fc2ブログ
2019 04123456789101112131415161718192021222324252627282930312019 06

私流 トンデモ百人一首 77番 瀬をはやみ・・・ 『藤原聖子を震え上がらせた歌?』

※年齢は単純に出来事があった年から生まれ年をひいたものです。

小倉百人一首77番 題しらず
瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に 逢はむとぞ思ふ/崇徳院
(瀬の流れが早く岩にせき止められた滝川が岩にあたって割れるように、あなたと別れても、いつかきっとあなたに逢おうと思う。)

霜降高原 滝 

霜降の滝(栃木県日光市)


①崇徳は父・鳥羽に叔父子と呼ばれた?

崇徳天皇(1119~1164)は鳥羽天皇の第一皇子で、母は藤原璋子である。
しかし『古事談』は鳥羽の祖父・白河法皇と藤原璋子の間に生まれたとしている。

藤原璋子の父は藤原公実、母は藤原光子であるが、幼少時より白河法皇と寵妃・祇園女御に養われていた。
その養父である白河法皇が養女の藤原璋子に手をつけちゃったというのである。
で白河法皇は藤原璋子を孫・鳥羽に入内させた。
璋子は鳥羽の子として崇徳を産んだが、崇徳は実は白河法皇の子であったと、そういうことのようである。
『古事談』によると鳥羽は崇徳を「叔父にして子」という意味で「叔父子」と呼んでいたという。

ただし『古事談』は崇徳誕生後100年以上あとに記されたものであり、『古事談』にしかこれらの話はないので、真偽のほどはわからない。

藤原璋子が鳥羽に入内したのは1117年12月13日。
崇徳を出産したのは1119年5月28日である。
人間の子供はおよそ十月十日で生まれるので、『故事談』の記述が正しければ、藤原璋子は鳥羽に入内したのちも白河法皇と関係を持っていたということになるw。


白河天皇陵

白河天皇陵

②子供のない夫婦だった崇徳と藤原聖子

崇徳は1123年に4歳で即位した。
1129年、関白・藤原忠通の長女・藤原聖子(皇嘉門院/1122~1182)が崇徳に入内する。
崇徳は⒑歳、藤原聖子は7歳だった。
この年、白河法皇が崩御し、崇徳の父の鳥羽が院政をとるようになった。

藤原聖子は常に崇徳と同殿している。
また崇徳退位後も、二人はしばしば会っている。
しかし二人の間に子供はできなかった。

1140年、崇徳と兵衛佐局の間に崇徳の第一皇子・重仁親王が誕生した。
聖子と聖子の父・忠通は重仁親王誕生を不快に思ったと『今鏡』には記されている。
それはそうだろう。
当時、娘を入内させて天皇の外祖父となることは権力掌握の常套手段だったのだから。

鳥羽離宮跡 説明板 イラスト(部分) 
↑ 安楽寿院・案内板に描かれていた鳥羽離宮の絵(部分)。
杉山信三さんの復元案に基づき、中西立太さんが描いたもの。
鳥羽離宮は12世紀から14世紀頃まで代々の上皇により使用されていた院御所。


③皇太子のはずが皇太弟になっていた!


崇徳の父・鳥羽は藤原得子を寵愛し、得子は近衛(1139~1155)を産んだ。
崇徳にとって近衛は異母弟にあたる。

崇徳は近衛を養子とし、藤原聖子は近衛の准母となった。
崇徳は異母弟の近衛を養子としたわけである。

1141年、鳥羽は崇徳に譲位をせまった。崇徳は譲位して近衛が即位した。

崇徳は近衛を養子としているので、近衛は皇太子のはずである。
しかし、譲位の宣命には「皇太弟」と記されていた(『愚管抄』『今鏡』)

院政の資格は、自分の皇太子が即位することで得ることができたようである。
天皇が皇太弟では崇徳は院政を行う資格がなかった。

なぜ宣命に「皇太弟」となっていたのか。
宣命とは「天皇の命令を記した文書」だが、天皇が直接書くわけではなく、役人が書いたのだろう。
うっかりミスというよりは陰謀めいたものを感じる。

叔父子と呼んで崇徳を嫌っていた父・鳥羽の陰謀か。
はたまた兵衛佐局との間に重仁親王がうまれ、自分の娘・聖子との間には子供が生まれないことを恨んだ藤原忠通の陰謀か。

もちろん院政はひきつづき鳥羽が行っていた。

安楽寿院 多宝塔

近衛天皇安楽寿院南陵

④崇徳、院政の可能性ゼロに。

鳥羽は崇徳の第一皇子・重仁親王を藤原得子の養子とした。

1155年、近衛は16歳で崩御。
近衛には子供がなく、次期天皇は崇徳の第一皇子・重仁親王が有力視されていた。
しかし、崇徳の同母弟の後白河が中継ぎの天皇として即位した。

鳥羽の寵妃・藤原得子は崇徳の第一皇子・重仁親王のほかに、崇徳の同母弟・後白河の第一皇子・二条も養子にしていた。
そして本来ならば二条を即位させたいと思っていたが、天皇の父親が即位していないのはよくないとして、まず後白河を即位させたのだ。

こうして崇徳院政の可能性はゼロとなった。

鳥羽天皇陵 
鳥羽天皇安楽寿院陵


⑤保元の乱で藤原聖子の父と夫が争う。

1156年7月2日、鳥羽が崩御。崇徳は見舞いに訪れたが鳥羽に会うことはできなかった。
鳥羽は祖金の葉室惟方に「自分の遺体を崇徳に見せないように」と遺言していたという。(『故事談』)

