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仁徳天皇陵発掘。竹田恒泰さんの意見に反論させていただきます。 ② 



①「うちの墓掘るな!」竹田恒泰さんの主張のまとめ

竹田恒泰さんの発言をまとめます。

a.仁徳天皇陵の堤三か所にトレンチ(切り込み)を掘って調査する計画がある。
b.考古学の中でも左派(左翼)は陵を掘らせろといっている。
c.宮内庁は部外者による立入・調査を皇室の祖先の墓であり、静安と尊厳が必要として制限してきた。(新聞記事より引用)
d.宮内庁は現王朝の墓なので、発掘調査を認めたことがない。
e.滅びた墓は祭祀が行われていないので発掘調査してもいいが、天皇陵は現王朝の墓で祭祀が行われている。
f.うちの墓掘るな。
g.発掘調査の結果、被葬者が特定されたのは全国で数件しかない。誰の墓かなんてどうでもいい。
h.仁徳天皇の時代には文字がないのでわからない。


このうち、 は間違いの可能性があるとして、前回の記事に書きました。
仁徳天皇陵発掘。竹田恒泰さんの意見に反論させていただきます。 

e.滅びた墓は祭祀が行われていないので発掘調査してもいいが、天皇陵は現王朝の墓で祭祀が行われている。
はまちがいとはいえないですが、かなり納得のいかない点があるので、追加で書かせていただきます。

NintokuTomb

https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3ANintokuTomb.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/3f/NintokuTomb.jpg よりお借りしました。
Copyright © 国土画像情報(カラー空中写真) 国土交通省 [Attribution], ウィキメディア・コモンズ経由で

②古代の天皇陵の管理が差別意識を生んだ?

飛鳥時代後期より平安時代の桓武天皇代ごろまでの日本では律令制をとっていました。
その律令制では陵墓は国家の管理と定められていました。

天皇・皇族の陵墓の守衛を陵戸(りょうこ)といい、世襲で陵墓の管理をしていました。
大宝令制(701年)では陵戸はは賤民でなかったとされますが、養老令制(757年)では戸令で5種の賤民の一つとされました。

賤民とは「身分の低い民」のことです。
陵戸は良民と同額の口分田(唐の制度をまねたもので民衆に一律に支給された農地)を支給され、課役を免除されていましたが
良民との結婚などは認められていなかったとされます。

日本では「死は穢れたもの」とする考え方があったため、陵の管理をする陵戸は賤民とされたのでしょう。
この陵戸が形成した部落が明治まで存続していたケースもあったということです。

日本の階級制が外国の階級制と比較してどうだったかについては、勉強不足ゆえ、私にはわかりません。
ですが、5種の賤民、陵戸などの身分制度があったことは確かであり、差別意識を生む原因のひとつであったとは考えられるのではないでしょうか。

こういうことをいうと、短絡的に「反日」と決めつける人がいますが、歴史という学問に反日かどうかは関係ありません。
反日などの思想を捨てて史実を見るのが科学的態度だと思います。

また階級制は、ある程度文明が進んだ段階において必然的に生まれるものであるように思えます。
世界的に見ても、階級制のない社会のほうが珍しいと思います。
ですから日本に階級制があったからといって、日本はよくない国だというようなことにはならないはずです。

反正天皇陵 
堺市役所21階展望ロビーより反正天皇陵をのぞむ。

③寺院への天皇陵管理委託で多くの陵の所在が不明に。

醍醐天皇(885-930)陵の管理が醍醐寺に委任されて以降、いくつかの陵墓管理は国家管理から寺院管理へと移っていきました。




寺院が廃れたり、消滅したりすることで、不明になった陵も多いということです。

法住寺に委託された後白河天皇陵、如意輪寺に委託された後醍醐天皇陵などは近世まで管理されてきましたが、このような例は珍しいそうです。

如意輪寺 桜

如意輪寺 境内に後醍醐天皇陵がある。

後白河天皇陵 桜紅葉 
後白河天皇陵

中世以後、天皇家の力が衰えると多くの陵墓は荒れ、周濠がため池として用いられたり、伝安閑陵古墳は戦国大名の城に改造されています。

Takayaj3

高屋城 本丸跡(高屋築山古墳を流用)

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Takayaj3.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/7f/Takayaj3.jpg より引用
作者 投稿者が撮影 (ブレイズマン (talk) 08:56, 24 June 2008 (UTC)) [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で


④元禄の修陵・文久の修陵

江戸幕府が1697年~1699年に修陵を行っており、これを「元禄の修陵」といいます。
このころ、天皇陵の大半はその所在地がわからなくなっていました。
そのため、史料は参考にはしたものの、結構適当に治定したようです。。
また陵墓や周濠が私有地化・耕作地となっていたため、土地を強制的に買いあげたりもしています。

その後、江戸幕府は1862年~「文久の修陵」で、109か所の陵が修陵され、1867年には「文久山陵図」が完成して朝廷と幕府に献上されています。

現在、われわれが天皇陵と呼んでいるのは、主に江戸時代に探索・治定されたものであり
 現在の歴史学的・考古学的知見に基づき同意できるものは、奈良時代以前のものでは、天智天皇陵、天武・持統天皇合同陵程度しかないと言われています。

前回も言ったように、竹田恒泰さんは「うちの墓掘るな」といいますが、そもそも「うちの墓」かどうかわからないんですね。

⑤荒れた天皇陵で祭祀が行われていたのか?

