建築の神が住む町⑯ 双子座が牡牛座をひくことで新しい年がやってくる?
建築の神が住む町⑮ 西陣の聖徳太子信仰 その3 よりつづく~
前回までの記事で西陣に厚い聖徳太子信仰があったことはほぼ説明できたと思う。
しかし、記事を書いていく中でまた気になることが出てきてしまったので、それについて書いてみようと思う。
①聖徳太子や菅原道真は、鬼(怨霊)→丑寅(艮)の神→「年の変わり目」の神と転じた?
まず、今までの記事の中で書いたことをおさらいしておこう。
a.北野廃寺跡は広隆寺の前身・蜂岡寺跡とする説が有力。
広隆寺は聖徳太子から授かった仏像を祀るために秦河勝が建てたと伝わる。
また現在の広隆寺の御本尊は聖徳太子である。
蜂岡寺は聖徳太子を祀る寺だったのではないか。
b.北野廃寺の近くにある北野天満宮の境内には地主神社がある。
北野天満宮の御祭神は菅原道真だが、地主神社は菅原道真が祀られる以前からここに鎮座していたとされる。
地主神社は北野廃寺=蜂岡寺の鎮守であり、聖徳太子を祀っているのではないか。
c.北野天満宮に菅原道真が祀られたのは、聖徳太子とイメージが重ねられたせいではないか。
※どちらも怨霊である。(参照/建築の神が住む町⑬ 西陣の聖徳太子信仰 その1 )
『北野天神縁起』(承久本)巻六より。宮中清涼殿に雷を落とす雷神と逃げまどう公家たち
https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3AKitano_Tenjin_Engi_Emaki_-_Jokyo_-_Thunder_God2.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/a2/Kitano_Tenjin_Engi_Emaki_-_Jokyo_-_Thunder_God2.jpg
よりお借りしました。
作者 不明 [Public domain または Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で
※清涼殿に雷を落とす鬼は菅原道真の怨霊なのだろう。
そして聖徳太子がたてたと伝わる法隆寺について、日本書紀670年の記事に次のようにある。
「夏四月30日の あかつきに 法隆寺に火つけり ひとつのたてものも あまることなし。大雨降り雷なる」
おそらく法隆寺に落雷があって炎上し、それは聖徳太子の怨霊の仕業だと考えられたのだろう。
d.怨霊=鬼と考えていいと思うが、鬼の出入りする方角は北東で、干支では丑寅である。
また吉備津彦が退治した鬼・温羅は丑寅御前とよばれており、丑寅は鬼をあらわすものと考えられる。
怨霊と恐れられた聖徳太子や菅原道真は鬼であり、丑寅の神である。
e.干支で暦をあらわすと12月が丑、1月が寅で、丑寅(艮)は「年の変わり目」となる。
(干支と方角、十二か月を表す図/https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Ehou-direction.png)
f.北野天満宮では京都の正月にかかせない大福梅を授与したり、大晦日から新年にかけては朮詣(おけらもうで)の習慣がある。
これは聖徳太子や菅原道真が、鬼(怨霊)→丑寅(艮)の神→「年の変わり目」の神と転じたためではないか。②
北野天満宮 大福梅授与
北野天満宮 朮詣
g.道真の亡きがらは牛車に乗せられて運ばれたが、途中牛が動かなくなった。
その場所に道真は葬られ、その上に社をたてたのが大宰府天満宮だという。
北野天満宮・瑞饋祭に登場する牛車はこれを再現したものではないか。
北野天満宮・瑞饋祭
h.平安時代には大寒の日、宮中の諸門に牛と童子の像を置き、立春の前日に撤去するということが行われていた。
立春は二十四節気の元旦である。
そして二十四節気では小寒から大寒・立春までを丑月(旧暦12月)、立春から雨水・啓蟄までを寅月(旧暦1月)としている。
また八卦において童子は丑寅(艮)の符であった。
この平安時代の行事は、牛=丑=12月、童子=艮(丑寅)=年の変わり目をあらわしており、これを立春の前日に撤去することで目には見えない年の移り変わりを視覚化した、一種のまじないのようなものと考えられる。
(干支と方角、十二か月を表す図/https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Ehou-direction.png)
i.瑞饋祭に登場する牛車は二人の童子によってひかれている。
hと同じく、瑞饋祭の牛車と童子も、牛=丑=12月、童子=艮(丑寅)=年の変わり目をあらわしており、目には見えない年の移り変わりを視覚化したものではないか。
②双子座が牡牛座をひいて新しい年がやってくる?
