人形の涙⑩ 貴船神社 夏越の祓 『夏越の祓とユダヤの過越祭』 よりつづく~
雛祭りに男女の市松人形を飾ることがある。

加茂船屋の雛祭でも、男女ペアの市松人形が何組か飾られていたが、男の子も女の子も同じ顔をしていた。
ネットを検索しても男女が同じ顔をした人形のペアの写真がたくさんでてくる。
https://search.yahoo.co.jp/image/search?rkf=2&ei=UTF-8&gdr=1&p=%E5%B8%82%E6%9D%BE%E4%BA%BA%E5%BD%A2+2%E4%BD%93+%E5%90%8C%E3%81%98%E9%A1%94
↑ こちらは大和郡山市の和菓子店・菊屋さんに置かれてあった市松人形である。
なぜ男女ペアの人形は同じ顔をしているのだろう?
男女ペアの人形は双子なのだろうか?
男女の双子は二卵性双生児で、一卵性双生児は同性のみだと思っていたが
ごくごくまれに、男女の一卵性双生児が生まれるそうである。
もともとはともにXY染色体をもつ男性だったのが、片方がY染色体を欠損し、その結果XOとなって女性となってしまうのだという。
染色体がXOというのはターナー症候群(ターナー女性)ではないかと思う。
ターナー症候群はまれに男女の一卵性双生児として生まれるケースがあるという。
ターナー症候群は身長が低かったり、第二次性徴がみられなかったり遅れたりすることがあるということだが、みなさん、ふつうに社会生活をおくっておられるそうである。
または性染色体がXXYで、XまたはY染色体がそれぞれ別に落とされて、性別が異なる一卵性多胎児が生まれるというケースも考えられるという。
しかし二卵性双生児でも兄妹または姉弟なので、よく似ているということはありそうだ。
私の知人のお嬢さんと息子さんの姉弟は年は5歳ほど離れているが、一卵性双生児かと思うくらい顔がよくにている。
なぜ雛祭りに同じ顔をした男女ペアの市松人形を飾るのだろうか。
市松人形の男性はお内裏様、女性はお雛様ということではないかと思う。
すると、お内裏様とお雛様は双子の兄妹または姉弟でなおかつ、夫婦なのか?