注意したいのは、江戸時代、多くの天皇陵(特に古代の天皇陵)はその所在が不明となり、耕作地となったり、他人が所有する土地となっていたり、ひどいケースではその上に城がたてられていたりしていたという事実です。

現在の法律では、土地の長期放置は「みなし放棄」として、所有権が認められません。
江戸幕府が天皇陵比定地を買い取ったのも、当時においてもそれが天皇家の所有地であると認められなかったためでしょう。

こういった荒れた天皇陵や、民間人の所有地となっていた天皇陵で祭祀が行われていたとは思えません。

各天皇陵において現在祭祀が行われているとしても、それは「元禄の修陵」「文久の修陵」以降のことであり、祭祀が行われていなかった期間が長かったのではないか、とおもえるのです。

ナガレ山古墳

造営当時の姿に復元されたナガレ山古墳。
造営当時の古墳の多くはこのナガレ山古墳のように、葺石で覆われていたものと考えられている。
現在、多くの古墳は草木が生い茂って岡のようになっているが、それは長年管理せず、放置してきたということではないのだろうか?


長年放置しておいて、最近になってようやく管理しはじめ、「現在も祭祀している」といわれても、騙されている感が強いです。
「あなたの先祖の土地じゃないかもしれないから調査させてくれ」といわれたので、あわてて祭祀をはじめたようにも見えなくないです。

「現在も祭祀している」は正しいかもしれないが、それは「長年にわたって祭祀を続けていた」ということではないのです。
「最近になって祭祀するようになった」というのが正しいのではないかと思います。

⑥天皇以前に物部王朝が存在していた?

私が宮内庁管轄地である天皇陵などの古墳発掘するべき、と考えるのは、記紀などを読むと、どうも天皇家は万世一系ではないように思えるからです。

記紀によれば、神武天皇が東征して畿内入りするより早く、ニギハヤヒという神が天の磐船に乗って天下っっていたとあります。
ニギハヤヒが天下ったとされる場所には現在、磐船神社(大阪府交野市)があります。

磐船神社 天の磐船 

磐船神社 拝殿より直接御神体の天の磐船を拝します。 

そしてニギハヤヒは物部氏の祖神なので、神武以前、畿内には物部王朝があったとする説があるのです。

そして籠神社で発見された系図によれば、
始祖の彦火明命(ひこほあかりのみこと)の9代目の孫に日女命(ひめのみこと)とあり、脇に、『またの名を倭迹迹日百襲姫命』、『またの名を神大市姫命』、『日神ともいう』と記されています。
この『日女命』に漢字をあてたのが邪馬台国の女王・卑弥呼ではないかとする説があります。

ひめのみこと→ひみこ

これは確かにありえそうです。

籠神社

籠神社

そして倭迹迹日百襲姫命は第7代孝霊天皇の皇女とされており、桜井市にある箸墓古墳は倭迹迹日百襲姫命(日女命)の墓に比定されています。
魏志倭人伝に記された卑弥呼の墓とも大きさが合致するので卑弥呼の墓ではないかともいわれています。
ですが宮内庁管轄地ですので、発掘調査ができません。

そして『先代旧事本紀』では倭迹迹日百襲姫命(日女命)の先祖・彦火明命はニギハヤヒと同一神だと記されているのです。
この系図が出て来た籠神社の社家・海部氏も物部氏です。

これらの史料を読む限り、倭迹迹日百襲姫命やその父親の第7代孝霊天皇は物部王朝の王のように思えます。

すると天皇家が万世一系というのは、長い間日本人が勘違いしていたということになります。
このあたりの真実を、私はどうしても知りたいと思います。

日本人の中には天皇家が万世一系であることをもって日本は最古の王朝だといい、それを重んじる人がいます。
しかし、日本の価値は勤勉な国民性、島国ならではのユニークな文化、各種産業、四季のある美しい自然の中で育まれた感受性などであって、万世一系など大して自慢にもならないと私は思います。
仮に万世一系でなかったとして、対外的にも、大きな影響はないと思います。

それよりも、そういう疑いがあるのであれば、積極的に調査をして事実を解明するべきだと思います。

箸墓古墳 桜 
箸墓古墳


⑦後漢書・梁書・日本書紀にも登場する邪馬台国

竹田恒泰さんは著書「日本人はなせ日本のことを知らないのか」の中で、次のように記しておられます。

あ. 倭人伝の記述はまちがいが多い。
い.中国側の史料にも倭人伝にしか記載がない。
う.日本側の史料には一切確認ができない。
え.中国側の史料に邪馬台国の記述があることを確認しておく程度でよい。

「あ.  倭人伝の記述はまちがいが多い。」について。
邪馬台国はまだ研究段階なので、まちがいが多いとはいいきれません。
ただ、魏志倭人伝の南宋の本に邪馬壹国とあるのは邪馬台国のまちがいだとは思います。(魏志倭人伝の原本は存在していません。)

「い.中国側の史料にも倭人伝(魏志倭人伝)にしか記載がない。」について。
3世紀に記された『三国志(魏志倭人伝)』のほか、5世紀に記された後漢書倭伝、7世紀に記された梁書倭伝、7世紀の髄書、唐代の北史四夷伝にも記載があります。
「3世紀に記された書物の中に記述がない」という意味かもしれませんが、それならそう記述するべきでしょう。

「う.日本側の史料には一切確認ができない。」について。

日本書紀の「神功皇后紀」39年条と40年条、43年条には魏志倭人伝から引用された箇所があります。

39年条「魏志によると、明帝の景初3年(239年)6月に倭の女王が大夫の難斗米などを派遣して、郡(朝鮮半島の帯方郡)に行き、天子に会いたいと朝献(朝廷に詣でる)した。太守の鄧夏は吏を派遣して、京都(洛陽)に詣でた」
40年条「魏志によると、正始元年(240年)に建忠校尉(文官)の梯携たちを派遣して詔書印綬を奉じ、倭国にもたらした」
43年条「魏志によると、正始4年(243年)に倭王はまた使者の大夫の伊聲者掖耶約たち8人を派遣して献上した」

http://fushigi-chikara.jp/sonota/6883/ より引用(ありがとうございます!)

