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建築の神が住む町⑯ 双子座が牡牛座をひくことで新しい年がやってくる? 

 建築の神が住む町⑮ 西陣の聖徳太子信仰 その3  よりつづく~


前回までの記事で西陣に厚い聖徳太子信仰があったことはほぼ説明できたと思う。
しかし、記事を書いていく中でまた気になることが出てきてしまったので、それについて書いてみようと思う。

①聖徳太子や菅原道真は、鬼(怨霊)→丑寅(艮)の神→「年の変わり目」の神と転じた?


まず、今までの記事の中で書いたことをおさらいしておこう。

a.北野廃寺跡は広隆寺の前身・蜂岡寺跡とする説が有力。
広隆寺は聖徳太子から授かった仏像を祀るために秦河勝が建てたと伝わる。
また現在の広隆寺の御本尊は聖徳太子である。
蜂岡寺は聖徳太子を祀る寺だったのではないか。

b.北野廃寺の近くにある北野天満宮の境内には地主神社がある。
北野天満宮の御祭神は菅原道真だが、地主神社は菅原道真が祀られる以前からここに鎮座していたとされる。
地主神社は北野廃寺=蜂岡寺の鎮守であり、聖徳太子を祀っているのではないか。

c.北野天満宮に菅原道真が祀られたのは、聖徳太子とイメージが重ねられたせいではないか。
※どちらも怨霊である。(参照/建築の神が住む町⑬ 西陣の聖徳太子信仰 その1 

Kitano Tenjin Engi Emaki - Jokyo - Thunder God2

『北野天神縁起』(承久本)巻六より。宮中清涼殿に雷を落とす雷神と逃げまどう公家たち

https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3AKitano_Tenjin_Engi_Emaki_-_Jokyo_-_Thunder_God2.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/a2/Kitano_Tenjin_Engi_Emaki_-_Jokyo_-_Thunder_God2.jpg
よりお借りしました。
作者 不明 [Public domain または Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で


※清涼殿に雷を落とす鬼は菅原道真の怨霊なのだろう。
そして聖徳太子がたてたと伝わる法隆寺について、日本書紀670年の記事に次のようにある。
「夏四月30日の あかつきに 法隆寺に火つけり ひとつのたてものも あまることなし。大雨降り雷なる」
おそらく法隆寺に落雷があって炎上し、それは聖徳太子の怨霊の仕業だと考えられたのだろう。


d.怨霊=鬼と考えていいと思うが、鬼の出入りする方角は北東で、干支では丑寅である。
また吉備津彦が退治した鬼・温羅は丑寅御前とよばれており、丑寅は鬼をあらわすものと考えられる。
怨霊と恐れられた聖徳太子や菅原道真は鬼であり、丑寅の神である。

e.干支で暦をあらわすと12月が丑、1月が寅で、丑寅(艮)は「年の変わり目」となる。
(干支と方角、十二か月を表す図/https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Ehou-direction.png

f.北野天満宮では京都の正月にかかせない大福梅を授与したり、大晦日から新年にかけては朮詣(おけらもうで)の習慣がある。
これは聖徳太子や菅原道真が、鬼(怨霊)→丑寅(艮)の神→「年の変わり目」の神と転じたためではないか。

北野天満宮 大福梅
北野天満宮 大福梅授与

北野天満宮 朮詣
北野天満宮 朮詣

g.道真の亡きがらは牛車に乗せられて運ばれたが、途中牛が動かなくなった。
その場所に道真は葬られ、その上に社をたてたのが大宰府天満宮だという。
北野天満宮・瑞饋祭に登場する牛車はこれを再現したものではないか。

ずいきまつり おはぐるま 

北野天満宮・瑞饋祭

h.平安時代には大寒の日、宮中の諸門に牛と童子の像を置き、立春の前日に撤去するということが行われていた。
立春は二十四節気の元旦である。
そして二十四節気では小寒から大寒・立春までを丑月(旧暦12月)、立春から雨水・啓蟄までを寅月(旧暦1月)としている。
また八卦において童子は丑寅(艮)の符であった。
この平安時代の行事は、牛=丑=12月、童子=艮(丑寅)=年の変わり目をあらわしており、これを立春の前日に撤去することで目には見えない年の移り変わりを視覚化した、一種のまじないのようなものと考えられる。
(干支と方角、十二か月を表す図/https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Ehou-direction.png

i.瑞饋祭に登場する牛車は二人の童子によってひかれている。
hと同じく、瑞饋祭の牛車と童子も、牛=丑=12月、童子=艮(丑寅)=年の変わり目をあらわしており、目には見えない年の移り変わりを視覚化したものではないか。

②双子座が牡牛座をひいて新しい年がやってくる?

①をふまえた上で「年の変わり目」を天文学で見てみることにしよう。

黄道と春分点・秋分点・夏至点・冬至点  

天動説で天体の動きを説明すると、太陽は天球(地球から見た空を球体とみなしたもの)の上を1年かけて一周するように見える。

黄道は天の赤道に対して約23度26分傾いている。(黄道傾斜角。地球の公転面に対して地軸が傾いているため)

黄道と天の赤道には二つの交点があり、これを分点という。
このうち、南から北に交わる点を春分点といい、北から南へ交わる点を秋分点という。
太陽の赤緯(天球の緯度)が最大となる点が夏至点太陽の赤緯が最小となる点が冬至点である。

黄道上に12の星座(牡羊座・牡牛座・ 双子座・蟹座・獅子座・乙女座・天秤座・蠍座・射手座・山羊座・水瓶座・魚座)があり、これを黄道12星座という。

占星術では例えば4月20日から5月20日生まれの人は牡牛座などとしているが、これはだいたいこの時期に黄道上の太陽の位置に牡牛座がくることによる。

しかし実際には黄道12星座は一か月ほどずれており、太陽が牡牛座の位置にくるのは6月ごろである。星座の中を移動する太陽 
一応図を作ってみたがヘタクソな図なので、下記リンク先の図「星座の中を移動する太陽」を見ていただいたほうがわかりやすいと思う。
https://www.astroarts.co.jp/special/2006autumn/various-j.shtml

地球の自転軸は約26000年周期でコマがぶれるように歳差運動をしているので、黄道12星座の位置は少しづつずれているのである。
26000年÷12=2166.666・・・・・
となり、約2200年ほど前に黄道12星座は定められたのだろう。
おそらくこのころに黄道12星座は定められたと考えられる。

2200年前の星座の中を動く太陽

約2200年前の黄道12星座は上図のようになっていたと考えられる。

今、考えているのは伝統文化についてなので、約2200年前の黄道12星座の図を見て考えていこう。

約2200年前の5月ごろ、牡牛座が天球上にあったのは日中であり、太陽の光に打ち消されて見えない。
牡牛座がもっともよく見えるのは、11月ごろとなる。
そして牡牛座の次は双子座がもっともよく見えるようになる。これがだいたい12月ごろだ。


①-f、iに書いたように、菅原道真は「年の変わり目」の神だと考えられる。
そして天文学的に「年の変わり目」を見てみると、12月の双子座が、11月の牡牛座を牽いているように見える。

もう一度、上の瑞饋祭の写真を見てほしい。
牛は牡牛座を、二人の童子は双子座をあらわしているのではないか?

つまり双子座が牡牛座を牽いていくことで新しい年がくるというわけである。

しかし黄道12星座とは西洋で発生した考え方である。
これが日本の瑞饋祭に影響を及ぼしているとすると、どう考えるべきか?

佐伯好郎氏は論文『太秦を論ず』において、「渡来人の秦氏はキリスト教徒ではないか」とされた。
また飛鳥昭雄氏は記紀は聖書の影響を受けているとし、類似点を指摘された。
(参照/建築の神が住む町⑮ 西陣の聖徳太子信仰 その3 

そして紀元1世紀から4世紀ごろ、ローマで流行していたミトラ教がキリスト教に影響を与えたとか、弥勒菩薩の梵語「マイトレーヤ」は「ミトラ」の意味であり、弥勒信仰はミトラ教に影響をうけたものであるなどと言われる。

道真の亡骸を乗せた牛車が動かなくなったと言う伝説は、ミトラ教やキリスト教の影響を受けて創作されたものなのではないだろうか?

(理数系は苦手なので、もし誤りがあれば指摘していただけると嬉しいです。)

③キリストと牛と双子

日本の神道や仏教はキリスト教の影響をうけていると多くの研究者が主張しているが、それではキリスト教に牛と双子のモチーフは存在するのか。

もちろん、存在する。

聖書には神・ヤハウェを角に喩えた箇所があり、神・ヤハウェとは牛の神だとも考えられる。

またキリストにはイスキリという弟がいたとする説もある。

キリストが死の直前に叫んだ、『エリ、エリ、レマ、サバクタニ』は『わが神、わが神。どうして私をお見捨てになったのですか)』と訳される。。
『エリ』とはヘブル語で『高い』『より上にある』の意で、そこから神をさすと解釈されたのだが、『エリ』(『高い』『より上にある』)とは『神』ではなく、『兄』のことでキリストの身代わりとなって磔になった弟イスキリが「兄さん、兄さん、どうして私を見捨てるの?」といったのではないかというのだ。

Mantegna, Andrea - crucifixion - Louvre from Predella San Zeno Altarpiece Verona

https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3AMantegna%2C_Andrea_-_crucifixion_-_Louvre_from_Predella_San_Zeno_Altarpiece_Verona.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/83/Mantegna%2C_Andrea_-_crucifixion_-_Louvre_from_Predella_San_Zeno_Altarpiece_Verona.jpg よりお借りしました。

アンドレア・マンテーニャ [Public domain または Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で


④聖徳太子と牛と双子

私は聖徳太子と菅原道真はイメージが重ねられていると思うが、聖徳太子にも牛と双子に関連するものがある。

聖徳太子が創建したと伝わる朝護孫子寺では、虎をシンボルとしており、聖徳太子には虎=寅の神というイメージがあるのだが
それだけではなく、聖徳太子には牛=丑のイメージもある。

長野県に牛伏寺(ごふくじ)という寺があり、次のような伝説が伝わっているというのだ。

聖徳太子が42歳の時に自ら刻んだ観音像を本尊として鉢伏山に安置した。
756年、唐からもたらされた大船若経600巻を善光寺奉納する途中、経典を運んでいたところ、2頭の牛が倒れたことから牛伏寺と名付けられた。

Prince Shotoku


https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3APrince_Shotoku.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/f/f0/Prince_Shotoku.jpg よりお借りしました。
作者 不明 [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で

 
また聖徳太子が双子であったとは聞かないが、聖徳太子像には双子のような童子が描かれている。

(この二人の童子は、聖徳太子の弟の久米皇子と子の山背大兄王を描いたものだともいわれているが。)

⑤キリスト教の三位一体説

そういえば上のキリスト磔刑の絵も3人の男性が磔刑となっている。
左右の男性は「無関係な罪人」とされているが、本当はイエスとイスキリの双子なのかもしれない。

中央の男性にはINRI と記されているが、これはラテン語の「IESUS NAZARENUS REX IUDAEORUM(ユダヤ人の王、ナザレのイエス)」の頭文字である。
すると中央の男性はイエスということになり、左右の男性がイエスとイスキリとするとイエスが二人いることになってしまう。

日本の神道の考え方は神はその現れ方で、御霊(神の本質)・荒魂(神の荒々しい側面)・和霊(神の和やかな側面)の3つに分けられるという。
またキリスト教では三位一体といって、神は一つの実態(本質、本體[)と、父なる神イエスキリスト、精霊の三つの位格においt永遠に存在するとされている。
キリスト磔刑の絵の3人の男はこの三位一体をあらわしているのかもしれない。
すると、神の実態が中央、左右の男はイエスと精霊ということになるが、聖霊とはイスキリのことなのかもしれない。
こう考えると、やはり無関係な罪人はイエスとイスキリの双子だということにならないだろうか。
もしかすると、イエスの和魂がイエス、イエスの荒魂がイスキリということで創作されたものなのかもしれない。

この無関係な罪人のうちひとりバラバは許されて解放されている。
イエスキリストは死後3日目に復活したとされるので、このバラバは実はイエスキリストなのではないだろうか?

つまりキリストは双子で、キリストの身代わりとなり磔刑になったのは弟のイスキリ。イスキリの死後3日目にキリストが「生きてまっせ」と姿を現したのではないかということである。

⑥聖徳太子像の左右の童子は聖徳太子の荒魂と和魂?

