に自生していたとはいえない。
調べてみて、はっきりした理由がわかれば追記をいれる。
枚方市穂谷⑤ねずさんの考え方数度にわたり、ねずさんの説について見てみたが、どうやら彼には次のような考え方の特徴があるように思える。 ⑴根拠を説明しない。 ・古墳は墓ではなく田圃を作るために削った土をもりあげたものである。 http://arhrnrhr.blog.fc2.com/blog-entry-383.html⑵説明した根拠が曖昧でわかりにくい。 ・李氏朝鮮の庶民が箸を使っていなかった根拠としてあげた写真が不鮮明で小さすぎ、箸をつかっているかどうか確認ができない。 「李氏朝鮮の庶民は箸を使っていなかった」というけど証拠の写真が不鮮明すぎる。 ⑶結論の導き方が短絡的。 ・鳥浜貝塚(12,000〜5,000年前)の集落遺跡から繊維製品(具体的には縄)が出土したことを、衣服があったことに結びつける。 ・6000年前の稲のプラントオパールが発見されたことを水田があったことと結びつける。(実際には、水田耕作ではなく雑駁農耕であった可能性もある。)など。 ⑷明らかな間違いがある。 ・菜畑遺跡は3000年前の遺跡なのに7000年前だと発言する。 ⑸具体的に言わない。 ●鳥浜貝塚(12,000〜5,000年前)の集落遺跡からでてきたのは縄だが、繊維製品と表現する。 ⑹学者や学会の頭が固いと悪口をいう。 福本遺跡(弥生時代の竪穴式住居を再現したもの)いつも応援ありがとうございます♪
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①古代中国が、汚い民族だったから朝鮮を濊族と呼んでいたというのは、何か文献に書いてあることなのか。上の動画の前半ででねずさんがこんなことを言っている。 a..古代中国は朝鮮を濊族と呼んでいた。 b..濊は汚穢(糞尿)の穢で「のぎ偏」だがあえて「さんずい偏」にしているが、どれほど汚い民族だったのか。これを言い換えるとこうなる。 「古代中国が朝鮮を濊族と呼んでいたのは、朝鮮の人々が汚い民族だったからである。」 古代中国が、朝鮮の人々が汚い民族だったから朝鮮を濊族と呼んでいたというのは、何か文献に書いてあることなのか。 いつものように、ねずさんはここれについての根拠を示していない。 単に濊という漢字に「穢れる(けがれる)」という意味があるので、濊と呼ばれた朝鮮人は「汚い民族だったにちがいない」とい短絡的な考えを事実であるかのように話しているにすぎないのではないだろうか? ②「濊」は「網をぱっと打つ音」、「穢」「薉 」は「雑草が生い茂って荒れる」の意汚穢(糞尿)の穢はのぎへんだが、民族の濊は、中国の史書『三国志』や『後漢書』の記載によるもので、 『漢書』武帝記では 薉、『漢書』食貨志では 穢と表記されている。 濊・薉・穢、それぞれの漢字の意味を調べてみた。 濊 | ①水が多いさま ②けがれる。けがれ。穢と同じ。 ③あみをぱっと打つ音 | 薉 | ①雑草が生い茂って荒れる。 ②穢れ | 穢 | ①雑草が生い茂って荒れる ②田畑が荒れる。 ③穢れ ④悪者 |
薉・穢は「穢れ」という意味のほかに、「雑草が生い茂って荒れる」という意味もある。 また濊は「穢れ」という意味のほかに「水が多い」「網を打つ音」などの意味もある。 孔子(紀元前552年または紀元前551年‐紀元前479年)が編集した『詩経』に「河水洋洋,北流活活。施罛濊濊,鱣鮪發發」とある。 これは「河水は洋洋、北に流れて活活。罛(あみ)を施せば濊濊(かつかつ)、鱣(こい)鮪(しび)は發發(さかん)」という意味で、 濊は「③あみをぱっと打つ音」の意味で用いられている。 濊はもともと「あみをぱっと打つ音、」薉や穢は「雑草が生い茂ってあれる」「田畑が荒れる」という意味であり、そのような意味で民族名を濊、薉、穢とつけた可能性もある。 そういう可能性を無視して、「汚穢(糞尿)の穢からくる」と決めつけるのが科学的学問的な態度でないことは説明するまでもないだろう。 文献名 | | 成立年代 | | | | | | 詩経 | | 孔子が編集した。(紀元前552年または紀元前551年‐紀元前479年) | | | | | 濊(穢)・・・紀元前75年ごろにはいた。 | 漢書 | 薉 穢 | 後漢の章帝(在位/75年‐88年)の時に班固・班昭らが編纂した。 | | 三国志 | 濊 | 撰者は西晋の陳寿(233年- 297年) | | 後漢書 | 濊 | 編者は范曄(はんよう、398年 - 445年) | |
③穢は衛生的な穢れではなく、精神的な穢れであった可能性も。穢の意味は「③穢れ」のほか、「④悪者」とあるところから察するに、衛生的な穢れというよりも精神的な穢れの意味であった可能性もあると思う。 中世の日本にも「穢れ思想」があったが、それは衛生的な穢れではなく、精神的な穢れであった。 旧暦6月と12月には大祓をする習慣があったが、それらは精神的な穢れを祓う行事で 息をふきかけて穢れを人形(ひとがた)に移し、それを川や海に流したりしていた。 そんなことをしても、体についた汚れを落とせるはずがなく、大祓は精神的な穢れを祓う行事であることがわかる。  貴船神社 夏越神事 市比売神社 ひいなまつり 天児(あまがつ)と呼ばれる人形に息をふきかけて自らの穢れを人形に移している。大祓だけでなく、日本の伝統行事には祓いを目的としたものが大変多い。 842年に橘逸勢が謀反を企てたとして、姓・官位を剥奪の上、「非人」の姓を賜っている。 しかし、死後、無罪であったとして御霊として京都の上御霊神社・下御霊神社に祀られている。 橘逸勢のように政治的に不幸な死を迎えたものは死後、怨霊になると考えられ、天災や疫病の流行は怨霊の仕業だと考えられた。 そこで、怨霊が祟らないように慰霊し、神として祀ったものが御霊である。 下御霊神社
