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陰陽 黒と白⑮ 奈良豆比古神社 翁舞


陰陽 黒と白 ⑭ 能・翁 黒式尉の黒という漢字を分解すると?  よりつづきます~

北山十八間戸

※北山十八間戸に霊山寺(奈良市中町3879)境内の文殊菩薩像を合成。


陰陽 黒と白 ⑭ 能・翁 黒式尉の黒という漢字を分解すると? よりつづきます~


①非人とハンセン病患者

なだらかな登り坂が続く奈良坂。
呼吸の乱れを整えるために立ち止まり、振り返ると坂の下に興福寺の五重塔が見えていた。
大きく深呼吸をしてから再び歩き始める。
しばらくすると柵で囲われた細長い長屋が見えてきた。
長屋の裏に回ってみると18個の裏戸があり、そのひとつひとつに「北山十八間戸」と文字が刻まれていた。
柵の中に入って見学したいと思ったが、出入口には鍵がかけられていた。

見学することはできないのだろうか?

思い切って長屋の隣にあるお好み焼き屋さんに尋ねてみた。
「あのう、北山十八間戸を見学したいんですが、どうしたらいいんでしょうか?」

するとおかみさんが
「はいはい、今鍵をあけますね。ちょっと待っててくださいね」
と言い、ぽんと好み焼きをひっくり返した。
どうやらこのお好み焼き屋さんが北山十八間戸を管理されているようである。

おかみさんはすぐに出てきて柵の鍵をあけてくださった。
そして次のように説明していただいた。

「ここは鎌倉時代、ハンセン病患者を救済するための福祉施設だったところです。
奈良時代に光明皇后が建てたとも、鎌倉時代に僧の忍性さんによって建てられましたともいわれています。
ここからもうちょっと北に行ったところに般若寺さんがあるんですが、もともとはその般若寺さんの北東にあったそうです。
1567年に戦災で焼けまして、1660年から1670年ごろにここに移りました。
2畳くらいの部屋が17つ、4畳くらいの部屋がひとつで、合計18つの部屋があります。
4畳くらいの部屋は仏間です。
1万8千人のハンセン病患者が利用したと言われてるんですよ。」

北山十八間戸がいつ誰によって建てられたものなのかについては、おかみさんが説明してくださったように2つの説があってはっきりしない。
しかし、なぜ奈良坂にハンセン病患者のための療養施設が作られたのかについてははっきりしている。
それは奈良坂が非人が住む町であったためである。

非人というと江戸時代に制定された身分制度を思い出すが、関西では中世より非人と呼ばれる人々がおり、多くは坂の町に住んでいた。
非人たちは寺社に隷属し、寺社の清掃、祭りの警備、死体の処理、神事などに携わっていた。

ここ奈良坂の非人たちは興福寺に隷属する民だった。

非人たちは非人宿(夙)に住み、病人の看護にも携わっていた。
奈良坂に北山十八間戸が作られたのは、ここに非人宿があったからだろう。
または北山十八間戸が先にあって、病人を看護するために非人宿が作られたのかもしれない。
いずれにせよ、北山十八間戸と非人に密接な関係があったことは事実である。

興福寺 夕景

荒池より興福寺を望む


②ハンセン病患者は文殊菩薩の化身

北山十八間戸からさらに奈良坂を上っていくと般若寺がある。
境内にはコスモスが咲き乱れ、その中にうずもれるようにして本堂があった。
本堂の厨子の中には、少年のような表情をした獅子にのる文殊菩薩像が安置されていた。

般若寺は629年高句麗の僧・慧灌(えかん)によって創建された。
735年聖武天皇が伽藍を建立し、十三重石塔を建てて天皇自筆の大般若経を安置したといわれる。文殊菩薩の巨像を御本尊としていたが1490年に焼失した。
現在の文殊菩薩像は1324年に慶派仏師・康俊が刻んだもので、もともとは経像の本尊で秘仏だった。
本堂の御本尊が焼けてしまったのでかわりに本尊にしたという。

文殊菩薩は『智慧の菩薩』と言われている。
仏教の修行の結果として得られたさとりの智慧のことを般若という。
般若寺という寺名は文殊菩薩を祀っているところからくるのだろう。