古には血の純潔を守るため同じ父親・同じ母親を持つ兄妹または姉弟の結婚はふつうにあったともいわれている。
細川智栄子さんの漫画「王家の紋章」に登場する古代エジプトの王女アイシスも同母弟のメンフィスを異性として愛しているという設定になっている。
メンフィスは21世紀からタイムスリップしてやってきたキャロルを愛しているので、アイシスの片思いなのだが。
古代エジプトだけでなく、古代の日本でも兄妹または姉弟の近親婚はふつうにあったのではないかと思う。
記紀を読むと兄妹または姉弟の夫婦が何組か登場するからである。
例えば、イザナギ&イザナミ、アシナヅチ&テナヅチなどが兄妹の夫婦である。
そして私たちがよく知っている、あの神々も姉弟でかつ夫婦である。
天照大神とスサノオである。
黄泉の国から戻ったイザナギが禊をし、左目を洗ったところ天照大神が、右目を洗ったところ月読命が、鼻を洗ったところスサノオが生まれたという。
天照大神・月読命・スサノオは三つ子として生まれたのだ。
その後、なぜか月読命は記紀にはほとんど登場しなくなってしまうのだが。
そして天照大神とスサノオが天の安川をはさんでうけいの子産みをするという話がある。
子産みをしたということは、天照大神とスサノオは夫婦だということである。
引眉をして殿上眉を描き、お歯黒をした三人官女。
人形の涙 市比賣神社 最終回 『私たちは天照大神を呪わされていた?』 へつづく~
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[2018/05/29 10:15]
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人形の涙⑨ 吉田神社 追やらい神事 『弓で射られる方相氏』 よりつづく~
水無月の晦日(6月30日)、各地の神社で名越神事が行われる。
ここ京都の貴船神社でも夏越神事が行われており、神事に参加するために大勢の参拝者が神社にやってくる。
貴船神社の本殿前には大きな茅の輪が置かれており、神職さんの後に続いて一般の参拝者たちも歌を唱和しながら茅の輪を潜った。
水無月の 夏越の祓ひ する人は、千歳の命 延ぶといふなり (1回目/左回り)
思ふこと みなつきねとて 麻の葉を 切りに切りても 祓ひつるかな(2回目/右回り)
蘇民将来 蘇民将来(3回目/左回り) 
茅輪潜りをするのは次の故事に基づくものである。
神代の昔、蘇民将来と巨旦将来という二人の兄弟があった。
蘇民将来は貧乏で巨旦将来は金持ちだった。
しかし貧乏ではあったが蘇民将来は武塔神(素戔嗚尊)に宿をかし、巨旦将来はこれを断った。
後に疫病が流行ったとき、武塔神は蘇民将来の子孫には茅の輪をつけて疫病から守ったが、茅の輪をつけない者はすべて死んだ。(備後国風土記) 私の友人はこんなことを言っていた。
「苗字が将来で、名前が蘇民と巨旦ということは、彼らは日本人ではないのではないか。
朝鮮や中国も苗字のあとに名前がくる。
名前のあとに苗字がくるのは西洋人である。
彼らは西洋人なのではないか。」
と。
↑ 布を裂く神事。布を裂く音で悪霊を退散させるとかなんとか言ってたような?(曖昧ですいません)確かに友人の言うことには一理あるかもしれない。
日本はシルクロードの東の到達点だった。遣隋使、遣唐使が大陸に送られ、また大陸から渡来人も多くやってきた。
東大寺の大仏の開眼導師を務めたのはインド出身の僧・菩提僊那(ぼだいせんな)だったというし、古代の日本は国際色が豊かであったと思われる。
実は夏越神事のルーツははるか西方にあるのではないか、とする説がある。
琉球地方には『シマクサラシ(疫祓いの意)』という風習がある。
牛を屠り、その血にススキの穂や桑の葉を浸し、家の門口や四隅に塗っておく。
こうしておくと、悪霊が入ってこないと言い伝えられ、旧暦の2月に行われることが多い。
同じような話が旧約聖書の『出エジプト記』の『過ぎ越しの物語』にある。
モーゼはすべての長老を呼び次のように言った。
『羊を過越の犠牲として屠りなさい。そしてその血にヒソプ(ハッカ科の植物)を浸し、鴨居と入り口の二本の柱に血を塗りなさい。そして夜があけるまで外に出ず、家の中に籠もっておくように。』と。
神ヤーベはエジプト人の家で生まれた初子を全て殺した。
その際、戸口に羊の血が塗られたユダヤ人の家には立ち寄らなかった。それにちなんでユダヤでは毎年、太陽暦の3月末から4月初めころ、過越祭が行われている。

それにしてもヤーベとは何とも身びいきで残酷な神だなあ、と思う。
琉球の『シマクサラシ』とユダヤの『過越祭』は日本の蘇民将来伝説に似ている。
血と茅は音が同じであるところから、日本では血のかわりに茅を使うのだろうか、などと思ったりする。
スサノオを祭る神社では『蘇民将来子孫也』と書いた護符を授与しており、人々はそれを求めて玄関に貼って魔よけにする。
同じ様にユダヤ人はメズサという神の言葉を書いた護符を家の門口につける。
蘇民将来は『将来蘇る民』と読める。
聖書には『終末にメシヤが到来し、死者は墓から蘇る』とある。
身びいきのメシヤが蘇させるのはユダヤ人であって、エジプト人ではないだろう。
蘇民将来はユダヤ人、巨旦将来はエジプト人のイメージと重なる。
蘇民将来がもてなした武塔神とはスサノオのことである。
スサノオは日本では牛頭天王と習合されている。
牛頭天王に対する信仰が日本に伝わってスサノオになったという説もある。
牛頭天王像は牛を頭に載せた姿のものもあるが、角の生えた姿で作られているものもある。
画像はこちら ↓
https://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E7%89%9B%E9%A0%AD%E5%A4%A9%E7%8E%8B&ei=UTF-8&rkf=1&oq=%E7%89%9B%E9%A0%AD%E5%A4%A9%E7%9A%87ミケランジェロが刻んだモーゼにもまた角がある。
ヘブライ語で光のことをkornと記す。
角もまたkornであり、ミケランジェロは光と角を間違えたのだろうとされている。
スサノオはモーゼをモデルとして作られた日本の神様なのかもしれない。
貴船の神は『丑の年の丑の月の丑の日の丑の刻』に貴船山に降臨したとされているのも気にかかる。
丑は牛で貴船の神はスサノオと同一神なのではないだろうか。
佐伯好郎氏によれば、中国ではローマを『大秦』、景教(ネストリウス派キリスト教)の寺院のことを『大秦寺』と言った。
渡来人であった秦氏は京都市右京区の太秦を本拠地としていたが『太秦』と『大秦』は点ひとつの違いである。
そして広隆寺は別名『太秦寺』とも呼ばれていた。
さらに広隆寺の弥勒菩薩半迦思惟像の手の印は、壁画に描かれた景教徒の手の印と全く同じだと言っておられる。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Maitreya_Koryuji.JPG
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/62/Maitreya_Koryuji.JPG よりお借りしました。
作者 日本語: 小川晴暘 上野直昭English: OGAWA SEIYOU and UENO NAOAKI [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由でこちら ↓ に正教のイコンの画像があるが、これも広隆寺弥勒菩薩の手の印によく似ている。
https://twitter.com/zam_zeed/status/602444256192532481秦氏は『秦の始皇帝の子孫である』と称しており、日本書紀は秦氏は百済より渡来したと記している。
しかし、秦氏が住んでいた地域から発掘される瓦のほとんどは新羅系であり、また新羅地方で広隆寺の弥勒菩薩像とそっくりな像が見つかっており、新羅系であるという説が有力である。
また朝鮮半島の南に伽耶という国があり、国力が弱く新羅や百済の影響を受けやすかった。
この伽耶が秦氏の故郷だとする説もある。
日本書紀には応神天皇14年に弓月君(ゆづきのきみ/秦氏の先祖とされる。新撰姓氏録では融通王となっている。)が民を率いて日本にやってきたと記されている。
ここから佐伯好郎氏は秦氏のルーツを中央アジアのバルバシ湖の南にあった『弓月王国』というキリスト教国であるとされた。