近畿には中世より非人と呼ばれる人々がいたが、彼らは謀反人の子孫か、謀反人を支持していた人々ではないかと思う。 非人たちは寺社に隷属し、清掃・死体の処理・警備などを請け負い、蔑視される存在であった。 しかし中世の非人たちにどんな罪があるだろう? ただ、御霊として祀られた人々の血をひいているとか、関係があったというだけである。 それであるのに、穢れた存在であるとされ、非人という身分におとしめられていたのである。 古代、濊・薉・穢と呼ばれた人々も同様の存在であったかもしれない。 ④濊族=李朝であることが説明されていない。上の動画のコメント欄に次のような書き込みがある。 「濊族は現在の金剛山付近に住んだ山岳民族で、領地は日本の北関東より狭く、中国にとっていち郡扱いだったわけだが、濊族がその後李朝になった史実はどこを見ればいいのかな」 https://www.youtube.com/watch?v=KbBCgFTRfME&feature=emb_logoより引用。 全くそのとおりである。ねずさんはまず、濊族=李朝であることを説明しなければならないだろう。 ⑤他人に「汚い」と悪口を言われたら、あなたは「汚い」のか?古代の中国人が、糞尿の意味で濊族と名付けたのが事実としても、濊族という名前がつけられたから汚い民族だったというのもおかしな理論である。 事実でない悪口を言う人なんていくらでもいる。 たとえば「くそったれ」などと現在でもよく言うが、「くそったれ」と言われた人が、本当にどこにでも糞をたれる人であることはほとんどない。 きちんとトイレにいって用を足していることだろう。 また本当は綺麗なのだが、嫉妬心などから「汚い」と言ったりすることも普通にある。 当たり前だが、他人に「汚いといわれた」こととは、「実際に汚い」ことではないのである。 ねずさんの話は全くバカバカしいトンデモ説だと思うが、こういう話に賛同する人がびっくりするほど多い。 日本人のモラル低下、思考能力の低下が心配になってくる。 いつも応援ありがとうございます♪
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http://nezu3344.com/blog-entry-1411.html上記の記事をまとめる。 「日本人と縄文体質 世界最古の磨製石器が出土した日本は、世界最古の木造加工技術を開発した技術国家でもあった。 」 A 群馬県みどり市笠懸町にある岩宿遺跡(いわじゅくいせき)で出土した「槍先形尖頭器(局部磨製石器)」は約3万年前、旧石器時代のもの。 B これは「人の手による加工技術の産物」として「世界最古の道具」である。 Ⅽ 同様の石器はオーストリアのヴォレンドルフ遺跡出土のものが約2万5000年前。 Ⅾ 日本の加工技術は3万年の歴史がある。 E 青森県の三内丸山遺跡は5500年前~4000年前の縄文時代の集落跡で、栗やクルミ、トチなどの木の栽培跡が確認されている。 また六本柱建物跡なども発見されている。 F 六本柱建物を作る際、木を伐採するのに石器を用いた。 G木の根もとで火を起こして、伐りたいところを焦がし、焦がしたところを小さくて先の尖った石斧で、すこしづつ大木を削った。 H このときに先の尖った小型の石器が用いられた。 Ⅰ 加工をともなわない石器は日本では12万年前のものが発掘されている。 J 日本に人が住み始めたのはいまから3万年前。その3万年前の世界最古の磨製石器が日本で出土した。 さらに日本で12万年前の石器が出土した K 磨製石器は3万年前のもの、法隆寺の五重塔は1300年ほど前の建造物で、時代は違うが、ほとんど「槍(やり)カンナ」と呼ばれる先の尖ったノミのような道具一本でつくられている。 Ⅼ 槍鉋(やりかんな)は鉄製だが冒頭の磨製石器が鉄になった形状。 Ⅿ 日本古来の、先の尖った道具一本で、木材に様々な加工を施してしまうという技術は、日本で3万年前から使われていた磨製石器よりつづく技術ではないだろうか。①岩宿遺跡で出土した「槍先形尖頭器」は局部磨製石斧で約3万年前、旧石器時代のもの。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%99%A8上記記事によると、石器は次のように分類されるという。 石器 | 時代 | 石器の作り方 | 作成者 | 発見場所 | 打製石器 | 人類の最も古い道具の一つ | | アウストラロピテクス? | | オルドワン型石器群 | ヒト化人類の最古の石器群 | 礫の一部を打撃して造る | ホモハビリス?頑丈型猿人? | ケニア、タンザニアなど | 磨製石器 | 中石器時代(紀元前9000年) | 磨いた石器 | | ヨーロッパ、西アジアなど | 局部磨製石斧 | 3~4万年前 | 石器の一部を磨く | | 日本、オーストラリアなど |