能に用いる般若の面は『嫉妬や恨みの篭る女の顔』を表したもので、角が生えた恐ろしい形相をしている。
なので、鬼のことを般若というのだとずっと思っていたが、それは間違いだったのである。

般若坊という僧侶が面を作ったので般若面と呼ばれるのだとか、
『源氏物語』の葵の上が六条御息所の生霊にとりつかれた時、般若経を読んで怨霊を退治したところからそう呼ばれるようになったなどと言われている。

さきほど見学してきた北山十八間戸は、ハンセン病患者を救済するための福祉施設であったが、ハンセン病患者は文殊菩薩の化身であると考えられていた。

宿の町・奈良坂にある般若寺の御本尊が文殊菩薩なのはこのためだろう。
般若寺はハンセン病患者の霊を弔うための寺なのだろうか。
いや、無名のハンセン病患者の霊を弔う寺だとは考えられない。
735年聖武天皇が伽藍を建立し、十三重石塔を建てたということは、それなりの身分で、ハンセン病を患った人がおり、その人物を弔うための寺であったのではないだろうか。

聖武天皇と同時代で、それなりの身分でハンセン病を患った人物がいる。
春日王だ。

般若寺 十三重石塔 コスモス


③能・翁

般若寺前の植村牧場さんでソフトクリームを買う。
植村牧場さんのソフトクリームはミルクの味が濃くてとてもおいしいので、般若寺にくるたび食べるのを楽しみにしている。
私はソフトクリームを食べながらさらに坂を上って奈良豆比古神社へとむかった。
この日は10月8日、奈良豆比古神社で伝統行事の翁舞の奉納がある日だった。

日が暮れると舞殿前の篝火に火が入れられ、翁舞が始まった。

奈良豆比古神社は古来芸能の神として信仰が厚く、歴代の能楽師も数多く参拝したという。
一説によれば、奈良豆比古神社の翁舞は能・翁のルーツでもあるという。

私は舞殿に燃やされた篝火を見つめながら、八坂神社の能・翁を見にいったことを思い出していた。
陰陽 黒と白 ⑭ 能・翁 黒式尉の黒という漢字を分解すると? 

私は能・翁を見て、次のように考えたのだった。

a.陰陽道の陽は白、陰は黒で表される。白式尉は陽(白)の神・黒式尉は陰(黒)の神である。

b.六歌仙(遍照・在原業平・小野小町・文屋康秀・大友黒主・喜撰法師)の小野小町は白い神(陽)、大伴黒主は黒い神(陰)である。

c.小野小町が白い神である理由。
小野小町は在原業平に「九十九髪」と歌を詠まれている。→百引く一は白 ∴九十九髪=白髪
小野小町=小野宮=惟喬親王ではないかと思う。
惟喬親王は虚空蔵菩薩より漆の製法を授けられたという伝説があるが、即身仏になるべく入定する際に漆を飲んだ。
惟喬親王は漆を飲んで即身仏となったため、このような伝説ができたのではないか。
また古の人は腐らない体を生きていると考えたのではないか。生は陰陽道では陽(白)である。

d.大友黒主が黒い神である理由。名前に黒の文字がある。
大友黒主=大伴家持ではないかと思う。なぜかというとほとんど同じといってよい歌を詠んでいるからだ。
大伴家持は藤原種継暗殺事件に関与したとして、すでに死んでいたのだが死体が掘り出されて流罪となった。
その体は腐っていたことだろう。古の人は腐った死体を生きていない(死)と考えたのではないか。死は陰陽道では陰(黒)である。

e.黒という字を分解すると、田+土+、、、、である。、、、、は種まきのように見えなくもない。それで翁の黒式尉は種まきの所作をするのではないか。
また祇園祭黒主山の黒は下の写真のような字が用いられている。

黒主山 宵山

これを分解すると田+夫「」となるが、古今集真名は大友黒主(=大伴家持)にたいして、「田夫の 花の前に息めるがごとし」といっている。

奈良豆比古神社 翁舞 千歳
④奈良豆比古神社 翁舞

篝火がたかれる中、小鼓の音と「いーやー、あいやー、おんはー」という掛け声が続く。
少年が扮する千歳が舞を舞ったのち、三人の大夫が舞台上で翁の面をつけた。
なんと、奈良豆比古神社の翁舞の白式尉は一人ではなく三人なのである。

