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私流 トンデモ百人一首 99番 来ぬ人を・・・ 『後鳥羽院が起こした荒き波風を鎮めた歌』 


小倉百人一首97番
来ぬ人を まつほの浦の 夕なぎに 焼くや藻塩の 身もこがれつつ/藤原定家
(松帆の浦の夕なぎの時に焼いている藻塩のように、私の身は来てはくれない人を想って、恋い焦がれているのです。)

少女の恋心を詠んだ歌?

この歌は万葉集にある次の歌を本歌としたものである。

名寸隅の 舟瀬ゆ見ゆる 淡路島 松帆の浦に 朝なぎに 玉藻刈りつつ  夕なぎに 藻塩焼きつつ 海未通女 ありとは聞けど 見に行かむ  よしの無ければ ますらをの 情はなしに 手弱女の 思ひたわみて  徘徊り 吾はぞ恋ふる 舟楫を無み /笠金村

(名寸隅の船着場から見える、淡路島の松帆の浦で、朝凪のうちに海藻を刈ったり、夕凪のうちに藻塩を焼いたりして、海人の娘たちがいるとは聞くけれど、見に行く手だてもないので、ますらおの雄々しい心はなく、手弱女(たわやめ)のように思い萎れて、うろうろするばかりで、私は恋い焦がれている、舟も櫓もないので。)


※訳はこちらから引用させていただきました。http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/kasaka2.html

この笠金村の長歌から、藻塩を焼く少女の歌であると一般には解釈されているようである。

②まつほの浦

松帆の浦は兵庫県淡路島北端にある海岸の地名である。
残念ながら訪れたことがないが、ネットでぐぐってみると明石海峡大橋が見えている。
http://kuniumi-awaji.jp/heritage/25akashikaikyo/

明石海峡大橋

上の写真は大阪府咲州庁舎より望んだ明石海峡大橋である。
橋の手前に神戸空港が見えている。
明石海峡大橋の向かって右手付近が明石、向かって左手に少し見えているのが淡路島である。
このあたりに松帆の浦があるのだろう。



松帆の浦の「松」と「待つ」は掛詞になっている。
この「まつ」という言葉の響きがエコー効果をもたらして、来ない人を待つ少女の切ない気持ちが一層伝わってくるようである。

③塩焼きの煙がたなびかない無風状態

藻塩はホンダワラなどの海藻に海水をかけて干し、乾いたところで水にとかし、煮詰めて精製した塩のことである。
ほんのりとしたピンク色で、現在でも製造販売されていてスーパーなどで売られている。

藻塩は「焼く」や「こがれ」の縁語だという。
なぜ「焼く」が「藻塩」の縁語なのか。
藻塩は焼くのではなく、煮詰めて作るのではないのか。

そう思ったが、古語辞典で「塩焼き」を調べてみると「海水を煮て塩をつくること」と書いてあった。
「こがれ」は「焦がれ」だろう。
塩焼きで海水を煮詰めるときに、塩が焦げたりすることがあったのだろうか。

十輪寺 紅葉 塩釜

京都 十輪寺 塩釜(在原業平がこの塩釜で塩焼きを楽しんだとされる。)

古今和歌集にこんな歌がある。

須磨の海人の 塩焼く煙 風をいたみ 思はぬ方に たなびきにけり/読み人知らず


おそらく塩焼きをする際には大量の煙が出たのだろう。
一度塩焼きと言うものを体験してみたい。
そうすると、もっと和歌の意味が体感できるかもしれないから。

それはさておき、上の歌では煙は思わぬ方にたなびいたというが、定家が詠んだ歌は夕なぎの風景である。

沿岸地域の天気が良い日は日中海風(海から陸地へ吹く風)、夜中に陸風(陸地から海に吹く風)が吹く。
海風から陸風へ切り替わる際、無風状態になるが、これを夕凪、陸風から海風へ切り替わる際の無風状態を朝凪という。
陸と海の温度が同じくらいになることで、夕凪、朝凪は発生する。
藻塩を焼く煙はたなびかず、上空へ昇っているような状態を詠んだのだろう。