岩宿遺跡(いわじゅくいせき)で出土した「槍先形尖頭器」は上表の局部磨製石器に相当する。 局部磨製石斧はオーストラリアやオーストリアでも発見さされている。 また、石器時代は次のように区分される。 旧石器時代 | 前期旧石器時代 | 約200万年前~約10万年前 | ホモ・ハビリス ホモ・エレクトス 25~20万年前、ホモサピエンスが登場※1 | 中期旧石器時代 | 約9~7.5万年前~約3.5万年前 | ヨーロッパ・中近東・中央アジアではネアンデルタール人(約9~7.5万年前から約3.5万年前) 約7万年前にはホモ・エレクトスが絶滅。 | 後期旧石器時代 | 約3.5万年前~紀元前約1万年 | 約3万年前から2万4000年前にはネアンデルタール人が絶滅。 ヒト属は現生人類のみとなる。 | 中石器時代 | | 紀元前1万年~紀元前8・6000年 | | 新石器時代 | | 紀元前8000年~ | |
② 岩宿遺跡の局部磨製石斧は「世界最古の道具」といえるか?ねずさんは「B これ(岩宿遺跡の局部磨製石斧)は「人の手による加工技術の産物」として「世界最古の道具」であるとおっしゃっている。 ねずさんはどのように「ヒト」の定義を定めているのか。 ヒト属のことだとすると、ホモ・ルドルフェンシス、ホモ・ハビリス、ホモ・エルガステル、ホモ・エレクトス、ホモ・アンデセッサー、ホモ・ハイデルベゲンシス、ホモ・ネアンデルターレンシス、ホモ・フローレシエンシス、ホモ・サピエンスなどの種類がある。 たぶん、ホモ・サピエンスのことを言っているのだろう。 しかし、旧石器時代の石器を作った人類はホモ・エレクトスやネアンデルタール人ではなく、ホモサピエンスである可能性もある。 ねずさんは下の記事で、現生人類が登場したのは4万年前、と書いておられる。 http://nezu3344.com/blog-entry-4276.htmlこれはあやまりで、4万年前は現生人類が日本へやってきたとされる年代である。 上記石器時代の区分した表にも書いたとおり、現生人類が登場したのは25万~20万年前とされる。 つまり、現生人類は前期旧石器時代からいたということになる。 また、現生人類が打製石器をとばしていきなり磨製石器を作り始めたとも考えにくい。 岩宿遺跡の局部磨製石斧はホモサピエンスの最古の道具とは言えないと思う。 ③日本の加工技術は3万年の歴史がある?
ねずさんは「Ⅾ 日本の加工技術は3万年の歴史がある。」とおっしゃっている。 オーストラリアと日本では、旧石器時代に刃部磨製石斧(局部磨製石斧)が作られた。最古の例はオーストラリアで、4万7千年前にさかのぼるという。日本では3万8千年前から3万5千年前に出現し、打製石斧と併用したが、3万年前には見られなくなった。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A3%A8%E8%A3%BD%E7%9F%B3%E5%99%A8より引用 局部磨製石斧は大変古いもので、すすんだ技術力でつくられたことはたしかだ。 しかし、どういうわけか、3万年前には見られなくなってしまうという。 つまり、技術が途切れてしまったということだ。 ④日本で出土した12万年前の石器はデニソワ人などの旧人によるもの「Ⅰ 加工をともなわない石器は日本では12万年前のものが発掘されている。」とねずさんはおっしゃっている。 しかし、これはデニソワ人などの旧人が作ったものと考えられる。 デニソワ人などの旧人は我々ホモサピエンスとは異なる種類の人類であり、すでに滅んでしまっている。 つまり、日本人の先祖が作ったものではない。 現生人類(ホモ・サピエンス)は7〜6万年前に出アフリカを果たし、それ以前にはアフリカ外には分布していなかった。 従って、日本列島最古の石器(砂原遺跡の12万年前)を遺したのはデニソワ人などの旧人である。 日本列島に現生人類が現れるのは4〜3.5万年前と考えられており、これは日本固有のはプログループⅮプ1a2(Y染色体)の起源年代とおおむね一致する。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%88%97%E5%B3%B6%E3%81%AE%E6%97%A7%E7%9F%B3%E5%99%A8%E6%99%82%E4%BB%A3 より引用。⑤日本古来の、先の尖った道具一本で、木材に様々な加工を施してしまうという技術は、磨製石器よりつづく技術か?