奈良豆比古神社 翁舞 白式尉2

奈良豆比古神社 翁舞 白式尉

奈良豆比古神社 翁舞 三人翁

三人翁が退出したのち、三番叟が登場した。
三番叟は舞を舞ったのち、舞台上で黒い翁の面をつけ、鈴を持ってさらに舞った。

奈良豆比古神社 翁舞 黒式尉2

千歳・三人翁の舞はゆったりしたスローテンポの舞だが、三番叟の舞は激しい。
田植えをする所作のようにも見えた。

奈良豆比古神社 翁舞 黒式尉

⑤二つの伝説

奈良豆比古神社でもらったパンフレットには次のような内容が記されていた。

天智天皇の孫、志貴皇子の第二皇子の春日王がハンセン病を患ってここ奈良坂の庵で療養した。
春日王の二人の子・浄人王と安貴王という二人の子供があって、この兄弟が熱心に春日王の看病した。
兄の浄人王は春日大社で神楽を舞って父の病気平癒を祈った。
そのかいあって春日王の病気は快方に向かった。
浄人王は弓をつくり、安貴王は草花を摘み、これらを市場で売って生計をたてた。
都の人々は兄弟のことを夙冠者黒人と呼んだ。
桓武天皇は兄弟の孝行を褒め称え、浄人王に『弓削首夙人(ゆげのおびとしゅくうど)』の名と位を与えて、奈良坂の春日宮の神主とした。


後日、図書館で『別冊太陽・梅原猛の世界(平凡社)』という雑誌を借りて読んだ。
その中に奈良豆比古神社の翁舞についての記事があり、地元の語り部・松岡嘉平さんが次のような語りを伝承していると書いてあった。

志貴皇子は限りなく天皇に近い方だった。
それで神に祈るときにも左大臣・右大臣がつきそった。
赤い衣装は天皇の印である。
志貴皇子は毎日神に祈った。するとぽろりと面がとれた。
その瞬間、皇子は元通りの美しい顔となり、病は面に移っていた。
志貴皇子がつけていたのは翁の面であった。
左大臣・右大臣も神に直接対面するのは恐れ多いと翁の面をつけていた。
志貴皇子は病がなおったお礼に再び翁の面をつけて舞を舞った。
これが翁舞のはじめである。
のちに志貴皇子は第二皇子の春日王とともに奈良津彦神の社に祀られた。

奈良豆比古神社でもらったパンフレットにはハンセン病になったのは春日王だと書いてあったが、ハンセン病になったのは志貴皇子だとする伝承も伝わっているのだ。

⑥志貴皇子=春日王?

志貴皇子は光仁天皇によって「春日宮御宇天皇」と追尊されている。
志貴皇子の陵は高円山にあり、田原西陵と呼ばれているので田原天皇ともいわれている。

そして春日王は田原太子とも呼ばれていた。
つまり、春日王と志貴皇子は同じ名前を持っているということになるが、皇族で親と子が同じ名前というケースはないと思う。

志貴皇子と春日王は同一人物なのではないか。

神が子を産むとは神が分霊を産むという意味だとする説がある。
とすれば、志貴皇子の子の春日王とは志貴皇子という神の分霊であるとも考えられる。
春日王が志貴皇子のことであるとすれば、春日王の子の浄人王・安貴王は志貴皇子の子だということになる。