そこでもう一度④の聖徳太子像を見てほしい。

聖徳太子の左右にいる二人の童子は聖徳太子の弟の久米皇子と、聖徳太子の子の山背大兄王だとも言われる。
しかし、聖徳太子の若いときの像もこのような姿をしている。

大聖将軍寺 神妙椋樹 
大聖将軍寺 神妙椋樹の中の聖徳太子。

④の聖徳太子像の中央は聖徳太子の御霊、左右は聖徳太子の荒霊と和霊なのではないだろうか。

⑦布袋と牛と双子

キリストはミトラ教のミトラスの影響を受けていると言われるが、仏教の弥勒菩薩もまたミトラスの影響を受けているといわれる。
そして七福神の布袋は弥勒菩薩の化身だといわれている。

牛に乗る布袋像はたくさん描かれている。
http://db.nichibun.ac.jp/ja/d/GAI/info/GO025/
http://www.toh-emon.com/SHOP/PT025.html

1783年の『狂歌若葉集』には次のような狂歌がある。

布袋和尚 牛に乗りて 唐子のひきて 行く画に 寺子ども 引きたる牛の 角文字は いろはにほてい 和尚なるかな

「牛の角文字」とは牛の角に形が似ているところから平仮名の「い」または「ひ」のことをいう。
同様に、「こ」を「二つ文字」、「し」を「直ぐな文字」、「く」を「歪み文字」という。
徒然草に延政門院の歌「二つ文字 牛の角文字 直ぐな文字 歪み文字とぞ 君は覚ゆる」とあるが、これは二つ文字=こ、牛の角文字=い、直ぐな文字=し、歪み文字=くで、「こいしく」を意味しているという。

唐子とは中国風の髪型・服装をした子供のことである。
布袋は中国に実在した僧とされ、唐子と戯れる布袋像などもたくさん描かれている。

智積院 布袋唐子嬉戯の図 
智積院 布袋唐子喜戯の図 月樵(げっしょう)道人

上の狂歌は、次のような意味だとされる。

布袋和尚がに乗り唐子(子供)が牽いている絵
   ↓
の角文字は「
   ↓
寺子屋で「ろは」を子供たちがならっている

しかし、私はそういう意味ではないと思う。
これでは最後の「いろはにほてい」の意味がわからない。

袋和尚 牛に乗りて 唐子のひきて 行くというのが興味深い。
牛=丑=12月、唐子=童子=丑寅(艮/八卦では童子は丑寅の符)で、平安時代大寒の日に宮中の諸門に置かれた牛と童子の像を立春(二十四節気の元旦)の前日(節分/二十四節気の大晦日)に撤去するのとまったく同じである。

また、北野天満宮の瑞饋祭に登場する牛車も二人の童子によって惹かれており、上に記した平安時代の節分行事と同じ意味を持つものだと思われる。
北野天満宮で京都の正月にかかせない大福梅を授与したり、大晦日から新年にかけて朮詣の習慣があるのは、菅原道真が怨霊=鬼であり、鬼=丑寅の神(温羅という鬼は別名を丑寅御前といった。また鬼が出入りするとされる方角も丑寅)となり、さらに丑=12月、寅=1月なので、都市の変わり目の神に転じたのではないかということはすでに書いた通りである。

布袋和尚 牛に乗りて 唐子のひきて 行く画に 寺子ども 引きたる牛の 角文字は いろはにほてい 和尚なるかな

この狂歌の意味を、私は次のように考える。

布袋和尚がに乗り唐子(子供)が牽いている絵
   ↓
の角文字は「
   ↓
寺子屋で「ろは」を子供たちがならっている
   ↓
「いろはにほへと」
   ↓
「いろはにほてい」
   ↓
牛の角文字「い」は「いろは」の最初の言葉、ほてい(布袋)は1年の始まりを連れてくる神様」

次に、布袋と双子の関係についてだが、布袋は死後に姿を見られたという話がある。
これはキリストが死後3日目に復活したというのと同じである。
しかし、実際には死んだ人が生き返るなどということはほとんどない。
布袋は双子だったと考えるのが妥当だろう。

⑥ 弥勒菩薩と牛と双子


これはもしかしたら聖徳太子のところに書いたほうがよかったかもしれないが、聖徳太子を本尊とする広隆寺では「牛祭」を行っている。
広隆寺は聖徳太子から授かった仏像を祀るために秦河勝がたてたといわれ、国宝の美しい弥勒菩薩半跏思惟像がある。
私は秦河勝が聖徳太子から授かった仏像とはこの弥勒菩薩像ではないかと考えている。
また、「聖徳太子から授かった仏像をまつる」とは「聖徳太子の霊が成仏した姿である弥勒菩薩像をまつる」という意味ではないかと思う。
つまり、弥勒菩薩と聖徳太子は習合されているのではないかと思うのである。

この広隆寺において牛祭が行われている。



動画お借りしました。動画主さん、ありがとうございます。

上記動画によれば「牛に乗った摩多羅神が赤鬼青鬼の四天王を携えて」とある。
摩多羅神は弥勒菩薩や聖徳太子と同一視去れていたのではないかと思う。

そして鬼は茨木童子・酒呑童子など童子と呼ばれることが多い。
また鬼の子孫を称する京都の八瀬童子と呼ばれる人々は、大人になっても結髪しない童形であったため童子と呼ばれていたという。

動画を見ると鬼は白い髪をたらしており、結髪していない。鬼は童子である。

平安時代、宮中で行われていた節分行事や、北野天満宮の瑞饋祭に登場する牛車をひく童子、狂歌に歌われた袋和尚 牛に乗りて 唐子のひきて 行く」というのと全く同じである。

また次のような伝説もある。

滋賀県大津市にある長安寺は、逢坂の関に隣接して建っていた関寺の法灯を受け継ぐ寺であった。
976年の地震で倒壊し、その後延鏡によって再建された。
このとき清水寺から寄進された牛が工事をたすけた。
この牛は釈葉仏(釈迦以前に修験した仏)の生まれ変わりで、弥勒菩薩霊場である関寺の工事を助けるためにやってきたと噂された。

 
弥勒菩薩は釈迦入滅後56億7000万年後にあらわれるといわれる。
釈迦と弥勒菩薩は双子なのではないか。
それで弥勒菩薩の化身とされる布袋が死後に姿を見られたなどと言われているのだろう。(布袋が生まれ変わったのではなく、双子のトリックだった。)

⑦ミトラスと牛と双子

キリスト教や仏教に影響を与え、全ての宗教のルーツといえるかもしれないミトラ教。
このミトラ教は紀元1世紀から4世紀ごろ、ローマで流行していた。
ミトラ教は太陽神・ミトラスを崇拝する宗教であった。

さて、ミトラスとはどんなお姿をされているのだろうか。ウィキペディアの写真を見てみよう。

BritishMuseumMithras

https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3ABritishMuseumMithras.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/63/BritishMuseumMithras.jpg よりおかりしました。
作者のページを見る [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で


この写真には「牡牛を屠るミトラス」とタイトルがついている。

私たちは今までたくさんの「牛を牽く童子」を見てきた。
大寒の日に宮中の諸門に牛と童子の像をおき、立春の前日(節分/二十四節気の大晦日)に撤去する平安時代の節分行事。
北野天満宮・瑞饋祭に登場する「牛を牽く童子」。
布袋和尚が牛に乗り唐子(子供)が牽く絵。
広隆寺・牛祭で牛に乗る摩多羅神をひく四匹の鬼(童子)。

丑を牽く童子は、牛を牽いて去ることで牛の存在を抹消している。
牛を屠るミトラスは、牛を殺すことで牛の存在を抹消している。

「殺す」か「牽いて去る」かのちがいはあるが、どちらも牛の存在を抹消しているとは考えられないだろうか?

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%82%B9%E3%83%A9#/media/File:0_Relief_repr%C3%A9sentant_Mithra_-_Louvre-Lens_(2).JPG
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%88%E3%83%A9%E6%95%99#/media/File:Fiano_Romano_mithraic_relief.jpg
http://mystery-hunter.net/?p=1529
上記リンク先のミトラス像やミトラ像(※インド神話ではミトラスはミトラと呼ばれる。)はキリストの磔刑を描いた絵や、聖徳太子像のように、二人の青年を従えている。

そしてミトラは太陽の神だが、月の神にヴァルナという神がおり、ミトラとヴァルナは双子だとも言われている。


建築の神が住む町⑰ 最終回 地蔵院 『 鍬形地蔵はマリア地蔵?』  につづく~
建築の神が住む町① 北野廃寺『北野廃寺は蜂岡寺跡?それとも野寺跡?』  ← トップページはこちら



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[2017/10/29 12:25] 建築の神が住む町 | トラックバック(-) | コメント(-)

建築の神が住む町⑮ 西陣の聖徳太子信仰 その3 

建築の神が住む町⑭ 西陣の聖徳太子信仰 その2 よりつづく~

①藤原家隆と聖徳太子と浄土宗

大報恩寺から300mほどいったところに「釘抜地蔵尊 石像寺」がある。
釘抜とは大工が用いるやっとこのことだ。
大工の棟梁と阿亀の伝説が残る大報恩寺と同じく、石像寺もまた建築の神を祀る寺だといえる。

石像寺 門

石像寺は山号を「家隆山」という。
鎌倉時代、歌人の藤原家隆がこの寺で落髪して出家し、それ以降家隆山となったのだという。

石像寺の境内には藤原家隆の墓があるが、藤原家隆の墓(家隆塚)は大阪市天王寺区の四天王寺の近くにもある。

藤原家隆は1236年に病を患って出家し、四天王寺の近くに夕日庵を結んで日想観を行ったと伝えられる。
家隆塚はその夕日庵跡に建てられている。
日想観とは、 西に沈む太陽を見て、その丸い形を心に留める修行法のことである。

ということは藤原家隆は1236年に病を患って石像寺で出家し、その後四天王寺近くの夕日庵に移ったわけだ。
藤原家隆はなぜ石像寺で出家したのか。
それは石像寺が四天王寺と関係の深い寺だったからではないかと思う。

石像寺はもと真言宗であったが、重源(1121~1206)によって浄土宗に改められた。
家隆が出家したとき石像寺は浄土宗だったのだ。

浄土宗の開祖は法然だが、法然は藤原家隆が修した日想観と関係が深い。

法然は四天王寺別当・慈円の要請を受けて四天王寺の西門の近くに源空庵という草庵を結んだ。これが一心寺のルーツである。
その後、後白河法皇’(1127~1192)がここを訪れて法然とともに日想観を修したと伝えられる。

四天王寺 夕日

四天王寺 夕日

四天王寺は現在は和宗、かつては天台宗に属していたこともあったそうだが、浄土宗であったことはないと思う。(間違っていれば指摘をお願いします。)
しかし浄土宗と四天王寺は関係があったのだ。

四天王寺は聖徳太子が創建した寺で、聖徳太子信仰が強い。
その四天王寺と浄土宗の関係が深かったということは、浄土宗は聖徳太子信仰が厚い宗派であったと考えられる。

浄土宗の寺・石像寺で出家し、浄土宗の開祖・法然の源空庵の近くに夕日庵を結んだ藤原家隆は聖徳太子を信仰していたのではないだろうか。
また、石像寺にももちろん聖徳太子信仰があったのではないかと思う。

石像寺 絵馬

②空海はキリストになろうとした?

