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小野小町は男だった⑯(最終回) 『わがみよにふるながめせしまに』  

京都御所 平安装束の女性たち京都御所 


①三重の意味があった小町の和歌


古今和歌集には男が女の身になって詠んだ歌が数多くある。
そして六歌仙(小野小町・遍照・在原業平・喜撰法師・文屋康彦・大友黒主)とは古今和歌集仮名序の中で名前をあげられた歌人のことをいうが、古今和歌集仮名序を書いたのは紀貫之だった。
紀貫之が書いた日記『土佐日記』の出だしは「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり」だった。
紀貫之は男であるが、女であると偽って日記を書くような一筋縄ではいかない人物だった。
古今和歌集仮名序には次のようにある。
「小野小町は いにしへの衣通姫の流なり あはれなるやうにて強からず いはばよき女の悩めるところあるに似たり
強からぬは 女の歌なればなるべし」
やけに小町が女であることを強調しすぎてはいないだろうか。
また小野小町は穴がない体だったという伝説がある。
穴がない体とは男であるということではないのか。
小野小町は男なのではないか。
惟喬親王は小野宮という広大な邸宅に住み、自身も小野宮と呼ばれていた。
小野小町とは小野宮=惟喬親王のことではないのか?

そんなことを考えながら、私は小野小町の代表作ともいえる次の歌を鑑賞してみた。
花のいろは うつりにけりな いたづらに わがみよにふる ながめせしまに

この歌は縁語や掛詞を用いて二重の意味をもたせた技巧的な歌だとされている。
しかしよくよく味わってみると、この歌には二重どころか三重の意味があるではないか!

妙性寺縁起は次のような伝説を伝えている。

再び天橋立に向かおうとした小町は、長尾坂で腹痛を起こし、上田甚兵衛に背負われて村まで帰るが、辞世の歌を残して亡くなった。
九重の 花の都に住まわせで はかなや我は 三重にかくるる
(九重の宮中にある花の都にかつて住んだ私であるが、はかなくも三重の里で死ぬのですね。)


三重というのは地名だが、『三重に重なった中に隠れる』という意味にもとれる。
何が三重に重なっているのだろうか。
もしかしたらそれは和歌に三重の意味をもたせたという意味なのかもしれない。

花のいろは うつりにけりな いたづらに わがみよにふる ながめせしまに
この歌の3番目の意味は・・・
私はこんなに堂々とした男らしい歌を他にしらない。

髄心院

髄心院(小町の邸宅跡と伝わる)


②小町の歌の一般的な解釈

まずこの歌の一般的な2つの解釈について見てみよう。

『花』は古今集の排列からすると桜だとされている。

そして『色』には赤・青・黄などの色(英語のColor)と、容色のふたつの意味がかかる。

『世にふる』は『世にあって時を経る』という意味だが『世』には男女関係という意味もある。
『ふる』は『降る』の掛詞である。
『ながめ』は『物思いにふける』という意味で、『長雨』と掛詞になっている。

このような技法を駆使しているため、この歌には二重の意味があるとされる。。

①花の色はすっかり褪せてしまったなあ。春の長い雨のせいで。
②私の容色はすっかり衰えてしまったなあ。恋の物思いにふけっている間に。

髄心院 梅

髄心院 はねずの梅

③色褪せたはねずの梅

小町の邸宅跡と伝わる,京都・,随心院にはたくさんの「はねずの梅」が植えられている。
はねずの梅は遅咲きで3月ごろに赤やピンクなどの鮮やかな花をつける。
はねずの花が満開になるころ,随心院では深草少将百夜通いをテーマにした『はねず踊り』が奉納されている。

随心院 はねずおどり

髄心院 はねず踊


また鮮やかな赤やピンクのはねずの梅の色のこともはねずといい、色褪せやすいことから『はねず』は『移る』の枕詞になっている。
花のいろは うつりにけりな いたづらに わがみよにふる ながめせしまに
この歌に詠まれた花とははねずの梅のことだと考えたほうがぴったりくる。

そうであるのに、なぜこの歌は桜の歌として古今集に取り入れられているのだろうか。

惟喬親王との世継ぎ争いに勝利して即位した惟仁親王(清和天皇)の母親は藤原明子だが、明子の父・藤原良房が次のような歌を詠んでいる。

染殿の后のおまへに花瓶(はながめ)に桜の花をささせたまへるを見てよめる
(染殿の后の前の花瓶に桜の花をいけてあるのを見て詠んだ。)