奈良大文字送り火

高円山

⑥弓削浄人は道鏡の弟

桓武天皇は浄人王と安貴王に弓削という姓を与えたが、弓削浄人とは道鏡の弟の名前である。
道鏡の俗名はわかっていないが、弓削安貴という名前ではなかっただろうか。

さらに『僧綱補任』『本朝皇胤紹運録』などでは、道鏡は志貴皇子の子であるとしているのだ。

道鏡は称徳女帝が次期天皇にしたいと考えていた人物である。
そして、道鏡の父親は志貴皇子の子であるとする史料もある。
称徳天皇は独身で即位した女帝だったため結婚が許されなかったものと考えられる。
(独身で即位した女性天皇が結婚した例はない)
そのため、称徳天皇は志貴皇子の子である道鏡を次期天皇にしたいと考えたのではないだろうか。
ところが和気清麻呂が宇佐八幡宮での信託として「わが国は開闢このかた、君臣のこと定まれり。臣をもて君とする、いまだこれあらず。天つ日嗣は、必ず皇緒を立てよ。無道の人はよろしく早く掃除すべし」と称徳天皇に奏上した。
これは「道鏡を皇位につけてはいけない」という意味で、これに称徳天皇はかんかんになって怒り、和気清麻呂を別部穢麻呂と改名させて流罪にした。
道鏡が志貴皇子の子であったとすれば、称徳天皇がかんかんになって怒った理由が理解できる。
「道鏡は志貴皇子の子で、皇緒である。和気清麻呂の嘘つき!なにが清麻呂だ、おまえなんか穢麻呂で十分だ!大和から出ていけ!二度と顔を見せるな!」
ところが、称徳女帝は急死。(暗殺説あり)道鏡は失脚して下野に左遷となり、数年後に死亡して庶人として葬られた。

道鏡に子孫はいなかったはずである。
道鏡は僧侶であり、当時は鑑真が日本にやってきて戒律を伝えたばかりだったからである。
(戒律では僧の性交は禁止されていた。)
しかし道鏡の兄・弓削浄人には子孫がいただろう。
奈良坂の夙に住む非人たちは弓削浄人の子孫なのかもしれない。


護王神社絵巻に描かれた道鏡 
護王神社絵巻に描かれた道鏡


⑦3対1で構成される神々

それはともかく、なぜ奈良豆比古神社の翁舞は三人翁なのか?
私は以前、次のような表を作成した。陰陽 黒と白⑨ 白鳥は生霊、黒鳥(八咫烏)は死霊? 

生国魂神社住吉大社住吉大社陰陽

島大神
 第四本宮神功皇后(仲哀天皇皇后)・・・長帯比売命/気長姫尊(おきながたらしひめのみこと)?
               と同音
生霊白鳥
島大神 第一本宮/底筒男命
     第二本宮/中筒男命
     第三本宮/表筒男命
12代景行天皇・・・・・・・・・大彦忍代別天皇(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと)?
13代成務天皇・・・・・・・・・稚彦尊(わかたらひこのみこと)?
14代仲哀天皇・・・・・・・・・仲彦天皇(たらしなかつひこのすめらみこと)?
死霊黒鳥
(八咫烏)

住吉大社の男神は、底筒男命・中筒男命・表筒男命の三柱であり、三柱の神々の象徴が八咫烏(黒鳥)であり、死霊であると考えられる。

そして住吉大社の女神は、神功皇后一柱であり、その象徴が白鳥であり、生霊であると考えられる。
翁舞の白式尉は生霊、黒式尉は死霊と考えられ、翁舞のケースでは生霊が三柱、死霊が一柱で、住吉大社とは神の数が逆になっているようである。
生国魂神社住吉大社奈良豆比古神社陰陽

島大神
 第四本宮白式尉(三人翁)
生霊白鳥
島大神 第一本宮/底筒男命
 第二本宮/中筒男命
 第三本宮/表筒男命
黒式尉死霊黒鳥
(八咫烏)


陰陽 黒と白 ⑯ 古今集真名書の田人は黒、仮名序の山人は白という謎々だった? へつづく~
トップページはこちらです→
陰陽 黒と白① 獏は白黒モノトーン  


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[ 2018/11/16 ] 陰陽 黒と白 | TB(-) | CM(-)

陰陽 黒と白 ⑭ 能・翁 黒式尉の黒という漢字を分解すると?

