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ミシャグジ様の謎⑪ 『咳の地蔵尊はミシャクジ様?』

ミシャグジ様の謎⑩ 千の仏頭が現れた山   よりつづきます~
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ミシャクジ様の謎① 昔の人は岩を落ちてきた星だと考えた? 

四天王寺 紫陽花

四天王寺 紫陽花

①四天王寺のミシャグジ神?

橘寺を参拝した私は、今度大阪の四天王寺を参拝してみたくなった。
橘寺も四天王寺も聖徳太子が創建したと伝わっている。

587年、廃仏派の物部守屋vs崇仏派の蘇我馬子の戦争があった。
聖徳太子は蘇我馬子側に参戦していた。
戦争は蘇我馬子が勝利し、聖徳太子が物部守屋の土地と奴婢をもちいて建立したのが四天王寺なのだ。

石鳥居の前に立つと、中心伽藍である五重塔や金堂が見える。
昭和9年(1934)の室戸台風で五重塔は倒壊、その後、昭和15年(1940)に債権されるも、昭和20年(1945)の大阪大空襲で境内のほとんどの建物は消失したという。

四天王寺 夕日 

四天王寺 夕景

現在の本堂や五重塔は1959年(昭和34年)に再建された鉄筋コンクリート造ということだが、外観は伝統的な様式を踏襲しているように見える。

六時堂を参拝し、聖霊院へ向かう途中で、小さなお堂が目に留まった。
「牛王尊」「石神堂」と墨書された板が掲げられている。

牛王尊

四天王寺 石神堂

石神堂は推古元年(593)創建とされ、建築資材である石や材木を運搬した牛が、伽藍が完成すると石になったと伝えられている。
堂内には牛王尊の巨石が安置されている。
後世、牛は草を食べるところから、「瘡を食べてくれる神」として信仰された。
瘡とは皮膚病のことで天然痘のことも瘡といわれた。

牛王尊とは厄神(特に天然痘をもたらす神と信仰された。)の牛頭天皇ではないかと思う。
そしてその牛王尊を祀るお堂が石神堂なのだろう。

なぜ石神堂なのかというと、牛王尊=石神ということではないだろううか。

私は橘寺にあった二面石を思い出していた。

二面石

橘寺 二面石

橘寺の本堂にはたくさんの杓子(しゃもじ)が奉納されていた。
そしてミシャグジ様という神に杓子を奉納する習慣があること、ミシャグジ様とは御石神様のことだと聞いたことがあった。
私はこの二面石が御石神様であり、そのため橘寺には杓子を奉納する習慣があるのではないかと考えた。

杓子を奉納するのは、御石神→ミシャグジ→御杓子 という語呂合わせだろう。

そして橘寺と同じく聖徳太子が創建したと伝わる四天王寺境内には石神堂がある。
牛王尊=石神とすれば、四天王寺にも杓子が奉納されているのではないか?

私は境内を歩き回って杓子を探してみたが、見つけることはできなかった。
(探したりないのかもしれない。)

しかしあきらめて帰りかけたとき、中の門あたりで
「咳(せき)の地蔵尊」と刻まれた石碑をみつけたので、一気にテンションがあがってしまった。

咳の地蔵尊は牛王尊=石神と関係のある地蔵尊ではないかと思う。
横浜市の社宮司社は、「咳の神」「おしゃもじさま」と呼ばれ、この社に奉納されている杓子を持って帰り、のどを撫でると咳の病が治ると信仰されているという。
名古屋市南区の石神社ではミシャグジという神様に杓子を奉納する習慣があるそうである。

石は「せき」と読むので、石神堂の石神(牛王尊の巨石)は咳の地蔵尊に変化したのではないだろうか。

四天王寺 咳の地蔵尊

四天王寺 咳の地蔵尊

②石上神宮は石神(ミシャグジ)?