①をふまえた上で「年の変わり目」を天文学で見てみることにしよう。
天動説で天体の動きを説明すると、太陽は天球(地球から見た空を球体とみなしたもの)の上を1年かけて一周するように見える。
黄道は天の赤道に対して約23度26分傾いている。(黄道傾斜角。地球の公転面に対して地軸が傾いているため)
黄道と天の赤道には二つの交点があり、これを分点という。
このうち、南から北に交わる点を春分点といい、北から南へ交わる点を秋分点という。
太陽の赤緯(天球の緯度)が最大となる点が夏至点、太陽の赤緯が最小となる点が冬至点である。
黄道上に12の星座(牡羊座・牡牛座・ 双子座・蟹座・獅子座・乙女座・天秤座・蠍座・射手座・山羊座・水瓶座・魚座)があり、これを黄道12星座という。
占星術では例えば4月20日から5月20日生まれの人は牡牛座などとしているが、これはだいたいこの時期に黄道上の太陽の位置に牡牛座がくることによる。
しかし実際には黄道12星座は一か月ほどずれており、太陽が牡牛座の位置にくるのは6月ごろである。
一応図を作ってみたがヘタクソな図なので、下記リンク先の図「星座の中を移動する太陽」を見ていただいたほうがわかりやすいと思う。
https://www.astroarts.co.jp/special/2006autumn/various-j.shtml
地球の自転軸は約26000年周期でコマがぶれるように歳差運動をしているので、黄道12星座の位置は少しづつずれているのである。
26000年÷12=2166.666・・・・・
となり、約2200年ほど前に黄道12星座は定められたのだろう。
おそらくこのころに黄道12星座は定められたと考えられる。
約2200年前の黄道12星座は上図のようになっていたと考えられる。
今、考えているのは伝統文化についてなので、約2200年前の黄道12星座の図を見て考えていこう。
約2200年前の5月ごろ、牡牛座が天球上にあったのは日中であり、太陽の光に打ち消されて見えない。
牡牛座がもっともよく見えるのは、11月ごろとなる。
そして牡牛座の次は双子座がもっともよく見えるようになる。これがだいたい12月ごろだ。
①-f、iに書いたように、菅原道真は「年の変わり目」の神だと考えられる。
そして天文学的に「年の変わり目」を見てみると、12月の双子座が、11月の牡牛座を牽いているように見える。
もう一度、上の瑞饋祭の写真を見てほしい。
牛は牡牛座を、二人の童子は双子座をあらわしているのではないか?
つまり双子座が牡牛座を牽いていくことで新しい年がくるというわけである。
しかし黄道12星座とは西洋で発生した考え方である。
これが日本の瑞饋祭に影響を及ぼしているとすると、どう考えるべきか?
佐伯好郎氏は論文『太秦を論ず』において、「渡来人の秦氏はキリスト教徒ではないか」とされた。
また飛鳥昭雄氏は記紀は聖書の影響を受けているとし、類似点を指摘された。
(参照/建築の神が住む町⑮ 西陣の聖徳太子信仰 その3 )
そして紀元1世紀から4世紀ごろ、ローマで流行していたミトラ教がキリスト教に影響を与えたとか、弥勒菩薩の梵語「マイトレーヤ」は「ミトラ」の意味であり、弥勒信仰はミトラ教に影響をうけたものであるなどと言われる。
道真の亡骸を乗せた牛車が動かなくなったと言う伝説は、ミトラ教やキリスト教の影響を受けて創作されたものなのではないだろうか?
