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私流 トンデモ百人一首 20番 わびぬれば・・・ 『業平の二の舞を踏んだ元良親王』 

小倉百人一首 20番
わびぬれば 今はた同じ 難波なる みをつくしても 逢はむとぞ思ふ/元良親王
(こんなに思い悩んでしまった今はもうどうなってもいい。難波の海の澪標の言葉どおり、身を尽くして(身を滅ぼして)もあなたに逢いたいと思う。)


南港大橋 夕景 
あべのハルカスより港大橋・大阪府咲州庁舎(向かって左の高層ビル)を望む

①みおつくし

大阪府咲洲庁舎展望台にのぼると大阪の町だけでなく、東に神戸、明石海峡大橋、淡路島、西には堺泉北工業地帯、関空までも望むことができる。

港大橋とあべのハルカス 
港大橋(大阪市港区↔住之江区)とあべのハルカス(大阪市阿倍野区 向かって右の高層ビル)

眼下に広がる大阪市。その市章は「澪標(みおつくし)」である。

Emblem of Osaka, Osaka

https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3AEmblem_of_Osaka%2C_Osaka.svg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/2e/Emblem_of_Osaka%2C_Osaka.svg よりお借りしました。
作者 waketasu1977 (大阪市章1894年4月制定) [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で


大阪ドーム  
大阪ドーム〈大阪市西区)

古の大阪港は水深が浅く座礁する危険性のある個所がたくさんあったそうである。

織田正吉さんによれば、澪標とは「澪つ串」の意味であるという。
藻とは水尾で、水深の深い場所を表す水路標識を澪標というのだと。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BE%AA%E6%A8%99#/media/File:Miotsukushi_in_Osaka.JPG
↑ 澪標の写真

長居スタジアム

長居スタジアム(大阪市東住吉区)

②みをつくしても 逢はんとぞ思ふ

この澪標を詠んだ有名な歌が百人一首にある。

わびぬれば 今はた同じ 難波なる みをつくしても 逢はむとぞ思ふ/元良親王
(こんなに思い悩んでしまった今はもうどうなってもいい。難波の海の澪標の言葉どおり、身を尽くして(身を滅ぼして)もあなたに逢いたいと思う。)

名神高速道路の吹田サービスエリアの中元良親王の歌碑があるとのことなので、今度見にいってみたい。

スカイビル 

梅田スカイビル〈大阪市北区)

③不倫の恋を詠んだ歌

この歌、実は不倫の恋の歌なのである。
「後撰集」の詞書には「事いできて後に、京極御息所につかはしける」とある。

「事いできて後に」とは「不倫がばれた後」という意味、「京極御息所」とは宇多天皇の寵妃で藤原時平の娘の藤原褒子(ふじわらのほうし)のことである。

最近、不倫がばれると「一線を超えていない」とかなんとか言い逃れしようとする人が多くて、粋じゃないな~と残念になる。
元良親王のように批判を恐れず、人妻に対する情熱を熱く語る人がひとりぐらいいてもいいのに、と思ってしまう~。


太陽の塔 と osaka wheel-2

太陽の塔とosaka wheel(大阪市吹田市)

④元良親王は京極御息所を愛していたわけではなかった?

ただ、元良親王は30人以上の女性との恋愛歌を詠んでいて、京極御息所ひとりだけを愛したというわけではなさそうである。
また、本当に京極御息所を愛していたのかについても疑問だ。
元良親王はある目的をかなえるために京極御息所を利用したのではないか、と私は考えている。

みなと堺グリーン広場と大阪ガス泉北(製)第2工場 
みなと堺グリーン広場/手前 と 大阪ガス泉北 第2工場/奥(大阪府堺市)

⑤在原業平と藤原高子の駆け落ちの真相


元良親王はなかなかの色好みであったようだが、他に平安時代の色好みと言えば在原業平だ。

在原業平と元良親王はよく似ている。
というのは在原業平は清和天皇に入内する予定だった藤原高子と駆け落ちをしているのである。

しかし業平は高子のことが好きで好きで仕方なかったということではなかったようだ。
というのは古今集詞書に次のようにあるのだ。

五条の后)の宮の西の対にすみける人に、本意)にはあらで物言ひわたりけるを、

これは「五条の后(仁明天皇の后、藤原順子)の宮の西側の建物に住んでいる人(藤原高子のことだと考えられています。)に、業平は本気ではなかったのだが通っていたが」という意味である。

大平和祈念塔 
大平和祈念塔 (大阪府富田林市)


業平と高子が駆け落ちをしているところから、高子が産んだ貞明親王(のちの陽成天皇)は、清和天皇の子ではなく、業平の子ではないかとする説がある。
そして百人一首の絵札の、弓矢を背負う業平の姿は陽成天皇を守る姿であるという話を聞いたこともある。

百人一首かるた

業平は自分の血をひく子供を高子に生ませ、自分の血を引く子が清和天皇の皇子として育てられ、自分の血をひく子が皇位につくことを目的として、高子と関係を持ったのだと思う。
また、そうして生まれたのが陽成天皇ではないだろうか。

参照/私流 トンデモ百人一首 ⑰ちはやぶる・・・ 『陽成天皇の父親は在原業平だった?』  

二上山と葛城山 
二上山(向かって左)と葛城山(向かって右)

⑥ばれた業平の計画

おそらく業平の策略は高子の兄で摂政だった高子藤原基経にばれたのだろう。
陽成天皇は9歳で即位したが、源益を殴殺したとして17歳で退位させられている。
そして基経は陽成天皇の大叔父にあたる光孝天皇を即位させた。

関西国際空港 
関西国際空港(大阪府泉佐野市・大阪府泉南郡田尻町・泉南市にまたがる)

⑦元良親王は在原業平の孫だった?

元良親王はこの陽成天皇の皇子で、宇多天皇は光孝天皇の皇子である。
元良親王は業平の計画がばれなければ、自分が天皇になれたかもしれないのにと、宇多天皇を憎く思ったかもしれない。

私の考えが正しければ、陽成天皇は在原業平の子であり、元良親王は在原業平の孫である。
そして元良親王は本当の祖父・業平と同じことをしようとしたのではないかと思うのだ。

明石海峡大橋

明石海峡大橋 手前は神戸空港


⑧元良親王と京極御息所の不倫の真相

元良親王は宇多天皇の寵妃・藤原褒子に自分の子を宇多天皇の皇子として産ませ、その子を皇位につけることで、皇位継承の血筋に自分の血を残そうとしたのではないだろうか。

しかし、藤原褒子が産んだ子が皇位につくことはなく、宇多天皇と藤原 胤子の間に生まれた醍醐天皇が即位した。
元良親王の野望は叶わなかったのだ。

夢洲 舞洲 
舞洲(向かって右) 夢洲(向かって左)

もう一度元良親王の歌を鑑賞してみよう。

わびぬれば 今はた同じ 難波なる みをつくしても 逢はむとぞ思ふ/元良親王
(こんなに思い悩んでしまった今はもうどうなってもいい。難波の海の澪標の言葉どおり、身を尽くして(身を滅ぼして)もあなたにお会いしたいと思います。)


思い悩んでいたのは、褒子に対する恋にではなく、なんとか自分の血をひく子を宇多天皇の皇子として褒子に産ませたい、という計画についてではないだろうか。

天保山大観覧車 
天保山大観覧車

ところが、褒子との密会がばれてしまい、「もうどうなってもいい」とやけのやんぱちになってしまったのだろう。
処分されようがどうされようがかまうものか。とにかく褒子に自分の子を産ませてやるぜ!
みたいな意味で、歌を詠んだのかもしれない。

夢舞大橋

夢舞大橋

 あべのハルカスと通天閣 
通天閣〈大阪市浪速区) と あべのハルカス〈大阪市阿倍野区)



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私流 トンデモ百人一首 19番 難波潟・・・ 『伊勢が産んだ子は蛭子と淡島だった?』  


小倉百人一首 19番

難波潟 みじかき芦の ふしの間も 逢はでこの世を 過ぐしてよとや /伊勢
(難波潟の短い芦の節の間ほどの短い時間もあなたにお会いすることができず、一生を過ごせと、あなたは言うのでしょうか。)


舞洲 百合 ヨット 

 ①難波潟 短き芦の 節の間も


百合の花が咲き乱れる舞洲。
大阪湾にある人口の島である。

かつての大阪湾は現在よりも内陸部にまで入り込んでいた。
そして干潟が広がり、難波潟と呼ばれていた。

難波潟と呼ばれていたころは百合ではなく、芦(あし)が生い茂っていた。 
この難波潟の葦を詠んだのが
難波潟 みじかき芦の ふしの間も 逢はでこの世を 過ぐしてよとや
である。

舞洲 葦 
 ②恋多き女性だった伊勢

伊勢はすごくもてる女性だったようである。
藤原仲平とつきあっていたが破綻。
その後、藤原仲平の兄の時平や平貞文から求愛を受けている。
宇多天皇の寵愛を受けて皇子を産んだ。この皇子は5歳または8歳で夭逝したようであるが。
宇多天皇が出家したあと、宇多天皇の皇子の敦慶親王との間に中務という娘をもうけている。

えっ・・・おっおっおっ・・親子どんぶり?

舞洲 百合 

③伊勢はなぜ本名がわかっていないのか?

平安時代の女性はおいそれと人前で名前を名乗ることがなかったこともあって、ほとんど本名がわかっていない。
伊勢というのは紫式部・清少納言等と同様、通称である。

ただし、天皇に入内した女性は位が与えられて記録が残っているため、名前がわかっている。
伊勢は宇多天皇の后・藤原温子に仕えているが、藤原温子という名前が後世に残っているのはそのためである。

いやいや、そんなことよりも、伊勢が自分が仕えている人(温子)の夫(宇多天皇)と関係をもって子供を産んでいるというのが衝撃的だ~。

いやー、平安時代の宮中って実に乱れている。それとも当時そんなのは普通のことだったのだろうか?

それはさておき、『古今和歌集目録』に伊勢が宇多天皇の更衣となったとある。
更衣になったのであれば記録があって本名が記録に残っているはずではないだろうか?

なぜ伊勢は本名が後世に伝えられていないのだろうか?
更衣になったというのは間違いなのか、それとも記録が消されたのか、記録することができない何らかの事情があったのか?