 

陰陽 黒と白 ⑬『惟喬親王、入定して紀仙法師となる?』 よりつづきます~

①能「翁」の白式尉と黒式尉


阪急河原町駅で下車し、四条通を東に向かって歩いていく。
鴨川にかかる四条大橋を渡り、途中、托鉢の僧が手に持つ鉢の中に小銭を入れて手を合わせる。
「どうか、新しい発見のある楽しい旅になりますように!」
そんなふざけたな願い事を心の中で唱え、また橋を渡っていく。

四条大橋を渡ると右手に南座、そのまままっすぐ歩いていけば八坂神社に到着する。

八坂神社の本殿前には、1月3日にもかかわらず初詣する人たちの長い行列ができていた。
私は行列の後ろのほうで手を合わせてお参りをし、八坂神社境内にある能舞台へと向かった。
能舞台の前のベンチはすでに人で埋め尽くされていた。
この日、八坂神社では初能奉納があるのだった。
能の演目は「翁」である。

まもなく舞台の上に囃し方が登場し、つづいてシテ(役者)が登場した。

シテは舞台の上でお面をつけた。
舞台上でお面をつけるのは能の中でも翁だけである。

八坂神社 翁 面をつける白式尉 
『翁」は『能にして能にあらず』『能というよりも神事である』などといわれている。
シテは舞台に立つ7日前から家族と寝食を別にし、食事を調理する火も共用することが許されない。
これを『別火を喰う』と言う。

「とうとうたらりたりらら」
翁(白式尉/はくしきじょう)のよく通る声が、冬の澄んだ青空にこだました。

八坂神社 翁 白式尉 

「とうとうたらりたりらら」とはどういう意味なのか、よくわかっていないらしい。
おそらく古い言葉で、長い年月を経るうちにわからなくなってしまったのだろう。
和歌の枕詞などももともとは意味があったのだろうが、意味が分からなくなってしまった言葉がたくさんある。

しばらくするとさきほどの翁とは別の翁がやはり舞台上で面をつけ、鈴を振って足拍子を踏み鳴らした。
私はその翁を見てとても驚いた。

八坂神社 翁 黒式尉 

翁の面が真っ黒だったからである。
黒い面の翁(黒式尉)は黒人なのか?
しかし顔立は日本人のようである。

②能「翁」は、陰陽 黒と白

能「翁」はまさしく、「陰陽 黒と白」だった。

陰陽道では万物は陰陽両面を持つと考える。
生死を陰陽で表すと、生が陽、死が陰である。
性別天体光度天気生死
陰(黒)
陽(白)太陽

また陽は白、陰は黒で表される。

Yin yang

https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3AYin_yang.svg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/17/Yin_yang.svg よりお借りしました。
作者 Gregory Maxwell [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で

③小野小町は白い神、大伴家持は黒い神


陰陽 黒と白⑪大友家持、白い神から黒い神に転じる? 
陰陽 黒と白⑫ 小野小町は白い神  

私は上の記事で、小野小町は白い神、大伴家持は黒い神ではないかと書いた。

小野小町は在原業平に次の様に詠まれている。

ももとせに ひととせ足らぬ つくも髪 我を恋ふらし おもかげに見ゆ
(百年に1年たりない九十九歳の白髪の女が、私を恋い慕っているのが 面影に見える。)


この歌に登場する九十九歳の白髪の女とは小野小町のことであるとされる。

つくも髪は九十九髪と書く。これは謎々である。
100-1=99
百引く一は白

うまい!座布団2枚!

髄心院 歌碑 八重桜

髄心院 小野小町 歌碑

次に大伴家持についてだが、彼は藤原種次暗殺事件に関与したとして、すでに死亡して埋葬されていたのを掘り起こされ、流罪となっている。

.http://www.sogi.co.jp/sub/kenkyu/itai.htm
上記サイトによれば、死体は次のように変化するという。

腹部が淡青藍色に変色(青鬼)
   ↓
腐敗ガスによって膨らみ巨人化。暗赤褐色に変色。(赤鬼)
   ↓
.乾燥。黒色に変色。腐敗汁をだして融解。(黒鬼)
   ↓
骨が露出

一言主神社 一陽来復祭

一言主神社 一陽来復祭

掘り起こされた家持の死体は黒く変色し、黒鬼のような姿になっていたのではないだろうか。

そして、大伴家持は六歌仙の一である大友黒主と似た、というよりもほとんど同じ歌を詠んでいることから、私は大伴家持と大友黒主は同一人物ではないかと考えた。

白浪のよするいそまをこぐ舟のかぢとりあへぬ恋もするかな/大友黒主
(白波の寄せる磯から磯へと漕ぐ船が楫をうまく操れないように、自分を抑えることのできない恋をすることだよ。)

