私流 トンデモ百人一首 99番 来ぬ人を・・・ 『後鳥羽院が起こした荒き波風を鎮めた歌』
小倉百人一首97番
来ぬ人を まつほの浦の 夕なぎに 焼くや藻塩の 身もこがれつつ/藤原定家
(松帆の浦の夕なぎの時に焼いている藻塩のように、私の身は来てはくれない人を想って、恋い焦がれているのです。)
①少女の恋心を詠んだ歌?
この歌は万葉集にある次の歌を本歌としたものである。
名寸隅の 舟瀬ゆ見ゆる 淡路島 松帆の浦に 朝なぎに 玉藻刈りつつ 夕なぎに 藻塩焼きつつ 海未通女 ありとは聞けど 見に行かむ よしの無ければ ますらをの 情はなしに 手弱女の 思ひたわみて 徘徊り 吾はぞ恋ふる 舟楫を無み /笠金村
(名寸隅の船着場から見える、淡路島の松帆の浦で、朝凪のうちに海藻を刈ったり、夕凪のうちに藻塩を焼いたりして、海人の娘たちがいるとは聞くけれど、見に行く手だてもないので、ますらおの雄々しい心はなく、手弱女(たわやめ)のように思い萎れて、うろうろするばかりで、私は恋い焦がれている、舟も櫓もないので。)
※訳はこちらから引用させていただきました。http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/kasaka2.html
この笠金村の長歌から、藻塩を焼く少女の歌であると一般には解釈されているようである。
②まつほの浦
松帆の浦は兵庫県淡路島北端にある海岸の地名である。
残念ながら訪れたことがないが、ネットでぐぐってみると明石海峡大橋が見えている。
http://kuniumi-awaji.jp/heritage/25akashikaikyo/

上の写真は大阪府咲州庁舎より望んだ明石海峡大橋である。
橋の手前に神戸空港が見えている。
明石海峡大橋の向かって右手付近が明石、向かって左手に少し見えているのが淡路島である。
このあたりに松帆の浦があるのだろう。
松帆の浦の「松」と「待つ」は掛詞になっている。
この「まつ」という言葉の響きがエコー効果をもたらして、来ない人を待つ少女の切ない気持ちが一層伝わってくるようである。
③塩焼きの煙がたなびかない無風状態
藻塩はホンダワラなどの海藻に海水をかけて干し、乾いたところで水にとかし、煮詰めて精製した塩のことである。
ほんのりとしたピンク色で、現在でも製造販売されていてスーパーなどで売られている。
藻塩は「焼く」や「こがれ」の縁語だという。
なぜ「焼く」が「藻塩」の縁語なのか。
藻塩は焼くのではなく、煮詰めて作るのではないのか。
そう思ったが、古語辞典で「塩焼き」を調べてみると「海水を煮て塩をつくること」と書いてあった。
「こがれ」は「焦がれ」だろう。
塩焼きで海水を煮詰めるときに、塩が焦げたりすることがあったのだろうか。

京都 十輪寺 塩釜(在原業平がこの塩釜で塩焼きを楽しんだとされる。)
古今和歌集にこんな歌がある。
須磨の海人の 塩焼く煙 風をいたみ 思はぬ方に たなびきにけり/読み人知らず
おそらく塩焼きをする際には大量の煙が出たのだろう。
一度塩焼きと言うものを体験してみたい。
そうすると、もっと和歌の意味が体感できるかもしれないから。
それはさておき、上の歌では煙は思わぬ方にたなびいたというが、定家が詠んだ歌は夕なぎの風景である。
沿岸地域の天気が良い日は日中海風(海から陸地へ吹く風)、夜中に陸風(陸地から海に吹く風)が吹く。
海風から陸風へ切り替わる際、無風状態になるが、これを夕凪、陸風から海風へ切り替わる際の無風状態を朝凪という。
陸と海の温度が同じくらいになることで、夕凪、朝凪は発生する。
藻塩を焼く煙はたなびかず、上空へ昇っているような状態を詠んだのだろう。