石像寺にはふたつの伝説が伝えられている。

a.遣唐使として唐に渡った弘法大師は、日本へ石を持ち帰り、地蔵菩薩を彫った。
そして「人々の諸悪・諸苦・諸病を救い助けん」と祈願した。
いろいろな苦しみを抜きとってくださるお地蔵様「苦抜(くぬき)地蔵」と呼ばれるようになり、その後「くぬき」がなまって「くぎぬき」になった。


b.室町時代、両手の痛みに悩む大
商人・紀伊国屋道林がこのお地蔵さまに七日間願掛けすると、7日目の夜の夢の中にお地蔵様が現れた。
お地蔵さまは「手の痛みは、あなたが前世でわら人形に釘を打ち人をのろった報いである。」と言い、釘を抜いた。
商人が目覚めると手の痛みは治っていた。

aの伝説では苦抜地蔵は空海が刻んだものとあるが、これは「空海が成仏して地蔵菩薩になった」という意味だと思う。
その理由については下記の記事を参照してほしい。
参照/建築の神が住む町⑦ 東向観音寺 『菅原道真が刻んだ観音』 

空海が遣唐使として唐へ行ったころ、唐では景教が流行していた。
景教とはネストリウス派キリスト教のことである。
空海は景教の教えをよく知っていたはずで、空海が伝えた真言密教も景教の影響を受けているとする説がある。

密教では灌頂(かんじょう)といって頭頂に水を濯ぐ儀式を行うが
これはキリスト教の洗礼の灌水(頭部に水を注ぐ)や滴礼(頭部に手で水滴をつける)によく似ている。

また「南無大師遍照金剛」という御宝号の「遍照金剛」とは空海の洗礼名で、聖書マタイ5:16にある 「あなたがたの光を人々の前で輝かせ」からとったともいわれている。

遍照金剛とは大日如来のことでもある。

また大日如来とは太陽神であるといわれるが、キリストは太陽を擬人化した神だとする説がある。

地球の自転軸が約25920年の周期でコマが首を振るように回転している(歳差運動)ため、古代ローマでは南十字星が見えていたという。

南十字星が見えていたといっても、当然、南中高度は低かったはずである。
そして冬至に近づくにつれ、太陽は南中高度を下げ南十字星の南中高度に近づく。
キリストは太陽を擬人化したものであり、キリストが十字架に磔になったというのは、冬至の太陽が南十字星の高度に近づくことを比喩的に表現したものだというのである。

さらに冬至(12月22日ごろ)の太陽は南十字星の位置に3日とどまったのち、再び南中高度をあげていく。
キリストが死後3日目に復活し、生きたまま昇天したというのもまた、この太陽の動きの比喩的表現であると説明される。

遍照金剛という洗礼名を持つ空海は、自らが太陽神=大日如来=キリストになろうとしたのではないだろうか。

空海は病死して荼毘にふされたとする文献もあるが、高野山では空海は奥の院に入定し、今も修行を続けていると信じられている。

キリストは人類の罪を背負って死んだとされる。
それで空海も人類の罪を背負って死ぬため、入定したのかもしれない。

これをふまえてbの伝説を読むと「両手の痛みに悩む」とあるのが気になる。
キリストは十字架に磔になるとき、両手両足に釘を打ちこまれていた。
Mantegna, Andrea - crucifixion - Louvre from Predella San Zeno Altarpiece Verona

https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3AMantegna%2C_Andrea_-_crucifixion_-_Louvre_from_Predella_San_Zeno_Altarpiece_Verona.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/83/Mantegna%2C_Andrea_-_crucifixion_-_Louvre_from_Predella_San_Zeno_Altarpiece_Verona.jpg よりお借りしました。

アンドレア・マンテーニャ [Public domain または Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由


空海は高野山に金剛峯寺を開いているが、高野山は紀伊国にある。
両手の痛みに悩む紀伊国屋道林とはキリストになろうとした空海のことではないのか?

bの伝説は、空海とキリストを同一視した結果、創作されたものではないだろうか?

石像寺 絵馬2

③聖徳太子とキリスト教

聖徳太子というのは後世の諡号であり、厩戸皇子というのが彼の名前だった。
なぜ厩戸皇子という名前がつけられたのかというと、日本書紀に「厩の前で生まれた」とあり、そのため厩戸皇子と名付けられたと言われている。

キリストも馬屋で生まれたとされる。
そしてキリストは大工の息子であり、聖徳太子は大工の神として信仰されている。

キリストは12人の使徒を従えていたが、聖徳太子は冠位十二階の制度を設けている。
これらのことから、聖徳太子伝説はキリスト教の影響を受けているとする説がある。

③秦氏は原始キリスト教徒だった?

さらに聖徳太子のブレーンのひとりに秦河勝がいるが、渡来人の秦氏は原始キリスト教徒であったとする説もある。

秦氏について、日本の歴史書には次のような記述がある。

新撰姓氏録→仲哀天皇8年、弓月の王・巧満が日本の朝廷を公式訪問した。
日本書紀→応神天皇14年、弓月君が百済より移民を率いてやってきた。
古事記→秦氏は百済から渡来した。

佐伯好郎氏は論文『太秦を論ず』において、「渡来人の秦氏はキリスト教徒ではないか」とし、次のような理由をあげられた。

a.中国ではローマを『大秦』、景教(ネストリウス派キリスト教)の寺院のことを『大秦寺』と言った。
秦氏は京都市右京区の太秦を本拠地としていたが『太秦』と『大秦』は点ひとつの違いである。
そして広隆寺は別名『太秦寺』とも呼ばれていた。

b.広隆寺の近くにある『蚕の社』にはめずらしい三柱鳥居があるが、これはキリスト教の三位一体説をあらわしているのではないか。

c.広隆寺の東北にある大酒神社はかつては『大辟神社』『大闢神社』といった。
大闢とはダビデの漢語訳である。

d.かつて中央アジアに弓月王国というキリスト教国があった。
日本書紀によれば、『応神天皇14年、弓月君(秦氏の祖)が百済より移民を率いてやってきた。』という記述があるが秦氏関連史跡からは新羅系の瓦ばかりが出てきて秦氏が百済系であるというのは疑わしい。
秦氏は百済からやってきたというが、秦氏の故郷は弓月王国ではないか。

蚕の社 三柱鳥居 

蚕の社 三柱鳥居


しかし佐伯好郎氏の説は下記e・fに記すように、時代考証があわないということで学会では認められなかった。

e.日本書紀応神天皇3年には百済辰斯王即位の記事がある。
百済辰斯王即位は385年であり、これが応神天皇3年のことであるとすれば応神天皇の在位年は383-423年となりこのころに秦氏は渡来したと考えられる。

f.一方景教は431年エフェソ公会議で異端として排斥され、布教の矛先を東洋に向けたというのが定説である。
秦氏が帰化した4世紀後半から5世紀前半では、まだネストリウス派は東洋に進出していない。

のちに佐伯好郎氏は秦氏はネストリウス派キリスト教徒ではなく、原始キリスト教徒だったと訂正したが、彼の説は認められなかった。

たしかに学会が言うように秦氏がネストリウス派キリスト教徒だというのは時代考証があわない。
しかし原始キリスト教徒だったというのはありえる。
日本はシルクロードの東の到達点であり、法隆寺や唐招提寺にはギリシャのパルテノン神殿と同じエンタシスの柱が残されている。

建築様式が伝わったのであれば、宗教もまた西から東へ伝えられたと考えるのが自然ではないだろうか。

④記紀は聖書の影響を受けている?

また、飛鳥昭夫さんは記紀は聖書の影響を受けているとし、次のように類似点を述べておられる。

聖書2日目/神は大空を作り大空の下と大空の上に水を分けた。
古事記神世第2代/豊雲野神 ※豊かな雲は大空の上を、野は大空の下に対応。

聖書3日目/神は地と海を作った。
古事記神世第3代/宇比地邇神・妹須比智邇神
※宇比地は泥土で海、須比智は砂土で地に対応。

聖書4日目/神は太陽に昼を治めさせ月に夜を治めさせた。
古事記神世第4代/角杙神・妹活杙神
※ヘブライ語で角・光るは同様に『krn』と記す。このため古代よりしばしば混同され、ミケランジェロがモーゼの像に角をつけてしまったという例もある。
杙は牛や馬を繋ぎとめておくためのもの。
つまり角杙神は光りながら地球のまわりを回る神(太陽)。
妹活杙神は満ち欠けしながら(活)地球の周りをまわる女(妹)神。

聖書5日目/神は水中生物・鳥を造り、祝福して言った。生めよ、増えよ。
古事記/神世第5代/意富斗能地神・妹大斗乃弁神
※意富斗・大斗は世界。地は男性・弁は女性の意。つまり「男の世界」「女の世界」。

聖書/6日目/神は獣と人間を造り、造ったものを見て満足した。
古事記/神世第6代/於母陀流神・妹阿夜訶志古泥神
※日本書紀では面足尊。地の面が完成したこと。あやに畏し(阿夜訶志古)は賞賛を意味する。つまりすべて完成し、あやに畏しと神が満足したということ。 


キリスト教が日本に伝来したのは1549年、フランシスコ・ザビエルによって、とされているが、それよりはるか以前に伝えられ、その影響を受けて記紀は記されたのかもしれないし、神道もキリスト教の影響を受けて成立した可能性がある。

⑤ミトラス=キリスト=弥勒菩薩=布袋=聖徳太子

紀元1世紀から4世紀ごろ、ミトラ教という宗教がローマで流行していた。
ミトラ教は太陽神・ミトラスを崇拝する宗教で、キリスト教のルーツになったとする説がある。

BritishMuseumMithras

https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3ABritishMuseumMithras.jpg
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たとえばキリストの誕生日は12月25日とされているが、実は聖書にキリストの誕生日についての記述はない。
12月25日はミトラ教の冬至祭であり、キリスト教がこれをとりいれてキリストの誕生日としたのがクリスマスだといわれている。

冬至はだいたい12月22日である。
なぜミトラ教で12月22日ではなく、12月25日に冬至祭を行っていたのか。
冬至の太陽は3日間もっとも南中高度の低い位置にとどまったのち、25日ごろより再び南中高度を上げていく。
それで12月25日に冬至祭を行っていたのではないかと私は考える。

②空海はキリストになろうとした?にも書いたのだが、地球の自転軸が約25920年の周期でコマが首を振るように回転している(歳差運動)ため、古代ローマでは南十字星が見えていたという。
冬至に近づくにつれ、太陽は南中高度を下げ南十字星の南中高度に近づく。
さらに冬至(12月22日ごろ)の太陽は南十字星の位置に3日とどまったのち、再び南中高度をあげていく。
キリストが死後3日目に復活し、生きたまま昇天したというのもまた、この太陽の動きの比喩的表現であるとする説がある。

キリストは太陽を擬人化したものであり、キリストが十字架に磔になったというのは、冬至の太陽が南十字星の高度に近づくことを比喩的に表現したものだとする説がある。

とすれば、キリストとはミトラ教の太陽神ミトラスをモデルに創作されたものだということになる。

太陽神ミトラは東にもその信仰を広げていった。
インドやチベットではミトラスはマイトレーヤと呼ばれた。
イランでは、ミトラスはミスラと呼ばれていたが、ミスラ→ミフル→ミクル→ミルク→ミロクと転じ、弥勒菩薩になったと言われている。

秦河勝が聖徳太子から授かった仏像を祀るために建てたと伝わる広隆寺にある美しい弥勒菩薩半跏思惟像。

File:Maitreya Koryuji.JPG

https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3AMaitreya_Koryuji.JPG
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作者 日本語: 小川晴暘 上野直昭 English: OGAWA SEIYOU and UENO NAOAKI [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で


秦河勝が聖徳太子から授かった仏像とはこの弥勒菩薩像ではないかと私は考えている。
そして「聖徳太子から授かった」とは「聖徳太子の霊が、自分の本地仏である弥勒菩薩を祀れと言った」という意味だと思う。
その理由については、こちらの記事を読んでほしい。↓
建築の神が住む町⑦ 東向観音寺 『菅原道真が刻んだ観音』 

聖徳太子=キリスト=太陽神
キリスト=ミトラ=弥勒菩薩
∴聖徳太子=キリスト=弥勒菩薩=太陽神

大報恩寺に布袋の石像があったことを思い出してほしい。
布袋は弥勒菩薩の化身といわれる。

布袋=弥勒菩薩
聖徳太子=キリスト=弥勒菩薩=太陽神
∴聖徳太子=キリスト=弥勒菩薩=太陽神=布袋

となり、やはりだ大報恩寺の布袋像は聖徳太子を表すもののように思える。

千本釈迦堂 布袋像

大報恩寺 布袋像


建築の神が住む町⑯ 双子座が牡牛座をひくことで新しい年がやってくる?  につづく~
建築の神が住む町① 北野廃寺『北野廃寺は蜂岡寺跡?それとも野寺跡?』  ← トップページはこちら




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[2017/10/25 18:23] 建築の神が住む町 | トラックバック(-) | コメント(-)

建築の神が住む町⑭ 西陣の聖徳太子信仰 その2 

建築の神が住む町⑬ 西陣の聖徳太子信仰 その1  より続く~


①大報恩寺の伝説に登場する大工の棟梁とは聖徳太子だった?

