建築の神が住む町⑦ 北野天満宮 雪 朮詣 『天神さんは黄泉の神で1年の変わり目の神だった』 よりつづく~
懲りもせず、年があけた1月3日にも北野天満宮にでかけた。
北野天満宮で初詣(朮詣)をしたのはつい数日前のことだというのに。
この日北野天満宮に出かけたのは、北野天満宮境内の神楽殿で新春奉納狂言が行われると聞いたからだ。
①末広がり 春日山は縁起のいい山主人に「末広がり(扇のこと)を買ってこい」と命じられた太郎冠者はすっぱ(詐欺師)に「末広がりとは傘のことだ」と騙され、傘を買って戻った。
太郎冠者が扇ではなく傘を買って戻ってきたので主人は機嫌が悪くなるが、太郎冠者がすっぱに教わった歌を謡うと機嫌がなおるという筋である。
大蔵流では「傘を差すなる春日山、これもかみのちかいとて、人が傘を差すなら、われも傘を差そうよ…」(大蔵流)と謡うそうである。
情けないことに、古語のヒアリングができず、歌詞はよく聞き取れなかった。(すいません)
しかし、北野追儺狂言でも「人が傘を差すなら、われも傘を差そうよ…」と謡う部分は聞き取れた。
春日山は奈良市の春日大社の裏にある花山と御蓋山(三笠山)の通称である。
狂言にでてくる春日山は三笠山(御蓋山)のことではないかと思う。
三笠山という山名は、傘をさしたような山の形からくる。
それで「傘を差すなる春日山」と謡っているのだと思う。

向かって右の濃い緑色に見える山が三笠山
三笠山は春日大社の御神体として古くから信仰されていた。
いわば三笠山は神の住む山、神聖なる山であり、その山の形も末広がりで大変縁起がいいということで、怒っていた主人の機嫌が直ったのだろう。
②附子 附子が甘い砂糖に変わった話主人が「この桶には猛毒の附子(トリカブト)が入っているので近づくな。桶から流れてくる空気を浴びただけでも死んでしまう。」と言って外出した。
しかし太郎冠者と次郎冠者が桶に近づき、扇子で風を起こしてみてもなんともない。
そこで桶の中に入っているものを少しなめてみたところ、それは砂糖だった。
二人は桶の中の砂糖を全部なめてしまった。
主人が家に戻ると二人が大泣きしており、主人が大切にしていた茶碗と掛軸が壊れていた。
二人は主人に「茶碗と掛軸を壊してしまったので死のうと思い、附子を食べたが死ねない」と言った。
もちろん、茶碗と掛軸を壊したのは、二人の策略である。
江戸時代以前、砂糖は輸入品でたいへん高価なものだった。
そのため主人は使用人に食べられてはたいへんと、毒と偽ったのだろう。
また、不美人のことをブスというのは、附子(トリカブト)に含まれる成分・アコニチンによって神経障害がおこり、顔の表情筋が不随となって醜い顔になるためだと言われる。
猛毒の附子が甘くておいしい砂糖に変わった話だととらえることもでき、
そういうことからおめでたい狂言として新春に演じられているのかもしれない。
③福の神動画お借りしました。動画主さん、ありがとうございます。
2人の信者が年籠(大晦日の夜、神社や寺にこもり、新年を迎える事)をするため出雲の社にやってくる。
年が変わるころ、二人は「福は内、福は内」と、豆を撒いた。(動画06:10あたり)
④大晦日に豆まきをする理由
豆まきとは節分に行うものではなかったか。なぜ二人は大晦日に豆まきを行うのか。
延暦寺のお坊様に伺ったところ、昔は節分ではなく大晦日に追儺式を行っていたといい、現在でも延暦寺では大晦日の12月31日深夜に追儺式を行っている。
追儺式が終わるとちょうど新年になるようプログラミングされているのだ。
延暦寺 追儺式
建築の神が住む町⑤ 大福梅授与 『目には見えない年の移り変わりを視覚化したおまじない』 ↑ こちらの記事に、大晦日と節分の関係について説明したが、これを簡単にまとめておこう。
かつての日本では旧暦と二十四節気の二つの暦を併用していた。
大晦日・・・太陽太陰暦(旧暦)の12月晦日(12月最後の日、1年の最後の日)
節分・・・・二十四節気の立春の前日(立春より新年になると考えられており、節分は二十四節気の大晦日だといえる。)
これが混同した結果、旧暦では新年を大々的に祝い、二十四節気では大晦日である節分に追儺式を行うようになったのではないだろうか。
豆まきは追儺式の中で行われることが多い。
そのため、豆まきもかつては追儺式が行われる大晦日に行われていたのだろう。
⑤酒の神・松の尾の大明神話を狂言「福の神」に戻そう。
「福は内、福は内」と豆をまくと、そこへ福の神が高笑いしながら登場する。
この福の神がなかなかの呑兵衛で、ふたりにお神酒を催促する。
お神酒を神に差し出すと、まず「神々の酒奉行」である松の尾の神にお神酒をささげ、それから自分も飲み干した。
そして次のように言う。
「豊になるには元手がいる。元手とは金銀・米などではなく、心持ち。
早起き、慈悲、人付き合いを大切にすること、夫婦仲よくすること、
そして私のような福の神に美味しいお神酒をたくさんささげること。」
福の神がお神酒をささげた松の尾の大明神とは松尾大社の神のことだろう。

松尾大社の神様は酒の神として信仰されている。
それで福の神は自分が飲むよりも先にまず松の尾の大明神にお神酒をささげたのだろう。
松尾大社で11月に行われる上卯祭でも狂言・福の神が奉納されている。