さきほどものべたように、四天王寺は物部守屋の土地と奴婢を用いて聖徳太子が建立した寺とされる。
四天王寺がある辺りはもともとは物部氏の土地であったのだろう。
(もともと四天王寺は森ノ宮あたりにあったといわれるが)

奈良県天理市にある石上神宮は物部氏が祭祀する神社だった。
もしかして石上神宮の石上とは「石神」が転じたもので、ミシャグジとは物部氏の神様なのではないのだろうか。

石上神社 紅葉 
石上神宮

そういえば、肩野物部氏の本拠地だった大阪府交野市には巨大な岩を祀る神社、磐船神社・星田妙見宮があった。

物部氏は岩を信仰していた氏族なのだ。

磐船神社 天の磐船 

磐船神社 天の磐船

星田妙見宮 織女石

星田妙見宮 織女石(たなばたいし)


ミシャグジ様の謎⑤ 交野ヶ原の天の川伝説 
ミシャグジ様の謎① 昔の人は岩を落ちてきた星だと考えた? 

③洩矢神=ミシャグジ=物部守屋?

長野県諏訪地方では洩矢神(もりやしん、もれやしん)が厚く信仰され、ミシャグジ神と同一視されているそうである。

洩矢と守屋は発音が同じである。

そしてこの洩矢神の後裔が守矢氏で、代々諏訪大社の神長官を務めてきたそうである。
そしてこの守矢氏が守ってきた「七本の峯のたたえ」はミシャグジ神が降りる木だと言われているそうである。

諏訪大社上社の御神体は‘守屋’山とされているが、守屋山は物部守屋と同じ名前である。

さらに諏訪大社上社の南西6kmほどの場所には守屋神社があり、物部守屋を祀っている。
そして諏訪大社上社の御神体・守屋山に頂上にある磐座は守屋神社の奥宮ともされているとのことである。

守屋神社では諏訪大社との関係は否定されているそうだが、私には関係がありそうに思える。

つまり、私は次のように推測するのである。
①守屋山の頂上にある磐座に降臨する神=洩矢神=ミシャグジ神=物部守屋の霊
②守屋山を御神体とする諏訪大社上社=物部守屋を祀る神社
③代々諏訪大社の神長官を務めた守矢氏=洩矢神の後裔=物部守屋の後裔

四天王寺の境内には守屋祠もある。

守屋祠

さらに次のように推測する。

④四天王寺は守屋の霊を慰霊するための寺であり、守屋に対する信仰があった。
⑤①で説明したように、洩矢神=ミシャグジ神=物部守屋の霊だと考えられる。
⑥四天王寺にはかつてミシャグジ神に対する信仰があったが、なんらかの理由で咳の地蔵尊におきかえられた。


ミシャグジ様の謎 ⑫ 『疳の虫の神』 につづきます~



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言ってもいないことを、主観で決めつけて事実のように話すのは『嘘』

武田邦彦先生の発言にはいろいろ問題があると考えており、別ブログなどでもいくつか記事を書いている。

大阪城 紅葉 『日本の城郭都市と乱取り』  
築港赤レンガ倉庫 『事故件数だけではわからない高齢ドライバーの危険性?』※追記あり 
武田邦彦先生の発言のまちがい。イザナギはイザナミを助け出していない。 



上の動画で、今回もかなり問題のある論法を使っておられるので、このことについてお話ししたいと思う。



今日、私がいいたいのは、トリエンナーレを再開するべきか、いなかについてではない。
これについては、いろんな考え方があってしかるべきだと思う。

指摘したいのは、話をする際の、もっと基本的なことである。

武田先生は次のようにおっしゃっている。


①トリエンナーレの主催者の人を見ますと、傲慢なんですよ。
顔つきがまず傲慢。頬の筋肉が傲慢。
それからお前らの意見を聞いてやるぞっていう態度なんですね。
俺達の意見は決まっているんだ。俺たちは万能なんだ。俺達が正義なんだって顔してる。(3:35)

