建築の神が住む町⑬ 西陣の聖徳太子信仰 その1
建築の神が住む町⑫ 釘抜地蔵 『またしても建築の神!』 よりつづく~
今までの旅の記事を書いたあとで、あっと気が付いたことがいくつかある。
そこで整理の意味もこめ、再度、今までの旅を振り返ってみたいと思う。
①北野廃寺跡は蜂岡寺跡?
駅の東北の角に京都信用金庫がある。
その京都信用銀行の南側、今出川通りに面したところに、小さな石碑があり「北野廃寺跡」と記されている。

北野廃寺跡は、蜂岡寺の跡であるとする説、野寺の跡とする説がある。
蜂岡寺とは現在太秦にある広隆寺の前身とされる寺である。
広隆寺は現在は太秦にあるが、もともとは別の場所にあり鉢岡寺という寺名だった。
この石碑があるあたりを発掘調査したところ、「鵤室(いかるがむろ)」と墨書された灰釉陶器が発見された。
奈良には斑鳩(いかるが)という地名があり、聖徳太子が創建したと伝わる法隆寺がある。
そして広隆寺は飛鳥時代に秦河勝が聖徳太子より授かった仏像を安置するために建てたと伝わっている。
「鵤室」と記された陶器があるのは、蜂岡寺が法隆寺と同じ聖徳太子ゆかりの寺であるためだというのだ。
広隆寺
また「野寺」と墨書された平安時代前期の土師器も発見されている。
野寺は別名を常住寺ともいい、日本後記に寺名が記載されている。
884年に焼失、復興されたが室町時代に廃寺となっている。
建築の神が住む町① 北野廃寺『北野廃寺は蜂岡寺跡?それとも野寺跡?』
②菅原道真は「年の変わり目」の神だった?
北野廃寺跡と記された石碑から、東へ400mほどのところに北野天満宮がある。

全国に天満宮は数多くあるが、たいてい境内には梅が植えられている。
梅が植えられているのは、天満宮の御祭神・菅原道真が藤原時平の讒言によって大宰府に左遷された際、道真の庭の梅が道真を慕って都から大宰府まで飛んできたという伝説(飛梅伝説)に基づくものだろう。
道真は梅の花の神だといってもいいだろう。
そして、道真は梅の花の神から「年の変わり目」の神へと神格を広げていく。
梅は1月1日、または2月3日の誕生花である。
旧暦1月1日は元旦で、このころから梅の花は咲き始める。
新暦2月3日は節分(立春の前日。暦法・二十四節気の大晦日)で、旧暦では正月ごろにあたる。
つまり、2月3日=大晦日、1月1日=元旦で、梅は「年の変わり目」をあらわし、梅の神・菅原道真は「年の変わり目」の神となったと考えられる。
建築の神が住む町② 北野天満宮 梅 『梅は1月1日と2月3日の誕生花』
菅原道真が「年の変わり目」の神であることを示す例は、他にもある。
京都では正月に梅干しを入れた大福茶を飲む習慣があり、北野天満宮ではこの大福茶に用いる大福梅を、正月事始めの12月13日より授与している。
北野天満宮で求めた大福梅
なぜ正月に梅干しをいれた大福茶を飲むのかというと、前述したように、梅が「年の変わり目」をあらわしているからだろう。
梅干しを入れたお茶を飲むことは、年の変わり目を飲み干すことで新年を迎えるというおまじないだと考えられる。
建築の神が住む町⑥ 大福梅授与 『目には見えない年の移り変わりを視覚化したおまじない』
また北野天満宮では大晦日から新年にかけて吉兆縄で御神火をもらいうける朮詣の習慣があり、この火を持ち帰り、お雑煮を焚いて食べると無病息災のご利益があるなどと言われている。
これも、道真が「年の変わり目」の神であるところから生じた習慣だと思う。