年ふれば 齢(よはひ)は老いぬ しかはあれど 花をし見れば 物思ひもなし
(年を重ねたので齢は老いたが、美しい桜の花を見れば、悩みなどありはしない。)


染殿の后とは良房の娘の明子のことである。
桜の花のように美しい娘の明子は文徳天皇の后となって惟仁親王を産み、その惟仁親王は皇太子となった。
惟仁親王が即位して清和天皇となると、良房は清和天皇の摂政となって政治の実権を握った。
娘の明子が清和天皇を産んだので良房には悩みなどなかったのである。

この歌から当時桜は栄華の象徴だと考えられていたということがわかる。

桜の花の色は淡いピンク色である。
一方はねずの梅は鮮やかなピンク色をしている。
その鮮やかなピンク色のはねずの梅の花の色が長雨のために色が落ち、淡いピンク色の桜になったということで桜の歌として取り上げられたのではないかと思う。

髄心院 八重桜

髄心院 八重桜

④ぎなた読み

言葉遊びのひとつに『ぎなた読み』というのがある。
『弁慶が なぎなたを もって』と読むべきところを『弁慶がな、ぎなたを持って』などのように、区切りを誤って読むことをいう。
宮沢賢治の『どんぐりと山猫』という物語に『たくさんの白いきのこが、どってこどってこどってこと、変な楽隊をやっていました。』という文章がある。
正しくは『どってこ どってこ どってこと』と読むのだが、それを『どって こどって こどって こと』と読んだ人がいた。
これなども『ぎなた読み』だといえるだろう。
『ぎなた』や『こどって』という言葉はないが、小野小町はぎなた読みをしても意味が通じるように歌を詠んでいるところがすごい。

もう一度小町の歌を鑑賞してみよう。
花のいろは うつりにけりな いたづらに わがみよにふる ながめせしまに
『わがみよにふる』は『我が身 世に ふる』と読むが、ぎなた読みで『わが みよに ふる(我が御代にふる)』と読めるではないか。

『御代』とは『天皇の治世』、『我が御代に』とは『私の治世に』という意味である。

惟喬親王は自分とは一字違いの異母弟、惟仁親王(後の清和天皇)との世継ぎ争いに敗れて小野の里に隠棲し、渚の院(現在の枚方市)などで歌会を開いている。
その歌会のメンバーの中に六歌仙の遍照、在原業平、喜撰法師(紀有常)らの名前がある。
また文屋康秀は小野小町に「三河に一緒に行きませんか」と誘っている。
小野小町が小野宮と呼ばれた惟喬親王のことであるとするならば、文屋康秀は惟喬親王と交流があったということで彼もまたクーデターのメンバーであった可能性がある。
クーデターに成功した暁には惟喬親王は即位して天皇になるつもりだったと考えれば、彼が『わが御代に』と歌を詠んだ意味が理解できる。
実際には彼らのクーデターは未遂に終わったようであるが。

高田祟史さんや井沢元彦さんが和歌とは呪術であるというような意味のことをおっしゃっていたと思う。
惟喬親王の歌会とは清和天皇のバックで政権を牛耳る藤原良房や藤原基経らを呪う目的で行われていたのかもしれない。


渚の院 淡墨桜
 渚の院跡 ここで惟喬親王の歌会が行われた。

⑤「ふる」の意味

『ふる』を古語辞典でひくと『降る』のほかに『触る』『旧る』『振る』という項目がある。

「触る」・・・①触る ②かかわりあう ③箸がつく ④男女が交わる
「旧る」・・・古くなる。昔と今とすっかり変わる
「振る」・・・①揺れ動く。②波や風が立つ。③震わす。④遷宮させる。⑤(男女関係などで)きらい捨てる ⑥割りあてる。

さて、『わが御代にふる』の『ふる』とはどの意味なのだろうか。
『旧る』で、『昔と今とすっかり変わる』という意味だろうか。
すると、『私の御代に世の中がすっかりかわる様子を見ることができるだろう』という意味になるだろうか。