②再開するときに苦情を電話で受け付ける窓口を作るという人たちが言っているコメントでびっくりししゃったんです。
まるで聞いてやるぞという感じなんですよ。
あれね、権力者なんですよ。
スターリンなんですよ、毛沢東。
なぜ同じ人間を殺せるのかというと、自分が上だと思っているからなんですよ。~
今の時代にこれほど階級制意識を持っている人がいるんだなあ、と思ったんです。
階級制意識をもっている人は朝日新聞、リベラル、東大教授、左翼の人、これが皆差別意識なんですよ。
俺達は偉いんだ、俺達は万能なんだ、だから俺達が慰安婦像を展示したり、天皇陛下の燃えた像、特攻隊を揶揄する作品を置いて何が悪いんだと
お前らそれで気分悪くするのか、それじゃあ気分悪くする理由を聞いてやろうじゃないかとこういう感じですね。(6:30)

③「俺達のやることは正義なんだ。」「お前らバカなんだから」「公金を使って展示して何が悪い」というような態度 (9:30 )

①は大学教授ともあろう人が、いくら嫌いだからといっても他人の顔つきまでいわないくてもいいだろう。
顔つきに傲慢さがあらわれていたということかもしれないが、それは武田先生の主観であり、別の人が見ても同じように感じるとはかぎらない。
むしろ武田先生の発言はヘイトだと言われる可能性がある。


②で「まるで聞いてやるぞという感じ」③で「・・・というような態度」と書いておられるので、
彼らは「おれ達は万能」「俺達のやることは正義」「お前らバカなんだから」「公金を使って展示してなにが悪い」と実際に発言したわけではないのだろう。
これも彼らの発言を聞いて武田先生がそう言っているように感じた、という主観にすぎない。
他の人が聞いたらそうは聞こえないかもしれない。

そして、彼らが実際に何と発言したのかについては、武田先生は一言も言っていない。
相手が先生の動画を聞いたら「俺たちは、『お前らバカなんだから』なんていっていない、武田先生は嘘つきだ、と言うだろうし
言われても仕方がない。
言ってもいないことを、主観で決めつけて事実であるかのように話すのは、『嘘』である。



家庭や職場、学校などで「あの人の態度、嫌なんだよね、人見下してるみたいで」のように話をすることはある。
しかし、やはりそれは望ましい会話とはいえない。
YouTubeという公の場で話すのはなおさら望ましくない。


やはり「彼らは〇〇というが、間違いで✖✖である」
「彼らは〇〇というが、そういういい方はあまりに傲慢ではないか」のように、
実際の彼らの会話を引き合いに出して語るべきである。



結局、先生のいう「彼ら」がどんなことを言ったのか、まったくわからず、最後まで判断のしようがなかった。





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日本に現生人類がやってきたのは4万年前なのに、11万年前の石器が日本にあるってどういうこと?


①11万~12万年前の砂原遺跡の石器は旧人が作ったものでは?


ねずさんとおっしゃる有名なブロガーさんが、次のような内容の記事を書いておられた。

http://nezu3344.com/blog-entry-4276.html
万年の単位で日本列島を俯瞰する


a.現生人類が誕生してからおよそ4万年、ネアンデルタール人などの旧人が誕生してからおよそ20万年といわれている。

b.(現生人類はアフリカで誕生し、日本には4万~3万年前にやってきたとする)もっともらしい図が流布しているが、日本ではなぜかおよそ11万~12万年前の石器(島根県出雲市の砂原遺跡)が発見されている。(2013年6月7日発表)。

c.ミトコンドリア・イブの解析によって、人類の始祖はおよそ20万年前〜15万年前あたりに中央アフリカのあたりで発祥し、およそ6万年〜4万年前あたりにそれがイラクのあたりに移動し、そこからヨーロッパや亜細亜方面に広がったのだと、まことしやかにいわれている。

d.しかし人は移動する生き物なので、一箇所にとどまっていると考えるのは不自然。

e.日本で11〜12万年前の石器が発見されたからといって、人類の始祖が日本人であるとも限らない。
万年の単位で人類史を考えるときには、いまとまったく異なる地形を前提に考えなければならないからである。


さらにねずさんが言いたいことをまとめると次のようになると思う。

「日本列島には4万年前ごろホモ・サピエンスがやってきたということになっているが、日本では11万~12万年前の石器(島根県出雲市の砂原遺跡)が発見されている。
現生人類はアフリカで誕生し、日本には4万~3万年前にやってきたとする図はウソで、本当は人類の始祖なのではないかとも思える。
しかし、日本で11〜12万年前の石器が発見されたからといって、人類の始祖が日本人であるとも限らない。
いまとまったく異なる地形を前提に考えなければならないからである。」