建築の神が住む町⑧ 北野天満宮 雪 朮詣 『天神さんは黄泉の神で1年の変わり目の神だった』
③丑寅は怨霊をあらわす?
②菅原道真は「年の変わり目」の神だった? で、道真は飛梅伝説から梅の神となり、梅は「年の変わり目」をあらわすので、道真は「年の変わり目」の神になったと書いた。
しかし、飛梅伝説から梅の神になったというよりは、道真は丑寅の神から梅の神、「年の変わり目」の神になったと考えたほうがいいかもしれない。
道真はすぐれた政治家で身分を超えて右大臣にまで登りつめた。(菅原氏は学者の家柄で政治家になれるような家柄ではなかった。)
道真に嫉妬した藤原時平は醍醐天皇に「道真は謀反を企てている」と讒言した。
その結果、道真は大宰府に左遷となり、数年後に亡くなった。
道真の死後、疫病や天災が相次ぎ、それらは道真の怨霊のしわざであると考えられた。
特に、清涼殿落雷事件では道真左遷に関与した多くの人物が死傷し、道真の怨霊の仕業として恐れられた。
怨霊とは鬼であるといっていいだろう。
道真は怨霊であり、鬼であった。
12か月を干支でいうと、12月は丑月、1月は月である。
二十四節気では小寒(新暦1月6日ごろ)から立春(新暦2月4日ごろ)までが丑月、立春(新暦2月4日ごろ)から啓蟄(新暦3月6日ごろ)までが寅月、である。
1月1日(旧暦)・・・旧暦の新年・・・・・・・・・・・寅
2月3日(新暦)・・・二十四節気の大晦日(節分)・・・丑
②菅原道真は「年の変わり目」の神だった? で、天満宮のシンボル・梅「年の変わり目」をあらわすと書いたが、梅=年の変わり目は、丑寅を表していると言ってもいい。
丑寅は暦では年の変わり目を表すが、方角では鬼の出入りする方角=鬼門である。
吉備津彦が退治した温羅という鬼は、別名を「丑寅御前」という。
このことは、丑寅=鬼であることを示している。
道真は鬼=丑寅の神=1年の変わり目の神=梅の神というふうに神格を広げていったのかもしれない。
④北野天満宮に秦氏の気配
私は北野天満宮に菅原道真の気配だけでなく、秦氏の気配を持感じた。
例えば、北野天満宮で正月に行われている新春奉納狂言。
新春奉納狂言では年によって異なる演目が演じられるが、『末広がり』と『福の神』のふたつの演目は毎年演じているそうである。
そのうち『福の神』には出雲の神(大国主命)と思われる神が登場し、参拝者が奉納した酒を、まず松尾の神に捧げてから飲み干すというシーンがある。

松尾の神とは松尾大社の神のことであり、松尾大社でも11月の上卯祭でこの「福の神」が奉納されている。
そして、松尾大社は秦氏の氏神なのだ。
つまり北野天満宮では毎年正月に福の神=出雲大社の神(大国主命)が、松尾大社の神=秦氏の神に酒を捧げているということになる。
北野天満宮は秦氏の神を厚く崇敬しているように思える。
狂言『末広がり』において、大蔵流では「傘を差すなる春日山、これもかみのちかいとて、人が傘を差すなら、われも傘を差そうよ…」(大蔵流)と謡うそうである。
(※北野天満宮の新春奉納狂言の『末広がり』では「傘を差すなる春日山、これもかみのちかいとて」と謡っていたかどうか、確認できなかったのだが。)
春日山は奈良市の春日大社の裏にある御蓋山(三笠山)の通称である。
三笠山という山名は、傘をさしたような山の形からくる。
それで「傘を差すなる春日山」と謡っているのだろう。

それでは、「人が傘を差すなら、われも傘を差そうよ…」とはどういう意味なのか。
「人」とは春日山のことではないかと思う。
そして「われ」とは松尾大社の裏にある松尾山のことではないか。
つまり、春日山が神が降臨した山だとされているように、松尾山も神が降臨した山になろう、と謡っているようにも思えるのである。
建築の神が住む町⑨ 北野天満宮 新春奉納狂言 福の神 『福の神の正体』
北野天満宮で節分の日に行われている北野追儺狂言は、北野天満宮の摂社・福部社の神が鬼を追いはらう狂言だとされる。

