建築の神が住む町⑫ 釘抜地蔵 『またしても建築の神!』
①またしても建築の神!
大報恩寺のおかめ節分を見学したのち、ぶらぶらと町を散策していると、「釘抜地蔵尊 石像寺」と記された石碑が目に留まった。
大報恩寺から300mほど東北の位置だ。

石像寺
大報恩寺には大工の棟梁とおかめの伝説が伝わっていた。
大工の棟梁とおかめは建築の神だといえる。
参照/建築の神が住む町⑪ 大報恩寺 おかめ節分 『大報恩寺に残る聖徳太子信仰?』

大報恩寺 おかめ節分会
そして今度は釘抜地蔵だ。
釘抜地蔵とは、またしても建築の神(みほとけというべきか?)ではないか。
このあたりではよほど建築の神が信仰されていたのだろう。
門をくぐって歩いていくと、大きなやっとこ(釘抜き)のモニュメントが置かれていた。

石像寺
本堂の壁には釘抜きと八寸釘の絵馬がびっしりと貼り付けられていて、その信仰の厚さがうかがえる。

石像寺 絵馬
②石像寺に伝わるふたつの伝説
石像寺にはふたつの伝説が伝えられている。
a.遣唐使として唐に渡った弘法大師は、日本へ石を持ち帰り、地蔵菩薩を彫った。
そして「人々の諸悪・諸苦・諸病を救い助けん」と祈願した。
いろいろな苦しみを抜きとってくださるお地蔵様「苦抜(くぬき)地蔵」と呼ばれるようになり、その後「くぬき」がなまって「くぎぬき」になった。
b.室町時代、両手の痛みに悩む大商人・紀伊国屋道林がこのお地蔵さまに七日間願掛けすると、7日目の夜の夢の中にお地蔵様が現れた。
お地蔵さまは「手の痛みは、あなたが前世でわら人形に釘を打ち人をのろった報いである。」と言い、釘を抜いた。
商人が目覚めると手の痛みは治っていた。

石像寺 本堂
③苦抜地蔵は空海の成仏した姿?
aの伝説では苦抜地蔵は空海が刻んだものとある。
そこで思い出してほしい。
東向観音寺の門前にあった「天満宮御本地仏 十一面観世音菩薩」と刻まれた石碑のことを。
参照/建築の神が住む町⑦ 東向観音寺 『菅原道真が刻んだ観音』
「天満宮御本地仏 十一面観世音菩薩」とは「天満宮(菅原道真)は十一面観音の生まれ変わりである。」とか「天満宮のもともとの正体である十一面観音をお祀りしています」というような意味だ。

そしてこの東向観音寺の十一面観音は菅原道真が刻んだとも伝わっている。
菅原道真が刻んだと伝わる十一面観音は道明寺にもある。
残念ながら東向観音寺の十一面観音は拝観できなかったのだが、道明寺の十一面観音はウィキペディアに写真があった。

十一面観音像 〈道明寺)
https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3AElevenFaced_Kannon_Domyoji.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/eb/ElevenFaced_Kannon_Domyoji.jpg よりお借りしました。
作者 OGAWA SEIYOU(1894-1960) a famous photographer in Japan [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で
このような素晴らしい仏像を政治家が片手間に刻むことは可能だろうか?
何年も仏像作り一筋に修行してきた仏師でなければ無理ではないだろうか。
私はこの仏像は実際に道真が刻んだのではないと思う。
道真は大宰府に流罪となり数年後に亡くなった。
その後、都では疫病が流行り、天災があいついだ。そしてそれらは道真の怨霊のしわざだと考えられた。
成仏とは悟りを開いて煩悩を捨てることである。
人々は道真の怨霊が成仏することを望み、道真が成仏したことを、目に見える仏像という形で残したのだろう。
そして、「道真が成仏した」ということを比喩的に、「道真が十一面観音を刻んだ」と表現したのではないだろうか。
とすれば空海が刻んだ地蔵菩薩もまた、空海が成仏した姿として刻まれたもので、実際に空海が刻んだものではないと考えられる。