随分昔に松尾大社・上卯祭の狂言・福の神を見にいったことがあるが、北野天満宮で演じられているものとほぼ同様の内容だったと思う。
⑥福の神は蛭子神?それとも大国神?福の神は出雲大社の神だと考えられる。
出雲大社の神とは大国主命だ。
つまり大国主命が松尾大明神に酒をささげているわけだ。
しかし福の神は烏帽子をかぶっている。
烏帽子をかぶるのは蛭子神の装いである。
大国主は大黒天と習合されているが、大黒天は頭巾をかぶっている。
恵比寿神は大国主の息子の事代主のことだとされることもある。
そして神が子を産むとは、神が分身をつくるという意味だとする説もある。
恵比寿神=事代主は大国主の分身ということで、出雲の神は恵比寿神=事代主の装いをしているのかもしれない。
長田神社 蛭子と大黒
⑦日本最古の酒神は三輪大明神松尾の神は酒神として信仰されているが、なぜ酒神とされるのかについては明確になっていない。
また松尾の神が酒神として信仰されるようになったのは、狂言「福の神」が作られた室町時代だと言われている。
日本で最古の酒神といえば、奈良県桜井市にある大神神社の神、大物主神である。
崇神天皇代、疫病が流行したので、天皇は高橋活日命(タカハシイクヒノミコト)に酒を造らせて大物主神にお供えをしたところ、疫病が沈静したという。
そのため、大物主神は酒造の神”と崇めらてきたのだ。
⑧神殿を作らないのは物部氏の祭祀スタイル?大神神社は古事記・日本書紀にも登場する神社で、日本最古の神社ではないかともいわれている。
祭祀のスタイルからして古い。
神社というのは神殿があり、拝殿があるというのが一般的である。
しかし大神神社には神殿はなく、拝殿から直接ご神体の三輪山を拝する。
「大神神社に何度神殿を作っても作っても壊れた。そのため拝殿だけを作った」というようなことを聞いた記憶がある。
大神神社の御神体・三輪山大阪府交野市にある星田妙見宮にも神殿がなく、大神神社と同様の伝説が伝えられている。
「神殿を何度作っても焼けてしまうので、神は神殿をのぞんでいないのだ、として拝殿のみをつくった」というのである。
星田妙見宮交野市には星田妙見宮だけでなく、磐船神社・片埜神社の境外社の瘡(くさがみ)神社 など神殿のない神社がいくつかある。
磐船神社拝殿と御神体・天の磐船
片埜神社の境外社・瘡(くさがみ)神社の拝殿 拝殿の奥にある沼を御神体とする。交野市付近はかつて肩野物部氏の本拠地であった。
物部氏の祖神・ニギハヤヒは初代神武天皇が日向より東征して畿内入りする以前に、天の磐船を操って天下ったと記紀に記述がある。
交野市の磐船神社の御神体はニギハヤヒが乗っていた天の磐船と呼ばれる巨岩であり、もちろん磐船神社の御祭神はニギハヤヒである。
ニギハヤヒが神武よりはやく畿内に天下っていたという記紀の記述から、神武天皇以前、畿内には物部王朝があったとする説がある。
そしてニギハヤヒは『先代旧事本紀』では、天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊」(あまてる くにてるひこ あまのほあかり くしたま にぎはやひ の みこと)となっている。
大神神社の御祭神・大物主神は別名を倭大物主櫛甕魂命という。
天照國照彦天火明
櫛玉饒速日尊と大物主
櫛甕
魂命は【櫛】【玉(魂)】が共通するので、同一神ではないかという説がある。
そして、どちらの神社も神殿を持たない。
ということは、神殿を持たないのは物部氏の祭祀スタイルなのではないだろうか。
また大物主とニギハヤヒは同一神で、どちらも物部氏の神なのではないか?
⑨松尾大社の神にパクリ疑惑?松尾大社はなぜ酒神として信仰されているのだろうか。
それは松尾大社が大神神社の伝説をパクったためではないかと思う。
大神神社の主祭神・大物主神が矢に姿を変えて川を流れていき、ミシマノミゾクヒの娘・セヤダタタラヒメのほとをついたとうい伝説がある。
これと全く同じ伝説が下鴨神社・上賀茂神社・松尾大社にも伝えられているのだ。
下鴨神社・上賀茂神社の伝説では矢に姿を変えたのはオオヤマグイノカミで、ほとをつかれたのはタカモタケツノノミコト(ヤタガラス)の娘のタマヨリヒメ、生まれた子供が賀茂別雷大神となっており
カモタケツノノミコトとタマヨリヒメは下鴨神社に、賀茂別雷大神は上賀茂神社に祀られている。
そして丹塗りの矢に姿を変えたオオヤマグイノカミは松尾大社の主祭神なのである。
上賀茂神社
下鴨神社大神神社の伝説は記紀にも記されており、日本最古の神社であるとも言われている。
⑧で見たように、その祭祀スタイルも古い。
そういう理由から、秦氏のほうが物部氏の伝説をパクったように思える。
松尾大社は秦氏の氏神なのだが、秦氏は他にも紀氏の神であった稲荷神を、自らの神と偽ったと思われる例もある。
参照/
小野小町は男だった⑪ 深草少将は紀氏だった? ⑩大神神社の神官・オオタタネコは秦氏だった?10代
崇神天皇が大物主の子孫のオオタタネコに大神神社の大物主を祀らせたところ
大物主の祟りがおさまった、と記紀に記述がある。
このオオタタネコは秦氏のオウ氏ではないかという説がある。
⑧でみたように、大物主は物部氏の神だと考えられる。
大物主の子・オオタタネコが大物主の子でありかつ秦氏であるとするなら、オオタタネコの母親が秦氏なのだろう。
するとミシマノミゾクヒ・セヤダタタラヒメ父娘が秦氏なのか?