私は「福部(ふくべ)の神」と聞いて池田理代子さんの漫画の一コマを思い出した。
たしか「おにいさまへ・・・」という作品だったと思うが、主人公の女子高生が、校内マイクで「服部さん」を「ふくべさん」と言って呼び出してしまい、上級生に「ふくべではなく、はっとりとよむ」と注意されるシーンがあったのだ。
福部社の神は、もともとは服部社だったなんてことはないだろうか。
服部氏は秦氏の末流だとされているのだが。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~suzakihp/index40.html
↑ こちらのページで服部を検索してみると、服部という姓の読み方として、ハットリ・ハトリ・ハトリベ・フクベ・フクイ・ハッタとでてくる。
やはり福部社は服部社であり、秦氏の神を祀る神社である可能性が高いと思う。
⑤北野天満宮の地主神社の御祭神は聖徳太子?

北野天満宮 楼門
上の地図を見ていだくと、楼門と三光門、本殿(三光門の真上の北野天満宮の文字があるところ)が一直線に並んでおらず、楼門から三光門、本殿がやや東にずれていることがわかる。
神社の本殿は参道の正面にあるのが一般的なのだが、北野天満宮の楼門参道の正面には地主神社がある。
北野天満宮にはもともと地主神社があり、その後菅原道真公を祀る神社が建てられたのだが、その際、もともとここに鎮座していた地主神社の正面を避けて道真公を祀る神社を建てたためであるという。
地主神社
こんなことを聞いたこともある。
「もともと天神さんとは菅原道真のことではなかった。しかし、清涼殿の落雷が菅原道真の怨霊によるものだとされたことで、天神さんとは菅原道真のこととされるようになった。」
北野天神縁起には清涼殿で暴れる鬼(雷神/天神)が描かれているが、この鬼は道真の怨霊なのだろう。

『北野天神縁起』(承久本)巻六より。宮中清涼殿に雷を落とす雷神と逃げまどう公家たち
https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3AKitano_Tenjin_Engi_Emaki_-_Jokyo_-_Thunder_God2.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/a2/Kitano_Tenjin_Engi_Emaki_-_Jokyo_-_Thunder_God2.jpg
よりお借りしました。
作者 不明 [Public domain または Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で
地主神社の神もまた、雷神だったのではないだろうか。
ところが③丑寅は怨霊をあらわす?で書いたように、道真の死後相次いだ疫病や天災、特に清涼殿落雷事件が、道真の怨霊の仕業であると考えられたため、道真こそが雷神であると考えられ、もともと雷神が鎮座していた土地に道真は祀られることになったのではないだろうか。
北野白梅町駅の東北の角に「北野廃寺跡」と刻まれた石碑があり、かつて石碑前の交差点を中心として225m四方に及ぶ寺域を持つ寺があったと考えられている。
北野天満宮の地主神社はその石碑から600mほど東北に位置する。
徒歩5分は約400mであるとされる。600mは歩いて約7.5分ほどで、地主神社と北野廃寺はたいへん近い場所にあったといえる。
そして江戸時代までの日本では神仏は習合して信仰されていた。
神仏習合のベースとなったのは本地垂迹説という考え方である。
本地垂迹説とは日本古来の神々は仏教の神々が衆上を救うために仮にこの世に姿を表したものとする考え方で
日本古来の神々のもともとの姿である仏教の神々のことを本地仏、仏教の神々は仮にこの世に姿を現した日本古来の神々のことを権現といった。
例えば天照大神は大日如来の権現であるとか、スサノオの本地仏は牛頭天皇であるなどと考えられていたのである。
もしかして北野天満宮境内にある地主神社に祀られている神は、・北野廃寺の本尊を本地仏とする権現なのではないだろうか?
そして、④北野天満宮に秦氏の気配 で見てきたように北野天満宮には秦氏の気配がある。
北野廃寺跡は「広隆寺の前身の蜂岡寺跡」とする説、「野寺」とする説があるが、広隆寺は秦氏の氏寺である。
北野廃寺は広隆寺の前身の蜂岡寺跡ではないか。
広隆寺の本尊は聖徳太子だ。
北野天満宮境内の地主神社の御祭神とは聖徳太子ではないか?
⑥聖徳太子怨霊説
⑤北野天満宮の地主神社の御祭神は聖徳太子? で私は「おそらく地主神社の神は雷神であったのだろう。」と書いた。
地主神社の御祭神が聖徳太子だとすると、聖徳太子は雷神だということになるが、聖徳太子が雷神だと考えられていたと思われることがらがある。
梅原猛さんは「聖徳太子は怨霊である」と説かれた。
怨霊とは政治的陰謀によって不幸な死を迎えた人のことで、天災や疫病は怨霊のしわざでひきおこされると考えられていた。
聖徳太子の子孫は全員、蘇我入鹿に責められて法隆寺で首をくくって死んだ。
聖徳太子の子孫は繁栄せず、そのため聖徳太子は怨霊になったと、人々に考えられたというのである。
聖徳太子は日本で最も崇敬されている人物であるが、現在の日本人に聖徳太子の血は一滴も流れていないのである。
井沢元彦さんは梅原猛さんの説を受け、先祖の霊は子孫が祭祀供養するべきとされているのに、聖徳太子には祭祀供養を行う子孫がいなくなってしまったため、人々は聖徳太子は怨霊になったと考えたというような意味のことをおっしゃられていた。
聖徳太子が建てた法隆寺の中門には柱がある。
一般的な門にはこのような柱はもうけられない。
梅原猛さんは、門に柱をたてれば閂であるとし、法隆寺は聖徳太子の怨霊封じ込めの寺であると説かれた。

