陰陽 黒と白⑱ 勝尾寺には白山信仰があった?

①海上皇子と開成皇子
前田速男さんの「白山信仰の謎と被差別部落」という本に興味深いことが書いてあった。
静岡県磐田市の白山神社には次のような伝説が残されているそうである。
①桓武天皇の第四皇子の海上皇子(戒成皇子)は従者とともにこの地にやってきて、地元の人々の食べ物を乞うようになった。
その原因は、飼っていた雀が戸から飛び出し南殿の白砂にとまったのを追って、裸足で大地を踏んだので鬼神の怒りにふれ、ハンセン病になったためである。
勝尾寺の創建説話には光仁天皇の皇子・開成皇子が登場する。
勝尾寺は727年に双子の兄弟、善仲と善算(藤原致房の子)がここに草庵を築いたのを始まりとし
765年に開成(光仁天皇の皇子・桓武天皇の異母兄)が善仲、善算に弟子入りした。
というのである。
前田速男さんはこの開成皇子と海上皇子には関係があるのではないかと指摘されている。

②春日王と春日宮天皇(志貴皇子)は同一人物?
奈良の奈良豆比古神社には志貴皇子の子の春日王がハンセン病を患ったという伝説があった。
ところが地元ではハンセン病を患ったのは志貴皇子であるという語りが伝承されている。
また、春日王は田原皇子、志貴皇子は春日宮天皇または田原天皇とも呼ばれており、ふたりは同じ名前で呼ばれていたということになる。
皇室において父子が同じ名前で呼ばれていたというケースはないと思う。
このことから、私は春日王と志貴皇子は同一人物ではないかと考えた。
参照/陰陽 黒と白⑮ 奈良豆比古神社 翁舞

③海上皇子と開成皇子は同一人物?
海上皇子は桓武天皇の第四皇子、開成皇子は光仁天皇の皇子、というが
桓武天皇は光仁天皇の皇子なので、開成皇子と桓武天皇は兄弟、開成皇子と海上皇子は伯父・甥の関係ということになる。
志貴皇子と春日王の例もあるように、開成皇子と海上皇子は同一人物ではないだろうか?
志貴皇子は施基皇子、志紀皇子とも書く。
古には音が同じであれば、さまざまな字をあてて名前を表記していたのかもしれない。

④志貴皇子の子に海上女王または海上王の名前が!
光仁天皇は志貴皇子の皇子である。
志貴皇子ー光仁天皇ー桓武天皇と血筋がつながっている。
そして志貴皇子の子には光仁天皇・春日王のほか、海上女王または海上王の名前がある。
つまり、志貴皇子・光仁天皇・桓武天皇の3代にわたり、それぞれ海上または開成という名の子があったということになる。
しかも血のつながりのある志貴皇子・海上(開成)皇子がいずれもハンセン病をっ患ったという伝説が残されているのだ。

⑤後醍醐天皇の第3皇子・開成皇子
また前田速男さんの「白山信仰の謎と被差別部落」によると、愛知県新城市の白山神社には後醍醐天皇の第3皇子・開成皇子についての、次のような文書が残されているそうである。
②御殿において白雀を飼はせらる
まさに餌をやらんとすれば飛び放る
再び捕へんとして穢れし大地を踏まる
悪病にかかりて殿を出で
漂泊 旅して東原に至る
これは内容が①の伝説とまったく同じである。
名前は開成皇子となっていて、勝尾寺の創建にかかわった開成皇子と同名だ。
②の文書は①の伝説をもとにしてつくられたもので、開成皇子を後醍醐天皇の子と変えたのかもしれない。
それとも「ポーの一族」のエドガーやメリーベル(彼らは吸血鬼で年をとらず何百年もの時を生きている。)のように、開成皇子は時を超えて存在しているとか?

⑥勝尾寺には白山信仰があった?
①の海上皇子、②の開成皇子はどちらも白山神社に伝わるもので、勝尾寺の創建は開成皇子とされている。
同様に開成皇子の伝説が残る勝尾寺には白山信仰があったのではないだろうか。
勝尾寺の三宝荒神社には、1677年、旗本菅沼隠越中守の娘がこの荒神さまに祈願したところ、白髪が黒髪になったという伝説がある。
参照/陰陽 黒と白 ⑰ 白髪が黒髪になった娘
私は、白髪の娘は白山の神をイメージしたものではないかと思う。
また、白髪だったのは菅沼隠越中守の娘というが、越中とは富山県のことである。
富山県五箇村には菅沼集落があり、菅沼隠越中守はこの菅沼集落と関係の深い人物ではないかと思ったりするのだが
五箇村は古より白山信仰が根付いていた地域だった。

五箇村菅沼集落
陰陽 黒と白 ⑲白髪が黒髪になった娘と白山信仰 へつづく~
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