7月5日、「崇徳と藤原頼長(藤原忠通の弟)が軍を集め、国家を傾けようとしている」という噂が流される。

7月8日、「藤原忠実(藤原忠通・頼長の父)・頼長が荘園から軍兵を集めることを停止せよ」との後白河天皇の御教書(綸旨)が諸国に下された。
また、蔵人・高階俊成と源義朝の随兵が摂関家の正邸・東三条殿に乱入して邸宅を没官(人身または財物を官が没収すること)した。
これらは鳥羽の寵妃・藤原得子、藤原忠通らの指示によるものと考えられている。

藤原聖子にとってみれば、父(藤原忠通)と夫(崇徳)が争うことになってしまったのである。

後白河天皇側崇徳上皇側
藤原忠通(関白)藤原頼長(藤氏長者)※藤原忠通の弟
藤原忠実(※藤原忠通・藤原頼長の父)
源義朝(河内源氏)源為義(河内源氏)
源頼政(摂津源氏)源頼憲(摂津源氏)
源義康(河内源氏足利流)
平信兼(伊勢平氏)平家弘(伊勢平氏)
平清盛《伊勢平氏)平忠正(伊勢平氏)
平重成(美濃源氏)
信西(後白河の乳母の夫)

※親子・兄弟・平氏・源氏間で対立している。


7月10日、白河北殿に崇徳・藤原頼長・崇徳院の側近藤原教長・平家弘・源為義・平忠正らの武士が集結した。

7月11日未明、後白河は武士を動員して白河北殿へ夜襲をかけた。
白河北殿は炎上したが、崇徳は御所を脱出した。

13日、崇徳は降参を決意して剃髪し、仁和寺に出向いた。
そして同母弟の覚性法親王に取り成しを依頼したが断られてしまう。
崇徳はとらえられ、寛遍法務の旧房に監禁された。

23日、崇徳院は讃岐に流罪となった。
兵衛佐局は崇徳に同行したが、藤原聖子は出家して都にとどまった。

後白河天皇陵 桜紅葉 
後白河天皇陵

⑥崇徳、怨霊になる。

讃岐で崇徳は五部大乗経の写本をして、朝廷に差し出した。
しかし後白河は「呪詛が込められているのではないか」として、写本を送り返してきた。
激怒した崇徳は舌を噛み切り、その血で写本に次のように書き込んだ。

「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」「この経を魔道に回向す」。
また爪や髪を伸ばし続け、生きながら天狗になったとされている。(『保元物語』)

しかし、『今鏡』には怒り・恨みなどの話は記されていない。

1164年、崇徳は讃岐で崩御した。

1177年、延暦寺の強訴・安元の大火・鹿ヶ谷の陰謀などが起こり、「これらは崇徳院の怨霊のしわざではないか」と当時の貴族の日記に書かれている。
1176年、平滋子(後白河妃)・姝子内親王(鳥羽の内親王で二条の中宮)六条(二条の子)・藤原 呈子近衛の中宮)など、後白河や忠通に近い人々が相次いで死去し、ますます崇徳院の怨霊のしわざではないかという噂が広がった。

『吉記』寿永3年(1184年)4月15日条に藤原教長が「崇徳院と頼長の悪霊を神霊として祀るべき」と発言したことが記されている。

1184年、後白河は、8月3日には「讃岐院」の院号を「崇徳院」と改め、頼長には正一位太政大臣が追贈している。

4月15日には保元の乱の古戦場・春日河原に「崇徳院廟」(のちの粟田宮)がつくられた。(のち平野神社に統合)
また、現在の香川県坂出市に崇徳の御陵がつくられ、その御陵近くに頓証寺(現在の白峯寺香川県に地元の人々)がつくられたが、この頓証寺に対して官の保護が与えられた。

これらは崇徳の慰霊を目的として行われたのだろう。

崇徳天皇御廟 
崇徳天皇御廟 ( 京都府京都市東山区祇園町南側)

1497年、現在の東山安井にあった光明院の住持・幸盛上人が御土御門天皇の綸旨により「崇徳天皇御廟」を光明院内に再興した。
これが上の写真の「崇徳天皇御廟」と考えられている。
光明院は、崇徳院の寵妃・阿波内侍が居住していた邸宅跡であったとも伝えられている。

⑦藤原聖子をふるえあがらせた歌


瀬を早み 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞ思ふ/崇徳院

(瀬の流れが早く岩にせき止められた滝川が岩にあたって二つに割れるように、あなたと別れても、いつかきっとあなたに逢おうと思う)

この歌は詞書に「題知らず」とあるので、崇徳がいつ詠んだ歌なのかわからない。
しかしいつ詠んだのかは問題ではない。
口から発した言葉には将来、言葉を実現させる力、言霊があるからだ。

ふたつに割れた滝の一方はもちろん崇徳の比喩だろう。
もう一方は誰だろうか。

保元の乱後、兵衛佐局は崇徳に同行したが、藤原聖子は出家して都にとどまっている。
割れた滝のもう片方は、私。藤原聖子はそう思って震え上がったのではないだろうか。
言霊の力によって、崇徳の怨霊は私に会いに来るにちがいないと。

藤原聖子が出家したのは、崇徳の怨霊を恐れたためではないかと思う。



File:Yoshitsuya The Lightning Bolt.jpg

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Yoshitsuya_The_Lightning_Bolt.jpg?uselang=ja よりお借りしました。
『椿説弓張月』より崇徳上皇が讃岐で崩御し、怨霊になる瞬間を描いた一場面(歌川芳艶画)



いつも応援ありがとうございます♪

毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!

※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。



にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村




スポンサーサイト