法隆寺 中門
また法隆寺の夢殿の扉をあけると大地震がおこると言い伝えられ、夢殿のとびらは長年鍵がかけられたままの状態になっていた。
明治時代、アメリカの東洋美術史家であるフェノロサによって夢殿は開扉され、中からフランケンシュタインのように包帯状の布でぐるぐる巻きにされた仏像が発見された。
この像は『聖徳太子等身大の像』と伝わる救世観音で、光背が頭に直接釘で打ち付けられていた。
光背は仏の足元に棒を立ててその棒にとりつけるのが一般的で、救世観音のような様式は大変珍しい。
これについても梅原氏は聖徳太子の怨霊封じ込めの呪術であろう、と説かれた。
夢殿
そして、日本書紀670年の記事に次のように記されている。
「夏四月30日の あかつきに 法隆寺に火つけり ひとつのたてものも あまることなし。大雨降り雷なる」
法隆寺は長年「非再建論」と「再建論」があって対立していた。
再建論の根拠はもちろん日本書紀670年の記事である。
一方、非再建論は、金堂や塔などが645年の大化の改新以前に用いられていた高麗尺で設計されていることを根拠としていた。
しかし、発掘調査の結果、西院伽藍南東部より火災にあった跡のある伽藍跡(若草伽藍)が見つかったため、現在では再建論が有力となっている。
1943年から1954年に解体修理が行われ、腐っていた塔の心柱が一部取り外された。
2001年、その心柱を年輪年代法で測定したところ、594年に伐採された桧であるとされた。
しかし、非再建論はたいしてぶり返さず、移築したのではないかとか、伐採されて長年放置した木材を用いたのではないかという説が唱えられている。
若草伽藍に焼け跡があることなどから、日本書紀670年の法隆寺炎上の記事は事実ではないかと私は考える。
「大雨ふり雷なる」とあるので、落雷があって炎上したのではないだろうか。
平安時代、清凉殿に落雷があったのと同じように。
そして法隆寺落雷炎上事件は聖徳太子の怨霊の仕業であると考えられ、聖徳太子は雷神とあがめられるようになったのではないだろうか。
⑦聖徳太子と牛
天満宮のシンボルは梅のほか、牛もある。

聖徳太子が創建したと伝わる朝護孫子寺では、虎をシンボルとしており、聖徳太子には虎=寅の神というイメージがあるのだが
それだけではなく、聖徳太子には牛=丑のイメージもある。
長野県に牛伏寺(ごふくじ)という寺があり、次のような伝説が伝わっているというのだ。
聖徳太子が42歳の時に自ら刻んだ観音像を本尊として鉢伏山に安置した。
756年、唐からもたらされた大船若経600巻を善光寺奉納する途中、経典を運んでいたところ、2頭の牛が倒れたことから牛伏寺と名付けられた。
毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!
今までの旅の記事を書いたあとで、あっと気が付いたことがいくつかある。
そこで整理の意味もこめ、再度、今までの旅を振り返ってみたいと思う。
①北野廃寺跡は蜂岡寺跡?
駅の東北の角に京都信用金庫がある。
その京都信用銀行の南側、今出川通りに面したところに、小さな石碑があり「北野廃寺跡」と記されている。