城南宮 釿始式(ちょうなはじめしき)槍鉋ねずさんは「Ⅿ 日本古来の、先の尖った道具一本で、木材に様々な加工を施してしまうという技術は、日本で3万年前から使われていた磨製石器よりつづく技術ではないだろうか。」とおっしゃっている。 しかし、法隆寺などの飛鳥時代に建立された寺院は朝鮮半島から招いた渡来人より技術提供を受けて建立した可能性がたかい。 日本最古の官寺は四天王寺といわれている。 聖徳太子が物部守屋との闘いに勝利したのは四天王のご加護があったからとして創建した。 聖徳太子は四天王寺を創建するため、朝鮮半島の百済から3人の宮大工・金剛、早水、永路を招いた。 この3人の一人、金剛重光が創業したのが金剛組という建設会社である。 金剛組の創建は578年で現在も大阪市の四天王寺の近くにある。世界最古の企業だといわれている。 つまり、世界最古の企業は日本にあるが、その創業者は百済からやってきた渡来人であったということである。 四天王寺の創建は593年である。 四天王寺また『日本書紀』の崇峻元年(588)のところに、「百済国が仏舎利や僧などとともに、寺工(てらたくみ)2名、鑢盤(ろばん/仏塔の相輪の部分)博士1名、瓦博士4名、画工1名をおくってきた」という記述がある。 彼らは蘇我馬子の法興寺(飛鳥寺)造営にかかわっている。 法興寺は596年に完成した。 飛鳥寺法隆寺が創建されたのは607年とされ、四天王寺や法興寺創建よりもあとのことになる。 法隆寺聖徳太子はなぜ百済から宮大工を招いたのか。 ただの労働者としてわざわざ百済か羅宮大工を招くとは思えない。 それはやはり、百済にある建設技術をとりいれるためと考えるのが自然ではないだろうか。 そして、法隆寺建設にも百済の建設技術が用いられたのではないかと思える。 槍鉋は鉄製で、日本で鉄がいつごろから作られているかについては諸説ある。 弥生時代の確実な製鉄遺跡がみつかっていないため、輸入していたのではないかとする説が定説だが 広島県三原市の小丸遺跡(弥生時代)が製鉄遺跡ではないかなどともいわれている。 弥生時代の遺跡から槍鉋が出土しており、日本で作られた可能性もあるが、朝鮮半島や大陸から輸入した可能性もある。 弥生時代すでに日本には製鉄技術があり、槍鉋を作っていたかもしれないが 四天王寺・法興寺・法隆寺などの建築技術の多くは、渡来人が伝えたものだと考えられると思う。 ⑥海外の先進技術を取り入れようとする態度は日本人の長所だと思う。飛鳥時代の日本人は百済から宮大工などの技術者を招いて建築技術を取り入れたと考えられる。 また古代の日本人は遣隋使や遣唐使を中国に派遣して先進技術をとりいれようともした。 もしかしたらこれを残念に思う人がいるかもしれないが、私はそうは思わない。 近代の日本も進んだ外国の技術を積極的に取り入れることで、先進国へと成長してきた。 これは日本という国の長所だと私は思う。 なら瑠璃絵で展示されていた遣唐使船いつも応援ありがとうございます♪
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上の動画でねずさんがこんなことを言っている。
A 農地を開墾するさい、土地を平にするため土を削る必用があり、削った土を積み上げた。これが古墳である。 B 仁徳天皇陵は大きいので、災害で土砂が崩れたとき災害がおきないように堀(壕)をつくった。 (堀を掘った土を用いて古墳を作ったのではない。) Ⅽ 古墳は平地にしかないのがその証拠である。 Ⅾ 古墳は避難所であった。 E 仁徳天皇は土木工事に力をそそぎ、その結果生産高があがって民衆の生活が潤った。 それを民衆は感謝して仁徳というありがたい名前をおくった。 F 古墳がなくなったのは水路をつくり船で残土を運べるようになったため。 埋め立て工事に残土が使えるようになった。 G 古墳が崩れてこないように囲いを作った。囲いは四角がつくりやすい。 もうすこしおしゃれにした円形のものをつなげたのは自然なこと。土が固まったところで囲いをとった。
さすがにこの説については多くの批判コメントがついている。 視聴者はバカではなく、きちんと考えられる人も多いということがわかり、少しほっとした気分になった。
私がねずさんを批判しているのは、彼が憎いからとか、嫉妬しているからではない。
彼は根拠や証拠を示さずに断定的に話す。 コメントにはまっとうな反論を述べたものが多数あるが、そういった反論は無視して、一切答えていない。
また、何かというと安易な陰謀説をもちだしてNHKや歴史学者・考古学者を批判しているが、陰謀があることを証明できるのか。 陰謀というならば、ウオーターゲート事件を調査したウッドワードとバーンスタイン記者のように、徹底的な証拠をつかんでのべてほしいが そこまでできなくとも、怪しいと思う理由くらいは列挙するべきだと思う。
それにもかかわらず彼には人気があって支持者が大勢いることも私が彼を批判する理由のひとつである。
彼が人気ブロガーでなければ、彼の個人的意見としてほおっておく。 しかし彼を支持する人が大勢いる以上、彼の説のどこが間違っているかを指摘しておく必要があると思うのだ。
ただし、私が批判しているのは彼の説についてであり、彼の人格まで批判しているわけではないことはご理解いただきたいと思う。
① 「古墳は平地にしかない」というのは間違い。古墳は山の上にもある。
ねずさんは「古墳は平地にしかない」と言っておられるが、山の上にある古墳も多数ある。 コメントでも奈良市若草山の上にある鶯塚古墳などの名前があがっている。
②多くの古墳は尾根を利用して作られている。
また多くの古墳は尾根を利用して作られたと考えられている。(尾根を利用せず、土を盛り上げて作った古墳もある。) 尾根を利用して作る場合、盛り土をする必要はほとんどなかっただろう。 古墳は土地を平にするために削った土地を盛ったもの、とするねずさんの説では、尾根を利用して作られた古墳はどう説明するのか。
③河川下流域平野での稲作が広まったのは近世以降?