髄心院 石楠花

小野小町の邸宅跡と伝わる髄心院 石楠花

物部神道

私は『ふる』から物部神道を思い出す。
物部神道の本山・物部神社には「布留社(ふるのやしろ)』と呼ばれる振魂(ふるたま)神法が伝わっているのだ。

物部氏の祖神・ニギハヤヒは天から十種神宝(とくさのかむだから)と天璽瑞宝十種(あまつしるしみずたからとくさ)を授かったとされる。
十種神宝とは、奥津鏡(おきつかがみ)、辺津鏡(へつかがみ)、八握剣(やつかのつるぎ)、生玉(いくたま)、死反玉(まかるかへしのたま)、足玉(たるたま)、道反玉(ちかえしのたま)、蛇比礼(おのちのひれ)、蜂比礼(はちのひれ)、品々物比礼(くさぐさのもののひれ)のことをいう。

天璽瑞宝十種は、この十種神宝を用いて行う鎮魂の神法のことである。
「一ニ三四五六七八九十 不瑠部由良由良不瑠部(ひふみよいむなやこたり、ふるべふるべゆらゆらふるべ)」と唱え、死者を生き返らせる秘法であるという。

『ふるべ』は瑞宝を振り動かすこと、『ゆらゆら』は玉の鳴り響く音とされる。
『わがみよにふる』の『ふる』は物部神道の『ふる』と関係があるのではないだろうか。
すると『わがみよにふるながめせしまに』とは『私の御代に(死者を生き返らせるために)十種の神宝を振り動かす光景を見ることだろう。』というような意味なのかもしれない。

小野小町は男だった⑮ 『惟喬親王と髑髏本尊』 
↑ こちらの記事で私は惟喬親王は髑髏本尊になったのではないか」と説いたが、髑髏本尊は7年間抱いて寝ると8年目に命を持って語りだすとされている。
これは髑髏本尊が生き返ることだといってもいいだろう。

五箇山 上梨 村上家 鬼門除け

五箇村村上家住宅に展示されていた鬼門除けの髑髏(猿の髑髏か?)

天(雨)の下

小野小町が雨乞いの際に詠んだといわれる歌がある。

ことわりや 日の本ならば 照りもせめ さりとては 又天が下とは
(道理であるなあ、この国を日本と呼ぶならば、日が照りもするだろう、しかしそうは言っても、又、天(雨)の下とも言うではないか。だから、雨を降らせてください。)

参照/小野小町は男だった⑧ 雨乞い小町 『小野小町は弁財天・イチキシマヒメ・善女竜王と習合されている。』 


この歌の中で小町は天と雨をかけている。

花のいろは うつりにけりな いたづらに わがみよにふる ながめせしまに 
こちらの歌には「ながめせしまに」とあるが、これは「眺めせしまに」と「長雨せしまに」というふたつの意味をかけているとされる。
もしかして「長雨」の「雨」は「天」の掛詞になっているのではないだろうか?

そしてgoo辞書を調べてみると、次のように記されている。

くだ・る【下る/降る】
http://dictionary.goo.ne.jp/jn/61845/meaning/m0u/より引用
初めて知ったが、降るは「くだる」とも読むのだ。

「わがみよにふる」は「わが御代に降る」→「わが御代にくだる」→「わが御代に下る」と変化するのではないだろうか。
「わがみよにふるながめせしまに」は「わが御代に降る長雨せしまに」→「わが御代に下る長天せしまに」と変化するということだ。
そうすることによって「下る長天」で、「長い天下」という言葉を導いているのではないか。

はねずの梅は長雨で色が褪せて栄華の象徴である桜となった。
私が天皇となって長い天下をおさめるときがきた。
昔と今はすっかり変わる。(死んだ私が生き返る?)
そんな眺めを私は見るのである。


古今和歌集仮名序で紀貫之はやけに小町が女性であることを強調していたが、一見女らしく見える歌の裏に、こんなに堂々とした男らしい意味が隠されていたのだ。

私は小野小町は男であり、小野宮と呼ばれた惟喬親王のことだと考えているが、(参照/小野小町は男だった⑬ 『小野小町は男だった!』 
この歌は惟喬親王が詠むにふさわしい歌だといえると思う。

小野小町像 
髄心院の歌碑に描かれた小野小町像

後向きに描かれた小野小町。振り向いた小町の顔は・・・・。


end.