我々の先祖は魏志倭人伝を読んでおり、魏志倭人伝に登場する卑弥呼とは神功皇后のことであると考えていたのです。
ですから、日本側の史料には一切確認ができない、とも言いきれないと思います。

また、邪馬台国、卑弥呼などの言葉は日本語の発音に漢字をあてたものと考えられるので、邪馬台国・卑弥呼という言葉が日本側の史料に出てこないのは当然だと考えられます。
第10代崇神天皇の叔母・倭迹迹日百襲姫命=日女命が卑弥呼、崇神天皇の皇女の豊鍬入姫命が卑弥呼の宗女の台与だとする説が有力です。
崇神天皇陵 夕日 『卑弥呼は倭迹迹日百襲姫命、男弟は大物主、狗奴国の男王は崇神天皇?』 

崇神天皇陵

崇神天皇陵

もちろん、私の考えが妄想である可能性もあります。
なので妄想であれば妄想であると確信できる事実がほしいと思います。
それは天皇陵発掘調査しかありません。

天皇陵発掘調査は墓を暴くこととは異なります。
被葬者も、後世の人々に事実を正しく知ってほしいと考えているかもしれません。
また、被葬者に対して十分な敬意をはらって発掘調査を行っていると思うので、不敬にもあたらないかと思います。
発掘調査=不敬、というのはあまりに短絡的な考え方のように思えます。

竹田恒泰さんは、古代史や考古学にあまり興味がないのでしょうね。
古代史の事実よりも、天皇家の権威を守るほうが大切である、とお考えになっておられるように思えます。

石舞台古墳 小焼け

蘇我馬子の墓といわれる石舞台古墳。盛り土が失われて石室がむき出しになっています。
蘇我馬子の孫の入鹿は中大兄皇子によって滅ぼされています。
梅原猛さんは、石舞台古墳は謀反人・蘇我入鹿の先祖の墓なので、暴かれたのではないか、とおしゃっていました。
石舞台古墳が暴かれた墓だとすれば、それは誰によって暴かれたのでしょうか。
発掘調査は被葬者に敬意を払って行っていると思います。墓を暴くこととは全く異なります。




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[2018/10/29 11:24] 未分類 | トラックバック(-) | コメント(-)

仁徳天皇陵発掘。竹田恒泰さんの意見に反論させていただきます。 



①「うちの墓掘るな!」竹田恒泰さんの主張のまとめ

竹田恒泰さんの発言をまとめます。

a.仁徳天皇陵の堤三か所にトレンチ(切り込み)を掘って調査する計画がある。
b.考古学の中でも左派(左翼)は陵を掘らせろといっている。
c.宮内庁は部外者による立入・調査を皇室の祖先の墓であり、静安と尊厳が必要として制限してきた。(新聞記事より引用)
d.宮内庁は現王朝の墓なので、発掘調査を認めたことがない。
e.滅びた墓は祭祀が行われていないので発掘調査してもいいが、天皇陵は現王朝の墓で祭祀が行われている。
f.うちの墓掘るな。
g.発掘調査の結果、被葬者が特定されたのは全国で数件しかない。誰の墓かなんてどうでもいい。
h.仁徳天皇の時代には文字がないのでわからない。


このうち、 は間違いの可能性があると思います。


NintokuTomb

https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3ANintokuTomb.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/3f/NintokuTomb.jpg よりお借りしました。
Copyright © 国土画像情報(カラー空中写真) 国土交通省 [Attribution], ウィキメディア・コモンズ経由で


②仁徳天皇代、郷土の産物を記録させている=文字があった?

順番が前後しますが、まず「h.仁徳天皇の時代には文字がないのでわからない。」について。

日本は中国の漢字を文字として用いてきました。
竹田さんが「文字がない」とおっしゃっているのは、「まだ漢字が日本に伝わっていなかった」という意味だと思います。
(15代応神天皇以前、神代文字があったとする説もありますが、偽作だとする説が強い。)
漢字が日本に伝わったのは、いつぐらいのことなのでしょうか。

仁徳天皇陵 
堺市役所21回展望ロビーより仁徳天皇陵をのぞむ。ここからではほとんど形がわかりません。

http://kanjibunka.com/kanji-faq/old-faq/q0004/
↑ こちらのサイトに次のように記されています。

「紀元3世紀ごろ,.邪馬台国(やまたいこく)の時代、日本と中国との間に使節の往来があった。
外交文書を扱うことができなければ、使節として体を成さない。
おそらく邪馬台国やそれに先立つ国々には、漢字を理解し、文書を扱うことのできる人々がいたと考えられている。」