(理数系は苦手なので、もし誤りがあれば指摘していただけると嬉しいです。)
③キリストと牛と双子
日本の神道や仏教はキリスト教の影響をうけていると多くの研究者が主張しているが、それではキリスト教に牛と双子のモチーフは存在するのか。
もちろん、存在する。
聖書には神・ヤハウェを角に喩えた箇所があり、神・ヤハウェとは牛の神だとも考えられる。
またキリストにはイスキリという弟がいたとする説もある。
キリストが死の直前に叫んだ、『エリ、エリ、レマ、サバクタニ』は『わが神、わが神。どうして私をお見捨てになったのですか)』と訳される。。
『エリ』とはヘブル語で『高い』『より上にある』の意で、そこから神をさすと解釈されたのだが、『エリ』(『高い』『より上にある』)とは『神』ではなく、『兄』のことでキリストの身代わりとなって磔になった弟イスキリが「兄さん、兄さん、どうして私を見捨てるの?」といったのではないかというのだ。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3AMantegna%2C_Andrea_-_crucifixion_-_Louvre_from_Predella_San_Zeno_Altarpiece_Verona.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/83/Mantegna%2C_Andrea_-_crucifixion_-_Louvre_from_Predella_San_Zeno_Altarpiece_Verona.jpg よりお借りしました。
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④聖徳太子と牛と双子
私は聖徳太子と菅原道真はイメージが重ねられていると思うが、聖徳太子にも牛と双子に関連するものがある。
聖徳太子が創建したと伝わる朝護孫子寺では、虎をシンボルとしており、聖徳太子には虎=寅の神というイメージがあるのだが
それだけではなく、聖徳太子には牛=丑のイメージもある。
長野県に牛伏寺(ごふくじ)という寺があり、次のような伝説が伝わっているというのだ。
聖徳太子が42歳の時に自ら刻んだ観音像を本尊として鉢伏山に安置した。
756年、唐からもたらされた大船若経600巻を善光寺奉納する途中、経典を運んでいたところ、2頭の牛が倒れたことから牛伏寺と名付けられた。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3APrince_Shotoku.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/f/f0/Prince_Shotoku.jpg よりお借りしました。
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また聖徳太子が双子であったとは聞かないが、聖徳太子像には双子のような童子が描かれている。
(この二人の童子は、聖徳太子の弟の久米皇子と子の山背大兄王を描いたものだともいわれているが。)
⑤キリスト教の三位一体説
そういえば上のキリスト磔刑の絵も3人の男性が磔刑となっている。
左右の男性は「無関係な罪人」とされているが、本当はイエスとイスキリの双子なのかもしれない。
中央の男性にはINRI と記されているが、これはラテン語の「IESUS NAZARENUS REX IUDAEORUM(ユダヤ人の王、ナザレのイエス)」の頭文字である。
すると中央の男性はイエスということになり、左右の男性がイエスとイスキリとするとイエスが二人いることになってしまう。
日本の神道の考え方は神はその現れ方で、御霊(神の本質)・荒魂(神の荒々しい側面)・和霊(神の和やかな側面)の3つに分けられるという。
またキリスト教では三位一体といって、神は一つの実態(本質、本體[)と、父なる神イエスキリスト、精霊の三つの位格においt永遠に存在するとされている。
キリスト磔刑の絵の3人の男はこの三位一体をあらわしているのかもしれない。
すると、神の実態が中央、左右の男はイエスと精霊ということになるが、聖霊とはイスキリのことなのかもしれない。
こう考えると、やはり無関係な罪人はイエスとイスキリの双子だということにならないだろうか。
もしかすると、イエスの和魂がイエス、イエスの荒魂がイスキリということで創作されたものなのかもしれない。
この無関係な罪人のうちひとりバラバは許されて解放されている。
イエスキリストは死後3日目に復活したとされるので、このバラバは実はイエスキリストなのではないだろうか?
つまりキリストは双子で、キリストの身代わりとなり磔刑になったのは弟のイスキリ。イスキリの死後3日目にキリストが「生きてまっせ」と姿を現したのではないかということである。
⑥聖徳太子像の左右の童子は聖徳太子の荒魂と和魂?