それともカモノタケツノノミコト・タマヨリヒメ父娘が秦氏なのか?
いずれにせよ、オオタタネコは物部氏の神・大物主と秦氏の女性との間に生まれたのではないだろうか。
そしてオオタタネコもしくはオオタタネコの子孫の秦氏は、大神神社を物部氏の神殿を持たない祭祀スタイルではなく、神殿を持つ祭祀スタイルに改めようとしたことだろう。
ところが神殿を建てるたびに火災が起こるなどして壊れた。
もしかすると、自らの祭祀スタイルにこだわる物部氏が、神殿に放火したのかもしれない。
そこで大物主は神殿のある秦氏スタイルではなく、神殿のない物部スタイルを好んでいると考えられたのだろう。
そして秦氏は神殿をつくることはあきらめ、神殿の代わりに、三輪山の手前に三つ鳥居をおくことを思いついたのだろう。
http://oomiwa.or.jp/keidaimap/02-mitsutorii/(大神神社の三つ鳥居の写真)
檜原神社 三つ鳥居 これと同様の形をした鳥居が大神神社拝殿の向う側にあり、申し込めば拝観できるそうだ。
大神神社の三つ鳥居が秦氏によって建てられたと考えるのは、秦氏の本拠地である京都・太秦の蚕の社に、三つ鳥居を立体的にしたような三柱鳥居があるからだ。
蚕の社 三柱鳥居⑪大物主はなぜ神殿を嫌ったのかときどき秦氏は大物主を嫌ったため、神殿をつくらなかったのではないか、という人がいる。
しかし私はそうは思わない。
秦氏が大物主を嫌って神殿をつくらなかったのではなく、大物主または物部氏が神殿をつくることを拒んだのだと思う。
物部氏には、やはりそれまでの自分たちの祭祀スタイルにこだわりがあっただろう。
また、出雲大社の大国主が出雲の国譲り神話の中でこんなことを言っていることに注意したい。
「二人の息子が天津神に従うのなら、私もこの国を天津神に差し上げる。
その代わり、天の御子が住むのと同じくらい大きな宮殿を建ててほしい。
私はそこへ籠って外に出ない。また百八十神たちを天津神に従わせる。」
大神神社の大物主はこの大国主の幸魂・奇魂とされている。
大国主の前に光り輝く神があらわれ、大国主が名を問うと神は「私はあなたの幸魂・奇魂」と答えた。
こうして祭られたのが、大神神社だとされているのだ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%92%E9%AD%82%E3%83%BB%E5%92%8C%E9%AD%82↑ こちらのサイトによると、幸魂は愛、奇魂は智、和魂は親、荒魂は勇と説明されている。
つまり、大国主と大物主は同一神だと考えていいだろう。
大物主とはニギハヤヒのことで物部王朝の王または神だと考えられるが、九州からやってきた神武天皇に政権を奪われてしまったのだろう。
しかし、大物主は大国主と同じようには答えず、こう答えたのではないだろうか。
「天津神にこの国は差し上げない。天の御子が住むような大きな宮殿などいらない。
宮殿の中に籠ったりはしない。百八十神たちも天津神に従わせない!」
⑫福の神は大物主だった?福の神は出雲の神、大国主だと考えられるが、大神神社の御祭神・大物主神は大国主の幸魂・奇魂なので、大国主と大物主は同一神と考えられる。
呑兵衛の福の神はわが国最古の酒神・大物主神なのではないか。
大物主神はわが国最古の酒神であるとも考えられる。
その大物主神の化身・福の神が、松尾の神に酒を捧げる・・・・。
それは本物の酒の神が、ニセモノの酒の神に酒を捧げているように私には見えた。
建築の神が住む町⑩ 北野追儺狂言 『福部の神は瓢の神で、丑を牽いて去る神だった?』 へつづく~
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建築の神が住む町① 北野廃寺『北野廃寺は蜂岡寺跡?それとも野寺跡?』 毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!