すず塩田村2 

すず塩田村
塩田に撒いた海水の水分を蒸発させたあと、塩砂をかき集めて海水で洗う。(鹹水)
この鹹水を煮詰めると塩の結晶ができる。
(藻塩ではなく、揚浜式で塩をつくっている。)


④後鳥羽院が起こしたあらき波風を鎮めた歌

「絢爛たる暗号」の著者・織田正吉さんは、定家の歌は後鳥羽院が詠んだ次の歌に対応しているのではないかとおっしゃっていた。
われこそは 新島守よ 隠岐の海の あらき波かぜ 心して吹け
(私こそ隠岐の島の新しい島守である。隠岐の海の荒々しい波風よ、そのことをふまえて吹くがよい)

後鳥羽上皇は歌人としても優れた才能を持っていた人で、たびたび歌会を開いている。
この時代の代表的歌人である藤原定家や藤原家隆とも交流があった。

藤原定家は九条家に出仕して官位を上げていたが、1188年、源通親のクーデターにより九条家は失脚した。
その後1200年に定家は宮廷歌人となり、1201年には後鳥羽上皇から新古今和歌集の撰者に任命された。
ところが、歌の選定において定家は後鳥羽上皇と争い、1220年、後鳥羽上皇は定家の歌会への参加を禁じた。
しかしこのことは定家にとって災い転じて福となった。
なぜなら、1221年、後鳥羽上皇は承久の乱をおこして隠岐へ配流となったからである。

織田正吉さんの「絢爛たる暗号」は図書館で借りて詠んだため、今手元にない。
なので確認ができないが、次のような内容が記されていたと思う。

定家は後鳥羽院の「われこそは・・・」の歌は、後鳥羽院の怒りの歌だと感じた。
そして「隠岐の海のあらき波かぜ」は後鳥羽院の怒りがおこしたものだと考えた。
そこで、その波かぜを鎮めるべく、夕凪(無風状態)の歌を詠んだのではないかと。

⑤「来ぬ人を~」の歌には後鳥羽院の怒りを鎮める言霊の力があった?

定家の「来ぬ人を~」の歌の詞書には「建保六年(1218年)内裏歌合、恋歌」とある。
しかし、どうやらこの詞は間違いであり、建保四年(1216)、順徳天皇の内裏で開催された歌合で読んだ歌であるという。

後鳥羽上皇が隠岐に流罪となったのは1221年なので、定家がこの歌をよんだとき、まだ後鳥羽上皇は流罪になっていなかった。
定家がこの歌を詠んだのは、もっと異なる意味をもっていたのかもしれない。

しかし定家は自分が1216年に「来ぬ人を~」の歌を詠んでいたので、その歌が言霊となって、後鳥羽院のおこした荒き波風=怒りを凪に変えたと考えたのではないだろうか。



焼く」は「厄」の掛詞になっている?

私は「焼くや藻塩の」の「焼く」は「厄」の掛詞になっているのではないかと思ったりする。
厄とは災い、苦しみ、病苦などのことで、古にはこれらは怨霊や厄神などによってもたらされると考えられていた。

そして塩はその厄除けに用いられた。
現在でも葬式から戻った際に浄めの塩を振ったり、盛塩を置いたりする習慣がある。

定家は後鳥羽院の生霊を浄めるために「藻塩」が役に立ったと考えたのかもしれない。

⑦後鳥羽上皇と藤原定家・藤原家隆

私はこの99番の定家の歌は、98番の藤原家隆の歌とセットになっていると思う。

藤原家隆の歌のトンデモ解説については、こちらの記事ですでに述べた。
私流 トンデモ百人一首 98番 風そよぐ・・・ 『楢の葉をそよがせた楢葉守』 

定家と家隆、ふたつの歌を並べてみよう。

風そよぐ ならの小川の ゆふぐれは みそぎぞ夏の しるしなりける/藤原家隆
(風がそよぐ楢の小川の夕暮れは、すっかり秋の気配が漂っている。みそぎをしている様子ばかりが、まだ夏であるしるしなのだなあ。)
来ぬ人を まつほの浦の 夕なぎに 焼くや藻塩の 身も焦がれつつ/藤原定家