舞洲 百合 黄色

④伊勢の御息所(みやすどころ)

伊勢は「伊勢の御息所」とも呼ばれていたが、この御息所には2つの意味がある。

天皇の寝所に侍する宮女。女御(にょうご)・更衣(こうい)、その他、広く天皇に寵せられた官女の称。また一説に、皇子・皇女の母となった女御・更衣の称という。みやすんどころ。「六条の御息所」
「上は、―の見ましかば、とおぼし出づるに」〈源・桐壺〉
皇太子妃または親王妃の称。
「二条の后、春宮(とうぐう)の―と申しける時に」〈古今・物名・詞書〉

https://kotobank.jp/word/%E5%BE%A1%E6%81%AF%E6%89%80-139576#E3.83.87.E3.82.B8.E3.82.BF.E3.83.AB.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.B3.89 より引用

伊勢が「伊勢の御息所」と呼ばれていたのは、1で、宇多天皇に寵愛されていたためか、または宇多天皇の皇子を産んだためではないかと思う。

天皇の皇子を産むというのはすごいことである。
自分が生んだ皇子が皇位を継承したら、自分は国母となる。
まあ、宇多天皇には多くの皇子があったので、身分の低い伊勢が生んだ皇子が皇位継承する可能性は低かったと思われるが。

しかし、伊勢が生んだ宇多天皇の皇子は夭逝してしまった。

舞洲 百合 ピンク

⑤低い身分で国母となった藤原胤子

②でお話ししたように、宇多天皇が出家したあと、伊勢は宇多天皇の第四皇子の敦慶親王との間に中務という娘をもうけている。
醍醐天皇は敦慶親王の同母兄にあたる。

醍醐天皇と敦慶親王の母親は藤原高藤の娘の藤原胤子である。
勧修寺を創建したとも伝わる女性である。

勧修寺 睡蓮・花菖蒲・額紫陽花・沙羅双樹 『外祖父になっても昇格できなかった藤原高藤』 

藤原高藤は醍醐天皇の外祖父であるにもかかわらず、大納言どまりで出世できなかった。
また胤子の母親は宮道弥益(山城国宇治郡大領)の娘・列子で、身分としては低い方だった。

そのような低い身分の人でも国母(醍醐天皇の母親なので)になった例があったのである。
ちなみに伊勢の父親は藤原北家真夏流の伊勢守藤原継蔭、母親は不明である。

しかし伊勢は宇多天皇の皇子を産んだにもかかわらず、国母になることができなかった。
⑥恋の歌ではなく、我が子を詠んだ歌?

難波潟 みじかき芦の ふしの間も 逢はでこの世を 過ぐしてよとや
(難波潟の短い芦の節の間ほどの短い時間もあなたにお会いすることができず、一生を過ごせと、あなたは言うのでしょうか。)


この歌は、恋の歌のように見えて、伊勢が夭逝した我が子(宇多天皇の皇子)と娘・中務を詠んだ歌のように思える。

「芦」は足にかかり、足が悪かった蛭子を思い出させる。
蛭子はイザナギ・イザナミの長子だったが、3歳になっても歩けなかったので芦舟に乗せられて流された神である。

また「逢はで」は「淡で」にかかり「淡島」を思い出させる。
淡島はイザナギ・イザナギの2番目の子だったが、やはり不具の子であったとして、芦の舟に乗せられて流されている。


舞洲 百合 オレンジ



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私流 トンデモ百人一首 13番 筑波嶺の・・・ 『龍田川だったらよかったのに・・・・』 


八坂神社 かるた始め3

八坂神社 かるた始め


小倉百人一首 13番
筑波嶺(つくばね)の 峰より落つる 男女川(みなのがは)恋ぞつもりて 淵となりぬる/ 陽成院
(筑波山の峰から流れ落ちてくる男女川(みなのがわ)が、どんどん水嵩を増して淵になるように、恋心が募って深い淵となってしまった。)



①歌垣の聖地・筑波山


古代の日本には歌垣と呼ばれるフリーセックスの習慣があり、高橋虫麻呂と言う人がそのようすを歌に詠んでいる。

筑波嶺に登りて嬥歌会(かがい)をする日に作る歌一首 并せて短歌
(筑波の山に登って嬥歌会する日に作った歌一首、あわせて短歌)


鷲の住む 筑波の山の 裳羽服津(もはきつ)の その津の上に 率(あども)ひて 娘子壮士(をとめをとこ)の行き集ひ
かがふ嬥歌(かがひ)に 人妻に 我も交はらむ 我が妻に 人も言問へ この山を うしはく神の 昔より いさめぬわざぞ
今日のみは めぐしもな見そ 事も咎むな
(鷲が住む 筑波の山の 裳羽服津の津のほとりに、誘い合って 若い男女が集まる 嬥歌で 人妻とエッチしよう。私の妻と誰でもエッチしていいぞ。この山を支配する神が、昔から 許していることだ。今日だけは見苦しいなどとみるな。なにがあっても咎めるな)

反歌

男神に 雲立ちのぼり 時雨ふり 濡れ通るとも 我帰らめや
(男神に雲立ち上り 時雨が振り 濡れ通っても 私は帰らないぞ。)


②歌垣は荒魂(男神)に和魂(女神)を和合させて御霊にする神事?

なにやらすごい歌だが(笑)、現代フリーセックスを行う者との違いは、これが神が許した行事、神事であったということだ。

仏教の神・歓喜天は男女が和合したおすがたをしておられ、次のような伝説がある。

鬼王ビナヤキャは祟りをもたらす神であった。
そこへ十一面観音の化身であるビナヤキャ女神があらわれ、鬼王ビナヤキャに「仏法守護を誓うならあなたのものになろう」と言った。
鬼王ビナヤキャは仏法守護を誓い、ビナヤキャ女神を抱いた。




動画お借りしました。動画主さん、ありがとうございます。

↑ 相手の足を踏みつけている方がビナヤキャ女神である。

この物語は、御霊・荒魂・和魂という概念をうまく表していると思う。

神はその現れ方で、御霊(神の本質)・荒魂(神の荒々しい側面)・和魂(神の和やかな側面)の3つに分けられるといわれる。
そして荒魂は男神を、和魂は女神を表すとする説があるのだ。
すると神の本質である御霊とは男女双体ということになると思う。

御霊・・・神の本質・・・・・・・歓喜天・・・・・・・男女双体
荒魂・・・神の荒々しい側面・・・鬼王ビナヤキャ・・・男神
和魂・・・神の和やかな側面・・・ビナヤキャ女神・・・女神

歌垣の習慣は、荒魂(男神)に和魂(女神)を和合させることで、御霊に転じさせる呪術であったのではないだろうか。

③筑波山はなぜ紫峰と呼ばれているのか?

筑波山は茨城県つくば市にある標高877mの山で、М字型をしている。
西を男体山(標高871m)、東の女体山(標高877m)といい、筑波山神社の境内地ということである。
一度訪れてみたいが、関西在住の私はまだ行ったことがない。

雅称を紫峰(しほう)というそうだが、これには思い当たるところがある。

Mt.Tsukuba

西側から望んだ筑波山
https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3AMt.Tsukuba.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/87/Mt.Tsukuba.jpgよりお借りしました。
作者 RESPITE (photo by RESPITE) [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で


関西で歌垣があった場所といえば、奈良県桜井市の海石榴市(つばいち)であるが、そこに歌碑が建てられていて、次のような歌が刻まれている。

紫は ほのさすものぞ 海石榴市の 八十のちまたに 逢へる子や誰/万葉集 詠み人知らず
(海石榴市の辻で逢った貴女は、何というお名前ですか。)


紫色に布を染めるためには、椿の灰を媒染剤とした。
紫とは道で出会った女、灰汁は男のことで、男と目があったとたん、女がぱっと美しく瞳を輝かせた、というような意味だろうか。

こんな歌もある。

紫草(むらさき)の にほへる妹を 憎くあらば  人妻ゆゑに 我恋ひめやも. /大海人皇子
( 紫草の紫色のように美しいあなたのことを憎いと思っているとしたら、どうして私はあなたのことがこんなに恋しいのでしょうか。あなたは人妻だというのに)


この2首を鑑賞すると、恋する女が美しく瞳を輝かせるようすを『紫』といっているように思える。

筑波山は男体山と女体山からなる。
このような山の形を、古の人々は男女双体であると考えたのだろう。
女体山は男体山に恋をして瞳を輝かせている。そこから紫峰と呼ばれたのではないだろうか。

④つりどのの皇女は光孝天皇の第3皇女

この歌には「つりどのの皇女につかはしける」と詞書がついている。
「つりどのの皇女」とは「綏子内親王(?-925)」のことである。
綏子内親王は光孝天皇(830-887)の第3皇女である。

⑤退位させられた天皇

和歌は歴史と重ね合わせて鑑賞するべきというのが私流。
簡単にこのころの歴史についてみてみることにしよう。

陽成天皇(869-949)は生まれたばかりで皇太子となり、876年、9歳で清和天皇の譲位を受けて即位した。
幼い陽成天皇の摂政には高子の兄・藤原基経がついた。

883年、陽成天皇の乳兄弟の源益が殴り殺されるという事件がおき、記録にはないものの陽成天皇が犯人ではないかと考えられている。(犯人ではないとする説もある。)
884年、陽成天皇は藤原基経にせまられて退位した。基経は55歳の光孝天皇を擁立する。
光孝天皇は自身の皇位を一代限りのものとして、すべての皇子・皇女を臣籍降下させた。
このとき、光孝天皇の皇女・綏子内親王(つりどのの皇女)も臣籍降下した。

887年、光孝は病を患い、基経と光孝は次期天皇とするため、光孝の子・源定省を皇籍に復帰・立太子させた。
光孝天皇はその日のうちに崩御され、定省親王(宇多天皇)が即位した。
宇多天皇は、光孝天皇が寵愛していた内侍・藤原淑子の猶子であったので、皇太子に選ばれたのではないかといわれている。
このとき、光孝天皇の皇女・綏子内親王(つりどのの皇女)も皇族に復帰した。

宇多天皇は897年に皇子の醍醐天皇に譲位する。
こうして、皇統は光孝―宇多―醍醐とひきつがれていき、文徳―清和―陽成の系統に戻ることはなかった。

大鏡には陽成院が宇多のことを「今の天皇はかつて私の臣下ではないか」と言ったとある。

 
(54)仁明天皇
 
(55)文徳天皇
 
(56)清和天皇
 
(57)陽成天皇
 
(源)清蔭陽成源氏へ〕
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
惟喬親王
 
 
貞純親王
 
(源)経基清和源氏へ〕
 
 
 
 
 
(58)光孝天皇
 
(59)宇多天皇
 
(60)醍醐天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
人康親王
 
藤原基経
 
 
真寂法親王
(斉世親王)
 
 
 
 
 
敦実親王
 
(源)雅信宇多源氏へ〕
 
 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%BD%E6%88%90%E5%A4%A9%E7%9A%87より引用

⑦陽成天皇の父親は在原業平だった?