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[2017/09/23 14:38]
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北野天満宮 本殿建築の神が住む町⑥ 大福梅授与 『目には見えない年の移り変わりを視覚化したおまじない』 より続く~
①三光門には星がない?紅葉、梅、瑞饋祭、大福梅授与とすでに4度参拝してきたが、初詣もやはり北野天満宮へ詣でることにし、大晦日の夕刻に家を出た。
この日、京都は大雪で、私の心を躍らせた。
北野天満宮 三光門雪の積もる参道を歩いて三光門をくぐる。
三光門と呼ばれているのは彫刻の中に日月星があるためである。
↑ 太陽だと言われている。
↑ 月だと言われている。
↑ 三日月。
三光門なのに星がない?
平安時代に天皇が大内裏(だいだいり、宮殿)から、その北方にある北野天満宮を拝んだ際、この三光門の真上に北極星が瞬いていたため、星を刻まなかったとも言われている。
②三光門にはちゃんと太陽・月・星が揃っている。私は三日月が月、赤丸が星、黄丸が太陽だと思う。その理由を説明しよう。
まず、星は星型(☆)で表現されると思いがちだが、相撲では黒星・白星は丸で表現する。
城南遇 ご神紋城南宮のご神紋も日月星を象ったものといわれているが、大きな●と小さな●、そして三日月でデザインされていて星型は用いられていない。
ということは、大きな●か、小さな●のどちらかが星なわけだ。
そして現在の日本では太陽は赤、月は黄色で描かれることが多いが、キトラ古墳では太陽は金、月は銀色で描かれている。
北野天満宮の三光門の三日月も銀色に塗られている。
一方、星には赤・黄・青などさまざまな色のものがある。
自ら光を発する恒星の場合は温度によって色がかわる。
太陽は、5000~6000kで実際には黄色である。
外国では太陽は黄色で描かれることが多い。
日本では太陽は赤で描かれることが多いが、それは夕日の赤の印象が強いためではないだろうか。
そういうわけで、三光門の黄色い丸は太陽で、赤い丸は星だと考えられる。
三日月もあるので、太陽・星・月の3つの光がちゃんと揃っている。
③立牛と梅鉢紋
三光門を通り抜けると本殿があり、本殿の前では朮火が焚かれていた。
大晦日に北野天満宮を詣で、朮火を縄でもらい受けてお雑煮を焚いて食べると、無病息災のご利益があるなどと言われている。
本殿の上方を見上げると、立牛のレリーフがある。
天満宮の牛はほとんどが寝そべる姿のものであり、立ちあがる姿のものは珍しい。
立牛の下には北野天満宮のご神紋、星梅鉢紋が刻まれていた。
天満宮の御祭神・菅原道真は大宰府で亡くなり、その遺体を牛車に乗せて運んでいたところ、牛が止まって歩かなくなってしまった。
そこで、その地に菅原道真の遺体を葬り、その上に大宰府天満宮を建てたといわれている。
天満宮に牛の像北野天満宮 瑞饋祭 牛車 菅原道真公の遺体を運ぶ様を再現したものだと思われる。天満宮に牛の像が置かれているのは、その故事にちなむものだろう。
また、藤原時平の讒言によって菅原道真が太宰府に左遷されたとき、道真の邸宅の梅の木が道真をしたって京から大宰府まで飛んできたという伝説もある。
天満宮の紋は若干のデザインの違いはあるが、ほとんどが梅紋である。
それはこの飛梅伝説によるものだろう。
④牛は月、梅は星を表す?私は羽田空港にある千住博さんのmooonという作品を思い出していた。
千住博さんのmooon作品の説明版には次のように記されていた。
「大古の昔、月の形に似た角を持つ牛は天体の運行を司る使者として、人々から崇められてきた。」
なるほど、牛とは月の神なのだ。
そして立牛の下にある星梅鉢紋は、5つの●でデザインされている。
②でに述べたように、●は星をあらわしている。
また●でデザインされた紋を、星紋という。
http://www.harimaya.com/kamon/column/hosi.html星梅鉢紋はその名のとおり、星をあらわしているのだ。
牛=月、梅鉢紋=星なので、菅原道真は夜の神だといえるだろう。
北野天満宮 地主神社⑤菅原道真は夜の神で黄泉の神?記紀神話に登場する月の神は月読命という神名であるが、読は黄泉に通じる。月は黄泉の国の神だとも考えられる。
月読命=月の神=黄泉の国の王そして船場俊昭さんが次のようにおっしゃている。
「スサノオを漢字で書くと素戔鳴尊となるが、これは輝ける(素)ものを失って(戔)ああ(鳴)と嘆き悲しむ神(尊)という意味で、スサノオはもともとは星の神だったのが、のちに星の神という神格を奪われたのてはないか」と。
記紀神話ではスサノオは根の国の王として登場する。
根の国とは黄泉の国と同様のものと考えられている。
スサノオ=星の神=根の国の王=黄泉の国の王月も星も黄泉の神だということになる。
そして菅原道真を祀る天満宮のシンボルは牛と梅である。
④でのべたように、牛は月の神である。
そして北野天満宮のご神門は星梅鉢紋である。
つまり、牛=月=黄泉の神、梅=星=黄泉の神。
菅原道真は黄泉の神だともいえるのではないだろうか?