白浪の寄する磯廻を榜ぐ船の楫とる間なく思ほえし君/大伴家持
(白波の寄せる磯から磯へと漕ぐ船が楫をうまく操れないようにあなたのことを思っています。)


古今集真名書は大友黒主について次のように記している。

大友の黒主が歌は、古の猿丸大夫の次なり。頗る逸興ありて、体甚だ鄙し。田夫の 花の前に息めるがごとし。(読み下し文)

「頗る逸興」とは大伴家持の死体が掘り出されたことをいっているのではないかと思う。

祇園祭 山鉾巡幸 黒主山2 
祇園祭 黒主山  

④六歌仙は藤原氏と敵対していた歌人


古今和歌集仮名序で名前をあげられた6人の歌人、小野小町・僧正遍照・在原業平・大友黒主・文屋康秀・喜撰法師のことを六歌仙という。

この6人は全員藤原氏と敵対関係にある人物であった。

私は小野小町とは小野宮と呼ばれた惟喬親王のことだと考えている。
惟喬親王は文徳天皇の第一皇子で、母親は紀静子の間にできた子の長子で立太子が望まれていた。
しかし文徳天皇には藤原明子との間に惟仁親王もあった。
文徳天皇は「惟喬親王を皇太子」にしたいと源信に相談したのだが、源信は藤原明子の父・藤原良房をはばかって天皇を諫めたという。

遍照は藤原良房に出家させられたといわれている。
在原業平は惟喬親王の寵臣で、惟喬親王の妹を妻にしており、紀氏側の人間だった。
大友黒主は③に書いたように、大伴家持のことだと思う。家持は藤原種次暗殺事件に関与したとして死体が掘り出されて流罪となった。
文屋康秀は文室宮田麻呂の親戚だと思うが、文室宮田麻呂は無実の罪で流罪となっている。
喜撰法師とは紀仙法師で、紀名虎または紀有常のことだとする説がある。
紀名虎は惟喬親王の祖父(惟喬親王の母・紀静子の乳)、紀有常は惟喬親王の叔父(惟喬親王の母・紀静子の兄)である。

遍照・在原業平・紀有常らは惟喬親王をもちあげてクーデターを計画していたとする説もある。

加茂船屋の雛祭 六歌仙屏風 
加茂船屋 六歌仙を描いた屏風
 
向かって右上から、大友黒主・小野小町・喜撰法師、向かって左上から在原業平・遍照・文屋康秀か?

⑤喜撰法師=紀仙法師=惟喬親王?

④ で喜撰法師とは紀仙法師で、紀名虎または紀有常のことだとする説があると書いたが、私は喜撰法師=紀仙法師とは惟喬親王の事ではないかと思う。
惟喬親王の母親は紀静子、その父が紀名虎、兄が紀有常である。
当時、藤原氏の母親を持つ天皇・親王が大多数であった中で、惟喬親王は紀氏の希望の星だった。
そんな惟喬親王を紀仙法師と呼ぶのはおかしいことではない。

惟喬親王は京都の法輪寺に籠った際、虚空蔵菩薩より漆の製法を授かったという伝説がある。
惟喬親王は木地師が用いる轆轤を発明したという伝説もあり、惟喬親王は木地師の祖としても信仰されている。
轆轤を用いて作る茶碗などは、漆を塗って漆器にするが、漆には別の用途もあった。
即身仏となるべく入定する際に漆を飲むのだ。これを「漆のお茶を飲む」と記したサイトもあった。
こうすることで胃の中を空っぽにし、また漆の防腐作用で死後腐りにくい体になる。

そして宇治に喜撰洞があり、そこに喜撰法師の像が置かれている。
喜撰洞とは喜撰法師が入定した洞窟ではないのか?

