小倉百人一首24番
このたびは 幣もとりあへず 手向山 紅葉の錦 神のまにまに/菅家(菅原道真)
(今回の旅は急な旅で幣も用意することができませんでした。かわりに紅葉の錦を捧げます。どうぞ神の御心のままお受け取りください。)

手向山八幡宮
①
紅葉の錦 神のまにまに
この歌は平安時代の政治家・菅原道真が詠んだものである。
手向山八幡宮は現在は若草山の麓、東大寺三月堂の隣にあるが、平安時代には大仏殿のそばの鏡池の東側にあったそうだ。
現在の場所には鎌倉時代に移転したという。
菅原道真が「このたびは・・・」と歌を詠んだ場所とは現在の場所は異なってはいるものの、手向山八幡宮の紅葉は目をみはるほどの美しさである。
道真が見た手向山八幡宮の紅葉もさぞ美しかったことだろう。
道真の歌からそれが伝わってくる。
②幣のかわりにした紅葉
『このたびは』の『たび』は『度』と『旅』に掛けてある。
幣とは神への捧げ物のことで、絹や紙を細かく切ったものを道祖神の前で撒き散らす習慣があったそうだ。
今でも、神事のときに神主さんが細かく切った紙をまき散らしているのを見かけるが、幣とはそのようなものだろう。
幣(一言主神社にて)道真が手向山八幡へやってきたとき、風がふいて紅葉がはらはらと散っていたのだろう。
それで、道真は紅葉を幣のかわりにしたのだ。
③朱雀院は宇多天皇『古今和歌集』の詞書には『朱雀院の奈良におはしましたる時に、たむけ山にてよめる』とある。
また『定家八代抄』の詞書には『亭子院吉野の宮滝御覧じにおはしましける御ともにつかうまつりて、手向山をこゆとて』とある。」
朱雀院とは朱雀天皇のことではなく、宇多天皇のことだとされている。
もともと朱雀院とは嵯峨天皇が譲位後に住んだ離宮のことで、朱雀大路の西にあった。
その後、宇多天皇が整備して譲位後そこに住んだ。
また朱雀天皇が修理をして、やはり譲位後に住んだ。
亭子院(ていじのいん)は、西洞院大路の西側にあり、やはり宇多天皇が譲位後に住んだ。
④朱雀院は朱雀上皇ではないかと疑ってみたけど実は私は朱雀院とは朱雀上皇のことではないかと疑って調べてみた。
菅原道真の生没年は845年-903年。
一方朱雀天皇の生没年は923年- 952年で時代が合わない。
しかし、古今和歌集仮名序には、『平城天皇と柿本人麻呂が身を合わせた』という記述がある。
平城天皇は平安時代、柿本人麻呂は奈良時代の人で時代があわないのだが。
これについて梅原猛氏は、『平城天皇と柿本人麻呂は精神的に身をあわせた』のだと説かれた。
そうであれば、朱雀天皇の行幸に、道真の霊が随行したと記されてもおかしくはないと思った。
が、やはり朱雀院とは宇多天皇と考えるべきだろう。
というのは古今和歌集の成立が905年であるからである。
道真の『このたびは…』の歌は古今和歌集にとられた歌なので、905年にはすでに詠まれていたということになる。
朱雀天皇の生没年は923年- 952年なので、古今和歌集成立したとき、まだ生まれていない。
従って、朱雀院とは宇多上皇のことだということになる。
⑤道真、時平の讒言で流罪となる。賀茂真淵の『古今和歌集打聴』によれば、『奈良への御幸の事は記録にないが、宇多上皇は昌泰元年に吉野の宮の瀧御幸の次手に住吉へも御幸有しておられるので、そのとき奈良へも立ち寄ったのだろう。』とあり、一般的には898年十月の宮滝御幸の時のことだと考えられている。
菅原道真は宇多天皇にひきたてられて昇進した人物だった。
それで898年の宇多上皇の御幸にも随行したのかもしれない。
897年、宇多天皇は醍醐天皇に譲位した。
このとき宇多天皇は『ひきつづき藤原時平と菅原道真を重用するように』と醍醐天皇に申し入れたという。
醍醐天皇の御代、菅原道真は右大臣となった。左大臣は藤原時平だった。
当時の官職や位は家の格によって最高位が定まっていた。
道真の右大臣という地位は菅原氏としては破格の昇進だった。
道真の能力を恐れた藤原時平は醍醐天皇に次のように讒言したという。
『道真は斉世親王を皇位に就け醍醐天皇から簒奪を謀っている』と。
斉世親王は宇多天皇の第3皇子で、醍醐天皇の異母弟だった。
そして斉世親王は道真の娘を妻としていた。
醍醐天皇は時平の讒言を聞き入れ、901年、道真を大宰府に流罪とした。
そして903年、道真は失意のうちに大宰府で死亡した。
大阪天満宮に展示されている雷神となって祟る菅原道真の怨霊の人形⑥道真、怨霊となる。その後、都では疫病が流行り、天変地異が相次いだ。
また、道真左遷にかかわった人物が相次いで死亡し、醍醐天皇の皇太子であった保明親王は21歳で早世した。
代わって孫の慶頼王を皇太子としたが、慶頼王は疱瘡を患ってわずか5歳で夭折した。
さらに旱魃対策会議を開いている真っ最中、清涼殿に落雷があった。
清涼殿は炎上し、多くの死傷者が出た。
醍醐天皇はこのショックでノイローゼとなって寝込み、3ヵ月後に死亡したともいわれる。
これら一連の事件は道真の怨霊のしわざであると考えられた。
『北野天神縁起』(承久本)巻六より。宮中清涼殿に雷を落とす雷神と逃げまどう公家たち。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Kitano_Tenjin_Engi_Emaki_-_Jokyo_-_Thunder_God2.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/a2/Kitano_Tenjin_Engi_Emaki_-_Jokyo_-_Thunder_God2.jpg よりお借りしました。