②はリンク先2枚目の世界地図を描いた図のことだが、図の出典元やタイトルが示されていない。
http://nezu3344.com/blog-entry-4276.html
こういうのは、「怪しい」と疑ってかかるべきである。

で、ネットでぐぐったところ、ほとんど同じ内容の図が見つかった。



世界中に広がっていくホモ・サピエンス:国立科学博物館
http://www.kahaku.go.jp/special/past/japanese/ipix/1/1-14.html# 

https://www.s-yamaga.jp/nanimono/seimei/jinrui-01.htmより引用 

出典元は国立科学博物館で、タイトルは「世界中に広がっていくホモ・サピエンス」である。

ホモ・サピエンスとは現生人類の学名である。

現生人類の前には、ネアンデルタール人などの旧人がいたことは、ねずさんもはっきりおっしゃっている。

単純に考えて、砂原遺跡で発見された石器は現生人類が作ったものではなく、旧人が作ったものなのではないだろうか?

そう考えてさらにググってみたところ、ウィキペディアに次のように書いてあった。

現生人類(ホモ・サピエンス)は7〜6万年前に出アフリカを果たし、それ以前にはアフリカ外には分布していなかった。
従って、日本列島最古の石器(砂原遺跡
の12万年前)を遺したのはデニソワ人などの旧人である。
日本列島に現生人類が現れるのは4〜3.5万年前と考えられており、これは日本固有のはプログループⅮプ1a2(Y染色体)
の起源年代とおおむね一致する


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%88%97%E5%B3%B6%E3%81%AE%E6%97%A7%E7%9F%B3%E5%99%A8%E6%99%82%E4%BB%A3 より引用。

ねずさんは「いまとまったく異なる地形を前提に考えなければ、日本人が人類の始祖とはいえない」
とおっしゃっているが、地形を考えるとか以前に、旧人が作成した石器であるので、日本人が人類の始祖とはいえない。

②砂原遺跡の石器を作ったのは、日本人の先祖でも現生人類の先祖でもない。

我々の先祖は現生人類であって、旧人ではない。
旧人の一種であるデニソワ人は、現生人類の一部(メラネシア人など
)と遺伝子情報を部分的に共有する可能性が高いとされるが、ネアンデルタール人同様、絶滅した人種なのである。

砂原遺跡の石器を作ったのは、日本人の先祖ではないし、現生人類の先祖でもないのだ。

③オルドワン型石器は250万~2万年前に作られた。

ねずさんは砂原遺跡の石器が世界最古の石器と考えておられるふしがあるが、最古の石器はオルドワン型石器と呼ばれるものである。
礫を討ち欠くことによって制作した簡単なつくり石気であり、旧人のホモ・ハピリス(240~140万年前または頑丈型猿人(120〜200万年前)が作ったものではないかと考えられている。

④デビルスタワーは巨木の切り株ではなく、岩頸


また、ねずさんは「アメリカ合衆国ワイオミング州北東部に存在するデビルスタワーは巨木の切り株の化石であるといわれている」と書いている。

Devils Tower - Wyoming
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Devils_Tower_-_Wyoming.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/14/Devils_Tower_-_Wyoming.jpg
Land Cover Trends Field Photos [Public domain]

しかし、ウィキペディアには次のように書いてある。

「地下のマグマ
が冷えて固まり、長年の浸食によって地表に現れた岩頸と呼ばれる地形である。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%83%93%E3%83%AB%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%AF%E3%83%BC より引用



【追記】
a.現生人類が誕生してからおよそ4万年、ネアンデルタール人などの旧人が誕生してからおよそ20万年といわれている。


とねずさんは書いておられるが、現生人類が誕生したのは、約25万年~20万年前とされる。









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ミシャグジ様の謎⑩ 千の仏頭が現れた山


ミシャクジ様の謎⑨ 30kmも運ばれた丈六の仏像 よりつづきます~
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ミシャクジ様の謎① 昔の人は岩を落ちてきた星だと考えた? 