土地を平らにしないで段差があったほうが、古の水田には便利であったのではないか、とのコメントもある。
そこで調べてみたところ、ウィキペディア「棚田」の項目には次のような内容が記されていた。 「傾斜があまりにも少ない河川下流域の沖積平野は、江戸時代以前は稲作をするのに不適当だった。」と。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%9A%E7%94%B0

しかし、大和川の付け替え(https://www.kkr.mlit.go.jp/yamato/about/yamato300/tukekae/tukekae.html#t1)には次のような記述がある。
「大和川が流れていた河内平野は、川が運ぶ肥沃な土砂のおがけで、古代から田畑が開かれ、人々が生活を営んでいたのですが・・・」
仁徳天皇陵がある百舌鳥古墳群あたりは河内平野に含まれると思う。 このあたりで稲作はいつごろから行われていたのだろうか? これについては、古い記録など調べてみなければならず、現時点では私にはわからない。
④古墳を避難所として使用した証拠はあるのか。
ねずさんは古墳は避難所であったというが、古墳が避難所として用いられた証拠のようなものはあるのだろうか。 例えば、「古墳を避難所として用いた記録」「古墳の上に大勢の人が避難できるような建物物跡」のようなものがあるのかということである。 ねずさんはこういった証拠について一切話していない。 ということは証拠はないのだろう。
⑤堀(壕)、葺石、古墳周囲にめぐらせた埴輪は非難の妨げになりそう。
前方後円墳は仁徳天皇陵だけでなく、堀があるケースが多いが、堀の存在は災害時の非難を妨げるのではないだろうか。
崇神天皇陵(行灯山古墳)より二上山を望む
崇神天皇陵の周囲にも堀がめぐらされている。
また、多くの古墳で古墳表面の葺石が確認されている。

ナガレ山古墳
葺石はすべりやすくはないだろうか。避難者がここを上るのは大変なように思えるのだが。 また周囲にめぐらされた円筒形埴輪も避難者の侵入を妨ているようにみえる。
⑥古墳がなくなったのは薄葬令が出されたから。
ねずさんは古墳がなくなったのは、水路ができ船で残土を運べるようになったためとしておられる。
しかし、そうではなく646年に薄葬令が出されたことが原因と考えられている。
薄葬令とは身分に応じて墳墓の規模を制限するもので、これによって巨大古墳は姿を消したとされる。 薄葬令ののちも巨大古墳が作られたケースもあり、薄葬令は日本書記が記された奈良時代の後付けとする説もある。 しかし、その場合でも次のように考えられると思う。 「巨大古墳をつくってはいけない」ということは、「巨大古墳は墓である」という認識があったことを前提としたものであると。
⑦仁徳という諡号は奈良時代に淡海三船がつけた。
ねずさんは「仁徳天皇は土木工事に力をそそぎ、その結果生産高があがって民衆の生活が潤った。それを民衆は感謝して仁徳というありがたい名前をおくった。」と言っている。
しかし民衆が仁徳という名前をおくったという事実はない。 神武、応神、仁徳などは漢風諡号といって奈良時代に淡海三船がつけたものなのだ。
仁徳天皇の時代、漢風諡号はなく、和風諡号のみだった。 ちなみに神武の和風諡号は「かむやまといわれびこのすめらみこと」、応神天皇の和風諡号は「ほむたのすめらみこ」 仁徳天皇の和風諡号は「おほさざきのすめらみこと」である。 当時の人々は仁徳天皇ではなく「おほさざきのすめらみこと」と呼んでいたと思われる。
堺市役所21階展望ロビーにあった模型(見やすくするため一部加工しました。)
ねずさんは、冒頭にあげたA~Gのようなことを、あたかも事実であるかのように語っているが それらを裏付ける証拠がないばかりか、上に説明したように明らかな間違いもあり、多くの矛盾が生じている。
繰り返しになるが、ねずさんがおっしゃっていることは、証拠を示しておらず、反論に答えるということもされていないので、到底事実であるとは考えられない。
ねずさんの妄想であるといわれても仕方がないと思う。
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前回に続き、ねずさんの記事をとりあげる。 「縄文人と弥生人は同じ人」 http://nezu3344.com/blog-entry-2250.htmlこのブログ記事は、長い文章で、多くの内容についてふれている。 中でも「えっ?」と思うのは「nhkが弥生人の頭蓋骨を偽造した」説であるが、これは長浜浩明氏の説だそうで ねずさんは長浜氏の著書「日本人ルーツの謎を解く」を勧めておられる。 図書館の蔵書検索をしたらこの本があったので予約をした。 まずはこの本を読んでから、私の意見をまとめたいと思う。 今日はこの記事の中の考古学の発見・縄文人は布製の衣類を着ていた説について見てみることにする。 私は考古学の知識に乏しいので、今回ネットで調べてわかったこと、記されていたことなどをまとめる。
①「9500年前の上野原遺跡や、5500年前の三内丸山遺跡などの縄文時代の遺跡など、いまや多数の縄文時代の遺跡から、当時、すでにきわめて高い文明文化が日本に存在していたことが、確認されている。」について。調べてみたところ、上野原遺跡は縄文時代早期から近世にかけての複合遺跡とある。 縄文時代の始まりは、16,000±100年前とされているので、9500年前、というのは妥当な数字に思える。 三内丸山遺跡は縄文時代中期から中期末葉の大規模集落跡である。やはり5500年前というのは妥当なところだと思う。 ②「鳥浜貝塚から、間違いなく布製の衣類を着ていたことが、確認されている。」について。鳥浜貝塚は、福井県三方上中郡若狭町にある、縄文時代創期から前期にかけて(今から約12,000〜5,000年前)の集落遺跡である。 鳥浜貝塚から投棄物として発見されているのは、貝殻、動物骨、木や種子、葉、土器、石器、骨角器、木製品、漆製品、繊維製品などである。 この繊維線品とは6種類の大麻製の縄で、現存する日本最古の繊維製品である。約1万年前のものだそうである。 このあたり、ねずさんは「間違いなく布製の衣類を着ていたことが確認されている」と言っているが、衣類や布片がでてきたわけではないのである。 【追記】 http://aomori-jomon.jp/essay/?p=10027 ↑ こちらの記事によれば、リョウメンシダの葉柄・中軸、ツヅラフジのツル、ヤマブドウの樹皮などでできていると書いてあった。