本殿前で茅輪くぐりをした後、参拝者に人形(ひとがた)が配られ、めいめい人形に息を吹きかけた。
人形に息を吹きかけて穢れを移すというおまじないである。
人形は仏像や神像と同じく神様である。
私は神様を自分のみがわりにするのは嫌なので、やらなかった。
神職さんたちは参拝者が息を吹きかけた人形を回収して木箱に納め、それから貴船川の下流にある禊ぎ場まで練り歩いていった。
そして神職さんたちは川べりに並んで貴船川に人形を流した。
無数の人形が花びらのように宙を舞い、清流を流れていった。
その人形の形はどこか十字架に磔になったキリストに似ているような気がした。
人形の涙⑪ 加茂船屋 ひなまつり 『お雛様とお内裏さまは双子だった?』 へつづく~
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[2018/05/26 09:59]
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人形の涙⑧ 手向山八幡宮 お田植祭 『御田植祭は追儺式を陽に転じた神事だった?』 よりつづく~
東一条通の北側は京都大学メインキャンパス、南側は吉田南キャンパスであり、東一条通は京都大学を分断する形で東西に伸びているが、それはそのまま吉田神社への参道となっている。
参道には露天商がずらりと並び、節分詣の参拝者で賑わっていた。
中には節分の縁起物である鰯を焼く店もあり、生臭い煙がたちこめていた。
京大志望の受験生は吉田神社に合格祈願に行くと必ず落ちる、という都市伝説がある。
一般には、吉田の神様は隣にある京大の学生の日ごろの行いをいつも見ていて、京大生にいい印象を持っていないからだなどと言われている。
しかし私はこのような都市伝説が生じたのは、吉田神社が藤原氏の神社であるからではないかと思う。
吉田神社は859年に藤原山蔭が藤原氏の氏神である奈良の春日大社の神を勧請して創祀した。
一方、学問の神とされるのは菅原道真である。
菅原道真は左大臣・藤原時平の讒言を受けて大宰府に左遷となり、失意のうちに死亡している。
道真は藤原氏を憎んでいるにちがいない。
それで藤原氏の神を祀る吉田神社を参拝する受験生は,道真公のご利益が受けられないと考えられたのではないだろうか。

冬の短い日が沈み、吉田神社の境内が闇に包まれると鬼やらい神事が始まった。
隣にいた少年が「鬼が来た!」と叫んだ。
赤い顔、金色に輝く四つの目、頭頂にはえた一本の角。赤い袍に高下駄を履き、右手には三叉に分かれた鉾を、左手には大きな楯を持っている。
しかしやってきたのは鬼ではない。
これは方相氏と呼ばれるものである。鬼に似ているが、方相氏は鬼を祓う正義の味方である。
そのあとに10人の童子(シン子と呼ばれる。シンの字は人偏に辰。)が続く。