①聖徳太子は怨霊だったby梅原猛氏

2019年1月12日梅原猛さんの訃報を告げるニュースが流れた。
彼は哲学者だが、どちらかというと歴史に関する著作が有名である。
特に彼の著書「隠された十字架―法隆寺論」は聖人として今なお厚く信仰されている聖徳太子を怨霊であったと説いて人々に衝撃を与えた。

私も彼の本をわくわくしながら読んだ読者のひとりだった。
私は彼の説のすべてを支持するわけではないが、歴史を考える彼の手法には多いに学ばせてもらった。
そんな梅原猛さんに心からお礼の言葉を述べて、別れの言葉に変えさせていただきたいと思う。

梅原猛さんの訃報を聞いた後、「隠された十字架」の舞台、法隆寺を訪れた。

法隆寺の南大門をくぐり、松並木がつづく参道を歩いていくと、中門と五重塔が見えてくる。

法隆寺 中門と五重塔 

この門はかなり変わった門である。
どこが変わっているのかというと、四間のため中央に柱があるのだ。


喜光寺 門 本堂 
上は喜光寺の門を撮影したものだが、通常の門はこの喜光寺の門のように奇数間のため中央に柱がくることはない。
梅原猛氏は門に柱を建てれば閂で、法隆寺は聖徳太子の怨霊封じ込めの寺ではないかと説かれた。

法隆寺 夢殿 
法隆寺 夢殿

法隆寺 夢殿は開扉すると大地震がおこると言い伝えられており、長年扉が開かれたことがなかった。
1908年フェノロサが夢殿の扉をあけたところ、聖徳太子等身大の像と伝わる救世観音が発見されたのだが
布でグルグル巻きにされたフランケンシュタインのような状態であった。
また、光背が頭に直接釘で打ち付けられていた。(一般的には足元にたてた棒に光背をつける。)
このほかにも多くの事例をあげ、梅原さんはこの救世観音は聖徳太子の怨霊封じ込めの像ではないかと説かれたのだった。


GUZE Kannon Horyuji

法隆寺 救世観音
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:GUZE_Kannon_Horyuji.JPG
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/e8/GUZE_Kannon_Horyuji

怨霊とは政治的陰謀によって不幸な死を迎えた人のことで、古には疫病の流行や天災は怨霊の仕業で引き起こされると考えられていた。

聖徳太子がなぜ怨霊になったのかというと、彼の子孫は蘇我入鹿に攻められて、山背大兄王(聖徳太子の子)以下全員、斑鳩寺(法隆寺)で首をくくって亡くなったからだと梅原猛氏はいう。

聖徳太子は立派な人物として今でも厚く信仰されているが、現在の日本人に彼の血は一滴も流れていないのである。

井沢元彦さんは梅原さんの説を受けて、先祖の霊はその子孫が祭祀または供養するべきとされているのに、聖徳太子には祭祀供養する子孫がいなくなった。
そのため怨霊になったと考えられたのではないかとおっしゃっている。

法隆寺 夕日 
法隆寺

②仏頭山

飛鳥にある橘寺は聖徳太子生誕の地で、聖徳太子創建の寺と伝わっている。
橘寺の山号は仏頭山という。

橘寺 彼岸花

お寺の後ろに写っている山が仏頭山である。

③千の仏頭が現れた伝説。


橘寺にはこんな伝説が伝えられている。

あるとき聖徳太子が3日間にわたり勝鬘経(しょうまんきょう)の講義を行うと、
蓮の花が庭に降り積もり、仏頭山に千の仏頭が現れ光り輝いた。
推古天皇はこれにたいそう驚かれて、この地に寺を建てるようにと聖徳太子に命じた。
そこで聖徳太子が橘の宮を寺と改めた。


仏頭といえば思い出すのが前回お話しした、興福寺所蔵で、もと山田寺にあったとされる仏頭である。 

Buddha Head Yamadadera

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Buddha_Head_Yamadadera.JPG
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/0/08/Buddha_Head_Yamadadera.JPG よりお借りしました。
作者 匿名Unknown author [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で


仏頭とはみほとけの頭部のことである。
体から切り離された頭部というのは気持ち悪い。
しかも、その仏頭の数は千も仏頭山に現れたというのだからそれは不気味な光景であったことだろう。


橘寺 彼岸花 白

法隆寺

④千の仏頭は聖徳太子の子孫の霊のドクロ?