鳥浜貝塚から出土した縄文時代前期の三つ組みの縄 の写真も掲載されている。日本最古の衣類の出土物としては、弥生時代の登呂遺跡などから発見された麻制の布片がある。 布があったのであれば、これを加工して、衣服を作ったであろうことは十分に想像できる。 ねずさんは「縄を編むという技術があるので布を作っていたことはまちがいがない。」と言っている。 しかし、縄を編むのと布を織るのは、かなり異なる。 上は縄のつくり方を動画にしたものである。 縄をあむためには、道具は必要なく、手でより合わせるだけで作ることができる。 上の動画は稲わらを用いた縄の作り方で、鳥浜貝塚のものは大麻製の縄ということだが、作り方としては似たようなものであったのではないかと想像する。 麻の茎をさくと長い繊維が採れるので、これを適当な太さにさき、乾燥させて手でより合わせて縄を作ったのではないだろうか。 ちなみに、上の動画は芋麻から糸をつむぐ方法を説明したものである。。 鳥谷遺跡から出土したのは糸ではなく縄ということなので、稲わらでつくった縄のようなざっくりとしたものだったのではないだろうか。 出土物が確認できれば、追記をいれる。 手芸の編み物にはかぎ針編み、棒針編みがあり、いずれも簡単な道具を用いる。 指編みという手法もあるが、かなりざっくりした仕上がりになる。 繊維を布にするには、縦糸と横糸を交錯させる。 これも上記のように簡単な道具を用いる。 編み物や織物の為の道具が簡単な構造のものだからといって、衣類があったとまで結論づけられるだろうか? 簡単とはいえ、何もないところから、かぎ針・棒針・織機のようなものを発明するのは大変な想像力が必要だと思われる。 手で縄を編むのと、編み物や機織で布を作るのはかなりちがうように私には思われる。 現在でも稲わらを用いて藁草履を編んだりすることがある。 藁草履を編むのには道具は必要ないようである。 これを応用して衣服をつくることはできなくるだろうか。 できなくはなさそうである。 そういえば、私も麻ひもを編んで、籠を作ったことがある。 麻ひもを束ねて放射状に広げたときに紐が奇数本になるほうにする。 そして、別の麻ひもで山谷山谷と渦巻き状に編んでいくのである。 しかし、衣服に用いるのであれば、縄よりも細い紐が適していそうだし、やはり簡単な道具があったほうが編みやすそうに覆える。 布片のようなものは腐りやすく後に残りにくいかもしれないが、道具ならばでてくる可能性はあると思う。 もしかしたら、今後発掘調査によってそういったものがでてこないとは限らないが、現時点では、編み物や織物の衣類を身にまとっていた証拠はないというしかないように思える。 ねずさんは「ケガをするのでパンツかふんどしは身に着けていたはずである。毛皮のパンツなどはいていたらキンキンタムシになる」とおっしゃっているが、 それらは編み物や織物による衣類があったことの説明にはなっていない。 ケガをしようと、インキンタムシになろうと、そういう技術がなければ仕方がないし、昔の人は大事なところをしょっちゅうケガしたり、インキンタムシになったりしていたかもしれない。
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http://nezu3344.com/blog-entry-4149.html
ねずさんが上の記事でこんなことを書いている。
①. キムチは日韓併合後に今の形になった歴史の浅い食品。
②キムチに用いる唐辛子は南米のチリ産。
③コロンブスが唐辛子をスペインに持ち帰り、戦国時代にスペインから日本に伝わった。 ④秀吉の朝鮮出兵の際に唐辛子は塗り薬として朝鮮に伝わった。
⑤.1670年の朝鮮の「飲食知味方」に「漬け物としてのキムチ」が記されているが、唐辛子は用いられていない。
⑥1809年の「閨閤叢書」には漬物に千切りにした唐辛子を少量入れると書いてある。日本の漬物にも少量の唐辛子を入れることがある。
⑦.1827 年の「林園十六志」に現在のような辛いキムチの記述がある。
⑧1625年、江戸で七味唐辛子が発明され、日本中に広まった。
⑨1811年、半島通信使600名ほどが日本にやってこようとした。しかし彼らは道で脱糞するので徳川家斉は対馬藩で足とめとした。 半島通信使らはこのとき七味唐辛子を持ち帰り、半島で唐辛子が流行るようになる。
⑩当時朝鮮半島の庶民は箸もスプーンも使わず手づかみで食べていた。
⑪朝鮮半島で、一般の庶民が食事の際に、箸やスプーンを使うようになったのは、明治43(1910)年以降。
⑫.日本が半島を統治した時代、総督府は何度も「路上脱糞禁止令」を出している。
⑬それまでの半島には、トイレがなく、路上脱糞があたりまえだった。
⑭.「路上脱糞禁止令」が出たので、路上で用を足せなくなり、室内に穴をほってするようになった。
⑮その地下に漬物の甕をおいておいたので、雨が降るとkの汚水が甕に入って回虫がわく。
⑯回虫の成虫を殺すため唐辛子をどっさり入れるようになった。
⑰名古屋の野崎徳四郎が大正時代の初め頃に白菜栽培に成功。これが朝鮮に伝わってキムチに用いられるようになった。
「⑩.当時朝鮮半島の庶民は箸もスプーンも使わず手づかみで食べていた。」とあり、 その証拠として「日韓併合前の半島庶民の食事(平壌)」という写真を掲載されている。
http://nezu3344.com/blog-entry-4149.html
「どうみても箸もスプーンもありません。」と書いておられるが、写真が小さく不鮮明なので、私には箸やスプーンがないかどうか判断のしようがない。
これでは証拠にはならない。
ねずさんが貼っている写真の出どころを探したところ、下のサイトが見つかった。上から4枚目。 https://hinode.8718.jp/photo_korea_life.html
若干写真のサイズは大きいがやはり不鮮明で箸やスプーンの有無はわからない。 やはりこの写真を証拠として使うのはムリがあると思う。
そしてこの写真の一つ下の写真(上から5枚目)の写真を見ると、箸を使って食事をする人が写っている。
ある人に意見を聞いたら、箸を使って食事をしている人は両班ではないか、という。

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:1910%EB%85%84%EB%8C%80_%EC%A1%B0%EC%84%A0_%EA%B8%B0%EC%83%9D.jpg https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/ea/1910%EB%85%84%EB%8C%80_%EC%A1%B0%EC%84%A0_%EA%B8%B0%EC%83%9D.jpg よりお借りしました。 不明 [Public domain]
上はウィキペディアからお借りした両班の写真である。 両班とは貴族階級の人のことである。
リンク先の、箸を使って食事をしている人の写真は両班だろうか? あまりきちんとした身なりをしていないように見えるが、着物の特徴などを比べてみても私にはわからない。