北野天満宮から約450mほどいったところに大報恩寺があり、次のような伝説が伝えられている。

千本釈迦堂の本堂を建てるとき、長井飛騨守高次(ながいひだのかみたかつぐ)という大工の棟梁が謝って柱を短く切ってしまった。
棟梁はどうしたものかと困り果てていたが、妻の阿亀(おかめ)が、全ての柱を短く切って升型の受けを作ってはどうかと助言した。
棟梁はおかめの助言に従って無事本堂を完成させることができた。
妻のおかめは夫の失敗が人に知れないようにと、本堂の完成を待たずに自殺した。

大報恩寺 おかめ像


大工の棟梁、長井飛騨守高次という人物が実在したとは思われない。
というのは、飛騨守という役職についている役人が兼業で大工の棟梁をやっているとは思えないからだ。

長井高次とは「長い高継ぎ」という意味ではないかと思う。
「高接ぎ」とは果樹などを接ぎ木する際に、台木(接ぎ木をするとき上部にする植物体を穂木、下部にする植物体を台木という)の高い位置に接ぐ方法のことである。

本堂の柱を植物の木に喩えたのではないだろうか。
升受けは柱の高い位置についており、まるで接ぎ木の高接ぎのようではないか。
さらに柱はとても長い。
それで、大工の神の名前を「長い高接ぎ」から「長井高次」としたのではないだろうか。

大報恩寺 柱の升組
  
大報恩寺本堂 矢印が示す場所に升受けがある。

そして阿亀(おかめ)とペアになっている神といえばひょっとこだが、ひょっとこの語源にはいくつかの説がある。

a.竈(かまど)の火を竹筒で吹く『火男』が訛った。
b.口が徳利のようであることから『非徳利』からくる。
c.岩手県奥州氏の江刺地方の民話に登場するヘソから金を生む奇妙な顔をした子供の名前『ヒョウトク』が訛った。

cの民話とは次のような物語である。

強欲な婆さんがヒョウトクのへそを火箸でぐりぐりといじったためにヒョウトクは死んでしまった。
ヒョウトクをかわいがっていた爺さんはヒョウトクの死をそれは悲しんだ。
そんな爺さんの夢枕にヒョウトクが立ち、『自分の顔の面を竈の前の柱にかけておけば裕福になるだろう』と告げた。
そのとおりにしたところ、爺さんは大金持ちになった。


ヒョウトクという名前は聖徳(ショウトク)に似ている。
もしかして、ヒョウトクとは聖徳太子のことではないか?

聖徳太子は建築の神として信仰されており、世界最古の企業・金剛組ではの朝礼の際、厨子をあけ聖徳太子像を拝んでいる。
また太子の忌日である2月22日には木匠の間で講が営まれている。

大報恩寺の伝説に伝わる大工の棟梁とはひょっとこ=ひょうとく=聖徳太子のことなのではないだろうか。

そういえば大報恩寺の境内の隅に布袋像があるが、布袋は弥勒菩薩の化身とされる。

千本釈迦堂 布袋像

大報恩寺 布袋像

そして秦氏の氏寺・広隆寺は聖徳太子から授かった仏像を祀るため、秦河勝が建立したと伝わる。
広隆寺には美しい弥勒菩薩半跏思惟像があるが、秦河勝が聖徳太子から授かった仏像とはこの仏像のことではないだろうか。


File:Maitreya Koryuji.JPG

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私は「秦河勝が聖徳太子から仏像を授かった」とは「秦河勝が聖徳太子の霊が宿る仏像を授かった」と言う意味ではないかと思う。

そして、布袋は弥勒菩薩の化身とされている。
大報恩寺の布袋の石像は、大報恩寺に聖徳太子信仰があったことを表しているのではないだろうか。


②大報恩寺の太子堂と北野経王堂

大報恩寺の門を入ったところに小さなお堂があった。
お堂の上部には、なんと、太子堂と記した額がかけられているではないか。
『ひょっとこ=ひょうとく=聖徳太子』という推理はそうトンデモ説ではないかもしれない。

お堂の額には太子堂とあるが、説明板は「北野経王堂 願成就寺」となっており、次のような内容が記されていた。

1392年、足利義満は明徳の乱の戦没者を悼んで北野社の社頭に北野経王堂 願成就寺という大寺を建てた。
北野経王寺 願成就寺では、毎年10月、10日間に渡って万部経会を行って戦没者を供養していた。
江戸時代に荒廃し、1671年に解体縮小されて小堂となったのがこのお堂である。

説明板には、このお堂になぜ太子堂という額がかけられているのかの説明はないが、太子堂の太子とは聖徳太子のことだろう。

そして太子堂にはおかめ御幣がたくさん置かれてあった。

大報恩寺 太子堂 おかめ御幣




北野経王堂 願成就寺

おかめ御幣は関西では上棟式などに用いられるものであり、北野経王堂願成就寺(太子堂)には、明徳の乱の戦没者のほか、建築の神を祀っていることを物語っているかのようである。

建築の神といえば聖徳太子である。

 さらに、「北野経王堂 願成就寺」は北野社 社頭にあったという。
北野社とは北野天満宮のことだ。

建築の神が住む町⑬ 西陣の聖徳太子信仰 その1  で私は次のように述べた。

a.北野天満宮の新春奉納狂言で毎年演じられる「福の神」では、出雲の神が松尾の神にお酒を捧げてから飲み干す。
北野天満宮では秦氏の神を崇敬しているかのようである。

b.北野天満宮の北野追儺狂言は北野天満宮の摂社・福部社の神が鬼を追いはらうが、服部と書いてフクベと読むこともある。
服部氏は秦氏の一派であり、福部社は秦氏の神を祀っているように思える。

c.北野天満宮の摂社の地主神社は、菅原道真がここに祀られる以前から鎮座していた神である。

d.北野天満宮から400mほど離れたところに北野廃寺跡があるが、秦氏の氏寺・広隆寺の前身の蜂岡寺とする説がある。

e.広隆寺の本尊は聖徳太子である。地主神社は蜂岡寺の鎮守で、聖徳太子を御祭神としているのではないか。

とすると、その北野天満宮の社頭にかつて建てられていた「北野経王堂 願成就寺」も聖徳太子信仰の厚い寺であった可能性はある。
それで、「北野経王堂 願成就寺」の廃材を用いて建てられた小堂に「太子堂」の額が掲げられているのではないだろうか。

③待乳山聖天の大根供養と丁徳寺・大報恩寺の大根焚

東京の待乳山聖天では1月7日に大根供養を行っている。
聖天さんの好物は大根とされているので、大根供養を行っているのだろう。

待乳山聖天 ふろふき大根

聖天さん(歓喜天)とは鬼王ビナヤキャと十一面観音の化身であるビナヤキャ女神が抱きあう男女双体のみほとけである。



動画お借りしました。動画主さん、ありがとうございます!


大根は直根の先端にある生長点が石ころなどにあたると、側根が肥大して二股になってしまうことがよくあるそうである。
そうした二股大根の形が男女双体の神を思わせるところから、大根が聖天さんの好物であるとされているのではないかと思う。

待乳山聖天 二股大根

待乳山聖天

そして、京都に浄土真宗大谷派の了徳寺という寺がある。
了徳寺では毎年12月9日、10日に報恩講が行われ、この日には大根炊の授与もある。

了徳寺 大根焚

了徳寺 大根焚


1252年、親鸞が了徳寺付近を訪れたとき、人々が塩味の大根でもてなしたという言い伝えがあり、大根焚はそれに基づく行事とされる。
私は大根焚は、聖天さんの大根供養からくる行事ではないかと思う。

というのは、親鸞には次のような伝説があるからである。

親鸞が六角堂に籠ったとき夢の中に聖徳太子があらわれ、「私が女に生まれ変わってあなたの妻になろう」と言った。


またしても聖徳太子の登場である。

親鸞は僧侶でありながら、妻帯した。
それで男女双体の聖天さんとイメージが重ねられたのではないだろうか。

大報恩寺でも11月7日、8日に大根焚が行われている。

そして大報恩寺には大工の棟梁・長井飛騨守高次と阿亀の伝説が伝えられている。
私は大報恩寺の大根焚は了徳寺の大根焚の影響を受けたものではないかと思う。
なぜかというと、大報恩寺の境内に太子堂(北野経王堂 願成就寺)があることから大報恩寺には聖徳太子信仰蛾あると考えられ、

親鸞が六角堂に籠ったとき夢の中に聖徳太子があらわれ、「私が女に生まれ変わってあなたの妻になろう」と言った。という伝説の影響を受けているように思えるからだ。

千本釈迦堂 大根焚 
大報恩寺 大根焚

大報恩寺は浄土真宗ではなく、真言宗智山派である。
しかし日本の仏教にはルーズなところがあって、寺が宗派を変えることはよくある。
多宗派の影響を受けることもあったのではないだろうか。

④御霊・荒魂・和魂

わたしは、①大報恩寺の伝説に登場する大工の棟梁とは聖徳太子だった?で「おかめとペアになっているひょっとこは聖徳太子のショウトクからくるのではないか」と述べた。
しかし、大報恩寺が浄土真宗の影響を受けているとするならば、この考え方を改めなければならない。

大工の棟梁とは親鸞であり、阿亀とは女に生まれ変わって親鸞の妻となった聖徳太子だ。

もっと正確にいうと、おかめが女神に生まれ変わった聖徳太子で、ひょっとこは女に生まれ変わる以前の男神の聖徳太子だと思う。

聖天さん(歓喜天)は鬼王ビナヤキャと十一面観音の化身であるビナヤキャ女神の男女双体の神だが、上の動画を見ていただくとわかるように、鬼王ビナヤキャとビナヤキャ女神は双子のようにそっくりで、また名前も同じである。

神はその表れ方によって御霊(神の本質)・和魂(神の和やかな側面)・荒魂(神の荒々しい側面)の3つに分けられ、和魂は女神で荒魂は男神とする説がある。
とすれば御霊は男女双体である。

すると聖徳太子も御霊・和魂・荒魂の3つに分けられるだろう。
聖徳太子は建築の神なので、太子堂の中におかれているおかめ御幣(上棟式に用いられる)のおかめは聖徳太子の和魂である。
おかめとペアになっているひょっとこは(ショウトク→ヒョウトク→ヒョットコ)と訛ったものであり、聖徳太子の荒魂である。
そして親鸞は聖徳太子の荒魂とイメージが重ねられ、女に生まれ変わった聖徳太子の和魂と結合し、男女双体の神となって信仰された。
これと同じく長井飛騨守高次は聖徳太子の荒魂であり、聖徳太子の和魂である阿亀と結合し、男女双体の神として信仰された。
おかめ節分に登場するおかめは阿亀であり、聖徳太子の和魂でもある。
おかめ節分に登場する鬼は長井飛騨守高次であり、聖徳太子の荒魂である。

千本釈迦堂 おかめ節分会 おかめと鬼

大報恩寺 おかめ節分

言葉にすると少しややこしく感じられるかもしれないので、表にまとめた。

御霊神の本質男女双体聖天(鬼王ビナヤキャ+ビナヤキャ女神聖徳太子の御霊聖徳太子の御霊聖徳太子の御霊
和魂神の和やかな側面女神ビナヤキャ女神聖徳太子の和魂聖徳太子の和魂阿亀
荒魂神の荒々しい側面男神鬼王ビナヤキャ聖徳太子の荒魂親鸞長井飛騨守高次(ひょっとこ・鬼)

 
④大報恩寺と報恩講

私はこの寺の名前が「大報恩寺」というのが気にかかっていた。

「報恩講」という浄土真宗の法要がある。
浄土真宗の宗祖・親鸞の命日ごろ、親鸞の報恩謝徳のために行われる法要である。
報恩謝徳とは、「恩に報い徳に謝す」「恩に感謝し報いる」という意味で、特に浄土真宗のみで用いられる言葉ではない。

しかし、報恩と聞くと浄土真宗の「報恩講」を思い出すことも事実である。

了徳寺の大根焚はこの報恩講の行事である。

大報恩寺には大工の棟梁と阿亀の伝説が伝えられていたが、大工の棟梁は長井飛騨守高次という名前だった。
①で述べたように、飛騨守という役人が大工を兼業でやっているとは考えられず、長井飛騨守高次という人物は実在の人物ではないと考えられる。

飛騨は大工業が盛んだったので、飛騨という地名を持ちだしてきたのだろう。
そして、飛騨高山は、真宗・浄土真宗の信仰厚い地域で、真宗王国と呼ばれているそうである。

パズルがかちっと合わさる音が聴こえたように思うのは、私の空耳だろうか?