また日本書紀には「仁徳天皇代、紀角宿祢を百済へ遣わし、初めて国郡の境を分け、郷土の産物を記録した。」とあります。
記録するには文字が必要です。たぶん漢字を使ったのではないでしょうか。

また5世紀後半に築造されたと考えられている前方後円墳の稲荷山古墳(埼玉県)では、文字を刻んだ鉄拳が発見されています。
日本には墓誌の習慣はなかったとされますが、鉄剣のような副葬品に被葬者の名前が刻まれている可能性がないともいえないです。

反正天皇陵 
堺市役所21階展望ロビーより反正天皇陵をのぞむ。

③発掘調査は被葬者が誰か、を調べるためだけに行われるのではない。

g.発掘調査の結果、被葬者が特定されたのは全国で数件しかない。誰の墓かなんてどうでもいい。」について。

研究の手がかりになるのは文字だけではありません。
出土した埴輪・土器・葺石・副葬品などすべてのものが手がかりになります。
樹皮のついた木片がでてくれば年輪年代法で築造時期もある程度特定することができます。
人骨がでてくれば、性別・体格・死亡年齢などもわかります。

被葬者が誰か、ということだけに考古学的価値があるのではありません。

ナガレ山古墳 子供さんたち

ナガレ山古墳(奈良県北葛城郡)

④天皇陵は皇室の財産か?

憲法では、「すべて皇室財産は、国に属する」と定められ、皇室による不動産保有は禁じられています。
まあ、これについて「戦後GHQによって決められた憲法なので、無効だ」という意見もあるかもしれませんが、現在の憲法では天皇陵は皇族の財産ではなく、国の財産だということになると思います。

法律の事は詳しくはないんですが、他人が所有している土地に先祖の墓があるとして、土地の所有者がそれを発掘調査しても、文句のいいようがないのではないでしょうか?(間違っていたら教えてください!)

また、仁徳天皇陵といいますが、本当に仁徳天皇の陵なのかどうかについても確定していません。
もしかしたら天皇家とは関係のない豪族の墓かもしれません。
そうだとすると「うちの墓」とはいえません。「うちの墓」と胸をはって言うためにも、発掘調査が必要ではないでしょうか。

 ホケノ山古墳 
ホケノ山古墳(奈良県桜井市) 埋葬施設


⑤右左の問題ではなく、信仰か化学かの問題では?

b.考古学の中でも左派(左翼)は陵を掘らせろといっている。」について。

考古学とは、ごく簡単にいってしまうと、土の中に残された人々の生活の痕跡から生活・風習を復元し、人間とは何なのかを考える学問です。
http://kaf.or.jp/wordpress/wp-content/uploads/2012/02/minikouza.pdf より引用

つまり、考古学とは発掘調査なしに成立しない学問ということですよね。
考古学者が発掘調査しないで、何を研究するんだろう、と疑問に思ってしまいます。

考古学者も思想的に右左はあるでしょう。
ですが、それとは関係なく、考古学者である以上、発掘調査はしたいと考えるのではないかと思うのですが。

竹田恒泰さんには、そのあたりの詳しい説明をお願いしたいです。
特に天皇陵発掘調査に反対意見の考古学者の名前などを教えていただきたい。
単に「左派(左翼)は陵を掘らせろといっている」だけでは納得ができませんので。

左派と右派というより、信仰をとるか、科学をとるかという問題のような気がします。

百舌鳥古墳群 模型

堺市役所21階展望ロビーにあった模型。(見やすくするため一部加工しました。) 


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[2018/10/24 18:59] 未分類 | トラックバック(-) | コメント(-)

陰陽 黒と白 ⑬『惟喬親王、入定して紀仙法師となる?』 

平等院 門

平等院

陰陽 黒と白⑫ 小野小町は白い神  よりつづきます~

①宇治茶

京阪宇治駅をおりて平等院のほうに向かって歩いていくと門前の店店からお茶の甘い香りが漂ってくる。

宇治と言えば宇治茶。この付近にはお茶を売る店がたくさんあるのだ。

中でも抹茶ソフトクリームを売る店が、ひときわ賑わっており、店の前のベンチで大勢の人がソフトクリームを食べている。
見ると、みな唇が緑色の粉をふいたようになっている。
一瞬、ぎょっとしたがよく見るとソフトクリームに粉末状にした抹茶がふりかけてあるのだ。

私も注文して食べてみた。友人が私の顔を見て笑ったが、友人の顔も唇が真みどりになっている。
それがおかしくて、私も笑った。

平安時代の空海が唐からお茶を持ち帰ったというが、それが真実でも、その量はわずかなものだっただろう。
同じく平安時代の空也が疫病を鎮めるために皇服茶(仏前に献じたお茶に結び昆布と梅干を入れたもの)を村上天皇や民衆に飲ませたというが、とかいうが、村上天皇はお茶を飲んだとしても、民衆にまでそれを飲ませたとは思えない。
当時、お茶は大変効果なものだったからだ。

六波羅蜜寺 皇服茶

六波羅蜜寺 皇服茶

日本に喫茶の習慣を広めたのは鎌倉時代初期の栄西と言われる。
栄西は宋から茶種を持ち帰り、明恵がそれを栂ノ尾高山寺近くに植え、その後宇治にも植えた。

13世紀半ば、平等院に小松茶園・西浦茶園が造られて宇治での茶の栽培が始まった。
南北朝時代には栂ノ尾のお茶は本茶、醍醐や宇治のお茶は非茶と呼ばれていたが、しだいに宇治は一流のお茶の生産地として発展していった。