次に赤鬼・青鬼・黄鬼が現れ、参拝者たちをおどす。
そして方相氏vs鬼の戦いとなる。
3匹の鬼はこん棒を持って方相似氏に向かっていくが、方相氏が鉾を振り下ろすと腰砕け状態となり、あたふたと山へと逃げ帰って行った。

方相氏は中国の天神、蚩蚘(シュウ)ではないかという説がある。
蚩蚘は炎帝神農氏の子孫であり、兵器を発明し、霧をあやつる力を持つ神である。
『帰蔵』という書物にには、『蚩蚘は八肱(八つの膝)、八趾(八つの足)、疏首(別れた首)を持つ』とある。
『疏首』というのは、首が二つあるということだろう。
私は蚩蚘とは二頭の獣が合体した神なのだと思う。
そう考えると蚩蚘が『八肱(八つの膝)、八趾(八つの足)』をもっていることの説明もつく。
獣は四趾(四つ足)である。四趾×2頭=八趾。
一本の脚に一肱(ひとつの膝)がある。獣は四足(四趾)なので四肱(四つの膝)がある。四肱(四つの膝)×2頭=八肱となる。
また『述異記』には『銅の頭に鉄の額、鉄石を食し、人の身体、牛の蹄、四つの目、六つの手を持つ』とある。
『四つの目』とあるのも二頭が合体しているからだろう。
二頭を合わせると足は8本だが、人の身体をしているとあるので、8本の足のうち2本が脚で、残りの6本が手(腕)ということだろう。

枕草子や源氏物語などに追儺式に登場する方相氏の記述がある。
それらの記述から平安時代の追儺式は次のようなものだったと考えられている。
追儺式は戌の刻(午後八時頃)に始まる。
天皇は紫辰殿に出御し、陰陽師が祭文を読みあげる。
次に方相氏が二十人ほどのシン子を従えて登場する。
方相氏は四つ目の黄金の面を着け、真っ赤な衣装(或いは上が黒、下が赤とも)を纏う。
方相氏は大舎人の中から体格のいいものが選ばれた。
方相氏は矛と盾を持ち、矛を地面に打ち鳴らして『鬼やらい、鬼やらい』と唱えて宮中を歩き回る。
その後に殿上人たちが桃の弓と葦の矢を持って続いた。桃の弓と葦の矢を持つのは、桃や葦に邪気を祓う力があるとされていたためである。
平安時代の追儺式と、吉田神社の追儺式には大きな違いがある。
もう一度、平安時代の追儺式についての記述を読んでほしい。
そう、平安時代の追儺式には方相氏は登場するが、鬼は登場しないのだ。
平安時代には鬼は目に見えないものとして追儺式が行われていたのだろう。
吉田神社のように、追儺式に鬼が登場するようになるのは、もう少し後の時代のことだと考えられる。

平安時代後期の人物、大江匡房の『江家次第』には『殿上人長橋の内に於いて方相を射る』とある。
なんと鬼を祓う正義のヒーロー、方相氏を射るというのである。
さらには室町時代の『公事根源』には、『鬼といふは方相氏の事なり。四目ありておそろしげなる面をきて、手に盾・鉾を持つ。』とある。
方相氏は怖そうな顔をしているので鬼と間違えられたのだろうか。
そういえばさきほど方相氏をみて「鬼が来た」と言った少年がいたではないか。
しかし私は、『江家次第』や『公事根源』が方相氏と鬼を混同したのではないと思う。
前回の記事の中で私は次のように書いた。
平安時代の延喜式には
『大寒の日に宮中の12の門にそれぞれ土牛を引くの童子を象った人形を立てる。これを立春の日の前夜(節分の夜)に撤去する』
とあると。
牛は丑、童子は八卦では艮(丑寅)を表す。
干支で12か月を表現すれば、丑は12月、寅は1月である。
牛は丑で12月を、童子は丑寅で12月と1月のあいだ、つまり1年の変わり目を表すものだと考えられる。
その像をなぜ大寒の日に門にたて、節分の夜に撤去するのだろうか。
それは『土牛を引く童子の像』が『身代わり人形』で、その像の中に冬の気を吸い込むことで、冬の気が宮中に入るのを阻止すると考えられたためではないだろうか。
ここから発展したのが方相氏による追儺式なのではないだろうか。
動かない人形よりも動く方相氏によって、もっと積極的かつ徹底的に冬の気を吸い込ませようというのだろう。
そして方相氏が冬の気を体内いっぱいに吸ったところで弓を射て、冬の気を一気に退治するという意図があったのではないだろうか。
息を吹きかけて穢れを移され、川や海に流されて葬られる人形と、方相氏は同じ役割を担わされているのだ。