陽成天皇は清和天皇の皇子で母親は藤原高子である。
藤原高子は清和天皇の女御となる以前、在原業平と駆け落ちしたとの説話が伊勢物語などにみえ、このため陽成天皇の父親は清和天皇ではなく在原業平であるとする説もある。
これについては前回の私流 トンデモ百人一首 ⑰ちはやぶる・・・ 『陽成天皇の父親は在原業平だった?』  でもお話しした。

陽成天皇は殴殺事件をおこして退位させられているが、通常ならば叔父の藤原基経は殴殺事件など握りつぶしたのではないかと思う。
甥が皇位についているというのは、基経にとって有利だと思うからだ。
それなのに退位させ、、文徳―清和―陽成の皇統を断ったのは、陽成天皇が業平の子だったからではないかと思ったりする。
基経は業平と駆け落ちをした藤原高子とも大変仲が悪かった。
これも高子が清和天皇の皇子と偽って業平の子供を生んだためではないかと思われる。

さらに陽成天皇の乳母は紀全子、宮人にも紀氏の女性がおり、陽成天皇は紀氏と関係が深かった。

私は陽成天皇の父親は在原業平ではないかと考えているが、業平は紀名虎の娘を妻にしており、紀静子を母親に持つ惟喬親王の寵臣であった。
陽成天皇と紀氏のつながりの深さは、陽成天皇と在原業平が親子だからではないだろうか。

百人一首かるた

⑧「みなの川」「こひぞつもりて」「淵となりける」

「みなの川」「こひぞつもりて」「淵となりける」について、『千人万首』は次のように記している。

◇みなの川 『宗祇抄』によれば、「桜川へおつる」川。桜川は霞ヶ浦に注ぐ川。後世、男女二峰を有する山に因んで「男女の川」とも書かれる。「みな」は「蜷」(泥中に棲むタニシなど小巻貝の類)と同音なので、そこから次句の「こひぢ」(泥濘)と同音を持つ「こひ」を導く序となる。

◇こひぞつもりて 恋心が積もって。「こひ」は「泥(こひぢ)」を連想させるため、「泥濘が積み重なって」の意を兼ねる。

◇淵となりける 「淵」は水が淀んで深くなっているところ。「瀬」(流れが早くて浅いところ)の対意語。「泥水が積もり積もって深い淀みとなった」「恋が積もり積もって、淵のように深く淀む思いになった」の両義

http://www.asahi-net.or.jp/~SG2H-YMST/yamatouta/sennin/youzei.html より引用

泥水が積もれば深い淵ではなく、浅瀬になるのではないか、と思ってしまうが、
泥水が積もって土手になれば水が流れず淵になると言うことを言っているのかもしれない。

⑨龍田川の歌を詠めばよかったのに・・・・

龍田河 もみぢみだれて 流るめり 渡らば錦 なかや絶えなむ(平城上皇・・・在原業平の祖父)

この歌を詠んだ平城天皇は薬子の乱をおこしたが嵯峨天皇に負け、そのせいで業平の父の阿保親王は流罪となった。
そして帰京後、自分の子供(在原行平・在原業平ら)の臣籍降下を願い出て許された。(こうすることによって反逆の意思がないことを示そうとしたのだろう。)

上の歌は、龍田川を皇統に喩え、「私が「薬子の変」をおこしたため、私の子孫は皇位継承することができないだろう」という意味で詠んだものではないかと思う。


ちはやぶる 神代もきかず 龍田川 からくれなゐに 水くくるとは(在原業平)

「貞明親王(のちの陽成天皇)は実は清和天皇の子ではなく、私(在原業平)と藤原高子の子なのだ。
祖父・平城上皇が薬子の変を起こしてちぎれてしまった皇位継承の血筋が、貞明親王(のちの陽成天皇)が皇太子になったことによって括られた。こんなことは神代にもなかったことだ」

陽成院の歌は上の2首を受けたものだと思う。


筑波嶺の峰よりおつる みなの川 恋ぞつもりて 淵となりける(陽成院)

筑波山の男体山は陽成天皇、女体山は綏子内親王(つりどのの皇女)に喩えたのだろう。
筑波山は古来より歌垣で有名なところである。
陽成天皇はこの歌を綏子内親王(つりどのの内親王)に送ったというのだから、
ストレートにいえば陽成天皇が綏子内親王に「ねえ、君。エッチしようよ~」という意味ではないだろうか。
ただ、陽成天皇が単に綏子内親王とエッチしたかったというだけの歌ではないと思う。
陽成天皇は綏子内親王の子供がほしかったのだ。
陽成天皇は子供が好きだったの?なんて考えてはいけない。
綏子内親王のような身分の高い女性との間にできた子なら、皇太子になれる可能性がある。
陽成天皇は自分の子どもを天皇とし、自分の血を皇統に残したかったのだ。

在原業平が自分の子供を天皇として、自分の血を皇統に残そうとしたように。
恋が積もってできた淵は、自分の子供を守ってくれる淵というわけだろう。

しかし、残念!
平城上皇、在原業平が皇位継承の血筋に喩えたのは龍田川だった。筑波山からながれるみなの川ではない。
そして皇位継承の血筋は流れなくてはいけなかった。淵だと水がながれない。

陽成院と綏子内親王(つりどのの内親王)の間に子供が生まれることはなく、先に述べたように皇統が戻ることはなかった。

龍田川 紅葉

龍田川



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私流 トンデモ百人一首 ⑰ちはやぶる・・・ 『陽成天皇の父親は在原業平だった?』  

小倉百人一首17番 
ちはやぶる 神代も聞かず 竜田川 からくれなゐに水くくるとは 在原業平
(神代にも聞いたことがない 竜田川が唐土の衣の鮮やかな紅のように水を括り染めにするとは。)


龍田川 紅葉3 
龍田川


①現代語訳が難しい業平の龍田川の歌


この歌は現代語訳が難しい歌である。

「ちはやぶる」は「神」にかかる枕詞。
「神代も聞かず」は「神代にも聞いたことがない」
「竜田川」は奈良県生駒郡斑鳩町竜田あたりを流れる川。
「からくれなゐ」の「から」は「韓の国」や「唐土(もろこし)」を意味する。
当時、韓や唐土の物産は大変高価で価値があるものだったとされる。
今でいうシャネルとかエルメスみたいなブランド品だったということだろう。
「くれなゐ」は「紅色」の意味で、「からくれなゐ」は「韓や唐土から日本に持ち込まれたブランド品の衣の紅色」というような意味だと思う。

ここまではそんなに難しいところはない。

龍田川 紅葉2 

②「水くくる」に二つの解釈


問題は「水くくる」だ。
この「水くくる」には2つの解釈がある。

①水を「括り染め」にした。
「括り染め」とは布にところどころ糸を巻き付けて括ったのち、染色するものをいう。
糸でくくった部分は染まらないので、それで模様をつくるのである。

②水を潜った。川を埋め尽くすように散った紅葉の下を水が流れる。

現代語訳は
①の場合、「神代にも聞いたことがない。竜田川が韓や唐土の衣の鮮やかな紅のように水を括り染めにするとは。」
②の場合は「神代にも聞いたことがない。韓や唐土の衣の鮮やかな紅に染まった紅葉の下を竜田川の水が流れていくとは。」
となる。

③藤原高子が春宮の御息所と呼ばれていたときに詠んだ歌

ちはやぶる 神代もきかず 龍田川 からくれなゐに 水くくるとは(在原業平)

古今和歌集はこの歌に次のような詞書をつけています。
二条の后の春宮のみやす所と申しける時に、御屏風にたつた河にもみぢながれたるかたをかけりけるを題にてよめる


この詞書は重要なことを書いてあると思う。
まるで業平の歌は謎々で、この詞書はその謎々をとくヒントであるかのようだ。

一語づつみてみよう。

「二条の后」は清和天皇に入内した藤原高子のこと。
「春宮」は「とうぐう」と読み、皇太子を意味する。
「みやす所」はもともとは天皇の休憩所という意味で、ここから天皇に侍る官女や、皇子・皇女を産んだ女御・更衣を指す言葉となった。

藤原高子は清和天皇に入内して女御の位となり、清和天皇にとの間に貞明親王(のちの陽成天皇)をもうけている。
この貞明親王が春宮(皇太子)となったので、高子は「春宮のみやす所」と呼ばれたのだろう。

その藤原高子が在原業平を召したとき、業平は竜田川に紅葉が流れる屏風絵を見てこの歌を詠んだ、というのである。

龍田川 紅葉 

④在原業平と藤原高子の駆け落ち

「伊勢物語 芥川」に、高子が清和天皇に入内する以前、業平と高子は駆け落ちをしたと記されている。
(現代語訳はこちら。→http://www.raku-kobun.com/ise6.html

駆け落ちの途中、雷が鳴りだしたので業平は高子を蔵の中にいれた。
ところが蔵には鬼がいて高子は鬼にくわれてしまったと記されている。

実は本当に高子が鬼にくわれてしまったのではなく、高子は兄・藤原基経に連れ戻されたのだ。
こうして駆け落ちは失敗に終わった。

このかつて駆け落ちをした二人が並んで屏風絵を見ているわけだ。なにやら意味深である。

⑤業平がその気もないのに高子のもとへ通っていた理由

どうも業平は高子を本気で愛していて駆け落ちしたというわけではないようである。
というのは、古今和歌集詞書に次のような記述があるのだ。

五条の后)の宮の西の対にすみける人に、本意)にはあらで物言ひわたりけるを、

「五条の后(仁明天皇の后、藤原順子)の宮の西側の建物に住んでいる人(藤原高子のことだと考えられている)に、業平は本気ではなかったのだが通っていたが」という意味である。

業平はなぜその気もないのに高子のもとへ通い、駆け落ちまでしたのだろうか?

百人一首かるた


⑥陽成天皇の父親は在原業平だった?