⑤牛=12月=丑、梅=1月=寅で、天満宮は艮(丑寅)の神?また、こんな風にも考えられる。
牛は干支の丑。丑は季節では12月をあらわす。
梅は1月1日または2月3日の誕生花である。
1月1日は旧暦だろう。
新暦の1月1日ではまだ梅は咲かないが、旧暦の1月(新暦の2月ごろ)になると梅の花が咲き始めるからだ。
2月3日は二十四節気の立春の前日、節分だ。
立春は暦法・二十四節気の元旦でもあった。
つまり梅は新年をあらわす花だということになると思うが、新年=1月は干支では寅である。
天神さんのシンボルが牛と梅なのは、牛=12月=丑、梅=1月=寅で、艮(丑寅)の神でもあるということではないか。
艮(丑寅)は方角では東北のことだが、東北は鬼が出入りする方角、鬼門として忌まれた。

上は京都御所の猿ヶ辻だが、東北の角を作らないよう、わざわざ塀を内側に凹ませてある。
それほど、東北=丑寅は忌まれていたのだ。
北野天満宮の御祭神・菅原道真の死後、疫病の流行・清涼殿に雷が落ちるなどの事件があったが、それらは大宰府に左遷された菅原道真の怨霊のしわざだと考えられた。
北野天神縁起には清涼殿で暴れる鬼(雷神/天神)が描かれているが、この鬼は道真の怨霊だと考えられる。

『北野天神縁起』(承久本)巻六より。宮中清涼殿に雷を落とす雷神と逃げまどう公家たち
https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3AKitano_Tenjin_Engi_Emaki_-_Jokyo_-_Thunder_God2.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/a2/Kitano_Tenjin_Engi_Emaki_-_Jokyo_-_Thunder_God2.jpg
よりお借りしました。
作者 不明 [Public domain または Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で道真は鬼なのだ。
それで鬼をあらわす牛=丑=12月と梅=1月=寅が道真のシンボルになっているのかもしれない。
⑥菅原道真、1年の変わり目の神へと神格を広げる?さらに道真は艮(丑寅)の神ということで、1年の変わり目の神へと神格を広げたようである。
艮(丑寅)は丑=12月、寅=1月で1年の変わり目もあらわしているのだ。
ここ北野天満宮で大晦日から新年にかけて、朮詣が行われているのは、道真が怨霊であり鬼であり、丑寅の神であり、さらに1年の変わり目の神であるからかもしえない。
⑦八坂神社の朮詣八坂神社でも朮詣の習慣がある。
八坂神社の御祭神はスサノオであり、スサノオは牛頭天皇と習合されている。
⑤でみたように、スサノオは星の神だと考えられ、牛頭天皇は牛の角を生やした姿であらわされることもある。
月読命は黄泉の神。星の神・スサノオは根の国の王=黄泉の国の王と考えられる。
つまり、スサノオ=牛頭天皇もまた、黄泉の神であり、鬼(丑寅)なのだ。
丑寅は丑=12月、寅=1月で、スサノオは1年の変わり目をあらわす神でもあると考えられる。
そういうことから、八坂神社でも朮詣でが行われているのではないかと思う。
建築の神が住む町⑨ 北野天満宮 新春奉納狂言 福の神『福の神の正体』 へつづく~
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[2017/09/17 23:11]
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建築の神が住む町⑤ 『大報恩寺の大根焚と男女双体の神』 よりつづく~
①大福梅授与はなぜ12月13日より始まるのか
京都では正月に大福茶(梅干しをいれたお茶。皇服茶とも。)を飲む習慣がある。
北野天満宮では12月13日より大福茶に用いる大福梅の授与が始まる。
大福梅は北野天満宮梅園で収穫した梅の実を梅干しとして漬け込み、夏土用干ししてカラカラに乾かしたものである。
北野天満宮で求めた大福梅
この大福梅の授与が12月13日に始まるのは、この日が正月事始めの日だからだろう。
最近はこういうことにこだわらなくなったが、昔は12月13日から正月準備を始めるのは12月13日から、と決められていたのだ。
北野天満宮 梅
②お屠蘇は蘇という鬼を屠るという意味
正月に大福茶を飲むのはなぜなのだろうか。
そんなことを考えながら、私は北野天満宮の授与所で大福梅を一袋求めた。
清楚な印象の巫女さんが「どうぞ」と袋を差し出してくれたのを受け取り、
ふと見ると、大福梅の袋と並んで『お屠蘇』と記した袋も並べられていた。
「あっ、お屠蘇もあるんですね。」
「お屠蘇は、蘇という鬼を屠るという意味でお正月に飲むんだそうですよ。
北野天満宮のお屠蘇はティーバッグになっておりますので、お酒につけるだけで召し上がっていただけますよ。」
巫女さんはそういって勧めてくださったが、私は一滴もお酒が飲めないので、大福梅だけいただいて北野天満宮をあとにした。
③追儺式は大晦日に行われるものだった。現在では節分に追儺式を行う寺社が多いが、延暦寺では大晦日に追儺式を行っている。
延暦寺 追儺式延暦寺のお坊様の説明によると、もともと追儺式は大晦日に行うものであったとのことである。