すず塩田村
塩田に撒いた海水の水分を蒸発させたあと、塩砂をかき集めて海水で洗う。(鹹水)
この鹹水を煮詰めると塩の結晶ができる。
(藻塩ではなく、揚浜式で塩をつくっている。)
④後鳥羽院が起こしたあらき波風を鎮めた歌
「絢爛たる暗号」の著者・織田正吉さんは、定家の歌は後鳥羽院が詠んだ次の歌に対応しているのではないかとおっしゃっていた。
われこそは 新島守よ 隠岐の海の あらき波かぜ 心して吹け
(私こそ隠岐の島の新しい島守である。隠岐の海の荒々しい波風よ、そのことをふまえて吹くがよい)
後鳥羽上皇は歌人としても優れた才能を持っていた人で、たびたび歌会を開いている。
この時代の代表的歌人である藤原定家や藤原家隆とも交流があった。
藤原定家は九条家に出仕して官位を上げていたが、1188年、源通親のクーデターにより九条家は失脚した。
その後1200年に定家は宮廷歌人となり、1201年には後鳥羽上皇から新古今和歌集の撰者に任命された。
ところが、歌の選定において定家は後鳥羽上皇と争い、1220年、後鳥羽上皇は定家の歌会への参加を禁じた。
しかしこのことは定家にとって災い転じて福となった。
なぜなら、1221年、後鳥羽上皇は承久の乱をおこして隠岐へ配流となったからである。
織田正吉さんの「絢爛たる暗号」は図書館で借りて詠んだため、今手元にない。
なので確認ができないが、次のような内容が記されていたと思う。
定家は後鳥羽院の「われこそは・・・」の歌は、後鳥羽院の怒りの歌だと感じた。
そして「隠岐の海のあらき波かぜ」は後鳥羽院の怒りがおこしたものだと考えた。
そこで、その波かぜを鎮めるべく、夕凪(無風状態)の歌を詠んだのではないかと。
⑤「来ぬ人を~」の歌には後鳥羽院の怒りを鎮める言霊の力があった?
定家の「来ぬ人を~」の歌の詞書には「建保六年(1218年)内裏歌合、恋歌」とある。
しかし、どうやらこの詞は間違いであり、建保四年(1216)、順徳天皇の内裏で開催された歌合で読んだ歌であるという。
後鳥羽上皇が隠岐に流罪となったのは1221年なので、定家がこの歌をよんだとき、まだ後鳥羽上皇は流罪になっていなかった。
定家がこの歌を詠んだのは、もっと異なる意味をもっていたのかもしれない。
しかし定家は自分が1216年に「来ぬ人を~」の歌を詠んでいたので、その歌が言霊となって、後鳥羽院のおこした荒き波風=怒りを凪に変えたと考えたのではないだろうか。
⑥「焼く」は「厄」の掛詞になっている?
私は「焼くや藻塩の」の「焼く」は「厄」の掛詞になっているのではないかと思ったりする。
厄とは災い、苦しみ、病苦などのことで、古にはこれらは怨霊や厄神などによってもたらされると考えられていた。
そして塩はその厄除けに用いられた。
現在でも葬式から戻った際に浄めの塩を振ったり、盛塩を置いたりする習慣がある。
定家は後鳥羽院の生霊を浄めるために「藻塩」が役に立ったと考えたのかもしれない。
⑦後鳥羽上皇と藤原定家・藤原家隆
私はこの99番の定家の歌は、98番の藤原家隆の歌とセットになっていると思う。
藤原家隆の歌のトンデモ解説については、こちらの記事ですでに述べた。
→私流 トンデモ百人一首 98番 風そよぐ・・・ 『楢の葉をそよがせた楢葉守』
定家と家隆、ふたつの歌を並べてみよう。
風そよぐ ならの小川の ゆふぐれは みそぎぞ夏の しるしなりける/藤原家隆
(風がそよぐ楢の小川の夕暮れは、すっかり秋の気配が漂っている。みそぎをしている様子ばかりが、まだ夏であるしるしなのだなあ。)
来ぬ人を まつほの浦の 夕なぎに 焼くや藻塩の 身も焦がれつつ/藤原定家
家隆の歌はそよ風を、定家の歌は凪(無風状態)を詠んでいる。
この歌は、定家同様、後鳥羽院と付き合いのあった藤原家隆が、後鳥羽院が吹かせた荒々しい風をそよ風に変えた歌だといえるのではないか。
定家は後鳥羽院が吹かせた荒々しい風をそよ風どころか無風状態(凪)に変えてしまったのだ。

上賀茂神社 夏越神事
藤原家隆の「風そよぐ~」の歌は上賀茂神社の夏越神事を詠んだ歌である。
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