北野廃寺跡は、蜂岡寺の跡であるとする説、野寺の跡とする説がある。
蜂岡寺とは現在太秦にある広隆寺の前身とされる寺である。
広隆寺は現在は太秦にあるが、もともとは別の場所にあり鉢岡寺という寺名だった。
この石碑があるあたりを発掘調査したところ、「鵤室(いかるがむろ)」と墨書された灰釉陶器が発見された。
奈良には斑鳩(いかるが)という地名があり、聖徳太子が創建したと伝わる法隆寺がある。
そして広隆寺は飛鳥時代に秦河勝が聖徳太子より授かった仏像を安置するために建てたと伝わっている。
「鵤室」と記された陶器があるのは、蜂岡寺が法隆寺と同じ聖徳太子ゆかりの寺であるためだというのだ。

広隆寺
また「野寺」と墨書された平安時代前期の土師器も発見されている。
野寺は別名を常住寺ともいい、日本後記に寺名が記載されている。
884年に焼失、復興されたが室町時代に廃寺となっている。
建築の神が住む町① 北野廃寺『北野廃寺は蜂岡寺跡?それとも野寺跡?』
②菅原道真は「年の変わり目」の神だった?
北野廃寺跡と記された石碑から、東へ400mほどのところに北野天満宮がある。

全国に天満宮は数多くあるが、たいてい境内には梅が植えられている。
梅が植えられているのは、天満宮の御祭神・菅原道真が藤原時平の讒言によって大宰府に左遷された際、道真の庭の梅が道真を慕って都から大宰府まで飛んできたという伝説(飛梅伝説)に基づくものだろう。
道真は梅の花の神だといってもいいだろう。
そして、道真は梅の花の神から「年の変わり目」の神へと神格を広げていく。
梅は1月1日、または2月3日の誕生花である。
旧暦1月1日は元旦で、このころから梅の花は咲き始める。
新暦2月3日は節分(立春の前日。暦法・二十四節気の大晦日)で、旧暦では正月ごろにあたる。
つまり、2月3日=大晦日、1月1日=元旦で、梅は「年の変わり目」をあらわし、梅の神・菅原道真は「年の変わり目」の神となったと考えられる。
建築の神が住む町② 北野天満宮 梅 『梅は1月1日と2月3日の誕生花』
菅原道真が「年の変わり目」の神であることを示す例は、他にもある。
京都では正月に梅干しを入れた大福茶を飲む習慣があり、北野天満宮ではこの大福茶に用いる大福梅を、正月事始めの12月13日より授与している。

北野天満宮で求めた大福梅
なぜ正月に梅干しをいれた大福茶を飲むのかというと、前述したように、梅が「年の変わり目」をあらわしているからだろう。
梅干しを入れたお茶を飲むことは、年の変わり目を飲み干すことで新年を迎えるというおまじないだと考えられる。
建築の神が住む町⑥ 大福梅授与 『目には見えない年の移り変わりを視覚化したおまじない』
また北野天満宮では大晦日から新年にかけて吉兆縄で御神火をもらいうける朮詣の習慣があり、この火を持ち帰り、お雑煮を焚いて食べると無病息災のご利益があるなどと言われている。
これも、道真が「年の変わり目」の神であるところから生じた習慣だと思う。