かつての日本では旧暦と二十四節気の二つの暦を併用していた。
太陽太陰暦(旧暦)は月の周期をベースにした暦である。
月の周期は29.5日なので、1年=29.5日×12か月=354日となり、太陽の動きをベースにした太陽暦(新暦)とは1年で11日ずれる。
3年では約一か月もずれてしまう。
そのため、3年に1度閏月を設けてずれを調整していた。
太陽太陰暦は月がカレンダーがわりになって便利なのだが、太陽の動きによって生じる実際の季節とはずれが生じ、農作業等に支障が生じる。
そのため、1太陽年を24に分割した二十四節気という暦を併用していたのである。
節分とは二十四節気の立春の前日のことである。
立春は暦法・二十四節気の正月であり、その前日の節分は二十四節気の大晦日である。
旧暦の大晦日も節分もどちらも大晦日であるということで、もともと旧暦の大晦日に行っていた追儺式を、節分に行うようになったのだろう。
③追儺式の鬼はなぜ牛の角を生やし、虎皮のパンツをはいているのか。
石清水八幡宮 鬼やらい神事節分の鬼は牛の角を生やし、虎皮のパンツをはいている。
これは干支の丑寅をあらわすものであると言われる。
12月は干支では丑月、1月は干支では寅月である。
また二十四節気では小寒(1月6日ごろ)~立春(2月4日ごろ)までが丑月、立春(2月4日ごろ)から啓蟄(3月8日ごろ)までが寅月となる。
つまり、鬼の牛の角は丑月を、虎皮のパンツは寅月で、年の変わり目を表しているというのだ。
そして、鬼=年の変わり目をおっぱらうことで、新しい年がやってくるというわけだ。
目には見えない1年の移り変わりを視覚化したのが、追儺式だといえるだろう。
また方角を干支であらわすと、東北の方角が丑寅となる。
丑寅の方角は鬼が出入りする方角、鬼門として忌まれた。
石清水八幡宮 本殿 鬼門封じ
④蘇という鬼を屠るお屠蘇は「蘇という鬼を屠る」という意味であるという。
そして、「飲む」という言葉には「水などの液体を体内に摂取する」という意味のほかに、「相手を圧倒する」という意味もある。
広島カープファンの友人に聞いた話だが、対ヤクルト戦では広島カープ側の応援席に「飲め、飲め」と言ってヤクルトが配られていたそうである。
これは飲料のヤクルトを飲むことで、球団のヤクルトを圧倒しようというまじないであると言えるだろう。
これと同様で、お屠蘇は鬼=年の変わり目をあらわすものであり、これを飲むことで鬼=年の変わり目を屠るというまじないであると考えられる。
お屠蘇を飲むことは追儺式同様、目には見えない1年の移りかわりを視覚化したものだと言ってもいい。
六波羅蜜寺では正月3が日に結び昆布と梅干を入れたお茶・皇服茶を授与している。
皇服茶という名前は村上天皇が召し上がって(服して)病が回復したの「皇帝も服したお茶」からくると言われる。
一方、王福茶も村上天皇が召し上がって(服して)病が回復したので「王服茶」と呼ばれていたのが「大福茶」に転じたとされる。⑤なぜ梅を入れたお茶・王福茶を飲むのか。こう考えると、梅を入れたお茶・王福茶を飲む意味も解ける。
建築の神が住む町③ 北野天満宮 梅 『梅は1月1日と2月3日の誕生花』 で見たように、梅は1月1日と2月3日の誕生花である。
1月1日は正月、2月3日は節分(二十四節気の大晦日)で、梅もまた年の変わり目と、鬼を表している。
正月に大福梅の入った大福茶を飲むのは、お屠蘇を飲むのと同じで、梅は鬼=1年の変わり目をあらわしており、これもまた目には見えない1年の移り変わりを視覚化したものだと言えるだろう。
霊山寺(奈良)では正月に初福茶(抹茶)を授与している。建築の神が住む町⑦ 北野天満宮 雪 朮詣 『天神さんは黄泉の神で1年の変わり目の神だった』 へつづく~
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[2017/09/15 09:08]
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瑞饋祭 ずいき神輿建築の神が住む町② 北野天満宮 梅 『梅は1月1日と2月3日の誕生花』 より続く~。
①ずいきで屋根を葺いた神輿10月、北野天満宮を参拝したあと、ぶらぶらと上七軒の町へ行ってみた。
上七軒は北野天満宮の東にあり、お茶屋さん、置屋さんが並ぶ花街である。
上七軒には大変な人だかりができていた。
何事かと思って見てみると、神輿の行列が通り過ぎていくところだった。
見物をしていたかわいらしい舞妓さんが、こんな風に教えてくれた。
「今日は北野天満宮の瑞饋祭の日どす。あれはずいき神輿ゆうて乾物で飾り付けた御神輿どすえ。屋根はずいきで葺いてあるゆうてましたなあ。
『瑞饋』は『最高の喜びを込めた贈り物』ゆう意味どす。平安時代、村上天皇の御代より始まったといわれてますなあ。」
なかなか物知りの舞妓さんである。
瑞饋祭の行列を見物する舞妓さんたち②上七軒の地名の由来舞妓さんはこんな事も教えてくれた。
「1444年、北野天満宮の社殿が燃えましてん。
ほんで十代足利義植が所司代 細川勝元に命じて社殿を造営をさせたんどす。
そのとき残った木材で七軒の茶店が建てられて、七軒茶屋と呼ばれたと言われてます。」
「それが上七軒の地名の由来なんですか?」
「へえ、そうどす。