不明 [Public domain]⑦貞明親王が皇太子だったころ、高子に召されて業平が詠んだ歌私は紅葉というと、やはり百人一首にある在原業平の歌を思い出す。
ちはやぶる 神世もきかず 龍田河 唐紅に水くくるとは(在原業平)この歌の詞書に次のようにある。
二条の后がの春宮のみやす所と頃と申しける時に、御屏風にたつた河にもみじながれたるかたをかえりけるを題にてよめる。と。
『二条の后』とは藤原高子のことである。
伊勢物語によれば藤原高子は業平と駆け落ちしたが、兄の基経によって引き離された。
その後、高子は惟仁親王(のちの清和天皇)のもとへ入内した。
高子は清和天皇との間に貞明親王(のちの陽成天皇)をもうけたが、陽成天皇は業平と高子の子であるという説がある。
御息所には2つの意味がある。
1 天皇の寝所に侍する宮女。女御(にょうご)・更衣(こうい)、その他、広く天皇に寵せられた官女の称。また一説に、皇子・皇女の母となった女御・更衣の称という。みやすんどころ。「六条の
御息所」
「上は、―の見ましかば、とおぼし出づるに」〈源
・桐壺〉
2 皇太子妃または親王妃の称。
「二条の后、春宮(とうぐう)の―と申しける時に」〈古今・物名・詞書〉
https://kotobank.jp/word/%E5%BE%A1%E6%81%AF%E6%89%80-139576#E3.83.87.E3.82.B8.E3.82.BF.E3.83.AB.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.B3.89 より引用
上の説明では、詞書の春宮を惟仁親王(のちの清和天皇)として2の例にあげているが、私は1の「皇子・皇女の母となった女御・更衣の称」をとりたい。
貞明親王が生まれたのは869年。
清和天皇の在位は858~876年なので、貞明親王は清和天皇が即位して11年後に生まれたということになる。
貞明親王は生後3か月で皇太子となっている。
つまり、春宮とは高子が産んだ清和天皇の皇子・貞明親王(陽成天皇)で、
高子は貞明親王を生んだため「春宮の御息所」と呼ばれていたのではないかと思うのだ。
つまり、『藤原高子所生の貞明親王が皇太子だったころ、高子は業平を召し、業平は龍田川に紅葉が流れる様を描いた屏風を見てこの歌を詠んだ。』
というのが詞書きの意味ではないかと思う。
⑧皇統を括る紅葉ちはやぶる 神世もきかず 龍田河 唐紅に水くくるとは この歌は『神代の昔にも聞いた事がない。竜田河を流れる唐紅に染まった紅葉が水面をくくり染めにするとは。』または『紅葉が水を潜るとは』と訳されることもある。
ここに『水くくる』という表現が出てくるが、これをどう解釈するのかについては古来より異説がある。
ひとつは『まだら模様に色を染め出す括り染め』であるという説。
もうひとつは『水潜る』とする説である。
私は業平のこの歌は業平の祖父・平城帝が詠んだ次の歌に対応したものだと思う。
龍田川 もみぢみだれて 流るめり わたらば錦 なかやたえなむ(竜田川を紅葉が乱れて流れている。私が渡ると錦は途切れてしまうだろう。)806年、安殿親王は即位して平城天皇となったが、3年後の809年には病気を理由に異母弟である嵯峨天皇に譲位し、平城京に移り住んだ。
810年、平城上皇は平城京遷都の詔を出すなどして嵯峨天皇と対立するようになった。
同年9月10日、嵯峨天皇は藤原薬子の官位を剥奪し、その翌日の9月11日に平城上皇は挙兵した。
しかし、平城天皇は寵愛していた藤原薬子と共に東国に入ろうとしたところを坂上田村麻呂らに遮られて12日平城京に戻された。
こうして挙兵はあっけなく失敗に終わった。
藤原薬子は服毒自殺し、薬子の兄の仲成は処刑された。
平城天皇は空海より灌頂を受けて出家し、奈良の『萱の御所』に隠遁した。
これを『薬子の変』という。
平城上皇が『私が渡ると錦は途切れてしまうだろう。』と詠ったのは、『薬子の変を起こしたので、自分の子孫は皇位を継承できないだろう。』という意味ではないだろうか。
すると業平の歌は、平城帝によって途絶えた皇位継承の血統が、高子が自分(業平)の子を生むことで、括られていくだろう、という意味になると思う。
紅葉は皇統の比喩だと私は思うのである。
龍田川⑨幣のかわりに血筋を差し出した道真これをふまえて
このたびは 幣もとりあへず 手向山 紅葉の錦 神のまにまにを鑑賞すると、道真は幣の代わりに自分の血筋を幣として八幡神に差し出したという意味になると思う。
風がふいて紅葉がはらはらと散る様子は、紅葉の錦がちぎれて、バラバラになって散っていく様のようにも思え、道真の血をひく子孫が繁栄しないというイメージを抱かせる。
日本では言霊が信じられていた。
道真はこんな歌を詠んだので、彼の子孫は歴史の表舞台に立つことができなかったのだと昔の人々は思ったのかもしれない。
あるいは、この歌は実際に道真が詠んだのではなく、道真の死後に道真の気持ちにたってほかの人が詠み、菅原道真作としたのかもしれない。
菅原道真を祀る北野天満宮
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