家隆の歌はそよ風を、定家の歌は凪(無風状態)を詠んでいる。

この歌は、定家同様、後鳥羽院と付き合いのあった藤原家隆が、後鳥羽院が吹かせた荒々しい風をそよ風に変えた歌だといえるのではないか。
定家は後鳥羽院が吹かせた荒々しい風をそよ風どころか無風状態(凪)に変えてしまったのだ。

上賀茂神社 夏越神事

上賀茂神社 夏越神事 
藤原家隆の「風そよぐ~」の歌は上賀茂神社の夏越神事を詠んだ歌である。




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私流 トンデモ百人一首 88番 難波江の~ 『藤原聖子を震え上がらせた歌?』  

小倉百人一首88番
波江の ()のかりねの 一よゆゑ 身をつくしてや 恋ひわたるべき/皇嘉門院別当(こうかもんいんのべっとう)

(難波江の、蘆を刈ってつくった小屋での、たった一夜の仮の一夜、蘆の一節(ひとよ)のような一夜のために、難波江に建てられている澪標の言葉と同じように身を尽くして 恋しつづけるべきでしょう。)

まいしまシーサイドパーク ネモフィラとヨット

舞洲シーサイドパーク ネモフィラ

皇嘉門院別当は崇徳院皇后・藤原聖子に仕えていた女性

この歌の作者は皇嘉門院別当となっているが、
皇嘉門院とは崇徳院(1119-1164)の皇后・藤原聖子(摂政・藤原忠通の娘/1122-1182)の院号、
別当とは院・女院・親王家・摂関家以下の公卿の家政を担当する院司(上皇・女院の直属機関)・家司(親王・内親王・職事三位以上の公卿・将軍家などに設置された家政を司る機関) の上首(長官)をいう。

つまり、皇嘉門院別当とは崇徳院の皇后・藤原聖子の院司の長官であった女性、という意味である。
当時の女性はおいそれと名前を語ることはなかったので、本名がわからないことが多い。
それで皇嘉門院別当という役職名で呼ばれているのだろう。

皇嘉門院別当が仕えていたのは藤原聖子だが、なぜ彼女の本名がわかっているのかというと、
天皇に入内すると位があたえられ、正史に記録が残るためである。

皇嘉門院別当(生没年不詳)は村上源氏(村上天皇の血筋)で、源師忠の曾孫。源俊隆の娘ということである。

まいしまシーサイドパークより大阪湾を望む

舞洲シーサイドパークより大阪湾(難波江)を望む。

②九条兼実が右大臣だったころ、九条兼実家の歌合で詠んだ歌

この歌の詞書に次のようにある。

「摂政右大臣の時の家歌合に、旅宿逢恋といへる心をよめる」
これは、「摂政が右大臣だったときの家歌合わせで、旅宿逢恋という心を詠んだ」という意味だと思う。

摂政とは誰か?

この歌は千載和歌集にある歌である。
千載和歌集は1183年、後白河院(1127- 1192)より藤原俊成(1114-1204)に撰集が命じられたもので、1188年に完成した。

1188年の千載和歌集完成時、摂政だったのは九条兼実である。
九条兼実が右大臣だったのは1166年から1186年で、1186年に摂政となっている。
摂政とはこの九条兼実のことだろう。

千人万首というサイトでも右大臣は九条兼実としており、
「皇嘉門院別当が仕えた皇嘉門院は兼実の異母姉にあたり、この縁から別当は兼実家の歌合にしばしば出詠したものらしい。」
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/k_bettou.html より引用
と記している。