平等院 鳳凰堂2

平等院

②喜撰とお茶


お茶といえば、「泰平の 眠りを覚ます 上喜撰 たった四杯で 夜も眠れず」という狂歌を思い出す人も多いのではないだろうか。

1853年のペリー来航を詠んだ歌である。
宇治茶に喜撰という銘柄があり、上等なお茶であることから上喜撰といっているのだろう。
その上喜撰に蒸気船をかけてあるのだ。
さらにお茶の成分であるカフェインには眠気をさます効果があって眠れないことと
蒸気船が四隻(実際には2隻だともいう。)やってきただけで、不安で眠れないことをかけてあるのだ。
ペリー来航後、日本は長年の鎖国をやめ、開国へと進んでいくことになる。

宇治茶の銘柄を喜撰というのは、喜撰法師の次の歌にちなむものである。

わが庵は 都の辰巳 しかぞ住む 世を宇治山と 人はいふなり
(私の庵は都の辰巳にあってこうやって住んでいる。世を憂しとして山に入った。宇治山であると人は言っているそうだ。)


またお茶のことを隠語で喜撰という。

どうやらお茶と喜撰は関係が深そうである。

霊山寺 初福茶 

霊山寺(奈良) 初福茶


③紀貫之の嘘

古今和歌集仮名序は喜撰法師について次のように記している。

ことばかすかにしてはじめをはりたしかならず。いはば秋の月を見るに、暁の雲にあへるがごとし。詠める歌、多くきこえねば、かれこれをかよはしてよく知らず。

(ことばがわずかで初め終わりがはっきりしない。いわば秋の月を見ているうちに暁の雲にあうようなものだ。詠んだ歌が多くないので、いろいろ文をかよわして調べてみたがよくわからない。)

古今和歌集仮名序を書いたのは紀貫之だといわれている。

紀貫之は土佐日記でも「男もすなる日記というものを、女もしてみむとてするなり。」と嘘をついているが
古今集仮名序でも嘘をついている。いや、とぼけたというべきか。

喜撰法師は紀仙法師で紀名虎または紀有常のことではないかとする説があるのだ。
同じ紀氏なんだから紀貫之が知らないはずはない。まったく貫之は一筋縄ではいかない男だ。

近江神宮 かるた祭2

近江神宮 かるた祭

④宇治は都の辰巳

高田祟史さんが「宇治は都の辰巳ではない、都の辰だ」とおっしゃっていたように記憶している。
当時の平安京は二条城付近にあった。

そして宇治の喜撰山に喜撰洞があり、洞内に喜撰法師像が祀られている。
ここが喜撰法師の棲んだ庵のあとではないかと思う。

二条城から宇治の喜撰洞の方角を確認してみると、申し訳ないが都の辰というのは厳しいのではないか。
やはり都の辰巳というのが正しいように思える。


喜撰洞の北西方向に二条城があります。

干支 方角

⑤「もののな」の高度なテクニック

さらに高田祟史さんは「わが庵は都の辰」できれ、「巳(み)しかぞ住む」→「みろく※鹿はろくとよむ)ぞ住む」という意味が隠されているともおっしゃっていた。
④で述べたように「わが庵は都の辰」とはいいがたいが、「わが庵は都の辰巳 しかぞ住む』の中に、「みろく」という言葉をよみとられたのは、高田祟史さんの素晴らしい発見だ。

この歌の中から「みろく」という言葉を読み取るのがむつかしいのは、ひとつは「わが庵は/都の辰巳/しかぞ住む」と「巳」と「しか」の間で文節が切れていることがある。
さらに、「しか」を漢字に変換して「鹿」とし、「鹿」を「ろく」と読むという発想はなかなか思い浮かばない。

和歌のテクニックのひとつに『もののな』がある。
もののなとは、ある事物の名称を、意味に関係なく歌の中に詠み込むものである。

たとえば「あしひきの 山たちはなれ ゆく雲の 宿り定めぬ 世にこそありけれ」という歌があるが、この歌の中に「たちばな」という言葉が読み取れる。

上の詩は「山たちはなれ」と五七五七七で構成されるひとつの文節の中に「たちばな」とあり、ひらがななので言葉を発見するのは比較的たやすい。
しかし「わが庵は都の辰巳 鹿ぞ住む』の中に「みろく」を発見するのは難しい。
高度な「もののな」のテクニックだといえるだろう。

奈良公園 鹿の親子

⑥ばれないように詠むのが大事

高田祟史さんは和歌は文学ではなく呪術だとおっしゃっているが、私は高田祟史さんのおっしゃる通りだと思う。

和歌ではないが、言葉を呪術として用いた例として
1610年、徳川家康が方広寺の鐘名「国」「君臣豊楽」に激怒したというエピソードがある。

方広寺 鐘銘 

方広寺鐘銘

「国だと?私(家康)の名前を切っているじゃないか!
「君臣豊楽子孫殷昌だと?豊臣を君として子孫の殷昌を楽しむ、という意味ではないか!
けしからんーーーー!」

こう家康は怒り、豊臣家を滅亡させてしまったのだ。

現代人はこれを家康のいちゃもんだと考えがちである。
しかし私は豊臣秀頼が本当に家康が指摘したような呪術を用いて鐘銘を刻んだ可能性があると思う。

言霊信仰という言葉を聞いたことがあることだろう。
言霊信仰とは口に出した言葉は実現する力があるとする信仰のことである。

ポジティブなことを言葉にすればポジティブなことがおき、ネガティブなことを言葉にすればネガティブなことがおきるとすれば
憎い相手を言葉の力によって貶めたいと考えるのは当然のことだと思う。

