人形の涙⑦ 人麿神社 『首が抜ける人麻呂像』 よりつづく~今日は2月3日、1年でもっとも寒い季節である。ちらちらと雪の降る中、田向山八幡宮で御田植祭が行われた。 舞殿に翁が登場して鍬で田おこしをする。牛の面を被った少年が隙を引き回す。翁が種籾を撒く翁が種籾を撒く。神殿前の舞殿に翁面を被った人が現れ、鋤で他を耕す所作をしたのち、牛の面を被った少年がモーモーと鳴きながら鋤を引き回した。そのあと翁は「福の種を蒔こうよ」と言いながら種籾を撒いた。最後に巫女・童子・田主・地謡の人々らが拝殿より豆を撒き、参拝者たちは競いあって豆を掴もうとしていた。 私はこれを見て気がついた。節分の追儺式を陰の行事とすると御田植祭とは追儺式を陽に転じた神事であることに。お田植祭は各地の神社で行われている。 大和神社のお田植祭は2月10日。廣瀬神社の砂掛け祭は2月11日。 (牛が鋤を引き回し、早乙女が田植えをするのでお田植祭だといっていいだろう。)廣瀬神社 砂掛け祭飛鳥坐神社のおんだ祭飛鳥坐神社のおんだ祭は2月の第1日曜日。 村屋坐弥冨都比売神社(むらやにますみふつひめじんじゃ)の御田祭は2月11日。葛木倭文坐天羽雷命神社のは4月15日である。 私はそれまでこれらの御田植祭を見に行ったことがあるにもかかわらず、御田植祭が節分行事であるということに気がつかなかった。これらの行事は節分ではない日に行われている。しかし、祭礼の日は変更されることもある。もともとの御田植祭とは手向山八幡宮のように、節分の日に行われていたのではないだろうか。御田植祭の神事は節分の追儺式にとてもよく似ている。 追儺式に登場する鬼は牛の角を生やし、虎のパンツを履いている石清水八幡宮 鬼やらい神事牛は干支の丑を、虎は干支の寅をあらわしているとする説がある。確かにそのとおりだろう。丑は12月、寅は1月である。なので、牛の角を生やし虎のパンツを履いている鬼は丑寅、すなわち1年の変わり目をあらわすものと考えられる。そして、それを追払うことで、目には見えない1年の移り変わりを視覚化したのが追儺式だといえるだろう。江戸時代までの日本では太陽太陰暦と二十四節気を併用しており、節分とは二十四節気の立春(正月)の前日、すなわち大晦日のことである。そのため江戸時代までは、正月が二回あったのである。 これを表す歌が古今和歌集にある。 年の内に 春はきにけり ひととせを 去年とや言はむ 今年とや言はむ/在原元方(太陽太陰暦ではまだ新年はやってきていないのに、二十四節気の立春がやってきてしまった。昨日までは去年と言うべきか、それとも今年というべきなのか。) そしてお田植祭では丑役の童子が登場するが、八卦では童子は丑寅を表している。つまり、牛は丑で12月、童子は丑寅で1年の変わり目を現すもので、節分の鬼と御田植祭の丑役の童子はどちらも1年の移り変わりをあらわすものだと考えられる。また追儺式では鬼を祓うが、御田植祭では丑寅をあらわす牛童を使って田おこしをする。また、追儺式では豆を撒いて鬼を追払うが、お田植祭では籾をまいて発芽させる。どうだろう、お田植祭は追儺式を福に転じたものだといえるのではないだろうか。お田植祭では丑役の童子が登場するが、平安時代の延喜式には『大寒の日に宮中の12の門に12組の童子が土牛を引くのを象った人形を立てる。これを立春の日の前夜(節分の夜)に撤去する』とある。 大寒の日に門にたてられた童子は艮、土牛は丑で1年の変わり目を表しているのだろう。なぜ節分の夜に撤去されるのだろうか。人形の涙⑨ 吉田神社 追やらい神事 『弓で射られる方相氏』 へつづく~トップページはこちらです→ 人形の涙① 高取土佐町 町屋の雛めぐり 『雛人形の首はなぜ抜けるのか』
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Author:ぜっと
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