建築の神が住む町⑧ 北野天満宮 雪 朮詣 『天神さんは黄泉の神で1年の変わり目の神だった』
③丑寅は怨霊をあらわす?
②菅原道真は「年の変わり目」の神だった? で、道真は飛梅伝説から梅の神となり、梅は「年の変わり目」をあらわすので、道真は「年の変わり目」の神になったと書いた。
しかし、飛梅伝説から梅の神になったというよりは、道真は丑寅の神から梅の神、「年の変わり目」の神になったと考えたほうがいいかもしれない。
道真はすぐれた政治家で身分を超えて右大臣にまで登りつめた。(菅原氏は学者の家柄で政治家になれるような家柄ではなかった。)
道真に嫉妬した藤原時平は醍醐天皇に「道真は謀反を企てている」と讒言した。
その結果、道真は大宰府に左遷となり、数年後に亡くなった。
道真の死後、疫病や天災が相次ぎ、それらは道真の怨霊のしわざであると考えられた。
特に、清涼殿落雷事件では道真左遷に関与した多くの人物が死傷し、道真の怨霊の仕業として恐れられた。
怨霊とは鬼であるといっていいだろう。
道真は怨霊であり、鬼であった。
12か月を干支でいうと、12月は丑月、1月は月である。
二十四節気では小寒(新暦1月6日ごろ)から立春(新暦2月4日ごろ)までが丑月、立春(新暦2月4日ごろ)から啓蟄(新暦3月6日ごろ)までが寅月、である。
1月1日(旧暦)・・・旧暦の新年・・・・・・・・・・・寅
2月3日(新暦)・・・二十四節気の大晦日(節分)・・・丑
②菅原道真は「年の変わり目」の神だった? で、天満宮のシンボル・梅「年の変わり目」をあらわすと書いたが、梅=年の変わり目は、丑寅を表していると言ってもいい。
丑寅は暦では年の変わり目を表すが、方角では鬼の出入りする方角=鬼門である。
吉備津彦が退治した温羅という鬼は、別名を「丑寅御前」という。
このことは、丑寅=鬼であることを示している。
道真は鬼=丑寅の神=1年の変わり目の神=梅の神というふうに神格を広げていったのかもしれない。
④北野天満宮に秦氏の気配
私は北野天満宮に菅原道真の気配だけでなく、秦氏の気配を持感じた。
例えば、北野天満宮で正月に行われている新春奉納狂言。
新春奉納狂言では年によって異なる演目が演じられるが、『末広がり』と『福の神』のふたつの演目は毎年演じているそうである。
そのうち『福の神』には出雲の神(大国主命)と思われる神が登場し、参拝者が奉納した酒を、まず松尾の神に捧げてから飲み干すというシーンがある。

松尾の神とは松尾大社の神のことであり、松尾大社でも11月の上卯祭でこの「福の神」が奉納されている。
そして、松尾大社は秦氏の氏神なのだ。
つまり北野天満宮では毎年正月に福の神=出雲大社の神(大国主命)が、松尾大社の神=秦氏の神に酒を捧げているということになる。
北野天満宮は秦氏の神を厚く崇敬しているように思える。
狂言『末広がり』において、大蔵流では「傘を差すなる春日山、これもかみのちかいとて、人が傘を差すなら、われも傘を差そうよ…」(大蔵流)と謡うそうである。
(※北野天満宮の新春奉納狂言の『末広がり』では「傘を差すなる春日山、これもかみのちかいとて」と謡っていたかどうか、確認できなかったのだが。)
春日山は奈良市の春日大社の裏にある御蓋山(三笠山)の通称である。
三笠山という山名は、傘をさしたような山の形からくる。
それで「傘を差すなる春日山」と謡っているのだろう。

それでは、「人が傘を差すなら、われも傘を差そうよ…」とはどういう意味なのか。
「人」とは春日山のことではないかと思う。
そして「われ」とは松尾大社の裏にある松尾山のことではないか。
つまり、春日山が神が降臨した山だとされているように、松尾山も神が降臨した山になろう、と謡っているようにも思えるのである。
建築の神が住む町⑨ 北野天満宮 新春奉納狂言 福の神 『福の神の正体』
北野天満宮で節分の日に行われている北野追儺狂言は、北野天満宮の摂社・福部社の神が鬼を追いはらう狂言だとされる。

私は「福部(ふくべ)の神」と聞いて池田理代子さんの漫画の一コマを思い出した。
たしか「おにいさまへ・・・」という作品だったと思うが、主人公の女子高生が、校内マイクで「服部さん」を「ふくべさん」と言って呼び出してしまい、上級生に「ふくべではなく、はっとりとよむ」と注意されるシーンがあったのだ。
福部社の神は、もともとは服部社だったなんてことはないだろうか。
服部氏は秦氏の末流だとされているのだが。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~suzakihp/index40.html
↑ こちらのページで服部を検索してみると、服部という姓の読み方として、ハットリ・ハトリ・ハトリベ・フクベ・フクイ・ハッタとでてくる。
やはり福部社は服部社であり、秦氏の神を祀る神社である可能性が高いと思う。
⑤北野天満宮の地主神社の御祭神は聖徳太子?