皇嘉門院の父親は摂政・藤原忠通、母親は藤原宗子、九条兼実の父は藤原忠通、母は加賀局(藤原仲光の娘)で、確かに二人は異母姉弟である。

皇嘉門院別当は1175年の『右大臣兼実家歌合』や1178年の『右大臣家百首』など、兼実家歌合で歌を詠んでいる。
ただし、「難波江の~」の歌は九条兼実が右大臣だった1166年~1186年の間に行われた兼実家歌合で詠んだということがわかるだけで、歌を詠んだ正確な日時などはわからない。(もし日時等わかっていたら教えてくださいね)

京都御所 1

京都御所

③掛詞の多用

詞書にある「旅宿に逢ふ恋」とは「旅の宿で逢った相手との情事」のことである。
「難波江」は現在の大阪市あたりのことで、現在よりも湾が深く内陸部にまで入り込み、浅い海や蘆が生えた湿地帯が広がっていた。
「かりね」は「刈り根」と「仮寝」の掛詞、
「一よ」は「一夜」と蘆の「一節」の掛詞になっている。
さらに「身をつくしてや」は澪標(みをつくし)の掛詞。

織田正吉さんによれば、澪標とは「澪つ串」の意味であるという。
澪とは水尾で、水深の深い場所を表す水路標識を澪標というのだと。

古の大阪港は水深が浅く座礁する危険性のある個所がたくさんあったそうである。
そのためこのような澪標をたてて航路を示したのである。

Miotsukushi in Osaka

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Miotsukushi_in_Osaka.JPG
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/88/Miotsukushi_in_Osaka.JPGよりお借りしました。
不明 [Public domain]

澪標は大阪市の市章にもなっている。
それほど、難波江は澪標で有名だったということだろう。

かりね・・・刈り根 仮寝
一よ・・・・一節 一夜
みをつくしてや・・・身を尽くしてや 澪標

このように掛詞を多用しているので、イメージが重複して、印象深い歌になっていると思う。

護王神社 亥子祭 行列3

京都御所と護王神社と亥子祭の行列

④「恋ひわたるべき」は「恋し続けることになるのでしょうか」ではなく「恋し続けるべきです」では?


「べき」は「べし」の連体形であるが、「べし」には様々な意味がある。

【「べし」-古典文法】

(1) 意味

① 推量(~だろう・~そうだ)
② 当然(~はずだ・~べきだ)
③ 意志(~う(よう)・~つもりだ)
④ 適当(~のがよい)
⑤ 命令(~せよ)
⑥ 可能(~ことができる)

(2) 活用 形容詞(ク活用)型

未然形連用形終止形連体形已然形命令形

(べく)

べから

べく

べかり

べし

べき

べかる

べけれ

(3) 接続 終止形

活用語の終止形に付く。ただし、ラ変型活用語には連体形に付く。

(4) 「べらなり」

推量(~ようだ)をあらわす助動詞。中古の漢文訓読文や和歌に用いられた。

https://kobun-benkyou.jimdo.com/%E5%8A%A9%E5%8B%95%E8%A9%9E/%E3%81%B9%E3%81%97/より引用


「恋ひわたるべき」は一般的には「恋しつづけることになるのでしょうか」と疑問形で訳されることが多い。
しかし「べき」は「べし」の連体形である。
連体形とは「体言(名詞・代名詞・数詞の総称)に連なる」という意味なので「べき」のあとに、体言がくるのが本来の在り方ではないか。

https://kazsa.hatenablog.com/entry/20141013/1413202139
上のブログ「べき/べし(べき止め)」という記事には次のようにあります。

「べき」は連体形です。文末に来る場合、助動詞「である」「だ」「です」をとる「○○べきだ」などの形がふつうです。
助動詞を付けないなら終止形「べし」を用いて「○○べし」となるはずですが、「○○べき」といいきる形がめだちます。
・・・・・略・・・・・
1998年の
第28回年金審議会全員懇談会議事録に下記の発言が記録されていました。
「『べき』で文章を止めて、べきであるか、べきでないか、わからない文章を並べる。これは現代の、若い世代の共通の文体です。今お話のありました『意見』で止める体言止めも現代の若い世代の文体です。これは日本語の作文教育の成果です。『べき』止めは多分『べきである』と読むようです。『意見』というのは『意見があった』という趣旨のようです」
16年後の今、仕事でお役所の文書を読むことが多いせいか、「べき止め」には頻繁にお目にかかります。すでに「若い世代」どころか全世代共通の表現なのかもしれません。