業平と高子は駆け落ちをしているところから、高子が産んだ貞明親王(のちの陽成天皇)は業平の子ではないかとする説がある。
そして百人一首の絵札の、弓矢を背負う業平の姿は陽成天皇を守る姿であるという話を聞いたこともある。

業平がその気もないのに高子のもとへ通っていたのは、清和天皇に入内する予定の高子を妊娠させるのが目的だったのではないかと思う。
高子が産んだ子は清和天皇の皇子とされる。
そしてその皇子は将来皇太子となり、天皇となる可能性がきわめて高い。

⑦在原業平の祖父は平城上皇だった。

在原業平の祖父は平城上皇、父親は阿保親王だった。
ところが平城上皇は嵯峨天皇と対立して挙兵し、敗れてしまった。(薬子の変)

⑧阿保親王、子供(行平・業平ら)の臣籍降下を願い出て許される。

このため、平城上皇は出家し、阿保親王は連座したとして大宰府に流罪となった。
10年以上たち、ようやく阿保親王は許されて京に戻った。
そして阿保親王は自分の子供(在原行平・業平ら)の臣籍降下を願い出て許されている。
阿保親王は自分の子供たちを臣籍降下させることによって、反逆する気持ちがないことを示そうとしたのではないかと思う。

⑨平城上皇の竜田川の歌

龍田川の紅葉について、業平の祖父・平城上皇も歌に詠んでいる。

龍田河 もみぢみだれて 流るめり 渡らば錦 なかや絶えなむ(平城上皇)
(龍田川の上を紅葉が乱れて流れている。私が渡ると紅葉の錦がちぎれてしまうだろう。)

祖父(平城上皇)と孫(在原業平)がどちらも龍田川の歌を詠んでいるのは、偶然なのだろうか。
そうではないと私は思う。
業平は平城上皇の龍田川の歌を受けて、自分も龍田川の歌を詠んだのではないか。

平城上皇は竜田川を皇位継承の血筋に喩えているのではないだろうか。
そして自分が薬子の変をおこしたため、私の子孫は皇位につくことができないということを「錦 なかや絶えなむ」と呼んだのだと思う。

ちはやぶる 神代もきかず 竜田川 からくれなゐに 水くくるとは(在原業平)

「平城上皇が薬子の変を起こしてちぎれてしまった皇位継承の血筋が、貞明親王(のちの陽成天皇)が皇太子になったことによって括られた。こんなことは神代にもなかったことだ」と業平は詠んだのではないだろうか。

⑩陽成天皇の父親が在原業平であることがばれた?


皇太子となった貞明親王は9歳で即位した。(陽成天皇)
そして高子の兄の藤原基経が摂政となった。

ところがどうも陽成天皇の父親が業平であることが基経にばれたようである。
そう思うのは、陽成天皇が源益を殴殺したといて退位させられているからである。

基経は陽成天皇の叔父である。
仮に陽成天皇が源益を殺したというのが本当でも、甥が天皇であるということは基経にとってメリットが大きいはずなので
普通なら事件をもみ消すのではないかと思う。
さらに基経と高子は実の兄妹でありながら大変仲が悪かったとされる。

これらは陽成天皇の父親が業平であることが、高子の兄・藤原基経にばれたのだと考えると辻褄があうように思える。

そしてその後、陽成天皇の子孫が皇位につくことはなかった。
業平の計画は失敗に終わったというわけである。
 
八坂神社 かるた始め 

八坂神社 かるた始め


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私流トンデモ百人一首 12番 天つ風・・・・ 『僧正遍照、大嘗祭で呪いの歌を詠む?』  

小倉百人一首12番

天つ風  雲の通ひ路  吹きとぢよ 乙女の姿 しばしとどめむ/僧正遍照
(天の風よ、吹いて雲のすきまを閉じてしまっておくれ。乙女の姿をもう少し見ていたいから。)


京都御苑・九條池の百日紅を見ようと京都御苑を訪れたのだが
「そうだ、京都御所通年公開されることになったんだった~。」と思い出し、京都御所に行ってみることにした。

京都御所 松 
①1331年から1869年まで皇居があった場所

14世紀ごろ、鎌倉幕府は持明院統と大覚寺統から交互に天皇をたてていた。
1308年、大覚寺統の後醍醐天皇が即位。
1331年、後醍醐天皇の倒幕計画が発覚し、後醍醐天皇は京都を脱出して南山城の笠置山に籠った。
このとき鎌倉幕府は持明院統の光厳天皇を即位させた。
これがきっかけで南北朝が並立するようになっていく。

光厳天皇は土御門東洞院殿を里内裏とした。
それ以来、ここが皇居として用いられるようになり、明治2年(1869年)に明治天皇が東京へ行幸するまで続いた。
ただし、建物は何度も建て直されている。

794年の平安遷都時の内裏は現在の御所より西の千本通り沿いにあった。

②即位の礼が行われていた紫宸殿

京都御所 承明門と紫宸殿 
承明門と紫宸殿

承明門の向うに紫宸殿が見えている。
紫宸殿は儀式を行うところで、昭和天皇まで『即位の礼』はここで行われていた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%B3%E4%BD%8D%E3%81%AE%E7%A4%BC#/media/File:Enthronement_of_Emperor_Hirohito.jpg
(ウィキペディア 昭和天皇の即位の礼(京都御所・紫宸殿の儀) 大阪朝日新聞 昭和3年10月1日付挿画)

今上天皇の『即位の礼』は1990年11月12日に東京で行われた。

京都御所 池と百日紅2 
③大嘗祭

11月23日は勤労感謝の日ですが、この日宮中では新嘗祭が行われる。
新たな天皇が即位した年に行われる新嘗祭は大嘗祭と呼ばれ、即位の礼と一連の儀式とされている。

大嘗祭は大極殿前に大嘗宮という建物をつくり、そこで行われた。
1990年の大嘗祭では東御苑に約9000㎡もの土地が用意され、39棟もの建物が建てられたそうである。

大嘗祭では様々な行事が行われるが、その中に五節舞(ごせちのまい)がある。

④五節舞

五節舞とは大嘗祭や新嘗祭に行われる、4,5人の舞姫による舞のことである。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E7%AF%80%E8%88%9E#/media/File:Gosechi_no_Mai-Hime_Shozoku.JPG(ウィキペディア 五節舞姫装束)



動画お借りしました。動画主さん、ありがとうございます。

天つかぜ 雲の通ひ路 吹きとぢよ をとめの姿 しばしとどめむ
(天の風よ、吹いて雲のすきまを閉じてしまっておくれ。乙女の姿をもう少し見ていたいから。)


この歌は詞書に「五節の舞姫をみてよめる」とありる。

遍照は宮中を天上になぞらえ、そのため宮中に吹く風を「天つかぜ」と表現したと解釈されている。

僧侶がこんな好色な歌詠んでいいのか、と思っていましたが(笑)、古今和歌集では作者は「よしみねのむねさだ(遍照の在俗時の名前)となっており、遍照が出家する以前に詠んだ歌だと一般には考えられている。

京都御所 池 

⑤六歌仙は怨霊だった。


僧正遍照
は六歌仙の一である。(他の五歌仙は在原業平分室康秀喜撰法師小野小町大友黒主
高田祟史さんは「六歌仙とは藤原氏と敵対関係にあった人物であり、怨霊である。」とおっしゃっている。

そこで六歌仙ひとりひとりについて調べてみると、全員藤原氏と確執があることがわかる。

喜撰法師紀名虎または紀有常だという説がある。
紀名虎の娘で紀有常の妹の紀静子は文徳天皇に入内して惟喬親王を産んだ。
文徳天皇は惟喬親王を皇太子にしたいと考えて源信に相談しましたが、源信は藤原良房を憚ってこれを諌めたとされる。
藤原良房の娘の藤原明子もまた文徳天皇に入内して惟仁親王(のちの清和天皇)を産んでいた。
この惟仁親王が皇太子になった。
私は喜撰法師とは紀氏の血のこい惟喬親王のことだと考えている。

参照/私流トンデモ百人一首 8番 わが庵は『喜撰法師は紀仙法師で惟喬親王のことだった?』 

世継ぎ争いに敗れた惟喬親王は頻繁に歌会を開いているが、その歌会のメンバーの中に遍照在原業平紀有常らの名前がある。
彼らは歌会と称し、惟喬親王をまつりあげてクーデターを計画していたのではないかという説もある。

遍照は藤原良房にすすめられて出家したと伝わるが、彼は出家した理由を決して人に話さなかったという。

在原業平は紀有常の娘を妻としており、惟喬親王の寵臣でもあり紀氏側の人物でした。

文屋は分室とも記され、文屋康秀は分室宮田麻呂と血のつながりがあると思われる。
分室宮田麻呂は謀反を企てたとして流罪となっているが、死後冤罪であったことが判明している。
分室宮田麻呂は藤原北家に暗殺されたのではないかとする説もある。

大友黒主は大伴黒主とも記され、大伴家持とほとんど同じ内容の歌が残されている。
大友黒主とは大伴家持のことだと思う。
大伴家持は藤原種継暗殺事件に関与したとして当時すでに死亡していたのdが、死体が掘り起こされて流罪となっている。

参照/ 陰陽 黒と白⑩ 大友黒主の正体は大伴家持だった? 

京都御所 池と百日紅

⑥小野小町は男だった?


残る小野小町について、私は「小野宮」と呼ばれた惟喬親王のことではないかと考えている。
惟喬親王はもちろん男性なのだが、古今和歌集には男性が女性の身になって詠んだ歌というのがたくさんある。
古今和歌集の編者の一人である紀貫之も土佐日記で「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり」と自らを女と偽って日記を書いている。

参照/ 私流 トンデモ百人一首 9番 花のいろは・・・  『小町の歌は男らしく堂々とした歌だった。』 

京都御所 平安装束の女性たち  

↑ 八坂神社のかるた始めに登場したかるた姫さんたちを合成しました。

⑦藤原高子、五節舞姫となる。

さて世継ぎ争いに勝利した惟仁親王は859年に即位して清和天皇となったのであるが
この際の大嘗祭で、藤原良房の養女・藤原高子が五節舞姫をつとめている。
そして866年に藤原高子は清和天皇に入内して女御となった。

高子が清和天皇に入内したことで藤原良房はますます権力を高めていった。
藤原良房にとって高子は、天皇家と結びつきを強めるための大切な存在であった。

⑧「天つかぜ~」は高子入内を妨害する呪いの歌だった?

京都御所 蹴鞠の絵


すると、僧正遍照が 
天つかぜ 雲の通ひ路 吹きとぢよ をとめの姿 しばしとどめむ
と歌を詠んだ真意が見えてくるような気がする。

この歌にある「をとめ」とは859年の清和天皇即位に伴う大嘗祭で五節舞姫をつとめた藤原高子のことではないだろうか。
遍照は宮中を天上になぞらえてこの歌を詠んだとされていることを思い出してほしい。
遍照は「風よ、高子を天上(宮中)に入れないでくれ。清和天皇に入内させないでくれ」という意味で、この歌を詠んだのではないだろうか。

古今和歌集ではこの歌の作者名は「よしみねのむねさだ」と遍照が在俗時の名前になっているので、出家する前に詠んだ歌だと考えられている。
遍照が出家したのは849年、高子が五節舞姫を務めたのが859年なので、遍照が詠んだ五節舞を舞う乙女とは高子のことではない、と思われる方もいるかもしれない。

遍照出家後に詠んだ歌ではあるが、「高子を入内させないでくれ」というとんでもない内容の歌なので、
呪ったことがばれないように、あえて在俗時の名前で掲載されたという可能性もあると思う。

今は人を呪っても罪にはならないが、古には権力者を呪うことは罪として罰せられたのである。

あるいは「僧侶が好色な歌を詠むとはいかがなものか」との批判を避ける目的があったのかもしれない。



京都御所 蹴鞠の庭   

蹴鞠の庭。
絵に描かれた人物を現実の風景の中に立たせてみたら面白いだろうな~、とずっと思っていました。
そこで京都御所の建具(戸かな?)に描かれていた蹴鞠する人々の絵を合成してみました。


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私流 トンデモ百人一首 9番 花のいろは・・・  『小町の歌は男らしく堂々とした歌だった。』 

小倉百人一首 9番
花の色は 移りにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせし間に/小野小町
(花の色はすっかり褪せてしまったなあ。春の長い雨のせいで。)

髄心院

髄心院(小町の邸宅跡と伝わる)


①小野小町は男だった?

