建築の神が住む町⑭ 西陣の聖徳太子信仰 その2 よりつづく~
①藤原家隆と聖徳太子と浄土宗
大報恩寺から300mほどいったところに「釘抜地蔵尊 石像寺」がある。
釘抜とは大工が用いるやっとこのことだ。
大工の棟梁と阿亀の伝説が残る大報恩寺と同じく、石像寺もまた建築の神を祀る寺だといえる。

石像寺は山号を「家隆山」という。
鎌倉時代、歌人の藤原家隆がこの寺で落髪して出家し、それ以降家隆山となったのだという。
石像寺の境内には藤原家隆の墓があるが、藤原家隆の墓(家隆塚)は大阪市天王寺区の四天王寺の近くにもある。
藤原家隆は1236年に病を患って出家し、四天王寺の近くに夕日庵を結んで日想観を行ったと伝えられる。
家隆塚はその夕日庵跡に建てられている。
日想観とは、 西に沈む太陽を見て、その丸い形を心に留める修行法のことである。
ということは藤原家隆は1236年に病を患って石像寺で出家し、その後四天王寺近くの夕日庵に移ったわけだ。
藤原家隆はなぜ石像寺で出家したのか。
それは石像寺が四天王寺と関係の深い寺だったからではないかと思う。
石像寺はもと真言宗であったが、重源(1121~1206)によって浄土宗に改められた。
家隆が出家したとき石像寺は浄土宗だったのだ。
浄土宗の開祖は法然だが、法然は藤原家隆が修した日想観と関係が深い。
法然は四天王寺別当・慈円の要請を受けて四天王寺の西門の近くに源空庵という草庵を結んだ。これが一心寺のルーツである。
その後、後白河法皇’(1127~1192)がここを訪れて法然とともに日想観を修したと伝えられる。
四天王寺 夕日四天王寺は現在は和宗、かつては天台宗に属していたこともあったそうだが、浄土宗であったことはないと思う。(間違っていれば指摘をお願いします。)
しかし浄土宗と四天王寺は関係があったのだ。
四天王寺は聖徳太子が創建した寺で、聖徳太子信仰が強い。
その四天王寺と浄土宗の関係が深かったということは、浄土宗は聖徳太子信仰が厚い宗派であったと考えられる。
浄土宗の寺・石像寺で出家し、浄土宗の開祖・法然の源空庵の近くに夕日庵を結んだ藤原家隆は聖徳太子を信仰していたのではないだろうか。
また、石像寺にももちろん聖徳太子信仰があったのではないかと思う。
②空海はキリストになろうとした?石像寺にはふたつの伝説が伝えられている。
a.遣唐使として唐に渡った弘法大師は、日本へ石を持ち帰り、地蔵菩薩を彫った。
そして「人々の諸悪・諸苦・諸病を救い助けん」と祈願した。
いろいろな苦しみを抜きとってくださるお地蔵様「苦抜(くぬき)地蔵」と呼ばれるようになり、その後「くぬき」がなまって「くぎぬき」になった。
b.室町時代、両手の痛みに悩む大商人・紀伊国屋道林がこのお地蔵さまに七日間願掛けすると、7日目の夜の夢の中にお地蔵様が現れた。
お地蔵さまは「手の痛みは、あなたが前世でわら人形に釘を打ち人をのろった報いである。」と言い、釘を抜いた。
商人が目覚めると手の痛みは治っていた。
aの伝説では苦抜地蔵は空海が刻んだものとあるが、これは「空海が成仏して地蔵菩薩になった」という意味だと思う。
その理由については下記の記事を参照してほしい。
参照/建築の神が住む町⑦ 東向観音寺 『菅原道真が刻んだ観音』
空海が遣唐使として唐へ行ったころ、唐では景教が流行していた。
景教とはネストリウス派キリスト教のことである。
空海は景教の教えをよく知っていたはずで、空海が伝えた真言密教も景教の影響を受けているとする説がある。
密教では灌頂(かんじょう)といって頭頂に水を濯ぐ儀式を行うが
これはキリスト教の洗礼の灌水(頭部に水を注ぐ)や滴礼(頭部に手で水滴をつける)によく似ている。
また「南無大師遍照金剛」という御宝号の「遍照金剛」とは空海の洗礼名で、聖書マタイ5:16にある 「あなたがたの光を人々の前で輝かせ」からとったともいわれている。
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[2017/10/25 18:23]
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