すでに「若い世代」どころか全世代共通の表現なのかもしれません。

とありますが、平安末期すでに「べき止め」が用いられているw。

それはともかく、「恋ひわたるべき」を疑問形で訳すのは自分的には違和感がある。
「べき止め」とすれば、本来は「べきなり」なので、「恋し続けるべきです。」と訳すべきではないのだろうか?
(もし間違っていれば指摘をお願いします。)

護王神社 亥子祭2

護王神社 亥子祭

⑤本歌取り

ところで、以前にどこかで似たような歌を聞いたように思わないだろうか。

そう、以前の記事、私流 トンデモ百人一首 20番 わびぬれば・・・ 『業平の二の舞を踏んだ元良親王』 でご紹介した
元良親王の歌に似ている。

わびぬれば 今はた同じ 難波なる みをつくしても 逢はむとぞ思ふ/元良親王
(こんなに思い悩んでしまった今はもうどうなってもいい。難波の海の澪標の言葉どおり、身を尽くして(身を滅ぼして)もあなたに逢いたいと思う。)


実は皇嘉門院別当の歌は、この元良親王の歌を本歌取りした歌なのだ。

本歌取りとは、有名な古歌(本歌)の1句もしくは2句を自作に取り入れて歌を詠むテクニックのことをいう。
こうすることで、歌に本歌のイメージも重なって、より味わい深い歌になる。

「わびぬれば」の歌は、実は不倫の恋の歌なのである。
「後撰集」の詞書には「事いできて後に、京極御息所につかはしける」とある。

「事いできて後に」とは「不倫がばれた後」という意味、「京極御息所」とは宇多天皇の寵妃で藤原時平の娘の藤原褒子(ふじわらのほうし)のことである。

ただ、元良親王は30人以上の女性との恋愛歌を詠んでいて、京極御息所ひとりだけを愛したというわけではなさそうである。
また、本当に京極御息所を愛していたのかについても疑問だ。
元良親王はある目的をかなえるために京極御息所を利用したのではないか、と私は考えている。

詳しいことは、私流 トンデモ百人一首 20番 わびぬれば・・・ 『業平の二の舞を踏んだ元良親王』 を読んでいただきたいのだが
元良親王は宇多天皇の寵妃・藤原褒子に自分の子を宇多天皇の皇子として産ませ、その子を皇位につけることで、皇位継承の血筋に自分の血を残そうとしたのではないかと思う。

しかし、藤原褒子が産んだ子が皇位につくことはなく、宇多天皇と藤原 胤子の間に生まれた醍醐天皇が即位した。
元良親王の野望は叶わなかったのだ。

また、伊勢の
難波潟 みじかき蘆の ふしのまも 逢はで此の世を 過ぐしてよとや
(難波潟の短い芦の節の間ほどの短い時間もあなたにお会いすることができず、一生を過ごせと、あなたは言うのでしょうか。)

をも本歌としている。

私流 トンデモ百人一首 19番 難波潟・・・ 『伊勢が産んだ子は蛭子と淡島だった?』  

この歌は、恋の歌のように見えて、伊勢が夭逝した我が子(宇多天皇の皇子)と娘・中務を詠んだ歌のように思える。

「蘆」は足にかかり、足が悪かった蛭子を思い出させる。
蛭子はイザナギ・イザナミの長子だったが、3歳になっても歩けなかったので蘆舟に乗せられて流された神である。

熊野若王子神社 蛭子神

熊野若王子神社 蛭子神

また「逢はで」は「淡で」にかかり「淡島」を思い出させる。
淡島はイザナギ・イザナギの2番目の子だったが、やはり不具の子であったとして、蘆の舟に乗せられて流されている。

蛭子と淡島が葦舟で流されたというのは難波江の遊女が小舟で舟に近づいて客をとるのを思わせる。

淡嶋神社 行列

淡嶋神社 雛流し


皇嘉門院について詠んだ歌?