前回の記事、私流とんでも百人一首 8番 わが庵は 『喜撰法師は紀仙法師で惟喬親王?』⑧で、「小野小町とは小野宮と呼ばれた惟喬親王のことではないか」と書いた。

その理由をもう少し詳しく述べておこう。

a.小町は穴のない体であったといわれる。穴がない体とは男だということではないか。
b.古今和歌集仮名序はやけに小町が女であることを強調している。
小野小町は いにしへの衣通姫の流なり あはれなるやうにて強からず いはばよき女の悩めるところあるに似たり
強からぬは 女の歌なればなるべし

小町の実体が男であるので、逆に女を強調したのではないか。
c.古今和歌集仮名序は紀貫之が書いたと言われている。
紀貫之が著した土佐日記の出だしは「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり」だった。
紀貫之は男であるが、女であると偽って日記を書くような一筋縄ではいかない人物だった。
d.古今和歌集には、男が女の身になって詠んだ歌が数多く存在している。
e.補陀落寺の小野老衰像は骨格がしっかりしていて男性のように見える。
http://kanko.city.kyoto.lg.jp/detail.php?InforKindCode=4&ManageCode=1000200
f.小野小町は小野宮と呼ばれた惟喬親王のことではないか?
g.『古今和歌集』の女性歌人で名前に町とあるのは三国町、三条町である。
『古今和歌集目録』は三国町を紀名虎の娘で仁明天皇の更衣としている。
紀名虎の娘で仁明天皇の更衣とは紀種子のことである。
また三条町は紀名虎の娘で文徳天皇の更衣だった紀静子のことである。
三国町が紀種子とすれば、三条町=紀静子なので、三国町と三条町は姉妹だということになる。
名前に町とつくのは紀氏の女性をあらわしているようである。
紀静子は惟喬親王の母親だった。
つまり、惟喬親王は三国町の甥であり、三条町の息子なので、三国町・三条町とは一代世代が若くなる。
そういうことで小町なのではないだろうか。

詳しくはこちらのシリーズに書いたので、興味があればお読みいただけると嬉しいです。→ 小野小町は男だった?

②三重の意味があった小町の歌

花のいろは うつりにけりな いたづらに わがみよにふる ながめせしまに

この歌は縁語や掛詞を用いて二重の意味をもたせた技巧的な歌だとされている。
しかしよくよく味わってみると、この歌には二重どころか三重の意味があるではないか!

この歌の3番目の意味は・・・
私はこんなに堂々とした男らしい歌を他にしらない。

③小町の歌の一般的な解釈

まずこの歌の一般的な2つの解釈について見てみよう。

『花』は古今集の排列からすると桜だとされている。

そして『色』には赤・青・黄などの色(英語のColor)と、容色のふたつの意味がかかる。

『世にふる』は『世にあって時を経る』という意味だが『世』には男女関係という意味もある。
『ふる』は『降る』の掛詞である。
『ながめ』は『物思いにふける』という意味で、『長雨』と掛詞になっている。

このような技法を駆使しているため、この歌には二重の意味があるとされる。。

①花の色はすっかり褪せてしまったなあ。春の長い雨のせいで。
②私の容色はすっかり衰えてしまったなあ。恋の物思いにふけっている間に。

髄心院 梅

髄心院 はねずの梅

④色褪せたはねずの梅

小町の邸宅跡と伝わる,京都・,随心院にはたくさんの「はねずの梅」が植えられている。
はねずの梅は遅咲きで3月ごろに赤やピンクなどの鮮やかな花をつける。
はねずの花が満開になるころ,随心院では深草少将百夜通いをテーマにした『はねず踊り』が奉納されている。

随心院 はねずおどり

髄心院 はねず踊


また鮮やかな赤やピンクのはねずの梅の色のこともはねずといい、色褪せやすいことから『はねず』は『移る』の枕詞になっている。
花のいろは うつりにけりな いたづらに わがみよにふる ながめせしまに
この歌に詠まれた花とは、桜ではなくはねずの梅のことだと考えたほうがぴったりくる。

そうであるのに、なぜこの歌は桜の歌として古今集に取り入れられているのだろうか。

惟喬親王との世継ぎ争いに勝利して即位した惟仁親王(清和天皇)の母親は藤原明子だが、明子の父・藤原良房が次のような歌を詠んでいる。

染殿の后のおまへに花瓶(はながめ)に桜の花をささせたまへるを見てよめる
(染殿の后の前の花瓶に桜の花をいけてあるのを見て詠んだ。)

年ふれば 齢(よはひ)は老いぬ しかはあれど 花をし見れば 物思ひもなし
(年を重ねたので齢は老いたが、美しい桜の花を見れば、悩みなどありはしない。)


染殿の后とは良房の娘の明子のことである。
桜の花のように美しい娘の明子は文徳天皇の后となって惟仁親王を産み、その惟仁親王は皇太子となった。
惟仁親王が即位して清和天皇となると、良房は清和天皇の摂政となって政治の実権を握った。
娘の明子が清和天皇を産んだので良房には悩みなどなかったのである。

この歌から当時桜は栄華の象徴だと考えられていたということがわかる。

桜の花の色は淡いピンク色である。
一方はねずの梅は鮮やかなピンク色をしている。
その鮮やかなピンク色のはねずの梅の花の色が長雨のために色が落ち、淡いピンク色の桜になったということで桜の歌として取り上げられたのではないかと思う。

髄心院 八重桜

髄心院 八重桜

⑤ぎなた読み

言葉遊びのひとつに『ぎなた読み』というのがある。
『弁慶が なぎなたを もって』と読むべきところを『弁慶がな、ぎなたを持って』などのように、区切りを誤って読むことをいう。
宮沢賢治の『どんぐりと山猫』という物語に『たくさんの白いきのこが、どってこどってこどってこと、変な楽隊をやっていました。』という文章がある。
正しくは『どってこ どってこ どってこと』と読むのだが、それを私の友人は『どって こどって こどって こと』と読んだ。
これなども『ぎなた読み』だといえるだろう。
『ぎなた』や『こどって』という言葉はないが、小野小町はぎなた読みをしても意味が通じるように歌を詠んでいるところがすごい。

もう一度小町の歌を鑑賞してみよう。
花のいろは うつりにけりな いたづらに わがみよにふる ながめせしまに
『わがみよにふる』は『我が身 世に ふる』と読むが、ぎなた読みで『わが みよに ふる(我が御代にふる)』と読めるではないか。(御代という言葉がいつから使われていたのかが気になるが、調べてみたがわからなかった。ご存じの方がいれば教えてください~)

『御代』とは『天皇の治世』、『我が御代に』とは『私の治世に』という意味である。

惟喬親王は自分とは一字違いの異母弟、惟仁親王(後の清和天皇)との世継ぎ争いに敗れて小野の里に隠棲し、渚の院(現在の枚方市)などで歌会を開いている。
その歌会のメンバーの中に六歌仙の遍照、在原業平、喜撰法師(紀有常)らの名前がある。
また文屋康秀は小野小町に「三河に一緒に行きませんか」と誘っている。
小野小町が小野宮と呼ばれた惟喬親王のことであるとするならば、文屋康秀は惟喬親王と交流があったということで彼もまたクーデターのメンバーであった可能性がある。
クーデターに成功した暁には惟喬親王は即位して天皇になるつもりだったと考えれば、彼が『わが御代に』と歌を詠んだ意味が理解できる。
実際には彼らのクーデターは未遂に終わったようであるが。

高田祟史さんが和歌とは呪術であるというような意味のことをおっしゃっていたと思う。
惟喬親王の歌会とは清和天皇のバックで政権を牛耳る藤原良房や藤原基経らを呪う目的で行われていたのかもしれない。


渚の院 淡墨桜

渚の院跡 ここで惟喬親王の歌会が行われた。

⑤「ふる」の意味

『ふる』を古語辞典でひくと『降る』のほかに『触る』『旧る』『振る』という項目がある。

「触る」・・・①触る ②かかわりあう ③箸がつく ④男女が交わる
「旧る」・・・古くなる。昔と今とすっかり変わる
「振る」・・・①揺れ動く。②波や風が立つ。③震わす。④遷宮させる。⑤(男女関係などで)きらい捨てる ⑥割りあてる。

さて、『わが御代にふる』の『ふる』とはどの意味なのだろうか。
『旧る』で、『昔と今とすっかり変わる』という意味だろうか。
すると、『私の御代に世の中がすっかりかわる様子を見ることができるだろう』という意味になるだろうか。

髄心院 石楠花

小野小町の邸宅跡と伝わる髄心院 石楠花

物部神道

私は『ふる』から物部神道を思い出す。
物部神道の本山・物部神社には「布留社(ふるのやしろ)』と呼ばれる振魂(ふるたま)神法が伝わっているのだ。

物部氏の祖神・ニギハヤヒは天から十種神宝(とくさのかむだから)と天璽瑞宝十種(あまつしるしみずたからとくさ)を授かったとされる。
十種神宝とは、奥津鏡(おきつかがみ)、辺津鏡(へつかがみ)、八握剣(やつかのつるぎ)、生玉(いくたま)、死反玉(まかるかへしのたま)、足玉(たるたま)、道反玉(ちかえしのたま)、蛇比礼(おのちのひれ)、蜂比礼(はちのひれ)、品々物比礼(くさぐさのもののひれ)のことをいう。

天璽瑞宝十種は、この十種神宝を用いて行う鎮魂の神法のことである。
「一ニ三四五六七八九十 不瑠部由良由良不瑠部(ひふみよいむなやこたり、ふるべふるべゆらゆらふるべ)」と唱え、死者を生き返らせる秘法であるという。

『ふるべ』は瑞宝を振り動かすこと、『ゆらゆら』は玉の鳴り響く音とされる。
『わがみよにふる』の『ふる』は物部神道の『ふる』と関係があるのではないだろうか。
すると『わがみよにふるながめせしまに』とは『私の御代に(死者を生き返らせるために)十種の神宝を振り動かす光景を見ることだろう。』というような意味なのかもしれない。

⑧惟喬親王は生き返る?