北野天満宮 楼門
上の地図を見ていだくと、楼門と三光門、本殿(三光門の真上の北野天満宮の文字があるところ)が一直線に並んでおらず、楼門から三光門、本殿がやや東にずれていることがわかる。
神社の本殿は参道の正面にあるのが一般的なのだが、北野天満宮の楼門参道の正面には地主神社がある。
北野天満宮にはもともと地主神社があり、その後菅原道真公を祀る神社が建てられたのだが、その際、もともとここに鎮座していた地主神社の正面を避けて道真公を祀る神社を建てたためであるという。

地主神社
こんなことを聞いたこともある。
「もともと天神さんとは菅原道真のことではなかった。しかし、清涼殿の落雷が菅原道真の怨霊によるものだとされたことで、天神さんとは菅原道真のこととされるようになった。」
北野天神縁起には清涼殿で暴れる鬼(雷神/天神)が描かれているが、この鬼は道真の怨霊なのだろう。

『北野天神縁起』(承久本)巻六より。宮中清涼殿に雷を落とす雷神と逃げまどう公家たち
https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3AKitano_Tenjin_Engi_Emaki_-_Jokyo_-_Thunder_God2.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/a2/Kitano_Tenjin_Engi_Emaki_-_Jokyo_-_Thunder_God2.jpg
よりお借りしました。
作者 不明 [Public domain または Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で
地主神社の神もまた、雷神だったのではないだろうか。
ところが③丑寅は怨霊をあらわす?で書いたように、道真の死後相次いだ疫病や天災、特に清涼殿落雷事件が、道真の怨霊の仕業であると考えられたため、道真こそが雷神であると考えられ、もともと雷神が鎮座していた土地に道真は祀られることになったのではないだろうか。
北野白梅町駅の東北の角に「北野廃寺跡」と刻まれた石碑があり、かつて石碑前の交差点を中心として225m四方に及ぶ寺域を持つ寺があったと考えられている。
北野天満宮の地主神社はその石碑から600mほど東北に位置する。
徒歩5分は約400mであるとされる。600mは歩いて約7.5分ほどで、地主神社と北野廃寺はたいへん近い場所にあったといえる。
そして江戸時代までの日本では神仏は習合して信仰されていた。
神仏習合のベースとなったのは本地垂迹説という考え方である。
本地垂迹説とは日本古来の神々は仏教の神々が衆上を救うために仮にこの世に姿を表したものとする考え方で
日本古来の神々のもともとの姿である仏教の神々のことを本地仏、仏教の神々は仮にこの世に姿を現した日本古来の神々のことを権現といった。
例えば天照大神は大日如来の権現であるとか、スサノオの本地仏は牛頭天皇であるなどと考えられていたのである。
もしかして北野天満宮境内にある地主神社に祀られている神は、・北野廃寺の本尊を本地仏とする権現なのではないだろうか?
そして、④北野天満宮に秦氏の気配 で見てきたように北野天満宮には秦氏の気配がある。
北野廃寺跡は「広隆寺の前身の蜂岡寺跡」とする説、「野寺」とする説があるが、広隆寺は秦氏の氏寺である。
北野廃寺は広隆寺の前身の蜂岡寺跡ではないか。
広隆寺の本尊は聖徳太子だ。
北野天満宮境内の地主神社の御祭神とは聖徳太子ではないか?
⑥聖徳太子怨霊説
⑤北野天満宮の地主神社の御祭神は聖徳太子? で私は「おそらく地主神社の神は雷神であったのだろう。」と書いた。
地主神社の御祭神が聖徳太子だとすると、聖徳太子は雷神だということになるが、聖徳太子が雷神だと考えられていたと思われることがらがある。
梅原猛さんは「聖徳太子は怨霊である」と説かれた。
怨霊とは政治的陰謀によって不幸な死を迎えた人のことで、天災や疫病は怨霊のしわざでひきおこされると考えられていた。
聖徳太子の子孫は全員、蘇我入鹿に責められて法隆寺で首をくくって死んだ。
聖徳太子の子孫は繁栄せず、そのため聖徳太子は怨霊になったと、人々に考えられたというのである。
聖徳太子は日本で最も崇敬されている人物であるが、現在の日本人に聖徳太子の血は一滴も流れていないのである。
井沢元彦さんは梅原猛さんの説を受け、先祖の霊は子孫が祭祀供養するべきとされているのに、聖徳太子には祭祀供養を行う子孫がいなくなってしまったため、人々は聖徳太子は怨霊になったと考えたというような意味のことをおっしゃられていた。
聖徳太子が建てた法隆寺の中門には柱がある。
一般的な門にはこのような柱はもうけられない。
梅原猛さんは、門に柱をたてれば閂であるとし、法隆寺は聖徳太子の怨霊封じ込めの寺であると説かれた。