また喜撰というお茶の銘柄があり、喜撰はお茶の隠語でもある。
戦国武将たちは茶の湯をたしなんだが、お茶を飲むことは、漆を飲むことに喩えたものであり、茶の湯とは不老不死を願うまじないであったのではないかと私は考えたのだ。

陰陽 黒と白 ⑬『惟喬親王、入定して紀仙法師となる?』 

木地師資料館 惟喬親王像  

木地師資料館の惟喬親王像
下の女性と男性が轆轤を使って器を作っている。


⑥生の神と死の神

ここで、もう一度陰陽分類表を見てみよう。
性別天体光度天気生死
陰(黒)
陽(白)太陽

大友黒主という名前は彼が黒い神、死んだ神であるところからくるのではないか。
そして、小野小町(=喜撰法師=惟喬親王)は九十九髪=百引く一は白の神である。
なぜ小野小町は白の神なのか。
それは小野小町=惟喬親王=喜撰法師であり、惟喬親王が漆を飲んで入定して即身仏になったためではないか。

現代人からみて、即身仏は死体でしかない。
しかし古の人々は腐らない肉体をもった即身仏を生きていると考えたのではないだろうか。

大友黒主(=大伴家持)・・・・・・・・黒い神・・・死の神(死んで腐った神)
小野小町(=惟喬親王=喜撰法師)・・・白い神・・・生の神(死んでも腐らない神=即身仏)

すると、能「翁」の白式尉は生の神(死んでも腐らない神=即身仏)、黒式尉は死の神(死んで腐った神)ではないのか。

八坂神社 翁


⑦黒式尉はいかにして田の神になったか?

能「翁」の黒式尉は田の神だともいえる。
黒式尉の舞の中で種まきを思わせる所作があるからだ。

それを見て、私は白髪のことを九十九髪(つくもかみ)ということを思い出した。
そのココロは、100-1=99、百引く一は白。

黒という漢字も白と同じように分解してみたらどうなるだろう?
「黒=田+土+、、、、」となるではないか。「、、、、」は種をまいたように見える。

また、生物の死体は微生物に分解されて水に溶ける形になると、無機栄養として植物に吸収され、植物の肥料となる。

翁の黒式尉はそういった理由で種まきの所作をしているのではないだろうか。

⑧大友黒主はなぜ田夫なのか?

また古今和歌集真名書は大友黒主(=大伴家持)にたいして、「田夫の 花の前に息めるがごとし」といっている。
それは、大伴黒主は翁の黒式尉と同様、腐って植物の肥料のようになってしまったので、田夫といっているのではないだろうか。

黒主山 宵山


上の写真は祇園祭黒主山の提灯である。
提灯に記された文字にご注目。

http://www.kuronushiyama.or.jp/#kuronushi ← こちらのページにも大きく掲載されている。

「黒」の異体字として「黑」があるが、それともまたちがう。田夫と読めなくもない。

ところで、古今集には真名書のほかに仮名序がある。
真名書は漢文、仮名序はかなで記されているが、内容はほとんど同じである。

ところが、大伴黒主の部分は少し違っている。

真名書には
大友の黒主が歌は、古の猿丸大夫の次なり。頗る逸興ありて、体甚だ鄙し。田夫の 花の前に息めるがごとし。(読み下し文)
とあるが、仮名書では
大友黒主は そのさまいやし。いはば薪負へる山びとの 花のかげに休めるがごとし。
となっている。

真名書の頗る逸興ありて、体甚だ鄙し。田夫の 花の前に息めるがごとしは次のような意味だと思う。

頗る逸興ありてとは大伴黒主とは大伴家持のことであり、大伴家持が藤原種次暗殺事件に関与したとして、死体が掘り出されて流罪となったことだろう。

体甚だ鄙し
とは、その体が腐って『死体が腐って卑しい」

田夫の 花の前に息めるがごとしは、家持の腐った体が微生物に分解され花の肥料になったことを田夫(田+夫=黒/黒い神)になったとい表現しているのではないかと思う。

仮名序では田夫ではなく、山びとになっている。山びととはどういう意味なのだろうか?

八坂神社 舞殿 
八坂神社 舞殿


八坂神社 楼門

八坂神社 西楼門
陰陽 黒と白⑮ 奈良豆比古神社 翁舞 へつづく~
トップページはこちらです→
陰陽 黒と白① 獏は白黒モノトーン  


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