その後、豊臣秀吉が1587年に北野大茶会を開きました。
そのとき秀吉は七軒茶屋のみたらし団子をえらい気に入らはって、みたらし団子を商う権利を与えはったそうどす。
それでこのあたりでは五つ団子の紋を使うんやそうどす。」

瑞饋祭の行列を見物する舞妓さんたち
③北野大茶会と肥後国一揆
舞妓さんが言っていた「北野大茶会」についてもう少し詳しく見てみよう。
秀吉は1587年に北野天満宮で北野大茶会を行ったが、10日間の予定がたった一日で茶会は中止された。
茶会が中止になった理由にについては諸説あるが、初日の夕方に肥後国一揆がおこったためという説が有力である。
秀吉は肥後を朝鮮や明国への出兵の基地にしようと考え、佐々成政を肥後の領主に任命して『太閤検地』を実施させていた。
その佐々成政に対して肥後北東部の国衆(土地を所有し、民政・軍政を担当していた戦国領主)が一揆をおこしたのだ。
秀吉は肥後国に約二万人の軍勢を送り込み、ほとんどの国衆たちは殺された。
その後秀吉は1592年に朝鮮出兵を行ったが、失敗に終わっている。
1598年、秀吉死亡。
1607年、秀吉の後継者の秀頼が秀吉の遺志をついで北野天満宮の本殿をたてた。
この年、初めてずいき神輿は作られている。
瑞饋祭 八乙女
④
肥後一揆を鎮圧した軍勢は秀吉に肥後ずいきを持ち帰らなかったか。
秀吉は肥後国一揆を鎮圧するために肥後に軍勢を送っているが、肥後の国には『肥後ずいき』という性具がある。
ハスイモの茎を干したものでサポニンという成分が性的快感を高めるという。
「ずいき」という名称は、夢窓疎石(1275-1351 禅僧)の次の歌からくるといわれている。
いもの葉に 置く白露の たまらぬは これや随喜の 涙なるらんこの歌にある白露とは精液の比喩であるといのだ。
江戸時代の大奥でも使われていたというから、秀吉の時代にもあったのではないだろうか。
「女好きの秀吉さまはきっとお喜びになるだろう」と、誰かが肥後すいきをおみやげに持ち帰ったりはしなかっただろうか?
瑞饋祭
⑤ずいき神輿は秀吉の乗り物?
神輿とは神様の乗り物だが、ずいき神輿に乗っているのは豊国大明神(豊臣秀吉の霊)ではないだろうか。
私がこのように考えるのは、秀吉の後継者の秀頼が北野天満宮の本殿を建てたのと、初めてずいき神輿が作られたのがほぼ同じタイミングだからだ。
秀頼は秀吉の遺志をついで北野天満宮の本殿を建てている。
また、秀吉が開催した北野大茶会の思い出も重なって、北野天満宮には秀吉のイメージが強くある。
そこでこの年、瑞饋祭を行うにあたり、北野天満宮の御祭神・菅原道真の霊だけでなく、秀吉の霊をも鎮魂することとし、ずいき神輿を作ってそこに秀吉の霊を乗せようと計画されたのではないかと思ったりする。
⑥菅原道真の霊は牛車に乗っている?瑞饋神輿に秀吉の霊が乗っているとすれば、北野天満宮の御祭神・菅原道真の霊はどうなってしまったのか?
瑞饋祭の行列には牛車も登場する。
道真の霊はこの牛車に乗っていると私は考える。

北野天満宮の御祭神・菅原道真は藤原時平の讒言によって大宰府に左遷となり、数年後に死亡した。
道真の亡きがらは牛車に乗せられて運ばれたが、途中牛が動かなくなった。
その場所に道真は葬られ、その上に社をたてたのが大宰府天満宮だという。
行列の牛車は道真の亡きがらが運ばれていくシーンを再現したものではないだろうか。

建築の神が住む町④ 北野天満宮 紅葉 『筋違いの本殿』 へつづく~
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[2017/09/03 18:02]
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北野天満宮 梅建築の神が住む町① 北野廃寺『北野廃寺は蜂岡寺跡?それとも野寺跡?』 より続く~
①飛梅前回の記事で北野廃寺跡と記された石碑をご紹介したが、そこから東へ400mほど歩くと北野天満宮である。
季節は早春の3月、まだ寒くてコートが手放せないが、境内には梅のいい香りが立ち込め、春の訪れを告げているかのようだった。
全国に天満宮は数多くあるが、たいてい境内には梅が植えられている。
これはもちろん、天満宮の御祭神である菅原道真の飛梅伝説に基づくものだろう。
左大臣・藤原時平は「右大臣の菅原道真は謀反を企てている」と醍醐天皇に讒言した。
醍醐天皇は時平の言葉を信じて道真を大宰府に左遷することにした。
都から大宰府に向かうとき、道真は「東風吹かば 匂い起こせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」と歌を詠んだという。
こんな伝説がある。
道真が都でかわいがっていた庭の梅と松は、道真を慕って大宰府へ飛び立った。
松は途中で力尽きて落下し、飛松岡(神戸市須磨区板宿町)に落ちたが、梅は大宰府まで飛んで根をおろした。
この梅が大宰府天満宮の御神木の飛梅であるという。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Tobiume02.jpgまた、菅原道真の邸宅跡と伝わる管大臣神社(京都市下京区菅大臣町)にも、大宰府まで飛んで行ったと伝わる飛梅の木がある。
この梅の一枝が大宰府まで飛んでいったということなのだろうか。