下鴨神社 雛流し
貴船神社 名越の祓方相氏の正体は2頭の牛が合体したものだと考えられる。
そしてシン子は『童子』である。
つまり、シン子を引き連れた方相氏とは『牛を引く童子の像』と同じ意味を持つものだと考えられる。
方相氏は牛なので、干支の丑、12月をあらわしている。
シン子は童子で、童子は八卦では艮(丑寅)をあらわしている。
丑は12月で寅は1月なので、童子=シン子は1年の変わり目をあらわすもの、ということになる。
つまり、方相氏とシン子は目に見えない冬の気を視覚化したものだとも考えられる。
大寒の日、諸門にたてられた牛と童子の像は節分の日に撤去される。
撤去されたのち、どうされたのかは記述にないのでわからないが、流し雛のように川や海に流されたのかもしれない。
あるいは炮烙(ほうらく)のように割られるか。
壬生寺や千本閻魔堂では節分の日に炮烙を奉納し壬生寺は4月に、千本閻魔堂では5月の狂言の舞台で割る。
千本閻魔堂 炮烙割り方相氏とシン子も土牛や童子の像と同じ性質のもの、身代り人形だったと考えられる。
すなわち、その体内に冬の気を吸い込んだのち、弓で射られて殺される必要があったのではないだろうか。
それで、『江家次第』に『方相を射る』と記されているのだと思う。
『江家次第』を表した大江匡房は鬼と方相氏を混同したわけではないと思う。
『公事根源』に、『鬼といふは方相氏の事なり。』とあるのも、間違いだとは言い切れないと私は思う。
すでに見たとおり、方相氏は二頭の牛が合体した神だと思われる。
なぜ二頭の牛が合体しているのか。
密教の神・大聖歓喜天にこんな話がある。
インドのマラケラレツ王は大根と牛肉が大好物であった。
牛を食べつくすと死人の肉を食べるようになり、死人の肉を食べつくすと生きた人間を食べるようになった。
群臣や人民は王に反旗を翻した。
すると王は鬼王ビナヤキャとなって飛び去ってしまった。
その後国中に不幸なできごとが蔓延し、それらはビナヤキャの祟りであるとされた。
そこで十一面観音はビナヤキャの女神に姿を変え、ビナヤキャの前に現われた。
ビナヤキャはビナヤキャ女神に一目ぼれし、『自分のものになれ』と命令した。
女神は『仏法を守護することを誓うならおまえのものになろう』と言い、ビナヤキャは仏法守護を誓った。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3AIcon_of_Shoten.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/c7/Icon_of_Shoten.jpg よりお借りしました。
作者 不明 (平安時代の図像集『別尊雑記』(心覚 撰)巻 42より) [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で
神はその表れ方によって御霊(神の本質)・和魂(神の和やかな側面)・荒魂〈神の荒々しい側面)の3つに分けられ、女神は和魂、男神は荒魂だとする説がある。
とすれば、御霊とは男女双体ということになると思う。
大聖歓喜天の話は、この御霊・和魂・荒魂という概念にぴたりとあてはまる。
御霊・・・神の本質・・・・・・・男女双体・・・大聖歓喜天・・・・・方相氏(二頭の牛が合体している。)
和魂・・・神の和やかな側面・・・女神・・・・・ビナヤキャ女神・・・雌牛
荒魂・・・神の荒々しい側面・・・男神・・・・・ビナヤキャ・・・・・雄牛
大聖歓喜天の話から、男女を和合させるというのは、荒ぶる神を仏法守護の神に転じさせる呪術であったと考えられる。
牛の男神は1柱では鬼であるが、牛女神をあわせて男女双体にすれば、仏法守護の神に転じる。
それが方相氏の正体だと私は思う。
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