本歌と考えられる二首は私の考えではどちらも皇位継承を詠んだ歌である。

すると皇嘉門院別当が詠んだ歌も皇位継承に関係する歌なのではないか?

しかし皇嘉門院別当については、源師忠の曾孫、源俊隆の娘で、皇嘉門院に仕えていたということしかわからない。
いや、もしかしたら自分自身ではなく、仕えていた皇嘉門院について詠んだ歌なのかもしれない。

舞洲 葦

舞洲 葦

あらためて皇嘉門院(藤原聖子)の人生について見てみることにしよう。
(年齢は単純にものごとがあった年から生まれ年を引いたもの)

1122年、藤原聖子は関白藤原忠通の娘として生まれた。

1129年、7歳で崇徳天皇に入内し、女御に、1130年⒑歳のとき中宮になっている。
しかし二人の間に子供はできなかった。

1140年、崇徳と兵衛佐局の間に崇徳の第一皇子・重仁親王が誕生した。
聖子と聖子の父・忠通は重仁親王誕生を不快に思ったと『今鏡』には記されている。
それはそうだろう。
当時、娘を入内させて天皇の外祖父となることは権力掌握の常套手段だったのだから。

1141年、19歳のときに崇徳の異母弟・近衛の准母になっている。
准母とは天皇の生母ではない女性が母に擬されることをいう。

近衛の母親は藤原得子(美福門院)で、鳥羽天皇の寵妃だった。
得子の父親は藤原長実で中納言という身分だったので、関白・藤原忠通を父に持つ藤原聖子を准母として、即位するのにふさわしい地位を得ようとしたのかもしれない。 
また聖子にとっても子供が持てるということのメリットは大きかった。

1142年、崇徳が退位すると皇太后となり、1150年に皇嘉門院の院号を宣下される。

1155年、崇徳の同母弟・後白河が即位すると、崇徳はこれを不満に思うようになる。
崇徳は自分と兵衛佐局の間に生まれた重仁親王を即位させて、自分は院政を行いたいと思っていたのだろう。
ほかにも藤原聖子の父・藤原忠通と藤原頼長の対立などもあり、朝廷は後白河派vs崇徳派に対立、ついには戦となってしまった。(保元の乱)
藤原聖子の父と夫が対立して戦うということになってしまったのだ。
結果は崇徳が破れて讃岐に流罪となった。
兵衛佐局は崇徳に同行して讃岐に向かっている。

聖子は崇徳についていかず都にとどまったが、いたたまれなくなったのか、出家。
それでもまだ心が安らぐことがなかったのだろうか、1163年に再出家して髪をすべてそり落とした。
(当時の女性の出家は長い髪を肩のあたりまで切る程度だったようである。)
翌1164年、聖子の父・藤原忠道は薨去し、崇徳院も崩御してしまう。

1182年に聖子も崩御した。

崇徳天皇御廟 
崇徳天皇 御廟(京都市東山区)

⑦崇徳と聖子の仮の一夜?

難波江の ()のかりねの 一よゆゑ 身をつくしてや 恋ひわたるべき/皇嘉門院別当(こうかもんいんのべっとう)

(難波江の、蘆を刈ってつくった小屋での、仮の一夜、蘆の一節(ひとよ)のような一夜のために、難波江に建てられている澪標の言葉と同じように身を尽くして 恋しつづけるべきでしょう。)

一般的にこの歌は遊女の歌だとされる。

平安時代の大江匡房の『遊女記』によれば、難波江・淀川の水運で栄えた江口・神崎・川尻・室・蟹島には遊女がおり
小舟で通行する船に近づいて客をとっていた。遊女の小舟は水面がみえないほど多かったとある。