そこでもう一度④の聖徳太子像を見てほしい。
聖徳太子の左右にいる二人の童子は聖徳太子の弟の久米皇子と、聖徳太子の子の山背大兄王だとも言われる。
しかし、聖徳太子の若いときの像もこのような姿をしている。
大聖将軍寺 神妙椋樹の中の聖徳太子。
④の聖徳太子像の中央は聖徳太子の御霊、左右は聖徳太子の荒霊と和霊なのではないだろうか。
⑦布袋と牛と双子
キリストはミトラ教のミトラスの影響を受けていると言われるが、仏教の弥勒菩薩もまたミトラスの影響を受けているといわれる。
そして七福神の布袋は弥勒菩薩の化身だといわれている。
牛に乗る布袋像はたくさん描かれている。
http://db.nichibun.ac.jp/ja/d/GAI/info/GO025/
http://www.toh-emon.com/SHOP/PT025.html
1783年の『狂歌若葉集』には次のような狂歌がある。
布袋和尚 牛に乗りて 唐子のひきて 行く画に 寺子ども 引きたる牛の 角文字は いろはにほてい 和尚なるかな
「牛の角文字」とは牛の角に形が似ているところから平仮名の「い」または「ひ」のことをいう。
同様に、「こ」を「二つ文字」、「し」を「直ぐな文字」、「く」を「歪み文字」という。
徒然草に延政門院の歌「二つ文字 牛の角文字 直ぐな文字 歪み文字とぞ 君は覚ゆる」とあるが、これは二つ文字=こ、牛の角文字=い、直ぐな文字=し、歪み文字=くで、「こいしく」を意味しているという。
唐子とは中国風の髪型・服装をした子供のことである。
布袋は中国に実在した僧とされ、唐子と戯れる布袋像などもたくさん描かれている。
智積院 布袋唐子喜戯の図 月樵(げっしょう)道人
布袋和尚が牛に乗り唐子(子供)が牽いている絵
↓
牛の角文字は「い」
↓
寺子屋で「いろは」を子供たちがならっている
しかし、私はそういう意味ではないと思う。
これでは最後の「いろはにほてい」の意味がわからない。
布袋和尚 牛に乗りて 唐子のひきて 行くというのが興味深い。
牛=丑=12月、唐子=童子=丑寅(艮/八卦では童子は丑寅の符)で、平安時代大寒の日に宮中の諸門に置かれた牛と童子の像を立春(二十四節気の元旦)の前日(節分/二十四節気の大晦日)に撤去するのとまったく同じである。
また、北野天満宮の瑞饋祭に登場する牛車も二人の童子によって惹かれており、上に記した平安時代の節分行事と同じ意味を持つものだと思われる。
北野天満宮で京都の正月にかかせない大福梅を授与したり、大晦日から新年にかけて朮詣の習慣があるのは、菅原道真が怨霊=鬼であり、鬼=丑寅の神(温羅という鬼は別名を丑寅御前といった。また鬼が出入りするとされる方角も丑寅)となり、さらに丑=12月、寅=1月なので、都市の変わり目の神に転じたのではないかということはすでに書いた通りである。
布袋和尚 牛に乗りて 唐子のひきて 行く画に 寺子ども 引きたる牛の 角文字は いろはにほてい 和尚なるかな
この狂歌の意味を、私は次のように考える。
布袋和尚が牛に乗り唐子(子供)が牽いている絵
↓
牛の角文字は「い」
↓
寺子屋で「いろは」を子供たちがならっている
↓
「いろはにほへと」
↓
「いろはにほてい」
↓
牛の角文字「い」は「いろは」の最初の言葉、ほてい(布袋)は1年の始まりを連れてくる神様」
次に、布袋と双子の関係についてだが、布袋は死後に姿を見られたという話がある。
これはキリストが死後3日目に復活したというのと同じである。
しかし、実際には死んだ人が生き返るなどということはほとんどない。
布袋は双子だったと考えるのが妥当だろう。
⑥ 弥勒菩薩と牛と双子
これはもしかしたら聖徳太子のところに書いたほうがよかったかもしれないが、聖徳太子を本尊とする広隆寺では「牛祭」を行っている。
広隆寺は聖徳太子から授かった仏像を祀るために秦河勝がたてたといわれ、国宝の美しい弥勒菩薩半跏思惟像がある。
私は秦河勝が聖徳太子から授かった仏像とはこの弥勒菩薩像ではないかと考えている。
また、「聖徳太子から授かった仏像をまつる」とは「聖徳太子の霊が成仏した姿である弥勒菩薩像をまつる」という意味ではないかと思う。
つまり、弥勒菩薩と聖徳太子は習合されているのではないかと思うのである。
この広隆寺において牛祭が行われている。