①でお話ししたように、聖徳太子の子孫は、蘇我入鹿に責められて山背大兄王以下、全員斑鳩寺(法隆寺)首をくくって自害している。
千の仏頭とは、首をくくって自害した聖徳太子の子孫の霊のドクロなのではないだろうか。

聖徳太子の子と孫は大勢いたが千人は大すぎる。
誇張して千の仏頭としたのではないだろうか。

二面石

⑤二面石はミシャグジ様?

本堂の奥の聖徳太子像を拝み、本堂を出ようとしたとき、壁にたくさんのしゃもじがつりさげられているのに気が付いた。

なぜ橘寺にしゃもじが奉納されているのだろうか?

たしか、ミシャグジ様という神様がいて、杓子(しゃもじのことを杓子ともいう)を奉納する習慣があると聞いたことがあるが、橘寺にもミシャグジ信仰があったのだろうか?

そんなことを考えながら本堂を出ると、右手に奇妙な形をした石像があった。

二面石というそうで、表裏に善悪ふたつの顔を刻んだものであるという。

そういえば、ミシャグジ様とは、御石神様のことである、と聞いた記憶があった。
二面石は石像であるので、御石神様といえるかもしれない。

この二面石が境内にあるところから、橘寺には杓子(しゃもじ)を奉納する習慣があるのだろうか?

 橘寺 本堂 ライトアップ


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ミシャグジ様の謎⑨ 30kmも運ばれた丈六の仏像



ミシャグジ様の謎⑧ 大神神社は物部氏が祭祀する神社?  よりつづきます~
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興福寺 五重塔

興福寺 五重塔 八重桜

①巨大な仏頭

奈良を訪れたのは晩春で、もうソメイヨシノは散ってしまっていた。
こんな時期になぜ奈良を訪れたのかというと、東大寺知足院に咲くナラノヤエザクラを見たいと思ったからだった。
ナラノヤエザクラは遅咲きなのだ。
しかし残念ながらナラノヤエザクラは咲いていなかった。
それでも遅咲きの八重桜と藤が今を盛りと咲いていて心は落胆している暇がなかった。

興福寺 藤

興福寺 南円堂 藤

花を見ただけでは飽き足らず、御仏の姿も拝んでみたくなったので、興福寺国宝館に行ってみることにした。
国宝館には阿修羅像をはじめとする八部衆もあり、八部衆の前には人だかりができていた。
阿修羅の筋肉のついていない昆虫的な腕や少女のような憂いを含んだ顔に、私もしばし見とれた。
しかし阿修羅よりももっと私の度肝を抜いたのは、巨大な仏頭だった。高さは98.cmもある。

Buddha Head Yamadadera

山田寺仏頭(
興福寺蔵)
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Buddha_Head_Yamadadera.JPG
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/0/08/Buddha_Head_Yamadadera.JPG よりお借りしました。
匿名Unknown author [Public domain]


さらに驚いたことは、この仏頭はもともとは飛鳥の山田寺のご本尊であったというのだ。
その山田寺のご本尊の仏頭がなぜ興福寺にあるのか。またなぜ頭部だけなのか。

②蘇我倉山田石川麻呂

山田寺を創建した蘇我倉山田石川麻呂(? - 649年)は蘇我馬子の孫で蘇我倉麻呂の子として生まれた。
蘇我蝦夷は叔父、蘇我入鹿は従妹である。

      蘇我蝦夷ー蘇我入鹿
蘇我馬子<
      蘇我倉麻呂ー蘇我倉山田石川麻呂
            蘇我日向(倉山田石川麻呂の異母弟)