ここで前回の記事を思い出してほしい。私流トンデモ百人一首 8番 わが庵は『喜撰法師は紀仙法師で惟喬親王のことだった?』 
この記事の中で、私は喜撰法師は紀仙法師で紀氏の地の濃い惟喬親王のことではないか、と書いた。
私は小野小町の正体も小野宮=惟喬親王のことだと考えている。
つまり、喜撰法師(紀仙法師)=小野小町=惟喬親王(小野宮)と推理しているわけである。

高田祟史さんの指摘によれば、喜撰法師の歌は次のように変化する。

わが庵は 都のたつ しかぞすむ 

わが庵は 都のたつ 鹿ぞすむ 

わが庵は 都のたつ ろくぞすむ ※鹿は音読みでは「ロク」

わた庵は 都のたつ弥勒ぞすむ

弥勒菩薩とは56億7000万年後に現れるとされる菩薩で、即身仏になるべく入定した人の目的は、56億7000万年後の弥勒菩薩の聖業に参加するためだったと聞いたことがある。

昔の人々は魂が復活するためには、魂の容れ物である肉体が必要であると考えていたのではないだろうか。

そして喜撰洞は喜撰法師=紀仙法師=惟喬親王が入定した場所だと私は考えた。
紀氏の人々は惟喬親王がいつか生き返る、復活すると考えていたことだろう。

やはり惟喬親王と考えられる小野小町が「わが御代にふる」と歌を詠んでいるのは、「私はいつか復活してこの世の中をおさめる天皇になる」という意味だったりして?

小倉百人一首の8番喜撰法師と9番小野小町の歌はセットになっていると思う。


天(雨)の下

小野小町が雨乞いの際に詠んだといわれる歌がある。

ことわりや 日の本ならば 照りもせめ さりとては 又天が下とは
(道理であるなあ、この国を日本と呼ぶならば、日が照りもするだろう、しかしそうは言っても、又、天(雨)の下とも言うではないか。だから、雨を降らせてください。)

この歌の中で小町は天と雨をかけている。

花のいろは うつりにけりな いたづらに わがみよにふる ながめせしまに 
こちらの歌には「ながめせしまに」とあるが、これは「眺めせしまに」と「長雨せしまに」というふたつの意味をかけているとされる。
もしかして「長雨」の「雨」は「天」の掛詞になっているのではないだろうか?

そしてgoo辞書を調べてみると、次のように記されている。

くだ・る【下る/降る】
http://dictionary.goo.ne.jp/jn/61845/meaning/m0u/より引用
初めて知ったが、降るは「くだる」とも読むのだ。

「わがみよにふるながめせしまに」は「わが御代に降る長雨せしまに」→「わが御代に下る長天せしまに」と変化するということだ。
そうすることによって「下る長天」で、「長い天下」という言葉を導いているように思える。

はねずの梅は長雨で色が褪せて栄華の象徴である桜となった。
私が天皇となって長い天下をおさめるときがきた。
昔と今はすっかり変わる。(死んだ私が生き返る?)
そんな眺めを私は見るのである。


こんなに男らしい堂々とした歌を詠めるのは、惟喬親王以外いない。

小野小町像 
髄心院の歌碑に描かれた小野小町像
 



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私流トンデモ百人一首 8番 わが庵は『喜撰法師は紀仙法師で惟喬親王のことだった?』 

※fc2ブログの不具合がなおったようですので、gooブログに書いた内容をこちらに転記しておきます。
読んでくださった方々にはご迷惑をおかけしました。申し訳ありませんでした。


平等院 鳳凰堂2

平等院


小倉百人一首 8番 
わが庵は 都のたつみ しかぞすむ 世をうぢ山と 人はいふなり/喜撰法師
(私の庵は都の辰巳の方角にあってしっかり住んでいるのだが、宇治山の憂しではないが、世を憂いて隠棲しているのだと人はうわさしている。)


①宇治茶

京阪宇治駅をおりて平等院のほうに向かって歩いていくと門前の店店からお茶の甘い香りが漂ってくる。
宇治と言えば宇治茶。この付近にはお茶を売る店がたくさんあるのだ。

中でも抹茶ソフトクリームを売る店が、ひときわ賑わっており、店の前のベンチで大勢の人がソフトクリームを食べている。
見ると、みな唇が緑色の粉をふいたようになっている。
一瞬、ぎょっとしたがよく見るとソフトクリームに粉末状にした抹茶がふりかけてあるのだ。

私も注文して食べてみた。友人が私の顔を見て笑ったが、友人の顔も唇が真みどりになっている。
それがおかしくて、私も笑った。

平安時代の空海が唐からお茶を持ち帰ったという。
それが真実でも、その量はわずかなものだっただろう。
やはり平安時代の空也が疫病を鎮めるために皇服茶(仏前に献じたお茶に結び昆布と梅干を入れたもの)を村上天皇や民衆に飲ませたともいう。
しかし村上天皇はお茶を飲んだかもしれないが、一般の民衆がお茶を飲んだとは思えない。
当時、お茶は大変効果なものだったからだ。

六波羅蜜寺 皇服茶

六波羅蜜寺 皇服茶

日本に喫茶の習慣を広めたのは鎌倉時代初期の栄西と言われる。
栄西は宋から茶種を持ち帰り、明恵がそれを栂ノ尾高山寺近くに植え、その後宇治にも植えた。

13世紀半ば、平等院に小松茶園・西浦茶園が造られて宇治での茶の栽培が始まった。
南北朝時代には栂ノ尾のお茶は本茶、醍醐や宇治のお茶は非茶と呼ばれていたが、しだいに宇治は一流のお茶の生産地として発展していった。

②喜撰とお茶

お茶といえば、「泰平の 眠りを覚ます 上喜撰 たった四杯で 夜も眠れず」という狂歌を思い出す人も多いのではないだろうか。

1853年のペリー来航を詠んだ歌である。
宇治茶に喜撰という銘柄があり、上等なお茶であることから上喜撰といっているのだろう。
その上喜撰に蒸気船をかけてあるのだ。
さらにお茶の成分であるカフェインには眠気をさます効果があって眠れないことと
蒸気船が四隻(実際には2隻だともいう。)やってきただけで、不安で眠れないことをかけてあるのだ。
ペリー来航後、日本は長年の鎖国をやめ、開国へと進んでいくことになる。

宇治茶の銘柄を喜撰というのは、喜撰法師の次の歌にちなむものである。

わが庵は 都の辰巳 しかぞ住む 世を宇治山と 人はいふなり
(私の庵は都の辰巳にあってこうやって住んでいる。世を憂しとして山に入った。宇治山であると人は言っているそうだ。)


またお茶のことを隠語で喜撰という。

どうやらお茶と喜撰は関係が深そうである。

霊山寺 初福茶 

霊山寺(奈良) 初福茶


③紀貫之の嘘

古今和歌集仮名序は喜撰法師について次のように記している。

ことばかすかにしてはじめをはりたしかならず。いはば秋の月を見るに、暁の雲にあへるがごとし。詠める歌、多くきこえねば、かれこれをかよはしてよく知らず。

(ことばがわずかで初め終わりがはっきりしない。いわば秋の月を見ているうちに暁の雲にあうようなものだ。詠んだ歌が多くないので、いろいろ文をかよわして調べてみたがよくわからない。)

古今和歌集仮名序を書いたのは紀貫之だといわれている。

紀貫之は土佐日記でも「男もすなる日記というものを、女もしてみむとてするなり。」と嘘をついているが
古今集仮名序でも嘘をついている。いや、とぼけたというべきか。

喜撰法師は紀仙法師で紀名虎または紀有常のことではないかとする説があるのだ。
同じ紀氏なんだから紀貫之が知らないはずはない。まったく貫之は一筋縄ではいかない男だ。

④宇治は都の辰巳

高田祟史さんが「宇治は都の辰巳ではない、都の辰だ」とおっしゃっていたように記憶している。
当時の平安宮(平安京の大内裏)は二条城付近にあった。

そして宇治の喜撰山に喜撰洞があり、洞内に喜撰法師像が祀られている。
ここが喜撰法師の棲んだ庵のあとではないかと思う。

二条城から宇治の喜撰洞の方角を確認してみると、申し訳ないが都の辰というのは厳しいのではないか。
やはり都の辰巳というのが正しいように思える。



喜撰洞の北西方向に二条城がある。平安宮は現在の二条城あたりにあった。

干支 方角

⑤「もののな」の高度なテクニック

さらに高田祟史さんは「わが庵は都の辰」できれ、「巳(み)しかぞ住む」→「みろく※鹿はろくとよむ)ぞ住む」という意味が隠されているともおっしゃっていた。
④で述べたように「わが庵は都の辰」とはいいがたいが、「わが庵は都の辰巳 しかぞ住む』の中に、「みろく」という言葉をよみとられたのは、高田祟史さんの素晴らしい発見だ。

この歌の中から「みろく」という言葉を読み取るのがむつかしいのは、ひとつは「わが庵は/都の辰巳/しかぞ住む」と「巳」と「しか」の間で文節が切れていることがある。
さらに、「しか」を漢字に変換して「鹿」とし、「鹿」を「ろく」と読むという発想はなかなか思い浮かばない。

和歌のテクニックのひとつに『もののな』がある。
もののなとは、ある事物の名称を、意味に関係なく歌の中に詠み込むものである。

たとえば「あしひきの 山たちはなれ ゆく雲の 宿り定めぬ 世にこそありけれ」という歌があるが、この歌の中に「たちばな」という言葉が読み取れる。

上の詩は「山たちはなれ」と五七五七七で構成されるひとつの文節の中に「たちばな」とあり、ひらがななので言葉を発見するのは比較的たやすい。
しかし「わが庵は都の辰巳 鹿ぞ住む』の中に「みろく」を発見するのは難しい。
高度な「もののな」のテクニックだといえるだろう。

奈良公園 鹿の親子

⑥ばれないように詠むのが大事

高田祟史さんは和歌は文学ではなく呪術だとおっしゃっているが、私は高田祟史さんのおっしゃる通りだと思う。

和歌ではないが、言葉を呪術として用いた例として
1610年、徳川家康が方広寺の鐘名「国」「君臣豊楽」に激怒したというエピソードがある。

方広寺 鐘銘 

方広寺鐘銘

「国だと?私(家康)の名前を切っているじゃないか!
「君臣豊楽子孫殷昌だと?豊臣を君として子孫の殷昌を楽しむ、という意味ではないか!
けしからんーーーー!」

こう家康は怒り、豊臣家を滅亡させてしまったのだ。

現代人はこれを家康のいちゃもんだと考えがちである。
しかし私は豊臣秀頼が本当に家康が指摘したような呪術を用いて鐘銘を刻んだ可能性があると思う。

言霊信仰という言葉を聞いたことがあると思う。
言霊信仰とは口に出した言葉は実現する力があるとする信仰のことである。

ポジティブなことを言葉にすればポジティブなことがおき、ネガティブなことを言葉にすればネガティブなことがおきるとすれば
憎い相手を言葉の力によって貶めたいと考えるのは当然のことだと思う。

この事件は言葉に呪術をこめる伝統があったことを物語ってはいないだろうか。
「国」「君臣豊楽」とはなかなかうまい呪術を考えたものだ。
しかし相手にばれてしまうと、怒りをかって豊臣家のように滅ぼされてしまう。
呪術は慎重にかけなければならないのだ。

喜撰法師の「もののな」のテクニックはすごい。
この歌に『巳鹿→みろく」と言う言葉が隠されていることに気付いた人は、1000年近い長い年月の中でも高田祟史さん以外いないのではないか。

喜撰法師の和歌は一級の呪術だといえると思う。

⑦喜撰法師は入定した?