石像寺 絵馬
④空海はキリストになりたかった?
ただし、空海が怨霊であったようには思われない。
怨霊とは政治的陰謀によって不幸な死を迎えた人のことで、疫病の流行や天災は怨霊のしわざでひきおこされると考えられていた。
しかし空海が政治的陰謀によって不幸な死を迎えたようには思えない。
空海にはもちろんつらいことや、大変なこともあっただろうが、朝廷より東寺や高野山を賜っており、宗教家として大変成功した人物のように思えるからだ。

高野山

東寺
空海が遣唐使として唐へ行ったころ、唐では景教が流行していた。
景教とはネストリウス派キリスト教のことである。
空海は景教の教えをよく知っていたはずで、空海が伝えた真言密教も景教の影響を受けているとする説がある。
密教では灌頂(かんじょう)といって頭頂に水を濯ぐ儀式を行うが
これはキリスト教の洗礼の灌水(頭部に水を注ぐ)や滴礼(頭部に手で水滴をつける)によく似ている。
また「南無大師遍照金剛」という御宝号の「遍照金剛」とは空海の洗礼名で、聖書マタイ5:16にある 「あなたがたの光を人々の前で輝かせ」からとったともいわれている。
遍照金剛とは大日如来のことでもある。
空海は「自分自身が大日如来になるのだ」と考えてはいなかっただろうか。
大日如来とは太陽神であるといわれる。
そしてキリストは太陽を擬人化した神だとする説がある。
地球の自転軸が約25920年の周期でコマが首を振るように回転している(歳差運動)ため、古代ローマでは南十字星が見えていたという。
動画お借りしました。 動画主さん、ありがとうございます。
南十字星が見えていたといっても、当然、南中高度は低かったはずである。
そして冬至に近づくにつれ、太陽は南中高度を下げ南十字星の南中高度に近づく。
キリストは太陽を擬人化したものであり、キリストが十字架に磔になったというのは、冬至の太陽が南十字星の高度に近づくことを比喩的に表現したものだというのである。
さらに冬至(12月22日ごろ)の太陽は南十字星の位置に3日とどまったのち、再び南中高度をあげていく。
キリストが死後3日目に復活し、生きたまま昇天したというのもまた、この太陽の動きの比喩的表現であると説明される。
遍照金剛という洗礼名を持つ空海は、自らが太陽神=大日如来=キリストになろうとしたのではないかと思う。
空海は病死して荼毘にふされたとする文献もあるが、高野山では空海は奥の院に入定し、今も修行を続けていると信じられている。
キリストは人類の罪を背負って死んだとされる。
それで空海も人類の罪を背負って死ぬため、入定したのかもしれない。
⑤両手の痛みに悩んだ男とは空海だった?
次にbの伝説を見てみよう。
「両手の痛みに悩む」という点が気になる。
キリストは十字架に磔になるとき、両手両足に釘を打ちこまれていた。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3AMantegna%2C_Andrea_-_crucifixion_-_Louvre_from_Predella_San_Zeno_Altarpiece_Verona.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/83/Mantegna%2C_Andrea_-_crucifixion_-_Louvre_from_Predella_San_Zeno_Altarpiece_Verona.jpg よりお借りしました。
アンドレア・マンテーニャ [Public domain または Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で
空海は高野山に金剛峯寺を開いているが、高野山は紀伊国にある。
両手の痛みに悩む紀伊国屋道林とはキリストになろうとした空海のことではないのか?
bの伝説は、空海とキリストを同一視した結果、創作されたものではないだろうか?
⑥藤原家隆と浄土宗と聖徳太子信仰の関係
こんなことを考えていると、なんだか心がわくわくしてきたが、わくわく感を感じるものは他にもあった。
もう一度、1枚目の写真を見てほしい。
石像寺の門の額に「家隆山」と書いてある。