同族ではあるが、蘇我倉山田石川麻呂は蘇我氏本宗家の蘇我蝦夷・蘇我入鹿父子と対立していたようである。

蘇我倉山田石川麻呂、乙巳の変のメンバーに。

626年、蘇我馬子が死亡し、子の蝦夷が大臣となった。
蘇我蝦夷・入鹿親子は権力を増大させ、豪族達は朝廷ではなく蘇我家に出仕する有様であったという。

642年、蘇我蝦夷と入鹿は、自分達の陵墓築造のために公民を動員している。
聖徳太子の一族の領民も動員され、聖徳太子の娘の大娘姫王が抗議したという記録が残っている。

643年、蘇我蝦夷は朝廷の許可をえず蘇我入鹿を大臣とし、次男を物部の大臣とした。

こうした蘇我氏の専横に対し、中臣鎌足&中大兄皇子らは蘇我入鹿殺害を計画した。
この蘇我入鹿殺害計画のメンバーに、蘇我倉山田石川麻呂もはいっていた。
蘇我倉山田石川麻呂は娘の遠智娘(おちのいらつめ)を中大兄皇子の后にするなど、姻戚関係も結んでいる。

645年、蘇我入鹿は中大兄皇子に斬られて没し、その翌日、蘇我蝦夷は自宅に火を放って自殺した。
こうして蘇我本宗家は滅んだ。

皇極天皇は孝徳天皇に譲位し、中大兄皇子が皇太子となった。
皇太子となった中大兄皇子は阿倍内麻呂を左大臣、蘇我倉山田石川麻呂を右大臣、中臣鎌足を内臣に任命した。

多武峰縁起絵巻 複製(談山神社)
 
多武峰縁起絵巻 複製(談山神社)中大兄皇子に首を斬られた蘇我入鹿。入鹿の首は皇極天皇の御簾にくらいついたと伝えられる。

③蘇我倉山田石川麻呂、冤罪で自害。

右大臣の地位を手に入れた蘇我倉山田石川麻呂。
しかし彼の栄華はわずか5年で異母弟・蘇我日向によって壊されてしまう。

649年、蘇我日向は、「蘇我倉山田石川麻呂は謀反を企てている」と中大兄皇子に密告したのだ。
蘇我倉山田石川麻呂のもとへ孝徳天皇の軍がさし向けられ、蘇我倉山田石川麻呂は一族とともに山田寺仏殿前で自害した。

この事件は中大兄皇子と中臣鎌足の陰謀であったとされる。

④蘇我倉山田石川麻呂の死後も続けられた山田寺建立。

山田寺は641年に整地工事が始まり、643年には金堂の建立が始まっている。
648年には僧が住むようになっていた。

しかし、この翌年の649年に蘇我倉山田石川麻呂が自害してしまったため、山田寺造営は中断してしまった。

663年(天智天皇2年)、中断していた山田寺建立工事が再開した。
676年(天武天皇5年)に塔が完成した。
678年(天武天皇7年)には丈六仏像鋳造が始まり、685年(天武天皇14年)丈六仏像が開眼され、天武天皇が山田寺に行幸しています。

※丈六/仏像の像高。立像で約4.8m、坐像はその約半分。

天智天皇と持統天皇は蘇我倉山田石川麻呂の怨霊を恐れた?

③でも述べたように蘇我倉山田石川麻呂の娘・遠智娘は中大兄皇子〈天智天皇)の妃となっている。
遠智娘は中大兄皇子の子として健皇子・大田皇女・ 鸕野皇女を産んだ。
鸕野皇女は天武天皇の皇后となり、天武天皇崩御後、持統天皇として即位している。

蘇我倉山田石川麻呂の死後も山田寺の造営が続けられたのは、持統天皇・天武天皇の力添えがあったのではないかと考えられている。

私は天智天皇(中大兄皇子)やその娘の持統天皇が、蘇我倉山田石川麻呂の怨霊を恐れ、そのため山田寺の建立を行ったのではないかと思う。

蘇我倉山田石川麻呂が自殺においやられたのは中大兄皇子と中臣鎌足の陰謀であった。
また、『末代まで祟ってやる』などというように、怨霊は憎い本人だけでなく、その子孫にも祟ると考えられていたようである。

奈良時代には長屋王が謀反を企てていると讒言され、厳しい取り調べを受けて自殺に追い込まれている。(長屋王の変)
長屋王の変は藤原四兄弟の陰謀だと考えられている。
その後、天然痘が流行り、藤原四兄弟は相次いで死亡してしまうが、これは長屋王の怨霊のしわざだと噂された。

 飛鳥時代にもこれと同じような怨霊信仰があったのではないかと思うのだ。

つまり、山田寺の丈六仏像は蘇我倉山田石川麻呂の怨霊封じ込めの像ではないかと思うのである。

⑥興福寺の僧兵、山田寺講堂本尊を強奪!