宇治には萬福寺という寺があり、天王殿に黄金に輝く布袋像が祀られている。
布袋は弥勒菩薩の化身とされている。

萬福寺 布袋  

萬福寺 布袋像

萬福寺は1661年に創建された寺だが、宇治に弥勒菩薩というイメージがあったため、ここに弥勒菩薩の化身である布袋像が置かれているのかもしれない。

弥勒菩薩とは56億7000万年後に現れるというみほとけである。
そして、かつて即身仏を志した人の目的は56億7000万年後の弥勒菩薩の聖業に参加するためだと聞いたことがある。

ここで④で述べた喜撰洞を思い出してほしい。
喜撰法師は即身仏となるべく、喜撰洞に入定したのではないだろうか?

⑧六歌仙は藤原氏と敵対していた?

③で喜撰法師は紀仙法師で紀名虎または紀有常のことではないかとする説があると書いた。
しかし私はしだいに喜撰法師(紀仙法師)とは惟喬親王のことではないかと考えるようになった。
惟喬親王の母親は紀静子で、惟喬親王は紀氏の血の濃い親王であった。
なので、惟喬親王を紀仙法師と呼ぶことはおかしいことではない。

六歌仙(遍照・在原業平・文屋康秀・小野小町・喜撰法師・大友黒主)は全員、藤原氏と敵対関係にあった人物である。

大友黒主は大伴黒主と記されることもあり、また大友家持とほとんど同じ歌を詠んでいることなどから、大伴家持のことだと思われる。
大伴家持は藤原種次暗殺事件に関与したとして、当時すでに亡くなって埋葬されていたのだが、死体を掘り出されて流罪とされている。

小野小町とは小野宮と呼ばれた惟喬親王のことだと私は考えている。

つまり喜撰法師も小野小町も惟喬親王のことだということである。

遍照・在原業平・紀有常(惟喬親王の叔父)は惟喬親王の歌会のメンバーである。

惟喬親王は文徳天皇の第一皇子で母親は紀静子だった。
文徳天皇は惟喬親王を皇太子にしたいと考えていたのだが、当時の権力者・藤原良房を憚った源信にいさめられ、藤原良房の娘・明子との間にできた惟仁親王(のちの清和天皇)が皇太子となった。

世継ぎ争いに敗れた惟喬親王は頻繁に歌会を開いているが、この歌会のメンバー・遍照・在原業平・紀有常らは歌会と称して惟喬親王を担ぎ上げてのクーデターを計画していたのではないかとする説がある。

文屋康秀は小野小町を「三河に行きませんか」と誘っている。
小野小町=惟喬親王だと考えられるので、文屋康秀もまたクーデター計画にかかわっていた可能性がある。

惟喬親王像 

惟喬親王像 木地師の里


⑨惟喬親王と漆の関係

六歌仙の説明が終わったところで、私がなぜ喜撰法師=惟喬親王だと考えているのかについて説明しよう。

惟喬親王は京都嵐山の法輪寺に籠った際、虚空蔵菩薩から漆の製法を授かったという伝説がある。

法輪寺 ライトアップ

法輪寺

 そして、私は先ほど次のようなことを述べた。

・喜撰法師の歌に「みろく(弥勒)」が読み込まれている。
・即身仏になるべく入定した人の目的は56億7000万年後に現れるとされる弥勒菩薩の聖業に参加することだった。
・喜撰洞は喜撰法師が即身仏となるべく入定した洞窟なのではないか。

即身仏になる際には、まず木食といって五穀をたち、木の実や皮を食べる修行をする。
こうすることによって体の脂肪が減る。
さらに入定する前に漆を飲む。
漆を飲むことで、胃の中に残った食物を吐いてしまう。
また漆には防腐作用があるため、死後腐りにくい体になるというのだ。

惟喬親王が法輪寺に籠った際、虚空蔵菩薩から漆の製法を授かったという伝説は、彼が入定して即身仏になったところから創作されたのではないか?

⑧で私は「小野小町とは小野宮と呼ばれた惟喬親王のことだと考えている。」と書いた。

小野小町は老衰し骨と皮だけの姿で現されることが多い。
私は京都の補陀落寺で小町老衰像を拝んだことがあるが、痩せて骨と皮ばかりの状態ではあるが骨が曲がっているということはない。
むしろ背筋がのび、骨格もしっかりしていて骨太な印象だった。
垂れ下がった乳房もあるようには見えなかった。(着物で隠れているだけかもしれないが。)
友人もこれは女には見えないと言っていた。

小町百歳像は惟喬親王が入定して即身仏となった姿ではないだろうか。

補陀落寺(小町寺) 紅葉

補陀落寺

⑩惟喬親王と轆轤の関係

惟喬親王は巻物が転がるのを見て轆轤を発明したという伝説もあり、轆轤がろくろ首に見えるところから、惟喬親王は髑髏本尊になったのではないかとも考えた。
髑髏本尊は身分の高い人のドクロを用いて作るほど霊力があるとされ、ドクロに和合水と漆を塗り重ねてつくる。
さきほども述べたように惟喬親王が虚空蔵菩薩から漆の製法を授かったという伝説もある。

しかし小町老衰像を見ると、即身仏のように見えるので、惟喬親王は即身仏になったと考えたほうがいいかもしれない。
その場合、伝説が生じた経緯は次のようなものであると考えられるかもしれない。

木地師資料館 惟喬親王像  

木地師資料館の惟喬親王像
下の女性と男性が轆轤を使って器を作っている。


惟喬親王は漆を飲んで入定した。
  ↓
惟喬親王が虚空蔵菩薩より漆の製法を授かったという伝説が創作される。
  ↓
漆は木地師が用いる茶碗に塗る。
  ↓
惟喬親王、木地師の祖とされる。
  ↓
惟喬親王、轆轤を発明したという伝説が創作される。

即身仏になるため入定する際、漆を飲むのだが、「漆のお茶を飲む」と記されたサイトもあった。
漆の木に傷をつけると樹液がでてくる。これに顔料を加えて色をつけ、漆器などに塗り重ねるのだが
もともとの漆の樹液は乳白色である。
しかし、すぐに酸化して茶色くなる。その色はほうじ茶のような色である。

戦国武将たちは茶の湯をたしなんだが、それは茶の湯に入定する際に飲む漆のイメージがあったからかもしれない。
 

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しばらくの間、gooブログで記事を書きます。 

現在不具合が生じてfc2ブログに書き込みにくい状態となっていますので
しばらく下記のgooブログに記事を書きます。
よろしくお願いします。

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追記/2019年2月20日に不具合が解消しましたので、ひきつづきfc2ブログで記事を書く予定です。

gooブログの記事はfc2ブログに転記しました。お騒がせしてすいません!



[2019/02/19 18:16] 未分類 | TB(0) | CM(0)

私流 トンデモ百人一首7番 天の原 ふりさけ見れば 春日なる 『阿部仲麻呂と光明皇后のスキャンダル?』 

小倉百人一首 7番

あまの原 ふりさけ見れば 春日なる みかさの山に いでし月かも/ 阿部仲麻呂

(夜空を仰ぎ見ると月が出ていた。奈良の都で三笠の山から上る月と同じ月なのだなあ。)


浮見堂より三笠山を望む

浮見堂 三笠山 百日紅
向かって右の濃い緑色に見える山が三笠山


①阿部仲麻呂、帰京の喜びを詠む。

717年、第9次遣唐使が派遣されることになり、遣唐使に選ばれた人々は春日大社の背後にある三笠山(御蓋山)の麓で航海の無事を神に祈り、唐へ向かって出発した。
三笠山は遣唐使として出立する人々が航海の安全を祈る場所だったのである。
遣唐使の中には阿倍仲麻呂・吉備真備・玄昉らがいた。

735年、吉備真備・玄昉らは帰国したが、阿倍仲麻呂は唐で役人になって帰ってこなかった。

752年、孝謙天皇(光明皇后の娘)は第12次遣唐使を派遣し、次のような歌を詠んだ。

四つの船 早帰り来と しらかつく 我が裳の裾に 鎮ひて待たむ
(四隻の船よ、早く帰ってくるように。しらかをつけたこの我が裳の裾に祈りをこめて待っています。)

※しらか/麻やこうぞを細く裂いて幣帛としたもの

また、孝謙天皇の母親の光明皇太后(光明皇后)も入唐大使・藤原朝臣清川に次のような歌を贈っている。

大船に 真楫しじ貫き この吾子を 唐国へ遣る 斎へ神たち
(大きな船にたくさんの櫂を取り付けて、わが子を唐へ遣わします。神々よ、護り給え。)


※藤原清川は光明皇太后の甥で子ではない。
光明皇太后は国家の皇太后という立場からが清河を『この吾子』と表現したと考えられている。

遣唐使たちを乗せた船は無事唐へ到着し、翌753年、阿倍仲麻呂は藤原清川の船に乗って日本に帰ることになった。
日本に帰国する前日、唐の役人たちは仲麻呂との別れを惜しんで宴を開いた。
その席で仲麻呂が詠んだのが、次の歌である。

あまの原 ふりさけ見れば 春日なる みかさの山に いでし月かも
(夜空を仰ぎ見ると月が出ていた。奈良の都で三笠の山から上る月と同じ月なのだなあ。)


ところが、仲麻呂が乗った船は暴風雨に会って長安に戻り、仲麻呂は日本に帰れないまま、唐で没した。

奈良瑠璃会 遣唐使船

②暗闇を照らす光、光明は月?

阿部仲麻呂が詠んだ「三笠の山」は「遣唐使として出立する人々が航海の安全を祈る場所」であり、その場所で孝謙天皇と光明皇太后が遣唐使船の無事の帰国を願う歌を詠んでいることに注意してほしい。

孝謙天皇と光明皇太后が詠んだ遣唐使船の無事の帰国を願う歌と、阿部仲麻呂が詠んだ「天の原・・・・」の歌は対応しているのではないか?