この事件は言葉に呪術をこめる伝統があったことを物語ってはいないだろうか。
「国」「君臣豊楽」とはなかなかうまい呪術を考えたものだ。
しかし相手にばれてしまうと、怒りをかって豊臣家のように滅ぼされてしまう。
呪術は慎重にかけなければならないのだ。

喜撰法師の「もののな」のテクニックはすごい。
この歌に『巳鹿→みろく」と言う言葉が隠されていることに気付いた人は、1000年近い長い年月の中でも高田祟史さん以外いないのではないか。

喜撰法師の和歌は一級の呪術だといえると思う。

⑦喜撰法師は入定した?


宇治には萬福寺という寺があり、天王殿に黄金に輝く布袋像が祀られている。
布袋は弥勒菩薩の化身とされている。

萬福寺 布袋  

萬福寺 布袋像

萬福寺は1661年に創建された寺だが、宇治に弥勒菩薩というイメージがあったため、ここに弥勒菩薩の化身である布袋像が置かれているのかもしれない。

弥勒菩薩とは56億7000万年後に現れるというみほとけである。
そして、かつて即身仏を志した人の目的は56億7000万年後の弥勒菩薩の聖業に参加するためだと聞いたことがある。

ここで④で述べた喜撰洞を思い出してほしい。
喜撰法師は即身仏となるべく、喜撰洞に入定したのではないだろうか?

⑧六歌仙は藤原氏と敵対していた?

③で喜撰法師は紀仙法師で紀名虎または紀有常のことではないかとする説があると書いた。
しかし私はしだいに喜撰法師(紀仙法師)とは惟喬親王のことではないかと考えるようになった。
惟喬親王の母親は紀静子で、惟喬親王は紀氏の血の濃い親王であった。
なので、惟喬親王を紀仙法師と呼ぶことはおかしいことではない。

六歌仙(遍照・在原業平・文屋康秀・小野小町・喜撰法師・大友黒主)は全員、藤原氏と敵対関係にあった人物である。

大友黒主は大伴黒主と記されることもあり、また大友家持とほとんど同じ歌を詠んでいることなどから、大伴家持のことだと思われる。
大伴家持は藤原種次暗殺事件に関与したとして、当時すでに亡くなって埋葬されていたのだが、死体を掘り出されて流罪とされている。
陰陽 黒と白⑩ 大友黒主の正体は大伴家持だった? 

小野小町とは小野宮と呼ばれた惟喬親王のことだと私は考えている。
陰陽 黒と白⑫ 小野小町は白い神 
つまり喜撰法師も小野小町も惟喬親王のことだということである。

遍照・在原業平・紀有常(惟喬親王の叔父)は惟喬親王の歌会のメンバーである。

惟喬親王は文徳天皇の第一皇子で母親は紀静子だった。
文徳天皇は惟喬親王を皇太子にしたいと考えていたのだが、当時の権力者・藤原良房を憚った源信にいさめられ、藤原良房の娘・明子との間にできた惟仁親王(のちの清和天皇)が皇太子となった。

世継ぎ争いに敗れた惟喬親王は頻繁に歌会を開いているが、この歌会のメンバー・遍照・在原業平・紀有常らは歌会と称して惟喬親王を担ぎ上げてのクーデターを計画していたのではないかとする説がある。

文屋康秀は小野小町を「三河に行きませんか」と誘っている。
小野小町=惟喬親王だと考えられるので、文屋康秀もまたクーデター計画にかかわっていた可能性がある。

惟喬親王像 

惟喬親王像 木地師の里


⑨惟喬親王と漆の関係

六歌仙の説明が終わったところで、私がなぜ喜撰法師=惟喬親王だと考えているのかについて説明しよう。

惟喬親王は京都嵐山の法輪寺に籠った際、虚空蔵菩薩から漆の製法を授かったという伝説がある。

法輪寺 ライトアップ

法輪寺

 そして、私は先ほど次のようなことを述べた。

・喜撰法師の歌に「みろく(弥勒)」が読み込まれている。
・即身仏になるべく入定した人の目的は56億7000万年後に現れるとされる弥勒菩薩の聖業に参加することだった。
・喜撰洞は喜撰法師が即身仏となるべく入定した洞窟なのではないか。

即身仏になる際には、まず木食といって五穀をたち、木の実や皮を食べる修行をする。
こうすることによって体の脂肪が減る。
さらに入定する前に漆を飲む。
漆を飲むことで、胃の中に残った食物を吐いてしまう。
また漆には防腐作用があるため、死後腐りにくい体になるというのだ。

惟喬親王が法輪寺に籠った際、虚空蔵菩薩から漆の製法を授かったという伝説は、彼が入定して即身仏になったところから創作されたのではないか?