『玉葉』(九条兼実の日記)に次のような内容が記されている。

「1187年、興福寺の僧兵が山田寺に押し入り、山田寺講堂本尊の薬師三尊像を強奪して、興福寺東金堂の本尊とした」と。
この山田寺講堂本尊の薬師三尊像の中尊の薬師如来は685年(天武天皇14年)に開眼された丈六仏像だと考えられている。

1180年、興福寺は平重衡の兵火によって炎上しているが、このとき、興福寺・東金堂の本尊も焼失してしまったのかもしれない。

興福寺は藤原氏の氏寺だが、藤原氏の祖は中臣鎌足である。
中臣鎌足は死の間際に天智天皇(中大兄皇子)より藤原姓を賜ったとされる。
この藤原鎌足(中臣鎌足)の次男が藤原不比等だが、藤原不比等は天智天皇の後胤とする説がある。

藤原鎌足は天智天皇の后・鏡王女を妻としてもらいうけているが、この時鏡王女はすでに天智の子を身ごもっており、これが藤原不比等であったと、『興福寺縁起』『大鏡』『公卿補任』『尊卑分脈』などに記されているのだ。

すると、藤原氏にとって蘇我倉山田石川麻呂は親戚(天智天皇と蘇我倉山田石川麻呂の娘・遠智娘の間に生まれたのが持統天皇なので)ということになる。

          鏡王女
           |――藤原不比等(興福寺縁起などによる。一般に藤原不比等は中臣鎌足の次男とされる。)
          天智天皇
           |――持統天皇
蘇我倉山田石川麻呂―遠智娘


興福寺は山田寺に対して、次のような理由を申し立てて仏像を強奪したのではないだろうか。
a.藤原氏は天智天皇の後胤である。
b蘇我倉山田石川麻呂の死後,山田寺に塔が建立されたのは天智天皇の資金援助を得たためである。(⑤を参照)

また陰陽道では荒ぶる怨霊(荒魂)は十分に慰霊するとご利益を与えてくださる和魂に転じると考えた。
さらに、明治まで神仏は習合して信仰されていた。

藤原氏の祖・天智天皇にとって蘇我倉山田石川麻呂は恐ろしい怨霊であるが、十分に慰霊・供養すれば和魂に転じる。
そういうわけで蘇我倉山田石川麻呂の怨霊封じ込めの像である山田寺の丈六仏像を興福寺は欲したのかもしれない。

1411年、興福寺東金堂で火災が発生し、丈六仏像も焼けてしまった。
ところが昭和12年、その後新しく新しく造られた本尊像の台座内から仏頭が発見された。
どうやら1411年の火災で丈六仏像の頭部が落ちて焼け残り、後に台座内にしまいこまれたようである。

これが興福寺国宝館に安置されている仏頭である。

美しく、端正な顔をしている。
しかし、頭部だけの仏像というのは首級を思い出させて気持ち悪いと思った。


興福寺国宝館をあとにした私は、桜井市にある山田寺跡へ行ってみることにした。
興福寺から車で50分ほど、直線距離で30kmも離れている。
この距離を丈六仏像を運ぶというのは、よほど厚い信仰心がないとできないだろう。

山田寺 白藤

山田寺跡 白藤


山田寺跡はただがらんとした何もない空き地のようなところだった。
そして空き地のすみに、明治25年
に再興されたという小さなお堂が建てられているだけだった。

山田寺 赤い楓

山田寺跡


ミシャグジ様の謎⑩ 千の仏頭が現れた山  につづきます~



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