長々とお付き合いくださいまして、ありがとうございました!




トップページはこちら → 小野小町は男だった① 小野小町はなぜ後ろを向いているのか 

 

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[2017/07/14 23:04] 小野小町は男だった | トラックバック(-) | コメント(-)

小野小町は男だった⑮ 『惟喬親王と髑髏本尊』 

小野小町は男だった⑭ 『男神を女神に変える呪術』  よりつづく~

①惟喬親王は髑髏本尊だった?

五箇山 上梨 村上家 鬼門除け

五箇村村上家住宅に展示されていた鬼門除けの髑髏(猿の髑髏か?)

小野小町は男だった⑫ あなめ小町『小野小町は髑髏本尊だった?』  において、私は「小野小町は髑髏本尊だったのではないか」と書いた。

「あなめ小町」は小町の髑髏から薄が生えて髑髏が「あなめ、あなめ(痛い、痛い)」と言ったという話である。
真言立川流では髑髏に漆や和合水を塗り重ねて髑髏本尊を作るが、仕上げにはお白粉を塗り、紅をさして美女か美少年のように化粧するそうである。
そこで絶世の美女といわれる小野小町とは髑髏本尊なのではないかと推理したのである。

そして小野小町は男だった⑬ 『小野小町は男だった!』 の記事で、「小野小町とは小野宮と呼ばれた惟喬親王のことではないか」と書いた。
こう考えると小野小町が穴のない体だといわれていることの説明がつく。
また三国町や三条町は紀氏の女性であり、惟喬親王は三条町(紀静子)の息子であるため「小町」と呼ばれたのではないかと考えられ、なぜ「小町」と呼ばれたのかについての説明もつく。

小野小町=惟喬親王だとすると、髑髏本尊であったのは惟喬親王だということになる。

立川流は鎌倉時代に開かれた真言宗の宗派だが、経典は平安時代に空海が唐より持ち帰った理趣経だし、平安時代に立川流につながる信仰がなかったとはいえない。
また立川流は江戸時代に迫害を受けて消滅したとされるが、1270年に成立した『受法用心集』には『真言密教の僧のうち、9割が立川流の信徒となっていた』とあるほど、流行った宗教だった。

そこで惟喬親王の伝説をたどってみると、惟喬親王もまた髑髏本尊との関連性が伺える。

惟喬親王とろくろ首

まず、惟喬親王が巻物が転がるのを見て、木地師が用いる轆轤(ろくろ)を発明したという伝説がある。

木地師資料館 轆轤

上の写真は許可を得て、木地師資料館(滋賀県東近江市蛭谷町)に展示されていたろくろの絵を撮影させていただいたものである。
ろくろ首という妖怪はこの木地師が用いる轆轤の付喪神だと考えられる。
轆轤を長く伸びた首に、轆轤の先端にあてた器を頭に喩えたのだろう。

File:Hokusai rokurokubi.jpg

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Hokusai_rokurokubi.jpg?uselang=ja よりお借りしました。
葛飾北斎 [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で

ウィキペディアには次のように記されている。
「大別して、首が伸びるものと、首が抜け頭部が自由に飛行するものの2種が存在する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%8D%E3%81%8F%E3%82%8D%E9%A6%96 より引用

蘇我入鹿や玄昉、平将門らの首が飛んだという伝説があるが、彼らは首が抜け頭部が自由に飛行するタイプのろくろ首だといえる。

File:Sorori wandering soul.jpg

首が抜け頭部が自由に飛行するタイプのろくろ首
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Sorori_wandering_soul.jpg?uselang=jaよりお借りしました。
作者 不明 (scanned from ISBN 978-4-00-302572-7.) [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で

惟喬親王がろくろを発明したというのは間違いである。
というのは、奈良時代に木製の百万塔が轆轤で制作されているのだ。
http://www.narahaku.go.jp/collection/d-823-0-1.html
惟喬親王は平安時代の人物で、この百万塔は惟喬親王が生まれる以前に作られている。

それなのになぜ惟喬親王がろくろを発明したなどと言われているのだろうか。
それは惟喬親王がろくろ首であるという意味なのではないだろうか?
つまり、惟喬親王の頭部は胴体から切り離されたということなのではないだろうか?