動画お借りしました。動画主さん、ありがとうございます。
上記動画によれば「牛に乗った摩多羅神が赤鬼青鬼の四天王を携えて」とある。
摩多羅神は弥勒菩薩や聖徳太子と同一視去れていたのではないかと思う。
そして鬼は茨木童子・酒呑童子など童子と呼ばれることが多い。
また鬼の子孫を称する京都の八瀬童子と呼ばれる人々は、大人になっても結髪しない童形であったため童子と呼ばれていたという。
動画を見ると鬼は白い髪をたらしており、結髪していない。鬼は童子である。
平安時代、宮中で行われていた節分行事や、北野天満宮の瑞饋祭に登場する牛車をひく童子、狂歌に歌われた「布袋和尚 牛に乗りて 唐子のひきて 行く」というのと全く同じである。
また次のような伝説もある。
滋賀県大津市にある長安寺は、逢坂の関に隣接して建っていた関寺の法灯を受け継ぐ寺であった。
976年の地震で倒壊し、その後延鏡によって再建された。
このとき清水寺から寄進された牛が工事をたすけた。
この牛は釈葉仏(釈迦以前に修験した仏)の生まれ変わりで、弥勒菩薩霊場である関寺の工事を助けるためにやってきたと噂された。
弥勒菩薩は釈迦入滅後56億7000万年後にあらわれるといわれる。
釈迦と弥勒菩薩は双子なのではないか。
それで弥勒菩薩の化身とされる布袋が死後に姿を見られたなどと言われているのだろう。(布袋が生まれ変わったのではなく、双子のトリックだった。)
⑦ミトラスと牛と双子
キリスト教や仏教に影響を与え、全ての宗教のルーツといえるかもしれないミトラ教。
このミトラ教は紀元1世紀から4世紀ごろ、ローマで流行していた。
ミトラ教は太陽神・ミトラスを崇拝する宗教であった。
さて、ミトラスとはどんなお姿をされているのだろうか。ウィキペディアの写真を見てみよう。

https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3ABritishMuseumMithras.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/63/BritishMuseumMithras.jpg よりおかりしました。
作者のページを見る [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で
この写真には「牡牛を屠るミトラス」とタイトルがついている。
私たちは今までたくさんの「牛を牽く童子」を見てきた。
大寒の日に宮中の諸門に牛と童子の像をおき、立春の前日(節分/二十四節気の大晦日)に撤去する平安時代の節分行事。
北野天満宮・瑞饋祭に登場する「牛を牽く童子」。
布袋和尚が牛に乗り唐子(子供)が牽く絵。
広隆寺・牛祭で牛に乗る摩多羅神をひく四匹の鬼(童子)。
丑を牽く童子は、牛を牽いて去ることで牛の存在を抹消している。
牛を屠るミトラスは、牛を殺すことで牛の存在を抹消している。
「殺す」か「牽いて去る」かのちがいはあるが、どちらも牛の存在を抹消しているとは考えられないだろうか?
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%82%B9%E3%83%A9#/media/File:0_Relief_repr%C3%A9sentant_Mithra_-_Louvre-Lens_(2).JPG
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%88%E3%83%A9%E6%95%99#/media/File:Fiano_Romano_mithraic_relief.jpg
http://mystery-hunter.net/?p=1529
上記リンク先のミトラス像やミトラ像(※インド神話ではミトラスはミトラと呼ばれる。)はキリストの磔刑を描いた絵や、聖徳太子像のように、二人の青年を従えている。
そしてミトラは太陽の神だが、月の神にヴァルナという神がおり、ミトラとヴァルナは双子だとも言われている。
建築の神が住む町⑰ 最終回 地蔵院 『 鍬形地蔵はマリア地蔵?』 につづく~
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