大報恩寺は真言宗智山派の寺である。
しかし、日本の仏教は宗派にルーズで多宗派の影響を受けることがあったように思われる。

大報恩寺は真宗・浄土真宗の影響を受けており、真宗・浄土真宗の「報恩講」にちなみ、寺名を大報恩寺と言うのではないだろうか。

大工の棟梁・長井飛騨守高次とは親鸞のイメージで創作された真宗王国・飛騨高山の大工だろう。
そして大工の妻・阿亀は女に生まれ変わった聖徳太子なのではないか。

このように考えると、太子堂の額がかけられた「北野経王堂 願成就寺」に、たくさんのおかめ御幣が置かれていることの説明もつく。

⑤推理のまとめ

ここまでの私の推理をまとめておこう。

北野廃寺跡は秦氏の氏寺、広隆寺の前身・蜂岡寺であった。
広隆寺では聖徳太子を御本尊としているが、広隆寺が蜂岡寺であった時代から聖徳太子を信仰していたのだろう。
北野天満宮の新春奉納狂言「福の神」では、出雲の神が秦氏の氏神・松尾の神に酒を捧げる。
また北野追儺狂言は北野天満宮の摂社・福部社の神が鬼を追いはらうのだが、福部とは秦氏の一派の服部である可能性が高い。
このように北野天満宮には秦氏の気配がつよく、菅原道真を祀る以前よりここに鎮座していたという地主神社は、蜂岡寺の鎮守であり、聖徳太子を祀っていたのではないかと思われる。
また北野天満宮の前にあった「北野経王堂 願成就寺」の廃材を用いてつくられたお堂に「太子堂」の額がかけられているのも、このあたりに聖徳太子信仰があったことを物語っている。

浄土宗の開祖・親鸞には聖徳太子より「私が女に生まれ変わってあなたの妻になろう」という伝説があり、男女双体の神・聖天さんとイメージが重ねられ、聖天さんの好物が大根とされるところから、報恩講に大根焚を行う習慣が生じた。
大報恩寺は真言宗のお寺だが、聖徳太子信仰があったため、浄土真宗の報恩講の影響をうけ、大根焚の行事を行うようになった。
おかめ伝説はこのあと、応仁の乱で焼け残ったところから創作されたのではないかと思うが、もっと古くからあったかもしれない。

千本釈迦堂 おかめ節分 鬼

千本釈迦堂 おかめ節分 

建築の神が住む町⑮ 西陣の聖徳太子信仰 その3  につづく~
建築の神が住む町① 北野廃寺『北野廃寺は蜂岡寺跡?それとも野寺跡?』  ← トップページはこちら






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[2017/10/20 19:31] 建築の神が住む町 | トラックバック(-) | コメント(-)

建築の神が住む町⑬ 西陣の聖徳太子信仰 その1 

建築の神が住む町⑫ 釘抜地蔵 『またしても建築の神!』  よりつづく~

今までの旅の記事を書いたあとで、あっと気が付いたことがいくつかある。
そこで整理の意味もこめ、再度、今までの旅を振り返ってみたいと思う。

①北野廃寺跡は蜂岡寺跡?


駅の東北の角に京都信用金庫がある。
その京都信用銀行の南側、今出川通りに面したところに、小さな石碑があり「北野廃寺跡」と記されている。

北野廃寺跡

北野廃寺跡は、蜂岡寺の跡であるとする説、野寺の跡とする説がある。

蜂岡寺とは現在太秦にある広隆寺の前身とされる寺である。
広隆寺は現在は太秦にあるが、もともとは別の場所にあり鉢岡寺という寺名だった。

この石碑があるあたりを発掘調査したところ、「鵤室(いかるがむろ)」と墨書された灰釉陶器が発見された。
奈良には斑鳩(いかるが)という地名があり、聖徳太子が創建したと伝わる法隆寺がある。
そして広隆寺は飛鳥時代に秦河勝が聖徳太子より授かった仏像を安置するために建てたと伝わっている。
「鵤室」と記された陶器があるのは、蜂岡寺が法隆寺と同じ聖徳太子ゆかりの寺であるためだというのだ。

広隆寺 
広隆寺


また「野寺」と墨書された平安時代前期の土師器も発見されている。
野寺は別名を常住寺ともいい、日本後記に寺名が記載されている。
884年に焼失、復興されたが室町時代に廃寺となっている。

建築の神が住む町① 北野廃寺『北野廃寺は蜂岡寺跡?それとも野寺跡?』 

②菅原道真は「年の変わり目」の神だった?

北野廃寺跡と記された石碑から、東へ400mほどのところに北野天満宮がある。

北野天満宮 梅

全国に天満宮は数多くあるが、たいてい境内には梅が植えられている。
梅が植えられているのは、天満宮の御祭神・菅原道真が藤原時平の讒言によって大宰府に左遷された際、道真の庭の梅が道真を慕って都から大宰府まで飛んできたという伝説(飛梅伝説)に基づくものだろう。
道真は梅の花の神だといってもいいだろう。

そして、道真は梅の花の神から「年の変わり目」の神へと神格を広げていく。

梅は1月1日、または2月3日の誕生花である。
旧暦1月1日は元旦で、このころから梅の花は咲き始める。
新暦2月3日は節分(立春の前日。暦法・二十四節気の大晦日)で、旧暦では正月ごろにあたる。

つまり、2月3日=大晦日、1月1日=元旦で、梅は「年の変わり目」をあらわし、梅の神・菅原道真は「年の変わり目」の神となったと考えられる。

建築の神が住む町② 北野天満宮 梅 『梅は1月1日と2月3日の誕生花』 


菅原道真が「年の変わり目」の神であることを示す例は、他にもある。

京都では正月に梅干しを入れた大福茶を飲む習慣があり、北野天満宮ではこの大福茶に用いる大福梅を、正月事始めの12月13日より授与している。

北野天満宮 大福梅 

北野天満宮で求めた大福梅

なぜ正月に梅干しをいれた大福茶を飲むのかというと、前述したように、梅が「年の変わり目」をあらわしているからだろう。
梅干しを入れたお茶を飲むことは、年の変わり目を飲み干すことで新年を迎えるというおまじないだと考えられる。

建築の神が住む町⑥ 大福梅授与 『目には見えない年の移り変わりを視覚化したおまじない』 

また北野天満宮では大晦日から新年にかけて吉兆縄で御神火をもらいうける朮詣の習慣があり、この火を持ち帰り、お雑煮を焚いて食べると無病息災のご利益があるなどと言われている。

これも、道真が「年の変わり目」の神であるところから生じた習慣だと思う。

北野天満宮 朮詣


建築の神が住む町⑧ 北野天満宮 雪 朮詣 『天神さんは黄泉の神で1年の変わり目の神だった』 

③丑寅は怨霊をあらわす?

②菅原道真は「年の変わり目」の神だった? で、道真は飛梅伝説から梅の神となり、梅は「年の変わり目」をあらわすので、道真は「年の変わり目」の神になったと書いた。
しかし、飛梅伝説から梅の神になったというよりは、道真は丑寅の神から梅の神、「年の変わり目」の神になったと考えたほうがいいかもしれない。

道真はすぐれた政治家で身分を超えて右大臣にまで登りつめた。(菅原氏は学者の家柄で政治家になれるような家柄ではなかった。)
道真に嫉妬した藤原時平は醍醐天皇に「道真は謀反を企てている」と讒言した。
その結果、道真は大宰府に左遷となり、数年後に亡くなった。

道真の死後、疫病や天災が相次ぎ、それらは道真の怨霊のしわざであると考えられた。

特に、清涼殿落雷事件では道真左遷に関与した多くの人物が死傷し、道真の怨霊の仕業として恐れられた。

怨霊とは鬼であるといっていいだろう。
道真は怨霊であり、鬼であった。

12か月を干支でいうと、12月は丑月、1月は月である。
二十四節気では小寒(新暦1月6日ごろ)から立春(新暦2月4日ごろ)までが丑月、立春(新暦2月4日ごろ)から啓蟄(新暦3月6日ごろ)までが寅月、である。

1月1日(旧暦)・・・旧暦の新年・・・・・・・・・・・寅
2月3日(新暦)・・・二十四節気の大晦日(節分)・・・丑

②菅原道真は「年の変わり目」の神だった? で、天満宮のシンボル・梅「年の変わり目」をあらわすと書いたが、梅=年の変わり目は、丑寅を表していると言ってもいい。

丑寅は暦では年の変わり目を表すが、方角では鬼の出入りする方角=鬼門である。
吉備津彦が退治した温羅という鬼は、別名を「丑寅御前」という。
このことは、丑寅=鬼であることを示している。

道真は鬼=丑寅の神=1年の変わり目の神=梅の神というふうに神格を広げていったのかもしれない。

④北野天満宮に秦氏の気配

私は北野天満宮に菅原道真の気配だけでなく、秦氏の気配を持感じた。

例えば、北野天満宮で正月に行われている新春奉納狂言。
新春奉納狂言では年によって異なる演目が演じられるが、『末広がり』と『福の神』のふたつの演目は毎年演じているそうである。

そのうち『福の神』には出雲の神(大国主命)と思われる神が登場し、参拝者が奉納した酒を、まず松尾の神に捧げてから飲み干すというシーンがある。

北野天満宮 新春奉納狂言 福の神

松尾の神とは松尾大社の神のことであり、松尾大社でも11月の上卯祭でこの「福の神」が奉納されている。
そして、松尾大社は秦氏の氏神なのだ。
つまり北野天満宮では毎年正月に福の神=出雲大社の神(大国主命)が、松尾大社の神=秦氏の神に酒を捧げているということになる。
北野天満宮は秦氏の神を厚く崇敬しているように思える。

狂言『末広がり』において、大蔵流では「傘を差すなる春日山、これもかみのちかいとて、人が傘を差すなら、われも傘を差そうよ…」(大蔵流)と謡うそうである。
(※北野天満宮の新春奉納狂言の『末広がり』では「傘を差すなる春日山、これもかみのちかいとて」と謡っていたかどうか、確認できなかったのだが。)

春日山は奈良市の春日大社の裏にある御蓋山(三笠山)の通称である。
三笠山という山名は、傘をさしたような山の形からくる。
それで「傘を差すなる春日山」と謡っているのだろう。

北野天満宮 新春奉納狂言 末広がり

それでは、「人が傘を差すなら、われも傘を差そうよ…」とはどういう意味なのか。
「人」とは春日山のことではないかと思う。
そして「われ」とは松尾大社の裏にある松尾山のことではないか。

つまり、春日山が神が降臨した山だとされているように、松尾山も神が降臨した山になろう、と謡っているようにも思えるのである。

建築の神が住む町⑨ 北野天満宮 新春奉納狂言 福の神 『福の神の正体』 

北野天満宮で節分の日に行われている北野追儺狂言は、北野天満宮の摂社・福部社の神が鬼を追いはらう狂言だとされる。

北野追儺狂言 福の神


私は「福部(ふくべ)の神」と聞いて池田理代子さんの漫画の一コマを思い出した。

たしか「おにいさまへ・・・」という作品だったと思うが、主人公の女子高生が、校内マイクで「服部さん」を「ふくべさん」と言って呼び出してしまい、上級生に「ふくべではなく、はっとりとよむ」と注意されるシーンがあったのだ。

福部社の神は、もともとは服部社だったなんてことはないだろうか。
服部氏は秦氏の末流だとされているのだが。


http://www2s.biglobe.ne.jp/~suzakihp/index40.html
↑ こちらのページで服部を検索してみると、服部という姓の読み方として、ハットリ・ハトリ・ハトリベ・フクベ・フクイ・ハッタとでてくる。

やはり福部社は服部社であり、秦氏の神を祀る神社である可能性が高いと思う。

⑤北野天満宮の地主神社の御祭神は聖徳太子?

北野天満宮 楼門 紅葉

北野天満宮 楼門




上の地図を見ていだくと、楼門と三光門、本殿(三光門の真上の北野天満宮の文字があるところ)が一直線に並んでおらず、楼門から三光門、本殿がやや東にずれていることがわかる。

神社の本殿は参道の正面にあるのが一般的なのだが、北野天満宮の楼門参道の正面には地主神社がある。

北野天満宮にはもともと地主神社があり、その後菅原道真公を祀る神社が建てられたのだが、その際、もともとここに鎮座していた地主神社の正面を避けて道真公を祀る神社を建てたためであるという。

北野天満宮 地主神社 紅葉 

地主神社

こんなことを聞いたこともある。
「もともと天神さんとは菅原道真のことではなかった。しかし、清涼殿の落雷が菅原道真の怨霊によるものだとされたことで、天神さんとは菅原道真のこととされるようになった。」

北野天神縁起には清涼殿で暴れる鬼(雷神/天神)が描かれているが、この鬼は道真の怨霊なのだろう。

File:Kitano Tenjin Engi Emaki - Jokyo - Thunder God2.jpg

『北野天神縁起』(承久本)巻六より。宮中清涼殿に雷を落とす雷神と逃げまどう公家たち

https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3AKitano_Tenjin_Engi_Emaki_-_Jokyo_-_Thunder_God2.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/a2/Kitano_Tenjin_Engi_Emaki_-_Jokyo_-_Thunder_God2.jpg
よりお借りしました。
作者 不明 [Public domain または Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で


地主神社の神もまた、雷神だったのではないだろうか。
ところが③丑寅は怨霊をあらわす?で書いたように、道真の死後相次いだ疫病や天災、特に清涼殿落雷事件が、道真の怨霊の仕業であると考えられたため、道真こそが雷神であると考えられ、もともと雷神が鎮座していた土地に道真は祀られることになったのではないだろうか。

北野白梅町駅の東北の角に「北野廃寺跡」と刻まれた石碑があり、かつて石碑前の交差点を中心として225m四方に及ぶ寺域を持つ寺があったと考えられている。

北野天満宮の地主神社はその石碑から600mほど東北に位置する。
徒歩5分は約400mであるとされる。600mは歩いて約7.5分ほどで、地主神社と北野廃寺はたいへん近い場所にあったといえる。

そして江戸時代までの日本では神仏は習合して信仰されていた。

神仏習合のベースとなったのは本地垂迹説という考え方である。

本地垂迹説とは日本古来の神々は仏教の神々が衆上を救うために仮にこの世に姿を表したものとする考え方で
日本古来の神々のもともとの姿である仏教の神々のことを本地仏、仏教の神々は仮にこの世に姿を現した日本古来の神々のことを権現といった。

例えば天照大神は大日如来の権現であるとか、スサノオの本地仏は牛頭天皇であるなどと考えられていたのである。

もしかして北野天満宮境内にある地主神社に祀られている神は、・北野廃寺の本尊を本地仏とする権現なのではないだろうか?