朝鮮で生活した経験のある本間九介さんの朝鮮雑記には「彼らは不潔で箸なども洗ったことがないだろう」という意味のことが書かれていた。 箸を洗わない、ということは箸はあるということである。
また庶民に箸をつかう習慣がなかったのであれば、日本人からみて奇異にみえるので、本間さんはそれについて記したのではないだろうか。 書いていないということは、箸を使っていたのではないか。
これについては、「本間九介さんは朝鮮の貴族としか接していないのではないか」といわれた。 まあ、そういう可能性はある。
しかし、李氏朝鮮の庶民が箸をつかっていなかったことの証拠はない。 小さくて不鮮明な写真を貼りつけて、箸を使っていない証拠、といわれても納得できないことは確かだ。
また、トイレがなかったとか、排便の汚水が甕にはいって回虫がわくので唐辛子をいれた、ということのソースの提示がない。
この手の話は、韓国嫌いの人が多い右寄り保守の人に歓迎されがちである。 しかし客観的に考えてソースの提示が必要だと思うし、ソースの提示のないものを簡単に信じないようにしてほしい。 ねずさんにはぜひソースの提示をお願いしたい。
ところで、唐辛子入りのキムチの成立がいつになるかについては、ねずさんは実に細かく調べている。
⑤.1670年の朝鮮の「飲食知味方」に「漬け物としてのキムチ」が記されているが、唐辛子は用いられていない。
⑥1809年の「閨閤叢書」には漬物に千切りにした唐辛子を少量入れると書いてある。日本の漬物にも少量の唐辛子を入れることがある。
⑦.1827 年の「林園十六志」に現在のような辛いキムチの記述がある。
⑧1625年、江戸で七味唐辛子が発明され、日本中に広まった。
⑨1811年、半島通信使600名ほどが日本にやってこようとした。しかし彼らは道で脱糞するので徳川家斉は対馬藩で足とめとした。 半島通信使らはこのとき七味唐辛子を持ち帰り、半島で唐辛子が流行るようになる。
このうち、⑤⑥⑦については、きちんと文献を示して語っている。
そうであるのに、箸を使っていなかったことの証拠や、トイレがなかったことの証拠、回虫を殺すために漬物に唐辛子を入れたことの証拠などをなぜ示さないのだろう?
やはりこれらについてもきちっと証拠なリソースなりを示すべきだし、読む側はソースのないものは信じないという姿勢が大切だと思う。
韓国が嫌いだからと言って、韓国批判の者は何でも受け入れるというようではあまりに程度が低い。
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①福島で相次いだ病院閉鎖の影響で患者が増えたのでは?
上の動画に、福島県のある市民病院の患者数の表が示されている。
福島原発事故の前の2010年、成人白血病・成人甲状腺がんなどの病気になった人の総数が1310人、 原発事故後の2017年、成人白血病・成人甲状腺がんなどの病気になった人の総数が4599人。
さらにその表の下に市の人口を示している。 原発事故前の2010年度の人口は70878人、原発事故後の2017年度の人口は55404人。 原発事故の影響で市外へ避難したり移転する人が大勢いて、2010年には70878人だった人口が、2017年には55404人に減っているのだ。
それなのに、2010年には1310人だった患者数が、2017年には4599人に増えている。 福島原発事故の影響で癌などの病気が増えている!
そう武田先生は主張している。
しかし、この計算にはトリックがある。難しいトリックではない。中学生でもわかるレベルの単純なトリックだ。
「市民数と市民病院の患者数は比例しない」ということである。
原発事故後、福島の病院閉鎖のニュースが頻繁に報じられていた。 たとえば市に4つあった病院のうち2つが閉鎖したとしたら? 残った2つ病院の患者数は増える可能性が高くなることはいうまでもない。
また病院のベッド数を増やすと受け入れられる患者数が増えるので、そういうことも関係していそうだ。
②人口減少+病院減少で1病院の患者数が増えることはありえる。
これに対して、次のような反論があった。
病院が減っているというが、人口も減っている。それなのに原発事故の影響がなく患者数が増えるなんてことがありえるのか、と。
結論から言うと、これはありえる。数字を単純化して考えてみれば理解しやすい。 ①で述べたように、「市民数と市民病院の患者数は比例しない」のだが、比例すると仮定して計算をしてみる。
a.人口1000人で、患者数が400人のとき、人口に対する患者数の割合=(400÷1000)×100=40% b.人口700人に減少したとき、患者数400人を人口補正すると 700人×40%=280人
a.人口1000人、患者数400人、病院数が2件で、どの病院にも均等に患者があったと仮定する。 すると、病院一件あたりの患者数は 400÷2=200人 となる。
b.人口700人、患者数280人で、病院数が1件とすると1病院の患者数は280人。
人口1000人、病院数3件のとき病院1件あたりの患者数200人。 人口700人、病院数1件のとき、病院1件あたりの患者数280人。
人口が減っているが、1病院の患者数は増える計算になる。
③人口補正倍率をかけるのは無意味
成人白血病患者数は事故前の2010年には5人だったが、事故後の2017年には53人に増えている。 53人÷5人=10.6で、事故前に比べ事故後10.6倍に患者数が増えたことになる。 (もちろん事故の影響だけでなく、病院閉鎖の影響もあると考えられる。)
しかし成人白血病患者が5人だったとき、市の人口は70878人だった。 これが2017年ではら55404人に減っている。 減少率は55404人÷70878人=0.781881198≓0.8
上表右下の0.8はこうして計算したものだろう。
2017年、2010年と同じ人口であった場合、患者数は何人増えるかを考えなければ正しい倍率にならない。
2017年の患者数/2010年の患者数÷2017年の人口/2010年の人口=人口補正倍率
赤字で示した2017年の人口/2010年の人口は「55404人÷70878人=0.781881198≓0.8 」だが、四捨五入した0.8で計算すると誤差が大きくなる。 そのため、武田先生は0.781881198で計算を行っている。
成人白血病・・・53/5÷55404/70878=10.6÷0.781881198=13.5570468≓13.6 成人甲状腺がん・・・29/1÷55404/70878=29÷0.781881198=37.09003372≓37.1
このように計算したのだと思う。、「市民数と市民病院の患者数が比例する」のであれば、この計算は間違いではない。
しかし、①に書いたように、「市民数と市民病院の患者数は比例しない」ので、武田先生が表の右端に記しておられる人口補正倍率の計算は無意味である。
倍率をさらに大きく見せるための仕掛けのように思えなくもないw。
④データ元発見!