③惟喬親王と漆

次に、惟喬親王が京都嵐山の法輪寺に籠った際、虚空蔵菩薩に漆の製法を授かったという伝説がある。
②で惟喬親王が轆轤を発明したという伝説をご紹介したが、轆轤を使って作るお椀などには漆を塗る。
法輪寺の伝説はそういったところから創作されたものではないかと、一般的には考えられている。

しかし、漆は立川流の髑髏本尊とも関係がある。

髑髏本尊を作るための髑髏は高貴な身分の人のものほどいいとされていた。
そしてその髑髏に漆と和合水を塗り重ねて髑髏本尊を作った。
漆は髑髏本尊を作るのにかかせない材料だった。
そういったところから、惟喬親王が虚空蔵菩薩より漆の製法を授かったなどという伝説が生じたのではないかと思ったりもする。

惟喬親王の寵臣であった在原業平は多くの女性たちと関係を持ったプレイボーイとして知られているが、それは髑髏本尊を作るのに必要な和合水を手にいれるためだったのではないだろうか。
また髑髏本尊を作る作法に髑髏本尊の前で性行為を重ねるというものがあり、そのため在原業平は多くの女性と関係を持ったのだとも考えられる。

法輪寺 ライトアップ

法輪寺

③惟喬親王と漆器

木地師資料館 惟喬親王像

上の写真は木地師資料館に展示されていた惟喬親王の神像である。
惟喬親王は轆轤を発明したという伝承があるところから木地師の祖として信仰されている。
惟喬親王が茶碗を持っているのはそのためである。

黒田官兵衛ゆかりの地にいくと黒田官兵衛を描いたポスターが貼ってある。
見ると、官兵衛は茶碗をひっくり返したような兜をかぶっている。
確か大阪城にも同様の兜が展示されていたと思う。
https://matome.naver.jp/odai/2139711378115060501

官兵衛の兜は茶碗そっくりだが、これを頭に被る兜としたのは、茶碗にどくろ=頭蓋骨のイメージがあったためではないだろうか。

「茶の湯の茶碗はドクロ杯をイメージしたものだ」とおっしゃっている人がいたが、全くそのとおりだと思う。

④『嵐=山+風』からイメージされる切り離された頭と体

遍照・在原業平・喜撰法師(紀名虎または紀有常)・文屋康秀・小野小町・大友黒主のことを六歌仙といい、惟喬親王の歌会のメンバーにこのうちの遍照・在原業平・紀有常らの名前がある。
彼らは歌会と称して実は惟喬親王を担ぎ上げてクーデターを計画していたのではないかとする説がある。
そして文屋康秀は小野小町に「一緒に三河へ行きませんか」と誘っている。

小野小町は男だった⑬ 『小野小町は男だった!』 
で考察したように、小野小町と惟喬親王は同一人物だと考えらえるので、文屋康秀もまたクーデター計画のメンバーであった可能性がある。

その文屋康秀は次のような歌を詠んでいる。
吹くからに 秋の草木の しをるれば むべ山風を あらしと言ふらむ
(吹くたびに秋の草木が萎れてしまうので、山風を嵐というのだろう。)


嵐=山+風という言葉遊びである。
さきほど惟喬親王が法輪寺に籠って虚空蔵地蔵より漆の製法を授かったという伝説を紹介したが、この法輪寺は京都の嵐山にある。
そして山という漢字を用いた熟語に山頭、風という漢字を用いた熟語に風体がある。
嵐を山と風に分解するとことで、(山)頭と(風)体が分離するイメージを持ってしまうのだが、考えすぎだろうか。

渡月橋より法輪寺を望む

法輪寺

⑤針供養

惟喬親王とゆかりの深い法輪寺だが、12月8日には針供養の行事も行われている。
小野小町は『男を受け付けない体』=『穴のない体』だったので、穴のない針のことを『小町針』といい、それが訛って『待ち針』というようになったと言われている。
法輪寺で針供養が行われているのは、惟喬親王が小野小町と同一人物であるためではないだろうか。


法輪寺 針供養

法輪寺 針供養

 

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[2017/07/11 17:42] 小野小町は男だった | トラックバック(-) | コメント(-)