そして、④北野天満宮に秦氏の気配 で見てきたように北野天満宮には秦氏の気配がある。
北野廃寺跡は「広隆寺の前身の蜂岡寺跡」とする説、「野寺」とする説があるが、広隆寺は秦氏の氏寺である。
北野廃寺は広隆寺の前身の蜂岡寺跡ではないか。

広隆寺の本尊は聖徳太子だ。
北野天満宮境内の地主神社の御祭神とは聖徳太子ではないか?

⑥聖徳太子怨霊説

⑤北野天満宮の地主神社の御祭神は聖徳太子? で私は「おそらく地主神社の神は雷神であったのだろう。」と書いた。
地主神社の御祭神が聖徳太子だとすると、聖徳太子は雷神だということになるが、聖徳太子が雷神だと考えられていたと思われることがらがある。

梅原猛さんは「聖徳太子は怨霊である」と説かれた。
怨霊とは政治的陰謀によって不幸な死を迎えた人のことで、天災や疫病は怨霊のしわざでひきおこされると考えられていた。

聖徳太子の子孫は全員、蘇我入鹿に責められて法隆寺で首をくくって死んだ。
聖徳太子の子孫は繁栄せず、そのため聖徳太子は怨霊になったと、人々に考えられたというのである。
聖徳太子は日本で最も崇敬されている人物であるが、現在の日本人に聖徳太子の血は一滴も流れていないのである。

井沢元彦さんは梅原猛さんの説を受け、先祖の霊は子孫が祭祀供養するべきとされているのに、聖徳太子には祭祀供養を行う子孫がいなくなってしまったため、人々は聖徳太子は怨霊になったと考えたというような意味のことをおっしゃられていた。

聖徳太子が建てた法隆寺の中門には柱がある。
一般的な門にはこのような柱はもうけられない。
梅原猛さんは、門に柱をたてれば閂であるとし、法隆寺は聖徳太子の怨霊封じ込めの寺であると説かれた。

法隆寺 中門と五重塔

法隆寺 中門

また法隆寺の夢殿の扉をあけると大地震がおこると言い伝えられ、夢殿のとびらは長年鍵がかけられたままの状態になっていた。
明治時代、アメリカの東洋美術史家であるフェノロサによって夢殿は開扉され、中からフランケンシュタインのように包帯状の布でぐるぐる巻きにされた仏像が発見された。
この像は『聖徳太子等身大の像』と伝わる救世観音で、光背が頭に直接釘で打ち付けられていた。

光背は仏の足元に棒を立ててその棒にとりつけるのが一般的で、救世観音のような様式は大変珍しい。
これについても梅原氏は聖徳太子の怨霊封じ込めの呪術であろう、と説かれた。

 法隆寺 夢殿
夢殿

そして、日本書紀670年の記事に次のように記されている。
「夏四月30日の あかつきに 法隆寺に火つけり ひとつのたてものも あまることなし。大雨降り雷なる」

法隆寺は長年「非再建論」と「再建論」があって対立していた。
再建論の根拠はもちろん日本書紀670年の記事である。
一方、非再建論は、金堂や塔などが645年の大化の改新以前に用いられていた高麗尺で設計されていることを根拠としていた。
しかし、発掘調査の結果、西院伽藍南東部より火災にあった跡のある伽藍跡(若草伽藍)が見つかったため、現在では再建論が有力となっている。

1943年から1954年に解体修理が行われ、腐っていた塔の心柱が一部取り外された。
2001年、その心柱を年輪年代法で測定したところ、594年に伐採された桧であるとされた。
しかし、非再建論はたいしてぶり返さず、移築したのではないかとか、伐採されて長年放置した木材を用いたのではないかという説が唱えられている。

若草伽藍に焼け跡があることなどから、日本書紀670年の法隆寺炎上の記事は事実ではないかと私は考える。
「大雨ふり雷なる」とあるので、落雷があって炎上したのではないだろうか。
平安時代、清凉殿に落雷があったのと同じように。

そして法隆寺落雷炎上事件は聖徳太子の怨霊の仕業であると考えられ、聖徳太子は雷神とあがめられるようになったのではないだろうか。


⑦聖徳太子と牛


天満宮のシンボルは梅のほか、牛もある。

北野天満宮 立牛 と 紋

聖徳太子が創建したと伝わる朝護孫子寺では、虎をシンボルとしており、聖徳太子には虎=寅の神というイメージがあるのだが
それだけではなく、聖徳太子には牛=丑のイメージもある。

長野県に牛伏寺(ごふくじ)という寺があり、次のような伝説が伝わっているというのだ。

聖徳太子が42歳の時に自ら刻んだ観音像を本尊として鉢伏山に安置した。
756年、唐からもたらされた大船若経600巻を善光寺奉納する途中、経典を運んでいたところ、2頭の牛が倒れたことから牛伏寺と名付けられた。


 建築の神が住む町⑭ 西陣の聖徳太子信仰 その2 につづく~
建築の神が住む町① 北野廃寺『北野廃寺は蜂岡寺跡?それとも野寺跡?』  ← トップページはこちら





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[2017/10/13 15:56] 建築の神が住む町 | トラックバック(-) | コメント(-)

建築の神が住む町⑫ 釘抜地蔵 『またしても建築の神!』 

建築の神が住む町⑪ 大報恩寺 おかめ節分 『大報恩寺に残る聖徳太子信仰?』  より続く~


①またしても建築の神!

大報恩寺のおかめ節分を見学したのち、ぶらぶらと町を散策していると、「釘抜地蔵尊 石像寺」と記された石碑が目に留まった。
大報恩寺から300mほど東北の位置だ。

石像寺 門 
石像寺

大報恩寺には大工の棟梁とおかめの伝説が伝わっていた。
大工の棟梁とおかめは建築の神だといえる。
参照/建築の神が住む町⑪ 大報恩寺 おかめ節分 『大報恩寺に残る聖徳太子信仰?』 

千本釈迦堂 おかめ節分会 おかめと鬼

大報恩寺 おかめ節分会

そして今度は釘抜地蔵だ。
釘抜地蔵とは、またしても建築の神(みほとけというべきか?)ではないか。
このあたりではよほど建築の神が信仰されていたのだろう。

門をくぐって歩いていくと、大きなやっとこ(釘抜き)のモニュメントが置かれていた。

石像寺 舞妓 
石像寺

本堂の壁には釘抜きと八寸釘の絵馬がびっしりと貼り付けられていて、その信仰の厚さがうかがえる。

石像寺 絵馬 
石像寺 絵馬

②石像寺に伝わるふたつの伝説


石像寺にはふたつの伝説が伝えられている。

a.遣唐使として唐に渡った弘法大師は、日本へ石を持ち帰り、地蔵菩薩を彫った。
そして「人々の諸悪・諸苦・諸病を救い助けん」と祈願した。
いろいろな苦しみを抜きとってくださるお地蔵様「苦抜(くぬき)地蔵」と呼ばれるようになり、その後「くぬき」がなまって「くぎぬき」になった。


b.室町時代、両手の痛みに悩む大
商人・紀伊国屋道林がこのお地蔵さまに七日間願掛けすると、7日目の夜の夢の中にお地蔵様が現れた。
お地蔵さまは「手の痛みは、あなたが前世でわら人形に釘を打ち人をのろった報いである。」と言い、釘を抜いた。
商人が目覚めると手の痛みは治っていた。


石像寺 本堂 
石像寺 本堂

③苦抜地蔵は空海の成仏した姿?


aの伝説では苦抜地蔵は空海が刻んだものとある。

そこで思い出してほしい。
東向観音寺の門前にあった「天満宮御本地仏 十一面観世音菩薩」と刻まれた石碑のことを。
参照/建築の神が住む町⑦ 東向観音寺 『菅原道真が刻んだ観音』 

「天満宮御本地仏 十一面観世音菩薩」とは「天満宮(菅原道真)は十一面観音の生まれ変わりである。」とか「天満宮のもともとの正体である十一面観音をお祀りしています」というような意味だ。

東向観音寺 舞妓

そしてこの東向観音寺の十一面観音は菅原道真が刻んだとも伝わっている。

菅原道真が刻んだと伝わる十一面観音は道明寺にもある。
残念ながら東向観音寺の十一面観音は拝観できなかったのだが、道明寺の十一面観音はウィキペディアに写真があった。

ElevenFaced Kannon Domyoji

十一面観音像 〈道明寺)

https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3AElevenFaced_Kannon_Domyoji.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/eb/ElevenFaced_Kannon_Domyoji.jpg よりお借りしました。
作者 OGAWA SEIYOU(1894-1960) a famous photographer in Japan [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で


このような素晴らしい仏像を政治家が片手間に刻むことは可能だろうか?
何年も仏像作り一筋に修行してきた仏師でなければ無理ではないだろうか。

私はこの仏像は実際に道真が刻んだのではないと思う。

道真は大宰府に流罪となり数年後に亡くなった。
その後、都では疫病が流行り、天災があいついだ。そしてそれらは道真の怨霊のしわざだと考えられた。

成仏とは悟りを開いて煩悩を捨てることである。
人々は道真の怨霊が成仏することを望み、道真が成仏したことを、目に見える仏像という形で残したのだろう。
そして、「道真が成仏した」ということを比喩的に、「道真が十一面観音を刻んだ」と表現したのではないだろうか。

とすれば空海が刻んだ地蔵菩薩もまた、空海が成仏した姿として刻まれたもので、実際に空海が刻んだものではないと考えられる。

石像寺 絵馬2 
石像寺 絵馬

④空海はキリストになりたかった?


ただし、空海が怨霊であったようには思われない。
怨霊とは政治的陰謀によって不幸な死を迎えた人のことで、疫病の流行や天災は怨霊のしわざでひきおこされると考えられていた。
しかし空海が政治的陰謀によって不幸な死を迎えたようには思えない。
空海にはもちろんつらいことや、大変なこともあっただろうが、朝廷より東寺や高野山を賜っており、宗教家として大変成功した人物のように思えるからだ。

高野山 金剛峯寺 東塔

高野山

東寺 桜 ライトアップ

東寺

空海が遣唐使として唐へ行ったころ、唐では景教が流行していた。
景教とはネストリウス派キリスト教のことである。
空海は景教の教えをよく知っていたはずで、空海が伝えた真言密教も景教の影響を受けているとする説がある。

密教では灌頂(かんじょう)といって頭頂に水を濯ぐ儀式を行うが
これはキリスト教の洗礼の灌水(頭部に水を注ぐ)や滴礼(頭部に手で水滴をつける)によく似ている。

また「南無大師遍照金剛」という御宝号の「遍照金剛」とは空海の洗礼名で、聖書マタイ5:16にある 「あなたがたの光を人々の前で輝かせ」からとったともいわれている。

遍照金剛とは大日如来のことでもある。
空海は「自分自身が大日如来になるのだ」と考えてはいなかっただろうか。

大日如来とは太陽神であるといわれる。
そしてキリストは太陽を擬人化した神だとする説がある。

地球の自転軸が約25920年の周期でコマが首を振るように回転している(歳差運動)ため、古代ローマでは南十字星が見えていたという。



動画お借りしました。 動画主さん、ありがとうございます。


南十字星が見えていたといっても、当然、南中高度は低かったはずである。
そして冬至に近づくにつれ、太陽は南中高度を下げ南十字星の南中高度に近づく。
キリストは太陽を擬人化したものであり、キリストが十字架に磔になったというのは、冬至の太陽が南十字星の高度に近づくことを比喩的に表現したものだというのである。

さらに冬至(12月22日ごろ)の太陽は南十字星の位置に3日とどまったのち、再び南中高度をあげていく。
キリストが死後3日目に復活し、生きたまま昇天したというのもまた、この太陽の動きの比喩的表現であると説明される。

遍照金剛という洗礼名を持つ空海は、自らが太陽神=大日如来=キリストになろうとしたのではないかと思う。

空海は病死して荼毘にふされたとする文献もあるが、高野山では空海は奥の院に入定し、今も修行を続けていると信じられている。

キリストは人類の罪を背負って死んだとされる。
それで空海も人類の罪を背負って死ぬため、入定したのかもしれない。

⑤両手の痛みに悩んだ男とは空海だった?