菅大臣神社 飛梅なんと、大宰府天満宮の飛梅は白梅なのに、管大臣神社の飛梅は紅梅である。
北野天神絵巻を見ても道真が別れを告げている梅の木は紅梅だ。
どうやら、梅は都から大宰府に飛んでいく間に紅梅から白梅に変身してしまったらしい。
なぜ紅梅は白梅に変身してしまったのか。
それについて、確信の持てる説明は今はまだできない。
ただ、こういう矛盾に気が付いて『なぜか』と疑問を持つことが、真実を追求する上で大切だと私は考えている。
北野天満宮 梅 ②梅は1月1日と2月3日の誕生花ネットで梅について調べていたところ、「梅は1月1日、または2月3日の誕生花」と書いてあるサイトがあった。
ここでいう1月1日とは旧暦の1月1日だと思う。
新暦の1月1日ではまだ梅は咲かない。新暦2月初旬ごろに梅は先始め、2月下旬から3月ごろに満開を迎える。
旧暦の1月は新暦換算すると2月くらいになる。
一方、2月3日のほうは新暦の2月3日だと思う。
新暦2月3日は二十四節気の立春の前日で節分である。
立春は暦法・二十四節気における新年なので、立春の前日の節分は暦法・二十四節気の大晦日だということになる。
かつての日本では旧暦と二十四節気を併用していた。
二十四節気とは1太陽年を24等分したものである。
旧暦、すなわち太陽太陰暦は月をベースにした暦法で、月の周期は29.5日である。
29.5日×12か月=354日となり、太陽暦とは1年で11日、3年では一か月以上もずれてしまう。
そのずれを解消するため、旧暦(太陽太陰暦)では3年に1度閏月を設けていた。
太陽太陰暦は月がカレンダー替わりになって便利なのだが、実際の季節とはずれが生じるため、二十四節気を併用していた。
このため、新暦を採用する以前の日本には、旧暦の正月と二十四節気の正月(立春)と正月が2回あったのである。
繰り返しておこう。
旧暦の1月1日は新年、節分は二十四節気の立春の前日で二十四節気の大晦日である。
梅が1月1日と2月3日の誕生花ということは、梅は新年と大晦日の花、年の移り変わりを象徴する花だということになるだろうか。

[2017/09/02 21:59]
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①小さな石碑が示す大寺院の跡北野白梅町駅の東北の角に京都信用金庫がある。
その京都信用銀行の南側、今出川通りに面したところに、小さな石碑があり「北野廃寺跡」と記されている。

1936年、市電西大路線(市電西大路戦は1978年に廃業)敷設に伴い発掘調査が行われた結果、大規模な寺跡が発見された。。
塔、金堂、講堂、鐘楼、経蔵、歩廊、中門、西南別院が立ち並ぶ大伽藍で、寺域は石碑前の交差点を中心として225m四方に及んでいたとみられている。
北野廃寺跡は、飛鳥時代に創建された寺跡とされ、蜂岡寺の跡であるとする説、野寺の跡とする説がある。
②北野廃寺=蜂岡寺説蜂岡寺とは現在太秦にある広隆寺の前身とされる寺である。
北野廃寺を蜂岡寺跡とする説の根拠は、ここから「鵤室(いかるがむろ)」と墨書された灰釉陶器が発見されたことによる。
字は異なるが、奈良には斑鳩(いかるが)という地名があり、世界最古の木造建造物とされる法隆寺がある。
法隆寺は聖徳太子が創建したと伝えられている。
そして広隆寺は飛鳥時代に秦河勝が聖徳太子より授かった仏像を安置するために建てたと伝わっている。
広隆寺は現在は太秦にあるが、もともとは別の場所にあり鉢岡寺という寺名だった。
「鵤室」と記された陶器があるのは、蜂岡寺が法隆寺と同じ聖徳太子ゆかりの寺であるためだというのだ。
広隆寺
広隆寺には国宝第1号の有名な弥勒菩薩半跏思惟像がある。
秦河勝が聖徳太子から授かった仏像とはこの像のことなのかもしれない。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3AMaitreya_Koryuji.JPGhttps://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/62/Maitreya_Koryuji.JPG よりお借りしました。
作者 日本語: 小川晴暘 上野直昭 English: OGAWA SEIYOU and UENO NAOAKI [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で
③北野廃寺=野寺説北野廃寺を野寺跡とする説の根拠は、「野寺」と墨書された平安時代前期の土師器が見つかったことによる。
野寺は別名を常住寺ともいい、日本後記に寺名が記載されている。
884年に焼失、復興されたが室町時代に廃寺となっている。
大勢の人が北野廃寺跡と記された石碑の前を通り過ぎていくが、誰一人その石碑を気に留めようとしない。
この誰も気に留めない小さな石碑が新たな旅のスタート地点だった。
建築の神が住む町② 北野天満宮 梅 『梅は1月1日と2月3日の誕生花』 へ続く~
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[2017/09/01 22:45]
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