小野小町は男だった⑭ 『男神を女神に変える呪術』 

小野小町は男だった⑬ 『小野小町は男だった!』  よりつづく~

①小町が姿を映した井戸

髄心院 石楠花

髄心院 石楠花


補陀落寺(小町寺) 紅葉

補陀落寺 紅葉

髄心院と補陀落寺(小町寺)はどちらも小野小町に関係する寺院である。
髄心院は小町の邸宅跡、補陀落寺は小町の終焉の地だと言われている。
そしてどちらの寺院にも井戸がある。
髄心院のほうは「小町化粧井戸」、補陀落寺のほうは「小町姿見の井戸」と呼ばれている。

髄心院の「小町化粧井戸」というネーミングは、小町が井戸の水に姿を映して化粧をしたという言い伝えからくる。
つまり、髄心院の「小町化粧井戸」と補陀落寺の「小町姿見の井戸」はどちらも小町がその姿を映した井戸だということになる。

髄心院 小町化粧井戸

髄心院 小町化粧井戸

補陀落寺(小町寺) 小町姿見の井戸

補陀落寺 小町姿見の井戸

②お亀が池の伝説

曽爾高原 薄

曽爾高原


曽爾高原のススキの草原の中にお亀が池という池があり、次のような伝説が伝えられている。

伊勢国・太郎生村出身のお亀は曽爾村の男の嫁になり、毎日、太郎路池の水を溜めた井戸の水を鏡替わりにして化粧をしていた。
あるとき井戸の水に美しい男の顔が映り、「今夜、太郎路池のほとりに来て欲しい」といった。
それ以来、お亀は夜になると出かけるようになった。
その後お亀は子供を出産し、姿を消してしまった。
お亀の夫が子供を連れて太郎路池のほとりへやってくるとお亀が現れて子供に乳を飲ませた。
そして「二度と私を探さないでください」と言って姿を消したが、夫はまた太郎路池にやってきた。
するお亀が蛇となってあらわれ「二度とくるなと言ったのに、なぜ来た?」と言って夫に襲い掛かった。
夫はなんとか逃げ帰ったが、すぐに亡くなってしまった。
お亀は野火から山火事になった時、焼けて死んだ。
これ以来、太良路池はお亀ヶ池と呼ばれるようになった。

曽爾高原 お亀が池 
お亀が池

この伝説の中で、お亀が姿を井戸に映して化粧をしていたところ、水の中に美しい男が現れたとある。
井戸に姿を映していたのはお亀なので、美しい男とは、お亀が男神に転じたもののことではないだろうか。

③鏡に映すと性別が変わる?


記紀神話に次のような話がある。

天照大神が天岩戸に隠れたので、世の中は真っ暗になってしまった。
そこで神々は天照大神を岩戸から出すために次のような計画をたて実行した。
アメノウズメがストリップダンスをし、これを見た神々が笑った。
天照大神が「私がいないのになぜ皆笑っているのか」と聞くと「あなたより立派な神がおられるのです」と返答があった。
天照大神が岩戸を少しあけて外を覗き見ると、八咫の鏡に自分の姿が映った。
それが自分の姿だとわからずに天照大神が身を乗り出したところ、天照大神は天岩戸の外へ引っ張り出された。


天照大神はアメノウズメのストリップに興味を持って天岩戸から外を覗き見たのだ、女神のストリップに興味を持つのは男神だ、よって天照大神は男神だとする説がある。

飛鳥昭夫さんは鏡に姿を映すことは、反対の世界になることで、これによって神の性別が変わると考えられていたのではないかというようなことをおっしゃっていた。

お亀が姿を映した井戸は、鏡がわりの井戸だった。
そのため、反対の世界となり、お亀という女神は男神に転じたと、そういう話なのではないだろうか。

④小野宮=惟喬親王は井戸に姿を映して女神・小野小町となった?