次にbの伝説を見てみよう。

「両手の痛みに悩む」という点が気になる。
キリストは十字架に磔になるとき、両手両足に釘を打ちこまれていた。

Mantegna, Andrea - crucifixion - Louvre from Predella San Zeno Altarpiece Verona

https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3AMantegna%2C_Andrea_-_crucifixion_-_Louvre_from_Predella_San_Zeno_Altarpiece_Verona.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/83/Mantegna%2C_Andrea_-_crucifixion_-_Louvre_from_Predella_San_Zeno_Altarpiece_Verona.jpg よりお借りしました。

アンドレア・マンテーニャ [Public domain または Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由


空海は高野山に金剛峯寺を開いているが、高野山は紀伊国にある。
両手の痛みに悩む紀伊国屋道林とはキリストになろうとした空海のことではないのか?

bの伝説は、空海とキリストを同一視した結果、創作されたものではないだろうか?

⑥藤原家隆と浄土宗と聖徳太子信仰の関係

こんなことを考えていると、なんだか心がわくわくしてきたが、わくわく感を感じるものは他にもあった。
もう一度、1枚目の写真を見てほしい。
石像寺の門の額に「家隆山」と書いてある。

なぜ家隆山という山号なのかというと、鎌倉時代、歌人の藤原家隆がこの寺で落髪して出家し、それ以降家隆山となったのだという。

境内には藤原家隆(1158-1237)や藤原定家(1162-1241)の墓(供養塔)があるとのことだったが、残念ながらどこにあるのかわからなかった。

藤原家隆の墓(家隆塚)は大阪市天王寺区の四天王寺の近くにもある。

家隆塚  
家隆塚

藤原家隆は1236年に病を患って出家し、四天王寺の近くに夕日庵を結んで日想観を行ったと伝えられている。
家隆塚はその夕日庵跡に建てられているという。
日想観とは、 西に沈む太陽を見て、その丸い形を心に留める修行法のことである。

ということは藤原家隆は1236年に病を患って石像寺で出家し、その後四天王寺近くの夕日庵に移ったわけだ。
藤原家隆はなぜ石像寺で出家したのか。

それは石像寺が四天王寺と関係の深い寺だったからではないか。

四天王寺 夕日

四天王寺 夕日

四天王寺を創建したのは聖徳太子である。
その四天王寺の近くには、世界最古の企業・金剛組があり、社員は朝礼の前に厨子の中の聖徳太子に手を合わせる。
聖徳太子は建築の神なのだ。

そしてここ石像寺にも釘抜き地蔵の伝説が残るなど、建築の神がおわす気配がある。

さらに、石像寺はもと真言宗であったが、重源(1121~1206)によって浄土宗に改められたとされる。
浄土宗の開祖は法然だが、法然は藤原家隆が修した日想観と関係が深い。

法然は四天王寺別当・慈円の要請を受けて四天王寺の西門の近くに源空庵という草庵を結んだ。
現在、その場所には一心寺という寺があるが、一心寺は法然の源空庵がルーツである。
その後、後白河法皇’(1127~1192)がここを訪れて法然とともに日想観を修したと伝えられる。

一心寺 仁王門

一心寺 夕日

四天王寺は浄土宗ではないが、浄土宗と四天王寺は関係があったということだろう。
四天王寺は聖徳太子が創建した寺で、聖徳太子信仰が強く、現在でも聖徳太子の命日にちなみ、4月22日に聖霊会を行っている。
(聖徳太子の命日は旧暦2月22日)
その四天王寺と浄土宗の関係が深かったということは、浄土宗は聖徳太子信仰が厚い宗派であったと考えらえる。

また藤原家隆の夕日庵はこの一心寺からほど近い場所にある。

ということは、浄土宗で藤原家隆の供養塔のある石像寺にも聖徳太子信仰があったのではないだろうか。
そして聖徳太子は建築の神として信仰されているため、石像寺の地蔵菩薩は釘抜の神として信仰されているのではないだろうか。




⑦藤原家隆は夕日庵で後鳥羽院の呪いから逃れることを祈った?


藤原家隆はなぜ四天王寺の近くに夕日庵を結んで日想観を行ったのだろうか。
家隆は後鳥羽院〈1180-1239)の呪いを怖れ、その呪いから逃れるため、日想観を行ったのではないかと私は考える。

後鳥羽院は和歌の能力に秀でた方で、藤原定家や藤原家隆とも交流があった。
1221年、後鳥羽院は承久の乱をおこして隠岐へ配流となり、こんな歌を詠んでいる。

われこそは 新島守よ 隠岐の海の 荒き波風 こころして吹け/後鳥羽院
(私は、新任の島守である。隠岐の荒き波風よ、それを心得て吹くがよい。)


隠岐の荒い波風は承久の変に敗れた後鳥羽院の怒りの心を表しているようで、たいへん恐ろしい歌である。
藤原家隆は1236年に病を患って出家したわけだが、病は後鳥羽院の呪いによるものではないかと恐れたのではないだろうか。

だとすると、bの伝説に登場する室町時代の商人・紀伊国屋道林の前世とは後鳥羽院ではないかとも思える。

⑤では、紀伊国屋道林とはキリストになろうとした空海のことではないか、と書いた。

時代としては、空海は平安時代、後鳥羽院は鎌倉時代の人物なので、空海の前世が後鳥羽院というのはおかしいが
創作された物語としては十分ありえることだ。

最近でも、徳川の歴代将軍が同じ場所にいて、あれこれ話をするといったドラマがあった。

石像寺 石仏 
石像寺 石仏



建築の神が住む町⑬ 西陣の聖徳太子信仰 その1  につづく~
建築の神が住む町① 北野廃寺『北野廃寺は蜂岡寺跡?それとも野寺跡?』  ← トップページはこちら





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[2017/10/09 01:25] 建築の神が住む町 | トラックバック(-) | コメント(-)

建築の神が住む町⑪ 大報恩寺 おかめ節分 『大報恩寺に残る聖徳太子信仰?』 

建築の神が住む町⑩ 北野追儺狂言 『福部の神は瓢の神で、丑を牽いて去る神だった?』 よりつづく~



①おかめ節分会


北野天満宮で北野追儺狂言を見たのち、歩いて大報恩寺(千本釈迦堂)へと向かう。
北野天満宮から大報恩寺までは直線距離で約450m。10分ほどで到着する。
この日は節分で、北野天満宮では北野追儺狂言が、大報恩寺ではおかめ節分会が行われる。
北野追儺狂言は午後1時から、大報恩寺のおかめ節分会は午後3時からなので、節分会のはしごができるのだ。

大報恩寺境内にあるおかめ像はこの日は特別に赤い傘をさし、山吹色の着物を着ておめかしをしていた。

大報恩寺 おかめ像 

大報恩寺になぜおかめの像があるのか。
それはここに大工の棟梁とおかめの伝説が伝えられているためである。
参照/建築の神が住む町⑤ 『大報恩寺の大根焚と男女双体の神』


千本釈迦堂の本堂を建てるとき、長井飛騨守高次(ながいひだのかみたかつぐ)という大工の棟梁が謝って柱を短く切ってしまった。
棟梁はどうしたものかと困り果てていたが、妻の阿亀(おかめ)が、全ての柱を短く切って升型の受けを作ってはどうかと助言した。
棟梁はおかめの助言に従って無事本堂を完成させることができた。
妻のおかめは夫の失敗が人に知れないようにと、本堂の完成を待たずに自殺した。

大報恩寺 柱の升組
  
大報恩寺本堂 矢印が示す場所に升受けがある。

本堂の大柱を見ると、たしかに枡受けがある。
このような伝説があるので、大報恩寺の節分会は『おかめ節分会』と呼ばれているのだろう。

②応仁の乱の戦火をまぬがれた寺

大報恩寺は1223年、義空上人が釈迦念仏道場として開いた寺である。
この付近は西陣と呼ばれるが、それは『応仁の乱(1467-1477)』において西軍の陣が置かれたことに由来する。
このとき千本釈迦堂にも兵火が及んだが、奇跡的にも焼失をまぬがれた。
応仁の乱で焼けなかったのはおかめのご利益にちがいないと、人々は噂したことだろう。

③飛騨守が大工?

しかし、このおかめ伝説、ちょっと気にかかることがある。
それはおかめの夫の大工の棟梁、長井飛騨守高次についてである。
飛騨守とは役職名だ。
古代から中世にかけて、朝廷は各地に国司という行政官を派遣していた。
その国司には、守(かみ)・介(すけ)・掾(じょう)・目(さかん)などの役職があった。
つまり、長井飛騨守高次とは、飛騨守という役職で、名前が長井高次なのだ。

飛騨守という役職についている役人が兼業で大工の棟梁をやっているとはちょっと考えられないのだが。

飛騨は過疎地帯であったため、租庸調(税金)のうち庸調が免除されていた。
そのかわり、飛騨の人々は大工として挑発された。
こういう事情があって飛騨では大工業が発達した。

おかめ伝説に登場する大工の長井飛騨守高次とは架空の人物なのではないか。
いや、おかめは神なので、おかめの夫の長井飛騨守高次も神なのではないか。
その大工の神を飛騨守としたのは、飛騨が大工業が発達した地域だからではないか?

長井高次という名前は「長い高継ぎ」という意味ではないだろうか。
「高接ぎ」とは果樹などを接ぎ木する際に、台木(接ぎ木をするとき上部にする植物体を穂木、下部にする植物体を台木という)の高い位置に接ぐ方法のことである。

本堂の柱を植物の木に喩えたのではないだろうか。
升受けは柱の高い位置についており、まるで接ぎ木の高接ぎのようではないか。
さらに柱はとても長い。
それで、大工の神の名前を「長い高接ぎ」から「長井高次」としたのではないだろうか。

大報恩寺 おかめ節分会 木遣音頭


④木遣音頭


そんなことを考えていると、鬼とおかめが行列を作ってやってきて、おかめの像の前で法要が行われた。
法要が終わると番匠保存会による木遣音頭が奉納された。

これと同じものを以前、聞いた記憶がある。
そう、確か広隆寺で1月2日に行われている「釿(ちょうな)始め」で木遣音頭を聞いた。

かつて元旦は年神様を迎える日で、仕事をしてはいけないとされていた。
そして元旦の翌日の1月2日が仕事はじめの日とされていた。
大工たちはこの日、仕事始めの儀式として「釿始め」を行っていた。
「釿始め」は大工たちが木遣音頭を歌いながら大きな木材を運び込び、釿という日本独自の道具を用いて粗削りをするというもので、
昭和になって廃れてしまった習慣を、広隆寺において復活させたのだという。



動画お借りしました。動画主さん、ありがとうございます。

④建築の神・聖徳太子

なぜ広隆寺で釿始めの儀式が行われているのか。
それは広隆寺の御本尊・聖徳太子が建築の神として信仰されているからだろう。

世界最古の企業は大阪にある金剛組だといわれている。
創業はなんと飛鳥時代の578年で、四天王寺からほど近い場所にある。

四天王寺 夕景 合成

四天王寺

聖徳太子は四天王寺を創建するために百済より3人の宮大工を招いた。
そのうちのひとり、金剛重光(柳重光)によって金剛組は創業された。
593年、金剛組によって四天王寺が建てられた。
607年に創建された法隆寺も金剛組によって建てられたものである。

法隆寺 夕景 
法隆寺

金剛組は現在、100人以上の宮大工を抱えているという。

以前、テレビで金剛組の朝礼風景を見たことがある。
事務所には厨子が置いてあって、中に聖徳太子像が安置されていた。
社員たちは厨子の前に並び、まず聖徳太子に合掌してから朝礼を始めるのだ。
金剛組の朝礼風景は、今でも聖徳太子が建築の神として信仰されていることを示すものだといえるだろう。

大報恩寺は大工の棟梁とその妻・阿亀の伝説が伝わっている。
そのため、木遣音頭が奉納されているのだろう。

⑤北野追儺狂言とおかめ節分会の共通点

木遣音頭の奉納ののち、いよいよ古式鬼追いの儀(狂言)が行われた。

大報恩寺 おかめ節分会 狂言2

本堂では太郎冠者・次郎冠者らが豆を撒き、暴れる鬼を退散させようとしていた。
しかし、鬼は豆を撒かれたくらいでは退散せず、逆に太郎冠者・次郎冠者らは鬼に倒されてしまう。

大報恩寺 おかめ節分会 狂言 
ここへおかめが登場した。

千本釈迦堂 おかめ節分会 おかめと鬼2 

おかめは何をするでもなくただ笑顔を浮かべているだけ(といっても面が笑顔に作られているのだが)なのだが、鬼たちはおかめが登場するや、平伏し、手に持っていた打ち出の小づちをおかめに渡した。