また陰陽 黒と白⑫ 小野小町は白い神 
上の記事で、私は小野小町とは小野宮と呼ばれた惟喬親王のことではないかと考察したが
小野小町は老衰し骨と皮だけの姿で現されることが多い。
私は京都の補陀落寺で小町老衰像を拝んだことがあるが、痩せて骨と皮ばかりの状態ではあるが骨が曲がっているということはない。
むしろ背筋がのび、骨格もしっかりしていて骨太な印象だった。
垂れ下がった乳房もあるようには見えなかった。(着物で隠れているだけかもしれないが。)
友人もこれは女には見えないと言っていた。

小町百歳像は惟喬親王が入定して即身仏となった姿ではないだろうか。

補陀落寺(小町寺) 紅葉

補陀落寺

⑩惟喬親王と轆轤の関係

惟喬親王は巻物が転がるのを見て轆轤を発明したという伝説もあり、轆轤がろくろ首に見えるところから、惟喬親王は髑髏本尊になったのではないかとも考えた。
髑髏本尊は身分の高い人のドクロを用いて作るほど霊力があるとされ、ドクロに和合水と漆を塗り重ねてつくる。
さきほども述べたように惟喬親王が虚空蔵菩薩から漆の製法を授かったという伝説もある。

しかし小町老衰像を見ると、即身仏のように見えるので、惟喬親王は即身仏になったと考えたほうがいいかもしれない。
その場合、伝説が生じた経緯は次のようなものであると考えられるかもしれない。

木地師資料館 惟喬親王像  

木地師資料館の惟喬親王像
下の女性と男性が轆轤を使って器を作っている。


惟喬親王は漆を飲んで入定した。
  ↓
惟喬親王が虚空蔵菩薩より漆の製法を授かったという伝説が創作される。
  ↓
漆は木地師が用いる茶碗に塗る。
  ↓
惟喬親王、木地師の祖とされる。
  ↓
惟喬親王、轆轤を発明したという伝説が創作される。

即身仏になるため入定する際、漆を飲むのだが、「漆のお茶を飲む」と記されたサイトもあった。
漆の木に傷をつけると樹液がでてくる。これに顔料を加えて色をつけ、漆器などに塗り重ねるのだが
もともとの漆の樹液は乳白色である。
しかし、すぐに酸化して茶色くなる。その色はほうじ茶のような色である。

戦国武将たちは茶の湯をたしなんだが、それは茶の湯に入定する際に飲む漆のイメージがあったからかもしれない。
 
前回、前々回の記事で、私は大友黒主は黒い神、小野小町は白い神と書いた。
陰陽 黒と白⑫ 小野小町は白い神 
陰陽 黒と白⑪大友家持、白い神から黒い神に転じる? 

陰陽道では黒は陰で、白は陽である。
また陰陽道で生死を表すと、死が陰で、生が陽である。

大友黒主は死後藤原種継暗殺事件の首謀者とされ、死体が掘り返されて流罪となった。
大友黒主の死体は腐っていたことだろう。

そして小野小町=小野宮=惟喬親王が喜撰洞に入定したのならば、腐らない体の即身仏となっていた可能性が高い。

つまり大友黒主は死んで腐った神、小野小町=小野宮=惟喬親王は即身仏となって腐らない神ということではないだろうか。
そして腐らない即身仏は永遠の命を持つ神、生きている神として信仰されたのではないかと思う。

小野小町像 
髄心院 小野小町像


陰陽 黒と白 ⑭ 能・翁 黒式尉の黒という漢字を分解すると?  へつづく~
トップページはこちらです→
陰陽 黒と白① 獏は白黒モノトーン  


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[2018/10/16 20:56] 陰陽 黒と白 | トラックバック(-) | コメント(-)

陰陽 黒と白⑫ 小野小町は白い神 

祇園祭 黒主山 御神体

祇園祭 黒主山 ご神体(大友黒主)

陰陽 黒と白⑪大友家持、白い神から黒い神に転じる?  よりつづきます~

①大友黒主は黒い神、小野小町は白い神。

「六歌仙の一、大友黒主は大伴家持ではないか」
「大伴家持主は白い神から黒い神に転じて大友黒主となったのではないか」
前回私はそう書いた。
陰陽 黒と白⑪大友家持、白い神から黒い神に転じる? 

そして六歌仙の中には白い神もいる。
小野小町だ。

小野小町像 
髄心院 小野小町像

②百引く1は白

なぜ小野小町は白い神だといえるのか。

それは、紀貫之が書いたと言われる伊勢物語にこんな話があるからだ。

昔、色気づいた女が三人の子に「思いやりのある男にお会いしたい」と話した。
三男は「よい男が現れるでしょう」と夢判断をし、在五中将(在原業平)に頼み込んだ。
在五中将は女をかわいそうに思ってやってきて寝た。
しかしその後、在五中将は女のもとへやってこなくなり、女は男の家に行って中を伺った。
男は女をちらっとみて歌を詠んだ。
ももとせに ひととせ足らぬ つくも髪 我を恋ふらし おもかげに見ゆ
(百年に1年たりない九十九歳の白髪の女が、私を恋い慕っているのが 面影に見える。)

その後、男がでかけようとしたので、女は家に戻って横になった。
在五中将が女の家の前で中を伺うと、女は次のように歌を詠んだ。

さむしろに 衣かたしき こよひもや こひしき人に あはでのみねむ
(狭いむしろに衣を一枚だけ敷き、今宵も恋しい人に会えずに寝るのだろうか。)

在五中将は女がかわいそうになり、その夜は女と寝た。

伊勢物語には単に「色気づいた女」とあるが、伊勢物語の注釈書『知顕集』には次のように記されている。
「このをんなは、をののこまちなり。小野小町とふ、こまちには子ありともきかぬに、三人ありといへり。いかなる人の子をうみけるぞや、おぼつかなし。」
(この女は小野小町である。小野小町に子供があったとは聞いたことがないが、三人の子がいるとしている。どんな人の子を産んだのかはっきりしない。)

業平が詠んだ歌に注目してほしい。

ももとせに ひととせ足らぬ つくも髪 我を恋ふらし おもかげに見ゆ
(百年に1年たりない九十九歳の白髪の女が、私を恋い慕っているのが 面影に見える。)

つくも髪は九十九髪と記し、白髪のことである。
そのココロは、「100-1=99」であり、「百引く一は白」だからである。うまい、座布団2枚!