「暗闇を照らす光」のことを光明という。
暗闇を照らす光とは月のことで、阿倍仲麻呂の歌にある「月」とは光明皇太后のことではないだろうか。

阿倍仲麻呂が唐へ行った翌年、光明皇后(光明皇太后)が聖武天皇の皇女・阿倍内親王(孝謙天皇)を出産しているのが気になる。

浮見堂 ライトアップ

③孝謙天皇は阿部氏と関係が深い?

孝謙天皇は阿倍内親王という名前であったが、この名前は阿倍氏と関係の深い人物であったところからつけられたのではないだろうか。

『東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)』には、孝謙天皇(称徳天皇)は蝦夷の安倍一族の出身であり、あるとき朝廷軍は蝦夷軍に大敗し、それによって蝦夷の安倍氏の血を引く彼女が次期天皇になると取り決められたと記されている。

正史では孝謙天皇は聖武天皇の皇女で母親は光明皇后(=光明皇太后)となっているが。

東日流外三郡誌は後世に作られた偽書とされているが、気になる記述である。
正史は為政者の都合のいいように書き換えられている可能性もある。

阿倍仲麻呂は安倍仲麿とも記される。
阿倍内親王は聖武天皇の皇女とされているが、本当の父親は阿倍仲麻呂なのではないか?
第12次遣唐使は阿部仲麻呂を日本に帰国させる目的で派遣されたのではないか。
孝謙天皇(阿部内親王)と光明皇太后は父または愛しい男を迎える喜びをこめて①の歌を詠んだように思えてならない。

だとすると阿倍仲麻呂が唐にとどまって日本に帰ってこなかったのは、聖武天皇の妻である光明皇太后を孕ませてしまったためではないか、などと考えてしまう。
遣唐使派遣は体のいい流罪だったのではないかということである。
阿倍内親王が生まれたのは阿倍仲麻呂が唐へ旅立った翌年なので、時期的にもあう。

④孝謙上皇(淳仁天皇に譲位していた。)は藤原仲麻呂の新羅の討伐に反対したのはなぜ?

758年ごろ、孝謙上皇(淳仁天皇に譲位していた。)は藤原仲麻呂の新羅の討伐に反対し、これによって新羅討伐は実現しなかった。
孝謙上皇が新羅討伐に反対したのは、まだ帰国しない父・阿倍仲麻呂の身を案じたためではないだろうか。

春日大社 萬灯篭2
春日大社 萬灯篭  春日大社の背後に三笠山はある。


717年 第9次遣唐使が派遣される。
    阿倍仲麻呂・吉備真備・玄昉ら、三笠山の麓で航海の無事を祈って唐へ出発。
718年 阿倍内親王誕生(父/聖武天皇、母/光明皇后・・・ということになっている。)
735年 吉備真備・玄昉らは帰国。阿倍仲麻呂は唐で役人になって戻らず。
749年 阿倍内親王、即位して孝謙天皇となる。
752年 孝謙天皇(阿部内親王)は第12次遣唐使を派遣。「早く帰ってくるように」と歌を詠む。
    光明皇太后も「神よ、遣唐使船をお守りください」と歌を詠む。
    阿部仲麻呂、帰国にあたり三笠山に出る月を懐かしむ歌を詠む。
    帰国する遣唐使船に乗船するが暴風雨にあって日本にもどれず。
758年 孝謙天皇、淳仁天皇に譲位。
    孝謙上皇、藤原仲麻呂の新羅征伐に反対。実現せず。
770年 阿倍仲麻呂、ベトナムで死亡。





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私流 トンデモ百人一首 1番 秋の田の  『埋葬されないわが身を嘆く歌』 

近江神宮 かるた祭
近江神宮 かるた祭
近江神宮では天命開別大神(あめみことひらかすわけのおおかみ=天智天皇)を祀っています。


小倉百人一首1番 
秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ/天智天皇
(秋の田の仮小屋の屋根の苫(むしろ)が荒いので、私の衣のそでは梅雨に濡れてしまったことだ。)


①「秋の田の・・・・・」は天智天皇が詠んだ歌ではなかった。

天智天皇は飛鳥時代の人物で、万葉集に4首の歌が残されている。
しかし「秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 梅雨にぬれつつ」という歌は万葉集にはない。
この歌は958年ごろに成立した後撰和歌集の中に天智天皇御製として掲載されている。

万葉集には「秋田刈る 仮庵を作り わが居れば 衣手寒く 露そ置きにける」という読人知らずの歌が掲載されており
その内容から農民が詠んだ歌だと考えられている。

「秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 梅雨にぬれつつ」という歌は「秋田刈る 仮庵を作り わが居れば 衣手寒く 露そ置きにける」を改作したものであり、
実際に天智天皇が詠んだ歌ではないが、天智天皇の心を表す歌であるとして、撰者たちが天智天皇御作として後撰集に掲載したものと考えられている。

近江神宮 紅葉
近江神宮

②天智天皇が農民の気持ちになってそのつらさを詠んだ?

なぜ「秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 梅雨にぬれつつ」という歌は、天智天皇の心を表す歌であると考えられてたのだろうか?

一般には次のように考えられている。
心優しい天智天皇が、農民の気持ちになってそのつらさを読んだと考えるにふさわしい歌であるためだと。

枚方市 穗谷 稲


③埋葬されないわが身を嘆く歌

私の考えはこれとは違う。
「秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 梅雨にぬれつつ」
後撰和歌集の撰者たちはこの歌を「死んだ天智天皇の霊が、埋葬されないわが身を嘆く歌」であると考えたのではないかと思うのだ。

672年、天智天皇が崩御したあとすぐに、壬申の乱がおこった。
天智天皇の皇子・大友皇子と、天智天皇の同母弟・7大海人皇子が皇位をめぐって争ったのである。
そのため、天智天皇の死体は長い間埋葬されず、放置されていたと考えられている。
『続日本紀』に天智陵が造営されたと記されているのは、天智天皇が崩御してから28年たった699年である。

④風葬の際にたてる庵(いおり)

古事記に、大国主神が国譲りして、「八十青柴垣(ヤソクマデ)に隠りましき」とある。
これは大国主神が風葬された様子を記したもので、古には柴を沢山立てた中に死体を葬る風葬の習慣があったと考えられている。
柴を立てた八十青柴垣はとまが粗いだろう。

万葉集に次のような歌がある。

荒磯面に いほりてみれば 波の音の 繁き浜辺を しきたえの 枕になして 荒床に 自伏す君が(柿本人麻呂)
(荒磯の上に仮小屋を作ってみると、波の音が頻繁に聞こえる浜辺を枕として荒々しい岩の床に伏している人がいる)


荒床とは、風葬するときに死体の下に敷くむしろのことである。
「荒磯の上につくったいほり(仮小屋)」とは風葬するときに死体を安置する建物のことなのではないだろうか。
すると、「秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 梅雨にぬれつつ」の中にでてくる、「とまが粗くて袖が濡れてしまう庵」もまた風葬の際につくられた仮小屋を表しているように思える。

天智天皇の時代、天皇は一定期間、殯宮に安置されるのが一般的だった。
でも壬申の乱がおこったために、天智天皇には殯宮さえ作られなかったのかもしれない。

石清水八幡宮 青山祭

石清水八幡宮 青山祭 風葬のようすをあらわしたものであるともいわれている。

②天智天皇は謀反人の父親

その後、壬申の乱では天智天皇の弟の天武天皇が勝利し、天智天皇の皇子・大友皇子は自害した。
つまり大友皇子は謀反人なのである。
そして天智天皇は謀反人・大友皇子の父親である。

③天智天皇は謀反人の父親なので埋葬が許されなかった?

中国では滅んだ王朝の王の墓は暴かれたという。
百田尚樹さんは「日本では墓を暴いたりはしていない、中国人は野蛮だ」とおっしゃっていた。
しかし私は日本でも墓を暴くようなことをしていたと思う。

大伴家持は藤原種継暗殺事件に関与したとして、当時すでになくなって1か月が経過していたにも関わらず、死体が流罪にされているのだ。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%BC%B4%E5%AE%B6%E6%8C%81#経歴

上記ウィキペディアによると「(大伴家持は)埋葬が許されず」と書いてあるが、いくつかの本では「家持は死体が墓から掘り出された」と書いてあった。

天智天皇も謀反人の父ということで、埋葬が許されなかった可能性がある。

④「案山子=崩え彦=山田のそほど」に重なる天智天皇のイメージ

秋の田には米を鳥害から守るために案山子が置かれる。
記紀神話に登場する久延毘古(くえびこ)という神様は案山子の神だとされる。

古事記では「久延毘古とは"山田のそほど"のことである」と記されている。
「そほど」とは「ぐっしょり濡れる」という意味である。

秋の田のかりほの庵で動くことができず(案山子は歩くことができない)、雨にぐっしょり濡れているのは案山子である。
万葉集にある「秋田刈る 仮庵を作り わが居れば 衣手寒く 露そ置きにける」という歌は、案山子を詠んだ歌であるのかもしれない。

「クエビコ」は「崩え彦」で、体が崩れた男という意味である。
体が崩れているのは、死んで体が腐っているからではないか?

そういえばやいかがしといって、節分の夜、鰯の頭などを焼いて戸口に刺しておく風習がある。
その生臭い臭いで疫神を追い払うことができるという信仰によるものである。

やいかがしとかかしは似ている。

案山子の語源は「嗅がし」ではないかとする説がある。
かつて鳥獣よけになるとして、獣の肉を焼いたものを串刺しにして立てておくとことがあったそうで、そういうものも「カカシ」と呼ばれていたのだという。

天智天皇は何年も埋葬されず死体が放置されていた可能性が高い。
天智天皇の死体は腐り、うじがたかるような状態になっていたかもしれない。
それはまさしく『崩え彦』そのものである。

つまり
「秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 梅雨にぬれつつ」
この歌の「かりほの庵」とは風葬するときに死体を安置する粗末な建物であり、あまりに粗末であるため雨漏りがして死体がぐっしょりと濡れてしまい、「崩え彦」のような状態になっている。
それを死んだ天智天皇の霊が嘆いている歌であると後撰集の撰者たちは考えたのではないだろうか。

石上神宮付近の案山子

⑤埋葬のされ方を嘆く父娘

前回、私は持統天皇の『春すぎて 夏きにけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香久山』は『火葬されたわが身を嘆く歌ではないか、と述べた。
私流 トンデモ百人一首 2番 春すぎて 夏きにけらし 白妙の 『火葬されたわが身を嘆く歌』

持統天皇(小倉百人一首2番)は天智天皇(小倉百人一首1番)の皇女である。
つまり、天智天皇が父親で、持統天皇が娘なのである。
この親子関係のある二人が、ともに死を嘆く歌を詠んでいるというのも興味深い。




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