千本釈迦堂 おかめ節分会 おかめと鬼 

こうして狂言は終わった。

大報恩寺の古式鬼追いの儀では先ほど見た北野追儺狂言のような鉢叩きはなかった。

北野追儺狂言 鉢叩き2

北野追儺狂言 鉢叩き

しかし、おかめ(お多福)が登場し、おかめが何をするわけでもないのに鬼が調服されてしまうというのは同じである。
これは、この付近の地域でー西陣と呼ばれるこあたりでお多福(おかめ)が厚く信仰されていたということを物語るものだろう。

北野追儺狂言 福の神

北野追儺狂言 おかめに調服される鬼

ただし、北野追儺狂言のお多福は烏帽子をかぶっている。
また福部社の神が鬼を祓う狂言だとされるが、福部社の御祭神は十川能福という菅原道真の舎人である。
北野追儺狂言のお多福は男神だと考えられる。

これに対し、大報恩寺のおかめ節分会の狂言に登場するおかめは女神だと考えられる。
なぜかというと、大報恩寺には先ほど紹介した大工の棟梁の妻・阿亀の伝説が伝えられているからである。
おかめ節分会の狂言に登場するおかめは大工の棟梁の妻・阿亀だと考えられる。

しかし奈良県の宝山寺で護摩供を行っていた修験者が、おかめと同じように白い布を巻いていた。

宝山寺 修験者

伝説に登場する阿亀は女性だが、狂言に登場するおかめは男神であるかもしれない。

とにかく日本の神は性別がルーズで、親鸞の夢枕に聖徳太子が現れて「女に生まれ変わってあなたの妻になろう」と言ったという伝説もある。

まあ、これについては今後の宿題としておこう。

⑥おかめは安産の神、ひょっとこは防火の神

おかめとペアになっている神様といえばひょっとこである。
六斎念仏の演目である祇園囃子にはおかめとひょっとこの面を被った人が登場することが多い。

梅津六斎 祇園囃子 おかめ

梅津六斎 祇園囃子 ひょっとこ

梅宮大社 梅津六斎 祇園囃子に登場するおかめとひょっとこ

おかめは妊婦さんで、ひょっとこは「火の用心」と書いた巻物を持っている。

これは柿本人麻呂を思い出させて興味深い。
柿本人麻呂は人丸と記されることもあり、語呂合わせで「ひとまる→人産まる」となり安産の神に、「ひとまる→火止まる」で防火の神になったというのである。

⑦お多福・おかめの語源

『お多福』の語源には次のような説がある。

a.福が多いと言う意味。
b.膨らんだ河豚からくる。
c。狂言面の『乙』『乙御前』が訛った。(乙御前は末娘という意味)

また『おかめ』の語源にも諸説ある。

d.顔の形が瓶ににている。
e.室町時代の巫女の名前からくる。

「おかめ」については「亀石」と関係があるのではないかと私は考えている。

亀石とは飛鳥や一言主神社にある謎の石のことだが、私は亀石は頭蓋骨をあらわしているのではないかと思う。
というのは、飛鳥の亀石は妖怪ぬらりひょんにそっくりなのである。

亀石 
飛鳥の亀石


妖怪ストリート ぬらりひょん

京都の大将軍商店街(妖怪ストリート)に置かれてあったぬらりひょんの人形。

亀石とぬらりひょんは眉間に半月形の皺があるところまでそっくりである。

亀は頭蓋骨を表しているのではないだろうか。

詳しく説明すると長くなるので、下記記事を読んでほしい。
参照/土蜘蛛の謎⑦ 妖怪ぬらりひょんと亀石と土蜘蛛 

そして、滋賀県・西明寺にあった福禄寿の像は瓢箪型の頭部をしていた。
福禄寿と寿老人はどちらも南極老人星の化身で同一神であるともいわれる。
福禄寿と寿老人の頭部はどちらも長いが、もともと二柱の頭部は瓢箪型だったのかもしれない。
福禄寿と寿老人の長い頭部は福禄寿+寿老人の二柱の神の頭蓋骨が合体していることをあらわしているのではないだろうか。

寝屋川戎神社 寿老人・布袋・弁才天・毘沙門天・福禄寿

そして北野追儺狂言やおかめ節分会に登場するおかめ(お多福)の顔は瓢箪型をしている。
おかめ(お多福)はふたつの頭蓋骨がくっついた神なのではないか。

⑧お多福はお福と布袋のドクロが合体した神?

おかめ(お多福)は「お福」と言われることもあり、1712年の『七福神戯遊之図』には、七福神ともうひとり女神が描かれているそうである。
説明書によればこの女神は「お福」または「乙御前」とあり、布袋に酌をしているとのこと。
「お福」「乙御前」とはお多福、おかめのことである。

そういえば、大報恩寺には他の七福神像はないが、布袋像は境内の片隅のめだたないところにある。
その布袋像が手にした長細い袋は、中にちょうど二つの髑髏が入っていそうな大きさと形をしている。

千本釈迦堂 布袋像

大報恩寺 布袋像

おかめ(お多福)はお福のドクロと布袋のドクロが結合した神なのではないか。
もしかしたら、お福+布袋(福神)で、福が重なる神なので、お多福という名前がつけられたのかもしれない。

⑨ひょっとこの語源

③で述べたように、おかめの夫の大工の棟梁・長井飛騨守高次は実在した人物だとは思えず、大工の神であるように思える。
そして⑥で見たように、おかめとペアになっている神といえばひょっとこである。
長井飛騨守高次とはひょっとこのことではないかと思う。

このひょっとこの語源についても見ておこう。
こちらもいくつかの説がある。

a.竈(かまど)の火を竹筒で吹く『火男』が訛った。
b.口が徳利のようであることから『非徳利』からくる。
c.岩手県奥州氏の江刺地方の民話に登場するヘソから金を生む奇妙な顔をした子供の名前『ヒョウトク』が訛った。

aの『火男』からくるという説は、⑥で述べた六斎念仏の演目『祇園囃子』に登場するひょっとこが『火の用心』と書いた巻物を持って登場するのを思い出させて興味深い。

ひょっとこはもともとは火男であった。
男子の名前の後ろには男のほか、彦、麿、丸などをつけることもある。
そこで火男は火丸となり、そこからさらに人丸と転じ、語呂合わせで「ひとまる→火止まる」となり、防火の神に転じたとも考えられる。


⑩ひょうとくは聖徳太子?

cの民話とは次のような物語である。

強欲な婆さんがヒョウトクのへそを火箸でぐりぐりといじったためにヒョウトクは死んでしまった。
ヒョウトクをかわいがっていた爺さんはヒョウトクの死をそれは悲しんだ。
そんな爺さんの夢枕にヒョウトクが立ち、『自分の顔の面を竈の前の柱にかけておけば裕福になるだろう』と告げた。
そのとおりにしたところ、爺さんは大金持ちになった。


ヒョウトクという名前は聖徳(ショウトク)に似ている。
もしかして、ヒョウトクとは聖徳太子のことではないか?

③で述べたように、聖徳太子は建築の神でもあった。。
世界最古の企業・金剛組の朝礼風景についてはすでに述べたが、このほかにも、太子の忌日である2月22日には木匠の間で講が営まれているともきく。

大報恩寺の伝説に伝わる大工の棟梁とはひょっとこ=ひょうとく=聖徳太子のことなのではないだろうか。

⑪大報恩寺の太子堂

大報恩寺を出ようと門の方へ向かって歩いていくと、門の手前に小さなお堂があった。
お堂の上部には、なんと太子堂と記した額がかけられているではないか。
『ひょっとこ=ひょうとく=聖徳太子』という推理はそうトンデモ説ではないかもしれない。

お堂の前には、下の写真のような説明板が建てられていた。

大報恩寺 太子堂 説明板 

お堂の額には太子堂とあるが、説明板は「北野経王堂 願成就寺」となっている。
説明板には次のような内容が記されている。

1391年、明徳の乱がおこった。
1392年、足利義満は明徳の乱の戦没者を悼んで北野経王堂 願成就寺という大寺を建てた。
北野経王寺 願成就寺では、毎年10月、10日間に渡って万部経会を行って戦没者を供養していた。
江戸時代に荒廃し、1671年に解体縮小されて小堂となったのがこのお堂である。

説明板には、このお堂になぜ太子堂という額がかけられているのかの説明はないが、太子堂の太子とは聖徳太子のことではないだろうか。
太子と呼ばれて信仰されている人物は聖徳太子以外に思い浮かばないのだが、もし他に太子と呼ばれて信仰されている人物がいれば教えていただきたい。

そして、この太子堂にはおかめ御幣がたくさん置かれてあった。
おかめ御幣は関西では上棟式などに用いられるもので、明徳の乱の戦没者のほか、建築の神を祀っていることを物語っているかのようである。

大報恩寺 太子堂 おかめ御幣

⑨広隆寺の弥勒菩薩は聖徳太子の本地仏?

そういえば境内の片隅には布袋像があったが、布袋は弥勒菩薩の化身とされている。
そして太秦の広隆寺は聖徳太子から授かった仏像を祀るため、秦河勝が建てたとされるが、広隆寺には有名な弥勒菩薩像がある。
聖徳太子から授かった仏像とはこの弥勒菩薩像だろうか。

広隆寺 
広隆寺

File:Maitreya Koryuji.JPG

https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3AMaitreya_Koryuji.JPG
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/62/Maitreya_Koryuji.JPG よりお借りしました。

作者 日本語: 小川晴暘 上野直昭 English: OGAWA SEIYOU and UENO NAOAKI [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で


私は「秦河勝が聖徳太子から授かった仏像を祀る寺をたてた」という言葉の意味は、「秦河勝が聖徳太子の本地仏を祀る寺をたてた」という意味ではないかと思う。

かつての日本では日本古来の神々は、衆上を救うため仏教の神々が仮に姿をあらわしたものであるとする本地垂迹説が信仰されていた。

本地垂迹説では仏教の神々が日本古来の神として仮に姿をあらわしたもののことを権現、日本古来の神々のもともとの姿である仏教の神々のことを本地仏といった。

東向観音寺 舞妓

上の写真は北野天満宮の神宮寺だった東向観音寺で、門前に「天満宮御本地仏 十一面観世音菩薩」と記された石碑が建てられている。

天満宮とは天満宮の御祭神・菅原道真のことで、「天満宮御本地仏 十一面観世音菩薩」とは「菅原道真は十一面観音の化身である。」「菅原道真の本地仏である十一面観音をお祀りしています。」というような意味だ。

東向観音寺では「本尊は菅原道真が刻んだ十一面観音」だととしている。
また道明寺でも菅原道真が刻んだ国宝の十一面観音を御本尊としている。

残念ながら東向観音寺の十一面観音は拝観することができなかったのだが、道明寺の十一面観音はウィキペディアに写真が掲載されていた。

ElevenFaced Kannon Domyoji

十一面観音像 〈道明寺)

https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3AElevenFaced_Kannon_Domyoji.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/eb/ElevenFaced_Kannon_Domyoji.jpg よりお借りしました。
作者 OGAWA SEIYOU(1894-1960) a famous photographer in Japan [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で


とても政治家が片手間に刻んだものとは思えない素晴らしい観音像ではないか。
こういう観音像は何年も仏師としての修行を積まなくては作れないのではないだろうか。

そういうわけで、私は実際に菅原道真が十一面観音を刻んだわけではないと想う。
実際には、菅原道真の本地仏として仏師が刻んだ仏像であるのを、菅原道真の霊が仏師に乗り移り、自らが成仏したことのあかしとして十一面観音を刻んだと考え、「本尊は菅原道真が刻んだ十一面観音」だと言っているのではないだろうか。

参照/
建築の神が住む町⑦ 東向観音寺 『菅原道真が刻んだ観音』 

広隆寺の弥勒菩薩も、聖徳太子の本地仏として仏師が刻んだ仏像であるのを、聖徳太子の霊が仏師に乗り移り、自らのが成仏したことのあかしとっして弥勒菩薩像を刻んだと考えたのではないだろうか。

これと同様、秦河勝が聖徳太子から授かった弥勒菩薩とは聖徳太子の霊のことなのではないか。
すると、弥勒菩薩の化身とされる布袋もまた聖徳太子だということになる。

そして大報恩寺に布袋の石像があるのは、
聖徳太子=弥勒菩薩=布袋で、布袋は聖徳太子を表しているのではないかと思うのである。


建築の神が住む町⑫ 釘抜地蔵 『またしても建築の神!』 につづく~
建築の神が住む町① 北野廃寺『北野廃寺は蜂岡寺跡?それとも野寺跡?』  ← トップページはこちら





毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!
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[2017/10/03 13:36] 建築の神が住む町 | トラックバック(-) | コメント(-)