しかし、仮の一夜、それは崇徳と聖子の関係を言っているようにもとれる。(それで二人の間には子供ができなかったのかもw)
そして、崇徳と過ごしたのがたった一夜であっても、澪標のように身を尽くして、崇徳を恋しつづけるべき、という意味ではないかと思ったりする。

1122藤原聖子 誕生
1123崇徳天皇 4歳で即位
1129藤原聖子7歳で、崇徳10歳に入内
1130藤原聖子、中宮となる。
1140崇徳と兵衛佐局の間に崇徳の第一皇子・重仁親王が誕生。聖子と父・藤原忠通はこれを不快に思う。
1141藤原聖子、近衛の准母となり、皇太后となる。
1142崇徳退位 近衛(崇徳の異母弟)即位 
1150藤原聖子、皇嘉門院の院号宣下を受ける。
1155近衛(崇徳の異母弟)崩御 後白河(崇徳の同母弟)即位
1156崇徳vs朝廷の戦がおきる。(保元の乱/皇位継承不満が原因。崇徳は息子の重仁親王を即位させたかった。)
藤原聖子の父・藤原忠通は崇徳の敵。朝廷が勝利し、崇徳は讃岐に配流となる。
藤原聖子出家し、九条兼実の後見をうける。
1163年藤原聖子再出家して髪をすべてそり落とす。
1164崇徳院(皇嘉門院の夫)崩御・藤原忠通(皇嘉門院の父)死亡
1166九条兼実、右大臣になる。
1182藤原聖子 崩御
1183後白河院、藤原俊成(-1204)に千載和歌集撰集を命じる。
1186九条兼実、摂政となる。
1188千載和歌集完成

皇嘉門院別当が「難波江の~」の歌を詠んだ詳しい年代はわからないが、九条兼実が右大臣のころに詠んだ歌なので、相当する期間を赤文字で表した。

皇嘉門院別当の生没年は不明だが、聖子が崩御したとき、存命していたようである。

皇嘉門院別当が「難波江の~」の歌を詠んだのは、聖子の存命中か、そのあとなのかわからない。
しかし、1175年の『右大臣兼実家歌合』や1178年の『右大臣家百首』で歌を詠んでいるので、そのどちらかで「難波江の~」の歌を詠んだのではないだろうか。
藤原聖子が崩御したのは1182年なので、藤原聖子は皇嘉門院別当のこの歌を耳にしたかもしれない。

とすれば、聖子はこの歌の道徳観「恋ひわたるべき(恋し続けるべきです)」に苦しめられたのではないかと想像する。

その理由はもちろん、保元の乱後、藤原聖子は崇徳について讃岐へ行かずに、都にとどまっていたからだ。

File:Sotoku invoking a thunder storm.jpg

讃岐に流された崇徳上皇(歌川国芳画)
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Sotoku_invoking_a_thunder_storm.jpg?uselang=ja よりお借りしました。

⑧崇徳の怨霊が聖子に会いにくる?

さらに崇徳院の歌が聖子を追い詰める。

私流 トンデモ百人一首 77番 瀬をはやみ・・・ 『藤原聖子を震え上がらせた歌?』  

詳しくは上の記事をお読みいただきたいが、崇徳の崩御後、崇徳は怨霊になったと噂された。

そして崇徳は生前、次のような歌を詠んでいた。

瀬を早み 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞ思ふ/崇徳院
(瀬の流れが早く岩にせき止められた滝川が岩にあたって二つに割れるように、あなたと別れても、いつかきっとあなたに逢おうと思う)

ふたつに割れた滝の一方は崇徳、割れた滝のもう片方は、私。
藤原聖子はそう思って震え上がったのではないだろうか。
言霊の力によって、崇徳の怨霊は私に会いに来るにちがいないと。

藤原聖子が2度も出家して、髪をそり落としたのは、崇徳の怨霊を恐れたためではないかと思う。

霜降高原 滝 

霜降の滝(栃木県日光市)



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