白峯神宮 小町踊

白峯神宮 小町踊り

③小野小町は男だった?

私は小野小町とは男だと考えている。

こちら ↓ のシリーズにその理由を詳しく書いたのだが、簡単にまとめておこう。
http://arhrnrhr.blog.fc2.com/blog-category-15.html

①古今和歌集には男が女の身になって詠んだ歌がたくさんある。

②六歌仙とは古今和歌集仮名序で名前を挙げられた6人の歌人のことを言うが、古今和歌集仮名序は紀貫之が書いたと言われている。
この紀貫之は「土佐日記」で「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり」と自分は男であるが、女であると偽って日記を書くような一筋縄ではいかない人物だった。

③古今和歌集仮名序には次のようにある。
「小野小町は いにしへの衣通姫の流なり あはれなるやうにて強からず いはばよき女の悩めるところあるに似たり
強からぬは 女の歌なればなるべし」
やけに小町が女であることを強調しすぎてはいないだろうか。

④小野小町は穴がない体だったという伝説がある。
穴がない体とは男であるということではないのか。

⑤六歌仙とは歌のうまい歌人というのは現代人の誤解だと思う。
高田祟史さんは六歌仙は全員藤原氏と敵対していた人物であると指摘し「六歌仙は怨霊である」とおっしゃっている。

⑥六歌仙のうち、遍照・在原業平は惟喬親王の歌会のメンバーである。
また惟喬親王の歌会には紀有常(惟喬親王の叔父)も参加しているが、六歌仙の一・喜撰法師は紀有常だとする説がある。

惟喬親王は文徳天皇の第一皇子母親は紀有常の妹の紀静子だった。
文徳天皇より立太子が望まれていたが、世継ぎ争いに敗れ、藤原良房の娘・明子を母親にもつ惟仁親王(のちの清和天皇)が立太子している。

遍照・在原業平・紀有常らは歌会と称して惟喬親王を担ぎ上げてのクーデターを計画していたのではないかといわれている。

⑦惟喬親王は小野宮という広大な邸宅に住み、自身も小野宮と呼ばれていた。
小野小町とは小野宮=惟喬親王のことではないのか?

⑧三国町は一般には三国氏出身の女性だと考えられているが、『古今和歌集目録』は三国町を紀名虎の娘で仁明天皇の更衣(紀種子・・・紀静子の姉)としている。
また三条町は惟喬親王の母親・紀静子のことである。どうやら紀氏の女性を「町」と呼んでいるようである。
惟喬親王は三国町の甥であり、三条町の息子なので、三国町・三条町とは一代世代が若くなる。
そのため惟喬親王が女の身になって詠んだ歌の作者を小野小町としたのではないか。

⑨小野小町の歌「花のいろは うつりにけりな いたづらに わがみよにふる ながめせしまに」は
「花の色は 移りにけりな いたづらに わが御代に下(ふ)る 長雨せしまに」ではないか。
「御代」とは「天皇の治世」で「わが御代」とは「私が天皇となって治める世の中」となる。
「長雨」は「長天」にかかり、「下長天」で漢字を入れ替えると「長天下(長い天下)」となる。
「わが御代が長い天下となるだろう」と堂々と歌い上げることができる人物として、惟喬親王はふさわしい。

髄心院 薬医門 桜2

小野小町の邸宅跡とつたわる髄心院

惟喬親王には兼覧王という男子と三条町(叔母と同じ名前だが?)がいたらしいが、兼覧王は仁明天皇の第六皇子・国康親王の子ともされ、出自がはっきりしない。
ただ紀貫之は兼覧王に面会して感激したということが古今和歌集に記されている。
いうまでもなく紀貫之は紀氏の出身であり、紀氏の血をひく惟喬親王のことは敬愛していたことと思われる。
なので彼が、兼覧王の面会に感激したというのは、兼覧王が惟喬親王の子だからではないかと思ったりもする。

惟喬親王像 

惟喬親王像 木地師の里


また、小町が惟喬親王だとすれば、業平が惟喬親王と寝たというのは、男色である。
しかし日本において男色はふつうのこと、というより衆道と呼ばれるたしなみであった。
戦国武将の男色は有名だが、平安時代の藤原頼長の日記「台記」には頼長が稚児・舞人・武士・貴族たちとの男色が記されている。

大友家持=大友黒主は、はじめは白い神だったが、のちに黒い神に転じたと思われる。
ところが、小野小町には黒のイメージはなく、ずっと白い神であったようである。
両者の違いはどこにあるのか。

次回はそれを考えてみようと思う。


髄心院 小野小町

ライトペインティングのジミー西村さんと織物会社が共同制作したタペストリー(髄心院)


陰陽 黒と白 ⑬『惟喬親王、入定して紀仙法師となる?』 へつづく~
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[2018/10/06 22:27] 陰陽 黒と白 | トラックバック(-) | コメント(-)