なぜ家隆山という山号なのかというと、鎌倉時代、歌人の藤原家隆がこの寺で落髪して出家し、それ以降家隆山となったのだという。
境内には藤原家隆(1158-1237)や藤原定家(1162-1241)の墓(供養塔)があるとのことだったが、残念ながらどこにあるのかわからなかった。
藤原家隆の墓(家隆塚)は大阪市天王寺区の四天王寺の近くにもある。
家隆塚
藤原家隆は1236年に病を患って出家し、四天王寺の近くに夕日庵を結んで日想観を行ったと伝えられている。
家隆塚はその夕日庵跡に建てられているという。
日想観とは、 西に沈む太陽を見て、その丸い形を心に留める修行法のことである。
ということは藤原家隆は1236年に病を患って石像寺で出家し、その後四天王寺近くの夕日庵に移ったわけだ。
藤原家隆はなぜ石像寺で出家したのか。
それは石像寺が四天王寺と関係の深い寺だったからではないか。
四天王寺 夕日
四天王寺を創建したのは聖徳太子である。
その四天王寺の近くには、世界最古の企業・金剛組があり、社員は朝礼の前に厨子の中の聖徳太子に手を合わせる。
聖徳太子は建築の神なのだ。
そしてここ石像寺にも釘抜き地蔵の伝説が残るなど、建築の神がおわす気配がある。
さらに、石像寺はもと真言宗であったが、重源(1121~1206)によって浄土宗に改められたとされる。
浄土宗の開祖は法然だが、法然は藤原家隆が修した日想観と関係が深い。
法然は四天王寺別当・慈円の要請を受けて四天王寺の西門の近くに源空庵という草庵を結んだ。
現在、その場所には一心寺という寺があるが、一心寺は法然の源空庵がルーツである。
その後、後白河法皇’(1127~1192)がここを訪れて法然とともに日想観を修したと伝えられる。
一心寺 夕日
四天王寺は浄土宗ではないが、浄土宗と四天王寺は関係があったということだろう。
四天王寺は聖徳太子が創建した寺で、聖徳太子信仰が強く、現在でも聖徳太子の命日にちなみ、4月22日に聖霊会を行っている。
(聖徳太子の命日は旧暦2月22日)
その四天王寺と浄土宗の関係が深かったということは、浄土宗は聖徳太子信仰が厚い宗派であったと考えらえる。
また藤原家隆の夕日庵はこの一心寺からほど近い場所にある。
ということは、浄土宗で藤原家隆の供養塔のある石像寺にも聖徳太子信仰があったのではないだろうか。
そして聖徳太子は建築の神として信仰されているため、石像寺の地蔵菩薩は釘抜の神として信仰されているのではないだろうか。
⑦藤原家隆は夕日庵で後鳥羽院の呪いから逃れることを祈った?
藤原家隆はなぜ四天王寺の近くに夕日庵を結んで日想観を行ったのだろうか。
家隆は後鳥羽院〈1180-1239)の呪いを怖れ、その呪いから逃れるため、日想観を行ったのではないかと私は考える。
後鳥羽院は和歌の能力に秀でた方で、藤原定家や藤原家隆とも交流があった。
1221年、後鳥羽院は承久の乱をおこして隠岐へ配流となり、こんな歌を詠んでいる。
われこそは 新島守よ 隠岐の海の 荒き波風 こころして吹け/後鳥羽院
(私は、新任の島守である。隠岐の荒き波風よ、それを心得て吹くがよい。)
隠岐の荒い波風は承久の変に敗れた後鳥羽院の怒りの心を表しているようで、たいへん恐ろしい歌である。
藤原家隆は1236年に病を患って出家したわけだが、病は後鳥羽院の呪いによるものではないかと恐れたのではないだろうか。
だとすると、bの伝説に登場する室町時代の商人・紀伊国屋道林の前世とは後鳥羽院ではないかとも思える。
⑤では、紀伊国屋道林とはキリストになろうとした空海のことではないか、と書いた。
時代としては、空海は平安時代、後鳥羽院は鎌倉時代の人物なので、空海の前世が後鳥羽院というのはおかしいが
創作された物語としては十分ありえることだ。
最近でも、徳川の歴代将軍が同じ場所にいて、あれこれ話をするといったドラマがあった。
石像寺 石仏
建築の神が住む町⑬ 西陣の聖徳太子信仰 その1 につづく~
建築の神が住む町① 北野廃寺『北野廃寺は蜂岡寺跡?それとも野寺跡?』 ← トップページはこちら
毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!