法隆寺 中門
また法隆寺の夢殿の扉をあけると大地震がおこると言い伝えられ、夢殿のとびらは長年鍵がかけられたままの状態になっていた。
明治時代、アメリカの東洋美術史家であるフェノロサによって夢殿は開扉され、中からフランケンシュタインのように包帯状の布でぐるぐる巻きにされた仏像が発見された。
この像は『聖徳太子等身大の像』と伝わる救世観音で、光背が頭に直接釘で打ち付けられていた。
光背は仏の足元に棒を立ててその棒にとりつけるのが一般的で、救世観音のような様式は大変珍しい。
これについても梅原氏は聖徳太子の怨霊封じ込めの呪術であろう、と説かれた。

夢殿
そして、日本書紀670年の記事に次のように記されている。
「夏四月30日の あかつきに 法隆寺に火つけり ひとつのたてものも あまることなし。大雨降り雷なる」
法隆寺は長年「非再建論」と「再建論」があって対立していた。
再建論の根拠はもちろん日本書紀670年の記事である。
一方、非再建論は、金堂や塔などが645年の大化の改新以前に用いられていた高麗尺で設計されていることを根拠としていた。
しかし、発掘調査の結果、西院伽藍南東部より火災にあった跡のある伽藍跡(若草伽藍)が見つかったため、現在では再建論が有力となっている。
1943年から1954年に解体修理が行われ、腐っていた塔の心柱が一部取り外された。
2001年、その心柱を年輪年代法で測定したところ、594年に伐採された桧であるとされた。
しかし、非再建論はたいしてぶり返さず、移築したのではないかとか、伐採されて長年放置した木材を用いたのではないかという説が唱えられている。
若草伽藍に焼け跡があることなどから、日本書紀670年の法隆寺炎上の記事は事実ではないかと私は考える。
「大雨ふり雷なる」とあるので、落雷があって炎上したのではないだろうか。
平安時代、清凉殿に落雷があったのと同じように。
そして法隆寺落雷炎上事件は聖徳太子の怨霊の仕業であると考えられ、聖徳太子は雷神とあがめられるようになったのではないだろうか。
⑦聖徳太子と牛
天満宮のシンボルは梅のほか、牛もある。

聖徳太子が創建したと伝わる朝護孫子寺では、虎をシンボルとしており、聖徳太子には虎=寅の神というイメージがあるのだが
それだけではなく、聖徳太子には牛=丑のイメージもある。
長野県に牛伏寺(ごふくじ)という寺があり、次のような伝説が伝わっているというのだ。
聖徳太子が42歳の時に自ら刻んだ観音像を本尊として鉢伏山に安置した。
756年、唐からもたらされた大船若経600巻を善光寺奉納する途中、経典を運んでいたところ、2頭の牛が倒れたことから牛伏寺と名付けられた。
建築の神が住む町⑭ 西陣の聖徳太子信仰 その2 につづく~
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