前回の記事 小野小町は男だった⑬ 『小野小町は男だった!』 で、私たちは次のようなことを見てきた。
①古今和歌集には男の歌人が女の身になって詠んだ歌がたくさんある。
②古今和歌集仮名序を書いた紀貫之が著した土佐日記の出だしは「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり」であり、女と偽って日記を書いている。
③小野小町は穴のない体あったと言われるが、穴のない体とは男だということではないか。

そして小野小町は男だった② 六歌仙は怨霊だった。  では次のようなことを見た。
①六歌仙とは古今集仮名序において名前をあげられた6人の歌人のことである。
②六歌仙は全員、藤原氏、特に藤原良房と敵対関係にある人物である。

これらのことから、私は小野小町とは男であり、小野宮と呼ばれた惟喬親王のことではないかと推理した。
惟喬親王は文徳天皇の長子で母親は紀静子だった。
文徳天皇は惟喬親王を皇太子にしたいと考えていたが、藤原良房の娘・藤原明子を母親に持つ文徳天皇の第四皇子・惟仁親王が皇太子となった。
世継ぎ争いに敗れた惟喬親王は御霊(怨霊が祟らないように慰霊されたもののこと)として、大皇器地祖神社(おおきみちそじんじゃ)・玄武神社・惟喬神社などに祀られている。

男神である小野宮=惟喬親王は、鏡かわりの井戸に姿を映すことで、女神・小野小町へと転じたのではないか。
髄心院の小町化粧井戸、補陀落寺の小町姿見の井戸とは小野宮=惟喬親王が姿を映して女神と転じる呪具としてそこにあるのではないか?

惟喬親王像

惟喬親王像 (惟喬親王陵/滋賀県東近江市筒井峠)

⑤語呂合わせの呪術


男神である小野宮=惟喬親王が、女神・小野小町へと転じた呪術にはもうひとつ、語呂合わせの呪術がある。

前回も少し紹介したが、俗謡に「おまえ百までわしゃ九 十九まで、共に白髪の生えるまで」というのがある。

これは謡曲「高砂」の尉・姥からくるもので
尉が熊手をもち、姥が箒をもって掃いているのは、熊手=九十九まで、掃く(まで)=百(まで)という語呂合わせであるという。

尉・・・熊手をもつ→九十九まで→くじゅうくまで
姥・・・箒をもつ→掃く→はく→・ひゃく→百


それで「おまえ百まで、わしゃ九十九まで」と謡うのだろう。

亀岡祭 高砂山 御神体 
亀岡祭 高砂山 御神体

しかし語呂合わせはこれで終わりではなかった。
肝心なのは「共に白髪の生えるまで」のほうだと私は考える。
なぜ、「共に白髪の生えるまで」と謡うのか。

九十九髪とは白髪のことであるという。
そのココロは

百-一=九十九
百-一=白
∴九十九=白


というわけだ。うまい。座布団2枚!

⑥尉も姥も白になる。

また百は掃く=はくなので、はく=白に転じる。

尉・・・熊手をもつ→九十九まで→くじゅうくまで)→百-一=白
姥・・・箒をもつ→掃く→はく→・ひゃく→百→はく→白

このように、尉も姥もどちらも白になる。
それで「共に白髪の生えるまで」と謡うのではないだろうか。

さらに、尉も姥もどちらも最終的に白になるので、

尉=白
姥=白
∴尉=姥=白


こうして男神である尉は女神である姥に転じるというわけだ。

伊勢物語に九十九髪という話があり、在原業平が九十九歳の色気づいた女を憐れんでともに寝るのだが伊勢物語の注釈書・『知顕集)』はこの九十九歳の色気づいた女は小野小町であるとしている。

九十九は奇数で陰陽思想では陽の数字、男性も陰陽思想では陽なので小野小町は男である。
しかし、九十九→百-一=白→はく→ひゃく→百と転じる。
百は偶数で陰陽思想では陰の数字、女性も陰陽思想では陰というわけで、男だった小野小町は女に転じたということではないだろうか。

(※友人にこれを話したところ、「はく→ひゃく」と転じるのはこじつけっぽいと言われたが、これは私が考えたことではない。
「おまえ百まで、わしゃ九十九まで」と謡われ、姥が箒を持っているのは「掃く=はく=百」の語呂合わせだと言われているので、昔の人は「はく→ひゃく」、ひっくり返せば「ひゃく→はく」と転じると考えていたことがわかる。)

髄心院 歌碑 八重桜
 
小野小町歌碑 隨心院  

 木地師資料館 惟喬親王像2 

木地師資料館の惟喬親王像


小野小町は男だった⑮ 『惟喬親王と髑髏本尊』 へつづく~
 
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[2017/07/06 13:52] 小野小町は男だった | トラックバック(-) | コメント(-)