データ元は公開されていなかった。先生はデータ元をほとんど公開しない。これは先生の悪い癖である。 しかし最近になってデータ元がわかった。 ある人に医師・澤野豊明さんが書いた記事を教えてもらったのだが、その中に表があったのだ。
。 https://webronza.asahi.com/national/articles/2019090400003.html?page=1 より引用
武田先生の表とは方向が逆で、年が縦、病名が横になっている。 これを武田先生の表と同じ方向、年を横、病名を縦に直した表を作成した。 また白血病などはリンパ性・骨髄性・他の3項目に分かれているので、足して表に書き入れた。
あと、武田先生の表には脳卒中の項目があるが、澤野豊明さんが公開しておられるデータには脳卒中の項目はない。 (下表)
| 2010 | 2011 | 2012 | 2013 | 2014 | 2015 | 2016 | 2017 | | | H22 | H23 | H24 | H25 | H26 | H27 | H28 | H29 | | 成人白血病 | 5 | 6 | 12 | 20 | 29 | 36 | 50 | 53 | | 成人甲状腺がん | 1 | 4 | 8 | 12 | 15 | 19 | 21 | 29 | | | | | | | | | | | | 胃がん | 147 | 164 | 204 | 231 | 269 | 300 | 342 | 333 | | 肺がん | 64 | 68 | 79 | 106 | 134 | 189 | 227 | 269 | | 大腸がん | 131 | 154 | 188 | 222 | 258 | 314 | 385 | 392 | | 肝臓がん | 12 | 15 | 19 | 25 | 31 | 35 | 42 | 47 | | 小児がん | 1 | 1 | 1 | 1 | 1 | 1 | 2 | 4 | | | | | | | | | | | | 心筋梗塞 | 39 | 42 | 50 | 65 | 109 | 109 | 147 | 155 | | 肺炎 | 245 | 287 | 338 | 419 | 512 | 713 | 911 | 974 | | 脳卒中 | | | | | | | | | |
武田先生の表は2011年から2016年のデータがないが、2010年と2017年のデータは澤野豊明さんが公開しておられるデータと数字が全く同じだ。 武田先生がこのデータを参考にしたのはまちがいない。
⑤他病院からの紹介、専門医師の赴任も患者数増加の原因に。
澤野豊明さんが書かれた記事を読んで、近隣の病院閉鎖以外にも患者数増加の原因があることがわかった。
記事をまとめておく。
①南相馬市議である大山弘一氏が「南相馬市では原発事故前に比べ、成人甲状腺がんが29倍、白血病10.8倍、肺がん4.2倍に増えた」という内容のチラシを市民に配布した。
②これは南相馬市立総合病院の医事会計システムのデータを誤った解釈をして作られたものである。
③大山議員の弁護士・井戸謙一氏はこのデータをFacebookで公開した。
④井戸氏は一部発信した内容の誤りを認め、のちに謝罪した。
⑤大山議員が参考にしたデータは医事会計システム(医療費を計算するためのもの)のものである。
⑥医事会計システムでは、患者さんが初めて来院して「大腸がん」などのように診察されると1カウントがつく。 治癒・転院・死亡などで来院しない状態になるとカウントから外される。 通院していると毎年カウントされる。
⑦平成29年度の成人甲状腺がんは29人で、平成28年度の21人から8人増えている。 実際は平成29年度9人の患者が甲状腺がんと診察されていた。 そのうち5人が当院で初診をうけた患者、4人が他の病院から紹介があって受診した患者。
⑧震災前の平成22年度には、市内で精神科を除いて入院ができる病院は6つあったが、平成29年度には入院が可能な病院は4つに減少している。
⑨呼吸器内科・血液内科では震災後に専門医が南相馬市立総合病院に赴任したため、肺がんの患者がより集まった。
⑩外科も手術できる医師が赴任したため、患者が増えた。
大山議員の弁護士・井戸謙一氏は一部発信した内容の誤りを認めて謝罪したそうだが、武田先生はいまだ謝罪もしないし、動画を取り下げることもしていない。 科学者の態度としていかがなものか、と思う。
※私は原発事故の影響で癌などの病気が増えていないといっているのではない。計算はまちがいであると言っているにすぎない。 正しく計算されたものでなければ人々を納得させることができないのは当然のことである。
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写真ブログのはずだったのにほとんど歴史ブログになってしまった 心の旅 もよろしくおねがいします。
毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!
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